教室という「息苦しい」空間 -教育改革プログラムの基本的な考え方①-
■教師による教師いじめ
神戸市立須磨小学校での「教師による教師いじめ」事件が世間をにぎわせています。
このニュースを目にしたときに、私のなかに
「学校の息苦しさは、子供だけじゃなく教師も感じているのか」
との想いがよぎりました。
同時に思い返したのは、さかなくんの書いた「いじめられている君へ」。
2006年12月2日の朝日新聞に掲載されたこの文章は、実に多くのことを私たちに教えてくれます。
以下、その全文を。
■「いじめられている君へ」
中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。
でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。
広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じ込めると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。
中学時代のイジメも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。
ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んだりしていても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。
■教育はクリエイティブ(創造的)な現場である
「教育は、最もクリエイティブ(創造的)な職業のひとつだ」と私は考えています。考えてみてください。子供たちが持つ無限の未来、この手助けをするのが教育であるならば、これほどクリエイティブな職業もありません。
ところが、どうやら学校という空間は、この創造性‥‥教師のみならず子供の創造性をも‥‥押しつぶす傾向にある。私には、そう思えてなりません。
大人たちは、「子供の個性を大切にしろ」と言いながら、学校では「皆と同じようにしなさい」と子供に求めます。子供たちは千差万別です。子育てをされた方ならば、嫌というほどおわかりのことでしょうが、同じ両親を持つ兄弟・姉妹ですら性格も行動様式も異なります。
ところが、現在の学校は「学校という四角い箱」を作っておき、形も大きさも異なる子供にたいして「この箱に入りなさい」と求めた上で、子供にこう言うのです。
「あなたは、ちょっとこの部分が出っ張っているから、箱に合うように削りなさい」
「あなたは、箱の大きさよりも小さいから、体を大きくしてサイズにあわせなさい」
子供は無限の可能性があります。
「あなたは、ちょっとこの部分が出っ張っているわね」
「でも、それがあなたの個性。大切にしなさい」
「その個性を伸ばしていけば、あなたは〇〇な人間になれる」
「一緒に頑張りましょう」
と言える雰囲気にできないものでしょうか。
■「学級」という奇妙な存在
目下のところ、私は政策立案のひとつとして「教育改革プログラム」の作成に取り組んでいます。その中で、私を悩ませたのは
「どのような方法によれば、学校は創造性を取り戻せるのだろうか」
「変り者でも普通に『息苦しさ』を感じない空間はできないものか」
との問題でした。
小難しく言うならば、
「互いに尊厳を大切にできるような空間の創出」
とでもなるでしょう。
この問題を解決する上で、どうしても避けて通れなかったものが「学級」の存在です。
誤解なきように、あらかじめ申し上げておきますが、私は「学級」を解体せよと主張しているのではありません。段階的にプログラムが進んでいき、将来的に「学級」がなくなる日が来るのかもしれません。しかし、現段階で生活集団としての学級」をいきなり廃止するつもりはありません。
(私たちは学校で社会実験をしているのではないのです。大切な子供の未来を材料にすることはできません)
まずは、「学級」の持つマイナス面を取り除こう。
私は、そう考えています。
考えてみれば、「学級」とは奇妙な存在です。
生まれた年が同じであるとの理由で構成された集団は、この「学級」しかありません。皆さんは人生の中で様々な集団に属してこられました。会社や地域コミュニティ、スポーツサークル等々。その中で、生まれた年だけで括られた集団があったでしょうか。
さかなくんが指摘したように、魚ですら水槽に押し込めるといじめを始めます。年齢が同じだからという理由で、同質性の強い部屋に入れられる‥‥そして、過剰なまでに「仲良くしなさい」「みんなと歩調を合わせなさい」と求められる。
(もちろん「仲良くしなさい」と言う大人は100%善意で言っているのです)
結果として、子供たちは空気を読んで行動することになります。教師の顔色や友達との位置関係などを見ながら、子供たちは動きます。私は、中学生たちに勉強を教えるかたわらで、子供たちの愚痴を聞き続け、「そこまで空気を読むのか」と驚かされました。
同時に、「そこまで空気を読まねばならない状況に置かれているのか」と不憫にも感じたのです。
問題は、「学級」の持つ「同質性」にあります。
その同質性を崩すためには、同質性の最大の特徴を壊さなければなりません。
■同じ内容を同じペースで
これまた不思議なことですが、世の中がこれだけ進歩し、変化したにもかかわらず、学校で行われていることは、学制発布(明治5年!)以来、大きく変化していません。150年もの間、
・教室がある
・教室には先生がいる
・子供は椅子に座って先生の話を聞く
このスタイルで学校は運営されてきました。
要は、「みんなで同じ内容を、同じペースで」学ぶのです。
まずは、ここから崩していかなければならない。私はそう考えています。
「みんなちがって、みんないい」
そう言うのであれば、同じ内容を同じペースで学ぶ必要はありません。
結果、このプログラムを通して、子供たちは心の底から「学ぶ楽しさ」を感じることでしょう。
そして、
「今できなくとも構わない」
「プログラムに沿って、先生の支援も得ながら頑張っていこう」
とのマインドは、現在のものとは180度異なります。
「一度でも失敗したらおしまい」
「ペースに乗り遅れたら『落ちこぼれ』になる」
といった現在のマインドは、失敗を恐れる子をつくるばかりで「チャレンジしよう」との意欲を子供から奪うのですから。
(具体的プログラムについては、これは長くなりますので、後日、詳細をお伝えします)
(現に、子供は「学ぶ」ことを放棄しているように感じてなりません。このことは、別の機会に詳しく述べます)
加えて申すならば、このプログラムは教師の皆さんに「本当にあなた方が教えたいことを教えてください」との創造性を呼び掛けます。
(これも話すと長くなるので、別の機会に)
まずは、ここから始めたい。
私はそう考えています。
そのために、皆さんにひとつだけお願いがあります。
「思い込みを捨ててください」
私たちは、教育問題を語る際に「自分が受けた教育」と比較する癖があります。私が学生の頃は〇〇だった‥‥との記憶は、どうしても教育問題を語る際に人を縛り付けます。一度、その思い込みをきれいに捨て去って欲しいのです。
政策立案として作っている「教育改革プログラム」は、出来上がり次第、公開する予定です。そして、これを素材として、皆さんで議論をしたい。私はそう考えています。
子供たちの未来のために、私たちが何をプレゼントできるのか。
せっかくならば、「勝山でしかできない教育」を皆さんでつくりあげようではありませんか。