【雑感】 集団的自衛権をめぐるヒステリックな対応に想うこと
我々は憲法を作ったことがない。
もちろん、日本には明治憲法が存在したし、現在は日本国憲法が存在する。だが、明治憲法は欽定憲法であり、日本国憲法はGHQが作った憲法だった。不思議なことに、我が国の憲法学では「日本国憲法は国民が作った」との妄説が生き延びているが、主権を奪われた占領国が自前で憲法をつくれると思う方がおかしい。
ともかく、我々は憲法を作ったことがない。
だから、憲法改正と言われると途端に困るのだ。何をどうして良いのか、どう決めれば良いのか。まったくわからない。憲法はいつも誰かが作ってくれた。誰かが与えてくれた。それを守ってさえいれば良かった。
今回の集団的自衛権に対するヒステリックな対応もそうだ。
我々は世界最強のアメリカの傘の下で守ってもらっていた。
拉致された自国民を指をくわえて見ているしかできなかった。
勝手に島を強奪しにくる野蛮人を手をこまねいて傍観していた。
要するに、自分で何かを決めたくなかったのだ。
拉致された自国民を助け出そうとすれば、否が応でも摩擦と軋轢が生じる。
島を強奪しにくる野蛮人に対してアクションを起こして「戦争になったらどうするのだ?」
だが、政治とは本来そういうものではないのか?
独立した国と国との交渉とはそういうものではないのか。
政治の決断に100%の正しさなどというものはない。その決断が正しかったか否かは、公正の評論家がしたり顔で言えば良い。ただ、その時代に生きている人たちは否応なしに何らかの決断を迫られる。
その決断をしたくなければ話は簡単だ。
誰かに決めてもらえばいい。自分で考えなくて良いから、これほど楽なことはない。
ただし、それを隷従と言う。
集団的自衛権を容認することは「戦争のできる国になること」だそうだ。
「戦争のできる国」と「戦争をする国」とは全く異なる。
この短絡的かつ飛躍的な論理を支えているのは「政府は信用ならない」との信念だろう。政府に任せておけば、必ずや戦争は起きるはずだ。なぜなら政府は信用ならざる存在だからだ。
民主的手続きで選ばれた政治家により構成される政府が信用できないのであれば、逆に問いたい。信用できる政府とはどのようなものか。
元々、「批判できる政府」こそが、彼らの望んでいる政府である。
かつて総評が強烈な影響力を及ぼしていた時代に、太田薫議長は「弱い政府をつくって、みんなで、これを批判している状態がもっとも望ましい」と発言した。
彼らは批判できればそれでいいのだ。ただし、彼らに「これからどうすれば良いのか、一緒に考えましょう」と言ってはいけない。なぜなら、彼らはそれを考える術もなければ、考えた経験もないから。
大熊信行の名前は言論界から抹殺された感がある。彼が黙殺された理由は、右派に対しても左派に対しても手厳しい論評を叩きつけたことにある。
大熊の主張を概略すると、次のようなものになるだろう。
占領下のアメリカは、日本に二本の杭を打ち込んでいった。ひとつは日本国憲法であり、ひとつは日米安保条約である。
左派は、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄にしがみついた。右派は「日本とアメリカは日米安保条約により対等である」との妄想の中で生きている。
どちらも、アメリカの作った箱庭の中でつまらぬ妄想に耽っているだけのことだ。
まさにその通りだ。
集団的自衛権の行使は、アメリカ隷従の日本にとって「アメリカとともに戦争をする」ことでしかない・・・との左派の主張は、右派の「アメリカと日本は対等の国家だ」という妄想を炙り出すものだ。そして、日本国憲法を改正しようという試みは、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄に手袋を叩きつける行為である。
もう、いい加減に箱庭から出ようではないか。
それは国際社会の荒波へ漕ぎだすことであり、その都度の選択に責任を負うことでもある。それでも、箱庭の中で安寧を貪るよりは、よほど良い。