月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

なぜ日本には真正のリベラル政党が誕生しないのか ーその1:保守主義的思考とリベラル派の思考ー

目 次

私は政治信条として保守主義者を自認しています。
同時に、日本に真のリベラル政党が誕生することも強く願っています。

保守主義とリベラル派の関係を、私は「男女の関係のようなものだ」と考えています。男だけの社会や女だけの社会はあり得ません。保守主義者だけの社会、リベラル派だけの社会も存在しません。
男と女に優劣はありません。保守主義とリベラル派は考え方が異なるだけで、優劣はありません。
保守主義とリベラル派は対立します。あたかも、男女が喧嘩をするように。しかし、男女が共に語らいながら関係を深めていくように、保守主義とリベラル派は議論することができるはずです。

しかし、日本には真正のリベラル政党がありません。これは、55年体制の弊害が未だに続いているためでもあり、日本の政治を豊かにするためにも、一刻も早くこの枠組みから脱出すべきです。

今回の衆議院選挙を見ていて、その想いを強くしました。
これまで、政治家としてバッチをつけていたときは自民党の候補者の応援にドブ漬かりでした。もちろん今でも自民党なのですが、外野から眺めてみると分かることは多々あるものです。


第1回目となる今回は、次の点を強調しました。
保守主義者の限界はどこにあるのか?」
「なぜ枝野幸男の演説は人々の心を震わせたのか?」
「なぜリベラル派は『民衆の敵』になるのか?」
 

《第1回目:目次》
0.嫁でもわかる5行の要約
1.そもそも保守主義とはなにか
2.保守主義者の限界
3.リベラル派とは何か
4.なぜリベラル派は「非国民」になるのか


嫁でもわかる5行の要約(涙)

とりあえず書いたものを嫁に読んでもらいました。
「長い!」
心が折れる!」
「もっと簡単なものにまとめろ」
と心温まるリクエストをいただいたので、第1回目の内容を簡単に要約してみます。

PTA活動めんどうくさいよね。
でも、昔からやってることだし。やれば楽しいかもしれない。
あ?なんであの人、PTA総会で正論言ってるの?
私たちこれまで一生懸命やってきたし。今までの積み上げ台無しにする気?
ちょっと空気読んでよ。

こんな感じでいかがでしょうか?妻よ。

嫁のOKでました。

それでは、本論始まります。第1回目の最後まで読んでいただいて、もう一度「嫁でもわかる5行の要約」をお読みいただければ、この要約の趣旨がわかるはず……と信じたい。


そもそも保守主義とはなにか

保守主義「昔の方が良い……と思っている人たち」と単純化するのは、大きな間違いです。重要なことは「なぜ保守主義者は伝統を重んじるのか」を理解すること、そして、その理解のためには保守主義の出生にまで遡らなければなりません。

保守主義と革新主義とは双子です。革新主義が世界史に華々しく登場したフランス革命において、保守主義も誕生しました。

革新主義とは何でしょう。その特徴は、理性に重きを置く点にあります。
理性とは「物事の道理を考える能力、道理に従って行動できる能力」を指すと考えていただければ結構でしょう。

では、理性を中心に置くと何が起きるのでしょうか。時計の針をフランス革命から150年ほど戻してみると、近代哲学のスタートとなるデカルトの『方法序説』があります。

 

方法序説 (ちくま学芸文庫)

方法序説 (ちくま学芸文庫)

 

 

デカルトは「方法序説」の中で次のようなことを述べています。曰く、自然に成長・発展した都市より誰か一人が計画・設計した都市のほうが美しいと。
理性に基づいた都市設計論です。

ですが、誰かひとりが「理想の都市」「理想の社会」を造ろうとすれば、他者の関心や観点を無視して独善的に己の見方を特権化しなければなりません。そして、フランス革命においては、その独善性が存分に発揮されました。理性の名のもとに、ギロチンに血塗られた独裁政治を産んだのです。


その有様をドーバー海峡を通して見ていた英国の政治家、E・バークは猛烈な筆致で一冊の書を上梓します。『フランス革命省察』。これが保守主義誕生のマニフェストとされています。

 

フランス革命の省察

フランス革命の省察

 

 

バークが述べた内容は、シンプルに要約できます。
「この世の中は、君たちだけで作り上げたものなのか?」
……社会は複雑だ。それを合理化して認識することはできるだろう。だが、それを単純な目的合理性の下で改革するのは、君たちの傲慢ではないのか……と。

保守主義の基礎には、歴史的に生成された制度や秩序は、昨日今日達成されたものではない。長い時間の試行錯誤を経てかろうじて残されたものなのだ……との直観があります。

それは人間に対する洞察と言っても良いでしょう。保守主義者は次のように考えるのです。
「確かに、人の理性は貴重なものだ。だが、人が理性的な生き物であるならば、なぜ、この世の中から不合理や不正義はなくならないのか。人は賢くもあり愚かしくもある。その営みは悲劇的でもあり喜劇的でもある。神話の時代から、人々は同じことを延々と繰り返してきた。その人間性は何も変わっていない。ただ、人々は、その時代ごとに苦吟しながらも制度を練り上げてきた。その延長線に今があるに過ぎない」

したがって、保守主義者は漸進的な改革を好みます。保守主義者は、今の人間を特権的に賢いとは思わない以上、昔から残っているものを大胆に変えようと思わないのです。



保守主義者の限界

さて、保守主義者には決定的な限界があることも事実です。

ひとつは、主張に普遍性を持たない点です。

保守主義者が保守主義者である由縁。現在は過去の延長線に位置し、今が存在するのは過去の人々のおかげであるとの発想……(それは「現在の希少性」に対する直感と言えます)……その希少性に対する直感と、それを担う責任感、そして誇りです。

大東亜戦争における特攻隊を考えてみましょう。リベラル派にすれば「国に殺された」としか思えない特攻隊の若人に、保守主義者はなぜ感銘を受けるのでしょうか。それは、彼らが抱いた責任感に同感するからです。「私の死が次の世代の繁栄につながるのであれば」と死んでいった特攻隊の若人の責任感と誇りに(私を含め)保守主義者は強く同感します。

しかし、これは「主義」ではありません。

仮に、保守主義者が伝統主義者ならば、これは「主義」となりうることでしょう。伝統主義とは「伝統は何でも尊重すべし」との思考様式であって、全ての伝統を尊重すべしと定式化ができるのであれば、主義(ドクトリン)として相手に説明することができます。

ですが、保守主義は定式化ができません。
ただ、自らが負う伝統への個人的なコミットメント(誓約)の中にこそ保守主義者は生きているからです。秩序の希少性に対する直感、それを担う責任感と誇り。これらは個人的なコミットメントの中でしか発揮できません。そして、個人的なコミットメントである限り、決して主義や普遍的な理念として掲げられるものではありません。


ならば、自らが属する社会に対する個人的なコミットメントが保守主義者の特徴であるとすると、保守主義者のコミットメントは、特定の宗教団体の構成員が宗教団体に行うコミットメントや、極端な例を言えば、構成員がマフィア・暴力団といった組織に対して行うコミットメントと同列なのでしょうか。

それは違います。保守主義者の行うコミットメントには公共性が生じ、その公共性は「社会(=祖国)」の概念まで拡大するのです。
これは具体的に下図を見ていただきましょう。

私は、保守主義的思考は下図のような構造をなしていると考えています。

《図1:保守主義者の思考様式》

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保守主義者は、歴史や伝統を不可思議なもの、我々が安易に触ることができないものと考えます。

例えば、子供なら必ず一度は考える「私はどこから来たの?」という疑問。私には両親がいて、その両親にも両親がいて……という連鎖の中で、その鎖が一度でも切れたら存在しなかった自分。その希少性。そういった事柄に想いを馳せるとき、歴史や伝統は不可思議な、安易に触れるべきものでなくなります。
(したがって、保守主義者のコミットメント(誓約)とは「私はこの国を守る」といった明示的な誓約から、素朴な「世の中がうまくまわっているのは実に不思議だ」といった疑問に至るまで、様々な段階を踏みます)


そして、「私を育んだ歴史や伝統」のエリアは、ある一点でMAXとなります。そこが祖国概念です。ただし、これは国家概念と同一視してはなりません。あくまでも祖国とは、「我々と言語・文化や歴史を共有できる人々・組織」を指すのです。
(ドーデの『最後の授業』を思い返してください)

繰り返しますが、保守主義者にとって祖国とは、言語・文化や歴史を共有できる集団であり、そこには公共性が不可欠となります。

そして、その公共性を維持することが保守主義者の目的となるのです。
「我々の伝統は貴重なものである」
「伝統は公共的なものであり、それを維持することが肝要である」
「したがって、社会の抜本的な改革よりも漸進的改良が望ましい」

しかし、その公共性は特定の主義主張によって形成されているものではありません。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」との前提が置かれており、ここに保守主義者の陥りやすい思想的落とし穴が口を開けています。

この点は私自身も自戒するところです。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」と考えることは楽なのです。思想的怠慢を生じやすい。

本来ならば、保守主義者こそが「何が我々の伝統の根幹をなすのか」を考えねばなりません。それを省いて漸進的な改良行為を続けることは、単なる現実主義でしかありませんから。

よくリベラル派からは言われるのです。保守主義には思想がない(笑)。これは誤解と言うものです。「何が我々の伝統の根幹をなすのか」……一度でも想いを巡らせた人ならばお判りでしょうが、この問いに答えることは、絶えざる知的取り組みです。
ですが、保守主義的思考は、ややもすると「これまであったものだから、これからもそれでいいではないか」と、知的怠慢をもたらしやすいことも忘れてはいけません。




もうひとつの、保守主義者の限界を指摘しておきましょう。

保守主義者は、伝統を守るコミットメントをし、伝統の母体に公共性を見るがために、「敵を外部に見る」傾向があります。

俗な例えをすると、どんなにデキの悪い子であっても子供は子供……というようなものでしょうか。可愛いもので我が子に対する愛情が損なわれることはありません。あたかも「我が子を虐めるのは他人の子」の発想にも似て、保守主義者が愛国的情熱に駆られるときとは、常に「敵が祖国を脅かす」ときなのです。

民主政権下において我が国の安全保障はズタズタにされました。その際に、保守主義者が感じた怒りは、まさに「祖国が脅かされた」ことに対するものだったのです。

では、なぜこの「敵を外部に見る」特徴が保守主義者の限界なのか。それは、「保守主義者とリベラル派がなぜ対立するのか」との論点に深く関わってきます。


その論点に進む前に、まずは「リベラル派とは何か」について考えてみましょう。



リベラル派とは何か

リベラル派を一言で定義せよというのは難しい話ですが、その特徴を見出すことは簡単です。
「敵は内部にある」
具体的には、「社会の内部に、亀裂と対立を見出す」のがリベラルの特徴です。

リベラル派とは、基本的に個人を主体とします。個人の自由を最大限に発揮できるための政治体制は何か?を考えるのが彼らの特徴といえるでしょう。「個人はなぜ抑圧されるのか、なぜ自由ではないのか。それは社会の中に亀裂や対立があるからではないのか。一見すると、自明に思われる社会体制の中にこそ、個人を抑圧する原因があるのではないか」と、リベラル派は考えます。

無論、保守主義者も「社会に問題がない」とは考えません。ですが、保守主義者は、社会の問題を現在の制度の枠内で解決しようとします。それが漸進的改良ですから。リベラル派からすれば、それは社会の内部の亀裂や対立に目をつむり、場当たりにパッチを当て続ける行為にしか見えないのです。

リベラル派は考えます。なぜ個人は抑圧されるのか。なぜこれだけの矛盾と対立が社会内に存在するのに、保守主義者たちは目をつむるのか。
それならば、我々が立ち上がるより他にない……と。

保守主義者の思考様式の特徴が「上下方向への個人のコミットメント」にあるとするならば、リベラル派の思考様式の特徴は「社会問題に対する、個人間の横の連帯」にあると言えるでしょう。

《図2:リベラル派の思考様式》

 

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今回の衆院選挙において、立憲民主党枝野幸男氏が10月14日に演説会を行いました。

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この演説会に対するネットの感想を見てみましょう。
エスカレーターにのってゾクゾクした。枝野さんだけの戦いにしてはだめだ」

立憲民主党は枝野が作ったのではない、あなたが作ったのですという言葉はグッときた」


「俺たちは『当たり前のこと』を言いたいんだ。今はそれが言えない世の中になってしまってるんだ。だから当たり前のことを言うのが一周回って新鮮なんだ。当たり前のことを言って共感してくれる人がいるのがとんでもなく心強いんだ」


これらは、リベラル派の典型的な思考様式です。「世の中はおかしい」と主張することは当たり前のことであり、その当たり前のことすら言えない。そんな世の中はおかしい。ならば、我々は連帯しよう。枝野が作ったのではなく、立憲民主党は皆のものなのだ。さあ、枝野だけの戦いにしてはダメだ。皆で手をつなごう。



そして、ここにリベラル派の限界があります。

リベラル派の限界のひとつは、「連帯がうまくいかないと、分裂してまとまらない」こと。社会内部に問題や亀裂・対立を見出した人々が連帯する、これがリベラル派の思考様式です。しかしながら、問題意識は個々人によって異なります。その問題意識が異なると、うまく連帯できないのですね。
うまく連帯できないと、仲間内で喧嘩をし始める。こういうときは、遠い敵よりも近親間の方が憎悪が深くなるのは世の常です。部落問題、労働者問題等々で、左翼と呼ばれる人たちがどれだけ分裂し、お互いに確執を持っているか。それを見れば明らかでしょう。

この点、保守主義者は基本的に連帯を考えません。祖国概念を同一に持つ限り、連帯する必要性を感じないのです。「母なる祖国」という言葉が、(万国の)保守主義者の憧憬と一体感を刺激するという1点だけからも、意図的な連帯が不要であることがわかります。「母なる祖国」という概念には、既に「その祖国に包まれている国民」概念が含ますから、連帯が既にパッケージングされています。
(昔から保守主義者とロマン主義との食い合わせの良さが指摘されてきましたが、その理由はここにあります)



もうひとつの限界は、「リベラル派は『非国民』になる」ということです。

「政治的公共性は自明のものではない。社会には深い亀裂が存在する。敵は社会の内部に存在するのだ」……と異議申し立てをするのが、リベラル派です。ゆえに、リベラル派は『非国民』としての扱いを受けやすくなる。ここをもう少し考えてみましょう。




なぜリベラル派は「非国民」になるのか

保守主義者とリベラル派は対立します。しかし、ここが面白いところでして、対立していると考えているのはリベラル派の方であって、保守主義者は対立しているとは考えていません。

保守主義者の思考様式を振り返ってください。保守主義者は、国民は和して一体であると考えます。そもそも保守主義者にとって「敵は外部にある」ものであり、祖国内に対立があるとは考えません。
したがって、リベラル派は保守主義者を右翼と呼ぶのですが、肝心の保守主義者は自らを右翼とは定義しません。国民は和して一体であると考える以上、自らを中道と位置づけるのです。

逆に、保守主義者の思想……国民は和して一体であるとの考え……に従うならば、社会に亀裂と対立を見出すリベラル派こそが、社会の混乱をもたらす存在に映ります。すなわち、リベラル派とは「民衆の敵」であり、「非国民」なのです。

 
近代劇最大の作家であるイプセンは、そのものズバリ『民衆の敵』との戯曲を書き残しています。

民衆の敵 (岩波文庫 赤 750-2)
 

 


舞台はノルウェーの田舎町。
ある日、温泉が湧き出たので町の人々は、これで町おこしができると大喜びします。しかし、ストックマン医師は温泉が毒物で汚染されていることを知りました。ストックマン医師は、この事実を公開して温泉を改造しようと実兄である町長に勧めますが、町長は莫大な費用がかかることを理由に拒否します。

ストックマン医師は、新聞社を味方につけ、労働組合の支援もとりつけ、町長に撤回を迫ろうとします。新聞記者からは「あなたは『民衆の友』だ」と絶賛されるなど、ストックマン医師絶頂のときでした。

しかし、町長から「温泉大改造には、莫大な負債と二年の温泉閉鎖が余儀なくされる」と聞かされた組合長は、あっさりと寝返ります。あれほど医師を絶賛していた新聞社も、大多数の購読者を失う可能性の前にたじろぎ、医師を裏切りました。

民集会で温泉閉鎖を主張するストックマン医師ですが、人々は動きません。彼は絶望してこう叫ぶのです。
「真理と自由の最も危険な敵は、堅実な大多数である」
「多数が正義を有することは断じてない」
「この広い地球上のいたるところで、馬鹿こそまさしく圧倒的大多数を占めるものだ」
「馬鹿が利口を支配することが当たり前とは怪しからん話ではないか」
「正義とは常に少数のみの支配するところだ」
ついには、町民集会の無記名投票の結果、満場一致で『民衆の敵』の烙印を押されたストックマン医師は、終幕で家族に向かい「最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」と宣言し、永遠の反抗を誓うのです。

 
イプセン研究者からは評価の低い『民衆の敵』ですが、イプセンらしい人間観察に溢れています。おそらくリベラル派の人々は、痛いほどストックマン医師の言葉が突き刺さることでしょう。


ただし、イプセンはリベラル派の人々にも嘲笑を浴びせている点も忘れてはいけません。リベラル派は、なぜか選挙に敗れるたびに「これは民意ではない」「ポピュリズムだ」と騒ぐ傾向にあります。それが先鋭化したものがストックマン医師の言う「国民はバカだ」になるのです。
イプセン保守主義的現実重視を笑いものにすると同時に、ストックマン医師の言動にも冷笑を浴びせています。そういったものもすべてひっくるめての人間、そういう人間観察なのでしょう。

話を戻します。
保守主義的思考は、ややもすれば「今まであったものなのだから、これからもあるものなのだ」との考えに傾き、思想的怠慢に陥れば、単なる現実主義・事なかれ主義に堕します。その中で、社会の問題を主張する人々は「民衆の敵」なのです。


この構図は下図のようになるでしょう。


《図3:社会の中のリベラル派》

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そして、この構造を見事に逆手にとったのが、マルクスでした。
次回は、その「マルクスの逆手戦略」から話を始めましょう。


(次回へ続く)