【雑感】 自閉症の子供が感じる世界と私的言語
「Anti-Sim」というオンラインゲームがある。
2013年にカナダの医療フォーラムで公開されたものだが、これは自閉症の子供が感じる世界を体感できるものだ。
一括りで「自閉症」と表現するが、その症例は多岐にわたる。
この「Anti-Sim」は、その症状の中でも聴覚過敏症にフォーカスしている。
ゲームは下記のURLにて行うことができるので、体験されることをお勧めする。
http://gamejolt.com/games/strategy-sim/auti-sim/12761/
さて、体験された感想はどうだったろう。
自閉症の子供が「耳ふさぎ」をする意味がようやくわかった。
我々が無意識にやっている聞き分けができない世界とは、かくも騒々しく苦痛に満ちた世界だったのだ。
哲学者ヴィトゲンシュタインは「私的言語」という概念を提示した。
誰かが他の誰も理解できない言語を理解しているならば、これは私的言語と呼べる。ただし、これは「その言葉を話す人が、この世の中で独りしかいない」という意味ではない。それならば、絶滅寸前の言語を話す最後の一人は私的言語を話していることになる。かつて、アイヌ語の研究者であった金田一京助氏が「アイヌ語で喧嘩できる相手がいない」と寂しがったが、金田一京助氏にとってのアイヌ語は私的言語ではない。
私的言語であるとは、原理的にただ一人の人しか理解できない言語である。
確かに、「私は歯が痛い」と言うとき、歯の痛みを知るのは私だけである。どれほど痛いのか、それを知るのは私しかいない。しかし、「私は歯が痛い」と言うとき、周囲の人々はその意味を理解してくれる。今まで虫歯になったことのない人以外は。
私は男性であるが故に出産の苦しみを知らない。ただ、「激痛である」という「痛み」そのものを感じた経験はある。したがってそこから類推することができる。
(あくまでも類推するだけだが)
ただ、類推すら不可能な事態に陥ったとき、我々に残された途は「遠ざける」より他になくなる。ややもすると、我々は「自分たちに理解できないものを遠ざける」という傾向があるように感じる。
その一方で、「理解できないのならば、理解しようと努める」という方向も働く。理解できないからこそ、私は理解したいのだ!という人々がいる。だから、世の中はうまくいっているのかもしれない。
このオンラインゲームで、自閉症の子供たちの世界がすべて理解できるとは思えない。ただ、少なくともその手掛かりにはなる。
こういったソフトがこれからも数多く世に出ることを願って止まない。