月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

【政治】 役所のやることがうまくいかない理由とは (その2)

前回のまとめ

前回の拙稿のまとめから始めましょう。

①「お役所仕事」の改善は我々の生活を豊かにする。

②「お役所仕事」の改善は、お役所だけにまかせてはいけない。

③「お役所仕事」の張本人は、至極まじめに仕事をしている。

 この3点が前回の結論でした。行政の仕事は私達の生活の隅々にまで及んでいます。ならば、それを改善したならば、我々の生活は今よりも素敵なものになるであろうこと。それゆえに「役所の改善は役所に任せておけばよいのだ」と投げ捨てずに、市民の皆さんも力を添えて欲しいこと等々が、その趣旨です。

 

今回は、「お役所仕事」をもう少し具体的に見ていきます。

前回が「形式的なお役所仕事」ならば、今回は「実質的なお役所仕事」です。

 

行政は信頼されていない?

昨年、国の補助金をいただいて広域観光の事業を実験的に行い、県内外の様々な人々に出会う機会を得ました。その中には、デザイナー、プランナー、広告代理店の人たち、マスコミ関係の人たちもいました。

 

彼らに共通しているのは「行政を信頼していない」ということでした。薄々は感じていたものの、この意識の根深さには正直驚いたものです。彼らが行政の仕事をしていないのか?というと、そうでもありません。彼らは行政が出す仕事をしています。

だからこそ、彼らは行政を信頼していない。

その理由が端的に表れているのが次の記事です。

 

大阪市交通局が実務経験のあるデザイナーを月額112,600円で募集していることがわかった。
 
IllustratorPhotoshopによる広告デザインの実務経験があること、Excelでの表計算、Wordでの文書作成ができること。
同市交通局が6月10に公布した「大阪市交通局非常勤嘱託職員募集要項」の応募要件には、たしかにそう明記されている。
 
Twitterでは、プロとしてデザイン業務こなすユーザーから非難の声が多数あがっている。
 
具体的な職務内容は、「ポスター作製業務、WEBページ運営業務」とあり、さらに、WordやExcelを使用した文書作成や電話応対等の一般事務も含まれている。
 
大阪市交通局非常勤嘱託職員募集要項(PDF)
 
Twitter上で問題とされたのは、その報酬だ。記されている給与月額は、週30時間(1日6時間 週5日)勤務で112,600円。時給に換算すると、800円程度であろうか。
さらに金額の下には「昇給・昇格なし」という絶望的な文言が明記されている。
さすがに、この金額は低すぎるのではないかと11日未明、Twitter上で本職のデザイナーと名乗るユーザーが苦言を呈した。このツイートにはすでに1000件以上ものリツイートがされている。
 
なお選考には、まず1次試験としてポスター製作を行う必要があるらしい。また、IllustratorPhotoshopなどの運用に伴う追加費用を、経費でまかなえるかどうかも今のところ不明だ。

 

 

デザイナー、広告代理店、プランナー等々の人々が行政を信用していない最大の理由は、「行政が知的労働を評価していない」ことにあります。昇給・昇格なしでプロのデザイナーを月11万円の破格の待遇で雇えると思っている……上記の記事を見ると、そんな思いを更に強くします。
 
通常、行政が仕事を発注する際にも、こういった「知的労働軽視」の風潮が往々にして出てきます。
 
例えばです。
「わが市にはAという観光地がある」
「この観光地へ人を呼びこみたい」
「そんなソフトを作って欲しい」
「予算は500万円だ」
はい、アウトです。そんなものだけで、どうにかなるほど民間は甘くはありません。
 
「今度、3DS用の新しいゲームを作る」
「売れるゲームを作って売れ」
「予算は〇〇円だ。よろしく」
「あ、それと。ついでに効果的なプロモーションも考えておいて」
そんな丸投げするわけがありません。
 
 
漠然としている上に、要望のハードルは高い。役所から出てくるソフト系の仕事の中には、少なからずそういったケースがあります。
 
道路をつくる、建物をつくるといったハード部門でこういったことは起きません。なぜなら、工事単価は既に決まっている以上、成果物の予算も決まっているからです。ところが、なぜかソフト部門になると、往々にしてこういったことが起きる。
 

そんな発注を見ていて、「行政は俺たちを軽く見てるのか?」「俺たちの仕事を何だと思ってるのか?」とデザイナーやプランナーたちが考えるのは当然でしょう。

 

なぜ、こんなことが起きてくるのか。

これにはいくつかの構造的な問題があるように思われます。

 

「何とかしたい」と思い立ち、真摯に事態に向き合おうとする行政マンたちがぶち当たる、大きな壁でもあります。

 

 

 

役所は失敗を許されない

まずは次の記事をお読みください。

総務省は、情報通信の分野で世界的に影響を与えるような奇抜なアイデアを持った人材の支援に乗り出す。

 今年度の情報通信に関する研究開発の委託事業に、「独創的な人向け特別枠」を設ける。パソコンや携帯電話で革新を成し遂げた一方、ユニークな人格でも知られていた、米アップル創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のような人材の育成を目指す。

 研究費に加え、著名な技術者やベンチャー起業家などから助言を受けられるなど研究環境も支援する。6月末に募集を始め、面談などの選考を経て10件程度を採用する。

(読売新聞5月25日)

 

「さすがお役所。300万円でジョブズを作れると思っているあたりが!」
「そもそもジョブズのようなイノベーターを『作ろう』と考えるところが、さすがお役所だ」
という感想を持たれた方もいるでしょう。
そこも重要なポイントなのですが、この記事の最重要ポイントは「失敗も許容するという、中央官庁としては異例の事業となる」←ここです。

 

そう、行政の仕事は失敗が許されない。ここがとても重要なところなのです。不思議なことに行政の仕事は失敗が許されません。したがって、何らかの成果物がなければいけない。それはもはや強迫観念に近いものがあるように感じます。しかも、「予算を使い切らないといけない」という、これまた困った性向が働くと、やたらめったらに成果物だけが出てくることになります。

(やたらにパンフレット刷りたがるのもここにあるのかもしれません)

 

 

 

 

投資の概念

「失敗してもいいじゃないか」と私などは思うのです。失敗しない民間企業が存在しない以上、役所が失敗しても構わないではないかと(もちろん程度にもよりますが)。

ただし、失敗してもいいのですが、あるひとつの条件を満たすならばとの留保はつきます。

それは投資の概念を正しく行政が理解していることです。

 

行政の予算の中には「投資的予算」と呼ばれるものがあります。人件費や維持管理費などの固定費でないものを指すと理解していただければ結構です。

この投資的予算には、道路建設や体育館建設なども含まれます。なぜなら、これらの建設は将来的な投資行為だからです。

 

私が申し上げているのは、こういった意味での投資ではありません。

投資の概念そのものです。

 

投資とは「将来の益を見込んで現時点での支出をなす行為」です。

この「将来の益」は、行政にとっては「公共益」を指します。ここに道路を敷設すれば、現在の住民にとっても便益が向上するのみならず、将来的な居住者増につながる。ここに体育館を建設することは、現在のスポーツ愛好家にとっての便益向上だけでなく、将来に大きな大会を誘致できる等々。

 

いずれにせよ、将来的な益を見込んで行政が支出するのであれば、それは投資です。

産業政策であろうが、道路建設であろうがそれは同じことです。問題は、「将来的な益」が抜け落ちて、目先の成功に走りがちであるという点なのです。

これも「失敗が許されない」行政マンに課せられた宿命です。

 

 

世界的な投資家であるウォーレン・バフェットは、2011年に来日した際に、「投資の極意」として2つの点を挙げましたが、そのひとつは「ビジネスをそれ自体に注目すること」でした。

「ビジネスをそれ自体に注目すること」です。多くのプロの投資家や学者たちが、毎日の株価に一喜一憂しています。しかし、株価やマーケットの動向を、毎日、毎週、毎月追うことで、投資が成功するとは、私は考えていません。株は、そのビジネスの一部分でしかないからです。注目すべきは、株価ではなく、事業そのものでなくてはなりません。常に株券ではなく、ビジネスを買うという投資姿勢が必要です。

企業の実態がマーケットや株価に反映されるまでに、ずいぶんと時間がかかってしまうことがあるかもしれません。しかし、事業の成功が一般に認知されるのにどんなに時間がかかろうとも、その企業が期待通りの高い成長をする限り、問題はありません。むしろ、認知が遅くなったほうが、投資家にとって都合がいい場合が多くあります。投資家にとっての「バーゲン価格」が続くわけですから。

 

この言葉を次のように置き換えてみましょう。

「ビジネスをそれ自体に注目すること」です。多くの自治体職員たちは、個別の事業に一喜一憂しています。しかし、イベントやPRの動向を毎月、毎年負うことで、投資が成功するとは、私は考えていません。イベントは、そのビジネスの一部分でしかないからです。注目すべきは、イベントの入場者ではなく、産業そのものでなくてはなりません。常にイベントや事業ではなく、ビジネスを買うという投資姿勢が必要です。 

 

行政が行う「投資」とは、投入財により地域経済が活性化し、市民が潤うという循環を描くものでなければなりません。

 

 例えば観光産業に行政が投資するのであれば、その投入財が「人を1,000人呼びました」「5000人の誘客がありました」で終わってしまっては、バフェットが言うところの「目先の株価に一喜一憂する投資家」に過ぎません。そして、プランナーやデザイナーが「所詮、役所の連中が考えることだから」と面従腹背で臨む仕事は、まさしくこういった事業、すなわち、一過性のイベントを並べていくような「お役所仕事」そのものです。

 

 重要なことは、そのビジネスそのものをどのように育てていくのかという視点であり、それはストーリーとして語られる戦略です。

(ちなみに、行政は必ずこういったストーリーを持っています。持っていますが……)

 

ところが、これが許されない土壌が役所文化にはあるようです。

その理由は、

 

①そもそも予算をつけられない

②「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢 

との2点に集約できるのではないかな?と私は考えています。前者は役所の外因理由、後者は内因理由と申し上げて良いでしょう。 

 

 

そもそも予算がつけられない

地方自治と言いながら、自治体が自由に使うことのできる予算規模は実に小さなものです。「国や県の補助メニューに載らねばできない」そんな事業が投資的事業の大半を占めます。

 勢い、自治体としては毎年出てくる国・県の補助メニューを見ながら予算を編成するとの作業に追われることになります。要は、自治体サイドからすると「国県の補助金をとってきてから、事業を組み立てる」という習慣が染みついています。

 

自治体がストーリーを描いて「この産業をこういった具合に発展させていきたい」と考えても、国県の補助金メニューがなければ歩みを進めることができません。

 

加えて、国の出すメニューとは「各省庁が出すメニュー」に他なりません。農水省が出すメニューは農水省が昌益に基づいて考えたメニューであり、経産省の同様のものとかぶらせるわけにはいかないという事情もあります。

 

これは由々しき問題なのですが、もはや個々の自治体が解決できるような問題ではありません。

 

 

 

「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢

 

観光産業であれ農林業であれ、特定の産業に対し行政が「投資」をする。その投資をする際に、単発のイベント的事業を並べるのではなく、大きなストーリーを描いて産業そのものを育てましょう…といった話をすると、行政からは「もっともな話です」という答えが返ってくることでしょう。

 

逆に

「そういったストーリーがうまく機能しているのか?」

「民間企業は、行政の投資財に対してちゃんと機能しているのか?」

という問いかけをするならば、

 

「そうは言っても、民間でできることは民間でやってもらわないと」

「ビジネスは民間が行うものだから」

と行政は防波堤を築くことでしょう。

 

ここに「それは民間がやることだ」という二律背反な姿勢が見て取れます。

・計画を立てるのは、私たち行政の仕事である。

・行政は公共的な役割を果たす以上、それ以上は手を出せない。

・したがって、その先は民間の仕事であり、我々は関知しない。

 

理屈としては理に適っているようにも見えますが、「投げっぱなしジャーマン(プロレスファン限定)」の理屈です。

・市民の税金を投入する。それは私たち行政の仕事である。

・行政はそれ以上介入しない。

・したがって、その税金投入の効果については行政は関知しない。

と言っているに等しいからです。

 

「行政は行政であるが故に、介入する」

「行政は行政であるが故に、その先は知らぬ」

その二律背反がなぜ出現するのか。

 

次回はもう少し、そのあたりを考えてみたいと思います。

【記録】 日清カップヌードルのCM

 

ワールドカップも直前。日清カップヌードルのCMがなんとも格好良い。

 


2:01 SAMURAI in BRAZIL / CUPNOODLE CM by 日清 ...

 

 

昔から、カップヌードルのCMは一風変わったものを流し続けてきた。

私にとって、カップヌードルのCMはここから始まる。


カップヌードル やかん体操 シュワルツネッガー.mpg - YouTube

 

まだ外人タレントが今ほど出ていなかった時代。シュワちゃんのこのCMは絶大なインパクトがあった。

外人タレントといえば、こんなものもあった。
  https://www.youtube.com/watch?v=4TOL9LUgWTc

「ソウルの帝王」ジェームス・ブラウンを連れてきて「ミソッパ!ミソミソ」と歌わせるとは。JBのイメージはどうしても「ロッキー4」でのものが強烈だっただけに、「仕事選べよw」と当時の私は思った。

 

 

そして、あの「hungry?」編が始まる。

このCMで「hungry?」とナレーションしている人物は、元阪急ブレーブスのピッチャーだったアニマル。そして、このCMはそのユニークさから日本人初のカンヌ国際グランプリに輝いた。

 


カップヌードルCM 原始人編 - YouTube

 

ちなみに、「Are you hungry?」の元ネタは、80年代初頭の「ハングリアン民族」シリーズだと思われる。しかしながら、このCMはものすごい昭和臭がするのと、あっさりとまとめてしまったため、まったく記憶にない。

そう考えると、今に至るカップヌードルCMの斬新さは、やはり「Are you hungry?」から始まるのだろう。

 


日清カップヌードルCM ハングリアン民族 - YouTube

 

 

 

 

 

「日本人が発明したものの中で、20世紀最大の発明品は何か?」との問いに対して、日本人が1位にあげたものが、カップラーメンだった。ちなみに、2位はカラオケ、3位はSonyウォークマンだった。

日本人に広くカップラーメンが周知されたのは、あさま山荘事件だった。鍋のカレーが凍るという極寒の地で、カップラーメンを美味しそうにすする警官たちの姿が全国の茶の間に報道されたときに、国民は外で食べられる即席めんの存在を知った。
(それまでは、鍋でつくるチキンラーメンが主流)

 

20世紀が終わり、21世紀が始まる。

そんなときにカップヌードルのCMはこんな感じだった。


【CM】20世紀カップヌードル【王貞治編 TV CM Ad WorldCMTube - YouTube


【CM】20世紀カップヌードル【ゴルバチョフ編】 - YouTube

 

 

 

そして、次にきたのが賛否分かれる「No Border」編だった。このシリーズは反戦色が強く、中には放送中止に追い込まれたものもある。アミューズメント性よりもメッセージ性を追求した作品が多く、個人的には好きなシリーズだった。

 


日清カップヌードル「NO BORDER」 消える国境篇 45s - YouTube

 


お蔵入りしたCM 日清カップヌードル「NO BORDER」 少年篇.flv - YouTube

 

 

 

2004年からは、FREEDOMシリーズが始まった。大友克洋を迎えて23世紀の世界を描いた。音楽は宇多田ヒカルが担当していた。そうか。この当時は宇多田ヒカルの絶頂期だったな。

 


日清 カップヌードル TVCM 3pattern 「FREEDOM-PROJECT」 (NISSHIN ...

 

 

FREEDOMシリーズが終わって、時々、木村拓哉が出てきた。

 


日清 カップヌードル TVCM コロ・チャー 木村拓哉 Takuya Kimura (NISSIN Cup ...

 

 

 

そして、伝説の「世界はひとつ」シリーズが始まる。

これには腹を抱えて笑わせてもらった。歌手の画像をCGで編集し、替え歌をあてるという手のこんだつくりになっている。ちなみに、替え歌を誰が歌っているのか。それは公開されていない。

フレディ・マーキュリーを持ってくるあたりが良い感じ。シュワちゃんにやかんを持たせたテイストが引き継がれている。

 


日清 カップヌードル CM Freddie Mercury 30秒版 - YouTube

 


日清 カップヌードル Bon Jovi CM 息子さーん - YouTube

 

 

 

 

 

 そして、2011年3月11日の東日本大震災の後に、印象的なCMが出てくる。

立ち上がるガンダムの姿に励まされた人も少なからずいただろう。

私はそうだった。

 


CM 日清食品 カップヌードル「ガンダム」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM 「スターウォーズ ヨーダ」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM 井上雄彦 「武蔵登場」篇 - YouTube

 

 

 

昨年から始まったのがSurviveシリーズ。
何というか、無駄にスケールがでかくて無駄にクオリティが高すぎる……

「グローバリゼーションの波を乗り越えようとする等身大の今の若者たちの気持ちを、幕末から明治初期の西洋化に立ち向かう武士のような世界観で描きました」
「闘いのシーンをハリウッドにも負けない圧倒的なスケールの映像で描くために、選んだ撮影場所は映画の王国ニュージーランド
というのが日清の公式発言なのだけれどw


カップヌードルCM 「SURVIVE! グローバリゼーション 篇」 60秒 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「就職氷河期」篇 - YouTube

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「初めての合コン」篇 - YouTube

 

 


日清 カップヌードル CM SURVIVE 「リア獣との闘い」篇 - YouTube

 

 

ネットやらない人に「リア充に負けない!」と言ったところで、果たして何人の人が理解してくれるのだろう。でも、そんなちいせえことは気にしない。それがカップヌードルのCMなのだから。

 

 

 

堪能しました。
なぜに、こんな手間暇かけてブログ記事書いてるのかというと、単純に、私が見たかっただけなんです。昔のカップヌードルのCM。
「あ~、あったな。あった」「懐かしいな~」
今回のサムライのCMも秀逸でした。

これからも日清さんは我々を楽しませてくれることでしょう。

 

 

【雑感】 自閉症の子供が感じる世界と私的言語

「Anti-Sim」というオンラインゲームがある。

2013年にカナダの医療フォーラムで公開されたものだが、これは自閉症の子供が感じる世界を体感できるものだ。

一括りで「自閉症」と表現するが、その症例は多岐にわたる。
この「Anti-Sim」は、その症状の中でも聴覚過敏症にフォーカスしている。

 

ゲームは下記のURLにて行うことができるので、体験されることをお勧めする。

http://gamejolt.com/games/strategy-sim/auti-sim/12761/

 

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さて、体験された感想はどうだったろう。

自閉症の子供が「耳ふさぎ」をする意味がようやくわかった。

我々が無意識にやっている聞き分けができない世界とは、かくも騒々しく苦痛に満ちた世界だったのだ。



哲学者ヴィトゲンシュタイン「私的言語」という概念を提示した。

 

誰かが他の誰も理解できない言語を理解しているならば、これは私的言語と呼べる。ただし、これは「その言葉を話す人が、この世の中で独りしかいない」という意味ではない。それならば、絶滅寸前の言語を話す最後の一人は私的言語を話していることになる。かつて、アイヌ語の研究者であった金田一京助氏が「アイヌ語で喧嘩できる相手がいない」と寂しがったが、金田一京助氏にとってのアイヌ語は私的言語ではない。

 

私的言語であるとは、原理的にただ一人の人しか理解できない言語である。

確かに、「私は歯が痛い」と言うとき、歯の痛みを知るのは私だけである。どれほど痛いのか、それを知るのは私しかいない。しかし、「私は歯が痛い」と言うとき、周囲の人々はその意味を理解してくれる。今まで虫歯になったことのない人以外は。

私は男性であるが故に出産の苦しみを知らない。ただ、「激痛である」という「痛み」そのものを感じた経験はある。したがってそこから類推することができる。
(あくまでも類推するだけだが)

ただ、類推すら不可能な事態に陥ったとき、我々に残された途は「遠ざける」より他になくなる。ややもすると、我々は「自分たちに理解できないものを遠ざける」という傾向があるように感じる。
その一方で、「理解できないのならば、理解しようと努める」という方向も働く。理解できないからこそ、私は理解したいのだ!という人々がいる。だから、世の中はうまくいっているのかもしれない。

このオンラインゲームで、自閉症の子供たちの世界がすべて理解できるとは思えない。ただ、少なくともその手掛かりにはなる。

こういったソフトがこれからも数多く世に出ることを願って止まない。

 

【読書】 日本史の謎は「地形」で解ける。

 

何気なく本屋によって、面白そうだなと思った本がアタリだったときの興奮はAmazonでは味わえないものだが、久しぶりにそれを味わった。

 

日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 (PHP文庫)

日本史の謎は「地形」で解ける【文明・文化篇】 (PHP文庫)

 

 

時折、気が向いた時に、役所に自転車に乗って行くことがある。

おおむね1時間強のサイクリングになるのだが、その際に、決して新道を通ることはない。確かに新しく作られた道は真っ直ぐで目的地までの最短距離を進むことになるのだが、自転車で行くにはアップダウンがありすぎる。車で行くには最適なのだが、自転車で進むには辛い。したがって、旧道を走ることになる。等高線に沿ってできるだけ高低差をつけずにひかれている旧道は、確かに距離こそ伸びるものの歩いたり自転車で行くには最適なのだ。

 

古代の人間には理性的行動はできない。呪術的、宗教的なルールによって動く未開の野蛮人である……との思い込みは正しくない。彼らの倫理が宗教的、呪術的であったかもしれないが、その行動においては極めて合理的である。

現代の人間にとっての合理的行動が「車に乗って真っ直ぐな道を進む」ことにあるのならば、古代人の合理的行動は「等高線にそってなだらかな道を進む」ことにあったかもしれないのだから。

 

 

 著者は元建設相の官僚である。土木工学の専門家として、歴史の様々な謎を「地形」の分野から解き明かしている。現代に至るまで、人々の行動を決するものは自然であった。すなわち、「地形」である。

 

もちろん、すべての謎が「地形」だけで解けるわけではない。ただ、いくつかの謎が「われわれ現代人の基準で考えるがゆえに解が見えてこない」と指摘しているのだ。

 

私が興味をひかれたのは、「なぜ日本の旗は日の丸、すなわち太陽をモチーフにしたのか」という章だ。

世界的に見れば、太陽をモチーフにした国旗は少なく、むしろ月や星をテーマとする国旗の方が多いと書中にある。言われてみればそのとおりだが、日本人にとって太陽とは万物を生み出す根源であり、天照大神に代表される神格化された存在でもある。

しかし、世界的には月や星の方がぬくもりと優しさを表現するのだと。

 

その理由について詳細を述べることは避けるが、昔から存在する「なぜアフリカは発展しなかったのか」という疑問に対するひとつの回答がここにあると思った。

現在の中国がアフリカに進出していることからもわかるように、アフリカはエネルギー源の宝庫であった。石油、石炭、鉄、ダイヤモンド等々およそ人の使うエネルギーでアフリカにないものはない。しかし、そのアフリカが最も近代化が遅れているのはなぜか。その回答は様々に挙げられている。曰く、植民地時代が長かったからだ。曰く、教育が不全だからだ。
そして、本書にある回答は、そこに大きな波紋を呼ぶものなのだろう。

 

「なぜ江戸は世界一の大都市になったのか」を解説した章もユニークだ。都市を形成するにはエネルギー源を確保しなければならない。そのエネルギー源が枯渇すると、古来から遷都が行われてきたという著者の主張はもっともだ。

ならば、なぜ家康は江戸に幕府を開いたのか。その巨大なエネルギー源を確保する方法こそが幕藩体制の肝になったこと。そして、そのエネルギーの集積方法が確立したことによって江戸は当時世界一の大都市になったことが説明されている。

その余波として、幕末においては日本の森林は枯渇の危機に追いやられていたことも。

 

 

最終章の「ピラミッドはなぜ建設されたのか」も圧巻だ。

なるほど、土木工学の視点から眺めるとそのような説明が可能になるのかと興奮して読み切った。

 

 

【雑感】 横田めぐみさんたちを見殺しにしたのは誰だ

拉致被害者再調査北朝鮮が行う、その見返りとして日本の対北朝鮮独自制裁を緩和する。これに対して、おひざ元の自民党から懸念の声が出ているという。

 

自民党は30日、外交部会と北朝鮮による拉致問題対策本部の合同会議を党本部で開き、日本人拉致被害者らの再調査をめぐる日朝両政府の合意について政府側から報告を受けた。出席者からは北朝鮮側が確実に再調査を行うのか懸念する声が相次いだ。

会合では外務省の伊原純一アジア大洋州局長が「拉致問題は解決済み」としてきた北朝鮮の立場に「明らかに変更があった」と説明。「生存者が発見された場合には、帰国させる方向で必要な措置を講じる」と合意文書に明記した点を成果として強調した。これに対し、出席者からは「また騙される懸念がある」「調査を始めただけで制裁解除をしては『食い逃げ』されないか」など北朝鮮を警戒する声が続出

実行性を担保するため「(帰国していない)政府認定の拉致被害者12人については短期の期限を区切ってはどうか」「約束を守らなかった場合には合意の破棄や重い制裁を科す可能性もあると伝えて欲しい」との提案や要望も出た。伊原氏は「(再調査の)体制や期限については今後、協議で明確にしていく」と理解を求めた。

 (産経新聞5月31日)

 

調査をしただけで制裁緩和をしては、「食い逃げされる」だけではないのか?という疑問はもっともだ。だが、この疑問は根本から誤っている。その的外れさは、「再調査をすれば制裁を緩和する」との条件を次の条件に置き換えたときに明らかになるだろう。

拉致被害者を返してくれるのならば、制裁を緩和してもいい」

この要求がいかに馬鹿げているかは、北朝鮮サイドに立ってみればすぐにわかる。

 

私が北朝鮮首脳部にいたならば、必ずや次のように考えるだろう。

「そうか。拉致被害者を返せば制裁を緩和し、あわよくば食料供与もしてくれるのならば、新たに拉致被害者を作ればよい」

 

ここに山賊がいる。山を降りれば集落がある。山賊は山を降りては人をさらってくる。山賊の内通者も村の中にいるのだが、これを捕まえることもない。しかも、面白いことにこの村では「さらった人間を返してくれるのならば、お金や食料と交換しましょう」と言ってくる。

山賊がやることはなにか。まずは人をさらうことだろう。

 

おわかりだろうか。

先ほどの「拉致被害者を返してくれるのならば、制裁を緩和しても良い」という要求は、現在の我が国の現況では「日本国民をさらってください」と言っているに等しいのだ。

 

まずは、国内法で一刻も早く「スパイ防止法」を策定することだ。

 

冷静に考えてもらいたい。

日本国政府は12人の拉致被害者を公式に認めている。この事実は何を意味するのだろうか。

日本の公安は北朝鮮の内通者及びその痕跡を細かに把握しているということだ。でなければ、そもそも公式に認定することなどできない。公式に認定するということは、北朝鮮サイドが「それは日本のでっちあげだ」と反論してきたときに「そうではない。こういう証拠がある」と提示できる状態にあることを意味する。逆に、それをよく理解しているからこそ、北朝鮮サイドは政府認定に対して反論をしない。

 

日本の公安は掴んでいるのだ。

実際に私の知人の公安関係者は言外にその事実を認めている。彼の名誉を傷つけたくないので詳細を述べることはしないが、公安はかなりのところまで詳細を掴んでいる。

しかし、事実を掴んでも公安は動けない。

なぜなら、動くための根拠法令がないからだ。

公安は歯がゆいだろう。地道に足を使って情報を集め、ヒューミタントによる諜報活動で裏をとり、ほぼ確定的とまで言える事実を固めても、目の前にいる北朝鮮内通者を確保することもできない。

 

「何を言っているのか。刑法には外患誘致罪があるではないか。それで裁けば良いだけのことだ」

と主張する者もいる。それこそ、何も知らないバカ者の戯言だ。

外患誘致罪は、その性質上、外交問題と直結するために司法は極めて消極的な態度を示してきた。この罪状で審判された例もなければ、訴追された例もない。唯一、その可能性があったのは、あのゾルゲ事件であるが、あれほど耳目を集めた事例ですら公判維持の困難さから訴追を見送られている。

 

つまり、現行法制下で横田めぐみさんを拉致した人物、そしてその手助けをした日本人たちを裁く方法はない。

 

自民党の先生たち。

「食い逃げされるのではないか」などという心配をする前に、まずはスパイ防止法を作りましょう。

 

こういった話をすると、必ず「人権侵害の恐れがある」と反論してくる人がいる。

私は人権を擁護する。しかしながら「人権は天賦のものであり、生まれながらにして有する権利だ」というテーゼを絶対視していない。

なぜなら、そういった考え方は所詮はコミュニティ内でしか通用しない、いわばルールに過ぎないからだ。「人権なんぞに何の価値があるのだ」とコミュニティに入ってくる「ならず者」に、人権はなんの反撃もできない。

 

 

スパイ防止法は人権侵害につながる」と言う人々がいる。

ならば、横田めぐみさんたちの人権はどうなるのだ。公式認定された12人以外の拉致被害者の人権はどうなのだ。もっと早くスパイ防止法を定めて、北朝鮮からの入国者やその手引きをした日本人たちの活動を抑えておけば、拉致被害者たちの人権は守られたのではないのか。

 

ジャーナリストとして信頼に値すると常々敬服している青山繁晴氏が参考人として陳述している内容をご覧いただきたい。

時間のない方は6分10秒あたりからご覧になられることをお勧めする。

 

 


【青山繁晴】言魂「拉致被害者は日本国民だ!」衆議院 国家安全特別委員会 参考人招致 ...

 

 

 

無法者とは、法の枠外に住む者のことである。

その無法者に対するには武装するより他にない。

武装とは、この場合「法による武装」である。

 

 

【雑感】 議員バッジのお話

この世界に入って、はや10年。本当に早いものです。


今回、全国市議会議長会で10年表彰を受け、新たなバッジをいただきました。「これまで以上に市民のために働きなさい」との意味合いが込められているのでしょう。これからもがんばります!

 

さて、俗に議員バッジと呼ばれていますが、正式名称は「議員徽章」。

案外とご存じない方が多いのですが、10年選手と15年選手、20年選手と25年選手ではつけているバッジが違います。

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左が10年選手バッジ、右が普通のものです。どこが違うかおわかりですか?
全体的に色合いが違っています。

 

これは10年モノが「16金製菊八弁」と呼ばれるものになっているためです。ちなみに15年モノだと中心にルビー(赤色)が入ります。20年モノだとスピーネル(青色)といった具合に、小さな宝石が入るようです。実は私も同僚議員に見せていただいてはじめて知ったくらいでして、25年、30年、35年となるとどうなるのかは知りません。


ちなみに、議員バッジの裏側ってどうなっているかご存知ですか?

 

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光の加減で見にくいのですが、裏側には「USA」と刻印されています。

 

表は日本を表す菊に彩られていながら、裏にはきっちりと「USA」

 

いかにも、今の日本を表しています。

【雑感】 役所のやることがうまくいかない理由とは? (前篇)

初めに

誤解を避ける意味で、冒頭に申し上げます。これから述べる内容は、勝山市役所を念頭に置いてのことではありません。おそらく津々浦々の行政に大なり小なり当てはまることでしょう。

 

そして、これも念を押しておきたいのですが、「役所がダメだ」という結論を導き出すのが、本稿の目的ではありません。後で述べるように、マックス・ウェーバーは官僚制度に何かしらの期待を抱いていたのです。血縁によらず、専門的知識労働者たる官僚たちがその持てる力をフルに発揮できるならば、必ず世の中はうまくいくはずだ…と。

ところが、なぜかそれはうまくいかないようです。

それはなぜなのだろう。私はそこを知りたい。

もちろん、その答えがすぐに導き出せるはずはないのですが、つらつらとそういったことを考えてみたいのです。

 

そして、私はこうも思うのです。

個別の役人・官僚の人格が問題なのではない。官僚制度のメカニズムそのものに問題があるのではないか。官僚制度が人間性そのものに訴える『何か』があるのではないか。

そこを正確にとらえないと「お役所仕事」はいつまでたってもなくならない。

 

 

  

お役所仕事とは?

 

「お役所仕事」という言葉があります。

 

この「お役所仕事」を考えたのはマートンという社会学者ですが、マートンの考え方を理解するためには、まずはウェーバーについて語らねばなりません。でないと、「お役所仕事」の本質を見誤ることになりますので、しばしのお付き合いを。

 

M・ウェーバーはドイツの人。19世紀から20世紀にわたって活躍しました。 『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『職業としての政治』『職業としての学問』などは現在でも大きな影響を及ぼしています。

 

ウェーバーは近代官僚制度についても考察しました(というか、おそらく近代官僚制度の研究は彼に始まると言っても良いでしょう)

 

統治をするには、統治のシステムが求められます。この点は、近代であろうが古代であろうが変わりません。統治者がいること。統治のルールがあること。そして、統治のシステムがあること。この3点は、現在も過去も同じなのです。

中世の家臣団による統治システムでは、血縁によるつながりや感情的な結びつきが重要視されました。これに対し、近代官僚制度は「法というルール」に基づき「歴史的特権身分が廃止された人々」による統治の手法だとウェーバーは言うのです。

 

おそらくウェーバーは民主制度の確立において、近代官僚制度が果たす役割に期待していたと私は思うのです。法というルールに則り、その職務に精通した人々が特権に依らず選ばれて従事することで、市民に対する福利は増すはずだと。

 

そして、ウェーバーは近代官僚制度を詳細に定義しました。

この定義から「官僚制度の逆機能」を引き出したのがマートンです。

 

マートンは主張します。

ヴェーバーの言うことはもっともだ。だが、ヴェーバーの主張するような『官僚の特性』が正しい方向に働けば良いが、悪い方向へ働くと次のような点が出てくる」

 

彼が『官僚制の逆機能論』で特に強調したのは、次の3点でした。

 

①法や規則の手段の自己目的化

ウェーバーが近代官僚制度の特徴として挙げたのは、「法というルールに従う」ことでした。ところが、この法令・規則の順守が行き過ぎるとどうなるでしょうか。

本来、法例は「あるべき姿を達成するため」に制定されるものです。ところが法令・規則の順守が行き過ぎると、本来の目的達成を次にしてでも法令・規則を守らねばならないという、手段と目的の逆転現象が発生します。前提となっている事実・状況が変化しても法令・規則を貫徹しようとする原理主義的発想になり、臨機応変な対応をすることができません。

 

②官僚組織の同調主義・自己保存化

形式的に法令・規則を適用する「形式主義」が行き過ぎると、今度は「秘密主義」が頭をもたげてきます。マートンは言います。官僚組織は外部に対して法規の絶対化を主張し妥協することを知らないが、身内に対しては情緒的な同調をする。官僚組織の存在意義が自己保存と自己肥大に傾くと。

 

特に、日本の文化風土として、組織は『疑似血縁団体』としての性格を帯びる傾向があります。「会社は家族のようなもの、会社のために働く」といった「会社人間」が典型例で、会社とはひとつの血縁団体でもあります(ですから会社からの解雇が村八分・勘当といった意味合いを帯びるのですが)。

 

組織は、企業であれ行政であれ何らかの目的を必ず持っています。その点は「家族」といえども同じです。ただ、家族が他の組織と一線を画しているのは、家族の場合、その目的は「存続すること」「維持すること」が第一義であり、「活動」を中心に置いていないことです。石油を販売しない石油会社はありませんし、モノを作らない製造会社も考えられません。企業はその「活動」を中心に置きます。しかし、日曜日にお父さんが子供を遊園地につれていかなければ成立しない家族というものはありません。

家族は、活動を中心に置かず、その維持を中心に置きます。

そして、組織が『疑似血縁団体』……すなわち、「擬制的家族」としての性格を強く帯びるようになると、組織の自己保存が最優先されるようになります。

「わかってはいるのだけれど、切るには忍びない」といった感覚を否定しづらいのはこの情緒が理性的判断を阻害するためです。

 

③官僚組織の非人格的な画一的対応

「お役所仕事」のイメージとは「愛想がない、融通がきかない、機械的対応」といったネガティブなものばかりですが、これは行政サービスという平等性を突き進めていくと、必然的にこうなってしまうわけです。

ウェーバーは近代官僚制の特徴を「非人格的」であることに求めました。「非人格的」であることは「非人間的」であることと異なります。人によって態度を変えることなく、サービスを提供する。職員の「この人は好き、嫌い」といった個人的嗜好で態度が変わる、こういったことをウェーバーは「人格的」として非難しました。

ところが、「人によって態度を変えることがない」ということが裏返されて「誰にでも同じような対応しかとらない」、挙句に「市民のニーズに応えられない」という結果に陥っているとマートンは主張します。

 

 

 

 

前提

 この「お役所仕事」の問題は、実は、もの凄く議論が広範囲にわたり、かつ、根が深いものです。

一番まずいのは、「役所はダメだ」「役人は世間を知らない」「役人は馬鹿ばっかりだ」と言ったレッテルを貼って議論を済ませてしまうこと。これでは、問題は何も解決しません。

 

 この問題を考える際には、次の3つの前提を置いた方が良いと思われます。

 

①「お役所仕事」の改善は、我々の生活を豊かにするであろうこと

 よく「行政」と「政治」を混同される方がいらっしゃいますが、この二つは厳密に考えると全く異なるものです。

 

 行政学のテキストなどでは、行政を次のように定義します。

「政治体系において権威を有する意思決定者によって行われた公共政策の決定を実行することに関連する活動」

 

行政とは、政策を実行すること。これが本来の意味です。そして、現代社会では市民生活の隅々にまで行政作用が及んでいます。朝起きて顔を洗う。その水は上水道です。通勤のために駅まで歩きます。その道は公道です。車での通勤をする方は、自動車を保有されていることでしょう。自動車は税金の塊です……といったように、福祉・教育・労働・産業政策、租税等々、生活の隅々にまで行政作用は及んでいます。

 

つまり、「お役所仕事」を改善するということは、我々の生活そのものを豊かにするのだという前提から話を進めなければなりません。 

 

 

 ②「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない

上記の前提に立つのであれば、「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない……との考え方にたどり着きます。

 

「お役所仕事」の改善は、私達市民の生活そのものを劇的に変えるかもしれない。ならば、市民もひと肌脱ごうではないか。そういう発想に立ってもらうと、話は随分とやりやすくなります。

 

役人も市民です。我々も市民です。同じ視点で、我々の生活を豊かにするべく考えようではありませんか。

それこそが「地方自治の本旨」だと私は思うのです。

 

③「お役所仕事」の張本人は、至極真面目に仕事をしている

ならば、肝心の役人の人たちはどうなのか?というと、実は彼らは至極真面目に仕事をしています。中には、ごくごく少数ではありますが、そうでない人もいますが……まあ、それはどんな組織にもいる人たちです。

 

ほとんどの役人たちは真面目に仕事をしている。だからこそ、問題なのです。

 

企業でいうならば、利益のでない仕事に従業員が精を出すことほど無残なことはありません。顧客である市民に「お役所仕事」と叩かれながら、そのお役所仕事に本人たちは一生懸命取り組んでいる。そして、役人自身が「役所が叩かれるのはしょうがないよ」と半ば諦めている。

 

喜劇を通り越して、悲劇的ですらあります。

社会的リソースとして、役人の皆さんは貴重です。彼らの能力を開放する仕掛け、仕組みはないものでしょうか。

 

ウェバーは民主主義の担い手として官僚制度に期待しました。それは官僚制度がある種の特徴を持っているからです。そして、その特徴を突き詰めてしまうと、逆に民主主義を阻害するのだと主張したのがマートンでした。

コインの裏表のような、この議論。我々はどのように考えればよいのでしょうか。

 

 (かなり話が長くなりました。この続きは、後編へ)

【雑感】 「お得なふるさと納税生活」を後押しして、勝山市をPRできないものか

TV番組で注目を浴びた元プロ棋士の桐谷さんは、株主優待で生活している人です。

そして、最近注目を浴びているのが「ふるさと納税でお得な生活」を送るスタイルだそうです。

 

ふるさと納税とは?

そもそもふるさと納税ってなんでしょう。

この制度は、わが福井県の西川知事が提唱したものです。ここには「地方で生まれて地方で育った人々が都会へ出て行ってしまう。ならば、都会にいる人々が地元へ何らかの還元をしたいと思った時に、税制上の優遇措置を認めて欲しい」との思いが込められています。

 

そして、この制度は認められ、多くの自治体がふるさと納税による収入を得ることになりました。もちろん、勝山市にもふるさと納税で多額の寄付をいただいております。本当にありがたいことです。

 

寄付をいただいた人々には、何らかの御礼をするのが人の道というもの。したがって、地元の特産品や様々なサービスを寄付者に対してお返しします。

 

さて、ここでふるさと納税の控除についてお話ししましょう。

 

ふるさと納税では、寄付金のうち2000円を超える部分については所得税・個人住民税から「全額控除」されます。

 

所得税

  所得金額の40%を限度に、(寄付金ー2000円)を所得控除

 

②個人住民税(基本分)

  (寄付金ー2000円)×10%を税額控除

 

③個人住民税(特例分)

   (寄附金-2千円)×(100%-10%(基本分)-所得税率(0~40%)

 要するに、寄付金から2000円を引いた額を全額控除しますと。下記の図は総務省が発表しているもので、この図を見ていただければイメージが湧くことでしょう。

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ただし、これを無制限に認めてしまうと色々と面倒なことが発生しますので、控除が認められる寄付金の上限は定まっています。だいたいどれくらいまで認められるのかは年収や家族構成等によって変わりますので、概略は総務省のホームページをご覧ください。

 

控除の対象となる寄付金額は、一般家庭ならば住民税の1割くらいまでが目安のようです。

 

さて、そこで考えるわけです。

「私はA市の住民である」

「私はA市に年間30万円の市民税を納めている」

ふるさと納税の控除上限額は3万円である」

「この3万円をB市にふるさと納税することにした」

「この3万円は税額控除される上に、様々な特典がついてくる」

これが、「ふるさと納税でお得な生活」です。

 

感覚としては「便利なお取り寄せグルメ」みたいな感じでされているようです。

 

 寄付者に対する特典は自治体によって様々です。ふるさと納税ポータルサイトまで出現しているので、詳しくはそちらをご覧ください。

 

広報・PRとしての「ふるさと納税

ふるさと納税は、なにも出身地だけしかできないものではありません。縁もゆかりもない自治体に対してふるさと納税をすることはできます。なぜなら、「納税」という名称を使っていますが、これは「寄付金」だからです。

 

ただ、

ふるさと納税を『お取り寄せグルメ』みたいに使うのはいかがなものか」

「本来の趣旨からかけ離れてしまっているのではないか」

というご意見も一方にあることは間違いありませんし、私はその意見も否定しません。

 

ただ、現実に「ふるさと納税の制度を楽しもう」という人々が増えているわけですから、これを活用してPRをするとの視点も必要かと思うのです。

 

 

長野県の下伊那郡阿南町ふるさと納税では、同町でとれたコメを寄付者に送っています。この町の考え方は一風変わっていて、「寄付金と同額のコメを送る」のです。

「寄付金と同額のコメを送ったのでは、町に収入が入らないじゃないか?」と思われるかもしれませんが、阿南町はこの制度を農業支援ととらえたのでした。

つまり、こういうことです。

①寄付者にとっては同額のコメを手にできてうれしい。
 (しかも寄付額は税金から控除される)

②コメの生産農家は、JAに卸すよりも消費者価格で買い取ってくれる阿南町に卸す方がうれしい。

③生産農家と寄付者とのつながりができて、農家が直販できる機会も増える。

自治体に寄付してくれる。これはありがたいことです。その寄付金を自治体の振興のために使うのであれば、阿南町のようなやり方もあるのです。

ちなみに阿南町ホームページを見ると、「農業支援を目的としたふるさと納税」としっかりと明記してあります。そして、どうやら今年の受け付けは終了したようです。コメの生産計画いっぱいまで応募が殺到したのでしょう。

どこにでも知恵者はいますね。脱帽です。

 

 

山形県白鷹町では、電話一本で何度でも寄付の申し込みができます。しかも、寄付申込みの代筆作業までお役所がしてくれます。

 

ふるさと納税の特典は、地元の産品だけではありません。ホテルの宿泊、イベント等、サービスは多岐にわたります。そういったサービスを人々に提供し、勝山のPRをするとの視点も必要になるのでしょう。

 

【雑感】大飯原発運転差し止め判決の不可解さ

福井地方裁判所にて、大飯原発運転差し止めの判決が出た。

 

判決文の全文を読みたいものだとおもっていたところ、それが掲載されている。実に、インターネットの世の中というのは便利なものだ。ぜひ、これをご覧の皆さんもリンク先から一読されたい。

 

さて、原発再稼働に賛成か反対かという立場を抜きにして、この判決文を眺めてみたいのだが、「なんとなく雲をつかむような判決文だ」というのが第一印象。

 

というのも、裁判所の根拠としているのが「人格権」だからだ。

 

当たり前の話だが、裁判所は法律に基づいて判断を下す。法のないところに裁判所が判断を下すことはできないわけではないが、それにはそれでルールが求められる。裁判官は自己の良心に従うことは憲法が保障しているが、「裁判官が好きになんでも言うことができる」ことまで保障しているわけではない。

 

原発の運転を差し止めることは、原子炉等規制法(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律)において、原子力規制委員会がすると定められている。具体的には、第43条の3の23に規定があるので、リンク先からご覧いただきたい。

 

もう一度申し上げるが、原発の運転を差し止めることは原子力規制委員会の権限である。この構造をひっくり返すために、 ここで「人格権」が出てくる。ここがよくわからない。まずは判決文を見てみよう。

個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益は、各人の人格に本質的なものであって、その総体が人格権であるということができる。人格権は憲法上の権利であり(13条、25条)、また人の生命を基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見出すことはできない。したがって、この人格権とりわけ生命を守り生活を維持するという人格権の根幹部分に対する具体的侵害のおそれがあるときは、人格権そのものに基づいて侵害行為の差止めを請求できることになる。人格権は各個人に由来するものであるが、その侵害形態が多数人の人格権を同時に侵害する性質を有するとき、その差止めの要請が強く働くのは理の当然である。

ひょっとしたら、これは「訴えの利益」、つまり原告適格の釈明をしているのだろうか?とも思わせる文章である。訴えの利益とは、「訴えることができる人(原告適格)は、その訴えによって利益を得る人たちである」との考え方に基づく。

 

そこで問題になるのは、上記の判決文が訴えの利益を説明するものであると同時に、判決文の理由そのものになってしまっていることだ。

 

 ①生存の危険は人格権の侵害である。

 ②だから、原告には訴えの利益がある。

という論旨と

 ①生存の危険は人格権の侵害である。

 ②だから大飯原発は停止する。

という論旨がダブってしまっている。そして、両方の論理に共通するのは

原発は危険だから」

との前提だ。これでは「タメにする議論」と言われても仕方がない。

 

 

 

そして「原発は危険だから」という前提を説明すべく判決文は続く。

 

よくわからないのは、

東日本大震災レベルの大地震が来たらどうするのだ?」

東日本大震災は4022ガルの規模だった。大飯原発の想定規模は1260ガルだが、基準値が低すぎるのではないか」

と裁判所は主張するのだが、東日本大震災で被害を受けた原因は津波である。そこを裁判所は意図的に無視しているかのようだ。

 

被告は、大飯原発の周辺の活断層の調査結果に基づき活断層の状況等を勘案した場合の地震学の理論上導かれるガル数の最大数値が700であり、そもそも、700ガルを超える地震が到来することはまず考えられないと主張する。しかし、この理論上の数値計算の正当性、正確性について論じるより、現に、全国で20箇所にも満たない原発のうち4つの原発に5回にわたり想定した地震動を超える地震が平成17年以後10年足らずの問に到来しているという事実を重視すべきは当然である。

「理論上の数値計算の正当性、正確性などはどうでもいいのだ」と言わんばかりの判決文には驚く。

「現に、想定よりも大きな地震が10年の間に到来しているではないか」と言うのであれば、逆にその想定外の地震を原因として倒壊・メルトダウンに至った原発があるか否かを述べねばならないはず。

 

 

こういった判決文を見ていると、「正しく怖がる」ことの難しさを実感する。
積み重ねてきた技術的蓄積も、理論的見解も「そんなもの意味はない。怖いものは怖いのだ」と言い張る人々が存在する。難しいものだ。

 

 

【雑感】シャレたお役所って無理なのかな?

一度で良いから見てみたい役所

私にとっては、名護市役所

 

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見てみたいですね。建物もユニークな外観ですが、この外観のユニークなところは「閉鎖的でない」という点。中途半端にあけっぴろげなところがたまりません。

実際に、テラスで職員と市民が会議をしたり、夏の夕方ともなれば会議室からテーブルを出してちょっとした宴会をするそうです。

 

「仕切りをなくす」

これはとても大切なことです。仕切りをなくせば話し合いも案外とスムーズにいったりします。食事をしながら、酒を酌み交わしながら話をしていると、いつの間にかおさまるところにおさまっていたりするのも、仕切りをなくしたからです。「ネクタイ外して胸襟を開いて」というやつです。

 

勝山市役所の1階に入ると、市の職員たちが大きな声で迎えてくれます。

「こんにちわ」

「おつかれさまでした」

昔に比べると、ものすごく明るい雰囲気になりました。

 

そこで、もうひとつ進んで、「仕切りをなくすとどうなるだろう?」

 

今の市民課はこんな感じです。

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雰囲気が伝わりにくいのは、私の画力の低さゆえです(苦笑)。まあ、だいたいどこのお役所もこんな感じでしょう。

 

必ず仕切りがあります。これが当たり前だと私も思っていましたが、この仕切りをなくすとどうなるのでしょう。

 

多分、市役所1階の市民課はこんな感じになるはずです。

 

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丸テーブルがあって、職員と市民が相談したりお話したりする。お茶のみながらでもいいと思いますよ。

 

「仕切り」のもつ意味

仕切りとは、「仕切りから向こうはお前たちの世界、仕切りからこっちは俺たちの世界」という一線を引く役割を果たします。

 

でも、「市役所でその仕切り線を引く必要がどこにあるのだろう?」そこを考えてみると、実はさほど必要性はありません。

 

「仕切り」を入れるのは、 おそらくスペース的な問題もあるのでしょう。職員のための机を置かねばなりませんから。

でも、よくよく考えてみれば、職員の机がそこになければならない必然性も見直したいわけです。

 

例えば、ホテルを考えてみましょう。

ホテルには、チェックイン等をするためのカウンターが必ずあります。あれもひとつの仕切りです。でも、ホテルのロビーに職員の机は置いてありません。スーパーマーケットの売り場にも職員の机は置いてありません。ホテルのロビーはお客様がくつろぐ場所であり、スーパーマーケットの売り場はお客様が買い物をする場だからです。

 

逆の視点から考えてみましょう。

ホテルを相手に仕事をしている会社の営業マンは、ホテルのロビーのカウンターには行きません。ホテルの事務所に直接行きます。スーパーマーケットに営業に行く人たちも、スーパーの事務所へ行くことでしょう。なぜなら彼らはお客様ではないからです。

 

ということは、市役所1階の市民課に職員の机がずらりと並んでいるということは「私たちが仕事をしている場所に、市民の皆さんに来てもらう」ということです。

 

私は市の職員を責めているわけではありません。職員の皆さんは献身的に業務に励んでいらっしゃる。

 

ただ、せっかくなら、訪れた市民の皆さんを「くつろがせる」発想に立ってもらえればと思うのです。

 

シャレたお役所は無理なのかな?

役所というと、「真面目で堅い仕事」というイメージがあります。真面目である必要はありますが、「堅くなければならない」必要はないと思っています。

 

これは市民の皆さんにもご理解いただきたい点なのですが、役所が「真面目で堅くなる」のは、ある種の防衛飯能も働いているのです。「そんな突拍子もないことをやって、市民からクレームが来たらどうするのか?」これは、役所の中でも最も強い殺し文句です。ある程度のことは大目に見てあげて欲しい。これが市民の皆さんへのお願いです。でないと、なかなか役所は変わりません。

ちなみに、もうひとつの殺し文句は「そんな突拍子もないことをやって、議会からクレームが来たらどうするのか?」なのですが、これについてはコメントは控えます(苦笑)。

 

そして、市役所の職員の皆さんには「シャレたお役所」を作って欲しいのですね。

 

それは何も「夏場にアロハを着ろ」とかそういうことを求めているのではありません。スターバックスが、家と職場以外のサードプレイスを作ろうとしたように、市役所がサードプレイスであるためには、どのようなサービスが求められるのだろうか。居心地の良い空間はどうあるべきなのか。相談しやすい雰囲気作りを作るためには?といったことを考えていただければと思う次第です。

 

そういう方向でレイアウトを進めていき、サービスを変えていくと、否が応でも「シャレたお役所」ができあがる。私はそう考えています。

 

そして、いつの日か、市民の方から「今日は天気もいいから、ちょっとテーブル出して役所の外でいっぱいやろうさ!」という声がかかる。そんな市役所になったら、面白いでしょうね。

 

(そうしたら、私は真っ先に市役所前で飲んだくれているでしょうww)