月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

【政治】 女性の就業率向上は、少子化対策になるのか?

余計なお世話に珍説を引っ張ってくる

 

本日の産経新聞を読んでいて、久しぶりにこんな文章に出会った。

女性の就業率と出生率には正の相関がある(内閣府男女共同参画局。企業組織を見直すことで出生率も高まり、人口減少に悩む日本にも明るい兆しが生まれることを期待したい。

 川本裕子(早稲田大学教授)

 

最初にお断りしておくが、私は女性の社会進出に異論をはさむ者ではない。働きたかったら女性も働けば良い、そして「女性であるから」という理由で差別されるのは許されない。そう考えている。


付け加えるならば、働くか働かないかは個人の問題であり、家庭の問題である。そこに「女性は社会進出しなければならない」「女性は働くべきだ」国や行政が口を突っ込むこと自体がおかしいと考えてもいる。

そんなものは大きなお世話だ。放っておいてくれ。

 

少子化だから、若者は結婚しなければならない」

少子化だから、夫婦は子供を産まなければならない」

と国や行政から言われたら、大概の人はカチンと来る。余計なお世話だと。

 

ならば、「女性は社会進出しなければならない」というのも余計なお節介だ。

 

かつて、イギリスの女性たちは婦人の地位向上に全力を傾けてきた。婦人の参政権獲得に尽力し、社会進出を果たし、そして遂に女性首相も誕生させた。しかし、彼女たちはその後に再び家庭に戻ることを決意した。「女性の社会進出は何ももたらさなかった」と。

 

なぜ働くのか、それは恒産を得るためであり、人生の意義を見出すものであったりと様々であろう。しかし、働く理由は他人から言われて云々するものではなかろう。自身で見出すものである。ならば、「私は家庭に入ります」との決断に彼女が幸せを見出すのであれば、誰がその決断を批判できるのか?そして、彼女の決断を何の理由によってそしるのか?

 

それを国や行政が声高に言うのだから始末に負えない。

 

「女性の社会進出を果たさなければならない」

と主張する人に申し上げておきたい。

あなたの主張は、他所の家庭の事情や個人の判断に土足で踏み入るものであり、反自由主義的である。つまり、

「お宅にいるニートを働かせない」

「お宅には結婚していない40代の独身男性(or女性)がいるはず。その子を結婚させなさい」

「結婚したのにあなたたち夫婦はなぜ子供を産まないのですか?」

という言説と同レベルだ。そのことを自覚していただきたい。

 

 

ついでに言わせてもらうならば、「女性の就業率向上は、少子化対策になる」などと珍説を引っ張ってこないでいただきたい。

 

 

「女性が働くようになると子供を産む」それホント?

「女性の就業率が向上すると出産率も高まる」という珍説がある。常識的に考えてみれば胡散臭いこと限りないのだが、これが国の中央では堂々とまかり通っている。

冒頭に挙げた早稲田大の川本裕子氏もそうだ。

 

これが珍説…否、デタラメであることを示す事例を。

 

例えば次のグラフをご覧いただきたい。これはその筋では有名なグラフであるが、この2つをもって

「かつて、OECD諸国でも女性の就業率が高くなると出生率は下がる傾向にあった。しかし、2000年では女性の就業率と出生率は正の相関関係にある」

「ゆえに、女性の就業率が高まると、出生率が高まるのだ」

と主張する人がいる。

 出典:http://diamond.jp/articles/-/30628?page=2

f:id:harukado0501:20140718101724j:plain

明らかにデタラメである。

2000年には正の相関関係があると主張されているが、イタリア、スペイン、ギリシャのデータを除くと、全く相関関係はない。

しかも、悪意的だと思えるのは1980年のグラフと2000年のグラフのTFR(合計特殊出生率)の目盛が違っている。そして、よくよく見れば、ほとんどの国で就業率があがって出生率が下がっているではないか。

 

加えて言うならば、OECD加盟国であるにも関わらず、トルコやメキシコ、ルクセンブルグといった「女子労働率が平均より低いにもかかわらず、出生率は平均よりも高い国々」が除外されている。要するに、自分の説に都合の良いサンプルだけを選んでいるに過ぎない。


なにしろ、この手の論調には「都合の良いデータを選択して、都合の良い結果を導き出す」手合いが少なからずいる。

 

 詳しくは下記の書を参考にされたい。

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

 

 

 

 ■スウェーデンがうまくいく理由

西欧諸国と一括りにしてしまうと大きなミスをするので、まずは、ギリシャ、イタリア、スペインといった財政準破綻国を見てみる。

実は、ここでは女性就業率と出生率は正の相関を占めている。ただし、「女性の就業率が上がれば出生率は上がる」との結果は導き出せない。なぜなら、他の理由があるからだ。

これら準破綻国は労働者層が低所得であり、かつ低福祉である。つまり、子供を育てることができないほどの低所得者層は、EU内へ働きに行くため、国内に残らないのだ。つまり、「就業している女性=所得がある女性=子育てができる女性」との等式が成り立つ。言うなれば、就業できない女性、子育て費用を稼げない人々を国外へ追い出すことにより、否応なしに「女性の就業率が上がる」ことと「出生率が上がる」ことが結びついたにすぎない。

 

問題は、スウェーデンといった北欧高福祉国家の場合である。

 その筋の方々には夢のような国家として崇め奉られる北欧福祉国家であるが、実際に社会保障の多くを子育てコストに充てているため出生率が上昇したようだ。これは間違いなかろう。

ただ、ここで注目すべきは、スウェーデンのような北欧高福祉国家では、日本のような高齢者優遇政策を行わないという点である。

 

皆さんは「北欧には寝たきり老人がいない」という話を聞いたことがあるだろうか。

実際にその通りなのだが、それは「延命しないから」である。こう書くと身も蓋もないのだが、実際にその通りなのだから仕方がない。

「延命しないから」と言われると、非道徳的なようにも思われるが、ここには彼らの生命倫理がしっかりと根底にある。

 

例えば、高齢やガンなどで終末期を迎えたら口から食べられなくなるのは当たり前だ。ここで日本だと「胃ろう」をする。これは、口を介さずに胃に栄養剤を直接入れるために、腹部に穴をあけるものだ。こういったことで延命を図ること自体が非倫理的だと彼らは考え、そして実行している。日本のように意識もない人々に栄養剤を点滴や「胃ろう」で投入すること自体が老人虐待ではないのか?と考えるのだ。

 

したがって、日本のような猛烈な延命措置はなされず、かなりパッケージ化されている。介護についても同様だ。つまり、日本よりも高齢者福祉予算が低額で済む。

 

子育てに手厚い支援をするスウェーデン式は、実は、社会保障を子供と高齢者のどちらにより多くかけるかの選択を行ったのだ。

 

 「スウェーデンのような手厚い子育て政策を!」

などと主張する人々の主張の中で、高齢者優遇を捨ててでも子育て支援をすべきだ!との意見を聞くことは極稀である。

 

 

 高齢者を捨てて子供をとるのか?

基本的に、我が国のこれまでの政策は、高齢者福祉を実行するために労働者から所得を高齢者に移転させてきた。これが少子化最大の原因であると私は考えている。

ならば、20代から40代の所得を引き上げるか社会保障をその世代に振り分けるかのいずれかを選ばない限り、少子化は解消しない。その意味で、「子育てに手厚い支援を!」との主張は間違っていない。 

 

ただし、それを実行するためには巨額の予算が必要になる。5兆円や10兆円といった金額では少子化対策にはならない。おそらく抜本的に少子化対策をするのであれば、30兆円から50兆円の予算を毎年かけるくらいでなければならないだろう。

 

それをなすためには、年金50%カット。医療・介護自己負担5割が必要となる。

 

果たして、我が国の有権者はそれを選択するのか?しないだろう。

なぜなら我が国の生命倫理、文化風土がそれを許さないからだ。

 

そして小手先の少子化対策だけが跋扈するのだ。

「もっと手厚い子育てを!」の掛け声のもとに。

 

 

【雑感】 PTAは強制加入団体であるべきなのか?


PTA訴えられる


PTAは任意団体であるはずなのに、強制的に加入されられたのはおかしい!と熊本の団体が訴えた事案がニュースになっています。

子どもが通う小学校のPTAが任意団体であるにもかかわらず、強制加入させられたのは不当として、熊本市内の男性(57)がPTAを相手取り、会費など計約20万円の損害賠償を求める訴訟を熊本簡裁に起こした。男性が2日に会見して明らかにした。

 訴状によると、2009年に2人の子どもが同市内の公立小学校に転校した際、PTAに同意書や契約書なしに強制加入させられ、会費を約1年半徴収されたと主張。これまでもPTA側と話し合ってきたが、平行線だったという。

 「PTAは原則、入退会が自由な団体なのにもかかわらず、なんの説明も受けなかった」と指摘。12年に退会届を出したが、「会則の配布をもって入会の了承としている」などとして受理されなかったといい、「憲法21条の『結社の自由』の精神に反している。会則には入退会の自由を明記するべきだ」と訴えている。

 PTAの「自由な入退会」をめぐっては、NPO法人が4年前、横浜市で開いたシンポジウムをきっかけに議論が広がった。札幌市岡山市などの一部の小学校では、すでに周知が始まっている。(籏智広太)

朝日新聞 7月3日)

 

PTAは任意団体か?

PTAは任意団体か否かと言われれば、答えはただひとつ。「任意団体です」

例えば、PTAと類似の組織として例えられる自治会ですが、これについては最高裁が平成17年4月26日において、「自治会は、いわゆる強制加入団体ではなく、その規約において会員の退会を制限する規定を設けていないという事情の下においては、いつでも当該自治会に対する一方的意思表示により退会することができる」と示しました。

 

そもそも、昭和29年に文部省がPTA規約案を作成したときにも、わざわざ備考に「この参考規約は、未加入者に対して加入を強要するような意図は全く持っていない」と記し、加入強制性を持たせないように指示しています。

 

PTAは任意団体です。少なくとも私にとっては、そう考えざるを得ません。

したがって、仮に「PTAを脱会したい」と申し出た保護者がいらっしゃるのであれば、それを認めるのは当然ということになるでしょう。

 

 

まちがった議論

私もPTA活動に身を置いていますが、確かに思うところは多々あります。なぜ、全国組織が必要なのだろうかといった組織上の問題や、本当にこの行事が必要なのだろうかという疑問もあります。

 

ただ、今回の裁判案件やこれまでの議論を眺めていると、議論の流れに違和感を感じることも事実です。

例えば、「入会なんて聞いてないー父親たちの語るPTA-」といった議論を見ていると、根本から抜けているものがあるのです。

それは、「子供の教育環境をどのように改善していくのか」という視点。

 

「入会の強制性はおかしい」

「勝手に役員にされた」

「嫌と言うと村八分にされる」

「学校がPTAに名簿を配るのは、個人情報保護違反だ」

ひとつひとつは、もっともなことです。ですが、その理屈をいくら積み重ねたところで、「ひかれ者の小唄」以上の感慨をもたらしません。大人の理屈と都合でしかないゆえに、さほどの説得力をもたないのです。

 

こういった議論を眺めている中で、唯一、私が面白いと思った論点は

「PTAが任意団体だということはわかった。そして、加入しない世帯があることも認めよう。ならば、加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?」

というもの。

そして、ここにこそPTAに加入してもらいたいという最大の理由があります。

 

 

PTAが本当に必要な事案

加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?という問題。

 

例えば、PTAで子供向けの事業を実施するとしましょう。この事業に未加入世帯が参加することは、社会通念上、認められません。

この考え方を拡大していくと、妙なことが発生します。

PTAの社会奉仕作業等で整備されたグラウンドや校舎等を、未加入世帯の子供が使うことは許されるのでしょうか。セコい話ではありますが、先ほどの考え方を拡張していくと、こういった話にならざるを得ません。

 

無論、たとえばPTAに加入していようがしていまいが、「子供の環境整備を整える」事業については保護者の責任として参加するという形にしてしまえばいいだけのこと。この程度の次元の話ならば、これで解決できます。

 

ただ、この話を深掘りしていくと、思わぬ事態にまで話は進んでいきます。

 

思わぬ事態とは、「いじめ」に代表される諸問題が発生した場合を指します。

 

「いじめ」等、学校にて問題が発生した場合、これらを解決するためには、PTAの活動は不可欠だと私は考えています。「いじめ」等が発生した際に、子供も親も、時には先生すらが「独りぼっち」になるため、その調整と連絡に当たるのはもはやPTAしか残されていないからです。

 

子供や親を独りぼっちにしてはいけません。

こういった問題が発生したとき、親は頑なになります。有り体に言うならば「学校を信じられない」状態に陥ります。この状態に陥ると、学校がいくら誠意を尽くして説明しようとしても無駄です。心に殻をかぶせてしまった保護者は、頑として学校の言い分を認めません。

 

これは、学校が悪い、保護者が悪いという問題ではないのです。学校で起きた「いじめ問題」を、学校がいくら対応しようとしてもダメなのだ……という構造的な問題です。

 

ならば、警察が介入すればよいのか、行政を中心とする第三者機関が手を入れればよいのかというと、これも事態の根本的解決にはなりません。そこには「いじめられた子を第一に考えよう」「事件の渦中にある子供を何とかしよう」という発想が薄くなるからです。

 

子供がいじめられていると知った親は、憤慨するとともに、子供が一刻も早く学校生活に復帰して日常の営みを再開できることを期待します。

この「子供の日常生活の再開」を担保するのは、残念ながら学校の先生ではありません。市教委でもありません。「もうだいじょうぶですよ、Aちゃんが学校に戻ってもだいじょうぶ」と安心させることができるのは、同級生の保護者であり同級生の子供です。

ここでは、同級生の保護者どうしが集まり、情報を共有しながら対応していくなどの方法が重要になるのですが、その音頭を学校にとれと言っても学校は対応できないでしょう。また、いじめられた子、いじめた子以外の子供の保護者にそれをせよというのも、現実的に酷な話です。ならば、PTAがその役割を果たさなければなりません。

 

少なくとも、私は問題が発生した際にはそのように対応してきましたし(その対応が十分だったかはともかくとして)、これからもそのように対応していくつもりです。

 

さて、ここで本題に戻ります。

 

いじめが発生した事案において、その学年の保護者に集まってもらって話をする(私はこういうときはお父さんに集まってもらい、酒でも飲みながら話をするのですが)。

その際に、「あなたはPTAに非加入だから参加しないでください」と言うことは許されるでしょうか。

 

許されないはずです。

 

なぜなら、子供のことを考えてクラスを風通しの良い環境にしようとする際に、PTAに加入しているかしていないかなどはどうでも良い話だから。

 

つまり、子供の教育環境を第一に考えようとするときに、PTAに加入しているかしていないかという論点は意味をなさないのです。

 

 

求められるPTA像

確かに「こんな事業が本当に必要なのだろうか」と思われる事業は、PTA活動の中にもあります。ただ、それら不要な事業があるからといって、PTAが不要だという意見は極論です。

 

先ほど述べたように、子供の教育環境を整える行為にPTA加入・非加入は本質的な問題ではありません。

「ならば、教育環境を整えるときにだけ保護者は出てきて、普段は別段、PTAに加入していなくても良いのではないか」
という主張が出てくることでしょう。

それでも良いと思うのです。ただし、いじめの事案のように保護者の連絡調整をする機関は必ず必要になります。名前をどう変えようと組織をどういじろうと、必ずそういった機関が求められます。実は、PTAという組織は必要なのです。

 

「それなら、学校単位でのPTAだけが存在すべきであり、県単位のPTAや全国レベルのPTA組織はいらないんじゃないか?」
その主張については、私も趣旨を十分に理解します。何のために県組織、全国組織が必要なのだろうか?と疑問に思うことも多々ありますから。

 

ただ、ひとつだけ言えることは、他の学校での取り組みを情報交換できる場は絶対に必要です。例えば、いじめがあった、不登校になる子供がいる。このような事案にどのように対応し、その効果はどうだったのか。そういった情報の共有は必ず必要になるでしょう。

むしろ、そういった情報の共有が図られていないのであれば、一刻も早くはかるべきです。

 

いずれにせよ、PTAとは本来的に子供たちのためにある組織です。親が願うのは、我が子が健やかに伸び伸びと育ってくれることであり、その環境整備のためにこそPTAは存在意義を持つのだ……という発想で、もう一度PTAを見つめ直す時期に来ているのかもしれません。

【政治】 グローバル市場主義に背を向けずに、敢えてその土俵に乗る

 とある政策を深掘りしていくなかで、もの凄い岩盤にぶち当たってもがいております。

……(´ヘ`;)ウーム…

 

もの凄い岩盤とは、グローバル市場主義。

 

このグローバル市場主義は、地方の産業を根こそぎ持っていきます。国は6次産業化の旗振りを一生懸命にやっていますが、地方では最初から諦めています。なにしろ製品化をしようにも、価格競争で市場には出せませんから。

 

ならば、地方に残された途は、このグローバル市場主義に「背を向ける」しか方法はないのでしょうか。

エコロジーな生活を田舎で」
「しなやかな生き方ができる里山へようこそ」
といった手法しか残されていないのでしょうか。

 

エコロジーな生活を田舎で」…うん、それは間違ってはいない。でも、それは個人のライフスタイルの問題であって、産業政策とは別次元のお話。

 

里山でこんな活動をしています!的な事例は数多くあるのだけれど、それじゃ、それらの諸活動を統合できるようなフォーマット(制度、概念)はどこにも存在していない。

 

多分、そのフォーマット(制度、概念)ができあがったならば、グローバル市場主義の文脈の中で地方は生き延びることができるのだろうと思う。

 

具体的には、地方にあまたある自治体が東京・名古屋・大阪のマーケットを獲得するにはどうすれば良いのだろうというお話でもあります。

 

考えてみれば、例えばフィリピンであったりマレーシアであったりオーストラリアであったり、様々な諸外国からモノが東京に流れ込んでいるわけです。東京へのアクセスという点で言えば、はるかに地方の方が有利なポジションにいるにもかかわらず。同じ言語を用い、同じ通貨を使い、交通網、流通網が整備されているにもかかわらず、東京へのモノのアクセスでは地方は諸外国に劣っている。

 

「それがグローバル市場主義というものだよ」
そう、その通り。それじゃ、地方はいつまでも同じポジションに置かれ続けることになる。そのグローバル市場主義の中で、地方が生き延びる途を考え出したいのですよ。

 

「これまで、地方から大都市圏へ攻めていき成功した人は実際にいるでしょ?」

そう、その通り。地方から大都市へ攻めていき成功した人も企業もいました。そして、国や自治体が行ってきた支援策は、こういった人や企業に対してのものでした。それも間違ってはいません。でも、私が作り上げたいのは制度そのものです。地方の人々が背伸びせずに活動することで、地方の経済が活性化していくような制度。

 

「供給者としての地方」のフレームワークは出来ています。問題は「消費者のニーズとのマッチング」。つまり、「勝山の物産を東京へ持っていくための訴求力」です。

ここがクリアできない。これまで、その訴求力は「商品の価値」そのものに求められていました。つまり、売れるものを大都市圏へ持っていけ!という発想です。

その「売れるモノ」の価値観が、グローバル市場主義の文脈で言えば「価格、品質、産地、安全性」等であったわけですね。

 

それ以外の価値観が存在しないのだろうか。

 

思考が千路に乱れて収束する気配を見せません。

【雑感】 集団的自衛権をめぐるヒステリックな対応に想うこと

我々は憲法を作ったことがない。

 

もちろん、日本には明治憲法が存在したし、現在は日本国憲法が存在する。だが、明治憲法は欽定憲法であり、日本国憲法GHQが作った憲法だった。不思議なことに、我が国の憲法学では「日本国憲法は国民が作った」との妄説が生き延びているが、主権を奪われた占領国が自前で憲法をつくれると思う方がおかしい。

 

ともかく、我々は憲法を作ったことがない。

 

だから、憲法改正と言われると途端に困るのだ。何をどうして良いのか、どう決めれば良いのか。まったくわからない。憲法はいつも誰かが作ってくれた。誰かが与えてくれた。それを守ってさえいれば良かった。

 

今回の集団的自衛権に対するヒステリックな対応もそうだ。

 

我々は世界最強のアメリカの傘の下で守ってもらっていた。

拉致された自国民を指をくわえて見ているしかできなかった。

勝手に島を強奪しにくる野蛮人を手をこまねいて傍観していた。

 

要するに、自分で何かを決めたくなかったのだ。

 

拉致された自国民を助け出そうとすれば、否が応でも摩擦と軋轢が生じる。

島を強奪しにくる野蛮人に対してアクションを起こして「戦争になったらどうするのだ?」

 

だが、政治とは本来そういうものではないのか?

独立した国と国との交渉とはそういうものではないのか。

 

政治の決断に100%の正しさなどというものはない。その決断が正しかったか否かは、公正の評論家がしたり顔で言えば良い。ただ、その時代に生きている人たちは否応なしに何らかの決断を迫られる。

 

その決断をしたくなければ話は簡単だ。

誰かに決めてもらえばいい。自分で考えなくて良いから、これほど楽なことはない。

ただし、それを隷従と言う。

 

集団的自衛権を容認することは「戦争のできる国になること」だそうだ。

「戦争のできる国」と「戦争をする国」とは全く異なる。

この短絡的かつ飛躍的な論理を支えているのは「政府は信用ならない」との信念だろう。政府に任せておけば、必ずや戦争は起きるはずだ。なぜなら政府は信用ならざる存在だからだ。

 

民主的手続きで選ばれた政治家により構成される政府が信用できないのであれば、逆に問いたい。信用できる政府とはどのようなものか。

 

元々、「批判できる政府」こそが、彼らの望んでいる政府である。

かつて総評が強烈な影響力を及ぼしていた時代に、太田薫議長は「弱い政府をつくって、みんなで、これを批判している状態がもっとも望ましい」と発言した。

 

彼らは批判できればそれでいいのだ。ただし、彼らに「これからどうすれば良いのか、一緒に考えましょう」と言ってはいけない。なぜなら、彼らはそれを考える術もなければ、考えた経験もないから。

 

 

日本の虚妄―戦後民主主義批判

日本の虚妄―戦後民主主義批判

 

 

大熊信行の名前は言論界から抹殺された感がある。彼が黙殺された理由は、右派に対しても左派に対しても手厳しい論評を叩きつけたことにある。

 

大熊の主張を概略すると、次のようなものになるだろう。

 

占領下のアメリカは、日本に二本の杭を打ち込んでいった。ひとつは日本国憲法であり、ひとつは日米安保条約である。

左派は、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄にしがみついた。右派は「日本とアメリカは日米安保条約により対等である」との妄想の中で生きている。
どちらも、アメリカの作った箱庭の中でつまらぬ妄想に耽っているだけのことだ。

 

まさにその通りだ。

 

集団的自衛権の行使は、アメリカ隷従の日本にとって「アメリカとともに戦争をする」ことでしかない・・・との左派の主張は、右派の「アメリカと日本は対等の国家だ」という妄想を炙り出すものだ。そして、日本国憲法を改正しようという試みは、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄に手袋を叩きつける行為である。

もう、いい加減に箱庭から出ようではないか。

 

それは国際社会の荒波へ漕ぎだすことであり、その都度の選択に責任を負うことでもある。それでも、箱庭の中で安寧を貪るよりは、よほど良い。

 

 

【読後一話】 会社が消えた日 -三洋電気10万人のそれから-

「会社が消えた日ー三洋電気10万人のそれからー」を読了。

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

 

 

2.5兆円企業の三洋電気があれよあれよと言う間に倒壊していく様子を描いた前半部分。10万人の社員のうち三洋電気を買収したパナソニックに残されたのは9000人、それ以外の9万人は外に放り出される。その人々を描いた後半部分。

いずれも丹念に人を追い事実を確認しつつ筆を進めた労作と言える。

 

政府の労働力調査によると、製造業の就業者数はバブル崩壊後の1992年に2149万人のピークに達した後、円高に伴う海外への製造業シフトなどの影響で減少に転じ、2012年には1538万人まで減っている。就業者全体に占める比率は1973年の36.6%がピークで現在は25%を割り込んでいる。
数字が示しているのは、日本はもはや「輸出立国」ではなく「モノ作り大国」でもない、という事実だ。モノ作りの復活に賭けたい気持ちはわかる。再びの輸出立国を夢見るのも自由だ。しかし、残念ながら現実は容赦なく逆方向へ進んでいる。

三洋電気のケースはその前触れに過ぎない。これから我々は「まさかあの会社が」と思うような企業が消えていく様を目の当たりにすることになるだろう。

 (本書p3)

 

【市議会だより.6】 長尾山の再整備計画について

昨日、6月定例会が閉会しました。

 

6月定例会は年度の最初の定例会ということもあり、補正予算などは小さいのが通例です。ならば、割と楽な定例会なのか?というとそうでもありません。次の年度に向けての大きな事業スキームが提示されることがあるからです。

 

国の平成27年度予算編成、つまり来年度の予算編成は予算要求(概括)が8月から始まります。自治体が大型公共工事を進める際には、この予算要求(概括)に間に合うように申請しなければなりません。

 

したがって、自治体が国の補助メニューに載せようとした場合に、それを議会に諮るのは6月定例会という形になります。

 

さて、今回の6月定例会では「長尾山の再整備計画」が理事者側から提示されました。

現在の長尾山総合公園は、元々50万人の来園者を想定して整備されているため、現在のように70万人が訪れた際には、駐車場の不備や動線の単線化など様々な課題が出ています。

 

そこで、

①新しいアクセス道路を設置し、入口を2か所にする。

②トイレを増設し、観光客の利便性を図る。

③第3駐車場を整備する。

④園外駐車場を整備する

 といったプランを軸とする総額8億5000万円の事業計画が提示されました。

これは国の都市再生整備計画事業に乗っての5カ年事業でして、おおむね国の補助率は4割と考えればよろしいでしょう。

 

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さて、県立恐竜博物館は言うまでもなく県のものです。そして、長尾山総合公園は勝山市のものです。したがって、勝山市はこれまで営々とこの公園を整備し続けました。

 

しかしながら、議会としては、これ以上の整備費を市が負担するのであれば、さすがに収益の途を具体的に探らねばならないとの方針で臨むことで、最終日に結論を見ています。

 

具体的には、第1駐車場(恐竜博物館前の駐車場)で駐車料金をとるなどの方法が議会内では浮上しています。仮に、第1駐車場にて500円の駐車料金を徴収した場合、年間収入としては9000万円の収入が見込まれます。「長尾山特別会計」を新たに設置し、長尾山で得た収入を用いて長尾山を整備するというスキームが最も望ましいのではないかと、個人的には考えています。

 

この収益の途については、今後の議会において議論が進められる予定です。

【読後一話】 撤退の農村計画

とある政策立案のために、書棚から引っ張り出して再読。

 

 

撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編

撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編

 

 

 

 

 

下記の図は、『中央公論』昨年12月号に掲載された藻谷論文のもの。

地方に人を住まわせたかったら、地方の経済を活性化させねばならない。そのためには、地方がブロック化経済を作らねば富は中央に逃げていくだけだというモデル図。 

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 現在、立案している政策はこのモデル図をベースにしている。

 

地方はまったなしの状態に追い込まれている。ただ、漠然とした不安と将来への見えない展望の中で、人々は何をして良いのか。どこへ進めば良いのか。それが見えてこない。具体的な手法が見えてこないのだ。

 

しかしながら、過疎化は静かに、そして着実に進んでいる。

上記モデル図で言えば、頂点に位置する山間居住地は壊滅的状態だ。かつては、人々が生活し分校が存在した山間居住地の多くが、現在は無居住化地域、すなわち誰も住まない土地になった。

 

次は中山間集落の番である。そこへ至るまでに何としても「集落を単位とする経済ブロック網」を完成させねばならないと考える。

その具体的な政策の中身は、来月には明らかにされるはずだ。

 

さて、本書は上記モデル図で言うと「山間居住地」を対象としたものだ

 

若者たちが都会へ出ていき、高齢者ばかりが残された。車を運転することもできず、バスは1日に2便しか来ない。買い物に行くのも病院へ行くのも不便極まりない。集落近辺の田んぼは、もはや耕す人もいなくなり荒れ放題。山の手入れは言うまでもない……そんな地域である。

 

その山間居住地に住む人々を、集落移転させてはどうだろうか。市内中心部へ移転してもらった方が、生活は便利になるし行政コストも軽減される。

そういった内容である。

 

労作である。ここまで斬りこんで具体的な方策を講じるのは並大抵のことではない。ましてや、「慣れ親しんだ土地を捨てて、街へ移転しましょう」という、大きな心理的抵抗に遭う政策をここまで真正面から論じることは、これまであまりなかったように思われる。

 

ただ、ひとつだけ残念なのは「戦略的撤退」と言いながら、その「戦略性」を最後まで読み取ることができなかった点だ。

 

編者・著者が述べるように、撤退そのものは悪いことではない。むしろ、局面が悪化しているときに撤退できないことは、ずるずると負けに追い込まれるだけだろう。

だが、同時に「撤退する」ときには、「将来的なビジョンに基づいて」撤退しなければならない。それが「戦略的撤退」である。

 

しかし、それを本書に求めるのは酷というものだろう。その戦略を提示すべきは、本来、政治の役割だからだ。「地方には公共工事を与えておけば良い」として、これまで地方を置き去りにしてきた政治のツケがまわってきたのだから。

 

 

【政治】 役所のやることがうまくいかない理由とは (その2)

前回のまとめ

前回の拙稿のまとめから始めましょう。

①「お役所仕事」の改善は我々の生活を豊かにする。

②「お役所仕事」の改善は、お役所だけにまかせてはいけない。

③「お役所仕事」の張本人は、至極まじめに仕事をしている。

 この3点が前回の結論でした。行政の仕事は私達の生活の隅々にまで及んでいます。ならば、それを改善したならば、我々の生活は今よりも素敵なものになるであろうこと。それゆえに「役所の改善は役所に任せておけばよいのだ」と投げ捨てずに、市民の皆さんも力を添えて欲しいこと等々が、その趣旨です。

 

今回は、「お役所仕事」をもう少し具体的に見ていきます。

前回が「形式的なお役所仕事」ならば、今回は「実質的なお役所仕事」です。

 

行政は信頼されていない?

昨年、国の補助金をいただいて広域観光の事業を実験的に行い、県内外の様々な人々に出会う機会を得ました。その中には、デザイナー、プランナー、広告代理店の人たち、マスコミ関係の人たちもいました。

 

彼らに共通しているのは「行政を信頼していない」ということでした。薄々は感じていたものの、この意識の根深さには正直驚いたものです。彼らが行政の仕事をしていないのか?というと、そうでもありません。彼らは行政が出す仕事をしています。

だからこそ、彼らは行政を信頼していない。

その理由が端的に表れているのが次の記事です。

 

大阪市交通局が実務経験のあるデザイナーを月額112,600円で募集していることがわかった。
 
IllustratorPhotoshopによる広告デザインの実務経験があること、Excelでの表計算、Wordでの文書作成ができること。
同市交通局が6月10に公布した「大阪市交通局非常勤嘱託職員募集要項」の応募要件には、たしかにそう明記されている。
 
Twitterでは、プロとしてデザイン業務こなすユーザーから非難の声が多数あがっている。
 
具体的な職務内容は、「ポスター作製業務、WEBページ運営業務」とあり、さらに、WordやExcelを使用した文書作成や電話応対等の一般事務も含まれている。
 
大阪市交通局非常勤嘱託職員募集要項(PDF)
 
Twitter上で問題とされたのは、その報酬だ。記されている給与月額は、週30時間(1日6時間 週5日)勤務で112,600円。時給に換算すると、800円程度であろうか。
さらに金額の下には「昇給・昇格なし」という絶望的な文言が明記されている。
さすがに、この金額は低すぎるのではないかと11日未明、Twitter上で本職のデザイナーと名乗るユーザーが苦言を呈した。このツイートにはすでに1000件以上ものリツイートがされている。
 
なお選考には、まず1次試験としてポスター製作を行う必要があるらしい。また、IllustratorPhotoshopなどの運用に伴う追加費用を、経費でまかなえるかどうかも今のところ不明だ。

 

 

デザイナー、広告代理店、プランナー等々の人々が行政を信用していない最大の理由は、「行政が知的労働を評価していない」ことにあります。昇給・昇格なしでプロのデザイナーを月11万円の破格の待遇で雇えると思っている……上記の記事を見ると、そんな思いを更に強くします。
 
通常、行政が仕事を発注する際にも、こういった「知的労働軽視」の風潮が往々にして出てきます。
 
例えばです。
「わが市にはAという観光地がある」
「この観光地へ人を呼びこみたい」
「そんなソフトを作って欲しい」
「予算は500万円だ」
はい、アウトです。そんなものだけで、どうにかなるほど民間は甘くはありません。
 
「今度、3DS用の新しいゲームを作る」
「売れるゲームを作って売れ」
「予算は〇〇円だ。よろしく」
「あ、それと。ついでに効果的なプロモーションも考えておいて」
そんな丸投げするわけがありません。
 
 
漠然としている上に、要望のハードルは高い。役所から出てくるソフト系の仕事の中には、少なからずそういったケースがあります。
 
道路をつくる、建物をつくるといったハード部門でこういったことは起きません。なぜなら、工事単価は既に決まっている以上、成果物の予算も決まっているからです。ところが、なぜかソフト部門になると、往々にしてこういったことが起きる。
 

そんな発注を見ていて、「行政は俺たちを軽く見てるのか?」「俺たちの仕事を何だと思ってるのか?」とデザイナーやプランナーたちが考えるのは当然でしょう。

 

なぜ、こんなことが起きてくるのか。

これにはいくつかの構造的な問題があるように思われます。

 

「何とかしたい」と思い立ち、真摯に事態に向き合おうとする行政マンたちがぶち当たる、大きな壁でもあります。

 

 

 

役所は失敗を許されない

まずは次の記事をお読みください。

総務省は、情報通信の分野で世界的に影響を与えるような奇抜なアイデアを持った人材の支援に乗り出す。

 今年度の情報通信に関する研究開発の委託事業に、「独創的な人向け特別枠」を設ける。パソコンや携帯電話で革新を成し遂げた一方、ユニークな人格でも知られていた、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のような人材の育成を目指す。

 研究費に加え、著名な技術者やベンチャー起業家などから助言を受けられるなど研究環境も支援する。6月末に募集を始め、面談などの選考を経て10件程度を採用する。

(読売新聞5月25日)

 

「さすがお役所。300万円でジョブズを作れると思っているあたりが!」
「そもそもジョブズのようなイノベーターを『作ろう』と考えるところが、さすがお役所だ」
という感想を持たれた方もいるでしょう。
そこも重要なポイントなのですが、この記事の最重要ポイントは「失敗も許容するという、中央官庁としては異例の事業となる」←ここです。

 

そう、行政の仕事は失敗が許されない。ここがとても重要なところなのです。不思議なことに行政の仕事は失敗が許されません。したがって、何らかの成果物がなければいけない。それはもはや強迫観念に近いものがあるように感じます。しかも、「予算を使い切らないといけない」という、これまた困った性向が働くと、やたらめったらに成果物だけが出てくることになります。

(やたらにパンフレット刷りたがるのもここにあるのかもしれません)

 

 

 

 

投資の概念

「失敗してもいいじゃないか」と私などは思うのです。失敗しない民間企業が存在しない以上、役所が失敗しても構わないではないかと(もちろん程度にもよりますが)。

ただし、失敗してもいいのですが、あるひとつの条件を満たすならばとの留保はつきます。

それは投資の概念を正しく行政が理解していることです。

 

行政の予算の中には「投資的予算」と呼ばれるものがあります。人件費や維持管理費などの固定費でないものを指すと理解していただければ結構です。

この投資的予算には、道路建設や体育館建設なども含まれます。なぜなら、これらの建設は将来的な投資行為だからです。

 

私が申し上げているのは、こういった意味での投資ではありません。

投資の概念そのものです。

 

投資とは「将来の益を見込んで現時点での支出をなす行為」です。

この「将来の益」は、行政にとっては「公共益」を指します。ここに道路を敷設すれば、現在の住民にとっても便益が向上するのみならず、将来的な居住者増につながる。ここに体育館を建設することは、現在のスポーツ愛好家にとっての便益向上だけでなく、将来に大きな大会を誘致できる等々。

 

いずれにせよ、将来的な益を見込んで行政が支出するのであれば、それは投資です。

産業政策であろうが、道路建設であろうがそれは同じことです。問題は、「将来的な益」が抜け落ちて、目先の成功に走りがちであるという点なのです。

これも「失敗が許されない」行政マンに課せられた宿命です。

 

 

世界的な投資家であるウォーレン・バフェットは、2011年に来日した際に、「投資の極意」として2つの点を挙げましたが、そのひとつは「ビジネスをそれ自体に注目すること」でした。

「ビジネスをそれ自体に注目すること」です。多くのプロの投資家や学者たちが、毎日の株価に一喜一憂しています。しかし、株価やマーケットの動向を、毎日、毎週、毎月追うことで、投資が成功するとは、私は考えていません。株は、そのビジネスの一部分でしかないからです。注目すべきは、株価ではなく、事業そのものでなくてはなりません。常に株券ではなく、ビジネスを買うという投資姿勢が必要です。

企業の実態がマーケットや株価に反映されるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまうことがあるかもしれません。しかし、事業の成功が一般に認知されるのにどんなに時間がかかろうとも、その企業が期待通りの高い成長をする限り、問題はありません。むしろ、認知が遅くなったほうが、投資家にとって都合がいい場合が多くあります。投資家にとっての「バーゲン価格」が続くわけですから。

 

この言葉を次のように置き換えてみましょう。

「ビジネスをそれ自体に注目すること」です。多くの自治体職員たちは、個別の事業に一喜一憂しています。しかし、イベントやPRの動向を毎月、毎年負うことで、投資が成功するとは、私は考えていません。イベントは、そのビジネスの一部分でしかないからです。注目すべきは、イベントの入場者ではなく、産業そのものでなくてはなりません。常にイベントや事業ではなく、ビジネスを買うという投資姿勢が必要です。 

 

行政が行う「投資」とは、投入財により地域経済が活性化し、市民が潤うという循環を描くものでなければなりません。

 

 例えば観光産業に行政が投資するのであれば、その投入財が「人を1,000人呼びました」「5000人の誘客がありました」で終わってしまっては、バフェットが言うところの「目先の株価に一喜一憂する投資家」に過ぎません。そして、プランナーやデザイナーが「所詮、役所の連中が考えることだから」と面従腹背で臨む仕事は、まさしくこういった事業、すなわち、一過性のイベントを並べていくような「お役所仕事」そのものです。

 

 重要なことは、そのビジネスそのものをどのように育てていくのかという視点であり、それはストーリーとして語られる戦略です。

(ちなみに、行政は必ずこういったストーリーを持っています。持っていますが……)

 

ところが、これが許されない土壌が役所文化にはあるようです。

その理由は、

 

①そもそも予算をつけられない

②「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢 

との2点に集約できるのではないかな?と私は考えています。前者は役所の外因理由、後者は内因理由と申し上げて良いでしょう。 

 

 

そもそも予算がつけられない

地方自治と言いながら、自治体が自由に使うことのできる予算規模は実に小さなものです。「国や県の補助メニューに載らねばできない」そんな事業が投資的事業の大半を占めます。

 勢い、自治体としては毎年出てくる国・県の補助メニューを見ながら予算を編成するとの作業に追われることになります。要は、自治体サイドからすると「国県の補助金をとってきてから、事業を組み立てる」という習慣が染みついています。

 

自治体がストーリーを描いて「この産業をこういった具合に発展させていきたい」と考えても、国県の補助金メニューがなければ歩みを進めることができません。

 

加えて、国の出すメニューとは「各省庁が出すメニュー」に他なりません。農水省が出すメニューは農水省が昌益に基づいて考えたメニューであり、経産省の同様のものとかぶらせるわけにはいかないという事情もあります。

 

これは由々しき問題なのですが、もはや個々の自治体が解決できるような問題ではありません。

 

 

 

「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢

 

観光産業であれ農林業であれ、特定の産業に対し行政が「投資」をする。その投資をする際に、単発のイベント的事業を並べるのではなく、大きなストーリーを描いて産業そのものを育てましょう…といった話をすると、行政からは「もっともな話です」という答えが返ってくることでしょう。

 

逆に

「そういったストーリーがうまく機能しているのか?」

「民間企業は、行政の投資財に対してちゃんと機能しているのか?」

という問いかけをするならば、

 

「そうは言っても、民間でできることは民間でやってもらわないと」

「ビジネスは民間が行うものだから」

と行政は防波堤を築くことでしょう。

 

ここに「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢が見て取れます。

・計画を立てるのは、私たち行政の仕事である。

・行政は公共的な役割を果たす以上、それ以上は手を出せない。

・したがって、その先は民間の仕事であり、我々は関知しない。

 

理屈としては理に適っているようにも見えますが、「投げっぱなしジャーマン(プロレスファン限定)」の理屈です。

・市民の税金を投入する。それは私たち行政の仕事である。

・行政はそれ以上介入しない。

・したがって、その税金投入の効果については行政は関知しない。

と言っているに等しいからです。

 

「行政は行政であるが故に、介入する」

「行政は行政であるが故に、その先は知らぬ」

その二律背反がなぜ出現するのか。

 

次回はもう少し、そのあたりを考えてみたいと思います。

【記録】 日清カップヌードルのCM

 

ワールドカップも直前。日清カップヌードルのCMがなんとも格好良い。

 


2:01 SAMURAI in BRAZIL / CUPNOODLE CM by 日清 ...

 

 

昔から、カップヌードルのCMは一風変わったものを流し続けてきた。

私にとって、カップヌードルのCMはここから始まる。


カップヌードル やかん体操 シュワルツネッガー.mpg - YouTube

 

まだ外人タレントが今ほど出ていなかった時代。シュワちゃんのこのCMは絶大なインパクトがあった。

外人タレントといえば、こんなものもあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=4TOL9LUgWTc

「ソウルの帝王」ジェームス・ブラウンを連れてきて「ミソッパ!ミソミソ」と歌わせるとは。JBのイメージはどうしても「ロッキー4」でのものが強烈だっただけに、「仕事選べよw」と当時の私は思った。

 

 

そして、あの「hungry?」編が始まる。

このCMで「hungry?」とナレーションしている人物は、元阪急ブレーブスのピッチャーだったアニマル。そして、このCMはそのユニークさから日本人初のカンヌ国際グランプリに輝いた。

 


カップヌードルCM 原始人編 - YouTube

 

ちなみに、「Are you hungry?」の元ネタは、80年代初頭の「ハングリアン民族」シリーズだと思われる。しかしながら、このCMはものすごい昭和臭がするのと、あっさりとまとめてしまったため、まったく記憶にない。

そう考えると、今に至るカップヌードルCMの斬新さは、やはり「Are you hungry?」から始まるのだろう。

 


日清カップヌードルCM ハングリアン民族 - YouTube

 

 

 

 

 

「日本人が発明したものの中で、20世紀最大の発明品は何か?」との問いに対して、日本人が1位にあげたものが、カップラーメンだった。ちなみに、2位はカラオケ、3位はSonyウォークマンだった。

日本人に広くカップラーメンが周知されたのは、あさま山荘事件だった。鍋のカレーが凍るという極寒の地で、カップラーメンを美味しそうにすする警官たちの姿が全国の茶の間に報道されたときに、国民は外で食べられる即席めんの存在を知った。
(それまでは、鍋でつくるチキンラーメンが主流)

 

20世紀が終わり、21世紀が始まる。

そんなときにカップヌードルのCMはこんな感じだった。


【CM】20世紀カップヌードル【王貞治編 TV CM Ad WorldCMTube - YouTube


【CM】20世紀カップヌードル【ゴルバチョフ編】 - YouTube

 

 

 

そして、次にきたのが賛否分かれる「No Border」編だった。このシリーズは反戦色が強く、中には放送中止に追い込まれたものもある。アミューズメント性よりもメッセージ性を追求した作品が多く、個人的には好きなシリーズだった。

 


日清カップヌードル「NO BORDER」 消える国境篇 45s - YouTube

 


お蔵入りしたCM 日清カップヌードル「NO BORDER」 少年篇.flv - YouTube

 

 

 

2004年からは、FREEDOMシリーズが始まった。大友克洋を迎えて23世紀の世界を描いた。音楽は宇多田ヒカルが担当していた。そうか。この当時は宇多田ヒカルの絶頂期だったな。

 


日清 カップヌードル TVCM 3pattern 「FREEDOM-PROJECT」 (NISSHIN ...

 

 

FREEDOMシリーズが終わって、時々、木村拓哉が出てきた。

 


日清 カップヌードル TVCM コロ・チャー 木村拓哉 Takuya Kimura (NISSIN Cup ...

 

 

 

そして、伝説の「世界はひとつ」シリーズが始まる。

これには腹を抱えて笑わせてもらった。歌手の画像をCGで編集し、替え歌をあてるという手のこんだつくりになっている。ちなみに、替え歌を誰が歌っているのか。それは公開されていない。

フレディ・マーキュリーを持ってくるあたりが良い感じ。シュワちゃんにやかんを持たせたテイストが引き継がれている。

 


日清 カップヌードル CM Freddie Mercury 30秒版 - YouTube

 


日清 カップヌードル Bon Jovi CM 息子さーん - YouTube

 

 

 

 

 

 そして、2011年3月11日の東日本大震災の後に、印象的なCMが出てくる。

立ち上がるガンダムの姿に励まされた人も少なからずいただろう。

私はそうだった。

 


CM 日清食品 カップヌードル「ガンダム」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM 「スターウォーズ ヨーダ」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM 井上雄彦 「武蔵登場」篇 - YouTube

 

 

 

昨年から始まったのがSurviveシリーズ。
何というか、無駄にスケールがでかくて無駄にクオリティが高すぎる……

「グローバリゼーションの波を乗り越えようとする等身大の今の若者たちの気持ちを、幕末から明治初期の西洋化に立ち向かう武士のような世界観で描きました」
「闘いのシーンをハリウッドにも負けない圧倒的なスケールの映像で描くために、選んだ撮影場所は映画の王国ニュージーランド
というのが日清の公式発言なのだけれどw


カップヌードルCM 「SURVIVE! グローバリゼーション 篇」 60秒 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「就職氷河期」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「初めての合コン」篇 - YouTube

 

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「リア獣との闘い」篇 - YouTube

 

 

ネットやらない人に「リア充に負けない!」と言ったところで、果たして何人の人が理解してくれるのだろう。でも、そんなちいせえことは気にしない。それがカップヌードルのCMなのだから。

 

 

 

堪能しました。
なぜに、こんな手間暇かけてブログ記事書いてるのかというと、単純に、私が見たかっただけなんです。昔のカップヌードルのCM。
「あ~、あったな。あった」「懐かしいな~」
今回のサムライのCMも秀逸でした。

これからも日清さんは我々を楽しませてくれることでしょう。

 

 

【雑感】 自閉症の子供が感じる世界と私的言語

「Anti-Sim」というオンラインゲームがある。

2013年にカナダの医療フォーラムで公開されたものだが、これは自閉症の子供が感じる世界を体感できるものだ。

一括りで「自閉症」と表現するが、その症例は多岐にわたる。
この「Anti-Sim」は、その症状の中でも聴覚過敏症にフォーカスしている。

 

ゲームは下記のURLにて行うことができるので、体験されることをお勧めする。

http://gamejolt.com/games/strategy-sim/auti-sim/12761/

 

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さて、体験された感想はどうだったろう。

自閉症の子供が「耳ふさぎ」をする意味がようやくわかった。

我々が無意識にやっている聞き分けができない世界とは、かくも騒々しく苦痛に満ちた世界だったのだ。



哲学者ヴィトゲンシュタイン「私的言語」という概念を提示した。

 

誰かが他の誰も理解できない言語を理解しているならば、これは私的言語と呼べる。ただし、これは「その言葉を話す人が、この世の中で独りしかいない」という意味ではない。それならば、絶滅寸前の言語を話す最後の一人は私的言語を話していることになる。かつて、アイヌ語の研究者であった金田一京助氏が「アイヌ語で喧嘩できる相手がいない」と寂しがったが、金田一京助氏にとってのアイヌ語は私的言語ではない。

 

私的言語であるとは、原理的にただ一人の人しか理解できない言語である。

確かに、「私は歯が痛い」と言うとき、歯の痛みを知るのは私だけである。どれほど痛いのか、それを知るのは私しかいない。しかし、「私は歯が痛い」と言うとき、周囲の人々はその意味を理解してくれる。今まで虫歯になったことのない人以外は。

私は男性であるが故に出産の苦しみを知らない。ただ、「激痛である」という「痛み」そのものを感じた経験はある。したがってそこから類推することができる。
(あくまでも類推するだけだが)

ただ、類推すら不可能な事態に陥ったとき、我々に残された途は「遠ざける」より他になくなる。ややもすると、我々は「自分たちに理解できないものを遠ざける」という傾向があるように感じる。
その一方で、「理解できないのならば、理解しようと努める」という方向も働く。理解できないからこそ、私は理解したいのだ!という人々がいる。だから、世の中はうまくいっているのかもしれない。

このオンラインゲームで、自閉症の子供たちの世界がすべて理解できるとは思えない。ただ、少なくともその手掛かりにはなる。

こういったソフトがこれからも数多く世に出ることを願って止まない。