月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

【読書】 日本史の謎は「地形」で解ける。

 

何気なく本屋によって、面白そうだなと思った本がアタリだったときの興奮はAmazonでは味わえないものだが、久しぶりにそれを味わった。

 

日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 (PHP文庫)

日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 (PHP文庫)

 

 

時折、気が向いた時に、役所に自転車に乗って行くことがある。

おおむね1時間強のサイクリングになるのだが、その際に、決して新道を通ることはない。確かに新しく作られた道は真っ直ぐで目的地までの最短距離を進むことになるのだが、自転車で行くにはアップダウンがありすぎる。車で行くには最適なのだが、自転車で進むには辛い。したがって、旧道を走ることになる。等高線に沿ってできるだけ高低差をつけずにひかれている旧道は、確かに距離こそ伸びるものの歩いたり自転車で行くには最適なのだ。

 

古代の人間には理性的行動はできない。呪術的、宗教的なルールによって動く未開の野蛮人である……との思い込みは正しくない。彼らの倫理が宗教的、呪術的であったかもしれないが、その行動においては極めて合理的である。

現代の人間にとっての合理的行動が「車に乗って真っ直ぐな道を進む」ことにあるのならば、古代人の合理的行動は「等高線にそってなだらかな道を進む」ことにあったかもしれないのだから。

 

 

 著者は元建設相の官僚である。土木工学の専門家として、歴史の様々な謎を「地形」の分野から解き明かしている。現代に至るまで、人々の行動を決するものは自然であった。すなわち、「地形」である。

 

もちろん、すべての謎が「地形」だけで解けるわけではない。ただ、いくつかの謎が「われわれ現代人の基準で考えるがゆえに解が見えてこない」と指摘しているのだ。

 

私が興味をひかれたのは、「なぜ日本の旗は日の丸、すなわち太陽をモチーフにしたのか」という章だ。

世界的に見れば、太陽をモチーフにした国旗は少なく、むしろ月や星をテーマとする国旗の方が多いと書中にある。言われてみればそのとおりだが、日本人にとって太陽とは万物を生み出す根源であり、天照大神に代表される神格化された存在でもある。

しかし、世界的には月や星の方がぬくもりと優しさを表現するのだと。

 

その理由について詳細を述べることは避けるが、昔から存在する「なぜアフリカは発展しなかったのか」という疑問に対するひとつの回答がここにあると思った。

現在の中国がアフリカに進出していることからもわかるように、アフリカはエネルギー源の宝庫であった。石油、石炭、鉄、ダイヤモンド等々およそ人の使うエネルギーでアフリカにないものはない。しかし、そのアフリカが最も近代化が遅れているのはなぜか。その回答は様々に挙げられている。曰く、植民地時代が長かったからだ。曰く、教育が不全だからだ。
そして、本書にある回答は、そこに大きな波紋を呼ぶものなのだろう。

 

「なぜ江戸は世界一の大都市になったのか」を解説した章もユニークだ。都市を形成するにはエネルギー源を確保しなければならない。そのエネルギー源が枯渇すると、古来から遷都が行われてきたという著者の主張はもっともだ。

ならば、なぜ家康は江戸に幕府を開いたのか。その巨大なエネルギー源を確保する方法こそが幕藩体制の肝になったこと。そして、そのエネルギーの集積方法が確立したことによって江戸は当時世界一の大都市になったことが説明されている。

その余波として、幕末においては日本の森林は枯渇の危機に追いやられていたことも。

 

 

最終章の「ピラミッドはなぜ建設されたのか」も圧巻だ。

なるほど、土木工学の視点から眺めるとそのような説明が可能になるのかと興奮して読み切った。

 

 

【雑感】 横田めぐみさんたちを見殺しにしたのは誰だ

拉致被害者再調査北朝鮮が行う、その見返りとして日本の対北朝鮮独自制裁を緩和する。これに対して、おひざ元の自民党から懸念の声が出ているという。

 

自民党は30日、外交部会と北朝鮮による拉致問題対策本部の合同会議を党本部で開き、日本人拉致被害者らの再調査をめぐる日朝両政府の合意について政府側から報告を受けた。出席者からは北朝鮮側が確実に再調査を行うのか懸念する声が相次いだ。

会合では外務省の伊原純一アジア大洋州局長が「拉致問題は解決済み」としてきた北朝鮮の立場に「明らかに変更があった」と説明。「生存者が発見された場合には、帰国させる方向で必要な措置を講じる」と合意文書に明記した点を成果として強調した。これに対し、出席者からは「また騙される懸念がある」「調査を始めただけで制裁解除をしては『食い逃げ』されないか」など北朝鮮を警戒する声が続出

実行性を担保するため「(帰国していない)政府認定の拉致被害者12人については短期の期限を区切ってはどうか」「約束を守らなかった場合には合意の破棄や重い制裁を科す可能性もあると伝えて欲しい」との提案や要望も出た。伊原氏は「(再調査の)体制や期限については今後、協議で明確にしていく」と理解を求めた。

 (産経新聞5月31日)

 

調査をしただけで制裁緩和をしては、「食い逃げされる」だけではないのか?という疑問はもっともだ。だが、この疑問は根本から誤っている。その的外れさは、「再調査をすれば制裁を緩和する」との条件を次の条件に置き換えたときに明らかになるだろう。

拉致被害者を返してくれるのならば、制裁を緩和してもいい」

この要求がいかに馬鹿げているかは、北朝鮮サイドに立ってみればすぐにわかる。

 

私が北朝鮮首脳部にいたならば、必ずや次のように考えるだろう。

「そうか。拉致被害者を返せば制裁を緩和し、あわよくば食料供与もしてくれるのならば、新たに拉致被害者を作ればよい」

 

ここに山賊がいる。山を降りれば集落がある。山賊は山を降りては人をさらってくる。山賊の内通者も村の中にいるのだが、これを捕まえることもない。しかも、面白いことにこの村では「さらった人間を返してくれるのならば、お金や食料と交換しましょう」と言ってくる。

山賊がやることはなにか。まずは人をさらうことだろう。

 

おわかりだろうか。

先ほどの「拉致被害者を返してくれるのならば、制裁を緩和しても良い」という要求は、現在の我が国の現況では「日本国民をさらってください」と言っているに等しいのだ。

 

まずは、国内法で一刻も早く「スパイ防止法」を策定することだ。

 

冷静に考えてもらいたい。

日本国政府は12人の拉致被害者を公式に認めている。この事実は何を意味するのだろうか。

日本の公安は北朝鮮の内通者及びその痕跡を細かに把握しているということだ。でなければ、そもそも公式に認定することなどできない。公式に認定するということは、北朝鮮サイドが「それは日本のでっちあげだ」と反論してきたときに「そうではない。こういう証拠がある」と提示できる状態にあることを意味する。逆に、それをよく理解しているからこそ、北朝鮮サイドは政府認定に対して反論をしない。

 

日本の公安は掴んでいるのだ。

実際に私の知人の公安関係者は言外にその事実を認めている。彼の名誉を傷つけたくないので詳細を述べることはしないが、公安はかなりのところまで詳細を掴んでいる。

しかし、事実を掴んでも公安は動けない。

なぜなら、動くための根拠法令がないからだ。

公安は歯がゆいだろう。地道に足を使って情報を集め、ヒューミタントによる諜報活動で裏をとり、ほぼ確定的とまで言える事実を固めても、目の前にいる北朝鮮内通者を確保することもできない。

 

「何を言っているのか。刑法には外患誘致罪があるではないか。それで裁けば良いだけのことだ」

と主張する者もいる。それこそ、何も知らないバカ者の戯言だ。

外患誘致罪は、その性質上、外交問題と直結するために司法は極めて消極的な態度を示してきた。この罪状で審判された例もなければ、訴追された例もない。唯一、その可能性があったのは、あのゾルゲ事件であるが、あれほど耳目を集めた事例ですら公判維持の困難さから訴追を見送られている。

 

つまり、現行法制下で横田めぐみさんを拉致した人物、そしてその手助けをした日本人たちを裁く方法はない。

 

自民党の先生たち。

「食い逃げされるのではないか」などという心配をする前に、まずはスパイ防止法を作りましょう。

 

こういった話をすると、必ず「人権侵害の恐れがある」と反論してくる人がいる。

私は人権を擁護する。しかしながら「人権は天賦のものであり、生まれながらにして有する権利だ」というテーゼを絶対視していない。

なぜなら、そういった考え方は所詮はコミュニティ内でしか通用しない、いわばルールに過ぎないからだ。「人権なんぞに何の価値があるのだ」とコミュニティに入ってくる「ならず者」に、人権はなんの反撃もできない。

 

 

スパイ防止法は人権侵害につながる」と言う人々がいる。

ならば、横田めぐみさんたちの人権はどうなるのだ。公式認定された12人以外の拉致被害者の人権はどうなのだ。もっと早くスパイ防止法を定めて、北朝鮮からの入国者やその手引きをした日本人たちの活動を抑えておけば、拉致被害者たちの人権は守られたのではないのか。

 

ジャーナリストとして信頼に値すると常々敬服している青山繁晴氏が参考人として陳述している内容をご覧いただきたい。

時間のない方は6分10秒あたりからご覧になられることをお勧めする。

 

 


【青山繁晴】言魂「拉致被害者は日本国民だ!」衆議院 国家安全特別委員会 参考人招致 ...

 

 

 

無法者とは、法の枠外に住む者のことである。

その無法者に対するには武装するより他にない。

武装とは、この場合「法による武装」である。

 

 

【雑感】 議員バッジのお話

この世界に入って、はや10年。本当に早いものです。


今回、全国市議会議長会で10年表彰を受け、新たなバッジをいただきました。「これまで以上に市民のために働きなさい」との意味合いが込められているのでしょう。これからもがんばります!

 

さて、俗に議員バッジと呼ばれていますが、正式名称は「議員徽章」。

案外とご存じない方が多いのですが、10年選手と15年選手、20年選手と25年選手ではつけているバッジが違います。

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左が10年選手バッジ、右が普通のものです。どこが違うかおわかりですか?
全体的に色合いが違っています。

 

これは10年モノが「16金製菊八弁」と呼ばれるものになっているためです。ちなみに15年モノだと中心にルビー(赤色)が入ります。20年モノだとスピーネル(青色)といった具合に、小さな宝石が入るようです。実は私も同僚議員に見せていただいてはじめて知ったくらいでして、25年、30年、35年となるとどうなるのかは知りません。


ちなみに、議員バッジの裏側ってどうなっているかご存知ですか?

 

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光の加減で見にくいのですが、裏側には「USA」と刻印されています。

 

表は日本を表す菊に彩られていながら、裏にはきっちりと「USA」

 

いかにも、今の日本を表しています。

【雑感】 役所のやることがうまくいかない理由とは? (前篇)

初めに

誤解を避ける意味で、冒頭に申し上げます。これから述べる内容は、勝山市役所を念頭に置いてのことではありません。おそらく津々浦々の行政に大なり小なり当てはまることでしょう。

 

そして、これも念を押しておきたいのですが、「役所がダメだ」という結論を導き出すのが、本稿の目的ではありません。後で述べるように、マックス・ウェーバーは官僚制度に何かしらの期待を抱いていたのです。血縁によらず、専門的知識労働者たる官僚たちがその持てる力をフルに発揮できるならば、必ず世の中はうまくいくはずだ…と。

ところが、なぜかそれはうまくいかないようです。

それはなぜなのだろう。私はそこを知りたい。

もちろん、その答えがすぐに導き出せるはずはないのですが、つらつらとそういったことを考えてみたいのです。

 

そして、私はこうも思うのです。

個別の役人・官僚の人格が問題なのではない。官僚制度のメカニズムそのものに問題があるのではないか。官僚制度が人間性そのものに訴える『何か』があるのではないか。

そこを正確にとらえないと「お役所仕事」はいつまでたってもなくならない。

 

 

  

お役所仕事とは?

 

「お役所仕事」という言葉があります。

 

この「お役所仕事」を考えたのはマートンという社会学者ですが、マートンの考え方を理解するためには、まずはウェーバーについて語らねばなりません。でないと、「お役所仕事」の本質を見誤ることになりますので、しばしのお付き合いを。

 

M・ウェーバーはドイツの人。19世紀から20世紀にわたって活躍しました。 『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『職業としての政治』『職業としての学問』などは現在でも大きな影響を及ぼしています。

 

ウェーバーは近代官僚制度についても考察しました(というか、おそらく近代官僚制度の研究は彼に始まると言っても良いでしょう)

 

統治をするには、統治のシステムが求められます。この点は、近代であろうが古代であろうが変わりません。統治者がいること。統治のルールがあること。そして、統治のシステムがあること。この3点は、現在も過去も同じなのです。

中世の家臣団による統治システムでは、血縁によるつながりや感情的な結びつきが重要視されました。これに対し、近代官僚制度は「法というルール」に基づき「歴史的特権身分が廃止された人々」による統治の手法だとウェーバーは言うのです。

 

おそらくウェーバーは民主制度の確立において、近代官僚制度が果たす役割に期待していたと私は思うのです。法というルールに則り、その職務に精通した人々が特権に依らず選ばれて従事することで、市民に対する福利は増すはずだと。

 

そして、ウェーバーは近代官僚制度を詳細に定義しました。

この定義から「官僚制度の逆機能」を引き出したのがマートンです。

 

マートンは主張します。

ヴェーバーの言うことはもっともだ。だが、ヴェーバーの主張するような『官僚の特性』が正しい方向に働けば良いが、悪い方向へ働くと次のような点が出てくる」

 

彼が『官僚制の逆機能論』で特に強調したのは、次の3点でした。

 

①法や規則の手段の自己目的化

ウェーバーが近代官僚制度の特徴として挙げたのは、「法というルールに従う」ことでした。ところが、この法令・規則の順守が行き過ぎるとどうなるでしょうか。

本来、法例は「あるべき姿を達成するため」に制定されるものです。ところが法令・規則の順守が行き過ぎると、本来の目的達成を次にしてでも法令・規則を守らねばならないという、手段と目的の逆転現象が発生します。前提となっている事実・状況が変化しても法令・規則を貫徹しようとする原理主義的発想になり、臨機応変な対応をすることができません。

 

②官僚組織の同調主義・自己保存化

形式的に法令・規則を適用する「形式主義」が行き過ぎると、今度は「秘密主義」が頭をもたげてきます。マートンは言います。官僚組織は外部に対して法規の絶対化を主張し妥協することを知らないが、身内に対しては情緒的な同調をする。官僚組織の存在意義が自己保存と自己肥大に傾くと。

 

特に、日本の文化風土として、組織は『疑似血縁団体』としての性格を帯びる傾向があります。「会社は家族のようなもの、会社のために働く」といった「会社人間」が典型例で、会社とはひとつの血縁団体でもあります(ですから会社からの解雇が村八分・勘当といった意味合いを帯びるのですが)。

 

組織は、企業であれ行政であれ何らかの目的を必ず持っています。その点は「家族」といえども同じです。ただ、家族が他の組織と一線を画しているのは、家族の場合、その目的は「存続すること」「維持すること」が第一義であり、「活動」を中心に置いていないことです。石油を販売しない石油会社はありませんし、モノを作らない製造会社も考えられません。企業はその「活動」を中心に置きます。しかし、日曜日にお父さんが子供を遊園地につれていかなければ成立しない家族というものはありません。

家族は、活動を中心に置かず、その維持を中心に置きます。

そして、組織が『疑似血縁団体』……すなわち、「擬制的家族」としての性格を強く帯びるようになると、組織の自己保存が最優先されるようになります。

「わかってはいるのだけれど、切るには忍びない」といった感覚を否定しづらいのはこの情緒が理性的判断を阻害するためです。

 

③官僚組織の非人格的な画一的対応

「お役所仕事」のイメージとは「愛想がない、融通がきかない、機械的対応」といったネガティブなものばかりですが、これは行政サービスという平等性を突き進めていくと、必然的にこうなってしまうわけです。

ウェーバーは近代官僚制の特徴を「非人格的」であることに求めました。「非人格的」であることは「非人間的」であることと異なります。人によって態度を変えることなく、サービスを提供する。職員の「この人は好き、嫌い」といった個人的嗜好で態度が変わる、こういったことをウェーバーは「人格的」として非難しました。

ところが、「人によって態度を変えることがない」ということが裏返されて「誰にでも同じような対応しかとらない」、挙句に「市民のニーズに応えられない」という結果に陥っているとマートンは主張します。

 

 

 

 

前提

 この「お役所仕事」の問題は、実は、もの凄く議論が広範囲にわたり、かつ、根が深いものです。

一番まずいのは、「役所はダメだ」「役人は世間を知らない」「役人は馬鹿ばっかりだ」と言ったレッテルを貼って議論を済ませてしまうこと。これでは、問題は何も解決しません。

 

 この問題を考える際には、次の3つの前提を置いた方が良いと思われます。

 

①「お役所仕事」の改善は、我々の生活を豊かにするであろうこと

 よく「行政」と「政治」を混同される方がいらっしゃいますが、この二つは厳密に考えると全く異なるものです。

 

 行政学のテキストなどでは、行政を次のように定義します。

「政治体系において権威を有する意思決定者によって行われた公共政策の決定を実行することに関連する活動」

 

行政とは、政策を実行すること。これが本来の意味です。そして、現代社会では市民生活の隅々にまで行政作用が及んでいます。朝起きて顔を洗う。その水は上水道です。通勤のために駅まで歩きます。その道は公道です。車での通勤をする方は、自動車を保有されていることでしょう。自動車は税金の塊です……といったように、福祉・教育・労働・産業政策、租税等々、生活の隅々にまで行政作用は及んでいます。

 

つまり、「お役所仕事」を改善するということは、我々の生活そのものを豊かにするのだという前提から話を進めなければなりません。 

 

 

 ②「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない

上記の前提に立つのであれば、「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない……との考え方にたどり着きます。

 

「お役所仕事」の改善は、私達市民の生活そのものを劇的に変えるかもしれない。ならば、市民もひと肌脱ごうではないか。そういう発想に立ってもらうと、話は随分とやりやすくなります。

 

役人も市民です。我々も市民です。同じ視点で、我々の生活を豊かにするべく考えようではありませんか。

それこそが「地方自治の本旨」だと私は思うのです。

 

③「お役所仕事」の張本人は、至極真面目に仕事をしている

ならば、肝心の役人の人たちはどうなのか?というと、実は彼らは至極真面目に仕事をしています。中には、ごくごく少数ではありますが、そうでない人もいますが……まあ、それはどんな組織にもいる人たちです。

 

ほとんどの役人たちは真面目に仕事をしている。だからこそ、問題なのです。

 

企業でいうならば、利益のでない仕事に従業員が精を出すことほど無残なことはありません。顧客である市民に「お役所仕事」と叩かれながら、そのお役所仕事に本人たちは一生懸命取り組んでいる。そして、役人自身が「役所が叩かれるのはしょうがないよ」と半ば諦めている。

 

喜劇を通り越して、悲劇的ですらあります。

社会的リソースとして、役人の皆さんは貴重です。彼らの能力を開放する仕掛け、仕組みはないものでしょうか。

 

ウェバーは民主主義の担い手として官僚制度に期待しました。それは官僚制度がある種の特徴を持っているからです。そして、その特徴を突き詰めてしまうと、逆に民主主義を阻害するのだと主張したのがマートンでした。

コインの裏表のような、この議論。我々はどのように考えればよいのでしょうか。

 

 (かなり話が長くなりました。この続きは、後編へ)

【雑感】 「お得なふるさと納税生活」を後押しして、勝山市をPRできないものか

TV番組で注目を浴びた元プロ棋士の桐谷さんは、株主優待で生活している人です。

そして、最近注目を浴びているのが「ふるさと納税でお得な生活」を送るスタイルだそうです。

 

ふるさと納税とは?

そもそもふるさと納税ってなんでしょう。

この制度は、わが福井県の西川知事が提唱したものです。ここには「地方で生まれて地方で育った人々が都会へ出て行ってしまう。ならば、都会にいる人々が地元へ何らかの還元をしたいと思った時に、税制上の優遇措置を認めて欲しい」との思いが込められています。

 

そして、この制度は認められ、多くの自治体がふるさと納税による収入を得ることになりました。もちろん、勝山市にもふるさと納税で多額の寄付をいただいております。本当にありがたいことです。

 

寄付をいただいた人々には、何らかの御礼をするのが人の道というもの。したがって、地元の特産品や様々なサービスを寄付者に対してお返しします。

 

さて、ここでふるさと納税の控除についてお話ししましょう。

 

ふるさと納税では、寄付金のうち2000円を超える部分については所得税・個人住民税から「全額控除」されます。

 

所得税

  所得金額の40%を限度に、(寄付金ー2000円)を所得控除

 

②個人住民税(基本分)

  (寄付金ー2000円)×10%を税額控除

 

③個人住民税(特例分)

   (寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%)

 要するに、寄付金から2000円を引いた額を全額控除しますと。下記の図は総務省が発表しているもので、この図を見ていただければイメージが湧くことでしょう。

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ただし、これを無制限に認めてしまうと色々と面倒なことが発生しますので、控除が認められる寄付金の上限は定まっています。だいたいどれくらいまで認められるのかは年収や家族構成等によって変わりますので、概略は総務省のホームページをご覧ください。

 

控除の対象となる寄付金額は、一般家庭ならば住民税の1割くらいまでが目安のようです。

 

さて、そこで考えるわけです。

「私はA市の住民である」

「私はA市に年間30万円の市民税を納めている」

ふるさと納税の控除上限額は3万円である」

「この3万円をB市にふるさと納税することにした」

「この3万円は税額控除される上に、様々な特典がついてくる」

これが、「ふるさと納税でお得な生活」です。

 

感覚としては「便利なお取り寄せグルメ」みたいな感じでされているようです。

 

 寄付者に対する特典は自治体によって様々です。ふるさと納税ポータルサイトまで出現しているので、詳しくはそちらをご覧ください。

 

広報・PRとしての「ふるさと納税

ふるさと納税は、なにも出身地だけしかできないものではありません。縁もゆかりもない自治体に対してふるさと納税をすることはできます。なぜなら、「納税」という名称を使っていますが、これは「寄付金」だからです。

 

ただ、

ふるさと納税を『お取り寄せグルメ』みたいに使うのはいかがなものか」

「本来の趣旨からかけ離れてしまっているのではないか」

というご意見も一方にあることは間違いありませんし、私はその意見も否定しません。

 

ただ、現実に「ふるさと納税の制度を楽しもう」という人々が増えているわけですから、これを活用してPRをするとの視点も必要かと思うのです。

 

 

長野県の下伊那郡阿南町ふるさと納税では、同町でとれたコメを寄付者に送っています。この町の考え方は一風変わっていて、「寄付金と同額のコメを送る」のです。

「寄付金と同額のコメを送ったのでは、町に収入が入らないじゃないか?」と思われるかもしれませんが、阿南町はこの制度を農業支援ととらえたのでした。

つまり、こういうことです。

①寄付者にとっては同額のコメを手にできてうれしい。
 (しかも寄付額は税金から控除される)

②コメの生産農家は、JAに卸すよりも消費者価格で買い取ってくれる阿南町に卸す方がうれしい。

③生産農家と寄付者とのつながりができて、農家が直販できる機会も増える。

自治体に寄付してくれる。これはありがたいことです。その寄付金を自治体の振興のために使うのであれば、阿南町のようなやり方もあるのです。

ちなみに阿南町ホームページを見ると、「農業支援を目的としたふるさと納税」としっかりと明記してあります。そして、どうやら今年の受け付けは終了したようです。コメの生産計画いっぱいまで応募が殺到したのでしょう。

どこにでも知恵者はいますね。脱帽です。

 

 

山形県白鷹町では、電話一本で何度でも寄付の申し込みができます。しかも、寄付申込みの代筆作業までお役所がしてくれます。

 

ふるさと納税の特典は、地元の産品だけではありません。ホテルの宿泊、イベント等、サービスは多岐にわたります。そういったサービスを人々に提供し、勝山のPRをするとの視点も必要になるのでしょう。

 

【雑感】大飯原発運転差し止め判決の不可解さ

福井地方裁判所にて、大飯原発運転差し止めの判決が出た。

 

判決文の全文を読みたいものだとおもっていたところ、それが掲載されている。実に、インターネットの世の中というのは便利なものだ。ぜひ、これをご覧の皆さんもリンク先から一読されたい。

 

さて、原発再稼働に賛成か反対かという立場を抜きにして、この判決文を眺めてみたいのだが、「なんとなく雲をつかむような判決文だ」というのが第一印象。

 

というのも、裁判所の根拠としているのが「人格権」だからだ。

 

当たり前の話だが、裁判所は法律に基づいて判断を下す。法のないところに裁判所が判断を下すことはできないわけではないが、それにはそれでルールが求められる。裁判官は自己の良心に従うことは憲法が保障しているが、「裁判官が好きになんでも言うことができる」ことまで保障しているわけではない。

 

原発の運転を差し止めることは、原子炉等規制法(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律)において、原子力規制委員会がすると定められている。具体的には、第43条の3の23に規定があるので、リンク先からご覧いただきたい。

 

もう一度申し上げるが、原発の運転を差し止めることは原子力規制委員会の権限である。この構造をひっくり返すために、 ここで「人格権」が出てくる。ここがよくわからない。まずは判決文を見てみよう。

個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。

ひょっとしたら、これは「訴えの利益」、つまり原告適格の釈明をしているのだろうか?とも思わせる文章である。訴えの利益とは、「訴えることができる人(原告適格)は、その訴えによって利益を得る人たちである」との考え方に基づく。

 

そこで問題になるのは、上記の判決文が訴えの利益を説明するものであると同時に、判決文の理由そのものになってしまっていることだ。

 

 ①生存の危険は人格権の侵害である。

 ②だから、原告には訴えの利益がある。

という論旨と

 ①生存の危険は人格権の侵害である。

 ②だから大飯原発は停止する。

という論旨がダブってしまっている。そして、両方の論理に共通するのは

原発は危険だから」

との前提だ。これでは「タメにする議論」と言われても仕方がない。

 

 

 

そして「原発は危険だから」という前提を説明すべく判決文は続く。

 

よくわからないのは、

東日本大震災レベルの大地震が来たらどうするのだ?」

東日本大震災は4022ガルの規模だった。大飯原発の想定規模は1260ガルだが、基準値が低すぎるのではないか」

と裁判所は主張するのだが、東日本大震災で被害を受けた原因は津波である。そこを裁判所は意図的に無視しているかのようだ。

 

被告は、大飯原発の周辺の活断層の調査結果に基づき活断層の状況等を勘案した場合の地震学の理論上導かれるガル数の最大数値が700であり、そもそも、700ガルを超える地震が到来することはまず考えられないと主張する。しかし、この理論上の数値計算の正当性、正確性について論じるより、現に、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来しているという事実を重視すべきは当然である。

「理論上の数値計算の正当性、正確性などはどうでもいいのだ」と言わんばかりの判決文には驚く。

「現に、想定よりも大きな地震が10年の間に到来しているではないか」と言うのであれば、逆にその想定外の地震を原因として倒壊・メルトダウンに至った原発があるか否かを述べねばならないはず。

 

 

こういった判決文を見ていると、「正しく怖がる」ことの難しさを実感する。
積み重ねてきた技術的蓄積も、理論的見解も「そんなもの意味はない。怖いものは怖いのだ」と言い張る人々が存在する。難しいものだ。

 

 

【雑感】シャレたお役所って無理なのかな?

一度で良いから見てみたい役所

私にとっては、名護市役所

 

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見てみたいですね。建物もユニークな外観ですが、この外観のユニークなところは「閉鎖的でない」という点。中途半端にあけっぴろげなところがたまりません。

実際に、テラスで職員と市民が会議をしたり、夏の夕方ともなれば会議室からテーブルを出してちょっとした宴会をするそうです。

 

「仕切りをなくす」

これはとても大切なことです。仕切りをなくせば話し合いも案外とスムーズにいったりします。食事をしながら、酒を酌み交わしながら話をしていると、いつの間にかおさまるところにおさまっていたりするのも、仕切りをなくしたからです。「ネクタイ外して胸襟を開いて」というやつです。

 

勝山市役所の1階に入ると、市の職員たちが大きな声で迎えてくれます。

「こんにちわ」

「おつかれさまでした」

昔に比べると、ものすごく明るい雰囲気になりました。

 

そこで、もうひとつ進んで、「仕切りをなくすとどうなるだろう?」

 

今の市民課はこんな感じです。

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雰囲気が伝わりにくいのは、私の画力の低さゆえです(苦笑)。まあ、だいたいどこのお役所もこんな感じでしょう。

 

必ず仕切りがあります。これが当たり前だと私も思っていましたが、この仕切りをなくすとどうなるのでしょう。

 

多分、市役所1階の市民課はこんな感じになるはずです。

 

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丸テーブルがあって、職員と市民が相談したりお話したりする。お茶のみながらでもいいと思いますよ。

 

「仕切り」のもつ意味

仕切りとは、「仕切りから向こうはお前たちの世界、仕切りからこっちは俺たちの世界」という一線を引く役割を果たします。

 

でも、「市役所でその仕切り線を引く必要がどこにあるのだろう?」そこを考えてみると、実はさほど必要性はありません。

 

「仕切り」を入れるのは、 おそらくスペース的な問題もあるのでしょう。職員のための机を置かねばなりませんから。

でも、よくよく考えてみれば、職員の机がそこになければならない必然性も見直したいわけです。

 

例えば、ホテルを考えてみましょう。

ホテルには、チェックイン等をするためのカウンターが必ずあります。あれもひとつの仕切りです。でも、ホテルのロビーに職員の机は置いてありません。スーパーマーケットの売り場にも職員の机は置いてありません。ホテルのロビーはお客様がくつろぐ場所であり、スーパーマーケットの売り場はお客様が買い物をする場だからです。

 

逆の視点から考えてみましょう。

ホテルを相手に仕事をしている会社の営業マンは、ホテルのロビーのカウンターには行きません。ホテルの事務所に直接行きます。スーパーマーケットに営業に行く人たちも、スーパーの事務所へ行くことでしょう。なぜなら彼らはお客様ではないからです。

 

ということは、市役所1階の市民課に職員の机がずらりと並んでいるということは「私たちが仕事をしている場所に、市民の皆さんに来てもらう」ということです。

 

私は市の職員を責めているわけではありません。職員の皆さんは献身的に業務に励んでいらっしゃる。

 

ただ、せっかくなら、訪れた市民の皆さんを「くつろがせる」発想に立ってもらえればと思うのです。

 

シャレたお役所は無理なのかな?

役所というと、「真面目で堅い仕事」というイメージがあります。真面目である必要はありますが、「堅くなければならない」必要はないと思っています。

 

これは市民の皆さんにもご理解いただきたい点なのですが、役所が「真面目で堅くなる」のは、ある種の防衛飯能も働いているのです。「そんな突拍子もないことをやって、市民からクレームが来たらどうするのか?」これは、役所の中でも最も強い殺し文句です。ある程度のことは大目に見てあげて欲しい。これが市民の皆さんへのお願いです。でないと、なかなか役所は変わりません。

ちなみに、もうひとつの殺し文句は「そんな突拍子もないことをやって、議会からクレームが来たらどうするのか?」なのですが、これについてはコメントは控えます(苦笑)。

 

そして、市役所の職員の皆さんには「シャレたお役所」を作って欲しいのですね。

 

それは何も「夏場にアロハを着ろ」とかそういうことを求めているのではありません。スターバックスが、家と職場以外のサードプレイスを作ろうとしたように、市役所がサードプレイスであるためには、どのようなサービスが求められるのだろうか。居心地の良い空間はどうあるべきなのか。相談しやすい雰囲気作りを作るためには?といったことを考えていただければと思う次第です。

 

そういう方向でレイアウトを進めていき、サービスを変えていくと、否が応でも「シャレたお役所」ができあがる。私はそう考えています。

 

そして、いつの日か、市民の方から「今日は天気もいいから、ちょっとテーブル出して役所の外でいっぱいやろうさ!」という声がかかる。そんな市役所になったら、面白いでしょうね。

 

(そうしたら、私は真っ先に市役所前で飲んだくれているでしょうww)

【雑感】主権者であることの意味を問いなおそう -集団的自衛権をめぐる騒動を見て-

安倍政権集団的自衛権に向けて大きな舵を切ったことが、国内外で様々な反響を及ぼしている。

 

4月28日号のTimeの表紙を飾った安倍首相だが、おそらく近日中にもう一度、この表紙を飾りそうだ。

 

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そもそも集団的自衛権とは何か。

集団的自衛権(right of collective self-defence)は、ある国家が武力攻撃を受けたときに、直接攻撃を受けていない第三国が協力して共同で防衛を行う権利である。要するに、攻撃を受けている他国を援助し、共同で武力攻撃に対応することだ。

 

国連憲章では第51条において、集団的自衛権の行使を固有の権利として明記した。

第51条】この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。

(Nothing in the present Charter shall impair the inherent right of individual or collective self-defence if an armed attack occurs against a Member of the United Nations, until the Security Council has taken measures necessary to maintain international peace and security.)

 

「安保ただ乗り」論

トーケル・パターソン(Torkel Patarson)は、ブッシュ政権下で国家安全保障会議アジア担当上級部長を勤めた人。鉄道関係に詳しい方ならば、JR東海からリニア技術を持ち出す人物といえばおわかりになるだろう。知日家だそうだ。マイケル・グリーンもそうだが、われわれは「知日家」というと「日本に親近感を持っている」と思いがちだが、知日家は日本人ではない。知日家は日本を知り抜くアメリカ人であり、プライオリティは自国の利益である。自国(つまりアメリカ)の利益を増大させるために「日本を知り抜いている僕の情報を使ってください」という人々が「知日家」なのだ。

 

その知日家のトータル・パターソンはかつて日米同盟はいずれ崩壊するだろうと述べたことがある。その理由は「平和を維持するための危険な作業はすべて他国におしつけている日本はおかしい」からだ。自衛隊は領土外の危険に対応できない。

 

アメリカ議会調査局というのは、なかなか面白い報告書を作成する。なにが面白いのかといえば、「アメリカの本音」がそのまま出ているからだ。

たとえば、最近も日米関係に関する報告書を出したが、このなかで安倍総理靖国神社参拝を批判している。その理由は「日韓関係の冷え込みはアメリカの国益を損ねるから」だ。逆に言えば、アメリカが日韓関係を修復させるほどの力を失ってしまったことを図らずも白状してしまったようなものだが。

このアメリカ議会調査局は、たびたびにわたって「日本の集団的自衛権行使の禁止は、日米同盟の障害になる」との見解を示してきた。

日本は同盟関係にありながら、アメリカばかりに血を流させるつもりなのではないか。都合の良い時だけ同盟を主張しておいて、自分たちはどのような貢献をするつもりなのか。それが全く見えてこないことへのいら立ちが伝わる。

 

 

日本の民主制度は何を基盤においているのか?

 もしもあなたがアメリカ人だったとする。あなたは「日本は本当に民主国家なのだろうか」と疑問を持つかもしれない。

集団的自衛権を認めることは、戦争ができるようになることだ」

「よって、集団的自衛権を認めると、日本は侵略戦争を始める」

と、当の日本人たちが主張しているのだから。

 

日本は民主制度を導入しているはずだ。日本では選挙という手続きによって選ばれた政治家が国政を運営しているはずだ。また、日本は法治国家のはずだ。文民統制は法によって定められているはずだ。

 

……にもかかわらず、日本人は自らを

「日本は危険な国だ」

「日本に集団的自衛権を認めると、日本は再び戦争を始める」

と言う。

 

こんな奇妙な国がどこにある?

日本は本当に民主的な国家なのか?

日本は本当に法治国家なのか?

 

もしもあなたがアメリカ人なら途方に暮れることだろう。

 

 

 

4月28日号のTimeの表紙を安倍総理が飾ったことは、冒頭紹介したとおりである。

そのヘッドラインには

"The Patriot"

Japan's most powerful leader in years, SHINZO ABE aims to reclaim his country's place on the world stage. That makses many Asians -including some Japanese- uncomfortable.

 

愛国者
近年で最もパワフルなリーダーである安倍晋三は、世界の舞台で日本の地位を再確立することを目指している。しかし、それは多くのアジア人をー日本人も含めてー不愉快にしている。

 とあった。

予想通り、「安倍晋三は右翼である」「歴史否定者である」とのレッテル貼りに勤しむ記事であったが、この記事はマイケル・クロウリーというワシントンの記者と、「コバヤシ チエ」なる東京駐在の記者との連盟記事であった。この「コバヤシ チエ」なる人物も、「日本は戦争を起こす危険な国だ」と主張する日本人なのだろう。

 

 

 どこまでも主体性がない。

なぜ 日本人は「日本は、集団的自衛権を認めると戦争を始める」などと言い出すのだろう。

 

その心性は次の言葉に的確に現れている。

集団的自衛権などを認めると、次は徴兵制度が待っている」

 

このような発言をする人々は徴兵制の本質を見誤っている。

 

共和政体とはrepublicであり、ラテン語の「Res Publica」を語源にしている。このラテン語の意味は「みんなのもの」。

政体がみんなのものであるから、みなでお金を出し合って維持しよう。これが税金の発想である。政体がみんなのものであるなら、それを守る責務もみんなのものである。だから徴兵制度が発生する。

西欧諸国の中には、現在でも徴兵制度を採る国が少なくない。上記の理由からである。

 

ルソーは『社会契約論』の中で、民主政体のリーダーを選ぶ方法として最も適しているのは、選挙ではなくてくじ引きであると主張している。これも同様の理屈だ。みんなのものであるならば、市民ひとりひとりは誰がリーダーになっても構わぬよう、日常から知識を備え研鑽に励まねばならぬということなのだろう。

 

政体はみんなのもの。だからみんなで守る。

共和政体であろうが、民主政体であろうが同じことだ。主権者は国民であることの権利とともに、この国を守るのはわれわれ主権者であるという意識が求められる。主権者である主体者として、この国の防衛を考え行動し、政治を監視する。その意識こそが必要だ。

(ただ、我が国において徴兵制は別の意味で導入する必要はないと考えるが)

 

 「集団的自衛権を認めれば日本は戦争をする」

この発言をする人は、結局のところ、「われわれはどこまで行っても主体者ではない」と白状しているに等しい。

 

みんなで守るはずの我が国の守りを自衛隊に押し付け、つい最近まで自衛隊を日陰者として礼遇してきた。

みんなで守るはずの我が国の守りを、沖縄の基地群に押し付けてきた。

みんなで守るはずの我が国の守りを、「汚れ仕事はアメリカさんに」とばかりに米国に押し付けてきた。そして、米国は戦争好きの国だ、ヤンキー・ゴホーム!とシュプレヒコール

 

そして、挙句に日本人でありながら「集団的自衛権を認めれば日本は戦争をする」と堂々と主張する。

彼らの論理は「国は悪い」からスタートする。国は悪い、政府は汚い。だから、国は国民のことなど考えない。国の代表者が選挙で選ばれようが、国は悪い。だから、戦争をするに違いない。

 

そんな発想はもうやめよう。

 

今こそ、議論すべきなのだ。

国防とは何のためにあるのか。日本人を守るための手段をどこまで我々自身が認めるのか。この国の主権者として。主体者として。 

 

【資料】平成24年度福井県立恐竜博物館の利用状況等 その2 リピート率他

福井県立恐竜博物館年報第13号より抜粋

 

アンケート調査による入館者の状況

 【来館回数】

     平成24年  平成23年  平成22年

はじめて     64.8%              64.3%             60.5%            

2回              15.4%               14.7%             14.8%

3回                5.9%               6.2%                 6.1%

4回                2.9%               3.0%                 2.5%

5回                2.5%               3.0%                 2.6%

6回以上        5.3%               4.6%                 4.6%

無回答          3.3%               4.1%                 8.4%

 

(松村)

恐竜博物館を2回以上訪れる人をリピーターと定義するならば、リピート率は平成24年で35.9%、平成23年で35.7%、平成22年で39.5%となる。おおむね、35%と考えて良い。3回目以降のリピーターの多さが特徴である。

 

 

都道府県別アンケート回答者状況】

 

       平成24年  平成23年  平成22年

北海道・東北       1.1%                1.3%              1.2%

関東                       7.5%                6.8%              6.5%

北信越                 24.8%              28.1%           29.8%

東海                     29.0%              26.4%           21.7%

近畿                     31.0%              30.7%           32.9%

中国                       1.5%                1.5%              1.5%

四国                       1.0%                0.9%              0.8%

九州・沖縄           1.4%                0.7%              0.4%

海外                       0.4%                0.4%              0.5%

無回答                   2.3%                3.2%              4.8%

 

(松村)

北信越、東海、近畿で入館者の9割弱を占める。注目すべきは、東海地方からの誘客が堅実な伸びを示している点である。これと対照的に北信越からの誘客が減少している。

この理由は、県内誘客の全体に占める割合を見ればわかる。

 平成22年 16.8%

 平成23年 14.6%

 平成24年 12.4%

つまり、福井県内から恐竜博物館に来る人々が全体に占める割合は減少傾向にある。これは、県内からの誘客は一定数で推移しているのに対して、県外客が増加するために、結果として割合として減少するからである。

 

(松村)

本アンケート調査は、通年で採られた。したがって、恐竜博物館の入館者の動態を正確に反映しているものと思われる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【資料】 平成24年度 福井県立恐竜博物館の利用状況等 その1

福井県立恐竜博物館年報 第13号(平成24年4月1日~平成25年3月31日)より抜粋。

 

 

平成24年度入館者数

 

【個人】

    一般   高大  小中    小計

4月  17436   442  5141   23019

5月  29098   767  8380   38245

6月  10428   302  1579   12309

7月  23453   563  7237   31253

8月  61299   2869 26349   90517

9月        19777           1446       4023            25246

10月      16550             440       3118            20108

11月      16079             491       2845            19415

12月        6885             268         711               7864  

1月          7346             241        1540              9127

2月          9955             574        1237            11766

3月        21990          1843         5717            29550

合計     240296        10246      67877          318419 

 

 

【団体】

 

    一般    高大   小中   合計

4月        1611                2007             801           4419

5月        3347                      5            2083           5435

6月        1883                   160             509           2552

7月        3004                   176           2420           5600

8月        6649                   557           4729         11935

9月        2075                   323           1265           3663 

10月      2569                     22           1508           4099

11月      1965                  389              454           2808

12月        575                     72                69             716

1月          536                       9              151             696

2月          847                      11             138             996

3月         1930                   452             807          3189

合計     26991                 4183        14934        46108

 

 

【無料】

 

   高齢   幼児    減免

4月     1338            5311             4465

5月     2160            8802             6804

6月    1243             2931             5954

7月      666             6878            10959

8月    1007           19422            11795

9月      872             5442             11317

10月  1794             5814             8841

11月  1601             4431             9383

12月    435             1875             2989

1月       310             2827            3242

2月       680             3265            4131

3月     1615             8106            7913

合計  13721          75114          87793

 

 

【月別入館者数】

4月     38552

5月     61446

6月     24989

7月     55356

8月   134676

9月     46540

10月   40656

11月   37638  

12月   13879

1月     16212

2月     20838

3月     50373

 合計 541155

 

 

【入館者に占める割合】

 

個人・一般  44.4%

個人・中大  1.9%

個人・小中  12.5%

団体・一般  5.0%

団体・高大  0.8%

団体・小中  2.8%

無料・高齢  2.5%

無料・幼児  13.9%

無料・減免  16.2%