【雑感】 PTAは強制加入団体であるべきなのか?
■PTA訴えられる
PTAは任意団体であるはずなのに、強制的に加入されられたのはおかしい!と熊本の団体が訴えた事案がニュースになっています。
子どもが通う小学校のPTAが任意団体であるにもかかわらず、強制加入させられたのは不当として、熊本市内の男性(57)がPTAを相手取り、会費など計約20万円の損害賠償を求める訴訟を熊本簡裁に起こした。男性が2日に会見して明らかにした。
訴状によると、2009年に2人の子どもが同市内の公立小学校に転校した際、PTAに同意書や契約書なしに強制加入させられ、会費を約1年半徴収されたと主張。これまでもPTA側と話し合ってきたが、平行線だったという。
「PTAは原則、入退会が自由な団体なのにもかかわらず、なんの説明も受けなかった」と指摘。12年に退会届を出したが、「会則の配布をもって入会の了承としている」などとして受理されなかったといい、「憲法21条の『結社の自由』の精神に反している。会則には入退会の自由を明記するべきだ」と訴えている。
PTAの「自由な入退会」をめぐっては、NPO法人が4年前、横浜市で開いたシンポジウムをきっかけに議論が広がった。札幌市や岡山市などの一部の小学校では、すでに周知が始まっている。(籏智広太)
(朝日新聞 7月3日)
■PTAは任意団体か?
PTAは任意団体か否かと言われれば、答えはただひとつ。「任意団体です」
例えば、PTAと類似の組織として例えられる自治会ですが、これについては最高裁が平成17年4月26日において、「自治会は、いわゆる強制加入団体ではなく、その規約において会員の退会を制限する規定を設けていないという事情の下においては、いつでも当該自治会に対する一方的意思表示により退会することができる」と示しました。
そもそも、昭和29年に文部省がPTA規約案を作成したときにも、わざわざ備考に「この参考規約は、未加入者に対して加入を強要するような意図は全く持っていない」と記し、加入強制性を持たせないように指示しています。
PTAは任意団体です。少なくとも私にとっては、そう考えざるを得ません。
したがって、仮に「PTAを脱会したい」と申し出た保護者がいらっしゃるのであれば、それを認めるのは当然ということになるでしょう。
■まちがった議論
私もPTA活動に身を置いていますが、確かに思うところは多々あります。なぜ、全国組織が必要なのだろうかといった組織上の問題や、本当にこの行事が必要なのだろうかという疑問もあります。
ただ、今回の裁判案件やこれまでの議論を眺めていると、議論の流れに違和感を感じることも事実です。
例えば、「入会なんて聞いてないー父親たちの語るPTA-」といった議論を見ていると、根本から抜けているものがあるのです。
それは、「子供の教育環境をどのように改善していくのか」という視点。
「入会の強制性はおかしい」
「勝手に役員にされた」
「嫌と言うと村八分にされる」
「学校がPTAに名簿を配るのは、個人情報保護違反だ」
ひとつひとつは、もっともなことです。ですが、その理屈をいくら積み重ねたところで、「ひかれ者の小唄」以上の感慨をもたらしません。大人の理屈と都合でしかないゆえに、さほどの説得力をもたないのです。
こういった議論を眺めている中で、唯一、私が面白いと思った論点は
「PTAが任意団体だということはわかった。そして、加入しない世帯があることも認めよう。ならば、加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?」
というもの。
そして、ここにこそPTAに加入してもらいたいという最大の理由があります。
■PTAが本当に必要な事案
加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?という問題。
例えば、PTAで子供向けの事業を実施するとしましょう。この事業に未加入世帯が参加することは、社会通念上、認められません。
この考え方を拡大していくと、妙なことが発生します。
PTAの社会奉仕作業等で整備されたグラウンドや校舎等を、未加入世帯の子供が使うことは許されるのでしょうか。セコい話ではありますが、先ほどの考え方を拡張していくと、こういった話にならざるを得ません。
無論、たとえばPTAに加入していようがしていまいが、「子供の環境整備を整える」事業については保護者の責任として参加するという形にしてしまえばいいだけのこと。この程度の次元の話ならば、これで解決できます。
ただ、この話を深掘りしていくと、思わぬ事態にまで話は進んでいきます。
思わぬ事態とは、「いじめ」に代表される諸問題が発生した場合を指します。
「いじめ」等、学校にて問題が発生した場合、これらを解決するためには、PTAの活動は不可欠だと私は考えています。「いじめ」等が発生した際に、子供も親も、時には先生すらが「独りぼっち」になるため、その調整と連絡に当たるのはもはやPTAしか残されていないからです。
子供や親を独りぼっちにしてはいけません。
こういった問題が発生したとき、親は頑なになります。有り体に言うならば「学校を信じられない」状態に陥ります。この状態に陥ると、学校がいくら誠意を尽くして説明しようとしても無駄です。心に殻をかぶせてしまった保護者は、頑として学校の言い分を認めません。
これは、学校が悪い、保護者が悪いという問題ではないのです。学校で起きた「いじめ問題」を、学校がいくら対応しようとしてもダメなのだ……という構造的な問題です。
ならば、警察が介入すればよいのか、行政を中心とする第三者機関が手を入れればよいのかというと、これも事態の根本的解決にはなりません。そこには「いじめられた子を第一に考えよう」「事件の渦中にある子供を何とかしよう」という発想が薄くなるからです。
子供がいじめられていると知った親は、憤慨するとともに、子供が一刻も早く学校生活に復帰して日常の営みを再開できることを期待します。
この「子供の日常生活の再開」を担保するのは、残念ながら学校の先生ではありません。市教委でもありません。「もうだいじょうぶですよ、Aちゃんが学校に戻ってもだいじょうぶ」と安心させることができるのは、同級生の保護者であり同級生の子供です。
ここでは、同級生の保護者どうしが集まり、情報を共有しながら対応していくなどの方法が重要になるのですが、その音頭を学校にとれと言っても学校は対応できないでしょう。また、いじめられた子、いじめた子以外の子供の保護者にそれをせよというのも、現実的に酷な話です。ならば、PTAがその役割を果たさなければなりません。
少なくとも、私は問題が発生した際にはそのように対応してきましたし(その対応が十分だったかはともかくとして)、これからもそのように対応していくつもりです。
さて、ここで本題に戻ります。
いじめが発生した事案において、その学年の保護者に集まってもらって話をする(私はこういうときはお父さんに集まってもらい、酒でも飲みながら話をするのですが)。
その際に、「あなたはPTAに非加入だから参加しないでください」と言うことは許されるでしょうか。
許されないはずです。
なぜなら、子供のことを考えてクラスを風通しの良い環境にしようとする際に、PTAに加入しているかしていないかなどはどうでも良い話だから。
つまり、子供の教育環境を第一に考えようとするときに、PTAに加入しているかしていないかという論点は意味をなさないのです。
■求められるPTA像
確かに「こんな事業が本当に必要なのだろうか」と思われる事業は、PTA活動の中にもあります。ただ、それら不要な事業があるからといって、PTAが不要だという意見は極論です。
先ほど述べたように、子供の教育環境を整える行為にPTA加入・非加入は本質的な問題ではありません。
「ならば、教育環境を整えるときにだけ保護者は出てきて、普段は別段、PTAに加入していなくても良いのではないか」
という主張が出てくることでしょう。
それでも良いと思うのです。ただし、いじめの事案のように保護者の連絡調整をする機関は必ず必要になります。名前をどう変えようと組織をどういじろうと、必ずそういった機関が求められます。実は、PTAという組織は必要なのです。
「それなら、学校単位でのPTAだけが存在すべきであり、県単位のPTAや全国レベルのPTA組織はいらないんじゃないか?」
その主張については、私も趣旨を十分に理解します。何のために県組織、全国組織が必要なのだろうか?と疑問に思うことも多々ありますから。
ただ、ひとつだけ言えることは、他の学校での取り組みを情報交換できる場は絶対に必要です。例えば、いじめがあった、不登校になる子供がいる。このような事案にどのように対応し、その効果はどうだったのか。そういった情報の共有は必ず必要になるでしょう。
むしろ、そういった情報の共有が図られていないのであれば、一刻も早くはかるべきです。
いずれにせよ、PTAとは本来的に子供たちのためにある組織です。親が願うのは、我が子が健やかに伸び伸びと育ってくれることであり、その環境整備のためにこそPTAは存在意義を持つのだ……という発想で、もう一度PTAを見つめ直す時期に来ているのかもしれません。