月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

【市政】恐竜博物館前駐車場の有料化について

先だっての読売新聞において、県立恐竜博物館前の駐車場の値上げ問題が報道されました。まずは、この読売新聞の記事をご覧いただきましょう。

 

来館者数の増加が続く県立恐竜博物館(勝山市)の駐車場の有料化を巡って、土地を所有する勝山市と施設を運営する県の意見が対立している。渋滞対策費に充てるために有料化を検討している市と、来館者の減少を心配して無料を続けたい県の妥協点を探る協議の終着点はまだ見えていない。(井上敬雄)

 同館は「恐竜エキスポふくい2000」に合わせて2000年7月に同市村岡町寺尾の長尾山総合公園に開館。駐車場を含む土地は市が県に提供し、県が同館を建設・運営している。

 02年度の入館者数は23万8076人だったが、全長15メートルのカマラサウルスの実物全身骨格化石など展示の充実やテレビ朝日系で13~14年に放送された「獣電戦隊キョウリュウジャー」などの影響で人気が沸騰。13年度は70万8329人と過去最高記録を更新し、今年度も70万人を超える勢いだ。

 しかし、大半の来館者が車で訪れる上、アクセス道路が1本しかないことから5月のゴールデンウィーク時や盆など夏休みの時期には渋滞が3キロ以上に及ぶこともあり、近くの住民から苦情もでている。

 年間40万人の来館を想定して計画を立てている市は今夏、駐車場を拡張して390台増の約1300台の車を収容できるように改修。近くのJAテラル越前勝山中支店に車を止めてもらいシャトルバスで運送する「パークアンドライド」も年間十数日実施している。

 さらに、市は国の補助も受けて来年度から5年計画でアクセス道路やトイレなど同館周辺の再整備を行う方針だが、松村誠一副市長が3月に市議会で「渋滞対策の経費が増大しており、駐車料金の徴収も研究課題の一つ」と答弁。別の市幹部も「数年後には有料化は避けて通れない」と話すなど再整備費用の一部を有料化でまかないたい考えだ。市議からも年間9000万円程度徴収できるとの意見も出ている。

 一方で、県ブランド営業課は「こちらが話す立場ではない」としながらも、「9割を占める車での来館者へ悪影響が出ないよう慎重に対応してもらいたい」と自家用車での来館者への影響が出る可能性を指摘し、無料を続けたい方針を堅持。同館のある研究員も「無料駐車場の維持は死活問題。来館者が勝山市の他の施設を訪れないことへの意趣返しもあるのでは」と話す。

 市と県は再整備について月1回程度協議しているが、着地点は見えていないのが現状だ。

 (読売新聞 10月12日)

 

 

経過について

まず、いくつかの事実を確認していきましょう。

 

県立恐竜博物館前の駐車場は、勝山市の所有であるため勝山市が管理しています。これは長尾山総合公園が勝山市の所有であるためです。

「なぜ県立恐竜博物館の駐車場が市営なの?」

これは恐竜博物館が建つ長尾山の整備計画に関係があります。元々の長尾山総合公園の整備計画では、公園内に総合体育館建設やグランド整備が予定されていました。巨額の工事費用のためこれらの建設は取りやめとなりましたが、結果として県立恐竜博物館のみが建つ形になります。つまり、本来の構想で言えば様々な建物のひとつとして県立恐竜博物館が存在していたのです。

 

したがって、県立恐竜博物館の建物及びその内部においては県が県費で運営し、それ以外の部分は勝山市が市費で負担するといったスタイルがこれまで取られてきました。博物館前の駐車場の整備、公園内の整備は勝山市が負担してきたのです。

他市町の議員からも「勝山市は県の補助もらってうまくやってるね」と言われるので事情を説明することがあるのですが、大概は「えっ!そうなの?」と驚かれます(苦笑)。

これまで勝山市は長尾山総合公園を営々と整備し続けました。もちろん、そこには国等の補助金もいただいておりますが、そういった補助を全て差し引くと約10億円の負担を勝山市が純粋に負担しています。2万5000人の自治体規模で考えるとこれは大きな支出と言えるでしょう。

 

「恐竜博物館に100万人の来館者数を!」との福井県の方針に基づき、県は様々な施策を講じ、結果として来館者数は増加しました。これ自体はとてもありがたいことなのですが、来館者数の増加に伴い、収容能力の点で2つの問題が徐々に露わになります。

ひとつは、県立恐竜博物館自体の収容能力の問題です。元々の設計が予定した人数をはるかに超える来館者を、県立恐竜博物館が収容できなくなっています。

もうひとつは、来館者数に駐車場の収容能力が対応できない点です。新たに駐車場を建設し、これで一息つけるとは考えていますが将来的な増加予想に対応するためには更なる駐車場の増設が必要になることでしょう。

 

駐車場の有料化の議論が始まる

このような流れの中で駐車場有料化の話題が市議会内でも上がるようになります。

 

議論の骨子は、

 ①恐竜博物館を訪れる人々の顧客満足度をあげなければならない。

 ②そのため駐車場整備を含む長尾山総合公園そのものの

  再整備の時期に差し掛かっている。

 ③そのための財源をどこに求めるのか。

 

この議論から駐車場有料化の話は進みます。ただし、ここで重要なことは我々も全ての駐車場を有料化せよと主張しているのではありません。恐竜博物館前の第一駐車場のみを有料化するにとどめ、それ以外の全ての駐車場は無料化のまま運営することを主張しています。

また、有料駐車場に駐車いただいた来館者に対しては出口で駐車料金を支払う際にオリジナル恐竜カード「ダイナソーカード」を配る等、顧客に対する負担感を減らす工夫を種々考えています。

 

 恐竜博物館前の駐車場のみを有料化した場合の勝山市が得られる収入は、試算では年間9500万円です。これを市の一般会計に組み込むことなく、特別会計を立ち上げて「長尾山で得た収入は長尾山の改善のために使う」予算とします。

 

 

ちなみに、冒頭の読売新聞の記事中では福井県は有料化に憂慮を示しています。駐車場の有料化によって入館者数が減るのではないかとの理由によるのですが、一昨年に県立恐竜博物館の入館料を一方的に値上げしたのは福井県でした。その結果として、入館者数は減少したでしょうか?現実には入館者数は増加し続けました。

 

当時の新聞記事を見てみましょう。 

 福井県は、県立恐竜博物館(勝山市)による大型恐竜の化石購入費用を回収するため、同館の入場料を値上げする。関係条例の改正案を12月定例議会に提出、可決されれば、化石の公開に合わせて来年3月から施行する。県ブランド営業課によると、公立博物館が貴重な資料収集のために先行投資し、入場料の増額分で回収する試みは全国的にも珍しい。
 購入したのは、ジュラ紀後期(約1億5000万年前)に生息した世界最大級の草食恐竜「カマラサウルス」の化石。同博物館は2009年度、展示内容を向上させるため、米国から全身骨格化石を2億7800万円で購入し、現在、発掘されたままの岩石から化石を取り出して、全身骨格の組み上げまでを一貫して行う「プロジェクト・カマラサウルス」を進めている。骨格組み上げの一部公開などを経て、3月23日から常設展示する予定だ。
 これに合わせ、大人の入場料を500円から700円に、年間パスポート料金を1500円から2000円に、団体料金(30人以上)を400円から600円に、それぞれ値上げする。小中学生、高校・大学生の料金は、教育施設という観点から据え置く。
 同博物館の年間入場者数は約50万人。これを年間60万人に伸ばすことにより、化石の購入費は約3年間で回収できる見込みだという。
 同課は「他の公立博物館では、財源確保が困難なため展示内容の更新ができず、結果として陳腐化してしまうという課題があった。回収後は、魅力向上のための新たな投資に充てたい」と話している。

時事通信 2012年12月7日)

 

「入館料の値上げは、駐車場料金の有料化とは次元が異なる」
「カマラサウルスの購入というコンテンツの魅力を高めるために、我々は入館料を値上げしたのだ」

と県は主張するのかもしれません。

 

いいえ、駐車場料金の有料化も同じことです。我々は駐車場料金をいただき、それを長尾山総合公園の開発に充てて、より魅力的な公園整備のために用いようというのですから。

しかし……冒頭の読売新聞記事内の恐竜博物館職員のコメントも酷いものですね。

駐車場の有料化は「来館者が勝山市の他の施設を訪れないことへの意趣返しもあるのでは」ですって?



 

【資料】 教科書の値段

「教科書っていくらなの?」と子供に聞かれました。どうやら、書店で買う本には値段が書いてあるのに、教科書には値段が書いてないので不思議に思ったようです。

 

ちなみに、教科書の値段は決まっています。

 

小学校6年生だと、

国語(通年用) 633円

書写      154円

社会(通年用) 687円

地図      449円

算数      638円

理科      929円

音楽      208円

図画工作(通年用)417円

家庭      267円

体育      202円

合計      4584円

 

 

ふむ。つまり、30人学級だと、ひとつのクラスで教科書代金は13万7520円。
全国で6年生は117万6171人いるので(平成24年度統計)、53億9153万7864円か。

 

 

 

子供たちが入学して初めて教科書を手にした時、教科書は封筒に入れられていました。

その封筒には、文部科学省からこんなメッセージが添えられていました。

 

保護者の皆様へ。

お子様のご入学おめでとうございます。

この教科書は、義務教育の児童・生徒に対し、国が無償で配布しているものです。

この教科書の無償給与制度は、憲法に掲げる義務教育無償の精神をより広く実現するものとして、時代を担う子供たちに対し、我が国の繁栄と福祉に貢献してほしいという国民全体の願いをこめて、その負担によって実施されております。

一年生として初めて教科書を手にする機会に、この制度に込められた意義と願いをお子様にお伝えになり、教科書を大切に使うようご指導いただければ幸いです。

  文部科学省

 

教科書は大切に使いましょう。

【課題】 夏休みの課題図書

 

子供たちの夏休みの学習計画ついでに、私も夏休みの課題図書を。こうでもしないと、なかなか読書も進みませんのでw

 

 

ブランド戦略シナリオ―コンテクスト・ブランディング

ブランド戦略シナリオ―コンテクスト・ブランディング

 

 ■目的

福井県の誇る恐竜ブランド。
このブランドを勝山市は活かしきれているのか。そもそもブランドを活かすとは、どのような行為、状態を指すのか。ブランドを活かすためには、どのような手法が考えられるのか。
前々から、「コンテクスト・ブランディング」には関心を持っていたので、この機会にじっくりと取り組んでみたい。

 

 

正しい戦争と不正な戦争

正しい戦争と不正な戦争

 

目的 

集団的安全保障の議論の中で出てきた「戦争のできる国」との批判的言辞。ならば、戦争のできる国のどこがマズいのかと言えば、それは「戦争=悪」だから。その決めつけの下には正しい戦争も不正な戦争も存在しません。
戦争倫理学碩学であるウォルツァーの著作でそのあたりを考えてみたいと。

 

 

 

The Politics of Human Rights

The Politics of Human Rights

 

目的 

「人権」というものをもう少し掘り下げて考えてみたいので。

人権、特に自然法という概念と、現代的人権との間には大きな溝があるような気がしてなりません。「人権」を振りかざす人に対する胡散臭さがどの辺りにあるのかを探ってみたい。

 

 

 

 

日本はなぜ開戦に踏み切ったか: 「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)

日本はなぜ開戦に踏み切ったか: 「両論併記」と「非決定」 (新潮選書)

 

目的 

ー「両論併記」と「非決定」ーとのサブタイトルに惹かれて。

よく、「あの悲惨な戦争は軍部が暴走したがゆえに引き起こされた」と言われますが、あの当時をよくよく眺めてみると権力論的には「真空状態」が発生したことがわかります。この辺りを、山本七平は「空気に動かされた」と表現しましたが、具体的にどのような過程を経て真空状態が発生したのか。そのあたりを見てみたいと。

 

 

 

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

パルムの僧院 (上) (新潮文庫)

 

 

 ■目的

 最近、文学というものを全く読んでいなかったのでw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【政治】 女性の就業率向上は、少子化対策になるのか?

余計なお世話に珍説を引っ張ってくる

 

本日の産経新聞を読んでいて、久しぶりにこんな文章に出会った。

女性の就業率と出生率には正の相関がある(内閣府男女共同参画局。企業組織を見直すことで出生率も高まり、人口減少に悩む日本にも明るい兆しが生まれることを期待したい。

 川本裕子(早稲田大学教授)

 

最初にお断りしておくが、私は女性の社会進出に異論をはさむ者ではない。働きたかったら女性も働けば良い、そして「女性であるから」という理由で差別されるのは許されない。そう考えている。


付け加えるならば、働くか働かないかは個人の問題であり、家庭の問題である。そこに「女性は社会進出しなければならない」「女性は働くべきだ」国や行政が口を突っ込むこと自体がおかしいと考えてもいる。

そんなものは大きなお世話だ。放っておいてくれ。

 

少子化だから、若者は結婚しなければならない」

少子化だから、夫婦は子供を産まなければならない」

と国や行政から言われたら、大概の人はカチンと来る。余計なお世話だと。

 

ならば、「女性は社会進出しなければならない」というのも余計なお節介だ。

 

かつて、イギリスの女性たちは婦人の地位向上に全力を傾けてきた。婦人の参政権獲得に尽力し、社会進出を果たし、そして遂に女性首相も誕生させた。しかし、彼女たちはその後に再び家庭に戻ることを決意した。「女性の社会進出は何ももたらさなかった」と。

 

なぜ働くのか、それは恒産を得るためであり、人生の意義を見出すものであったりと様々であろう。しかし、働く理由は他人から言われて云々するものではなかろう。自身で見出すものである。ならば、「私は家庭に入ります」との決断に彼女が幸せを見出すのであれば、誰がその決断を批判できるのか?そして、彼女の決断を何の理由によってそしるのか?

 

それを国や行政が声高に言うのだから始末に負えない。

 

「女性の社会進出を果たさなければならない」

と主張する人に申し上げておきたい。

あなたの主張は、他所の家庭の事情や個人の判断に土足で踏み入るものであり、反自由主義的である。つまり、

「お宅にいるニートを働かせない」

「お宅には結婚していない40代の独身男性(or女性)がいるはず。その子を結婚させなさい」

「結婚したのにあなたたち夫婦はなぜ子供を産まないのですか?」

という言説と同レベルだ。そのことを自覚していただきたい。

 

 

ついでに言わせてもらうならば、「女性の就業率向上は、少子化対策になる」などと珍説を引っ張ってこないでいただきたい。

 

 

「女性が働くようになると子供を産む」それホント?

「女性の就業率が向上すると出産率も高まる」という珍説がある。常識的に考えてみれば胡散臭いこと限りないのだが、これが国の中央では堂々とまかり通っている。

冒頭に挙げた早稲田大の川本裕子氏もそうだ。

 

これが珍説…否、デタラメであることを示す事例を。

 

例えば次のグラフをご覧いただきたい。これはその筋では有名なグラフであるが、この2つをもって

「かつて、OECD諸国でも女性の就業率が高くなると出生率は下がる傾向にあった。しかし、2000年では女性の就業率と出生率は正の相関関係にある」

「ゆえに、女性の就業率が高まると、出生率が高まるのだ」

と主張する人がいる。

 出典:http://diamond.jp/articles/-/30628?page=2

f:id:harukado0501:20140718101724j:plain

明らかにデタラメである。

2000年には正の相関関係があると主張されているが、イタリア、スペイン、ギリシャのデータを除くと、全く相関関係はない。

しかも、悪意的だと思えるのは1980年のグラフと2000年のグラフのTFR(合計特殊出生率)の目盛が違っている。そして、よくよく見れば、ほとんどの国で就業率があがって出生率が下がっているではないか。

 

加えて言うならば、OECD加盟国であるにも関わらず、トルコやメキシコ、ルクセンブルグといった「女子労働率が平均より低いにもかかわらず、出生率は平均よりも高い国々」が除外されている。要するに、自分の説に都合の良いサンプルだけを選んでいるに過ぎない。


なにしろ、この手の論調には「都合の良いデータを選択して、都合の良い結果を導き出す」手合いが少なからずいる。

 

 詳しくは下記の書を参考にされたい。

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

子どもが減って何が悪いか! (ちくま新書)

 

 

 

 ■スウェーデンがうまくいく理由

西欧諸国と一括りにしてしまうと大きなミスをするので、まずは、ギリシャ、イタリア、スペインといった財政準破綻国を見てみる。

実は、ここでは女性就業率と出生率は正の相関を占めている。ただし、「女性の就業率が上がれば出生率は上がる」との結果は導き出せない。なぜなら、他の理由があるからだ。

これら準破綻国は労働者層が低所得であり、かつ低福祉である。つまり、子供を育てることができないほどの低所得者層は、EU内へ働きに行くため、国内に残らないのだ。つまり、「就業している女性=所得がある女性=子育てができる女性」との等式が成り立つ。言うなれば、就業できない女性、子育て費用を稼げない人々を国外へ追い出すことにより、否応なしに「女性の就業率が上がる」ことと「出生率が上がる」ことが結びついたにすぎない。

 

問題は、スウェーデンといった北欧高福祉国家の場合である。

 その筋の方々には夢のような国家として崇め奉られる北欧福祉国家であるが、実際に社会保障の多くを子育てコストに充てているため出生率が上昇したようだ。これは間違いなかろう。

ただ、ここで注目すべきは、スウェーデンのような北欧高福祉国家では、日本のような高齢者優遇政策を行わないという点である。

 

皆さんは「北欧には寝たきり老人がいない」という話を聞いたことがあるだろうか。

実際にその通りなのだが、それは「延命しないから」である。こう書くと身も蓋もないのだが、実際にその通りなのだから仕方がない。

「延命しないから」と言われると、非道徳的なようにも思われるが、ここには彼らの生命倫理がしっかりと根底にある。

 

例えば、高齢やガンなどで終末期を迎えたら口から食べられなくなるのは当たり前だ。ここで日本だと「胃ろう」をする。これは、口を介さずに胃に栄養剤を直接入れるために、腹部に穴をあけるものだ。こういったことで延命を図ること自体が非倫理的だと彼らは考え、そして実行している。日本のように意識もない人々に栄養剤を点滴や「胃ろう」で投入すること自体が老人虐待ではないのか?と考えるのだ。

 

したがって、日本のような猛烈な延命措置はなされず、かなりパッケージ化されている。介護についても同様だ。つまり、日本よりも高齢者福祉予算が低額で済む。

 

子育てに手厚い支援をするスウェーデン式は、実は、社会保障を子供と高齢者のどちらにより多くかけるかの選択を行ったのだ。

 

 「スウェーデンのような手厚い子育て政策を!」

などと主張する人々の主張の中で、高齢者優遇を捨ててでも子育て支援をすべきだ!との意見を聞くことは極稀である。

 

 

 高齢者を捨てて子供をとるのか?

基本的に、我が国のこれまでの政策は、高齢者福祉を実行するために労働者から所得を高齢者に移転させてきた。これが少子化最大の原因であると私は考えている。

ならば、20代から40代の所得を引き上げるか社会保障をその世代に振り分けるかのいずれかを選ばない限り、少子化は解消しない。その意味で、「子育てに手厚い支援を!」との主張は間違っていない。 

 

ただし、それを実行するためには巨額の予算が必要になる。5兆円や10兆円といった金額では少子化対策にはならない。おそらく抜本的に少子化対策をするのであれば、30兆円から50兆円の予算を毎年かけるくらいでなければならないだろう。

 

それをなすためには、年金50%カット。医療・介護自己負担5割が必要となる。

 

果たして、我が国の有権者はそれを選択するのか?しないだろう。

なぜなら我が国の生命倫理、文化風土がそれを許さないからだ。

 

そして小手先の少子化対策だけが跋扈するのだ。

「もっと手厚い子育てを!」の掛け声のもとに。

 

 

【雑感】 PTAは強制加入団体であるべきなのか?


PTA訴えられる


PTAは任意団体であるはずなのに、強制的に加入されられたのはおかしい!と熊本の団体が訴えた事案がニュースになっています。

子どもが通う小学校のPTAが任意団体であるにもかかわらず、強制加入させられたのは不当として、熊本市内の男性(57)がPTAを相手取り、会費など計約20万円の損害賠償を求める訴訟を熊本簡裁に起こした。男性が2日に会見して明らかにした。

 訴状によると、2009年に2人の子どもが同市内の公立小学校に転校した際、PTAに同意書や契約書なしに強制加入させられ、会費を約1年半徴収されたと主張。これまでもPTA側と話し合ってきたが、平行線だったという。

 「PTAは原則、入退会が自由な団体なのにもかかわらず、なんの説明も受けなかった」と指摘。12年に退会届を出したが、「会則の配布をもって入会の了承としている」などとして受理されなかったといい、「憲法21条の『結社の自由』の精神に反している。会則には入退会の自由を明記するべきだ」と訴えている。

 PTAの「自由な入退会」をめぐっては、NPO法人が4年前、横浜市で開いたシンポジウムをきっかけに議論が広がった。札幌市岡山市などの一部の小学校では、すでに周知が始まっている。(籏智広太)

朝日新聞 7月3日)

 

PTAは任意団体か?

PTAは任意団体か否かと言われれば、答えはただひとつ。「任意団体です」

例えば、PTAと類似の組織として例えられる自治会ですが、これについては最高裁が平成17年4月26日において、「自治会は、いわゆる強制加入団体ではなく、その規約において会員の退会を制限する規定を設けていないという事情の下においては、いつでも当該自治会に対する一方的意思表示により退会することができる」と示しました。

 

そもそも、昭和29年に文部省がPTA規約案を作成したときにも、わざわざ備考に「この参考規約は、未加入者に対して加入を強要するような意図は全く持っていない」と記し、加入強制性を持たせないように指示しています。

 

PTAは任意団体です。少なくとも私にとっては、そう考えざるを得ません。

したがって、仮に「PTAを脱会したい」と申し出た保護者がいらっしゃるのであれば、それを認めるのは当然ということになるでしょう。

 

 

まちがった議論

私もPTA活動に身を置いていますが、確かに思うところは多々あります。なぜ、全国組織が必要なのだろうかといった組織上の問題や、本当にこの行事が必要なのだろうかという疑問もあります。

 

ただ、今回の裁判案件やこれまでの議論を眺めていると、議論の流れに違和感を感じることも事実です。

例えば、「入会なんて聞いてないー父親たちの語るPTA-」といった議論を見ていると、根本から抜けているものがあるのです。

それは、「子供の教育環境をどのように改善していくのか」という視点。

 

「入会の強制性はおかしい」

「勝手に役員にされた」

「嫌と言うと村八分にされる」

「学校がPTAに名簿を配るのは、個人情報保護違反だ」

ひとつひとつは、もっともなことです。ですが、その理屈をいくら積み重ねたところで、「ひかれ者の小唄」以上の感慨をもたらしません。大人の理屈と都合でしかないゆえに、さほどの説得力をもたないのです。

 

こういった議論を眺めている中で、唯一、私が面白いと思った論点は

「PTAが任意団体だということはわかった。そして、加入しない世帯があることも認めよう。ならば、加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?」

というもの。

そして、ここにこそPTAに加入してもらいたいという最大の理由があります。

 

 

PTAが本当に必要な事案

加入世帯と未加入世帯の間に差をつけて良いのか?という問題。

 

例えば、PTAで子供向けの事業を実施するとしましょう。この事業に未加入世帯が参加することは、社会通念上、認められません。

この考え方を拡大していくと、妙なことが発生します。

PTAの社会奉仕作業等で整備されたグラウンドや校舎等を、未加入世帯の子供が使うことは許されるのでしょうか。セコい話ではありますが、先ほどの考え方を拡張していくと、こういった話にならざるを得ません。

 

無論、たとえばPTAに加入していようがしていまいが、「子供の環境整備を整える」事業については保護者の責任として参加するという形にしてしまえばいいだけのこと。この程度の次元の話ならば、これで解決できます。

 

ただ、この話を深掘りしていくと、思わぬ事態にまで話は進んでいきます。

 

思わぬ事態とは、「いじめ」に代表される諸問題が発生した場合を指します。

 

「いじめ」等、学校にて問題が発生した場合、これらを解決するためには、PTAの活動は不可欠だと私は考えています。「いじめ」等が発生した際に、子供も親も、時には先生すらが「独りぼっち」になるため、その調整と連絡に当たるのはもはやPTAしか残されていないからです。

 

子供や親を独りぼっちにしてはいけません。

こういった問題が発生したとき、親は頑なになります。有り体に言うならば「学校を信じられない」状態に陥ります。この状態に陥ると、学校がいくら誠意を尽くして説明しようとしても無駄です。心に殻をかぶせてしまった保護者は、頑として学校の言い分を認めません。

 

これは、学校が悪い、保護者が悪いという問題ではないのです。学校で起きた「いじめ問題」を、学校がいくら対応しようとしてもダメなのだ……という構造的な問題です。

 

ならば、警察が介入すればよいのか、行政を中心とする第三者機関が手を入れればよいのかというと、これも事態の根本的解決にはなりません。そこには「いじめられた子を第一に考えよう」「事件の渦中にある子供を何とかしよう」という発想が薄くなるからです。

 

子供がいじめられていると知った親は、憤慨するとともに、子供が一刻も早く学校生活に復帰して日常の営みを再開できることを期待します。

この「子供の日常生活の再開」を担保するのは、残念ながら学校の先生ではありません。市教委でもありません。「もうだいじょうぶですよ、Aちゃんが学校に戻ってもだいじょうぶ」と安心させることができるのは、同級生の保護者であり同級生の子供です。

ここでは、同級生の保護者どうしが集まり、情報を共有しながら対応していくなどの方法が重要になるのですが、その音頭を学校にとれと言っても学校は対応できないでしょう。また、いじめられた子、いじめた子以外の子供の保護者にそれをせよというのも、現実的に酷な話です。ならば、PTAがその役割を果たさなければなりません。

 

少なくとも、私は問題が発生した際にはそのように対応してきましたし(その対応が十分だったかはともかくとして)、これからもそのように対応していくつもりです。

 

さて、ここで本題に戻ります。

 

いじめが発生した事案において、その学年の保護者に集まってもらって話をする(私はこういうときはお父さんに集まってもらい、酒でも飲みながら話をするのですが)。

その際に、「あなたはPTAに非加入だから参加しないでください」と言うことは許されるでしょうか。

 

許されないはずです。

 

なぜなら、子供のことを考えてクラスを風通しの良い環境にしようとする際に、PTAに加入しているかしていないかなどはどうでも良い話だから。

 

つまり、子供の教育環境を第一に考えようとするときに、PTAに加入しているかしていないかという論点は意味をなさないのです。

 

 

求められるPTA像

確かに「こんな事業が本当に必要なのだろうか」と思われる事業は、PTA活動の中にもあります。ただ、それら不要な事業があるからといって、PTAが不要だという意見は極論です。

 

先ほど述べたように、子供の教育環境を整える行為にPTA加入・非加入は本質的な問題ではありません。

「ならば、教育環境を整えるときにだけ保護者は出てきて、普段は別段、PTAに加入していなくても良いのではないか」
という主張が出てくることでしょう。

それでも良いと思うのです。ただし、いじめの事案のように保護者の連絡調整をする機関は必ず必要になります。名前をどう変えようと組織をどういじろうと、必ずそういった機関が求められます。実は、PTAという組織は必要なのです。

 

「それなら、学校単位でのPTAだけが存在すべきであり、県単位のPTAや全国レベルのPTA組織はいらないんじゃないか?」
その主張については、私も趣旨を十分に理解します。何のために県組織、全国組織が必要なのだろうか?と疑問に思うことも多々ありますから。

 

ただ、ひとつだけ言えることは、他の学校での取り組みを情報交換できる場は絶対に必要です。例えば、いじめがあった、不登校になる子供がいる。このような事案にどのように対応し、その効果はどうだったのか。そういった情報の共有は必ず必要になるでしょう。

むしろ、そういった情報の共有が図られていないのであれば、一刻も早くはかるべきです。

 

いずれにせよ、PTAとは本来的に子供たちのためにある組織です。親が願うのは、我が子が健やかに伸び伸びと育ってくれることであり、その環境整備のためにこそPTAは存在意義を持つのだ……という発想で、もう一度PTAを見つめ直す時期に来ているのかもしれません。

【政治】 グローバル市場主義に背を向けずに、敢えてその土俵に乗る

 とある政策を深掘りしていくなかで、もの凄い岩盤にぶち当たってもがいております。

……(´ヘ`;)ウーム…

 

もの凄い岩盤とは、グローバル市場主義。

 

このグローバル市場主義は、地方の産業を根こそぎ持っていきます。国は6次産業化の旗振りを一生懸命にやっていますが、地方では最初から諦めています。なにしろ製品化をしようにも、価格競争で市場には出せませんから。

 

ならば、地方に残された途は、このグローバル市場主義に「背を向ける」しか方法はないのでしょうか。

エコロジーな生活を田舎で」
「しなやかな生き方ができる里山へようこそ」
といった手法しか残されていないのでしょうか。

 

エコロジーな生活を田舎で」…うん、それは間違ってはいない。でも、それは個人のライフスタイルの問題であって、産業政策とは別次元のお話。

 

里山でこんな活動をしています!的な事例は数多くあるのだけれど、それじゃ、それらの諸活動を統合できるようなフォーマット(制度、概念)はどこにも存在していない。

 

多分、そのフォーマット(制度、概念)ができあがったならば、グローバル市場主義の文脈の中で地方は生き延びることができるのだろうと思う。

 

具体的には、地方にあまたある自治体が東京・名古屋・大阪のマーケットを獲得するにはどうすれば良いのだろうというお話でもあります。

 

考えてみれば、例えばフィリピンであったりマレーシアであったりオーストラリアであったり、様々な諸外国からモノが東京に流れ込んでいるわけです。東京へのアクセスという点で言えば、はるかに地方の方が有利なポジションにいるにもかかわらず。同じ言語を用い、同じ通貨を使い、交通網、流通網が整備されているにもかかわらず、東京へのモノのアクセスでは地方は諸外国に劣っている。

 

「それがグローバル市場主義というものだよ」
そう、その通り。それじゃ、地方はいつまでも同じポジションに置かれ続けることになる。そのグローバル市場主義の中で、地方が生き延びる途を考え出したいのですよ。

 

「これまで、地方から大都市圏へ攻めていき成功した人は実際にいるでしょ?」

そう、その通り。地方から大都市へ攻めていき成功した人も企業もいました。そして、国や自治体が行ってきた支援策は、こういった人や企業に対してのものでした。それも間違ってはいません。でも、私が作り上げたいのは制度そのものです。地方の人々が背伸びせずに活動することで、地方の経済が活性化していくような制度。

 

「供給者としての地方」のフレームワークは出来ています。問題は「消費者のニーズとのマッチング」。つまり、「勝山の物産を東京へ持っていくための訴求力」です。

ここがクリアできない。これまで、その訴求力は「商品の価値」そのものに求められていました。つまり、売れるものを大都市圏へ持っていけ!という発想です。

その「売れるモノ」の価値観が、グローバル市場主義の文脈で言えば「価格、品質、産地、安全性」等であったわけですね。

 

それ以外の価値観が存在しないのだろうか。

 

思考が千路に乱れて収束する気配を見せません。

【雑感】 集団的自衛権をめぐるヒステリックな対応に想うこと

我々は憲法を作ったことがない。

 

もちろん、日本には明治憲法が存在したし、現在は日本国憲法が存在する。だが、明治憲法は欽定憲法であり、日本国憲法GHQが作った憲法だった。不思議なことに、我が国の憲法学では「日本国憲法は国民が作った」との妄説が生き延びているが、主権を奪われた占領国が自前で憲法をつくれると思う方がおかしい。

 

ともかく、我々は憲法を作ったことがない。

 

だから、憲法改正と言われると途端に困るのだ。何をどうして良いのか、どう決めれば良いのか。まったくわからない。憲法はいつも誰かが作ってくれた。誰かが与えてくれた。それを守ってさえいれば良かった。

 

今回の集団的自衛権に対するヒステリックな対応もそうだ。

 

我々は世界最強のアメリカの傘の下で守ってもらっていた。

拉致された自国民を指をくわえて見ているしかできなかった。

勝手に島を強奪しにくる野蛮人を手をこまねいて傍観していた。

 

要するに、自分で何かを決めたくなかったのだ。

 

拉致された自国民を助け出そうとすれば、否が応でも摩擦と軋轢が生じる。

島を強奪しにくる野蛮人に対してアクションを起こして「戦争になったらどうするのだ?」

 

だが、政治とは本来そういうものではないのか?

独立した国と国との交渉とはそういうものではないのか。

 

政治の決断に100%の正しさなどというものはない。その決断が正しかったか否かは、公正の評論家がしたり顔で言えば良い。ただ、その時代に生きている人たちは否応なしに何らかの決断を迫られる。

 

その決断をしたくなければ話は簡単だ。

誰かに決めてもらえばいい。自分で考えなくて良いから、これほど楽なことはない。

ただし、それを隷従と言う。

 

集団的自衛権を容認することは「戦争のできる国になること」だそうだ。

「戦争のできる国」と「戦争をする国」とは全く異なる。

この短絡的かつ飛躍的な論理を支えているのは「政府は信用ならない」との信念だろう。政府に任せておけば、必ずや戦争は起きるはずだ。なぜなら政府は信用ならざる存在だからだ。

 

民主的手続きで選ばれた政治家により構成される政府が信用できないのであれば、逆に問いたい。信用できる政府とはどのようなものか。

 

元々、「批判できる政府」こそが、彼らの望んでいる政府である。

かつて総評が強烈な影響力を及ぼしていた時代に、太田薫議長は「弱い政府をつくって、みんなで、これを批判している状態がもっとも望ましい」と発言した。

 

彼らは批判できればそれでいいのだ。ただし、彼らに「これからどうすれば良いのか、一緒に考えましょう」と言ってはいけない。なぜなら、彼らはそれを考える術もなければ、考えた経験もないから。

 

 

日本の虚妄―戦後民主主義批判

日本の虚妄―戦後民主主義批判

 

 

大熊信行の名前は言論界から抹殺された感がある。彼が黙殺された理由は、右派に対しても左派に対しても手厳しい論評を叩きつけたことにある。

 

大熊の主張を概略すると、次のようなものになるだろう。

 

占領下のアメリカは、日本に二本の杭を打ち込んでいった。ひとつは日本国憲法であり、ひとつは日米安保条約である。

左派は、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄にしがみついた。右派は「日本とアメリカは日米安保条約により対等である」との妄想の中で生きている。
どちらも、アメリカの作った箱庭の中でつまらぬ妄想に耽っているだけのことだ。

 

まさにその通りだ。

 

集団的自衛権の行使は、アメリカ隷従の日本にとって「アメリカとともに戦争をする」ことでしかない・・・との左派の主張は、右派の「アメリカと日本は対等の国家だ」という妄想を炙り出すものだ。そして、日本国憲法を改正しようという試みは、「日本国憲法は日本人が作った」との虚妄に手袋を叩きつける行為である。

もう、いい加減に箱庭から出ようではないか。

 

それは国際社会の荒波へ漕ぎだすことであり、その都度の選択に責任を負うことでもある。それでも、箱庭の中で安寧を貪るよりは、よほど良い。

 

 

【読後一話】 会社が消えた日 -三洋電気10万人のそれから-

「会社が消えた日ー三洋電気10万人のそれからー」を読了。

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

会社が消えた日 三洋電機10万人のそれから

 

 

2.5兆円企業の三洋電気があれよあれよと言う間に倒壊していく様子を描いた前半部分。10万人の社員のうち三洋電気を買収したパナソニックに残されたのは9000人、それ以外の9万人は外に放り出される。その人々を描いた後半部分。

いずれも丹念に人を追い事実を確認しつつ筆を進めた労作と言える。

 

政府の労働力調査によると、製造業の就業者数はバブル崩壊後の1992年に2149万人のピークに達した後、円高に伴う海外への製造業シフトなどの影響で減少に転じ、2012年には1538万人まで減っている。就業者全体に占める比率は1973年の36.6%がピークで現在は25%を割り込んでいる。
数字が示しているのは、日本はもはや「輸出立国」ではなく「モノ作り大国」でもない、という事実だ。モノ作りの復活に賭けたい気持ちはわかる。再びの輸出立国を夢見るのも自由だ。しかし、残念ながら現実は容赦なく逆方向へ進んでいる。

三洋電気のケースはその前触れに過ぎない。これから我々は「まさかあの会社が」と思うような企業が消えていく様を目の当たりにすることになるだろう。

 (本書p3)

 

【市議会だより.6】 長尾山の再整備計画について

昨日、6月定例会が閉会しました。

 

6月定例会は年度の最初の定例会ということもあり、補正予算などは小さいのが通例です。ならば、割と楽な定例会なのか?というとそうでもありません。次の年度に向けての大きな事業スキームが提示されることがあるからです。

 

国の平成27年度予算編成、つまり来年度の予算編成は予算要求(概括)が8月から始まります。自治体が大型公共工事を進める際には、この予算要求(概括)に間に合うように申請しなければなりません。

 

したがって、自治体が国の補助メニューに載せようとした場合に、それを議会に諮るのは6月定例会という形になります。

 

さて、今回の6月定例会では「長尾山の再整備計画」が理事者側から提示されました。

現在の長尾山総合公園は、元々50万人の来園者を想定して整備されているため、現在のように70万人が訪れた際には、駐車場の不備や動線の単線化など様々な課題が出ています。

 

そこで、

①新しいアクセス道路を設置し、入口を2か所にする。

②トイレを増設し、観光客の利便性を図る。

③第3駐車場を整備する。

④園外駐車場を整備する

 といったプランを軸とする総額8億5000万円の事業計画が提示されました。

これは国の都市再生整備計画事業に乗っての5カ年事業でして、おおむね国の補助率は4割と考えればよろしいでしょう。

 

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さて、県立恐竜博物館は言うまでもなく県のものです。そして、長尾山総合公園は勝山市のものです。したがって、勝山市はこれまで営々とこの公園を整備し続けました。

 

しかしながら、議会としては、これ以上の整備費を市が負担するのであれば、さすがに収益の途を具体的に探らねばならないとの方針で臨むことで、最終日に結論を見ています。

 

具体的には、第1駐車場(恐竜博物館前の駐車場)で駐車料金をとるなどの方法が議会内では浮上しています。仮に、第1駐車場にて500円の駐車料金を徴収した場合、年間収入としては9000万円の収入が見込まれます。「長尾山特別会計」を新たに設置し、長尾山で得た収入を用いて長尾山を整備するというスキームが最も望ましいのではないかと、個人的には考えています。

 

この収益の途については、今後の議会において議論が進められる予定です。

【読後一話】 撤退の農村計画

とある政策立案のために、書棚から引っ張り出して再読。

 

 

撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編

撤退の農村計画―過疎地域からはじまる戦略的再編

 

 

 

 

 

下記の図は、『中央公論』昨年12月号に掲載された藻谷論文のもの。

地方に人を住まわせたかったら、地方の経済を活性化させねばならない。そのためには、地方がブロック化経済を作らねば富は中央に逃げていくだけだというモデル図。 

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 現在、立案している政策はこのモデル図をベースにしている。

 

地方はまったなしの状態に追い込まれている。ただ、漠然とした不安と将来への見えない展望の中で、人々は何をして良いのか。どこへ進めば良いのか。それが見えてこない。具体的な手法が見えてこないのだ。

 

しかしながら、過疎化は静かに、そして着実に進んでいる。

上記モデル図で言えば、頂点に位置する山間居住地は壊滅的状態だ。かつては、人々が生活し分校が存在した山間居住地の多くが、現在は無居住化地域、すなわち誰も住まない土地になった。

 

次は中山間集落の番である。そこへ至るまでに何としても「集落を単位とする経済ブロック網」を完成させねばならないと考える。

その具体的な政策の中身は、来月には明らかにされるはずだ。

 

さて、本書は上記モデル図で言うと「山間居住地」を対象としたものだ

 

若者たちが都会へ出ていき、高齢者ばかりが残された。車を運転することもできず、バスは1日に2便しか来ない。買い物に行くのも病院へ行くのも不便極まりない。集落近辺の田んぼは、もはや耕す人もいなくなり荒れ放題。山の手入れは言うまでもない……そんな地域である。

 

その山間居住地に住む人々を、集落移転させてはどうだろうか。市内中心部へ移転してもらった方が、生活は便利になるし行政コストも軽減される。

そういった内容である。

 

労作である。ここまで斬りこんで具体的な方策を講じるのは並大抵のことではない。ましてや、「慣れ親しんだ土地を捨てて、街へ移転しましょう」という、大きな心理的抵抗に遭う政策をここまで真正面から論じることは、これまであまりなかったように思われる。

 

ただ、ひとつだけ残念なのは「戦略的撤退」と言いながら、その「戦略性」を最後まで読み取ることができなかった点だ。

 

編者・著者が述べるように、撤退そのものは悪いことではない。むしろ、局面が悪化しているときに撤退できないことは、ずるずると負けに追い込まれるだけだろう。

だが、同時に「撤退する」ときには、「将来的なビジョンに基づいて」撤退しなければならない。それが「戦略的撤退」である。

 

しかし、それを本書に求めるのは酷というものだろう。その戦略を提示すべきは、本来、政治の役割だからだ。「地方には公共工事を与えておけば良い」として、これまで地方を置き去りにしてきた政治のツケがまわってきたのだから。