月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

「成績」とは何を表しているのだろう?  -教育改革プログラムの基本的な考え方②-

 

 



必ずといってよいほど、つまづくプログラム

子供たちは、毎日のように
 ①授業を受ける
 ②宿題をする
これを繰り返します。そして、この日々をこなした後に、
 ③テスト(中間テスト、期末テスト)
を受けて、学習の習熟度を「点数」で評価されます。

さて、このテストを受けて、55点をとった生徒のことを考えてみましょう。
おそらく彼(彼女)は、答案用紙を前にして頭を抱えることでしょう。
「やばい。また親に怒られる」

怒られることが問題なのではありません。

「この55点という点数を、どう評価するのか」
「この生徒は、何ができて、何ができていないのか」
「これを踏まえて、この生徒にどのようなフィードバックをするのか」
これらの点を明らかにしないまま、先生が次のように言うこと。
「よ~し、テストは直しておけよ」
「それじゃ、次の単元に進むからな~」
ここが真の問題点です。

55点という点数からも、この生徒の習熟度に問題があることは明白です。いわゆる「知識に穴があいている」状態です。

この生徒の隣に80点をとった生徒Aさんがいたとしましょう。
「Aちゃん、80点なんだ。いいなぁ~」
と、この生徒は羨むのかもしれません。

しかし、80点をとった生徒にも残り20点分の「知識の穴」は、あいているのです。
(テストが子供の実力を正確に反映すると仮定しての話ですが)

つまり、クラスのほぼ全員が「知識の穴」を抱えていると言ってもよいでしょう。
それにもかかわらず、その穴を埋める間もなく、先生たちは次の単元へと進みます。

なぜなら、進むペースが事前に決められているからです。

下記の《図1》は、平成21~23年度の2年生数学の配当時数表です。配当時数とは、「コマ数の目安」と考えていただければ結構です。
例えば、「1.式の計算」の「第1節:式の計算」には、おおむね6コマの時間を割り当てなさい‥‥との意味です。このペース配分に従えば、1年間ですべての単元が終了するスケジュールとなります。

このスケジュールをにらみながら、
連立方程式は‥‥ええっと‥‥13コマか。」
「それじゃ、この日までに終わらせないといけないな」
「すると、次の水曜日から1次関数にいけるぞ」
といった具合に先生たちは考えます。

《図1:旧:配当時数表》

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ここまでを振り返ってみましょう。
・「学習内容をどれだけ理解しているのか」をテストする。
・そのテストの内容から、「知識の穴」があることは明白である。
・しかし、スケジュールは決まっているので先へ進む

よくよく考えてみれば、これは実に奇妙な話です。



例えば、あなたが家を建てるときを想像してください。

設計図面もできあがり、あなたは完成した家を想像するとワクワクすることでしょう。

基礎を打つための業者の人たちがやってきました。さあ、いよいよ工事が始まります。
現場監督が言います。
「よし、これから基礎を打つぞ。工期は1週間だ」

1週間後に施工管理者が現場を訪れて、出来上がりをチェックします。
 「う~ん‥‥ここが水平になっていないな」
 「あっ、ここのコンクリートだけ材質が違うぞ」
と一通りチェックした後で、こう言います。
 「75点。まあ、成績をつけるならBってところか」
 「よし、それじゃ、次の工程に入ってくれ」

それを見ていたあなたは、慌てて施工管理者に問い詰めます。
 「ちょっと待ってください。75点では、ダメでしょう?」
 「ちゃんと基礎を打ってください。100点の品質にしてください」
あなたの切実な願いに管理者は平然と答えます。
 「次のスケジュールが決まっていますので」

こんな感じで、家の工事はどんどん進んでいきます。棟上げの組みあげは80点。壁は45点。床張りは60点‥‥あなたは絶望的な思いに駆られることでしょう。
 「なんてことだ。これではまともな家が建つはずがない」

このような建設現場はありません。なぜなら、こんな建て方をしたのでは、出来あがる建築物が欠陥住宅であることは、完成前に容易に予想できるからです。
ならば、なぜ私たちが学校現場で、このような建設方法を日々実践しているのでしょう。






もっとも重要視すべきは
 「生徒はその単元を理解したか」「理解していないか」
という二択です。家の基礎を打つ時に75点ならば、100点になるまで工事を続けて、次の工程に進むことです。いわば「理解していないのならば、理解するまで学びの機会を与える」ことのはずなのに、学校はこの発想に立ちません。

なぜ?

そうです。理由は前回の拙稿で述べたように、現在の学校システムは
 ・みんなが
 ・同じ内容を
 ・同じペースで
進めることを前提にしているからです。

ピアノのレッスンを比較すれば、その不可思議さがおわかりでしょう。
ピアノの初心者は、練習曲をひとつひとつクリアしていきます。その基準は、「その曲が弾けるか」「弾けないか」というものであり、「曲をやりはじめて1週間たったから」ではありません。

ピアノのレッスンには、「みんなが同じペースで学ぶ」といったしばりはありません。ですから、ひとつひとつの曲を完全に習得しながら、学習者は「この曲が弾けるようになった」との達成感を味わいつつ、一歩一歩着実に進んでいきます。

皆さんのお子さんに、初めて自転車に乗る練習をさせたときのことを思い出してください。「みんなと同じペースで、補助輪をとらないといけない」と考える親はいません。
柔道の練習をするときに、「受け身を完璧に身につけてはいないが、スケジュールが決まっているから、技の練習に進もう」と考える指導者もいません。

おおよそ何かを学ぶとき、人々は「その段階を完璧に身につけてから先へ進む」との発想に立ちます。それが普通です。
しかし、なぜか学校でのみ、それが許されないのです。


※くれぐれも申し上げますが、これは先生たちの責任ではありません。学校のあり方そのものの問題。つまりは制度の問題なのです。
(事実、先生方の中には、この問題をどうにかしたいと考えておられる方も数多くいらっしゃいます)




完全習得学習の可能性

学びの評価は「それを理解したか」「理解していないか」の二択しかありません。「理解した」とは、具体的には、子供たちが自信をもって「この単元は理解した!」と言える状態です。

学びとは、基準を設けて「合格/不合格」を判定するものではありません。
80点を基準として、80点とれば合格、OK!、79点は不合格、ダメ!というものではないのです。
(そもそも80点の生徒と79点の生徒の理解度を正確に計測できるほど、テストの精度は高くはありません。80キロの体重と79キロの体重には厳密な違いがあります。それは体重計の測定精度が高いからであって、テストにはそこまでの精度がないという意味です)


そして、「それを理解したか」「していないか」との二択で判断するのならば、「理解する」とは完全習得学習であるべきです。つまり、本当に理解したと言えるまで学習し、その「理解した内容」を踏まえて、さらに先の単元へと進むのです。


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ここで、ちょっと完全習得学習の概要を説明します。
(興味のない方は、下の「===」までお進みください。

完全習得学習とは、読んで字のとおり「学習者のほぼ全員が、学習内容を完全に習得するための学習理論」です。

ざっくり言いますと、この理論の下敷きには「キャロルの法則」との考え方があります。このキャロルの法則を、さらにざっくりと説明すると「わからない子供は、時間をかければわかるようになる」との、ある意味、当たり前の話に帰結します。
(本当は統計学的アプローチなのですが

このキャロルの法則をもとにして、ブルームが打ち立てたのが完全習得学習の理論です。ここでは、その細かな内容よりも、「子供たちが学習内容を完全にマスターする、この点を重視する方法」と理解いただければ結構でしょう。
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この完全習得学習については、1920年代にアメリカで導入事例があります(ウィネトカプラン)。この事例で目覚ましい成果を上げたにもかかわらず、完全習得学習は広がりをみせませんでした。

理由のひとつは、一斉学習になじまないからです。
 ・みんなが
 ・同じ内容を
 ・同じペースで学ぶ
という一斉学習で、完全習得学習を実施すると何が起きるでしょうか。逆に学力差が開くのです。

わからない子はわかる子の何倍もの学習時間を必要とします。Xという単元を理解するのに、A君は1時間ですんだがB君は4時間かかった。ところが、一斉学習を行う従来の学校ではカリキュラムはB君の理解にお構いなしに先へ進んでいきます。B君がXを理解し終えたときには、教室内の授業は次の単元Yへ進んでいます。単元Xを理解したB君が単元Yを理解するのに5時間かかる。B君が単元Yを理解し終える頃には、教室内の授業は単元Zへ進んでいる‥‥と、結果としてB君はカリキュラムのスピードからどんどん遅れていき、学力差が開いてしまうのです。

しかし、これは「一斉学習と完全習得学習」という両極端の方法を組み合わせるからこそ、起きる現象です。
「みんなが同じペースで学ぶ」という、一斉学習のしばりを抜いてしまえば、発想はシンプルなものになります。
「中学校3年間で習得すべき内容は、中学3年間で理解し終えれば良い」
「B君にはB君のペースがある。個々がそれぞれのペースで進めば良い」
「重要なことは、B君のペースに対して『どのような支援が行われるのか』という点だ」
との考え方に基づけば良いでしょう。



完全習得学習が広まらなかった、もう一つの理由は「教師の負担が大きすぎる」点です。

30人学級で、児童・生徒ひとりひとりの進度に合わせて対応していく。ちょっと考えてみれば、それが教師に荷重の負担を強いることは明らかです。

この問題には2つの解決方法があります。

ひとつは、ICT(情報通信技術)の活用です。
高度に発達したICTを活用することで、私たちは完全習得学習を実践できる状態にあります。ならば、これを利活用しない手はありません。
(個別具体的な話になるので、ここで詳細は控えますが、ICTにより完全習得学習は十分に可能です)

もうひとつの解決方法は、クラス内の友達に聞く方法です。
子供たちは、先生に質問するよりも友達に教えてもらう方を好みます。ならば、その単元をすでに終えている友達に、わからないところを教えてもらえばいいでしょう。
(教える子にとっても、新たな学びの機会になります)



さて、「わからないところを友達に教えてもらう」ことに対して、
 「それは、学力の差を引け目に感じてしまうのではないか」
 「学力差が、新たなスクールカーストを引き起こすのではないか」
といった疑念を呼び起こすかもしれません。

もしも、これをお読みの方の中で、そういった疑念が浮かんできた方がいらっしゃるならば、私はその方に申し上げたい。
 「そのマインドセットを変えてみませんか?」
 「あなたのマインドセットこそ、従来の『成績至上主義』そのものなのですから」




「成績」とは何を表しているのだろう?

「成績」とは、何を表しているのでしょうか。

もっと、端的に問うてみましょう。
 「成績A(5段階評価の5)をとることに、本当はどういう意味があるのでしょうか」

そして、保護者の皆さんに質問しましょう。
 「あなたは、お子さんの頑張りを何によって評価していますか」

もしも、あなたのお子さんが中学生や高校生ならば、質問を変えてみましょう。
 「中間テストの点数が戻ってきたときに、あなたはどこを見ますか」
少なからずの保護者は、こう答えるはずです。
 「学年順位が上がったか下がったかを見ます」

本来、成績とは「学びの内容を理解したか」をみる評価尺度です。その評価が、子供たちの序列化の尺度、つまり「私は集団の中で何番目に位置するのか」を見るためのものになっています。

保護者は学年順位が上がった我が子に「この調子、頑張れよ!」と励まし、学年順位が下がった子には「何をやっている。これではダメだ」と叱責することでしょう。

いったい、私たちは「成績」を通して、子供たちの何を評価しているのでしょうか。






序列化の尺度として成績を位置づける限り、「成績の良い子は出来る子」「成績の悪い子は出来ない子」とのカースト制度は存在し続けることでしょう。

そうではありません。私たちが目指す教室は、絶対にそうであってはいけません。

重要なことは、「良い点数をとったこと」ではなく、「君は何を学んだのか」との内容であり、「お前は間違っている」と否定的な評価を下すことではなく、「今の方法がダメならば、別な方法を試してみよう」と挑戦の機会を持たせ、意欲を向上させることです。
「点数が高い」ことが評価されるのではなく、「頑張り続けた結果、達成できた」ことが評価される環境なのです。

両者の違いを《図2》にまとめてみました

《図2:「成績」の持つ意味の違い》

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足の速い子と遅い子がいるように、同じ内容を学んでも理解度の速い子と遅い子がいます。教育改革プログラムでは、「理解が速いこと」はプラスの評価材料にはなりません。もちろん、マイナスの評価材料にもなりません。単に「この子は理解度が速いですね」という「事実」としか認識されません。

理解度の遅い子にとっても同様です。
理解度が遅いことは「事実」としてしか認識されません。それよりも重要なことは、 
「この生徒は、どこに引っかかっているのか」
をリアルタイムで観測し、その結果をフィードバックするシステムです。

ICTはこれを可能にします。
「A君は‥‥特に問題はなさそうだな」
「B君は‥‥おっと、〇〇でつまづいているようだ。よし、B君の〇〇にちょっと支援してみよう」
「C君は‥‥ああ、ここでひっかかっているな。それならA君に教えてもらうよう、A君に頼んでみようか」
といった具合で、教室内は進んでいきます。

ここで、A君がC君に対して
「なんだ、お前。まだこんなところやってるのか。しょうがないなぁ」
と嘲笑をすることは絶対に許されません。
「A君、それは違うぞ。君は足の速い子から『なんだ、お前。そんなタイムしか出せないのか。だらしないなぁ』と言われて、どう思う?」
「大切なことは、学び続けること。学ぶ楽しみを感じることであって、早くできることは、偉くもなんともない。」
このことを子供たちには繰り返し繰り返し教えなければなりません。

そのためには、まずは私たち大人のマインドを変えていかねばなりませんね。
「思い込みを捨ててください」
と私が繰り返しお願いしているのは、このためです。




(付記)保護者は、何を見て子供を評価するのか

教育改革プログラムでが、子供たちが今なにを学んでいるのか、何時間学習したのか、といった情報は、保護者にも開示されます。

プログラムでは、市内の生徒にはひとりひとりにIDが振られます。このIDを使って生徒たちは学習システムにログインします。
システムには教科内容をはじめとして、様々な情報があります。
「A君は、今、何を学んでいるのか」
「学習内容の理解は十分か?つまづいてはいないか?」
といった情報はリアルタイムで表示されることになるため、先生はその情報を見ながら、支援の方法を講じることができます。

さて、そういったログが蓄積されていくわけですが、それはそのまま、生徒個人の「学びの記録」とも言えます。

何度もつまづきながらも単元を理解した、昨日は〇時間家庭学習をした‥‥といった様々な情報は、保護者も見られるようにしようと考えています。

というのも、これまで保護者は我が子を評価しようにも評価する方法がありませんでした。部活が終わって帰って来れば、自分の部屋に引っ込んでしまい、勉強してるのかしていないのかもわからない。唯一、判断材料があるとすれば、それは中間テストや期末テストの成績くらいのもの。テストの順位が下がれば小言を吐くだけ‥‥そういった保護者は多いことでしょう。

これからは、保護者はお子様の日々の頑張りを評価してあげてください。
「今、何を学んでいるの?」
と声がけをしてあげてください。

そして、共に学んでほしいのです。
(この点については、追々詳細を説明することになるでしょう)