【雑感】大飯原発運転差し止め判決の不可解さ
判決文の全文を読みたいものだとおもっていたところ、それが掲載されている。実に、インターネットの世の中というのは便利なものだ。ぜひ、これをご覧の皆さんもリンク先から一読されたい。
さて、原発再稼働に賛成か反対かという立場を抜きにして、この判決文を眺めてみたいのだが、「なんとなく雲をつかむような判決文だ」というのが第一印象。
というのも、裁判所の根拠としているのが「人格権」だからだ。
当たり前の話だが、裁判所は法律に基づいて判断を下す。法のないところに裁判所が判断を下すことはできないわけではないが、それにはそれでルールが求められる。裁判官は自己の良心に従うことは憲法が保障しているが、「裁判官が好きになんでも言うことができる」ことまで保障しているわけではない。
原発の運転を差し止めることは、原子炉等規制法(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律)において、原子力規制委員会がすると定められている。具体的には、第43条の3の23に規定があるので、リンク先からご覧いただきたい。
もう一度申し上げるが、原発の運転を差し止めることは原子力規制委員会の権限である。この構造をひっくり返すために、 ここで「人格権」が出てくる。ここがよくわからない。まずは判決文を見てみよう。
個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。
ひょっとしたら、これは「訴えの利益」、つまり原告適格の釈明をしているのだろうか?とも思わせる文章である。訴えの利益とは、「訴えることができる人(原告適格)は、その訴えによって利益を得る人たちである」との考え方に基づく。
そこで問題になるのは、上記の判決文が訴えの利益を説明するものであると同時に、判決文の理由そのものになってしまっていることだ。
①生存の危険は人格権の侵害である。
②だから、原告には訴えの利益がある。
という論旨と
①生存の危険は人格権の侵害である。
②だから大飯原発は停止する。
という論旨がダブってしまっている。そして、両方の論理に共通するのは
「原発は危険だから」
との前提だ。これでは「タメにする議論」と言われても仕方がない。
そして「原発は危険だから」という前提を説明すべく判決文は続く。
よくわからないのは、
「東日本大震災は4022ガルの規模だった。大飯原発の想定規模は1260ガルだが、基準値が低すぎるのではないか」
と裁判所は主張するのだが、東日本大震災で被害を受けた原因は津波である。そこを裁判所は意図的に無視しているかのようだ。
被告は、大飯原発の周辺の活断層の調査結果に基づき活断層の状況等を勘案した場合の地震学の理論上導かれるガル数の最大数値が700であり、そもそも、700ガルを超える地震が到来することはまず考えられないと主張する。しかし、この理論上の数値計算の正当性、正確性について論じるより、現に、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来しているという事実を重視すべきは当然である。
「理論上の数値計算の正当性、正確性などはどうでもいいのだ」と言わんばかりの判決文には驚く。
「現に、想定よりも大きな地震が10年の間に到来しているではないか」と言うのであれば、逆にその想定外の地震を原因として倒壊・メルトダウンに至った原発があるか否かを述べねばならないはず。
こういった判決文を見ていると、「正しく怖がる」ことの難しさを実感する。
積み重ねてきた技術的蓄積も、理論的見解も「そんなもの意味はない。怖いものは怖いのだ」と言い張る人々が存在する。難しいものだ。