月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

勝山は昔より暑くなったのか? それとも我々の耐性が低くなったのか?

今年の暑さは殺人的です。熱中症で搬送されたとのニュースが毎日のように流れています。皆様も、くれぐれも体調管理にお気を付けください。


なにしろ、日本の暑さには動物園の象やライオンがバテるくらいです。
アフリカの方も申しています。
(画像はGWの暑さについてですが)

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さて、話は変わります。

市議会議員時代のことです。「学校にクーラーを入れよう」との議案が上程されました。その際に、議論の対象となったのは
「クーラーをつけねばならぬほど、勝山市は暑くなったのか?」
このときは、学校現場から
「今の暑さは昔と違います」
との意見が強く出されたため、「それならば」とクーラー導入に舵を切りました。

確かに、昔と比べると暑さがエゲつない感じがします。

その一方で、こんな意見もあります。
「昔も暑かった」
「そんな熱中症で倒れる奴なんか少なかった」
「今の人たちはクーラーに慣れ過ぎて、暑さに我慢できなくなっただけのことだ」

果たしてどうなのでしょう。

東京や大阪ではヒートアイランド現象が確実視され、35度を超える猛暑日の日数が増えていることが報告されています。
では、勝山市は?


興味があったので調べてみました。

(注1)勝山の観測データーが残っているのは1978年から。大野市は76年から残っているので、同じ奥越ということで大野市のデーターを使用しました。
福井気象台のホームページからデーターを見ることができます。

福井地方気象台ホームページ


(注2)
対象を8月としました。7月は梅雨の出入り具合によって気温などがまちまちだからです。

 

まずは、1976年から2017年までの41年間の「8月の平均気温」の推移を見てみました。

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一目見て、突出しているのは1985年の猛暑と、1993年の冷夏ですね。

93年の冷夏……ああ、あの年ですよ。冷夏で米がとれずにインディカ米を輸入した年。夏の間中、雨が降っていた記憶があります。
後にも先にも寿司屋でインディカ米の握りずしを食べたのは、あの年だけでした。

しかし、このグラフだけでは何とも言えませんね。




最高気温に目を向けてみましょう。

気象庁は「日最高気温平均値」を出しています。1日には最高気温と最低気温がありますが、8月1日の最高気温、2日の最高気温……と出していき、その平均値をとった値です。

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これ見ると、さほどの変化がないなぁ……なんだか、きれいに収束しているように見えるし。

私はどちらかというと、「最近の暑さはエグいですよね」派なので、「やっぱり最高気温上昇してるでしょ?」的なデーターが欲しいのです。正直なところ。






ならば……最高気温は最高気温でも、ズバリ「その年の8月の最高気温」に焦点を当ててみましょう。

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これまた何だかわかったようなわからないようなグラフになってしまいました。
ちょっと、近似値とってみましょうか。そうすれば傾向が見えるかもしれません。

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微妙に上昇しているのですが、おそらく上昇値は0.2度程度でしょう。これでは「昔と比べてエグい暑さ」とは言えません。





困ったなぁ。
何とかデーターで「ほ~ら、最近の暑さはエグいでしょ?」と言いたいんだけれど、なかなか出てこない。





ちょっと切り口を変えてみましょう。

ニュースなどでも、夏日・真夏日猛暑日の呼称が出てきますが、

夏日・・・・・最高気温が25度を超える日
真夏日・・・・最高気温が30度を超える日
猛暑日・・・・最高気温が35度を超える日

と分類されています。これだけエグい暑さの日が続くのですから、真夏日猛暑日の日が増えているはず。

というわけで41年分の「8月1日から31日までの最高気温」を洗い出して、数えてみました。真夏日の日数。


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すごいな。1985年。31日の月のうち30日が真夏日でしたよ。9月1日に小松市で37.8度を記録したそうですが、無茶苦茶な猛暑です。

逆に記録的な冷夏の1993年なんて、月のうち28日が30度以下でした。この年の8月13日なんて最低気温16度、8月にあるまじき寒さです。

これも近似値とってみましょう。

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おっ?傾向として真夏日が昔より1週間ほど増えてる。ほほう、これは「暑さはエグくなった」派には良い報せですね。


この調子、この調子。

これならば、35度を超える猛暑日も増えているに違いない。ちょっとワクワクしてきましたよ。

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あれ?……なんか……ビミョー……(´Д`)…… 

個人的には、こんなグラフが欲しかったんだけど。

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このグラフでは85年の猛暑の凄さが際立つものの、これを使って「最近の暑さはエグい」とは言い切れない。





でも、実際に熱中症で死亡された方はいるわけでして……

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出典:厚生労働省熱中症の死亡者数ー平成25年度までの動向ー」

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121413.html


熱中症でお亡くなりになる方は、やはりというべきか高齢者に多いのが現実です。

今回調べた限りでは「昔よりも暑さがエグくなったか」どうかはわかりませんでしたが、「昔も暑かった」と仰る方は高齢者に多いんですよね。
「情けない、昔も暑かったんじゃ!」
「今の若いもんは、すぐクーラーに逃げたがる。だから、こらえ性がなくなるんじゃ!」
みたいなお小言をくらいます。


高齢者の皆さん、1985年の猛暑を潜り抜けてこられた皆さんですが、今年の夏も暑いことは事実です。我慢は禁物、クーラー効かせて、こまめに水分補給をしてください。

1960年代にクーラーが普及してたら、みな当たり前のようにクーラーつけてますって。



《おまけ》
朝日新聞が、いつものように善人ぶって
「運動部のみんな、熱中症にかかるくらいなら、『もうダメだ』『無理だよ』と声をあげよう。勇気をもって声を出そう」
などと書いてみましたが、
「それじゃ、夏の甲子園中止な」
「応援スタンドで熱中症にならない工夫をしろよ」
と即座に突っ込まれていました。

www.asahi.com



イノベーションが起きる社会をつくる -行政2.0ノート②備忘録も兼ねてー

 ■備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。



情念がイノベーションを起こす

行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちにこそ、私たちは目を注がねばならない。その人たちの抱える問題こそが、解決しなければならないものである。これらの問題を解決することは、行政サービス全体の質をあげることにつながる。

これが「行政2.0ノート①」の要旨だった。

harukado0501.hatenablog.com


議論が錯綜しないように、最初に定義しておきたい。
「問題解決」とは、行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちの問題を解決することとする。他の言葉と混乱しないように、この意味で用いるときには問題解決と太字で表記する。


さて、この問題解決だが、これは紛れもなくイノベーション(革新・新結合)だ。イノベーションとは技術革新だけを指すものではない。新しいアイデアから、新しい価値を創造することを指す。
行政サービスから漏れ落ちる人々に光を当て、彼らを救うために新しい制度・システムを創り出す。その新しい制度は、彼らだけでなく世の中の人々に利益をもたらす。問題解決が目指すところであり、これはイノベーションに他ならない。




では、このイノベーションたる問題解決はどこからスタートするのだろうか。

勝山市民から始まるのだ。

困っている勝山市民を目の当たりにし、
「これではいかん」
「このお婆ちゃんを助けてあげたい」
「友達の子供が学校で困っている。何とかしてあげたい」
と思う人の「情念」からイノベーションは始まる。




皆さんはOXO(オクソー)という会社をご存じだろうか。1990年設立の、アメリカでは有名なキッチン用品メーカーだ。

このOXOの最初の大ヒット商品が縦型ピーラーだ。

 

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

 

 



この製品開発の発端は、創立者ファーバー氏の「情念」にあった。

ファーバー氏が妻と二人で旅行に出かけたときのことだ。タルトを作るためにピーラーでリンゴの皮むきをしていた妻の姿を見て、氏は心を痛めた。細い金属製のピーラーは皮むきに力を使うために、軽い関節炎を患っていた妻が手を痛めてしまったからだ。
「なぜキッチン用品で手を痛めるのだ」
「なぜもっと使いやすいものがないのか」
ファーバー氏の「情念」とは憤りだ。この憤りが、縦型ピーラーを生んだ。持ち手は手になじみやすく、弱い力でもしっかり握ることができる。これまでのピーラーと異なり、縦型なので力の加わる動線が一本線で弱い力でも楽々と皮をむける。

手の弱い妻に使えるデザイン。それは、妻を助けるだけでなく、ユニバーサルデザインとなった。ゆえに、大ヒットを記録した。



問題解決も同様だろう。

多くの勝山市民は心を痛めている。
「なぜ、うちの婆さんは買い物にいけないのだ」
「なぜ、毎年毎年断水騒ぎが起こるのだ」
「なぜ?」
その情念、憤りがなければ問題解決は始まらない。

これと対照的なものが、マーケティングから始める事例だ。マーケティングは対象者を観察することから始める。その観察に加えて、業界の動向やライバル企業の動向、ターゲット消費者の行動様式、市場の需要要件などを加えて分析を進め、その分析を基礎として事業を組み立てていく。

だが、マーケティングは、行政サービスからこぼれ落ちた人を拾わない。マーケティングが拾う数字はマス(大衆)であり、セグメントを構成する多数派だ。

このことは、行政サービスからこぼれ落ちた人たちは少数派であることを意味しない。彼らは少数派ではない。単に光が当たらない存在なのだ。この社会に多数存在しながらも、光が当たらないがゆえに拾い上げてもらえない人々だ。

マーケティングは、彼らの苦しみを拾い上げない。
彼らの苦しみを、怒りを理解できるのは、唯一、彼らに寄り添う人々だ。彼らの悩みを目の当たりにする人である。

だが、憤りを感じる市民だけでは問題は解決できない。
「私たちは、目の前で困っているこの人を救いたい」
「だが、私たちには技術・知見がない」
「ならば、技術・知見を持っている人をチームに加わってもらおう」


市内外の企業がここに登場する。




(補足)
問題を提起する人は、苦悩する市民に寄り添う市民だ。だが、必ずしも「問題を提起する人=問題を解決する人」である必要はない。要は、提起する人と解決する人が「出会う場」をつくることだ。
その「出会う場」については後に詳述したい。


(補足2)
前述したOXO社のファーバー氏は言う。
「世界は悪いデザインだらけだから、やるべきことはたくさんある」
私は思う。
「世の中を悪くしたいと考えている人はいない」
「なのに、世の中はなぜ良くならないのか」
「なぜ、私たちは自分たちの手で世の中を変えられないのか。おかしいではないか」
政治家としての私の「情念」であり、憤りだ。



問題解決は企業のフロンティア


数年前、まだ私が市議会議員だった頃の話だ。

社名を明かすのは仁義に悖るのでA社としておくが、日本人ならば知らぬ者がいない事務機器メーカーである。このA社からお声がけをいただいた。
ちょうど安倍政権が華々しく「地方創生」を強力に推進していた時期だった。地方創生のメニューを作るのに意見を伺いたいとの申し出であったので、A社中部地方エリアの重鎮と会合を持った。

数十人の社員と重役に囲まれた会合の場で「当社はこういった『地方創生プラン』を考えています」と提示されたラインアップは、事前に想像していたものを超えるものだった。
田んぼを潰してニュータウンを造る。中心市街地再開発で大型ビルを建設する……といった大型再開発のプランから、市役所や観光地をプロジェクションマッピングしましょうというイベント型に至るまで、これでもかと見せつけられたものは………「地方の自治体で使えないもの」ばかりだったのだ。

「私のような一介の市議会議員が偉そうなことを申してすみませんが……」
と一応の前置きはした(と思う)。

「残念な話ですが、多くの地方の自治体は御社のプランを導入できません」
「導入できるだけの体力が、われわれにはないのです」

「私たちが求めているのは『こんなものがあったら良いよね』というものではありません。『これがないと生きていけないよね』というものです」

「地方創生とは、再開発ではありません。何度も申し上げますが、われわれは再開発する余力すらないくらいまで追い込まれています」
「現在の問題を解決する。その解決をスモールビジネス化していく。その積み重ねを経ることで少しずつ経済と活力を回復していく。われわれが進むべき坂道です。その坂道を登り切ったとき、初めて、御社の提示されるような再開発プログラムも可能になるでしょう」

「地方の自治体が欲しているのは、この坂道を登る方法です」
「その方法は、『あなた方の抱えている問題を解決しますよ』というソリューションの形で出てくるのでしょう」
「御社が提示すべきは、このソリューションです」
「地方の公共交通を改善するソリューションを提案します。駅前活性化のソリューションを提案します。そういったソリューションにならば、自治体は喜んでお金を出すことでしょう」
「そして、そのソリューションは御社に膨大な利益をもたらすはずです」
「御社のように全国展開をする企業ならば、各都道府県に営業所はあることでしょう。つまり、1700の自治体に営業をかけられるではありませんか」
「どの企業も、未だ、このソリューションの価値に気づいていません。だから、今がチャンスです」

私の目の前にいた重役は怪訝な顔をしていた。一体、この男は何を言っているのだろうという雰囲気がありありと見えた。



もうひとつの事例を挙げよう。

ここでも社名は伏せてB社としておこう。B社はシニアカーのメーカーだ。

シニアカーをご存じないための方に申し上げると、足の悪い高齢者が異動の手段として用いる乗り物だ。

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高齢者は公共交通の不備で自由に外出できない。
「病院までのバスが欲しい」
との高齢者に詳しく話を聞く過程で
「その後で買い物をしたり散策したい」
との欲求があることがわかった。

ならば、シニアカーを使おう……と考えた。中心市街地にシニアカーを10台から20台程度配置し、これをレンタルできるようにしておく。中心市街地までは公共交通で行くとして、そこから先の移動手段に用いてもらおうとの趣旨だ。

だが、この内容ではメーカーは首を縦に振らないだろうと私は思っていた。
メーカーの営業マンが自治体を回るときに、
「我が社のシニアカーを用いて、中心市街地の活性化を図りませんか?」
勝山市の導入事例をご覧ください。シニアカーを使って中心市街地を回る高齢者が、これだけ増えました」
と説明しても、他自治体が
「数が増えるだけではねぇ……」
お茶を濁すことが容易に想像できたからだ。


自治体の首長とは面白い存在だ。市民からすると「他の自治体の先進事例を学べば良いのに」と思うのだが、首長は決してそれはしない。先進事例を目の端に入れているのだが、それを真似することはプライドが許さない。
「〇〇市の市長に話をしに行ったら、『なんかいいアイデアないか?』『でも、他の自治体が使ってる奴は嫌だな』と言われました。」
と苦笑いする営業マンに出会ったことがある。さもありなんとこちらも苦笑した。

先進事例は真似したくない。かといって何もしない訳にはいかない。ならば……と、首長たちはありきたりな事業に飛びつく。あるときは、道の駅といった、ありきたりな箱モノに飛びつき、あるときは、NPOを作らせて中心市街地活性化を図ったり。そうやって、全国にありきたりな事例が積み上げられていく。

要は、首長は自治体のオリジナリティーを出したいのだ。「他所と違って、うちはこんなことをやっていますよ」と主張したいメンタリティーがある。それは当然だろう。
ならば、そのメンタリティーをくすぐるパッケージにすれば、B社は売り込みがしやすいはずだ。

そこで、シニアカーGPS機能をつけてみることを提案した。高齢者がシニアカーを使ってどういった動線を描くのか、何に反応してどのような行動を示すのか。データーを取るためだ。

なんのために?中心市街地活性化の基礎データーとするために。これまで、中心市街地活性化は思い込みでできあがっていた。「高齢者は〇〇といった動きをするだろう」「高齢者はこれに反応するにちがいない」といった予見だけで物事は決められていた。
シニアカーがもたらす客観的データーは中心市街地活性化に根拠を与えるだろう。

そして、そこに商店街の人々を加えよう。商店街の人々は、このデーターを喉から手が出るほど欲しいはずだ。彼らに情報を公開しよう。このデーターを使って商店街の人たちは〇〇や〇〇といったことができる。それだけじゃない。シニアカーを置く場所は人の流れの結節点になるはずだから〇〇といったこともできるんじゃないのか………B社の営業マンと語り合う中でアイデアはどんどん膨らんでいった。

様々なアイデアを加えていき、最終的なパッケージは、まさに「シニアカーを用いた中心市街地活性化」の様相を呈してきた。各自治体は、ツール(道具)としてこのソリューションを導入した後に、独自の使い方ができるだろう。

そんな話し合いを重ねた後、最後の問いをB社営業マンに投げかけた。

「さて、御社からはシニアカーを10台勝山市にいただきたい」
「私たちはこれを用いて、勝山市で新しいサービスを始める」
「もちろん、御社にとって10台を無償提供することは痛い出費になるはずだ」
「だが、ここで得られた知見を御社は1700の自治体に売り込みにいけるだろう。それは、御社にとって大きなビジネスチャンスになるはずだ」

B社の営業マンは考えた後に答えた。
「私の一存で決められません。社長に会ってください」

後日、彼から連絡が届いた。
「社長がぜひお会いしたいと申しております」

その日取りを決めて、まさに事態が動こうとした矢先に、あの下らない政争が起きた。私自身がそこに巻き込まれてしまったがゆえに、この話も止まってしまった。









A社の事例とB社の事例を通して、次のことがわかる。

ひとつは、問題解決がビジネスになることに多くの企業は気づいていない。
A社の事例を見ても明らかだが、多くの企業はこの点に気づいていない。需要はそこに間違いなく存在する。後はその需要に気づいて手段を提供すればよい。市場規模は日本全国の自治体に及ぶ。まさしく問題解決は企業にとってのフロンティアなのだ。


多くの企業が問題解決の可能性に気づいていないがゆえに、問題解決の方法は市民が考えねばならない。これが2点目。問題解決がビジネスになるのだと周知されれば、将来的には企業側からアイデアを持ちこまれるだろう。しかし、現段階では市民が考えねばならない。市民がアイデアを練り、それを企業へ持ち込み、興味ある企業と組んで問題解決を図らねばならない。

だからこそ、アイデアを練る際には衆知を集めなければならない。これが3点目。現状に憤りを感じる市民が独りでアイデアを練り上げるのは困難だ。

憤りを感じた市民が問題を提起する。
「これはおかしいんじゃないか?」
確かにそれはおかしいと感じる市民が集まってくる。職人もいれば事務職もいる。退職した方もいれば主婦もいるだろう。ひとつの憤りの周りに様々な技能と知見が集まる。それらの衆知を集めて、初めて問題解決のソリューションの雛形はできる。




ただし……ここで大きな困難が出現する。行政の壁だ。
どれほど衆知を集めようとも企業と連携しようとも、この行政の壁を超えることはできない。それほどまでにこの壁は厚く高い。


行政の存在価値と行政サービス     -行政2.0ノート:備忘録も兼ねてー

備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。




そもそも、行政とは何のためにあるのだろう


「行政は何のためにあるのだろうか?」

この質問に対する最大公約数的な回答は
「私たちの生活を支えてくれるため」
というものだろう。

ゴミの収集や上下水道といった基本インフラの整備。学校を運営し子供を育成し、長じて医療・福祉など生活を支援する。産業支援などで世の中を活性化する。これらは、私たちの生活を支えてくれるだろう。

しかし、ここで私たちはひとつの疑問にぶち当たる。
「行政は、『私』の生活を豊かにしてくれているのだろうか」
「行政は、『私』の抱えている問題を解決しているだろうか」
行政が「私たち」の生活を支えてくれているのは理解できる。しかし、「私」の抱えている問題を行政は解決してくれない。

「私の抱える問題」とは、次のような人たちが抱える問題だ。

「病院や買い物に行きたいのに、1日にバスは3便しか来ない」と嘆くお婆さん。
「なぜ、学校でうちの子はのけ者にされるんでしょう。うちの子が発達障碍を持っているからでしょうか」と悲嘆にくれるお母さん。

全くの私的な問題は自分で解決するより他にない。嫁と姑の不仲に関する苦情を役所に持って来られても、役所も困る。それはご家庭で解決してくださいと言われるだろう。

ここでいう「私の問題」とは、「私たち」の生活を支えてくれるはずの行政のサービスが、「私」にとって意味をなさない場合を指す。公共交通は人々の生活を支えてくれるはずなのに、1日3便しか来ない地域に住む「私」にとっては、不便でしかない。学校は子供たちを健やかに育成する場所なのに、発達障害を持つ「私の子供」に対して対応してくれない。

これらの嘆きは、議員時代の私のところに寄せられたものの一部だ。

そして、この人たちの特徴は、市役所の担当課や学校へ行っても相手にされなかったことだ。相手にされなかったからこそ、議員であった私のところへ駆け込んだのだ。中には、「どうせ役所は相手にしてくれないだろう」と見切りをつけて私のところへ来られたケースも少なからずあった。

市民の幸福を高めるために存在するはずの市役所、市民の「役」にたつ「所」のはずなのに、なぜ彼らは相手にされないのだろう。

その疑問は「行政サービスとはなにか」を考えてみないとわからない。





行政サービスってなんだろう

「二項分類」という言葉がある。難しいように見えるけれども、話は単純だ。要は「基準にもとづいてアレかコレかに分ける」ことだ。

行政サービスは、この二項分類で行われる。しかもカテゴリーで括ってしまうという方法で。

例えば、人を「仕事を持っているか否か」という基準で「被雇用者」と「失業者」とのカテゴリーに分ける。そして分けた後に、失業者には失業保険を出すとの行政サービスを提供する。これが行政サービスの出し方の典型だ。

行政は人をカテゴリーに分ける。だから、あなたも行政から様々なカテゴリーを与えられている。

例えば、私だったら「自営業」で「行政書士」で「男」で「妻と3人の子供がある」等々のカテゴリーを与えられている。そのカテゴリー分けに従って、様々な行政サービスが付与される。「自営業」だから税務申告の際には青色申告するとか、「自営業」だから国保に加入せよとか、子供がいるから児童手当が支給されるとか……様々な行政サービスが該当することになる。

しかし、カテゴリーに括られない人たちはどうなるのだろう。

例えば、「被雇用者」というカテゴリーは賃金を支給される労働者のことだ。これまでだったら、雇用されている限り賃金は保証されていたし、失業したら失業保険が出るという対応でなんとかしのげた。
しかし、低賃金の不安定労働者はどういった対応をすれば良いのだろう。雇用は不安定で低賃金だし、社会保険もない。労働条件は最低で、短期雇用を繰り返す綱渡り。

彼への対応方法は二通りある。

ひとつは「それは自分の問題だから、自分で何とかしなさいよ」と切り捨てる方法だ。困った時には親や家族が面倒見なさいよ……という返し方もあるだろう。しかし、それはあまりにも酷すぎる。

そこで、行政は違う方法を採用する。

カテゴリーを増やすのだ。

「被雇用者カテゴリー」の中に「低賃金・短期雇用のカテゴリー」を作ろう。非正規雇用もこのカテゴリーの中に入れてしまおう。非正規雇用も厚生年金に入れるような制度をつくろう……と考えるのだ。

すると困ったことが起きてくる。
「主婦のパートも非正規雇用には多い。この人たちも厚生年金に入れるのか?」
「いやいや、それはおかしな話になるから、男性非正規雇用に限定しよう。」
「ちょっとまってくれ。主婦のパートを外すことには成功したが、未婚女性の非正規雇用はどうなる?その人も入れるのか?」
「それじゃ、その人たちも含めるとしよう」
「でも、その人たちも結婚して主婦になるのだぞ?」
「え~っと、それじゃ……」
事態は際限なく複雑化していく。

この典型例は税制だ。
税制の複雑怪奇なことたるや凄まじい。あの複雑で納税者の目をくらませようと目論んでいるのではないか?……と勘ぐってしまうほどだ。

複雑化していくことも確かに問題だ。だが、最も深刻な問題は、どれほどカテゴリーを増やして細分化したところでカテゴリーから漏れる人が必ずいること。ここが行政サービスの致命的な欠陥だと私は考えている。


ある意味、行政とは「行政サービスの許認可権を持つ場所」だとも言えるだろう。カテゴリーの中に入る人々にのみ行政サービスを提供し、そこから漏れた人々には提供しない。

それじゃ、提供するかしないかの基準は誰が決めるのですか?と問われれば「法が定めます」となる。その法は「国民の代表者である政治家が決めます」となり、論理としては破綻していない。国民に対してのサービスの内容は国民が選んだ代表者が決めるのだ……と教科書通りの説明をされれば、ケチのつけようがない。

だが、教科書に載っている説明をされても私たちは納得できない。

「なるほど、説明はわかった」
「ならばカテゴリーから漏れた人々はどうなるのか」
「彼らを切り捨てて私たちは前へ進むのか」
この問いに答えていないからだ。

当の市役所職員にも、ここで悩む人は少なからずいる。しかし、彼らは規則に従って動く他に道はない。情や場の空気で基準を曲げ放題になってしまっては役所は崩壊してしまうからだ。

無論、見て見ぬふりをする職員もいる。これは事実だ。同時に、心を痛めている職員もいるのだ。これも事実だ。ただし、役所の職員は助けたくとも助けられない。
それが現状だ。

何かがおかしい。




1匹の羊を救うことは99匹の羊を救うことにつながる

カテゴリーから漏れた人々は、何が辛いのだろうか。

「役所に相談に行ったが、どうにもならないと言われた」
「門前払いを喰らった」
と私のところへ来られた方々は何に憤りを感じているのだろう。何人もの方々からお話を伺う中で、痛いほどその理由をわかった。

彼らは尊厳を傷つけられたことに我慢がならないのだ。

彼らは役所の対応に怒っているのではない。「お前は根無し草だ」「社会の中でお前の居場所になるカテゴリーはないのだ」と言わんばかりの、行政サービスそのものに憤っているのだ。その怒りを役所の職員にぶつけているに過ぎない。

彼らを放置してはならない。

カテゴリーから漏れた人々、役所の職員が密かに心を痛めながらも対応できない人々、彼らこそが、私たちの解決しなければならない課題である。

「問題解決が必要だ」
「問題解決こそ私たちの進む道だ」
と猫も杓子も問題解決の重要性を唱える。

ならば、問題解決の「問題」とはなんだろう。

「問題」とは彼らの抱える問題に他ならない。

1日3便しか来ないバスを待つお婆ちゃん、わからない授業を黙って1日中聞かねばならない中学生、老々介護に疲れ切った息子、そういった様々な人たちが背骨が軋みそうな重みに日々耐えながら、それでも声に出せずにいる課題。
それこそが、私たちの解決しなければならない問題だ。

こういう話をすると、
「その人たちを救うことで、他の人たちの利益を損ねるのではないか」
との反論を耳にすることがある。

それは違う。

ひとつの事例を挙げよう。私自身が携わった事例だ。

「1日3便しかバスが来ない」との嘆きを受けた私は、ひとつのことを考えた。
「バスの路線を変えて、このお婆さんの住む地区を通すようにしようか」
しかしこの方法は、すぐに頭から消え去った。バスの路線を変更すれば、変更された地区にバスが通らなくなる。それではバスの便がないと嘆くお年寄りを別な地区で発生させるだけだ。

「ならば、公共交通そのものを変えるより他にない」
探しに探しまくった果てに、東京大学に目を着けた。タクシー代わりに使えて市内のどこへでも運んでくれる公共交通システムの新たな運用方法を開発したからだ。東京大学の開発者と掛け合い、勝山へ来てもらい、市内での運用試算をしてもらうと同時に協議会を立ち上げた。その協議会は後に市の協議会へと正式にスライドした。

ここで問題が立ち上がった。勝山の地形を考えると運行コストが膨大になるとの結論が出たのだ。協議会自体が尻込みをする中で、私は更なる道を模索した。
「人を運ぶのは公共交通だが、公共交通で物も同時に運んだらどうなるだろう」
市内を自由に動く公共交通、ドア・トゥ・ドアで動く公共交通ならば、同時に物も運べば良いのではないのか。
そこで、私は宅急便最大手のヤマトに声をかけ、エリアの重役と話をした。宅配便業界はこれから必ず業態問題が首を絞めることになる。なぜなら、宅配便の利益率はおおよそ4%。人件費があまりにもかかりすぎるからだ(実際に昨今の宅配便業界のニュースを見れば予想通りになったといえる)。ならば、公共交通でその荷物を私たちが運ぼう。あなたがたは勝山まで運んでくれればいい。ただし、荷物を運ぶ手間賃を私たちはいただき、公共交通運営の糧にしたい。市内の高齢者も喜ぶ、運営する勝山市も助かる、そしてあなた方自身の利幅もあがる。win-winの関係ではないか……と。

法令上の問題や、当の勝山市が尻込みしてしまったために、この話はここで止まってしまった。くだらない政争の具にされたことも痛かったが、実はこの話は死んではいない。いずれかの段階で必ずや顔を出してくるとだけ申し上げておく。

上記の話からもおわかりのように、カテゴリーから漏れた人々の課題を解決しようとすれば、もはやカテゴリーそのものを壊すより他にない。それは制度そのものをリニューアルすることだ。そして、リニューアルされた制度は、皆が等しく利益を受ける。

「カテゴリーからこぼれた人のためにカテゴリーを細分化して、新しいカテゴリーをつくろう」との、これまでの行政のやり方は、パイを増やすことなく、パイの奪い合いをするだけだ。パイを大きくすることを考えずに、新しいカテゴリーをつくれば、これまで食べてきたパイが小さくなることを不安視し、反対する人は必ず出てくる。
他の人の利益を回すのではなく、受益者が等しく利便性を上げるシステム。それでなければ、真の問題解決とはいえない。


考えてみていただきたい。
勉強についていけずに1日中机に座っているだけの生徒が、「ぼくもやればできるんだね」と目を輝かせるような学校が、他の生徒の利益を損ねるだろうか。
老々介護で悩む長男が、「なんとか私でもやっていけそうです」と答える介護環境は、他の人たちの邪魔になるだろうか。

1匹の羊を救おうとする行為は、必ずや残りの99匹に利益をもたらす。




問題を解決するのは誰なのだろう

ここで、もう一度冒頭の問いに戻ろう。
「行政は何のためにあるのだろう」

この問いに対して
「私たちの生活を支えるため」
と答えることは正しい。私もそう思う。

それならば、なぜ問題は解決されないのだろうか。

もう一度、これまでの話を振り返ってみよう。

行政は人々をカテゴリーに分ける。そして、そのカテゴリーに当てはまらない人々には満足な行政サービスが受けられない。お腹が痛いと泣いている子供に必要なものは胃薬であって、絆創膏ではない。必要としている人に必要なサービスが行き届いていないからこそ問題が発生する。

そして、カテゴリーから漏れた人々の抱える「問題」こそが解決すべき課題だ。

ここまで話は進んだのだけれど、肝心な部分が抜け落ちている。

それは、行政が解決できない問題を行政に解決させようとすること、それ自体が無理なのではないか?といった根本の疑問だ。

率直に言って、私は無理だと思っている。

行政が解決できる範囲は、カテゴリーに含まれる人のみだ。カテゴリーから漏れた人を助けること自体、行政にできるものではない。

要は私たちの生活の問題のすべてを、行政に解決してもらおうとすること。それ自体が、間違いなのだ。

純私的な問題は個人で解決するとして、そうではない問題のすべてを行政に解決してもらおうとすると、カテゴリーから漏れてしまう人々が出てくる。漏れた人々は、行政が助けられる範囲ではないはずの人たちだ。その人たちをも「行政に救え」と叫んでみても虚しいだけだ。

私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない。

ただし、ここは注意が必要だろう。「抱える問題」をしっかりと定義しておかないと、混乱をきたすからだ。

私たちの生活の課題を3つに分けよう。

①純私的な課題
②行政サービスのカテゴリーに含まれる課題
③行政サービスのカテゴリーから漏れ落ちた課題

①は嫁姑の確執のようなものだ。全くの私事は、自分で解決していただくより他にない。②は、従来の行政サービスを考えてもらえればいいだろう。上下水道の整備や教育福祉などがこれに当たる。「私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない」と言っても、道路を自分たちでつけろという意味ではない。
③こそが、私たちの抱える問題であり、私たちが解決すべき問題だ。


では、この③の問題を誰が解決するのだろう。

バスの不便さをかこつ高齢者が自分自身で解決すべきなのか
買い物難民は自分たちで解決すべきなのか
学校で困っている発達障碍児は自分で解決すべきなのか

それは違う。

もちろん、自分で解決できればそれが最善だ。しかし、自分で解決できないからこそ問題になっているのだ。自分でできないからこそ、他の人を頼るより他にない。

だが、世の中はそういうものではなかろうか。

食卓にならぶ食事の材料をすべて自分で作っている人はいない。通勤に使う自家用車を自分で組み立てる人もいない。私たちは自分でできないことばかりだ。でも、世の中はそれでうまく回っている。お互いに必要なものを供給しあって。別段そこには「誰かを助けるために」との想いはない。しかし、結果としてお互いがお互いを助け合っている。

だったら、問題を抱える人は問題を解決できる人を頼ればいい。

通常、問題を解決する人たちを「社会起業家」と呼ぶ。社会が抱える諸問題を解決することを生業とする人たちのことだ。

そこで私たちはハタと困る。
「その社会起業家はどこにいるのだ?」

私たちの周りにいるのは、
 ・行政サービスをする行政マン
 ・ボランティア活動をする人々
 ・地区(町内会)で地区の活動をする人々
であって、社会起業家も問題解決のプロもいない。

いないからといって諦めるわけにはいかない。なぜなら、問題は現に存在しているからだ。

なぜいないのか。
なぜ育たないのか。
どうすれば社会起業家は出現してくれるのか。

それこそが行政2.0の真骨頂だ。


付 言

どうすれば社会起業家は出現するのか。これは行政2.0の真骨頂だが、その内容は追々説明するとして、この「方法」は勝山市でしか通用しないと思っている。

行政2.0の「思想」そのものは普遍的なものだ。だって、「地方自治の本旨」なるものを突き詰めていけば、そうならざるを得ないから。だから、どの自治体にも適用することはできるだろう。

でも、その「方法」となると勝山市でしか通用しない。

なぜ?と言われれば単純な話で「勝山が小さいから」

勝山は人口2万5千人の小さな市だ。しかも、全国の自治体が抱えているような問題を全て抱え込んでいる。進む過疎化と増える高齢者、地元を後にする若者たち。増える耕作放棄地、寂れる中心市街地。抱えていないのは海くらいのもので、日本全国の自治体の頭痛の種をすべて背負いこんでいるといってもいい。

それらをすべて逆手に取ってやろう……というのが、勝山で行おうとする行政2.0の「手法」だ。

大きな自治体には決してできない。なぜなら、大きすぎて小回りがきかないからだ。他の自治体を例にとって恐縮だが、例えば福井市も様々な問題を抱えている。しかし、福井市は行政2.0の手法を試すには大きすぎる。
福井市内の社地区だけで約3万人弱の人口がある。これだけで勝山市の規模を超えている。社地区の抱える問題は「新興住宅地の問題」であって、これを解決しようとすれば、そこに特化した施策を打たねばならない。ところが同じ福井市内の美山地区では高齢化・過疎化の問題があり、これはこれで別な対策を打たねばならない。このように規模の大きな自治体は問題解決をしようにも、問題の種類とエリアが大きすぎて対応できないのだ。

弱い奴がいつまでも負ける、大きい奴はいつも勝つ……というのでは面白くない。小さい奴にだって勝つチャンスはあるはずだ。小さい奴が大きい奴と同じことをやったところで、負けるに決まってる。

ならば、小さい奴は小ささを武器にして闘えばいい。

中学校部活動についての私案 (1)目標とする部活動の姿と現状の課題 

本稿の目的

本稿は、中学生の部活動に関する私案である。

「生徒数が減ったから部活ができない」のではなく、「生徒数が減った今だからこそ、もう一度原点に戻って部活動のあり方を考えよう」との趣旨で作成した。「生徒が減ったから部活ができないので、学校を再編する」との意見への反論の意味も含まれている。

無論、これから述べる内容は私案に過ぎず、もっと優れた案が必ず存在するはずである。
皆様からの忌憚の無いご意見を頂戴したい。



目標とする部活動の姿

私は次のような部活動の姿を目指したい。

《中学生になると部活動が始まる。部活動に参加するかしないかは個々の生徒が自主的に判断する。生徒が参加したいのであれば参加する。部活動に興味がないのであれば参加しない。

ただし、参加するメリットはある。

ひとつは、生涯スポーツの観点からスポーツに親しむ経験を持つことができる点だ。したがって、複数の部活動を掛け持ちすることも可能である。

加えて、部活動に参加することで問題解決能力が高まる点もメリットとして見逃せない。
チームの課題をどのように解決するのか。これまでならば教員の指示に従うだけだったが、生徒たちはチーム内で話し合うようになった。自分たちのチームに何が足りないのか、具体的にどのような方法でそれを克服していくのか。皆が考え、語り合う。チームプレーを通して、集団での問題解決の手法を学ぶのだ。

それは生徒個々の練習にも表れている。その種目を行う上で自分に何が足りないのか、どのような能力を高めれば良いのか、生徒は個人個人が指導者と相談し考えて練習メニューを組む。したがって、嫌々練習をさせられてると感じる生徒はいない。定期的に行われる体力測定により、自分たちの能力の向上は目に見える形で数値化される。

自分に何が足りないのか、それを克服するためにどのようなメニューを組めば良いのか。部活動で訓練を積んだ生徒たちは、その手法を学業へ応用し始めた。
「先生、僕は数学の〇〇が苦手なんですけど、どういうことをやればいいですか」
「先生、私は歴史が好きじゃないんです。人物に興味を持てないんですけれど、具体的に何をしていいのかわかりません。相談に乗ってください」
といった問いかけが生徒から教師へ増えていった。受けた問いかけの重要性に気づいた教員たちは、内気で声がけできない生徒に対して積極的に問いかけるようになった。
「何か困っていることない?」
「前回の試験で〇〇ができてなかったけれど、具体的にどうすればいいのか、一緒に考えてみようよ」

「自学帳を1ページ埋めること」といった宿題は鳴りを潜めた。そして遂に宿題そのものが減るようになった。必要性がなくなったからだ。
生徒たちは部活動を通して、「自己で目標を定めてそれを達成する喜び」を知った。自分で学ぼうとする彼らに「全員で校庭5周」にも似た一斉宿題は意味がないのだ。
結果として、部活動の指導を離れた教員たちは、より深く子供たちに接するようになった》


……以上が、私が考える「目標とする部活動の姿」である。

部活動問題を考える際に、私たちはややもすると制度設計から話を始めてしまう。重要なことは、「今の部活動体制をどうするのか?」ではなく「部活動を通して子供たちに何を学んでほしいか」であるべきだ。その延長線上に「ならば、どのような制度設計をすべきか」との議論が来る。

私は部活動を通して、子供たちに
 ①スポーツに親しむ習慣
 ②問題解決の手法とそれを駆使する能力
を得て欲しい。それら能力は、特に部活動を通して得ることが期待されるものであり、部活動で得られた問題解決手法は学業に好影響を与えるのみならず、学校を卒業しても生きる力として不可欠なものだと考えるからだ。


このような部活動の姿を実現するためには、現在の課題を解決していく必要がある。
では、どのような課題が存在するのか。次にそれら課題を見ていきたい。

 

 


解決すべき課題

①部活動の位置づけ

(a)そもそも「本校中学生は全員部活参加」は、妥当なのか?
市内中学校では、「中学生になったら部活は全員参加すること」とされる傾向がある。しかし、学習指導要領上、部活動は生徒の自主的・自発的な参加により行われるものとされている。
 ⇒【課題】そもそも部活動に全員参加する根拠と意義はあるのか


(b)部活動は学校教育の中でどのように位置づけられているか?
部活動は学校教育の一環として行われてはいるものの、教育課程には含まれない。とはいえ、学校教育の一環として行われる以上、教育目的に沿ったものでなければならない。
部活動を通して、生徒に何を学び何を伸ばして欲しいのか。それを明確にすべきである。
 ⇒【課題】何のために学校で部活動をするのか。その意義づけ。

(参考)
「学習指導要領 総則
   第4指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」

(13)生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。




②教員が部活動を見ることについて

(a)部活動を担当することは教員多忙化につながるのか?
本県中学校教諭にとったアンケートにおいて、「忙しく感じることや負担に感じること」の1位が部活動・クラブ活動であった。
 (資料出典)
   福井県教員意識調査の結果http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kyousei/02kaigi_d/fil/067.pdf

確かに、教員が部活動を担当することにより生徒の個性を把握しコミュニケーションを密にすることも可能である。ただし、本来的に教員は教育課程を充実させることを本分とする。教材研究など授業充実に割く時間を部活動に充てることは本末転倒であろう。



(b)専門外の部活を担当することの是非
教諭自身が経験のない種目を担当することは、教諭の負担を増やすのみならず、生徒にとっても十分な指導を受けられない恐れがある。
 ⇒【課題】外部指導員の導入の是非

 

 

 




③外部指導員を導入することについて

(a)外部指導員の法的地位
外部指導員を導入する場合、彼らの法的地位を確立しておく必要がある。民間人として勝山市から委託を受ける形にするのか。もしくは、嘱託職員として雇用するのか。
 ⇒【課題】外部指導員の法的地位


(b)外部指導員は有償かボランティアか
(a)の問題と密接に関係するのか、この問題である。果たして外部指導員は有償にするのか、ボランティアでするのか。
 ⇒【課題】外部指導員を有償とするか、ボランティアとするか



(b)外部指導員が行う指導の適正担保
外部指導員がどのような指導をするのか。この点には2つの視点が必要となる。
ひとつは、種目実技に精通しているか否かという点である。これは部活動の指導をする上で欠かすことのできない技能となる。
もうひとつは、教育活動の一環としての部活動の特性を理解した指導ができるか否かという点である。部活動が教育活動の重要な一環を担う以上、単に種目実技の技能を教えれば足りるというものではない。「部活動をとおして子供たちは何を学ぶのか」といった部活動の目的を理解した指導が求められる。
これら2つの視点は、外部指導員の採用時に求められるばかりではない。通常の部活動において確実に履行されているかといったチェックをどのように図るのか、それら技能を向上させるための講習会等がバックアップ体制が敷かれているかといった外部指導者への支援体制も必要となる。
加えて、仮に外部指導員の指導に行き過ぎがあった場合、どのような対応を図るのかといった問題にまで検討が及ばねばならない。
 ⇒【課題】外部指導員の指導内容・技能をどのように担保するか



(c)文科系部活動に外部指導員を入れることの是非
文科系部活動に外部指導員を入れることは、運動系部活動に外部指導員を入れることと分けて考える必要がある。
例えば、吹奏楽部の指導者に求められることは音楽教育の技能であり、それを最も備えているのは音楽教師であることを考えるならば、外部指導員を招聘する必要性自体が乏しい。


                  《続く》



中学校再編の議論は本質を欠いている

 

1匹と99匹と

政治の限界はどこにあるのか。
政治で救われない人々はどこに救いを求めれば良いのか。

英文学者であった福田恆存は、評論「1匹と99匹と」の中で、この問いについて語りました。

「1匹と99匹」とは、新約聖書ルカによる福音書)の中に現れる話です。
《あなたが100匹の羊を持っていたとしよう。そのうちの1匹を見失ってしまったならば、残りの99匹を野原に置いたままでも探しにいくのではないか。そして見つけ出したならば、友達や近所の人に「見失った羊を見つけた。喜んでくれ」と言うだろう》
ここから「迷える子羊」との言葉が出ました。たった1匹の迷える子羊のために全力を尽くさねばならないとの趣旨です。

政治は100匹の羊のすべてを救うことはできない。だからこそ、善き政治とは己の限界を意識して、見失った1匹の羊の救済を文学に期待するのだ。福田恆存はそう言います。

「1匹のはぐれ者が出ることを認めろ」と福田恆存は主張しているのではありません。100匹の羊を救うことはできないかもしれない。例えそうであったとしても、社会的に定式化されたロジックによって見失われてしまう「最後の一匹」のことを常に気に留めているのか? 99匹の論理では常に正しいとされる人生経路、そこから外れてしまった一人ひとりを見つめているのか?福田恆存は、そう問うているのです。

政治がそうであるように、教育もまた同じではないでしょうか。

教育の限界はどこにあるのでしょうか。
学校教育で救われなかった子供たちはどこに救いを求めれば良いのでしょうか。




中学校再編問題は不毛である

今月24日に、勝山市教育委員会は市内の3中学校の再編に向けた検討委員会を設置しました。来年2月に検討委員会からの答申を受け、来年度中に方針を決定するとのことです。

中学校再編問題を考える上で見落としてならない点は、中学校再編には正解が存在しないという特性です。

中学校再編には正解などありません。
したがって、学校の規模をテーマにする限り、議論は平行線をたどります。
大規模校には大規模校の長所・短所があり、小規模校には小規模校の長所・短所がある以上、再編推進派は「大規模校の長所と小規模校の短所」を、再編反対派は「大規模校の短所と小規模校の長所」を延々と主張するだけです。

その不毛な堂々巡りに加えて、「母校をなくすな」といった感情論が渦巻き、話し合いは錯綜します。行きつく先は、勝山市が提案する再編の素案に賛成するのか反対するのかといった、これまた不毛な二者択一が残されるのみ。どこまで行っても、この議論は不毛なのです。



1匹を救えているのか?

学校再編問題は「100匹の羊をどのように囲い込むか」の問題に過ぎません。100匹の羊を3つの柵で囲むのか、1つの柵に入れてしまうのか。それだけの話です。
羊をどのように囲っても、必ず見失ってしまう羊が出てきます。その羊を私たちは見つけることができるのか?私たちがすべき議論はそこなのです。

現在の3校体制で起きている諸問題は、本当に再編によって解決できるのですか?

市内の事例をあげましょう。すべて実話です。

A君は発達障碍(聴覚過敏)で、すべての音を拾ってしまいます。「補聴器をつけると、すべての音を補聴器が拡大するので頭が痛くて困る」とこぼす高齢者がいますが、まったく同じです。黒板の前でしゃべる先生の声も、同級生の話声も同じレベルで拾ってしまう。頭が痛くて仕方がない……しかし、彼に差し伸べる手はありませんでした。
「落ち着きがない」「集中力に欠ける」と先生から言われ続け、彼はやる気も無くし学力も伸びないまま中学校を卒業しました。

B君は勉強が苦手です。小学校の頃は、まだ何とかついていけましたが、それでも宿題をするのに両親の助けをかりて何時間もかかる状態でした。中学生になり授業についていけず、ただ黙って座っている時間に耐えかねて夏休み明けに学校に行けなくなりました。

C先生は退職された中学校の校長先生でした。既に他界されています。
「松村さん。私が校長していた時分は、成績の悪い生徒を『お客さん』と呼んでたんだよ。毎日学校へ来てくれて、悪ささえしてくれなければそれでいいんだ。お客さんなんだから。黙って座って授業を受けて、給食を食べて、部活動して帰ってくれればそれでいい。ひどいと思うかい?私だってひどいと思うよ。でも、他にどうすればいいんだい?先生は授業だ部活だPTAだと忙しいんだよ。先生たちに何ができるっていうの?」



勉強ができればそれでいい……などと安直な意見に与するつもりはありません。しかし、小学生や中学生の段階で「僕はできないんだ」「私には無理なんだ」と諦めて自分自身を慰めねばならない子供がいる。その現実とどう向き合うのか。



私が学校を再編するのであれば、お願いしたい条件はただひとつだけです。
「1匹の羊を見つけ出して欲しい」

40分の授業を40分で理解できる子は99匹の羊です。40分の授業を60分かけて理解する子や80分かけて理解する子がいます。その1匹の羊に「それじゃ、一緒にこの問題解いてみようよ」「心配しなくても大丈夫、分かるまでつきあってあげるから」と言って欲しい。
なぜ、あの子は授業中に耳をふさぐのだろう。耳をふさぐからには、なにか理由があるはずだ。「なぜ君は耳をふさぐの?」と聞く人がいれば、A君は聴覚過敏が見つかったかもしれません。その言葉が欲しかった。



私は、先生たちを信頼します。
先生たちは子供の健やかな成長を願っています。「できたよ、先生!」とにこやかに笑う子供の笑顔を見たいはずです。

ならば、その先生たちが子供と向き合えない状態、子供を「お客さん」と呼ばねばならない状態を作り上げている要因は何か。それを見極めて、取り除くことこそが喫緊の最重要課題です。


学校の再編よりも、やらねばならないことは山積しています。
それを取り除いた後で、ゆっくりと再編の議論を進めれば良い。
もっとも、その段階にまで教育の質を高めれば、再編する意義も薄れることでしょう。

市民は行政情報をどこまで知りうるのか   -行政2.0ノートー

はじめに

「行政が何をやっているのか。わからない」との疑問を、多くの人々が持ちます。

 例えば、全国ニュースにまでなった勝山市の給水・断水騒動。
 本年1月29日(月)から始まった断水・給水制限は、2月26日(月)に解除されるまで続きました。1か月以上にわたる給水制限の原因はどこにあるのでしょう。
 今年は56豪雪以来の大雪でした。この大雪への対策として家庭で融雪・消雪に上水道を用いたことが給水制限を引き起こしたとの見方があります。しかし、雪の少なかった昨年も給水制限は行われたのであり、2年連続で給水制限が行われたことを大雪では説明できません。
 なぜ、断水・給水制限が起きているのか。市民には理由は知らされないままです。

 池田中学の男子生徒が校舎から飛び降り、自ら命を絶ってから1年。昨年10月に公表された調査報告書には、担任や副担任の厳しい叱責が生々しく記載されていました。なぜ、学校内の指導内容が保護者に伝わっていなかったのでしょう。

 国でも同様の状況が生じています。
 現在、国会を大騒動に陥れている森友学園の文書改竄問題では、決裁文書を書き換えるという、およそ行政執行にあるまじき行為の真偽が取りざたされています。

なぜ、行政は情報を出さないのでしょうか。
情報を出さないことは、どのような弊害を生むのでしょうか。
仮に情報を出すとするならば、どこまで出せば良いのでしょうか。



行政が情報を出さない理由

行政が情報を出さない理由。
それは、情報を独占することが力の源だからです。

 ここに二人の人間がいます。ひとりはある事柄についての情報を熟知していますが、もうひとりは情報を全く持っていません。このように圧倒的な情報格差がある場合を情報の非対称性と呼びます。
 そして、ここが重要な点ですが、明らかに情報の非対称性があるとき、情報を持たない人は情報を持つ人に対して従わざるを得なくなります。
 なぜ、私たちは医者に従うのでしょうか。私たちは医学情報に無知であり、医者は医学情報を持っているからです。ここには、明らかな情報の非対称性が見受けられます。弁護士もそうです。私たちは、情報の非対称性があるときに、相手に従わざるを得ません。
 しかし、医者や弁護士が持つ情報の格差は許されるべきです。なぜなら、私たち一般人との知識格差があるがゆえに、彼らはプロフェッショナルとして市場価値を持つのですから。
 ならば、行政が市民との間に情報格差を設けることは許されるのでしょうか。

私は許されるべきではないと考えます。

その理由は3点あります。

 第1に、行政が扱う分野は市民サービスです。市民にどれだけのサービスを提供するのか、ここで行政スタッフはプロフェッショナルとしての技能を有する以上、そもそも情報を出し惜しみする理由が存在しません。

第2に、「協働した問題解決」に逆行するからです。本当に行政が市民と協働して地域の問題解決を図ろうとするならば、情報格差を設けることは市民の問題解決参画を拒むものです。

 第3に、情報を出さないとする文化は、内向きの発想を生み、次第に「情報を隠す文化」へと進むからです。これが由々しき問題を生みます。



行政は情報を隠すうちに、市政の課題も見えなくしてしまう

 情報を出さないことと、情報を隠すことは全くの別物です。
 情報を出さないことは、本来、出す必要性のない情報を対象としています。あなたの年収の額がいくらであるか。そのような情報を公開する必要はありません。
 これに対して、情報を隠すこととは、出す必要性のあるのに出さないことです。あなたが年収を正確に税務申告しない場合、罪に問われることでしょう。なぜなら、税務署に対して年収情報を出すべきにもかかわらず、あなたは出さなかったからです。

行政は情報を出しません。前述したように情報の非対称性を生むことこそが、行政の力の源だからです。そして、情報を貯め込み続けていくうちに、「情報を出さない文化」は容易に「情報を隠す文化」へと姿を変えます。

なぜ、情報を隠すのでしょうか。

一言で申せば楽だからです。
仮に誤った場合でも、情報を隠しておけば叱責されることもありませんから。


しかし、情報を隠すうちに、行政は大きなものまで市民の目から遠ざけてしまいます。

市民の目から遠ざけられているもの。それは、市政が解決すべき課題・問題です。

今冬の断水・給水制限などは、典型的な事例でしょう。

私は、老朽化に伴う水道管の破裂が原因だと考えています。市議会議員時代から私も水道管交換を主張し、一部の議員の間でもこの問題は深刻な結果を産むと予想されていましたが、手つかずの状態で放置されたままです。
 しかし、行政から正確な情報は市民に流れてきません。水道管の老朽化はどの程度進んでいるのか。改修工事の予定はどうなっているのか。その財源は手当できるのか。そういった問題や課題が明らかにされないまま、事態は隠されたまま静かに進行していきます。
 そして、抜き差しならない状態になったときに多くの勝山市民が気づきます。

上水道の漏水が原因であるならば、老朽化した水道管は順次交換していかねばなりません。でなければ、漏れた水は道路下の土壌を流し続け、道路が陥没し始めます。

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この段階まで来て、人々は「市政の課題・問題点」の深刻さに気づきます。しかし、気づいた時には既に手の施しようがないところまで事態は進行しています。




情報を出さないことは、市政の課題を見せない文化を作り上げ、結果として市政に重大な影響を及ぼします。

情報は公開すべきです。

ならば、どこまで公開すべきなのでしょうか。



どこまでの情報を公開するのか

私が構想している行政の新しい姿「行政2.0」では、情報の公開・共有を重要な点と位置づけています。

では、情報はどこまで公開するのか。

2点を公開すべきと考えます。
①政策決定権者が、政策決定の材料とする資料のすべて
②政策決定に至るまでの過程


政策決定権者とは、通常、市長です。つまり、勝山市長がAという政策を決断する材料のすべてに勝山市民はアクセスできなければなりません。加えて、政策決定に至ったプロセスについても同様です。



なぜ、全ての情報を公開すべきなのか

なぜ、すべての情報を公開すべきなのでしょうか。
理由は3点あります。

まず、行政2.0の主たるテーマである「現場第一主義」が挙げられます。

市政の課題や問題は、常に現場でしか起きません。教育や福祉、産業育成、公共交通、中心市街地活性化といった市政の課題や問題は、常に現場で発生します。そして、問題が現場で発生する以上、その解決方法も現場で探らねばならないのです。

行政2.0での「現場第一主義」では、トップダウンはおよそあり得ません。確かに、制度そのものを変えねばならない事態は発生するでしょうが、それも現場の声を受けてのことです。
 その現場で問題解決を図ろうとする人々は、市民と行政スタッフであり、彼らに全ての情報が開示されていなければ、そもそも決断ができません。


第二に、情報を全て開示しなければ市民は行政に対して信頼感を抱きません。

市民協働、現場第一主義……そのような奇麗ごとを並べたところで、肝心の情報すら完全に開示しない相手に、人は信頼感を抱くでしょうか。
「どうせ、役所が決めるのだろう?だったらあいつらに任せておけばいいじゃないか」
といったお役所任せの体質は、まさに不信感の表れなのです。

その不信感の矢面に立たされているのは、現場の行政スタッフです。彼らは一生懸命に現場で仕事をこなしますが、市民の行政不信から不当な扱いを受けていると言っても過言ではありません。彼らを守るためにも、情報は広く開示し市民の誰もがアクセスできる状態を作る必要があります。

「明るいところにお化けはいない」と言うではありませんか。すべてを公開し、秘密などない状況にしておけば、誰も不信感を抱きません。暗闇を作るからこそ、人はそこに疑心を抱きます。
そして、その疑心を逆手にとってのさばる輩も出てくるのです。情報を完全に公開することは、その手の輩を排除する効果も持ちます。



第三に、情報を全て開示することは、市政の方向を市民に伝える効果を生みます。

経済学には「機会費用」との考え方があります。我々はいくつかの候補の中から、たったひとつの行為しか選択することができないのです。
「結婚しなかったら、私の人生はどうなっていただろう」などと妻は時々私に語りますが、それも機会費用の考え方です(どういう趣旨で私に語るのかは謎ですが)。

政策も同じことです。我々が有する資源が無限でない以上、ある政策を選択することは別の可能性を捨てることを意味します。それでも、我々は選択し前へ進んでいかねばなりません。
政策決定権者である市長が政策を決定する。その際に判断材料とした全ての資料は市民に公開される。会議の議事録も何もかも。その資料の中では「勝山市はこれからどの方向を目指すのか」が明らかにされているのです。



すべての情報を公開して大丈夫なのか?と疑問をお持ちのあなたへ

私が「市長が持つ情報のすべては、市民に公開すべきだ」と言うと、「そんなことをして大丈夫なのか?」と不安気に答える人がいます。

逆に、公開することでどのような不都合が生じるのでしょうか。

国レベルであるならば、外交情報や軍事情報などの機密情報はあるでしょう。これらが公になることで国家に不利益をもたらすことは十分にあり得ることです。
しかし地方自治体レベルで、秘匿にすべき情報はありません。

市民の個人情報以外の情報を公開することで、勝山市に不利益になることはないのです。




どのような方法で、情報は公開され討議されるのか

では、どのような方法で情報は公開されるのか。  

情報公開は様々な手段により行われることとなるでしょうが、「進捗ボード」と呼ぶWebページを構想中です。これは、各地区からの要望事項や具体的な諸問題が、現在、どのような取り組みをされているのかをリアルタイムで表示するものです。協議段階であれば、何月何日の会議にかけられたのか。その議事録はどうなっているのか。「何が問題になっているのか」「その問題はどのような解決が図られているのか」を明らかにするものです。

この進捗ボードや様々な方法で情報は公開され、勝山市民は全ての情報にアクセスできるようになります。


勝山市民に求められる姿勢

行政が情報を完全に開示するためには、行政内部の有り方を改善することが求められます。同時に、勝山市民の皆さんにも意識を変えていただかなければなりません。

「我々が責めるべきは、人でなく、課題・問題である」といった問題解決型の発想に立っていただきたい。でなければ、情報を開示する意味はありません。

我々は、ややもすると現状への不満を他人に負わせがちです。
「勝山がダメなのは〇〇のせいだ」
「〇〇がしっかりしていないから、何をやってもダメだ」
「あそこの連中が足を引っ張る」……等々。
しかし、他人を責めてばかりいても一時の憂さ晴らしにはなるものの、課題は解決されないまま放置されます。

我々の目の前にあるのは問題であり課題です。勝山市民は、行政スタッフであろうと市民であろうと、等しく「一緒に問題を解決する仲間」なのです。
この意識が醸成されない限り、情報公開は犯人捜しの道具にしかなりません。
情報を公開した、しかし、公開したために行政スタッフは更に批判されるばかりだ……というのでは、元の木阿弥です。行政は再び情報を出し惜しみすることになるでしょう。

情報公開を活かすも殺すも、そのカギを握るのは勝山市民の皆さんなのです。

【勉強・受験】  基礎力・応用力のお話  ③ネットワーク化を図る方法

ネットワーク化を図る方法


さて、これまでの内容を要約すると、
 ①知識は知識のままでは使えない。
 ②知識はネットワーク化して初めて使えるものになる。

そうなると、次は
「どうやってネットワーク化を図るのか」
との手法の話になります。

結論から申し上げますと、「プロの方にご相談ください」と言うしかありません。身も蓋もない話で恐縮ですが、学力状態や学年、性格など子供により状況は千差万別で対処方法が異なるのです。

ただ、これで終わったのでは、さすがにどうかとも思いますので、「ネットワーク化を図る際に、私が最も重要視すること」をお話ししましょう。


ネットワーク化を図る際に、私が最も重要視するのは「その子が、学んだ内容を自分の言葉で語れるか」との点です。実際に、私は子供たちに頻繁に要求します。
「それはどういうことなの?」
「それじゃ、今やったことを自分の言葉で説明してごらん」

学んだ内容を自分の語る。何度も何度も繰り返して語る過程で、子供たちは二つの力を伸ばします。
①再現力
②論理性



再現力について

ネットワーク化を図る大前提として、知識がちゃんと定着している必要があります。では、知識が定着しているとは、どのような状態を指すのでしょうか。
それは「学んだことを再現できる」状態です。

例えば、「ヨーロッパの地理」の知識が定着したか否か、これを確かめたいとき、私は子供に1枚の白紙を渡します。
「さあ、ここにヨーロッパの地図を書いてみて」
「書けたら、国名を入れていって」
もう1枚わたして、
「同じように、ここにヨーロッパの地図を書いて、国名を入れて、次は言語分布のエリアを入れていって」
と次々と再現させます。

理科ならば、例えば、「大地のしくみ」を勉強した後に
子供に1枚の白紙を渡して、
「岩石の種類を、系統だって書き出してみて」
と求めます。
「岩石は……まずは、火成岩と堆積岩に分かれるでしょ?」
「ええと……次は、火成岩は火山岩と深成岩に分かれるから……」
と子供たちは知識を再現し始めます。

数学ならば、今度は紙すら渡しません。
「二次関数を習ったよね。二次関数で習ったことを順番に言ってみて」



ヨーロッパの地理を習得した子は、当たり前のように白紙に地図を書き、その中に必要事項を埋め込んでいきます。二次関数の理解の低い子は、何を習ったのかすら再現できません。


こういった訓練は、2つの効果を発揮します。

ひとつは、当然のことですが知識の定着率を格段に上げます。
そもそも再現できないような知識は、知識としても使えません。したがって、テストで点を取ることもかないません。
授業は理解できた。教科書の例題も解けた。宿題でワークもこなした。でも、再現しようとしても再現できない。この段階に留まっている子供たちは、皆さんが予想するよりも多いのです。

かくいう大人も(私も含めて)同じようなものでしょう。
本を読んでいて理解しているつもりでも、「たった今読み終えたばかりの本の内容を再現してください」と言われると、案外とできないものです。
下手すると、「ああ、面白かった」と映画館を出たばかりのときに「あれ?そういえば映画の内容ってどんなんだっけ?」と訝しく感じるときすらあります。

知識の再現とは、案外と難しいのです。



効果の二つ目は、子供の心理に与える影響です。
人はゴールが見えないときに、極度の疲労を感じます。山登りでも、山頂が見えれば「あそこがゴールだ」と気持ちを新たにすることができますが、鬱蒼とした森の中を延々と歩くのは苦痛です。
「ぼくは、〇〇単元の知識を全て再現できる」……これは子供たちに達成感と同時に安心感を与えるのです。なぜなら、テストでそれ以上の知識はでないのですから。





論理性について

学んだ内容を自分の言葉で語ることは、子供の思考の論理性を高めます。

この論理性を高める訓練が、知識のネットワーク化に決定的に重要となります。

論理的に語ろうとすると、一般的には演繹的に語るか、帰納的に語るかの2通りの道を通ります。

演繹的に語るとは、最初に一般法則を出しておいて話を進める手法です。

(A)すべての人間は死ぬ(一般法則)
(B)ソクラテスは人間である
(C)だからソクラテスは死ぬ(結論)

前回述べた、数学の関数問題の解き方を例に挙げると、

(A)どうせ、関数なんて①グラフを書くか、②座標を出すか、③式を求めるか。
   それしかやることないよね (道理)
(B)この問題も、同じやり方でやってみよう
(C)ほら、やっぱり解けた(結果)

といった流れになります。最初に一般法則としての道理が存在し、それを問題に当てはめて結果として解答を導き出すプロセスです。


一方、帰納的に語るとは、いくつかの事柄を並べて共通のルール、法則を導き出す手法です。

(A)東京都民の平均年収は高い
(B)名古屋市民の平均年収は高い
(C)大阪府民の平均年収は高い
したがって、
(D)大都市圏の住民の平均年収は高い

この帰納的手法が、「知識と知識を結び、共通項を作る」という道理のレベルの議論であることは、前回の拙稿をお読みの方はピンと来ることでしょう。




学んだ内容を自分の言葉で語る中で、子供たちは演繹的に語ったり帰納的に語ったりと、この2つの道を行ったり来たりする経験を積みます。

その過程の中で、論理性を学んでいくのです。


この手法を具体的に述べることは簡単ではありません。と申すのも、子供ごとに性格や知識の定着状況、論理的能力の段階など、様々ですので、私が出す質問も異なるのです。

ただ、「ああ、この子はそういう説明ができるようになったのか」「ならば、この分野については論理的に語ることができるようになったね」という、ひとつの目安はあります。

その目安とは、「説明が、ストーリーとして聞ける」こと。

その分野を論理的に説明できる人物が語るとき、その話す内容は実にシンプルで、かつ、ストーリーとして聞けるものになっています。

それは大人であろうと、子供であろうと同じことなのです。






例 外

ただし、何事にも例外はあるものです。

これまでのやり方は、
 ①知識と知識を組み合わせる
 ②共通項を探り当てる
 ③それが道理である
とのやり方です。言わば、論理と論理で新しい道を模索する方法です。論理と論理であるならば、質問と問いかけといったやり方で対処することが可能です。対話を繰り返しながら、新しい「知のフレームワーク」を発見する方法ですから。

ところが、対話を重ねてもダメ、自分自身の力で「新しいフレームワーク」を獲得しなければならない分野があります。

それが図形問題です。

図形問題は得意な子と苦手な子がはっきりと分かれる分野です。

苦手な子の特徴。それは図形認識の見方(フレームワーク)がひとつしかないことです。

例えば、下の図を見てください。皆さんは何に見えますか?

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およそ間違いなく「立方体」もしくは「正六面体」と答えるはずです。
しかし、アフリカの特定の部族は、これを立方体と認識しないそうです。これを「12本の線」のある「平面図形」として捉えるのだとか。

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我々が「立方体」と考える図形も、上の三角形も彼らにとっては、「平面図形」として認識されるのです。



図形問題を苦手とする子も同様です。問題として与えられた図形を、別な形で認識できません。

具体例を挙げてみましょう。

私の教えている子供たちには、しばしば「面積迷路」を用いて、その認識パターンを学習してもらいます。



「面積迷路」とは、次のような問題です。

予めルールをお伝えします。
(1)使う知識は小学校3年生までのものとする。
(2)したがって、分数や少数、方程式なども使わない。
(3)使える知識は、せいぜい、(縦×横)=(四角形の面積)程度。


それでは、頭の体操として、次の問題に挑戦してください。
(ちなみに、図の縮尺は敢えて適当にしてあります)

10分以内で正解に辿り着けたら、かなり柔軟な思考の持ち主です。


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ちなみに、私の教えている中学生に解かしてみたところ、鉛筆を持たずに図を眺め、おおよそ2分足らずで正解に辿り着きました。

この問題の特徴は、「答えに必要な数字は全て求めているはずなのに、図形の見方を変えない限り正解に辿り着けない」点にあります。
「あれ?でないぞ?」という人は視点を変えて見てください。
(※正解は後ほど)



さて、2分足らずで正解に辿り着く子の、思考はどのようなものなのか。

先ほどの「アフリカの部族の立方体」と同じで、図形の苦手な子は、問題の図形をそのまま見ているだけです。

しかし、上記のような図形問題を数多く解く中で、子供たちは「レイヤー思考」と呼べる思考様式を身につけて、図形問題を得意にしていきます。

「レイヤー思考」の持ち主は、問題の図形をいくつかの階層に割りふり、全く異なる図形の組み合わせのように考えることができます。

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上記の1階レイヤー、2階レイヤー、3階レイヤーの図形を重ね合わせればひとつの図形が完成する。そういった思考様式を身につけるのです。
(もちろん、これはモデル図でして、実際に子供たちが1階レイヤーなどと割り振るわけではありません。「問題図の図形のこの部分だけ浮かんで見える」といった形で現れます)

こればかりは、「考え方・ものの見方」であり、論理や対話で身に着くものではありません。ですから、図形問題だけは例外であると申し上げました。


しかし、この力も練習により伸ばすことは誰でも可能だと私は確信しています。

2分足らずで解いた中学生も1年前はうんうん唸りながら問題に立ち向かっていました。3か月くらい練習中の中学1年生の子は、今なら前述の問題を6分程度で解けるくらいにまでなりました。

子供の可能性は無限です。
確かに「40分の授業内容を20分で理解できる子」と「40分の授業内容を60分で理解できる子」との間には、理解の速度の違いはあります。
 ややもすれば、私たち大人は「40分の授業内容を何分で理解できるか」との速度競争の観点で子供を評価しがちです。しかし、真に評価すべきは「時間はかかっても、『理解した』というゴールに達した」ことではないでしょうか。

これからも、そういった子供たちをサポートできれば。そんなことを考えています。



あ、そうでした。
先ほどの面積迷路の問題の回答を載せておきます。

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余談をふたつほど

最後に、余談をふたつほど。
これまでの経験の中で、身に染みて分かったことでもあり、保護者の皆さんにご理解いただきたい点でもあります。

ひとつは、皆さんは塾や家庭教師をつける時期を間違っています。

ほとんどの保護者が、お子様を塾や家庭教師につけるのは
・成績が下がってきた
・来年から受験生だ
といった時期でしょう。

中には、
センター試験終わって、後1か月!
・クリスマス前で、高校受験まで2か月!
という時期に来られる保護者もいらっしゃいます。


違うのです。時期が明らかに違う。

私が保護者の立場ならば、
 ・小学校卒業してから中学校入学した後の最初の中間試験まで
 ・中学校卒業してから高校入学した後の最初の中間試験まで
この時期に全ての資本を投入します。

例えば、高校受験生が年末に
「もう駄目だ。家庭教師を雇ってベタ張りで教えてもらおう」
としたときの投下資本と、
「小学校卒業したので、中学入学までに中1の内容を薄くでもいいから総ざらいしておこう。そのために家庭教師を雇ってベタ張りで3週間教えてもらおう」
としたときの投下資本は、全く変わりません。

しかし、子供にとってどちらが有益でしょうか。

中3のドン詰まりになって「どうせ、俺はできねえよ。やる気もないし」といった状態になっている子供の尻を叩いてやる気を起こして無理無理勉強させる。
片や、「これから中学生だ」「中学生になったら新しい勉強が始まる」「不安だけど楽しみだな」という子供を教える。
どちらが学習効果が高まるのか。火を見るよりも明らかです。

本当に多くの保護者の皆さんが、この陥穽に落ちます。



そして、もう1点。これは本当に重要な点です。
何度強調してもしきれないくらい……というか、この業界に身を置いた人間ならば、保護者に向かって怒鳴りたいくらいの衝動に駆られる「事実」です。

それは、「塾や家庭教師をつけたから成績が上がると思わないで欲しい」

大切なことなのでもう一度言います。

塾や家庭教師をつけたから成績が上がると思わないで!

これは、教える側が努力を怠る言い訳ではありません。

考えてみてください。

週2回、ピアノ教室に通わせる。家では一度もピアノに触ることすらない。そんな子供が「私は東京芸大に行って、ピアノで有名になるんです」と言ったならば、周囲はどう思うでしょうか。

野球クラブにプロの選手が来てくれて技術指導をします。「カーブはこう投げるんだよ」「君のバッティングフォームは、ここを強制した方がいいね」……次の日に、いきなりカーブを投げる子はいません。4割バッターになる子もいません。地道な練習を経て、技術を習得し、それで結果が出るのです。

私たちは、子供たちに勉強の仕方を教えます。知識も伝えます。その活用の方法や、道理へ辿り着く道筋も示します。
しかし、その道を進むか進まないか。それは、本人が努力するより他にありません。

そもそも、週2回塾や家庭教師をつけた程度で、スイスイと成績が上がるのであれば、これほど簡単な話もありません。皆が東大京大へと進むことでしょう。

子供たちに勉強をさせてください。

そして、それはごくごく簡単な方法で可能となるのです。


今年の1月2日。
世の中は、まだお屠蘇気分が抜けていない3が日です。
ある塾を覗けば受験生たちが朝の10時から自習をするため机に向かっていました。それも一人や二人ではありません。何十人もの高校受験生、大学受験生が机に向かっているのです。おそらくこの子たちは、朝の10時から自習室が閉まる時刻まで勉強をするのでしょう。毎年の風景とは言え、涙が出そうになります。

なぜ彼らは自習室に来るのか。
独りではモチベーションが上がらないからです。
「僕はひとりじゃない」
「こうやって勉強している同学年の人や先輩たちがいる。私も負けていられない」
そうやって気力を振り絞ります。

ならば、自習室に通えない子はどうすればいいのか。
ご家庭の協力があれば可能なのです。
「あんた、宿題したの?」
「ちゃんと勉強してるの?」
と言いながら、お母さんはTVを見ていませんか?
子供には子供部屋を与えたのだから、そこで勉強すればいい。私は疲れたしTVを見てゆっくりと過ごしたい……その気持ちはよく分かります。心の底からわかります。
しかし、そこで3か月の間、我慢して欲しい。

3か月で結構です。

子供を台所へ呼んでください。理由は何でもいいです。子供を独りにしないで欲しい。
「一緒に勉強しよう」
でも構いません。
「私は本を読んでるから、宿題片付けて」
でもいいでしょう。

TVも消して静謐な空間で、親と一緒に勉強する。
そんな生活を3か月でいいから過ごしてみてください。

そして、時々、お子様に聞いてください。
「何か手伝えることある?」
「私は勉強分からないけど、逆に、私に教えてよ」
それで結構です。私の立場からすれば、これほど有難いこともないのです。





つまらぬ余談を長々と申しました。
しかし、20年やってきた人間の率直な意見として承っていただければ幸いです。








【勉強・受験】  基礎力・応用力のお話  ②ネットワーク化できる子供の発想

 

ネットワーク化できる子供の発想



では、「成績の良い」子供たちは、どのように共通項を掴んでいるのか。次にそれを見ていきましょう。

前述した数学の関数問題を例に取ります。

もう一度、関数問題を苦手とする受験生の内部を見てみましょう。

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これは、まさに知識レベルで混乱している状態です。

ならば、成績の良いとされる子たちはどのような発想をするのでしょうか。



中高6年間の「関数の旅」の第1歩は、中学1年生の「比例・反比例」から始まります。
具体的には、次のような問題です。簡単な問題ですので、皆さんも是非チャレンジしてみてください。

《問1》

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《問2》

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《問3》

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こういった問題をこなす過程で、勘の良い子は気がつきます。
「なんだ、結局は①グラフを書く ②式を求める ③座標を求める。この3つだけのことじゃないか」


そう、その通り。よく気がつきました……と、私は褒めます。なぜなら、関数の問題は、どこまで行っても
 ①グラフを書く
 ②式を求める
 ③座標を求める
この3つを延々とやり続けるだけのことだからです。


そこに気づいた子供の発想は、次のようなものになります。

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1次関数であろうが2次関数であろうが、変域を求める問題だろうが文章題だろうが、結局やることは一緒でしょ?……と、彼らは考えます。
したがって、新しい問題を見た時も鉛筆が止まることはありません。なぜなら、「結局、やることは一緒でしょ?」との発想に立つならば、方針がぶれることはないからです。

「結局、やることは一緒でしょ?」……これは、前述した主婦の料理を同じです。「小麦粉がないなら〇〇を使えばいいじゃない。だって、結局やることは一緒でしょ?」
道理を掴んだ人間はやることが見えています。見えているのだから、やるだけ。

逆に、数学の苦手な子は問題を前にしてウンウン唸っています。知識がバラバラになっているために、「どこから始めれば良いのか」との取っ掛かりが見えません。「ここはこうすればいいよね」との取っ掛かりを与えると、「あっ、そうか!」と鉛筆が進みます。そういった姿を見て、「なんだ、この子はできるじゃないか」と私たちは考えません。逆に「この子は、まだネットワーク化ができていない」と判断するのです。



これは数学だけの話ではありません。理科でも社会でも英語でも同様です。



「日本地理はバッチリです」という子がいるのならば、私たちはその子に問います。
「そうですか。それでは、京浜工業地帯とは?」
「続いて、北陸工業地域とは?」
これが知識レベルの質問です。教科書に出ている知識を問う質問です。

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知識レベルでの定着ができたならば、次のレベルの質問が始まります。

「では、京浜工業地域と北陸工業地域を比較して、北陸工業地域の特徴を説明してください」
これがレベル2の問題。

この問いは、様々な問いかけを子供たちに要求します。
「なぜ北陸地域に伝統工業が発達したのか」
「なぜ伝統工業は、地域ごとに異なるのか」
といった問いを考えることで、子供たちの中にある知識はネットワークを形成します。

北陸地方は雪が降る」
「雪が降れば、農業はできない」
「農業ができないから、冬は別なことをする」
「そうやって伝統工業が発達したのだ」
と共通項を結ぶ過程で子供たちは気づきます。

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逆に、「北陸工業地域と比較して、なぜ京浜工業地帯に出版・印刷業が発達したのか」との問いは、京浜工業地帯の性格を浮き彫りにします。






そして、こういった経験を積み重ねていく過程で、道理は更に進化していきます。
「道理と道理を結びつけて、更に深い道理を作り上げていく」との段階です。

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先ほどの地理の例を挙げるならば、
「北陸と関東の工業を結びつけて共通項を探る経験」のような思考経験を繰り返す子供たちは、途中であることに気づきます。
「そうか!農業や工業・商業は、その地域の地理的特性に影響されるのか」
更に深い道理のレベルでの気づきです。

「産業は、その地域の地理的特性に影響される」……このことは、当たり前のことです。そして、教科書にも何度も書かれ、先生たちは口が酸っぱくなるくらい繰り返します。

ですが、ネットワーク化を図らなかった子にとって、「産業は、その地域の地理的特性に影響される」との内容は、単に知識のひとつでしかありません。

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ネットワーク化を図る作業を続けていく過程で、子供たちは自分自身の理解として「ストンと肚に落ちる」経験をします。
「ああ、そうか。そういうことだったんだ」
「知識のフレームワーク」と呼ばれる、様々な知識を統括する道理をつかんだ瞬間です。

ここまで来れば、記述式・論述式だろうがどのような問題にも対応できることでしょう。






これは余談ですが、様々な形で「更に深いレベルでの道理」は存在します。

例えば、数学・理科ならば

小学校で学ぶ「シーソー」

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中学1年生で学習する食塩水の問題

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高校1年生で学習するチェバの定理

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これらは、すべて同じ道理で考えることができます。したがって、シーソーの理屈さえわかっていれば、すべて解ける仕組みです。






歴史ならば、例えばこれ。
「これは何ですか?」

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教科書の挿絵に出てくる有名な作品ですから、中学生は答えます。
ミケランジェロがつくったダビデ像です」

これは知識のレベルの話です。

ダビデ像が掲載されている教科書の同じページには、必ず「ルネサンス(文芸復興)」の用語も掲載されています。ですから、知識レベルとして「ダビデ像」と「ルネサンス(文芸復興)」は必ず押さえてあります。

そこで私たちは問います。
「なぜ、ダビデ像はスッポンポン(裸)なのか?」

これは、中学生にとっては実に難しい問いです。
使う知識は中学生の歴史の教科書に全て載っているはずですが、私の経験上、この問いに答えられる中学生は稀です。

これを読んでおられる皆さんも、是非考えてみてください。




さて、それでは次に「どうやって、知識のネットワーク化を図るのか」。その手法について考えてみましょう。

【勉強・受験】  基礎力・応用力のお話  ①応用力とは何か

はじめに

昨年末のこと。コンビニのレジで、カウンターの向かい側の店員さんから声を掛けられました。
「つかぬことを伺うのですけど……子供の成績をどうやって伸ばせばいいんでしょう」
「うちの子、今年卒業して上の学校へ行くんですけど、心配で心配で」


高校受験生や大学受験生を教え始めて、はや25年が経とうとしています。さすがに市議会議員時代は、よほどの理由がない限りはお断りしてきましたが、それでも多くの受験生に接する機会を得ました。
当たり前のように東大に行ってしまう子もいました。中学・高校と6年にわたり不登校だった子が「僕は、人生をリセットしたい」と一念発起し、東京六大学へ行ったケースもありました。こちらが泣きたくなるくらい定着度の低い子もいれば、一を聞いて十を知る子もいました。本当に子供は様々です。

それでも、子供たちは、それぞれに夢に向かって努力していました。その努力を支えてあげたいと私も25年近くにわたり子供たちに接してきました。

レジで私に問いかけたお母さんの他にも、最近、保護者からの問い合わせが増えてきました。多くの保護者が同様の悩みを抱え、我が子のために何かをしたいと考えていらっしゃいます。

経験の中で、少しだけわかったことをお伝えできれば……それが本稿の目的です。


本稿の対象

本稿は次のような方を対象としています。

①教科書の例題は解けるのに、テストの点が伸びない。
②基礎力とはどこまでやれば良いのか、わからない。
③「できる子」は、なぜできるの?
④塾や家庭教師をつけるタイミングがわからない。


本稿の内容

まずは、多くの方々が抱いている誤解を解くことから始めます。
それは、「応用力は基本的な問題を数多く解けば得られる」というもの。
この誤解は、「応用力とはそもそも何か?」との問題と密接に関係します。

もうひとつの誤解は、「頭の良い子は知識の量が違う」というもの。私の経験上、学年トップの子と学年30番の子の知識量にさほどの違いはありません(定着率の差はありますが)。

その誤解を解く過程で、「応用力とはなにか」を説明します。
子供の頃、足の速い子がクラスに数人います。誰にならったわけでもないのに、足が速い。そういった子は「体の使い方が上手い」のです。同様に、誰に教わったわけでもないのに成績の良い子もいます。そういった子は「頭の使い方が上手い」と言えるでしょう。頭の使い方が上手いとは、詰まるところ、応用力を自然と掴んでいるのです。

そして、最後に、私見としての「応用力の掴み方」。その方法について説明いたします。




応用力とは「知識をネットワーク化すること」である

「教科書の例題は解けるのに、応用問題が解けない」
「基本的な知識はあるはずなのに、模試を受けると点につながらない」
少なからずの子供・保護者の方々が抱く悩みです。

なぜ、得点に結びつかないのでしょう。

保護者の方々は言います。「うちの子は応用力がないから」と。
そのとおりです。
ですが、「応用力とは何か?」を正確に把握していないと、
「簡単な問題をたくさん解けば基礎力がつく」
「基礎的な問題の次に、難しい問題を解いて応用力をつけよう」
「でも、難しい問題が解けない」
「もう一度、簡単な問題に戻って基礎力をつけよう」
といった、間違った無限ループを繰り返すことになります。


では、応用力とは何でしょうか。




【応用力とは知識のネットワーク化である】

結論から申し上げると、「応用力とは、知識をネットワーク化し、それを現実に反映させる力」だと私は考えています。


数学を例えにとり、具体的に見ていきましょう。

中学1年生は2学期に「比例・反比例」を学びます。

ここから、中高6年間にわたる「関数の旅」が始まります。
 ・中学1年生ー比例・反比例
 ・中学2年生ー1次関数
 ・中学3年生ー2次関数
 ・高校数Ⅰ-2次関数
 ・高校数Ⅱ-三角関数、指数・対数関数、微分積分
 ・高校数Ⅲ-平面上の曲線、複素数平面、微分積分


関数問題の苦手な高校受験生は多いのですが、彼らの内部で蓄積された「関数の知識」は次のようなイメージです。

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まさに、知識が知識のまま蓄えられてしまった。そんな状態です。
「教科書の例題はすらすら解けるようになったけれど、模試の問題などは、さっぱり解けない」という子供は、まさにこの状態に陥っているのです。



この状態を抜け出るためにネットワーク化が求められるのですが、次は、そのネットワーク化について説明しましょう。




【ネットワーク化とはどのような状態なのか】

一般的に、知識は単体として独立して存在します。

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この単独で存在している知識をネットワーク化して応用力をつけます。
ネットワーク化された知識とは次のようなイメージになります。

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ネットワーク化とは何か、また、なぜ必要なのか。それは知識同士がどのようにつながっているのかを見てみればお判りになります。

本来、異なる知識をつなげるためには、互いの知識の中に「共通する何か」を見つけなければなりません。

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異なる知識を結びつける共通項を発見することは、全く異なる次元の知識を手に入れたことを意味します。一般に、この共通項は「道理」とか「物事の根っこ」と呼ばれるものです。

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「道理のレベル」というと難しくなりますが、日常生活でこのレベルの知識は様々な場面で顔を出します。

例えば、主婦が料理を作る様を見ていると、「なるほど、道理だ」と感じる場面があります。
「小麦粉は?……あら、小麦粉がないわ。それなら〇〇を使えばいいか。どうせ効果は同じだから」
これが道理のレベルの発想です。食材Aも食材Bも効果としては同じなのだから使えばいいでしょ?との発想は、共通項を弁えないと出てこないものです。

何十年もの間、日々食事を作られた主婦は、誰に言うともなく道理を掴んでいます。逆に、私などは「知識のレベル」の経験しかありません。「カレーは作れる」「チャーハンは作れる」という知識はあっても、それらを横断するネットワーク化ができていないために、共通項、すなわち道理のレベルにまで達していないのです。

そして、重要なことは、受験なり模試なりは道理のレベルでの争いだという点です。

受験問題に「見たこともない知識」は出てきません。
中学生の教科書に出てくることが高校受験では問われ、高校生の教科書に出てくる内容が大学受験で出題されます。

それは、例えるならば、目の前に見たことのある食材を出されて「さあ、これで料理を作ってください」と言われるようなものです。

おそらく、道理を掴んでいる主婦ならば易々と3品を作るでしょう。しかし、知識レベルでの料理しか知らない私ならば、包丁を持ったまま立ちすくみます。食材は見たことがある、包丁の使い方も知っている、しかしどこから手をつけてよいのかわからない。まさに、鉛筆を持ったまま解答用紙をにらむ受験生と同じです。

なぜ日本には真正のリベラル政党が誕生しないのか ーその1:保守主義的思考とリベラル派の思考ー

目 次

私は政治信条として保守主義者を自認しています。
同時に、日本に真のリベラル政党が誕生することも強く願っています。

保守主義とリベラル派の関係を、私は「男女の関係のようなものだ」と考えています。男だけの社会や女だけの社会はあり得ません。保守主義者だけの社会、リベラル派だけの社会も存在しません。
男と女に優劣はありません。保守主義とリベラル派は考え方が異なるだけで、優劣はありません。
保守主義とリベラル派は対立します。あたかも、男女が喧嘩をするように。しかし、男女が共に語らいながら関係を深めていくように、保守主義とリベラル派は議論することができるはずです。

しかし、日本には真正のリベラル政党がありません。これは、55年体制の弊害が未だに続いているためでもあり、日本の政治を豊かにするためにも、一刻も早くこの枠組みから脱出すべきです。

今回の衆議院選挙を見ていて、その想いを強くしました。
これまで、政治家としてバッチをつけていたときは自民党の候補者の応援にドブ漬かりでした。もちろん今でも自民党なのですが、外野から眺めてみると分かることは多々あるものです。


第1回目となる今回は、次の点を強調しました。
保守主義者の限界はどこにあるのか?」
「なぜ枝野幸男の演説は人々の心を震わせたのか?」
「なぜリベラル派は『民衆の敵』になるのか?」
 

《第1回目:目次》
0.嫁でもわかる5行の要約
1.そもそも保守主義とはなにか
2.保守主義者の限界
3.リベラル派とは何か
4.なぜリベラル派は「非国民」になるのか


嫁でもわかる5行の要約(涙)

とりあえず書いたものを嫁に読んでもらいました。
「長い!」
心が折れる!」
「もっと簡単なものにまとめろ」
と心温まるリクエストをいただいたので、第1回目の内容を簡単に要約してみます。

PTA活動めんどうくさいよね。
でも、昔からやってることだし。やれば楽しいかもしれない。
あ?なんであの人、PTA総会で正論言ってるの?
私たちこれまで一生懸命やってきたし。今までの積み上げ台無しにする気?
ちょっと空気読んでよ。

こんな感じでいかがでしょうか?妻よ。

嫁のOKでました。

それでは、本論始まります。第1回目の最後まで読んでいただいて、もう一度「嫁でもわかる5行の要約」をお読みいただければ、この要約の趣旨がわかるはず……と信じたい。


そもそも保守主義とはなにか

保守主義「昔の方が良い……と思っている人たち」と単純化するのは、大きな間違いです。重要なことは「なぜ保守主義者は伝統を重んじるのか」を理解すること、そして、その理解のためには保守主義の出生にまで遡らなければなりません。

保守主義と革新主義とは双子です。革新主義が世界史に華々しく登場したフランス革命において、保守主義も誕生しました。

革新主義とは何でしょう。その特徴は、理性に重きを置く点にあります。
理性とは「物事の道理を考える能力、道理に従って行動できる能力」を指すと考えていただければ結構でしょう。

では、理性を中心に置くと何が起きるのでしょうか。時計の針をフランス革命から150年ほど戻してみると、近代哲学のスタートとなるデカルトの『方法序説』があります。

 

方法序説 (ちくま学芸文庫)

方法序説 (ちくま学芸文庫)

 

 

デカルトは「方法序説」の中で次のようなことを述べています。曰く、自然に成長・発展した都市より誰か一人が計画・設計した都市のほうが美しいと。
理性に基づいた都市設計論です。

ですが、誰かひとりが「理想の都市」「理想の社会」を造ろうとすれば、他者の関心や観点を無視して独善的に己の見方を特権化しなければなりません。そして、フランス革命においては、その独善性が存分に発揮されました。理性の名のもとに、ギロチンに血塗られた独裁政治を産んだのです。


その有様をドーバー海峡を通して見ていた英国の政治家、E・バークは猛烈な筆致で一冊の書を上梓します。『フランス革命省察』。これが保守主義誕生のマニフェストとされています。

 

フランス革命の省察

フランス革命の省察

 

 

バークが述べた内容は、シンプルに要約できます。
「この世の中は、君たちだけで作り上げたものなのか?」
……社会は複雑だ。それを合理化して認識することはできるだろう。だが、それを単純な目的合理性の下で改革するのは、君たちの傲慢ではないのか……と。

保守主義の基礎には、歴史的に生成された制度や秩序は、昨日今日達成されたものではない。長い時間の試行錯誤を経てかろうじて残されたものなのだ……との直観があります。

それは人間に対する洞察と言っても良いでしょう。保守主義者は次のように考えるのです。
「確かに、人の理性は貴重なものだ。だが、人が理性的な生き物であるならば、なぜ、この世の中から不合理や不正義はなくならないのか。人は賢くもあり愚かしくもある。その営みは悲劇的でもあり喜劇的でもある。神話の時代から、人々は同じことを延々と繰り返してきた。その人間性は何も変わっていない。ただ、人々は、その時代ごとに苦吟しながらも制度を練り上げてきた。その延長線に今があるに過ぎない」

したがって、保守主義者は漸進的な改革を好みます。保守主義者は、今の人間を特権的に賢いとは思わない以上、昔から残っているものを大胆に変えようと思わないのです。



保守主義者の限界

さて、保守主義者には決定的な限界があることも事実です。

ひとつは、主張に普遍性を持たない点です。

保守主義者が保守主義者である由縁。現在は過去の延長線に位置し、今が存在するのは過去の人々のおかげであるとの発想……(それは「現在の希少性」に対する直感と言えます)……その希少性に対する直感と、それを担う責任感、そして誇りです。

大東亜戦争における特攻隊を考えてみましょう。リベラル派にすれば「国に殺された」としか思えない特攻隊の若人に、保守主義者はなぜ感銘を受けるのでしょうか。それは、彼らが抱いた責任感に同感するからです。「私の死が次の世代の繁栄につながるのであれば」と死んでいった特攻隊の若人の責任感と誇りに(私を含め)保守主義者は強く同感します。

しかし、これは「主義」ではありません。

仮に、保守主義者が伝統主義者ならば、これは「主義」となりうることでしょう。伝統主義とは「伝統は何でも尊重すべし」との思考様式であって、全ての伝統を尊重すべしと定式化ができるのであれば、主義(ドクトリン)として相手に説明することができます。

ですが、保守主義は定式化ができません。
ただ、自らが負う伝統への個人的なコミットメント(誓約)の中にこそ保守主義者は生きているからです。秩序の希少性に対する直感、それを担う責任感と誇り。これらは個人的なコミットメントの中でしか発揮できません。そして、個人的なコミットメントである限り、決して主義や普遍的な理念として掲げられるものではありません。


ならば、自らが属する社会に対する個人的なコミットメントが保守主義者の特徴であるとすると、保守主義者のコミットメントは、特定の宗教団体の構成員が宗教団体に行うコミットメントや、極端な例を言えば、構成員がマフィア・暴力団といった組織に対して行うコミットメントと同列なのでしょうか。

それは違います。保守主義者の行うコミットメントには公共性が生じ、その公共性は「社会(=祖国)」の概念まで拡大するのです。
これは具体的に下図を見ていただきましょう。

私は、保守主義的思考は下図のような構造をなしていると考えています。

《図1:保守主義者の思考様式》

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保守主義者は、歴史や伝統を不可思議なもの、我々が安易に触ることができないものと考えます。

例えば、子供なら必ず一度は考える「私はどこから来たの?」という疑問。私には両親がいて、その両親にも両親がいて……という連鎖の中で、その鎖が一度でも切れたら存在しなかった自分。その希少性。そういった事柄に想いを馳せるとき、歴史や伝統は不可思議な、安易に触れるべきものでなくなります。
(したがって、保守主義者のコミットメント(誓約)とは「私はこの国を守る」といった明示的な誓約から、素朴な「世の中がうまくまわっているのは実に不思議だ」といった疑問に至るまで、様々な段階を踏みます)


そして、「私を育んだ歴史や伝統」のエリアは、ある一点でMAXとなります。そこが祖国概念です。ただし、これは国家概念と同一視してはなりません。あくまでも祖国とは、「我々と言語・文化や歴史を共有できる人々・組織」を指すのです。
(ドーデの『最後の授業』を思い返してください)

繰り返しますが、保守主義者にとって祖国とは、言語・文化や歴史を共有できる集団であり、そこには公共性が不可欠となります。

そして、その公共性を維持することが保守主義者の目的となるのです。
「我々の伝統は貴重なものである」
「伝統は公共的なものであり、それを維持することが肝要である」
「したがって、社会の抜本的な改革よりも漸進的改良が望ましい」

しかし、その公共性は特定の主義主張によって形成されているものではありません。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」との前提が置かれており、ここに保守主義者の陥りやすい思想的落とし穴が口を開けています。

この点は私自身も自戒するところです。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」と考えることは楽なのです。思想的怠慢を生じやすい。

本来ならば、保守主義者こそが「何が我々の伝統の根幹をなすのか」を考えねばなりません。それを省いて漸進的な改良行為を続けることは、単なる現実主義でしかありませんから。

よくリベラル派からは言われるのです。保守主義には思想がない(笑)。これは誤解と言うものです。「何が我々の伝統の根幹をなすのか」……一度でも想いを巡らせた人ならばお判りでしょうが、この問いに答えることは、絶えざる知的取り組みです。
ですが、保守主義的思考は、ややもすると「これまであったものだから、これからもそれでいいではないか」と、知的怠慢をもたらしやすいことも忘れてはいけません。




もうひとつの、保守主義者の限界を指摘しておきましょう。

保守主義者は、伝統を守るコミットメントをし、伝統の母体に公共性を見るがために、「敵を外部に見る」傾向があります。

俗な例えをすると、どんなにデキの悪い子であっても子供は子供……というようなものでしょうか。可愛いもので我が子に対する愛情が損なわれることはありません。あたかも「我が子を虐めるのは他人の子」の発想にも似て、保守主義者が愛国的情熱に駆られるときとは、常に「敵が祖国を脅かす」ときなのです。

民主政権下において我が国の安全保障はズタズタにされました。その際に、保守主義者が感じた怒りは、まさに「祖国が脅かされた」ことに対するものだったのです。

では、なぜこの「敵を外部に見る」特徴が保守主義者の限界なのか。それは、「保守主義者とリベラル派がなぜ対立するのか」との論点に深く関わってきます。


その論点に進む前に、まずは「リベラル派とは何か」について考えてみましょう。



リベラル派とは何か

リベラル派を一言で定義せよというのは難しい話ですが、その特徴を見出すことは簡単です。
「敵は内部にある」
具体的には、「社会の内部に、亀裂と対立を見出す」のがリベラルの特徴です。

リベラル派とは、基本的に個人を主体とします。個人の自由を最大限に発揮できるための政治体制は何か?を考えるのが彼らの特徴といえるでしょう。「個人はなぜ抑圧されるのか、なぜ自由ではないのか。それは社会の中に亀裂や対立があるからではないのか。一見すると、自明に思われる社会体制の中にこそ、個人を抑圧する原因があるのではないか」と、リベラル派は考えます。

無論、保守主義者も「社会に問題がない」とは考えません。ですが、保守主義者は、社会の問題を現在の制度の枠内で解決しようとします。それが漸進的改良ですから。リベラル派からすれば、それは社会の内部の亀裂や対立に目をつむり、場当たりにパッチを当て続ける行為にしか見えないのです。

リベラル派は考えます。なぜ個人は抑圧されるのか。なぜこれだけの矛盾と対立が社会内に存在するのに、保守主義者たちは目をつむるのか。
それならば、我々が立ち上がるより他にない……と。

保守主義者の思考様式の特徴が「上下方向への個人のコミットメント」にあるとするならば、リベラル派の思考様式の特徴は「社会問題に対する、個人間の横の連帯」にあると言えるでしょう。

《図2:リベラル派の思考様式》

 

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今回の衆院選挙において、立憲民主党枝野幸男氏が10月14日に演説会を行いました。

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この演説会に対するネットの感想を見てみましょう。
エスカレーターにのってゾクゾクした。枝野さんだけの戦いにしてはだめだ」

立憲民主党は枝野が作ったのではない、あなたが作ったのですという言葉はグッときた」


「俺たちは『当たり前のこと』を言いたいんだ。今はそれが言えない世の中になってしまってるんだ。だから当たり前のことを言うのが一周回って新鮮なんだ。当たり前のことを言って共感してくれる人がいるのがとんでもなく心強いんだ」


これらは、リベラル派の典型的な思考様式です。「世の中はおかしい」と主張することは当たり前のことであり、その当たり前のことすら言えない。そんな世の中はおかしい。ならば、我々は連帯しよう。枝野が作ったのではなく、立憲民主党は皆のものなのだ。さあ、枝野だけの戦いにしてはダメだ。皆で手をつなごう。



そして、ここにリベラル派の限界があります。

リベラル派の限界のひとつは、「連帯がうまくいかないと、分裂してまとまらない」こと。社会内部に問題や亀裂・対立を見出した人々が連帯する、これがリベラル派の思考様式です。しかしながら、問題意識は個々人によって異なります。その問題意識が異なると、うまく連帯できないのですね。
うまく連帯できないと、仲間内で喧嘩をし始める。こういうときは、遠い敵よりも近親間の方が憎悪が深くなるのは世の常です。部落問題、労働者問題等々で、左翼と呼ばれる人たちがどれだけ分裂し、お互いに確執を持っているか。それを見れば明らかでしょう。

この点、保守主義者は基本的に連帯を考えません。祖国概念を同一に持つ限り、連帯する必要性を感じないのです。「母なる祖国」という言葉が、(万国の)保守主義者の憧憬と一体感を刺激するという1点だけからも、意図的な連帯が不要であることがわかります。「母なる祖国」という概念には、既に「その祖国に包まれている国民」概念が含ますから、連帯が既にパッケージングされています。
(昔から保守主義者とロマン主義との食い合わせの良さが指摘されてきましたが、その理由はここにあります)



もうひとつの限界は、「リベラル派は『非国民』になる」ということです。

「政治的公共性は自明のものではない。社会には深い亀裂が存在する。敵は社会の内部に存在するのだ」……と異議申し立てをするのが、リベラル派です。ゆえに、リベラル派は『非国民』としての扱いを受けやすくなる。ここをもう少し考えてみましょう。




なぜリベラル派は「非国民」になるのか

保守主義者とリベラル派は対立します。しかし、ここが面白いところでして、対立していると考えているのはリベラル派の方であって、保守主義者は対立しているとは考えていません。

保守主義者の思考様式を振り返ってください。保守主義者は、国民は和して一体であると考えます。そもそも保守主義者にとって「敵は外部にある」ものであり、祖国内に対立があるとは考えません。
したがって、リベラル派は保守主義者を右翼と呼ぶのですが、肝心の保守主義者は自らを右翼とは定義しません。国民は和して一体であると考える以上、自らを中道と位置づけるのです。

逆に、保守主義者の思想……国民は和して一体であるとの考え……に従うならば、社会に亀裂と対立を見出すリベラル派こそが、社会の混乱をもたらす存在に映ります。すなわち、リベラル派とは「民衆の敵」であり、「非国民」なのです。

 
近代劇最大の作家であるイプセンは、そのものズバリ『民衆の敵』との戯曲を書き残しています。

民衆の敵 (岩波文庫 赤 750-2)
 

 


舞台はノルウェーの田舎町。
ある日、温泉が湧き出たので町の人々は、これで町おこしができると大喜びします。しかし、ストックマン医師は温泉が毒物で汚染されていることを知りました。ストックマン医師は、この事実を公開して温泉を改造しようと実兄である町長に勧めますが、町長は莫大な費用がかかることを理由に拒否します。

ストックマン医師は、新聞社を味方につけ、労働組合の支援もとりつけ、町長に撤回を迫ろうとします。新聞記者からは「あなたは『民衆の友』だ」と絶賛されるなど、ストックマン医師絶頂のときでした。

しかし、町長から「温泉大改造には、莫大な負債と二年の温泉閉鎖が余儀なくされる」と聞かされた組合長は、あっさりと寝返ります。あれほど医師を絶賛していた新聞社も、大多数の購読者を失う可能性の前にたじろぎ、医師を裏切りました。

民集会で温泉閉鎖を主張するストックマン医師ですが、人々は動きません。彼は絶望してこう叫ぶのです。
「真理と自由の最も危険な敵は、堅実な大多数である」
「多数が正義を有することは断じてない」
「この広い地球上のいたるところで、馬鹿こそまさしく圧倒的大多数を占めるものだ」
「馬鹿が利口を支配することが当たり前とは怪しからん話ではないか」
「正義とは常に少数のみの支配するところだ」
ついには、町民集会の無記名投票の結果、満場一致で『民衆の敵』の烙印を押されたストックマン医師は、終幕で家族に向かい「最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」と宣言し、永遠の反抗を誓うのです。

 
イプセン研究者からは評価の低い『民衆の敵』ですが、イプセンらしい人間観察に溢れています。おそらくリベラル派の人々は、痛いほどストックマン医師の言葉が突き刺さることでしょう。


ただし、イプセンはリベラル派の人々にも嘲笑を浴びせている点も忘れてはいけません。リベラル派は、なぜか選挙に敗れるたびに「これは民意ではない」「ポピュリズムだ」と騒ぐ傾向にあります。それが先鋭化したものがストックマン医師の言う「国民はバカだ」になるのです。
イプセン保守主義的現実重視を笑いものにすると同時に、ストックマン医師の言動にも冷笑を浴びせています。そういったものもすべてひっくるめての人間、そういう人間観察なのでしょう。

話を戻します。
保守主義的思考は、ややもすれば「今まであったものなのだから、これからもあるものなのだ」との考えに傾き、思想的怠慢に陥れば、単なる現実主義・事なかれ主義に堕します。その中で、社会の問題を主張する人々は「民衆の敵」なのです。


この構図は下図のようになるでしょう。


《図3:社会の中のリベラル派》

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そして、この構造を見事に逆手にとったのが、マルクスでした。
次回は、その「マルクスの逆手戦略」から話を始めましょう。


(次回へ続く)