月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

選挙を前にして思うこと

 

国家百年の大計を示すことはできない

しばしばマスコミは言います。
「政治家は国家百年の大計を示すべし」

これはマスコミの不勉強というものでして、現在の日本の政治状況で国家百年の大計を示すことなど不可能に近いことなのです。

もっとも、実際にそれを宣言した政治家もいたのですが、マスコミによって軽く潰されました。「そんな抽象的なお題目はいらない」とばかりに。その具体例は後述しましょう。

「現在の我が国において、国家百年の大計を示すことはできない」
まずは、ここを正確に理解してもらわなければなりません。

それはなぜか?



政治が行政化しすぎたからです。

 

政治の理念と行政の理念は異なる

政治とは、本来、「善き社会とはどのような社会か」といった命題を取り扱う部門です。
 「公平な社会とはなにか」
 「正義が行われない社会はおかしいのではないか」
そういった論点を突き詰めて現実化していく作業が政治の世界です。

目の前に、理不尽な事象があるならば、なぜにこの人は理不尽な目に合わねばならないのか。その原因をとことんまで突きつめ、出てきた理念のもとに制度設計をする。それが政治の役割です。

これに対し、行政の理念とは「決められたことを正しく行う」ことです。

政治が作り出した理念と制度設計は、そのままでは絵にかいた餅に過ぎません。そこに魂を入れるのは行政の役割です。決められた内容をどれだけ正確に、公平に行うのか。ここが行政に求められる役割です。

「正しさとは何か」を追求していくのが政治ならば、「正しく行うこと」を追求していくのが行政と言えるでしょう。


ところが、現在社会は行政機構があまりにも大きくなり過ぎました。

行政化する政治



古老に伺うと、かつて道路などというものは住民たちが自分たちで造ったのです。用水もそう。地域住民たちは、自分たちの手で自分たちの生活を作り上げていったのです。

しかしながら、世の中が豊かになり行政機構が肥大化するにつれて、行政が取り扱う事務はどんどん生活に密着してきました。

道路、水道といった社会インフラや、教育、年金、国民健康保険、福祉関連給付。果ては公衆衛生、労働環境整備、産業振興、消防・防災など、私たちの生活の隅々にまで、行政の仕事は影響を及ぼしています。
(無論、それ自体は悪いことではありません)

それに引きずられるように、政治も行政化してきました。

それは、本来行政が扱うテーマであったものが政治化したともいえます。年金問題規制緩和、公務員給与問題、いずれも国会で取り上げられる政治的論点ですが、本来、これらは行政的なテーマと言えるものばかりです。


政治が行政化すると、起きる出来事

政治が行政化してくると何が起きるのか。
 ①本来の純政治的テーマが陳腐化される。
 ②政治が利害調整の場に陥る
という2つの事柄が発生します。

政治が行政化すると、純政治的テーマが陳腐化する。その典型例は、かつて安倍内閣が掲げた「美しい国」というテーマ。
これを聞いたときに、「なにそれ?」と感じた国民は多かったはずです。

この大目標や「戦後レジームからの脱却」という中目標が純政治的テーマと呼ぶべきものですが、行政化した政治状況においては、これら純政治的テーマは陳腐化してしまい、「だから何なの?」と言われるだけなのです。

現在では、SDGsもこれに含まれるでしょう。

国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」は、対象範囲の広さや規模の大きさではなく、むしろテーマが純政治的であるがゆえに、人々の心に響かないでしょう。
「なにそれ?」
「そんなの私の生活に関係ないし」
といった反応が返ってくるはずです。




加えて、政治が行政化していくと「政治が利害調整の場に陥る」という事態が発生します。

行政は身近な生活にまで踏み込み、政治も行政化していく。身近な生活にかかわる課題であれば、誰もがそれなりに利害に巻き込まれます。すると、結局、政治はこの利害調整に多大なエネルギーを奪い取られるのです。

かねて、日本では「外交と防衛は票にならない」と言われてきました。なぜならば、外交と防衛は「身近な生活の利害調整」とは何ら関係のない分野だからです。

話を戻しましょう。

行政化された政治の世界では、身近な生活の利害調整にエネルギーを吸い取られるあまりに「国家百年の大計」を描き出すことはできません。

利害調整に明け暮れて、それで格別困らない。そういう時代ならば構わないのです。高度経済成長のような右肩上がりの経済成長を為している時代ならば、政治が利害調整をし、「あそこに道路をつける」「ここにダムを建てる」とやっていれば問題も起きませんでした。

しかしながら、現在のように利害調整をしたくともできなくなった「厳しいゼロ・サムゲームの時代」‥‥決められたパイを配分すれば、誰かが損をする時代‥‥に、政治家はハタと困るのです。

今回の消費税にまつわる騒動を見ていて、私はそのことを強く感じました。

税金をどうするのか、社会保障をどう構築するのか。これは行政的テーマです。それを政治化してしまったために、議論がそこから一歩も進まなくなってしまった。
本来ならば、将来の日本社会の有り様をまず考えて、どのような社会を構築すべきなのか。その議論からスタートすべきであるはずなのに、消費税だけを議論しようとした。これでは議論のしようがないのです。

そして、「行政化してしまった政治」に慣れ親しんだ私たちは、その「根本の議論の仕方」すら忘れてしまったのです。


議論のやり方すら忘れた日本人



「根本の議論の仕方」とはなにか。

それは、
 「自分たちは何者か」
 「自分たちの強みは何か」
 「その強みをどう発揮していけばいいのか」
という議論に他なりません。

そのことを、私は塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』を読んで学びました。

この書の底には、「ローマ人は、自らの強みを理解して帝国を拡大し、自分たちの強みを忘れて滅んでいった」とのテーマがあります。
「私たちは組織で闘う民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
「私たちは多民族に対し広く門戸を開く民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
と自らを定義し、その原則に基づいて行動していく。これこそがローマ人の強みでした。

「情けは人のためならず」とのテーゼを日本人が掲げるのであれば、それが日本の国ぶりであり、強みになります。その強みを活かして諸国と接していけばいい。お人よしと言われようが構わない。日本人とはそういう国民なのだと堂々と言えばいい。

そういった議論こそが政治に期待される仕事の本義です。

「私たちが何者であるのか」
それを定義できないがゆえに、憲法の改正という、独立国ならば当然に行うことすら私たちは手をつけられずに放置したままです。



ちょっと話が脱線しました。
話を戻しましょう。



政治が行政化した時代に、私たちができること


「政治が行政化した時代」において私たちはどうすれば良いのか。

方法は3つあると私は考えています。

ひとつは、「政治が行政化してしまった」のならば行政自体を縮小ないしは分割すればよい。これは道州制の考え方です。


ひとつは、「政治が行政化してしまった」ことが、「現在の生活に密着した行政」を根拠とするのであれば、時間軸をずらしてしまうことです。つまり、「未来の大人たち」すなわち2世代後の人々を基準として政治・行政を組み立てることです。

皆さんたちの孫の世代にどのような社会を残すのかを考える。そこから逆算して、現在の制度設計を組み立てる。
これは、「遺書」を書く行為にも似ています。

人は遺書を書くときに、見栄も衒いも持ちません。死んだ後に見栄を張ったところでバカバカしい限りですから。孫たちにどのような生活を過ごして欲しいか。そのために、この国をどういう形で残したいのか。孫の世代の日本人にどうあって欲しいのか。それを考えることは極めて政治的行為です。

かつて、小沢一郎が新党を立ち上げたとき、「国民の生活が第一」というネーミングが実に小沢一郎らしいと感じました。

と申すのも、小沢一郎の頭の中には、現在の日本人の利害調整しか頭にない。時間軸をずらすどことか、現在に固定されています。
ゆえに小沢一郎にはグランドデザインは描けないのです。彼に残された道は、政局に全力を注ぐしかなかったはずで、事実、そのとおりになりました。


3つ目は、私たち自身が周りの生活を取り戻すことです。

現在の日本が落ちてしまった‥‥「行政化した政治」‥‥を200年も前に予言したのは、フランスの政治思想家A・トクヴィルでした。

彼は、その主著たる『アメリカのデモクラシー』において、行政という柔和な後見人に公共性を独占された社会‥‥‥(つまり今の日本のような社会ですね)‥‥‥このような社会に住む人々は、否応なしに「国民総無関心」の状態に陥ると警句し、そのような人々を「奴隷」と称しました。

そして、次のように言うのです。
自治の習慣を完全に放棄した人々が、彼らを指導すべき人物を正しく選ぶのに成功しうるとは考えにくい。そして、奴隷の国民の投票から、活動的で賢明な、自由を原理とする政府が生まれうるといっても、決して信じられないだろう」

私たちが自治を取り戻す、つまり、自分たちの周りのことを自分たちで考えて運営していく。このことが「行政化した政治」から本来の政治を取り戻す道なのです。

今月末には、勝山市で市議会議員選挙があります。
もちろん、選挙ひとつで世の中が変わるわけではありません。

それでも、皆さんに訴えたいのです。
勝山の将来を考え、自治の精神を持ち、1票を投じる。
ここから始めていきませんか?