月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

コロナ対策政策の素案  -勝山市内飲食店の売り上げを確保するー

 

概 要

新型コロナウィルスの流行に伴い、人々は不要不急の外出を控え、三密(密閉・密集・密接)を避ける等の行動をとるようになった。結果として、市内飲食店は極端な売上減に見舞われている。

個人の安全を確保し、一刻も早いコロナ禍を収束するためにも、外出を控えるべきである。同時に、経済的安定性を維持するためにも、市内飲食店の売り上げを確保することも急務である。

よって、政策として、テイクアウトメニューの宅配事業を行う。

市内飲食店が最低限の売り上げを確保するためには、おおよそ1世帯が週に3300円のテイクアウトを行えば良い。したがって、この数値を目標とする。

事業内容は3つに別れる。

ひとつは、メニューの作成である。
本事業に参加する意思のある飲食店経営者に声がけをする。各店1つの主たる商品を提示してもらい、勝山市が取りまとめる。その結果は「勝山市内飲食店メニュー一覧」として公開される。
このメニューは週1回更新される程度に変更していくのが望ましい


二つ目は、メニューの発信である。
発信は3つの方法により行われる。
 ①市広報
 ②SNS
 ③新聞折込チラシ
①の市広報は月1回発行の媒体であるため、キャンペーンそのものの告知に用いる。②のSNSと③の新聞折込チラシでメニュー表を周知する


三つ目は、宅配の流通経路確保である。
20人を臨時雇用し、宅配業務に当たらせる。20台の車が宅配で市内を同時に動き回るイメージである。この20台の車の効率的な運用のために、オンデマンド交通システムであるコンビニクルを活用する。これは元々、公共交通のために作成されたソフトで、各家庭と目的地を結びながら複数の車両を同時に効率的運用することを目的としている。


本事業の効果は、次の3点である。

ひとつは、市内飲食業の営業維持。

二つ目は、新型コロナの流行が沈静化した後の公共交通に与える影響である。この事業は荷物の宅配を主としているが、あくまでもコンビニクルシステムは公共交通を主たる目的としている。本事業で得られた知見が、コロナ沈静化の後に公共交通に与える影響は大きい。

三つ目は、新型コロナの流行が沈静化した後の消費行動に与える影響である。本事業で得られた知見やデータは、買い物難民問題を解消など社会の様々な問題に役立つことが予想される。

そして、何よりも勝山市が迅速な対応をすることで市民感情を鎮静化する効果がある。危機的状況に陥る中で、行政が手をこまねいていてはいたずらに市民感情を不安に陥れるだけだ。



本事業の課題は、次のとおり

ひとつは、インセンティブ(動機づけ)の問題である。
メニューを作り情報発信してだけでは売り上げにつながらない。なんらかのインセンティブが必要になる。このインセンティブは、行政と店側から出されるのが望ましい。
 行政が出すインセンティブの例としては、店舗スタンプラリーなどの分かりやすいものを作成して、スタンプラリーを完成させた人には景品(市内商品券)を出すなどが考えられる。
 店舗が出すインセンティブとしては、コロナ終息後の来店確保のためにも、店独自のクーポン券などが考えられる。


二つ目の課題は、予算の問題である。
コロナ流行に伴う社会不安がどこまで続くのか。これが見通せないうちは、予算額がどの程度のものになるのか見当もつかない。
しかし、「市の税金は市民のために用いる」のであれば、上限を1億円に切ってでも予算投入すべきと考える。





 

 

基本設定


〔モデル設定のための数値〕
 勝山市の人口:2万4000人
 世帯数 7600世帯(内、高齢者単身世帯880世帯)
 飲食店舗数:112店舗(⇒モデル設定のため、100店舗とする)

〔基本設定〕
勝山市内の飲食店の大多数が親族経営・小規模経営であることを鑑みて、1店舗が必要な粗利を1週間当たり15万円と設定する。

②売り上げにおける粗利率を、外食産業の平均的粗利率と同程度と考えて、65%とする。


基本設定から導き出される結論

1世帯あたり1週間に3300円程度の外食をすれば1店あたり粗利15万円/週を達成できる。

(理由)
1店当たりの粗利15万円×100(店)=1500万円
100店の必要売上額=1500(万円)×100/65=2308万円
2308(万円)÷7000(世帯)=3296(円)
 ※総世帯数から高齢者単身世帯を除外して、7000世帯で計算した



政策の背景

①新型コロナウィルス対策のため、不要不急の外出や店舗内での飲食を控える必要がある。このためテイクアウト(持ち帰り)が主となる。

②現在、市内飲食店はテイクアウト用のメニューを揃えつつある。

③また、テイクアウト用メニューはSNS等で公開されている。

❹しかし、そのメニューが周知されているとは言えない。

❺加えて、店舗から各家庭までの流通経路が確保されていない。





政策内容の骨子

1.市内飲食店を利用するキャンペーンの実施
 (1)目標設定 ⇒(例)「1週間に3300円を外食しよう」

 (2)各店のテイクアウトメニュー情報の発信
       ⇒①SNSでの発信
        ②新聞折込でメニュー一覧を全戸配布
         (週1回:必要予算額 30万円/週)

 

2.テイクアウト料理の流通を確保する
 (1)20人の臨時雇用し宅配業務を行う
   ⇒①宅配を夕方のみに限定した場合
      (1日3時間労働 必要予算額 80万円/週)
    ②宅配を昼食と夕食の2回行う場合
       (1日5時間労働 必要予算額 120万円/週)

 (2)オンデマンド交通システム「コンビニクル」の利用
   ⇒①コンビニクルのレンタル
       (必要予算額 月200万円(要相談))
    ②コンビニクルの設定および運用
       (必要予算 週30万円)

3.インセンティブを付与する
       











 

少し昔話をしましょう   -5年前の出来事と4年前の市長選挙についてー

 




少し、昔話をしましょう。

なぜ、昔話をする気になったのか。その理由は、長話にお付き合いいただければ、おわかりになろうかと思います。




「あるべき選挙」を追求した4年前の市長選挙

4年前のことです。

勝山市長選挙に立候補した私は、とある問題に直面していました。
その問題とは、現職であった山岸正裕氏にまつわる「不穏当な事実」を公開するか否かということ。

「不穏当な事実」とは、山岸正裕氏の自宅脇を流れる用水に関するものです。

「本来ならば、自費ですべきところを公共工事に潜り込ませてやったのではないか」「しかも、その事実を役所ぐるみで隠ぺいしていたのではないか」と、選挙の翌年には勝山市民から刑事告発まで受けた案件ですので、覚えていらっしゃる市民の方も多いことでしょう。

結果として、山岸正裕氏は非を認めて300万円を超えるお金を弁償したわけです。





実は、私は市長選挙に立候補する時点で、この情報は既に掴んでいました。情報を掴むどころか、契約書面や設計図面など必要な証拠書類は全て押さえていました。

したがって、いつでもそれをマスコミに公開することが可能でした。
(さすがに、「役所ぐるみで隠ぺいしていたのではないか?」との疑惑に対する証拠書類は持っていませんでしたが)


「この情報は市民に公開すべきだ」
「そうすれば、お前は絶対に勝てるんだぞ?」
と、私の極々近い人々は、強く迫りました。彼らの思いは痛いほど理解できましたし、ありがたかった。私に勝って欲しいからこそ、彼らは私に公表すべきと詰め寄ったのですから。

それは、私とて同じでした。
私は自分のかかげる政策を現実のものにしたい。そして勝山を再生したい。しかし、そのためには選挙に勝たねばならない‥‥選挙告示の1か月前に出馬するという無謀な挑戦をしていた私にとって、この問いかけには抗しがたい魅力がありました。

そして、散々悩んだあげくに、私は掴んだ情報を公開しないことを決めました。


選挙はそうであってはならないと思ったからです。

首長選挙は、ある意味で自治体の未来を決める選挙です。候補者は、己がイメージする勝山市の未来を掲げて、そこへ向かう政策を披露し、その優劣を競うべきです。したがって、互いに互いの悪口を言い合う場であってはならない‥‥第一、そんな選挙をしたのでは、最も惨めな思いをするのは有権者つまり勝山市民ではないか。そんな選挙はできない。

結果は、皆様ご存知の通りでして211票差という僅差で惜敗することになりました。

未だに言われます。
「あのとき、公表していれば、今頃お前は市長だったはずだ」

確かにそうかもしれません。そうでなかったかもしれません。それは誰にもわからないことです。

ただ、ひとつだけ言えることは、あの時の選択が間違っていたとは、今でも思っていません。やはり、選挙は‥‥特に首長選挙は‥‥政策で戦うべきなのです。





さざ波が立ち始める

さて、勝山市長選挙まで1年を切りました。面白いことに、とあるFacebookページに新規ビューが来るようになりました。

なるほど、来年の選挙に向けて情報収集が始まったか‥‥
4年前の市長選挙のように、今回も誹謗中傷とデマを飛ばしまくるのか‥‥

同時に「そんなに知りたければ、こちらから教えてあげるのに」と思いたち、今回、昔話をすることにしました。



もっとディープな話はいくらでもあるのですが、さすがにブログという公開の場ですることもできませんので、それは個人的にお話しすることにしましょう(笑)。冗談のような本当の話は、現実に起こりうるのです。こんな田舎で、そんなドロドロとした話が実際に起こるものなのか‥‥と皆さんが驚くこと請け合います。

ということで、今回は、5年前に私に降りかかった騒動についてお話ししましょう。




5年前に降ってわいた疑惑

昨年、勝山市議会議員選挙が行われました。

5年前にも市議会議員の選挙が行われましたが、8月執行の選挙を間近に控えた5年前の3月定例議会で、私にある疑惑が降ってかかりました。
「松村は、国の事業を活用して金銭を着服している」

最初、何を言っているのかと思いましたが、一部の議員が騒いでいるのを見て、これはただ事ではないと気づきました。


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さて、それでは問題視された事業とは何だったのでしょうか。








問題とされた7年前の事業

今を遡ること7年前のことです。この数年前から、私は広域観光の取り組みを独自に始めていました。
北陸新幹線金沢駅開通を数年後に控え、「これから金沢と勝山の交流が鍵になる」との想いがあったからです。

勝山の若手経営者たちと力を合わせ、数年がかりで細い人脈を少しずつ太くしていき、そして、ようやくひとつの事業が実現しました。

それが、金沢駅でのPR物販事業です。

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勝山市永平寺町坂井市あわら市の地元の産品を金沢駅内で販売しながら、福井県のPRをするというもので、夏休みの期間中行われました。

この事業には2つの困難がありました。

ひとつは、金沢の人々の「福井アレルギー」です。

金沢駅構内で物販・PRを始めた当日に、いきなり「福井の人間が、金沢駅で何をやってるんだ」と怒鳴られましたが、金沢の人はどういうわけか福井の人を一段下に見る傾向があるようです。その原因に、前田の殿様と松平の殿様の確執を挙げる人もいます。

私は、金沢における福井の露出が低いためだろうと考えていました。金沢を巡ってみても、そこに「福井」を感じさせるものは何もありません。福井への動線を全く感じさせません。要は、金沢の人にとって、福井県民は見知らぬ余所者でしかなかったのです。


もうひとつは、JRと商売をする難しさです。

単に「金沢駅構内で物販しました」と言っても、そこへ至るハードルはとてつもなく高いものでした。
誰しも人が集まるところで商売をしたい。ましてや金沢駅構内となれば、人の通りも北陸随一です。


折しも、北陸新幹線金沢駅開業を数年後に控え、福井県が県の総力をあげて金沢駅構内にアンテナショップを出店しようとしていた時期でした。

県の担当職員が金沢駅へ行ってみたら、そこでいきなり物販をやっている連中がいる。PRをしている。聞けば、勝山の市議会議員と勝山の若手経営者たちだ。一体全体、彼らはどうやって金沢駅へ入れたのだ?‥‥「いや~、あのときはびっくりしましたよ」と県の職員は後日、私に語りました。

県レベルなら入れるところも、民間レベルでは難しい。ましてや、金沢駅構内ともなれば、どこの馬の骨ともわからぬ連中が割り込めるものではありません。そこへ入るためには、ビジネス上の人脈が求められます。

私たちが数年がかりで太くしていった人脈は、ようやくそこへ辿り着くまでになったのです。

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何が問題視されたのか

さて、7年前に行った事業が問題視されたとき、
「松村は国の委託事業を利用して金を着服した」
と一部議員から言われました。

これは、そもそもあり得ない話です。

国の委託事業を受けたのは、紛れもない事実です。

ただし、私たちは1円も触れる立場にはありませんでした。「金銭を管理して、その支払いを厳格に行う団体を別に見つけてきなさい」というのが国の方針でしたので、JTBにお願いして、その団体に手を挙げてもらったのです。

確かに、事業を行ったのは私たちです。必要物を購入するにもお金は必要です。そのお金の支払いは、JTBが求めるやり方で入札を行い、支払いはJTBから行われました。

すると、こんな反論が出てきます。
「松村は、業者に仕事を投げてバックマージンを取っていたに違いない」

私はバックマージンを取ったこともなく、そもそもそういう発想を持たないので、そういう反論を聞いた時に「なるほど、そういう発想もあるのか」と逆に感心したくらいですが‥‥‥バックマージンを取ることはありえません。

バックマージンというのは、上の立場の者が下の立場の者に仕事をさせて、「仕事をやるから金を寄こせ」と強要することでしょう。

私たちは金沢での人脈を太くするために時間を費やしてきました。私たちは「仕事をしてください。お願いします」と言う立場なのです。

はっきり申し上げるならば、私たちが付き合っていた金沢の人々にとっては、この程度の仕事は雑工事に分類されるような「ちっぽけな仕事」です。
「それでも、新幹線が通った後には、必ずや金沢と福井との交流が始まるはずです」
「その手始めとして、お願いできませんか」
と、こちらからお願いし、やってもらった仕事でした。
その立場の私たちが「バックマージンよこせ」などと言えますか?


ちなみに、この事業を通して私は手弁当で動きました。
勝山の若手経営者からは「いくらなんでもタダ働きは」と言われましたが、「皆が儲けるために私は給料もらってるんだから、皆が儲ければいい。私はタダ働きで結構」と、言い続けました。

したがって、金沢まで日参した交通費から食費まで全て自前になりました。だからこそ、私は堂々と言えるのです。「自分でやりました」と。



そもそも、問題のある事業であるならば国の会計監査を通らないでしょう?

市議会の調査委員会が中部運輸管理局まで、出向いて行って大騒ぎになったそうです。実は、それ以外にも市議会調査委員会の的外れな調査は霞が関の、しかも、全く関係のないところまで波及を及ぼしたのです(知らぬは当の調査委員会の議員さんだけでした)。そんな騒ぎを引き起こしておいて、実際に問題があったのならば、国の会計監査は容赦なく首を取りに来ます。

当時、「本当に松村は金を着服したのか?」と警察も動いたと聞いております。しかし、すぐに動きを止めました。
「こんなもの、金を着服できるはずがない」

大山鳴動してネズミ一匹と言いますが、大騒ぎしておきながら、結果としてネズミの一匹も出てきませんでした。当たり前です。何もないところに火をつけただけなのですから。

単に、「新聞報道で『松村に何かあるぞ』と思わせればそれでいい」と思ったのかもしれません。

しかし‥‥彼らの思惑は、勝山市に強烈なダメージを与えることになったのです。





 

騒動の後に何が残ったか

「松村は金を着服したのではないか」
と騒いだ一部の議員たちに呼応して、議会内に特別委員会が立ち上がりました。

この特別委員会の調査は、私たちの想像を超えたことをし始めます。

調査と称して、金沢の民間企業のところまで行ってしまったのです。
なぜ、私と共に事業を行った勝山市内の若手経営者のところへ行かなかったのか。行って話を聞けば済むことだったのに。
共に事業をした市内若手経営者たちには、一切話を聞くこともせずに金沢の民間事業者へ行ってしまった。

私たちが何を目的として、数年がかりで人脈をつくっていったのか。
どのような将来像を描いて、あの事業を行ったのか。
私と共に汗を流した彼らに聞かずに、金沢の企業へ突撃をかけた結果、何が起きたのか。


「もう勝山とはおつきあいしません」


私たちが数年がかりでやってきたことが、水泡にきした瞬間でした。


必死で国の委託事業を取りに行きました。霞が関にも足を運びました。国の採択を受けた瞬間は、皆でガッツポーズしました。「これで金沢へ行ける」
「今はこんなちっぽけな出店だけれど、ここから始めよう」
「必ず、これは大きくなるはず。そうしたら、勝山の人たちを誘って、皆で儲けよう」
そう言い合いながら、なんとか乗り切った事業でした。
その努力を全て水の泡にしてくれた。



あれから5年が経ちます。

その間に北陸新幹線金沢駅開業がありました。しかし、金沢と福井‥‥いえ、もっと有体に言えば、金沢と勝山の関係は密になったでしょうか?

何も変わらない。

「勝山とおつきあいはしません」
全てはここで終わったのです。




泥仕合は市民に何ももたらさない



これがあの騒動の顛末です。

勝山にとって何ら益をもたらさなかった騒動でした。

「勝山とはおつきあいしません」
と言われたときの悔しさは今でも忘れません。

だからこそ、冒頭に戻って私は思うのです。
「選挙は、お互いに罵り合う場所ではない」

泥を互いに投げつけあって、市民は得をしないのです。なぜなら、泥を投げる行為は、相手が営々と成し遂げてきた行為を踏みにじるものだから。私たちが数年かけて太くしていったパイプを失ったように、敵とは言え、敵にも積み上げてきた「何か」はあるのです。

逆に言えば、何も為さなかった人間は相手に泥を投げるより他に手はないのかもしれませんね。



なぜこの騒動は始まったのか

ここまで読まれた方には、ひとつの疑念が残ることでしょう。
「そもそも、なぜゆえにこの騒動は起きたのか」


これを語るには‥‥ちょっと紙面が足りませんし、前述したように、表に出せないこともあります。

市役所内の闇は深い‥‥とだけ申し上げておきましょう。
皆さんが想像する以上に、闇は深いのです。

おそらく、今年は市役所の闇がひとつひとつ暴かれていく年になるでしょう。
全ての闇に光が照らされるには、やはりトップが変わらねばなりませんね。


「成績」とは何を表しているのだろう?  -教育改革プログラムの基本的な考え方②-

 

 



必ずといってよいほど、つまづくプログラム

子供たちは、毎日のように
 ①授業を受ける
 ②宿題をする
これを繰り返します。そして、この日々をこなした後に、
 ③テスト(中間テスト、期末テスト)
を受けて、学習の習熟度を「点数」で評価されます。

さて、このテストを受けて、55点をとった生徒のことを考えてみましょう。
おそらく彼(彼女)は、答案用紙を前にして頭を抱えることでしょう。
「やばい。また親に怒られる」

怒られることが問題なのではありません。

「この55点という点数を、どう評価するのか」
「この生徒は、何ができて、何ができていないのか」
「これを踏まえて、この生徒にどのようなフィードバックをするのか」
これらの点を明らかにしないまま、先生が次のように言うこと。
「よ~し、テストは直しておけよ」
「それじゃ、次の単元に進むからな~」
ここが真の問題点です。

55点という点数からも、この生徒の習熟度に問題があることは明白です。いわゆる「知識に穴があいている」状態です。

この生徒の隣に80点をとった生徒Aさんがいたとしましょう。
「Aちゃん、80点なんだ。いいなぁ~」
と、この生徒は羨むのかもしれません。

しかし、80点をとった生徒にも残り20点分の「知識の穴」は、あいているのです。
(テストが子供の実力を正確に反映すると仮定しての話ですが)

つまり、クラスのほぼ全員が「知識の穴」を抱えていると言ってもよいでしょう。
それにもかかわらず、その穴を埋める間もなく、先生たちは次の単元へと進みます。

なぜなら、進むペースが事前に決められているからです。

下記の《図1》は、平成21~23年度の2年生数学の配当時数表です。配当時数とは、「コマ数の目安」と考えていただければ結構です。
例えば、「1.式の計算」の「第1節:式の計算」には、おおむね6コマの時間を割り当てなさい‥‥との意味です。このペース配分に従えば、1年間ですべての単元が終了するスケジュールとなります。

このスケジュールをにらみながら、
連立方程式は‥‥ええっと‥‥13コマか。」
「それじゃ、この日までに終わらせないといけないな」
「すると、次の水曜日から1次関数にいけるぞ」
といった具合に先生たちは考えます。

《図1:旧:配当時数表》

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ここまでを振り返ってみましょう。
・「学習内容をどれだけ理解しているのか」をテストする。
・そのテストの内容から、「知識の穴」があることは明白である。
・しかし、スケジュールは決まっているので先へ進む

よくよく考えてみれば、これは実に奇妙な話です。



例えば、あなたが家を建てるときを想像してください。

設計図面もできあがり、あなたは完成した家を想像するとワクワクすることでしょう。

基礎を打つための業者の人たちがやってきました。さあ、いよいよ工事が始まります。
現場監督が言います。
「よし、これから基礎を打つぞ。工期は1週間だ」

1週間後に施工管理者が現場を訪れて、出来上がりをチェックします。
 「う~ん‥‥ここが水平になっていないな」
 「あっ、ここのコンクリートだけ材質が違うぞ」
と一通りチェックした後で、こう言います。
 「75点。まあ、成績をつけるならBってところか」
 「よし、それじゃ、次の工程に入ってくれ」

それを見ていたあなたは、慌てて施工管理者に問い詰めます。
 「ちょっと待ってください。75点では、ダメでしょう?」
 「ちゃんと基礎を打ってください。100点の品質にしてください」
あなたの切実な願いに管理者は平然と答えます。
 「次のスケジュールが決まっていますので」

こんな感じで、家の工事はどんどん進んでいきます。棟上げの組みあげは80点。壁は45点。床張りは60点‥‥あなたは絶望的な思いに駆られることでしょう。
 「なんてことだ。これではまともな家が建つはずがない」

このような建設現場はありません。なぜなら、こんな建て方をしたのでは、出来あがる建築物が欠陥住宅であることは、完成前に容易に予想できるからです。
ならば、なぜ私たちが学校現場で、このような建設方法を日々実践しているのでしょう。






もっとも重要視すべきは
 「生徒はその単元を理解したか」「理解していないか」
という二択です。家の基礎を打つ時に75点ならば、100点になるまで工事を続けて、次の工程に進むことです。いわば「理解していないのならば、理解するまで学びの機会を与える」ことのはずなのに、学校はこの発想に立ちません。

なぜ?

そうです。理由は前回の拙稿で述べたように、現在の学校システムは
 ・みんなが
 ・同じ内容を
 ・同じペースで
進めることを前提にしているからです。

ピアノのレッスンを比較すれば、その不可思議さがおわかりでしょう。
ピアノの初心者は、練習曲をひとつひとつクリアしていきます。その基準は、「その曲が弾けるか」「弾けないか」というものであり、「曲をやりはじめて1週間たったから」ではありません。

ピアノのレッスンには、「みんなが同じペースで学ぶ」といったしばりはありません。ですから、ひとつひとつの曲を完全に習得しながら、学習者は「この曲が弾けるようになった」との達成感を味わいつつ、一歩一歩着実に進んでいきます。

皆さんのお子さんに、初めて自転車に乗る練習をさせたときのことを思い出してください。「みんなと同じペースで、補助輪をとらないといけない」と考える親はいません。
柔道の練習をするときに、「受け身を完璧に身につけてはいないが、スケジュールが決まっているから、技の練習に進もう」と考える指導者もいません。

おおよそ何かを学ぶとき、人々は「その段階を完璧に身につけてから先へ進む」との発想に立ちます。それが普通です。
しかし、なぜか学校でのみ、それが許されないのです。


※くれぐれも申し上げますが、これは先生たちの責任ではありません。学校のあり方そのものの問題。つまりは制度の問題なのです。
(事実、先生方の中には、この問題をどうにかしたいと考えておられる方も数多くいらっしゃいます)




完全習得学習の可能性

学びの評価は「それを理解したか」「理解していないか」の二択しかありません。「理解した」とは、具体的には、子供たちが自信をもって「この単元は理解した!」と言える状態です。

学びとは、基準を設けて「合格/不合格」を判定するものではありません。
80点を基準として、80点とれば合格、OK!、79点は不合格、ダメ!というものではないのです。
(そもそも80点の生徒と79点の生徒の理解度を正確に計測できるほど、テストの精度は高くはありません。80キロの体重と79キロの体重には厳密な違いがあります。それは体重計の測定精度が高いからであって、テストにはそこまでの精度がないという意味です)


そして、「それを理解したか」「していないか」との二択で判断するのならば、「理解する」とは完全習得学習であるべきです。つまり、本当に理解したと言えるまで学習し、その「理解した内容」を踏まえて、さらに先の単元へと進むのです。


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ここで、ちょっと完全習得学習の概要を説明します。
(興味のない方は、下の「===」までお進みください。

完全習得学習とは、読んで字のとおり「学習者のほぼ全員が、学習内容を完全に習得するための学習理論」です。

ざっくり言いますと、この理論の下敷きには「キャロルの法則」との考え方があります。このキャロルの法則を、さらにざっくりと説明すると「わからない子供は、時間をかければわかるようになる」との、ある意味、当たり前の話に帰結します。
(本当は統計学的アプローチなのですが

このキャロルの法則をもとにして、ブルームが打ち立てたのが完全習得学習の理論です。ここでは、その細かな内容よりも、「子供たちが学習内容を完全にマスターする、この点を重視する方法」と理解いただければ結構でしょう。
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この完全習得学習については、1920年代にアメリカで導入事例があります(ウィネトカプラン)。この事例で目覚ましい成果を上げたにもかかわらず、完全習得学習は広がりをみせませんでした。

理由のひとつは、一斉学習になじまないからです。
 ・みんなが
 ・同じ内容を
 ・同じペースで学ぶ
という一斉学習で、完全習得学習を実施すると何が起きるでしょうか。逆に学力差が開くのです。

わからない子はわかる子の何倍もの学習時間を必要とします。Xという単元を理解するのに、A君は1時間ですんだがB君は4時間かかった。ところが、一斉学習を行う従来の学校ではカリキュラムはB君の理解にお構いなしに先へ進んでいきます。B君がXを理解し終えたときには、教室内の授業は次の単元Yへ進んでいます。単元Xを理解したB君が単元Yを理解するのに5時間かかる。B君が単元Yを理解し終える頃には、教室内の授業は単元Zへ進んでいる‥‥と、結果としてB君はカリキュラムのスピードからどんどん遅れていき、学力差が開いてしまうのです。

しかし、これは「一斉学習と完全習得学習」という両極端の方法を組み合わせるからこそ、起きる現象です。
「みんなが同じペースで学ぶ」という、一斉学習のしばりを抜いてしまえば、発想はシンプルなものになります。
「中学校3年間で習得すべき内容は、中学3年間で理解し終えれば良い」
「B君にはB君のペースがある。個々がそれぞれのペースで進めば良い」
「重要なことは、B君のペースに対して『どのような支援が行われるのか』という点だ」
との考え方に基づけば良いでしょう。



完全習得学習が広まらなかった、もう一つの理由は「教師の負担が大きすぎる」点です。

30人学級で、児童・生徒ひとりひとりの進度に合わせて対応していく。ちょっと考えてみれば、それが教師に荷重の負担を強いることは明らかです。

この問題には2つの解決方法があります。

ひとつは、ICT(情報通信技術)の活用です。
高度に発達したICTを活用することで、私たちは完全習得学習を実践できる状態にあります。ならば、これを利活用しない手はありません。
(個別具体的な話になるので、ここで詳細は控えますが、ICTにより完全習得学習は十分に可能です)

もうひとつの解決方法は、クラス内の友達に聞く方法です。
子供たちは、先生に質問するよりも友達に教えてもらう方を好みます。ならば、その単元をすでに終えている友達に、わからないところを教えてもらえばいいでしょう。
(教える子にとっても、新たな学びの機会になります)



さて、「わからないところを友達に教えてもらう」ことに対して、
 「それは、学力の差を引け目に感じてしまうのではないか」
 「学力差が、新たなスクールカーストを引き起こすのではないか」
といった疑念を呼び起こすかもしれません。

もしも、これをお読みの方の中で、そういった疑念が浮かんできた方がいらっしゃるならば、私はその方に申し上げたい。
 「そのマインドセットを変えてみませんか?」
 「あなたのマインドセットこそ、従来の『成績至上主義』そのものなのですから」




「成績」とは何を表しているのだろう?

「成績」とは、何を表しているのでしょうか。

もっと、端的に問うてみましょう。
 「成績A(5段階評価の5)をとることに、本当はどういう意味があるのでしょうか」

そして、保護者の皆さんに質問しましょう。
 「あなたは、お子さんの頑張りを何によって評価していますか」

もしも、あなたのお子さんが中学生や高校生ならば、質問を変えてみましょう。
 「中間テストの点数が戻ってきたときに、あなたはどこを見ますか」
少なからずの保護者は、こう答えるはずです。
 「学年順位が上がったか下がったかを見ます」

本来、成績とは「学びの内容を理解したか」をみる評価尺度です。その評価が、子供たちの序列化の尺度、つまり「私は集団の中で何番目に位置するのか」を見るためのものになっています。

保護者は学年順位が上がった我が子に「この調子、頑張れよ!」と励まし、学年順位が下がった子には「何をやっている。これではダメだ」と叱責することでしょう。

いったい、私たちは「成績」を通して、子供たちの何を評価しているのでしょうか。






序列化の尺度として成績を位置づける限り、「成績の良い子は出来る子」「成績の悪い子は出来ない子」とのカースト制度は存在し続けることでしょう。

そうではありません。私たちが目指す教室は、絶対にそうであってはいけません。

重要なことは、「良い点数をとったこと」ではなく、「君は何を学んだのか」との内容であり、「お前は間違っている」と否定的な評価を下すことではなく、「今の方法がダメならば、別な方法を試してみよう」と挑戦の機会を持たせ、意欲を向上させることです。
「点数が高い」ことが評価されるのではなく、「頑張り続けた結果、達成できた」ことが評価される環境なのです。

両者の違いを《図2》にまとめてみました

《図2:「成績」の持つ意味の違い》

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足の速い子と遅い子がいるように、同じ内容を学んでも理解度の速い子と遅い子がいます。教育改革プログラムでは、「理解が速いこと」はプラスの評価材料にはなりません。もちろん、マイナスの評価材料にもなりません。単に「この子は理解度が速いですね」という「事実」としか認識されません。

理解度の遅い子にとっても同様です。
理解度が遅いことは「事実」としてしか認識されません。それよりも重要なことは、 
「この生徒は、どこに引っかかっているのか」
をリアルタイムで観測し、その結果をフィードバックするシステムです。

ICTはこれを可能にします。
「A君は‥‥特に問題はなさそうだな」
「B君は‥‥おっと、〇〇でつまづいているようだ。よし、B君の〇〇にちょっと支援してみよう」
「C君は‥‥ああ、ここでひっかかっているな。それならA君に教えてもらうよう、A君に頼んでみようか」
といった具合で、教室内は進んでいきます。

ここで、A君がC君に対して
「なんだ、お前。まだこんなところやってるのか。しょうがないなぁ」
と嘲笑をすることは絶対に許されません。
「A君、それは違うぞ。君は足の速い子から『なんだ、お前。そんなタイムしか出せないのか。だらしないなぁ』と言われて、どう思う?」
「大切なことは、学び続けること。学ぶ楽しみを感じることであって、早くできることは、偉くもなんともない。」
このことを子供たちには繰り返し繰り返し教えなければなりません。

そのためには、まずは私たち大人のマインドを変えていかねばなりませんね。
「思い込みを捨ててください」
と私が繰り返しお願いしているのは、このためです。




(付記)保護者は、何を見て子供を評価するのか

教育改革プログラムでが、子供たちが今なにを学んでいるのか、何時間学習したのか、といった情報は、保護者にも開示されます。

プログラムでは、市内の生徒にはひとりひとりにIDが振られます。このIDを使って生徒たちは学習システムにログインします。
システムには教科内容をはじめとして、様々な情報があります。
「A君は、今、何を学んでいるのか」
「学習内容の理解は十分か?つまづいてはいないか?」
といった情報はリアルタイムで表示されることになるため、先生はその情報を見ながら、支援の方法を講じることができます。

さて、そういったログが蓄積されていくわけですが、それはそのまま、生徒個人の「学びの記録」とも言えます。

何度もつまづきながらも単元を理解した、昨日は〇時間家庭学習をした‥‥といった様々な情報は、保護者も見られるようにしようと考えています。

というのも、これまで保護者は我が子を評価しようにも評価する方法がありませんでした。部活が終わって帰って来れば、自分の部屋に引っ込んでしまい、勉強してるのかしていないのかもわからない。唯一、判断材料があるとすれば、それは中間テストや期末テストの成績くらいのもの。テストの順位が下がれば小言を吐くだけ‥‥そういった保護者は多いことでしょう。

これからは、保護者はお子様の日々の頑張りを評価してあげてください。
「今、何を学んでいるの?」
と声がけをしてあげてください。

そして、共に学んでほしいのです。
(この点については、追々詳細を説明することになるでしょう)

教室という「息苦しい」空間  -教育改革プログラムの基本的な考え方①-

 

教師による教師いじめ

神戸市立須磨小学校での「教師による教師いじめ」事件が世間をにぎわせています。

このニュースを目にしたときに、私のなかに
「学校の息苦しさは、子供だけじゃなく教師も感じているのか」
との想いがよぎりました。

同時に思い返したのは、さかなくんの書いた「いじめられている君へ」。
2006年12月2日の朝日新聞に掲載されたこの文章は、実に多くのことを私たちに教えてくれます。

以下、その全文を。



「いじめられている君へ」

 中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

 中学時代のイジメも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んだりしていても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。




教育はクリエイティブ(創造的)な現場である

「教育は、最もクリエイティブ(創造的)な職業のひとつだ」と私は考えています。考えてみてください。子供たちが持つ無限の未来、この手助けをするのが教育であるならば、これほどクリエイティブな職業もありません。

ところが、どうやら学校という空間は、この創造性‥‥教師のみならず子供の創造性をも‥‥押しつぶす傾向にある。私には、そう思えてなりません。

大人たちは、「子供の個性を大切にしろ」と言いながら、学校では「皆と同じようにしなさい」と子供に求めます。子供たちは千差万別です。子育てをされた方ならば、嫌というほどおわかりのことでしょうが、同じ両親を持つ兄弟・姉妹ですら性格も行動様式も異なります。

ところが、現在の学校は「学校という四角い箱」を作っておき、形も大きさも異なる子供にたいして「この箱に入りなさい」と求めた上で、子供にこう言うのです。
「あなたは、ちょっとこの部分が出っ張っているから、箱に合うように削りなさい」
「あなたは、箱の大きさよりも小さいから、体を大きくしてサイズにあわせなさい」

子供は無限の可能性があります。

「あなたは、ちょっとこの部分が出っ張っているわね」
「でも、それがあなたの個性。大切にしなさい」
「その個性を伸ばしていけば、あなたは〇〇な人間になれる」
「一緒に頑張りましょう」
と言える雰囲気にできないものでしょうか。




「学級」という奇妙な存在

目下のところ、私は政策立案のひとつとして「教育改革プログラム」の作成に取り組んでいます。その中で、私を悩ませたのは
「どのような方法によれば、学校は創造性を取り戻せるのだろうか」
「変り者でも普通に『息苦しさ』を感じない空間はできないものか」
との問題でした。

小難しく言うならば、
「互いに尊厳を大切にできるような空間の創出」
とでもなるでしょう。



この問題を解決する上で、どうしても避けて通れなかったものが「学級」の存在です。

誤解なきように、あらかじめ申し上げておきますが、私は「学級」を解体せよと主張しているのではありません。段階的にプログラムが進んでいき、将来的に「学級」がなくなる日が来るのかもしれません。しかし、現段階で生活集団としての学級」をいきなり廃止するつもりはありません。
(私たちは学校で社会実験をしているのではないのです。大切な子供の未来を材料にすることはできません)


まずは、「学級」の持つマイナス面を取り除こう。
私は、そう考えています。




考えてみれば、「学級」とは奇妙な存在です。

生まれた年が同じであるとの理由で構成された集団は、この「学級」しかありません。皆さんは人生の中で様々な集団に属してこられました。会社や地域コミュニティ、スポーツサークル等々。その中で、生まれた年だけで括られた集団があったでしょうか。

さかなくんが指摘したように、魚ですら水槽に押し込めるといじめを始めます。年齢が同じだからという理由で、同質性の強い部屋に入れられる‥‥そして、過剰なまでに「仲良くしなさい」「みんなと歩調を合わせなさい」と求められる。
(もちろん「仲良くしなさい」と言う大人は100%善意で言っているのです)

結果として、子供たちは空気を読んで行動することになります。教師の顔色や友達との位置関係などを見ながら、子供たちは動きます。私は、中学生たちに勉強を教えるかたわらで、子供たちの愚痴を聞き続け、「そこまで空気を読むのか」と驚かされました。
同時に、「そこまで空気を読まねばならない状況に置かれているのか」と不憫にも感じたのです。


問題は、「学級」の持つ「同質性」にあります。



その同質性を崩すためには、同質性の最大の特徴を壊さなければなりません。



同じ内容を同じペースで

これまた不思議なことですが、世の中がこれだけ進歩し、変化したにもかかわらず、学校で行われていることは、学制発布(明治5年!)以来、大きく変化していません。150年もの間、
 ・教室がある
 ・教室には先生がいる
 ・子供は椅子に座って先生の話を聞く
このスタイルで学校は運営されてきました。

要は、「みんなで同じ内容を、同じペースで」学ぶのです。

まずは、ここから崩していかなければならない。私はそう考えています。

「みんなちがって、みんないい」
そう言うのであれば、同じ内容を同じペースで学ぶ必要はありません。

結果、このプログラムを通して、子供たちは心の底から「学ぶ楽しさ」を感じることでしょう。

そして、
「今できなくとも構わない」
「プログラムに沿って、先生の支援も得ながら頑張っていこう」
とのマインドは、現在のものとは180度異なります。
「一度でも失敗したらおしまい」
「ペースに乗り遅れたら『落ちこぼれ』になる」
といった現在のマインドは、失敗を恐れる子をつくるばかりで「チャレンジしよう」との意欲を子供から奪うのですから。

(具体的プログラムについては、これは長くなりますので、後日、詳細をお伝えします)
(現に、子供は「学ぶ」ことを放棄しているように感じてなりません。このことは、別の機会に詳しく述べます)


加えて申すならば、このプログラムは教師の皆さんに「本当にあなた方が教えたいことを教えてください」との創造性を呼び掛けます。
(これも話すと長くなるので、別の機会に)



まずは、ここから始めたい。
私はそう考えています。

そのために、皆さんにひとつだけお願いがあります。
「思い込みを捨ててください」
私たちは、教育問題を語る際に「自分が受けた教育」と比較する癖があります。私が学生の頃は〇〇だった‥‥との記憶は、どうしても教育問題を語る際に人を縛り付けます。一度、その思い込みをきれいに捨て去って欲しいのです。

政策立案として作っている「教育改革プログラム」は、出来上がり次第、公開する予定です。そして、これを素材として、皆さんで議論をしたい。私はそう考えています。

子供たちの未来のために、私たちが何をプレゼントできるのか。
せっかくならば、「勝山でしかできない教育」を皆さんでつくりあげようではありませんか。




環境問題、勝山の道の駅、そしてボルガライス

お忙しい方へ「まとめ」

環境問題が難しいのは、自然環境がシステムだからです。システムに対しては「〇〇すれば××だよね」といった「設計思想」で臨むことができません。

同様に、社会システムも設計思想に馴染みません。

今朝の報道で、勝山市の道の駅隣接地を市が購入する方向であることが示されました。ホテルやレストラン、ファーストフードが入る予定だそうです。
別の紙面で、ボルガライスが県境や国境を越えて、様々な店でメニューに載るとの記事もありました。

前者は極めて設計思想的であり、後者は自然発生的です。

勝山市が踏まねばならないのは、市民と共に「本当に美味いもの」を育て、磨き、商品化するとのプロセスです。





環境問題はむずかしい

環境問題がにわかに脚光を浴びている。国連の気候変動サミットが開催されているためだが、今回のシンボル的存在は、やはりグレタ・トゥーンベリさんなのだろう。


【報ステ】「裏切るなら許さない」グレタさんの訴え(19/09/24)


環境問題を考えるときに、私は二つの点を強調したくなる。

ひとつは、私たちの持つ「後ろめたさ」だ。

私たちは、生活を工業製品や農業生産物に満たして生きている。
「あなた方は、自然を犠牲にしているのだ」
「環境破壊の上に、あなた方の生活は成り立っているのだ」
と言われると、「そのとおりですね」と答えるより他にない。

何しろ、私たちの周りのもので、自分自身で作ったものなどなにもない。「そんなことはありません。私は環境負荷をかけずに生活しています」などと回答できる人物は、ごくごく稀だろう。

その「後ろめたさ」に、つけこんでくる輩がいるのではないか?

つけこんでくる輩とは、俗に言う「環境利権」にむらがる連中であったり、自らを「環境的に正しいポジション」に置いて他者を責めてくる連中(例:過激なヴィーガン)であったりする。

我ながら情けないことだが、「ひねた大人」になってしまった私は、どうしても環境問題を「大々的に煽る人たち」を見ると、そういった連中が目に付くようになり、反射的に斜に構える癖がついてしまった。

中学生でもあるまいし、斜に構えることもなかろう?‥‥と、自責の念をもって我が身を振り返るのだが、こうなってしまったのも、環境問題を考えれば考えるほど、その難しさに途方に暮れるからだ。

それは、システムの難しさと言い換えても良い。
環境問題で強調したい二つ目の点である。





システムの難しさ

自然環境は、様々な要因が複雑に混じり合い、お互いに影響を及ぼしながら存続している。

これは、ひとつのシステムだ。

システムを考えるときの難しさを、極論で言えば、
「あなたがいてもいなくても、システムはまわる」
ことにある。

勝山の自然から、例えば、赤とんぼが消えたら何が起きるだろうか。
そんなことは誰にもわからない。
ひょっとしたら、とてつもない影響が出るのかもしれない。出ないのかもしれない。出ても、それは数十年後なのかもしれない。

よくニュースなどで「人類のせいで動植物100万種が絶滅した」と流れる。
https://www.bbc.com/japanese/48182496

だから人類にどのような影響があるのか。自然界のシステムはどの程度破壊されたのか。それは誰にもわからない。数年後に自然は崩壊するのかもしれないし、しないのかもしれない。

そこにシステムの面白さと怖さがある。






システムを単純に考えてはいけない

「システムを単純に考えてはいけない」
私は常々、そう肝に銘じている。

「単純に考える」とは、「〇〇をすれば、××が起きる」という設計主義だ。
大工さんを100人揃えて、そこに必要な資材を置いておけば、放っておいてもビルはできない。必ずそこには設計図があり、「これをすれば、必ずあれが起きるはずだ」との前提がある。

「自然は言う事を聞いてくれない」
こんな当たり前のことは、ちょっと百姓仕事をすれば誰でもわかる。自然の理屈を人の知識で逆転させようとしても、どこかに破綻が生じる。

システムを設計主義で考えてはいけない。
流れに沿ってやらなければ、どこかで破綻をきたす。

なぜ、こんな発想に立つにいたったのか。
もうひとつのシステムである「社会」を扱う部門、つまり「政治」に携わってきたからだ。

政治の難しさは、システムの難しさに通じるところがある。
「なぜ、政策どおりに人は動いてくれないのだろう」
「なぜ、予測した効果が生じないのだろう」

それは、社会というシステムを設計主義で考えているからだ。
流れに沿ってやらなければ、どこかで破綻をきたす。自然では「自然の理」があるように、社会には「人の哩」がある。その理を踏まえない政策は、どうやってもうまくはいかない。



道の駅側のホテルとボルガライス

今朝の福井新聞朝刊に、二つの記事が掲載されていた。

ひとつは、「勝山市が道の駅の隣接地を購入する」との記事。
ホテルや農家レストラン、ファーストフード、飲食店が来るそうだ。

もうひとつは、「越前市B級グルメ ボルガライス 海越え山越え」との記事だ。
越前市ボルガライスを提供する店が県外に広がっているとのこと。

実に対称的な記事だと感じた。
設計思想」と「自然発生的」との違いといってよい。




勝山市の道の駅の隣接地に、農家レストランを作る。ファーストフードが来る。それ自体は素晴らしいことだ。ここでビジネスをやって利益を上げてくれる市民がいるならば、素晴らしい。

しかし、そこに「人の哩」はあるのだろうか。
「人の哩」と言えば難しくなるが、単純に言えば「根源的な欲求」、すなわち「人は美味いものには金を出す」との当然の理屈に他ならない。

「あそこに人が来る」
「だったら、あそこに店を構えれば人が来るだろう」
「だから出店をする」
それは当然の発想だろう。私でもそう考える。

ただ、そこでちょっと考えて欲しいのだ。
「人通りのあるところに出店することは、入込客の可能性を増やす」
「しかし、利益を保証するものではない」
要は、繁華街に店を出しても「味がまずければ店は潰れる」といった、これまた当然の理屈がそこにある。

かたや、武生のボルガライス知名度をあげて、県外にまで出店者を持つようになった。これはPR戦略の上手さもさることながら、「うちのボルガライスは美味いですから、どうぞお食べください」「美味しいでしょ?だったら、お宅の店で出してみませんか?」と、美味い物には金を出すとの根本を突いたからだ。
(そして、この仕掛けには、あの有名な公務員がいる)






勝山市が、今、急務とされることは場所を造成することではない。
「本当に美味いもの」を育て、磨き上げ、そして市場に出すまでに大きくすることだ。
もう10年近く叫ばれ続けながら、なかなか形にならない‥‥「新商品開発」の単発イベントばかりが展開されてきたが、そろそろ本腰を入れてはいかがだろうか。




(付記)
「社会というシステム」を設計主義で考える人が陥る穴が二つある。

ひとつは、設計主義特有の「影響が他に及ばない」もしくは「予想しない悪影響を及ぼす」点だ。
沖縄で、ハブの被害に苦しんだ人々が天敵のマングースを導入したが、マングースはハブを食わなかった(影響が他に及ばない)。それどころかトカゲやヤンバルクイナを食い始め深刻な生態被害をもたらした(予想しない悪影響を及ぼす)。

今回の道の駅隣接のホテルやレストランの記事を見た市民は、「それでなに?」と思うだろう。「影響が他に及ばない」事例だ。

もちろん、効果が限定的であっても、それを主たる目的にする分には問題はない。「道の駅の隣接地のホテルとレストラン等を活性化させる」との点を主眼にするのであれば、その目的は達成されるだろう。

だが、その効果は限定的だ。少なくとも、「本当に美味いもの」を作ろうとする市民の運動が盛り上がることに比べれば。



設計主義者が陥る、もうひとつの落とし穴。
それは、設計主義者は、往々にして「初めに結論ありき」でやってくる点だ。「〇〇ならば××だ」との発想が前面に押し出されるならば、当然に、上から目線でやってくるだろう。

その弊害は色々なところで表面化している。



中学校再編の答申について考える

公表された学校再編案

7月26日に、勝山市立中学校再編検討委員会が答申を出しました。
その内容は報道などでご存じのとおり、
 ①3校ある現行の中学校を1校に再編する。
 ②1校に再編した新中学校は、県立勝山高校との併設が望ましい。
 ③新中学校と勝山高校は中高連携を進めるべきである。
 ④スクールバスの運行や、新しい中学像はこれから協議されたい。
との内容でした。



学校再編問題に正解は存在しない

当ブログでも再三申し上げているように、学校再編問題に正解は存在しません。
大規模校には大規模校のメリットとデメリットがあります。小規模校には小規模校なりのメリットとデメリットが存在します。
「学校を再編せよ」と主張する人は、小規模校のデメリットと大規模校のメリットだけを主張し、「現行を維持せよ」と主張する人は、小規模校のメリットと大規模校のデメリットだけを声高に叫ぶのみです。

そもそも、これでは議論になるはずがありません。



中途半端な答申

議論になるはずのない「再編vs現行維持」の争いですが、それでも論じる点は多々あるのです。

《図1》をご覧ください。これは、学校再編派も現行維持派も、根っこは同じ点にあることを示したものです。


《図1》再編派と現状維持派の論理構造

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1校に再編派と現状維持派とは、「行動内容」の次元では対立しています。しかし、スタートラインの「目標」の次元では「子供たちのために最も充実した教育環境はなにか」という視点を共有しているのです。


同じスタートを共有しているならば、《図2》のような思考と議論が発生しなければなりません。

《図2》互いの利点を活かした視点

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3校維持派には、「小規模校のメリットを活かした教育」との主張が根底にあります。そこから、更に「中規模校の利点を活かしながら3校を維持することは可能か」との議論がなされて然るべきでしょう。

もちろん、その逆も議論としてなされなければなりません。
「1校に再編するにあたって、小規模校の利点を活用した教育環境を整えることはできるのか?もしもできるならば、どのような手法によるのか?」
といった議論です。

しかし、答申のダイジェストを見る限り、このような議論がなされた形跡はありません。そもそもこのような議論をして一定の結論を導き出せたならば、必ずや、答申内容に記載されたはずです。
(実際に、この種の議論をした人ならばわかりますが、出した結論は目を見張るものになるはずでして、公表したくてたまらなくなるものです)


中途半端な答申と、私が述べるのはこの点にあります。
「なんとかして、1校再編に持ち込みたい」
との思惑がにじみ出過ぎていて、「子供のために」とのスタートラインの共有すらできなくなっています。


ならば、行政の思惑、すなわち、「なぜ学校再編をしなければならないのか」とのスタートラインはどこにあるのでしょうか。



「要は金だろ?金!」

「学校再編しなければいけない理由は、金がないからだろ?」
と私に言った方がいました。

その通りです。勝山市には、3校を維持するだけの体力がありません。

すると、次のようなことを主張する方が出てきます。
「観光に億の金を毎年突っ込むのに、教育に金をまわせないのか?」

それは政策判断と呼ばれる次元の話になります。政策判断とは、「どの分野に重点的に力を入れていくのか」といった方向性の話です。

現在の勝山市は、教育よりも観光に力を入れているのだ。そういうことです。




絶対に実現不可能な中高一貫校

ついでながら言わせてもらうならば、答申にもあったような中高一貫校
これは昨年の終わりから今年の初め辺りにかけて、議会筋から出てきたアイデアですが、はなはだ無理筋だと言わざるをえません。

福井県は、これまで実業系高校の再編を進め、次に普通科高校の再編に着手しようとしています。そうなれば、当然に、奥越地方で普通科高校は1つに再編されることでしょう。具体的には大野高校と勝山高校との合併です。
 「なんとかして勝山高校を残さなければならない」
 「それならば、勝山で中高一貫校をつくればいいんじゃないか?」
 「そうすれば、勝山高校は残る」
と安直に考えたのでしょう。

無理です。

第一、福井県の機嫌を損ねること甚だしい愚策でして、県の方から「どうだい?中高一貫にしないかい?」と声がけされたのならともかく、こちらから中高一貫を先走って出したら、まとまるものもまとまりません。

第二に、仮にここで勝山での中高一貫を認めてしまえば、各地区の行政は一斉にそれを求めることでしょう。
「勝山で認められたのなら、三国中学と三国高校中高一貫にしてくれ」
「勝山で認められたのなら、中央中学と鯖江高校を中高一貫にしてくれ」
おわかりでしょうか。そういった事態を回避するために、県は意地でも勝山の中高一貫を認めることが出来ないのです。

第三に、中高一貫を出したせいで、この再編計画はドツボに陥ることとなりました。
PTAは言いますよ?
中高一貫校が認められるならば、再編には賛成してあげよう」
「それで、福井県のOKは出たの?」
そして、福井県は言うでしょうね。
「地元のOKは出たの?」
「地元のOKが出たのならば、こちらも考えないこともないけどね」
中高一貫校をつくるためには、勝山市民と福井県が同時にGOを出さねばなりません。それは実現不可能なのです。

同時にGOを出すのが不可能となれば、勝山市が採る道はひとつしかありません。
勝山市民相手には無理矢理にでも押し通す」

‥‥暗鬱‥‥






教育行政に対する信頼を取り戻そう

もう半年以上も経ちますが、市内中学校で屋上から飛び降り自殺の未遂事件がありました。すんでのところで先生が飛びついて引きずり降ろしたため、幸いに未遂で終わりましたが、原因は複数の男子生徒によるいじめでした。
中学生たちは私に語りました。
「先生、なんにもわかってないよね」
「本当の悪い奴は見逃してるし」


執拗に女子生徒にセクハラをする男子生徒がいました。授業中に、先生の目を盗みながら隣に座っている女子生徒のスカートの中に手を入れて触り続けるという、それはもはや犯罪行為ではないのか?と言いたくなる行為ですが、声を上げようとすると「黙ってまえを向け」と脅す。恐怖のあまり、おとなしい女子生徒は声もあげられなかったそうです。長期にわたり、そのセクハラ行為は続けられました。
「おいおい、お前ら先生に言わなかったのかよ」
「黙ってるのなら、お前らも同罪だぞ」
と言った私に向かって
「何度言っても先生はまともにとりあげてくれなかった」


保健室登校をしている女の子がいます。
「教室に行けなくても、学校へ行くのは良いことだ」
「頑張ってるね」
と言う私にむかって
「先生たちは問題起こしてくれなければそれでいいの」
「勉強しなくても学校さえ来てくれればいいんだから」
「だから1日中トランプしてるだけ」
と投げやりに答えました。



話を膨らますわけでもなく、誇張でもなく、上記の話はすべて事実です。
私が直接見聞きしたものばかりであり、困ったことに、これらは氷山の一角なのです。


‥‥なにかがおかしい。


表面上、学校はうまくいっているように見えます。しかし、その皮を一枚めくったときに何が出てくるのか。私にも想像できません。

先生たちが悪意をもってやっているわけではありません。子供たちにも悪気はありません。ならば、なぜ上記のような事態が発生するのでしょうか。


‥‥なにかがおかしい、としか言いようがありません。しかし、解決するためには、真正面からそこに向き合うしかないのです。






今回の学校再編を行政がゴリ押しして進めるならば、勝山市民の教育行政に対する信頼は地に墜ちると考えています。
「行政は無理やり再編した」
教育委員会は、市民の言う事をなにも聞いてくれなかった」
との反発・鬱屈は、必ずや教育現場に方向性を変えて流れていきます。
「どうせ学校は隠すんだろ?」
「どうせ先生たちは教育委員会が怖くて黙るんだろ?」

またしても被害を喰らうのは現場です。

そうなってはいけません。
学校の再編問題よりも、我々がやらねばならぬことは明白です。まずは、問題と正面から向き合い、解決策に取り組むことです。



不登校になった中学生の保護者が、子息が中学校を卒業するときに私に言いました。
「やっとこれで地獄から解放される」
悲しい話です。夢と希望をもって入学したはずの子供たちが、なぜ地獄を味あわねばならないのか。誰も落ちたいと願ったわけでもなく、誰も落とそうと狙ったわけでもないのに。


まずは教育行政に対する信頼を回復しましょうよ。

再編問題なんて、その次でいいじゃありませんか。



選挙を前にして思うこと(2) -投票率について、ちょっと考えてみましょうー

若者よ、選挙へ行くな!

お笑いジャーナリストの、たかまつななさんが作成した動画が話題になっています。
その名も「若者よ、選挙に行くな」 
刺激的な動画です。


若者よ、選挙に行くな


ブラック感満載ですが、この動画の目的は、あくまでも若者の投票率向上にあるのでして、そこだけは強調しておきます。



ちなみに、この動画には元ネタがあります。

アメリカの2018年中間選挙を控えて、若者の投票率を向上させるために皮肉たっぷりの動画が作られました。

その名もズバリ
Dear young people,"Don't vote,"(若者よ、「投票しないで」)

若者の低投票率に悩むのは、アメリカも同様のようでして、次のような刺激的な煽り文句が続きます。

「若者よ、投票しないで」
「今のままで何も問題ないだろう?」
「トランプ?あれは私たちよ」
「富裕層への減税?最高じゃないか、私は富裕層だからね」
「気候変動?それって『あなたたちの問題』だよね。私は、もうすぐ死ぬし」
「学校での銃乱射は悲しい事件だけどね、私が学校に行ってたのは50年も昔の話よ」
「腹が立つでしょ?腹が立つから、インスタにあげたり、天気が良ければデモに参加するんでしょうね。この動画だってFacebookでシェアするんでしょ?」
「でも、あなたたちは投票しない」
「あなたたちは決して投票しない」
「でも、私は投票する」
「私も投票する」
「私もする」
「あなたたちは投票しないけれど、私たちは投票する。なぜって?私たちは行動する世代だから。めそめそ文句を言わずにうまくやってるのよ」


Dear Young People, Don't Vote: A Knock the Vote PSA



個人的な感想を述べるならば、趣旨は理解できるものの、こういうやり口は好みません。否、はっきり申し上げて嫌いです。
いたずらに世代間闘争を煽るだけのこと。対立を生むだけで、物事の解決にはなりませんから。




投票率0%の世界は、地上の楽園である。

話を進めるにあたり、お断りしておきます。

私は、民主主義を擁護するものであり、決して反・民主主義的思想ではありません。投票率が低いことは憂慮すべきであると考える者です。

なぜ、そんなことをいちいち述べるのか‥‥と申しますと、これから話す内容が少々キナ臭い内容なものでして、ここを誤解されると困るのです(苦笑)。



それでは、話を本筋に戻しましょう。


投票率が低いことは問題だ」とは、世の中の常識になっています。

そこで、ひとつの思考実験を行ってみましょう。

【問】「投票率が0%の社会」は、どのような社会でしょうか。

【答』ある意味で、地上の楽園です。

なにしろ、投票率0%とは「究極の政治的無関心」であり、究極の政治的無関心とは、東洋の政治思想が理想としてきた『鼓腹撃壌』の世界ですから。

鼓腹撃壌とは‥‥皆が満ち足りて、皆が幸せならば、政治なんてどうでもいいじゃないか‥‥という世界観であり、「政治はこの理想を目指して行うべし!」と数千年前から東洋で唱えられている政治思想です。

(くれぐれも申し上げますが、「だから投票率が低くても良い」と申し上げているわけではありません)

(それと、現実に「投票率0%」の世界が到来したら、それはもう‥‥革命前夜‥‥と呼ぶしかない状況なので、そもそも選挙なんてやってる状態ではありません)




投票率100%の世界は、この世の地獄である

逆に、思考実験として「投票率100%の世界」を考えてみましょう。

この世の地獄です。

もしも投票率100%の世界が実現するならば、単一の思想・宗教により固められた世界か、もしくは、全てが政治的文脈で判断される全体主義国家でしかありえませんから。

近い例で言えば、中国の文化大革命時代のような政治状況ならば、ひょっとすると投票率100%が実現されたかもしれません。

かの国の文化大革命は、もはや伝説にもなっている狂気の世界でした。
思想、文学、映画、音楽など、ありとあらゆるものが「政治的に正しいか否か」で判断される社会。
「ベートーベンは革命の思想に相応しくない」
などと糾弾される社会。
いきなり近所の人が三角帽子を被せられて「反革命分子」と引きずり回されるのを見て
「隣に住んでいる人から『反革命だ』とタレこまれたら全てを失う」
と思わされる社会。

そういった社会にのみ、投票率100%は実現されるのでしょう。



もっと「根っこ」から考えてみませんか?

なぜ、こんな無粋な思考実験をしているのか。

それは、「投票率の数字だけを追い求めるのはやめませんか?」と主張したいからです。

「学校へ行くのも行かないのも自由です」と言いながら、なぜ選挙だけは行かなければならないのでしょう。
「働くも働かないも自由です」と言いながら、なぜ選挙だけは「行け!」と言われるのでしょう。

学校へ行かないには理由があり、働かないにも理由がある。それならば、選挙に行かない理由を認めて、その上で、「それじゃ、その原因を一緒に解決しようよ」との対応策を講じる方が、私は素直に納得できます。




それじゃ、具体的に何をすればいいの?

そこでですね‥‥「それじゃ、具体的に何をすればいいの?」‥‥という話になるのですが、この点は、実はすごく刺激的かつ退屈で、しかも全方位に向けた議論をしなければならないという‥‥‥えらく、難しい話になってくるわけです。

なにしろ、話を突き詰めていくと
「そもそも、なぜ私たちは政治家を選ばなければならないの?」
「政治家って必要なの?」
みたいな話にまで深堀りできてしまう。

これは当然のことなのかもしれません。
国家という組織を作り上げる上で、「どうやって代表を選べばよいのか」という論点は国家づくりの原点ですから。

ただ、ひとつだけ言えることは、今、主たる問題になっているのは「どうせ、俺が1票入れても世の中変わらないよ」との意識だということ。




確かにあなたが投票しなくても世の中は変わらない。でもね‥‥

ちょいと、話が脱線しますが‥‥

「どうせ俺がしてもしなくても、世の中変わらないよ」
実は、この考え方、間違っているわけではありません。
(こんなことを言うから、多方面から怒られる)

こういう話をするとき、私は環境問題を例に出します。



例えば、メダカがこの世からなくなっても、おそらく世の中は大きな影響を受けないでしょう。それは個々の種が消えても、同様です。
(オオカミと人類だけは例外)

でもね‥‥システムというのは面白いものでして、「誰かがいなくなったことがシステムに与える影響」ってわからないんです。メダカが絶滅したから、何が起きるのか。それは誰にもわかりません。

何が起きるのかも分かりませんし、何が起きないのかも分かりません。ただ‥‥何かが起きた時に、初めて気づくのです。
「ひょっとして、あれが原因だったんだろうか?」

システムというか、「複雑系」というのは、そういうものです。

色々なプレイヤーがいて、複雑に影響を及ぼし合って、ひとつのシステムを作っている。
一つ欠けても問題ない、二つ欠けても問題ない‥‥でも、100欠けたら何が起きる?10000欠けたらどうなる?‥‥それは誰にもわからないし、想像もできない。それがシステムの面白さと恐ろしさです。

そして、自然が複雑系であるのと同様に、人間社会も複雑系なのです。
極端で不躾なことを言えば、私がいなくなっても、あなたがいなくなっても、世の中は普段通りに動きます。

でも、あなたが何かをすることで、確実に社会に影響を及ぼしているのは事実です。
私がいなくても、あなたがいなくても世の中は大して変わらないでしょうが、あなたが動くことで確実に社会に何らかの影響が及んでいることも事実なのです。

ただ、「何が変わったのか」は誰にも分りません。
誰にも分らないものは、あなたにも分かりません。

でも、何かが変わったことは間違いないのです。
変わったであろうことを信じて動きませんか?‥‥と。




地上戦と空中戦

でも、そんな精神論だけで物事は動きません。

ならば、「どうせ俺が投票しても、世の中変わらないよ」といった考え方に、どうやって寄り添えばよいのか。

これは、空中戦と地上戦の両方で立ち向かうことになるのでしょう。

「俺が動けば、周りが変わる」という実例を積み重ねていくこと。これが地上戦です。

何度も何度も申し上げていますが、これを政治に置き換えるなら「地方自治」です。
地方自治という言葉に手垢がつき過ぎているために、もう、何ていうか、胡散臭い香りがするのかもしれませんが、素直に考えれば、あなたが動けば世の中は変わるのです。

だって、考えてみてください。

あなたが行動を変えれば、ご家族は「あれ?」と思いませんか?
「お父さん、最近ちょっと変わったよね」
みたいなもので(笑)。
職場でも、あなたが行動を変えれば、周囲の人々は気づくはずです。
「課長、最近ちょっと変わったよね」
少なくとも、あなたが行動を変えれば、周囲の人々は変わります。

大体ですね‥‥人が考えていることなんて、そう大差ないんですよ。あなたがおかしいと思ってることは、皆がおかしいと思ってる。
「勝山が元気ないよな」
「今いる俺たちで、なにか楽しいことでもしないか?」
そう考えている人は大勢いるのです。

なぜ、わかるのか。

私が実際にその声を聞き続けているからです。戸別訪問を繰り返し、色々な人とお話をする中で、皆が同じ想いを抱いている。私はそう確信しています。

だったら、その声を拾い上げる受け皿をつくればいい。
それは政治の仕事です。

そういった流れの先に、手垢のついた「地方自治」は、真の姿を現し、その延長線上に「俺が動いたところで世の中変わらないよ」との想いは解消されるでしょう。

これが地上戦のストーリーです。




では、空中戦はなにか。

これはですね‥‥個人的な想いなのですが‥‥子育て世代に「子供の票」を与えたい。両親がいて子供が3人いる世帯を想定して、両親が2票を持つのは当然なのですが、18歳未満の子供3人の票を親が代理投票できる制度を「特区」として勝山で実現してみたい。

そのときに、勝山の子育て世代の投票率がどう変動するのか。それを見てみたいのです。
そして、政治家が子育て世代に向かってどのような政策をアピールするのか。それも見てみたい。

でもなぁ‥‥これ「特区」の中でも最難関の「憲法特区」になるから‥‥不可能に近いのかな。難しいだろうな。

 

選挙を前にして思うこと

 

国家百年の大計を示すことはできない

しばしばマスコミは言います。
「政治家は国家百年の大計を示すべし」

これはマスコミの不勉強というものでして、現在の日本の政治状況で国家百年の大計を示すことなど不可能に近いことなのです。

もっとも、実際にそれを宣言した政治家もいたのですが、マスコミによって軽く潰されました。「そんな抽象的なお題目はいらない」とばかりに。その具体例は後述しましょう。

「現在の我が国において、国家百年の大計を示すことはできない」
まずは、ここを正確に理解してもらわなければなりません。

それはなぜか?



政治が行政化しすぎたからです。

 

政治の理念と行政の理念は異なる

政治とは、本来、「善き社会とはどのような社会か」といった命題を取り扱う部門です。
 「公平な社会とはなにか」
 「正義が行われない社会はおかしいのではないか」
そういった論点を突き詰めて現実化していく作業が政治の世界です。

目の前に、理不尽な事象があるならば、なぜにこの人は理不尽な目に合わねばならないのか。その原因をとことんまで突きつめ、出てきた理念のもとに制度設計をする。それが政治の役割です。

これに対し、行政の理念とは「決められたことを正しく行う」ことです。

政治が作り出した理念と制度設計は、そのままでは絵にかいた餅に過ぎません。そこに魂を入れるのは行政の役割です。決められた内容をどれだけ正確に、公平に行うのか。ここが行政に求められる役割です。

「正しさとは何か」を追求していくのが政治ならば、「正しく行うこと」を追求していくのが行政と言えるでしょう。


ところが、現在社会は行政機構があまりにも大きくなり過ぎました。

行政化する政治



古老に伺うと、かつて道路などというものは住民たちが自分たちで造ったのです。用水もそう。地域住民たちは、自分たちの手で自分たちの生活を作り上げていったのです。

しかしながら、世の中が豊かになり行政機構が肥大化するにつれて、行政が取り扱う事務はどんどん生活に密着してきました。

道路、水道といった社会インフラや、教育、年金、国民健康保険、福祉関連給付。果ては公衆衛生、労働環境整備、産業振興、消防・防災など、私たちの生活の隅々にまで、行政の仕事は影響を及ぼしています。
(無論、それ自体は悪いことではありません)

それに引きずられるように、政治も行政化してきました。

それは、本来行政が扱うテーマであったものが政治化したともいえます。年金問題規制緩和、公務員給与問題、いずれも国会で取り上げられる政治的論点ですが、本来、これらは行政的なテーマと言えるものばかりです。


政治が行政化すると、起きる出来事

政治が行政化してくると何が起きるのか。
 ①本来の純政治的テーマが陳腐化される。
 ②政治が利害調整の場に陥る
という2つの事柄が発生します。

政治が行政化すると、純政治的テーマが陳腐化する。その典型例は、かつて安倍内閣が掲げた「美しい国」というテーマ。
これを聞いたときに、「なにそれ?」と感じた国民は多かったはずです。

この大目標や「戦後レジームからの脱却」という中目標が純政治的テーマと呼ぶべきものですが、行政化した政治状況においては、これら純政治的テーマは陳腐化してしまい、「だから何なの?」と言われるだけなのです。

現在では、SDGsもこれに含まれるでしょう。

国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」は、対象範囲の広さや規模の大きさではなく、むしろテーマが純政治的であるがゆえに、人々の心に響かないでしょう。
「なにそれ?」
「そんなの私の生活に関係ないし」
といった反応が返ってくるはずです。




加えて、政治が行政化していくと「政治が利害調整の場に陥る」という事態が発生します。

行政は身近な生活にまで踏み込み、政治も行政化していく。身近な生活にかかわる課題であれば、誰もがそれなりに利害に巻き込まれます。すると、結局、政治はこの利害調整に多大なエネルギーを奪い取られるのです。

かねて、日本では「外交と防衛は票にならない」と言われてきました。なぜならば、外交と防衛は「身近な生活の利害調整」とは何ら関係のない分野だからです。

話を戻しましょう。

行政化された政治の世界では、身近な生活の利害調整にエネルギーを吸い取られるあまりに「国家百年の大計」を描き出すことはできません。

利害調整に明け暮れて、それで格別困らない。そういう時代ならば構わないのです。高度経済成長のような右肩上がりの経済成長を為している時代ならば、政治が利害調整をし、「あそこに道路をつける」「ここにダムを建てる」とやっていれば問題も起きませんでした。

しかしながら、現在のように利害調整をしたくともできなくなった「厳しいゼロ・サムゲームの時代」‥‥決められたパイを配分すれば、誰かが損をする時代‥‥に、政治家はハタと困るのです。

今回の消費税にまつわる騒動を見ていて、私はそのことを強く感じました。

税金をどうするのか、社会保障をどう構築するのか。これは行政的テーマです。それを政治化してしまったために、議論がそこから一歩も進まなくなってしまった。
本来ならば、将来の日本社会の有り様をまず考えて、どのような社会を構築すべきなのか。その議論からスタートすべきであるはずなのに、消費税だけを議論しようとした。これでは議論のしようがないのです。

そして、「行政化してしまった政治」に慣れ親しんだ私たちは、その「根本の議論の仕方」すら忘れてしまったのです。


議論のやり方すら忘れた日本人



「根本の議論の仕方」とはなにか。

それは、
 「自分たちは何者か」
 「自分たちの強みは何か」
 「その強みをどう発揮していけばいいのか」
という議論に他なりません。

そのことを、私は塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』を読んで学びました。

この書の底には、「ローマ人は、自らの強みを理解して帝国を拡大し、自分たちの強みを忘れて滅んでいった」とのテーマがあります。
「私たちは組織で闘う民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
「私たちは多民族に対し広く門戸を開く民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
と自らを定義し、その原則に基づいて行動していく。これこそがローマ人の強みでした。

「情けは人のためならず」とのテーゼを日本人が掲げるのであれば、それが日本の国ぶりであり、強みになります。その強みを活かして諸国と接していけばいい。お人よしと言われようが構わない。日本人とはそういう国民なのだと堂々と言えばいい。

そういった議論こそが政治に期待される仕事の本義です。

「私たちが何者であるのか」
それを定義できないがゆえに、憲法の改正という、独立国ならば当然に行うことすら私たちは手をつけられずに放置したままです。



ちょっと話が脱線しました。
話を戻しましょう。



政治が行政化した時代に、私たちができること


「政治が行政化した時代」において私たちはどうすれば良いのか。

方法は3つあると私は考えています。

ひとつは、「政治が行政化してしまった」のならば行政自体を縮小ないしは分割すればよい。これは道州制の考え方です。


ひとつは、「政治が行政化してしまった」ことが、「現在の生活に密着した行政」を根拠とするのであれば、時間軸をずらしてしまうことです。つまり、「未来の大人たち」すなわち2世代後の人々を基準として政治・行政を組み立てることです。

皆さんたちの孫の世代にどのような社会を残すのかを考える。そこから逆算して、現在の制度設計を組み立てる。
これは、「遺書」を書く行為にも似ています。

人は遺書を書くときに、見栄も衒いも持ちません。死んだ後に見栄を張ったところでバカバカしい限りですから。孫たちにどのような生活を過ごして欲しいか。そのために、この国をどういう形で残したいのか。孫の世代の日本人にどうあって欲しいのか。それを考えることは極めて政治的行為です。

かつて、小沢一郎が新党を立ち上げたとき、「国民の生活が第一」というネーミングが実に小沢一郎らしいと感じました。

と申すのも、小沢一郎の頭の中には、現在の日本人の利害調整しか頭にない。時間軸をずらすどことか、現在に固定されています。
ゆえに小沢一郎にはグランドデザインは描けないのです。彼に残された道は、政局に全力を注ぐしかなかったはずで、事実、そのとおりになりました。


3つ目は、私たち自身が周りの生活を取り戻すことです。

現在の日本が落ちてしまった‥‥「行政化した政治」‥‥を200年も前に予言したのは、フランスの政治思想家A・トクヴィルでした。

彼は、その主著たる『アメリカのデモクラシー』において、行政という柔和な後見人に公共性を独占された社会‥‥‥(つまり今の日本のような社会ですね)‥‥‥このような社会に住む人々は、否応なしに「国民総無関心」の状態に陥ると警句し、そのような人々を「奴隷」と称しました。

そして、次のように言うのです。
自治の習慣を完全に放棄した人々が、彼らを指導すべき人物を正しく選ぶのに成功しうるとは考えにくい。そして、奴隷の国民の投票から、活動的で賢明な、自由を原理とする政府が生まれうるといっても、決して信じられないだろう」

私たちが自治を取り戻す、つまり、自分たちの周りのことを自分たちで考えて運営していく。このことが「行政化した政治」から本来の政治を取り戻す道なのです。

今月末には、勝山市で市議会議員選挙があります。
もちろん、選挙ひとつで世の中が変わるわけではありません。

それでも、皆さんに訴えたいのです。
勝山の将来を考え、自治の精神を持ち、1票を投じる。
ここから始めていきませんか?

市議会議員が政策・ビジョンを実現できる市政とは?

はじめに

「今月から始まる勝山市議会議員選挙で、政策やビジョンを掲げる候補者はいるのでしょうか」
との質問をいただきました。

実際に、「〇〇がしたいから立候補するのです」と仰る方もいますが、個々の立候補者の政策やビジョンについて論評することは差し控えましょう。

今回は、議員という職の持つ可能性と、それを活かすしくみについて、少々考えてみたいのです。



市議会議員は政策・ビジョンを実現できるのか?

市議会議員の主たる役割は、市政、特に行政のチェック機関だと言われます。
これに加え、これからの地方分権の時代には、議員にはプランナーとしての役割が求められます。政策を企画・立案する仕事です。



新規事業を立ち上げるために不可欠なものは、スタートアップの人材です。
企画し、必要な人材に声をかけて集め、関係諸団体を糾合して予算を獲得し、そして実現する。このスタートアップの人材に最も適しているのは、地方自治体の議員です。

まず、議員は、様々な情報や団体にアクセスすることが出来ます。

勝山市に問い合わせれば、よほどの個人情報でない限り、情報を取得することが出来ます。これは市政の現状分析をし、課題を浮き彫りにする作業に欠かせません。

政策を形にする際には、学術機関や民間企業、中央官庁との協議も求められますが、この際にも議員の立場は有利にはたらきます。

私の場合で申せば、新しい公共交通システムの構築に東京大学の知恵を借りることができたのも、京都大学福井大学と教育問題で関係を深めることが出来たのも議員としての立場を手掛かりにしたからでした。中央官庁へ行き、個別に突っ込んだ話ができたのも議員としての立場があったからです。


加えて、議員は、ある程度の社会的信用性を持っています。
この場合の「社会的信用性」とは、公共の福祉を実現するための職としての議員。これに対する社会的信用性と申し上げて良いでしょう。

再度、私の事例を出すならば、新交通システムの実現のために、区長連合会会長や民間事業者や福祉関係団体などにお声がけをし、研究会を立ち上げたのですが、これは議員という職業が持つ社会的信用性を基礎としていました。


加えて、議員は利害関係を持たないので中立を保つことが出来ます。
公共の問題を解決するために、民間事業者の参入を求めることは当然です。そして、参入した民間事業者が問題解決により利益を得ることは当然でしょう。ビジネスとして問題を解決する、市民は課題が解決される。それがWIN-WINの関係です。
だからこそ、そこに利害関係を持たない議員が必要とされます。「私は、皆さんをwin-winにするために報酬をいただいているのです」と中立を保つ存在が議員です。
(少なくとも、私はこれまで報酬外にいただいたことはありません)


そして、ここが重要な点ですが、議員には上司がいません。もちろん議会には議長がいますが、議会の統率をするのが議長の役割であり、議員個人の政治活動に干渉することはありません。
したがって、議員はスピーディーに動くことが可能なのです。


私たちがそこに気づかないだけで、本来、議員の果たすべき役割と可能性は、無尽蔵です。

個々の市議会議員が
 「俺は産業振興に興味がある」
 「私はまちなか活性化をやりたい」
 「私は教育問題に取り組む」
と、自らが動き始め、スタッフを集めて政策を練り上げ、賛同してくれる企業や団体を得て、様々な人々を巻き込み社会運動として盛り上げ、実現化する。
もしも、そんな勝山になったならば、市政は見違えるように活性化すると思いませんか?
もしも、そんな勝山になったならば、意欲溢れる人材が市議会議員選挙に立候補すると思いませんか?





市議会議員が政策・ビジョンを実現できる制度をつくる方法

議員の可能性が無尽蔵ならば、なぜ、その可能性に蓋が閉じられたままなのでしょう。

理由のひとつは、「そもそも、やり方がわからない」点にあります。
私の場合は試行錯誤を繰り返しながら政策化の方法を学んでいきましたが、この試行錯誤をする人は稀です。

(だから、おそらく他の議員さんたちは私が何をやっているのか、さっぱり理解できなかったことでしょう。もっとも。説明しなかった私にも非があるのかもしれませんが)



二つ目の理由は、「政策をつくったところで、市に採用されなければ意味がない」点があります。
当然ですが、議員が政策化しても勝山市が採用しなければ、その政策は実現化されません。いかに素晴らしい政策であっても、実現されなければ「絵にかいた餅」です。

ここは、ひとつ考えどころで、そういった「実現化されなかった政策をプールし、公開する場」をつくるべきでしょう。

議員が作った政策を勝山市のホームページで公開し、その政策の内容を広く公開すれば良いではありませんか。そうすれば、市民は「なぜあの政策を採用しないのか」と勝山市に問うことができます。

ただし、これは議員にとっても諸刃の剣です。政策を公開するからには、単なる思い付きのものでは市民の嘲笑を受けるだけ。結果として、練りに練った政策が公開されることでしょう。それは市政そのもののレベルアップをもたらします。


三つ目の理由は、「行政スタッフが首長の方しか向かない状況では、政策をつくれない」状況があるからです。

この状況を打破するためには、2つのものが必要です。

ひとつは、職員のマインドセットを変えること。

現状のマインドは、次のような図で表わすことができます。

《図1:現状のマインド》

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「行政職員は、市長を上司に仰ぎ、市民からの要望を聞いてそれを実現する」とのマインドです。

片や、向こうには市議会議員がいます。市議会議員も、選挙という民意で選ばれた存在であり、市民からの要望を聞く存在です。

しかし、行政職員が市長の方向を向く限り、市議会議員は「面倒くさい存在」でもあるのです。市長と議員が対立する状況下では、行政職員は市長の肩を持たざるを得ませんから。


このマインドは、次のように変えるべきでしょう。

《図2:あるべきマインド》

f:id:harukado0501:20190704125513j:plain


そもそも、市長も行政職員も市議会議員も、すべて公職であり、勝山市民に仕える公僕です。解決すべき問題をともに手を取り合って解決する立場なのです。


上記のようなマインドに変えた後に、もうひとつ変えなければならない問題があります。

それは、行政職員に時間的余裕と自由に動く機会を与えること。

実際に、行政職員の上司は市長です。これを揺るがせにすることはできません。

しかし、私が政策「行政2.0」で
 ①業務の徹底的な見直しによる、自由時間の確保
 ②業務時間内における、職員が自由に動くことのできる権限
を提言しました。

有体に言えば、「職員は、勤務時間内に一定の時間を使って『自分が勝山のために最も良い』と思うことをせよ」との内容です。

この自由な時間を、行政職員は議員と使うこともできるのです。

こんな事例を考えてみましょう。

意欲溢れる議員が、あるとき
「私は、教育問題を変えるために〇〇という政策をつくりたい」
と公表します。職員は、この政策に興味を持ち、議員と話し合った結果、実現すれば勝山の教育が劇的に良くなるだろうとの確信を持ちます。
「議員、私にも手伝わせてください」
と、この職員は勤務時間内の自由時間を用いて、議員とともに政策実現に向かうことでしょう。


行政職員も議員もない。
勝山の市民が良くなるためならば、皆で一緒にやればいいじゃないか。

このマインドセットの変革と仕組みの変化は、ある意味、首長の判断にかかっていると言えるでしょう。






【補 足】
なぜ、誰もが理解できる話なのに、「議員の可能性を伸ばす政策」が打てないのか。
勘のよろしい方は、既にお気づきでしょう。
その答えは、「政治家の本能に反するから」に他なりません。

組織のトップに立つ者が長期にわたる実権を握りたければ、「ナンバー2を叩け」との真理に従うことになります。自分を脅かす者、自分を貶める可能性のある者を叩き潰すことにより、トップは長期にわたって権力の座に留まることができます。

議員に伸び伸びと仕事をしてもらえば、市政は活性化するに違いない。
その程度のことは、政治の世界に身を置いたものならば、すぐに理解できます。
しかし、政治家の本能がそれを許しません。
伸び伸びと仕事をして実績を積み重ねていった議員は、かならず自分の敵に回るからです。
いわば、議員に伸び伸びと仕事をしてもらうことは、自らの敵を自らの手で作り出す作業に他なりません。

だから、どの自治体の首長も、この施策をとらないのです。

その結果、何が生じているのでしょうか。
政策立案能力を伸ばすことのできない議員。
上司の顔色だけを見続ける理事者。
活力を失っていく市民。

情けなくも残念なことです。


子供は教師に出会うのではない

 

学校での授業を動画で行うと、何が生じるのだろう

みなさんは、スクー(Schoo)をご存じだろうか。

大人の「学びの場」として、興味深い授業内容を動画で公開している(有料だが)。

schoo.jp


ふと、思った。
「学校での授業を、このような動画で行うと、何が生じるのだろうか」と。


誤解して欲しくないのだが、私は、学校で現在行われている授業が無価値だと言いたいのではない。事実、ほれぼれするような授業をする先生たちは数多く存在する。

しかし……逆説的な物言いになるのだが、ほれぼれするような授業をする先生たちがいるからこそ、動画での授業をする意義があるとも言える。
 先生たちは、教案を書き、教材を整え、授業へと臨む。その授業内容を高めるために、研究授業を行い、己の技能を高めていく。いわば、教師の授業スキルとは、職人芸だ。
 ならば、職人芸を磨き上げた教師の授業を受けられる児童・生徒と、そうではない教師の授業を受ける児童・生徒との格差をどのように埋めれば良いのだろうか。その意味では、職人芸を極めた教師の動画を見た方が良いことだってあるかもしれないのだ。



そして……根本的な疑問なのだが……そもそも、30人もの子供をひとつの教室に缶詰にして一斉授業を行う必要性があるのだろうか。生活集団として30人がひとつの教室にいることは納得できる。しかし、理解度が異なる子供たちに一斉授業をする意味を、我々はもう一度問い直す時期に来ているのではないだろうか。

新しい単元を学ぶ。その理解を確かなものにするために、問題演習などを行う。そこでの理解度が低いならば、さらに説明をし、演習を行い、理解度を高めていく。
学習のサイクルは突き詰めるとここに辿り着く。
 このサイクルは、個々の児童・生徒によりスピードが異なる。40分の授業内容を10分で理解する子もいれば、40分かけて理解する子もいる。中には、80分かけて理解する子もいるだろう。
 この子供たちを一斉授業で対応してきたのが、これまでの教育だった。それを否定するのではなく、「技術が長足の進歩を遂げた今だからこそ、できることがあるのではないか」との発想に立ち、根本に立ち返りたいのだ。



すべてを転換するなんて、そもそもあり得ない

前述のような話をすると、「教育の否定だ」と反発されかねないが……ちょっと待って欲しい。

そもそも、技術が進歩してもなくならないものは、なくならない。

メールやLineがこれだけ普及したにもかかわらず、手紙を書くという行為はなくならない。なぜなら、手紙を書くという温もりのある行為そのものに価値があるからだ。

車が登場し、飛行機が空を闊歩する時代になっても、なぜか馬車は存在する。むしろ、馬車という「ゆっくりと動く乗り物」に乗ることで、移動の醍醐味、景色を楽しむ愉悦といった「移動するという行動の持つ価値」を再確認できる。

ならば、新しい技術を取り込んで学校教育を再構築することで、我々は何を再確認するのだろうか。




子供たちは教師に出会うのではない

授業を動画にしようが、授業を100%インターネット化しようが、「教育は人が人に対して行うものだ」という本質は変わらない。

そして、子供たちは学校で教師ではなく、恩師に出会う。

誰しも、自らの学生時代を振り返った時に、忘れられない先生がいる。「苦しかったあの時に励ましてくれた」「何気ない一言に助けられた」「しょーもない先生だったけど、よくしてくれた」

その想いに共通するのは、「私を真正面から見てひとりの人間として扱ってくれた」との想いだろう。

教育に求められることは、ひとりひとりの子供を真正面から見る時間的余裕を教師に持たせることだ。卒業式を迎えた子供たちが、心の底から「先生、本当にありがとうございました」とお礼を言える環境を整えることであり、それは教師のみならず、子供にとっても最高の教育成果だと考える。

これだけ技術が進歩した現在、その教育環境を整える下地は十分に揃っている。

後は、我々がそれをするかしないか。
大人たちこそが、真剣に考えなければならない。