月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

行政の存在価値と行政サービス     -行政2.0ノート:備忘録も兼ねてー

備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。




そもそも、行政とは何のためにあるのだろう


「行政は何のためにあるのだろうか?」

この質問に対する最大公約数的な回答は
「私たちの生活を支えてくれるため」
というものだろう。

ゴミの収集や上下水道といった基本インフラの整備。学校を運営し子供を育成し、長じて医療・福祉など生活を支援する。産業支援などで世の中を活性化する。これらは、私たちの生活を支えてくれるだろう。

しかし、ここで私たちはひとつの疑問にぶち当たる。
「行政は、『私』の生活を豊かにしてくれているのだろうか」
「行政は、『私』の抱えている問題を解決しているだろうか」
行政が「私たち」の生活を支えてくれているのは理解できる。しかし、「私」の抱えている問題を行政は解決してくれない。

「私の抱える問題」とは、次のような人たちが抱える問題だ。

「病院や買い物に行きたいのに、1日にバスは3便しか来ない」と嘆くお婆さん。
「なぜ、学校でうちの子はのけ者にされるんでしょう。うちの子が発達障碍を持っているからでしょうか」と悲嘆にくれるお母さん。

全くの私的な問題は自分で解決するより他にない。嫁と姑の不仲に関する苦情を役所に持って来られても、役所も困る。それはご家庭で解決してくださいと言われるだろう。

ここでいう「私の問題」とは、「私たち」の生活を支えてくれるはずの行政のサービスが、「私」にとって意味をなさない場合を指す。公共交通は人々の生活を支えてくれるはずなのに、1日3便しか来ない地域に住む「私」にとっては、不便でしかない。学校は子供たちを健やかに育成する場所なのに、発達障害を持つ「私の子供」に対して対応してくれない。

これらの嘆きは、議員時代の私のところに寄せられたものの一部だ。

そして、この人たちの特徴は、市役所の担当課や学校へ行っても相手にされなかったことだ。相手にされなかったからこそ、議員であった私のところへ駆け込んだのだ。中には、「どうせ役所は相手にしてくれないだろう」と見切りをつけて私のところへ来られたケースも少なからずあった。

市民の幸福を高めるために存在するはずの市役所、市民の「役」にたつ「所」のはずなのに、なぜ彼らは相手にされないのだろう。

その疑問は「行政サービスとはなにか」を考えてみないとわからない。





行政サービスってなんだろう

「二項分類」という言葉がある。難しいように見えるけれども、話は単純だ。要は「基準にもとづいてアレかコレかに分ける」ことだ。

行政サービスは、この二項分類で行われる。しかもカテゴリーで括ってしまうという方法で。

例えば、人を「仕事を持っているか否か」という基準で「被雇用者」と「失業者」とのカテゴリーに分ける。そして分けた後に、失業者には失業保険を出すとの行政サービスを提供する。これが行政サービスの出し方の典型だ。

行政は人をカテゴリーに分ける。だから、あなたも行政から様々なカテゴリーを与えられている。

例えば、私だったら「自営業」で「行政書士」で「男」で「妻と3人の子供がある」等々のカテゴリーを与えられている。そのカテゴリー分けに従って、様々な行政サービスが付与される。「自営業」だから税務申告の際には青色申告するとか、「自営業」だから国保に加入せよとか、子供がいるから児童手当が支給されるとか……様々な行政サービスが該当することになる。

しかし、カテゴリーに括られない人たちはどうなるのだろう。

例えば、「被雇用者」というカテゴリーは賃金を支給される労働者のことだ。これまでだったら、雇用されている限り賃金は保証されていたし、失業したら失業保険が出るという対応でなんとかしのげた。
しかし、低賃金の不安定労働者はどういった対応をすれば良いのだろう。雇用は不安定で低賃金だし、社会保険もない。労働条件は最低で、短期雇用を繰り返す綱渡り。

彼への対応方法は二通りある。

ひとつは「それは自分の問題だから、自分で何とかしなさいよ」と切り捨てる方法だ。困った時には親や家族が面倒見なさいよ……という返し方もあるだろう。しかし、それはあまりにも酷すぎる。

そこで、行政は違う方法を採用する。

カテゴリーを増やすのだ。

「被雇用者カテゴリー」の中に「低賃金・短期雇用のカテゴリー」を作ろう。非正規雇用もこのカテゴリーの中に入れてしまおう。非正規雇用も厚生年金に入れるような制度をつくろう……と考えるのだ。

すると困ったことが起きてくる。
「主婦のパートも非正規雇用には多い。この人たちも厚生年金に入れるのか?」
「いやいや、それはおかしな話になるから、男性非正規雇用に限定しよう。」
「ちょっとまってくれ。主婦のパートを外すことには成功したが、未婚女性の非正規雇用はどうなる?その人も入れるのか?」
「それじゃ、その人たちも含めるとしよう」
「でも、その人たちも結婚して主婦になるのだぞ?」
「え~っと、それじゃ……」
事態は際限なく複雑化していく。

この典型例は税制だ。
税制の複雑怪奇なことたるや凄まじい。あの複雑で納税者の目をくらませようと目論んでいるのではないか?……と勘ぐってしまうほどだ。

複雑化していくことも確かに問題だ。だが、最も深刻な問題は、どれほどカテゴリーを増やして細分化したところでカテゴリーから漏れる人が必ずいること。ここが行政サービスの致命的な欠陥だと私は考えている。


ある意味、行政とは「行政サービスの許認可権を持つ場所」だとも言えるだろう。カテゴリーの中に入る人々にのみ行政サービスを提供し、そこから漏れた人々には提供しない。

それじゃ、提供するかしないかの基準は誰が決めるのですか?と問われれば「法が定めます」となる。その法は「国民の代表者である政治家が決めます」となり、論理としては破綻していない。国民に対してのサービスの内容は国民が選んだ代表者が決めるのだ……と教科書通りの説明をされれば、ケチのつけようがない。

だが、教科書に載っている説明をされても私たちは納得できない。

「なるほど、説明はわかった」
「ならばカテゴリーから漏れた人々はどうなるのか」
「彼らを切り捨てて私たちは前へ進むのか」
この問いに答えていないからだ。

当の市役所職員にも、ここで悩む人は少なからずいる。しかし、彼らは規則に従って動く他に道はない。情や場の空気で基準を曲げ放題になってしまっては役所は崩壊してしまうからだ。

無論、見て見ぬふりをする職員もいる。これは事実だ。同時に、心を痛めている職員もいるのだ。これも事実だ。ただし、役所の職員は助けたくとも助けられない。
それが現状だ。

何かがおかしい。




1匹の羊を救うことは99匹の羊を救うことにつながる

カテゴリーから漏れた人々は、何が辛いのだろうか。

「役所に相談に行ったが、どうにもならないと言われた」
「門前払いを喰らった」
と私のところへ来られた方々は何に憤りを感じているのだろう。何人もの方々からお話を伺う中で、痛いほどその理由をわかった。

彼らは尊厳を傷つけられたことに我慢がならないのだ。

彼らは役所の対応に怒っているのではない。「お前は根無し草だ」「社会の中でお前の居場所になるカテゴリーはないのだ」と言わんばかりの、行政サービスそのものに憤っているのだ。その怒りを役所の職員にぶつけているに過ぎない。

彼らを放置してはならない。

カテゴリーから漏れた人々、役所の職員が密かに心を痛めながらも対応できない人々、彼らこそが、私たちの解決しなければならない課題である。

「問題解決が必要だ」
「問題解決こそ私たちの進む道だ」
と猫も杓子も問題解決の重要性を唱える。

ならば、問題解決の「問題」とはなんだろう。

「問題」とは彼らの抱える問題に他ならない。

1日3便しか来ないバスを待つお婆ちゃん、わからない授業を黙って1日中聞かねばならない中学生、老々介護に疲れ切った息子、そういった様々な人たちが背骨が軋みそうな重みに日々耐えながら、それでも声に出せずにいる課題。
それこそが、私たちの解決しなければならない問題だ。

こういう話をすると、
「その人たちを救うことで、他の人たちの利益を損ねるのではないか」
との反論を耳にすることがある。

それは違う。

ひとつの事例を挙げよう。私自身が携わった事例だ。

「1日3便しかバスが来ない」との嘆きを受けた私は、ひとつのことを考えた。
「バスの路線を変えて、このお婆さんの住む地区を通すようにしようか」
しかしこの方法は、すぐに頭から消え去った。バスの路線を変更すれば、変更された地区にバスが通らなくなる。それではバスの便がないと嘆くお年寄りを別な地区で発生させるだけだ。

「ならば、公共交通そのものを変えるより他にない」
探しに探しまくった果てに、東京大学に目を着けた。タクシー代わりに使えて市内のどこへでも運んでくれる公共交通システムの新たな運用方法を開発したからだ。東京大学の開発者と掛け合い、勝山へ来てもらい、市内での運用試算をしてもらうと同時に協議会を立ち上げた。その協議会は後に市の協議会へと正式にスライドした。

ここで問題が立ち上がった。勝山の地形を考えると運行コストが膨大になるとの結論が出たのだ。協議会自体が尻込みをする中で、私は更なる道を模索した。
「人を運ぶのは公共交通だが、公共交通で物も同時に運んだらどうなるだろう」
市内を自由に動く公共交通、ドア・トゥ・ドアで動く公共交通ならば、同時に物も運べば良いのではないのか。
そこで、私は宅急便最大手のヤマトに声をかけ、エリアの重役と話をした。宅配便業界はこれから必ず業態問題が首を絞めることになる。なぜなら、宅配便の利益率はおおよそ4%。人件費があまりにもかかりすぎるからだ(実際に昨今の宅配便業界のニュースを見れば予想通りになったといえる)。ならば、公共交通でその荷物を私たちが運ぼう。あなたがたは勝山まで運んでくれればいい。ただし、荷物を運ぶ手間賃を私たちはいただき、公共交通運営の糧にしたい。市内の高齢者も喜ぶ、運営する勝山市も助かる、そしてあなた方自身の利幅もあがる。win-winの関係ではないか……と。

法令上の問題や、当の勝山市が尻込みしてしまったために、この話はここで止まってしまった。くだらない政争の具にされたことも痛かったが、実はこの話は死んではいない。いずれかの段階で必ずや顔を出してくるとだけ申し上げておく。

上記の話からもおわかりのように、カテゴリーから漏れた人々の課題を解決しようとすれば、もはやカテゴリーそのものを壊すより他にない。それは制度そのものをリニューアルすることだ。そして、リニューアルされた制度は、皆が等しく利益を受ける。

「カテゴリーからこぼれた人のためにカテゴリーを細分化して、新しいカテゴリーをつくろう」との、これまでの行政のやり方は、パイを増やすことなく、パイの奪い合いをするだけだ。パイを大きくすることを考えずに、新しいカテゴリーをつくれば、これまで食べてきたパイが小さくなることを不安視し、反対する人は必ず出てくる。
他の人の利益を回すのではなく、受益者が等しく利便性を上げるシステム。それでなければ、真の問題解決とはいえない。


考えてみていただきたい。
勉強についていけずに1日中机に座っているだけの生徒が、「ぼくもやればできるんだね」と目を輝かせるような学校が、他の生徒の利益を損ねるだろうか。
老々介護で悩む長男が、「なんとか私でもやっていけそうです」と答える介護環境は、他の人たちの邪魔になるだろうか。

1匹の羊を救おうとする行為は、必ずや残りの99匹に利益をもたらす。




問題を解決するのは誰なのだろう

ここで、もう一度冒頭の問いに戻ろう。
「行政は何のためにあるのだろう」

この問いに対して
「私たちの生活を支えるため」
と答えることは正しい。私もそう思う。

それならば、なぜ問題は解決されないのだろうか。

もう一度、これまでの話を振り返ってみよう。

行政は人々をカテゴリーに分ける。そして、そのカテゴリーに当てはまらない人々には満足な行政サービスが受けられない。お腹が痛いと泣いている子供に必要なものは胃薬であって、絆創膏ではない。必要としている人に必要なサービスが行き届いていないからこそ問題が発生する。

そして、カテゴリーから漏れた人々の抱える「問題」こそが解決すべき課題だ。

ここまで話は進んだのだけれど、肝心な部分が抜け落ちている。

それは、行政が解決できない問題を行政に解決させようとすること、それ自体が無理なのではないか?といった根本の疑問だ。

率直に言って、私は無理だと思っている。

行政が解決できる範囲は、カテゴリーに含まれる人のみだ。カテゴリーから漏れた人を助けること自体、行政にできるものではない。

要は私たちの生活の問題のすべてを、行政に解決してもらおうとすること。それ自体が、間違いなのだ。

純私的な問題は個人で解決するとして、そうではない問題のすべてを行政に解決してもらおうとすると、カテゴリーから漏れてしまう人々が出てくる。漏れた人々は、行政が助けられる範囲ではないはずの人たちだ。その人たちをも「行政に救え」と叫んでみても虚しいだけだ。

私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない。

ただし、ここは注意が必要だろう。「抱える問題」をしっかりと定義しておかないと、混乱をきたすからだ。

私たちの生活の課題を3つに分けよう。

①純私的な課題
②行政サービスのカテゴリーに含まれる課題
③行政サービスのカテゴリーから漏れ落ちた課題

①は嫁姑の確執のようなものだ。全くの私事は、自分で解決していただくより他にない。②は、従来の行政サービスを考えてもらえればいいだろう。上下水道の整備や教育福祉などがこれに当たる。「私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない」と言っても、道路を自分たちでつけろという意味ではない。
③こそが、私たちの抱える問題であり、私たちが解決すべき問題だ。


では、この③の問題を誰が解決するのだろう。

バスの不便さをかこつ高齢者が自分自身で解決すべきなのか
買い物難民は自分たちで解決すべきなのか
学校で困っている発達障碍児は自分で解決すべきなのか

それは違う。

もちろん、自分で解決できればそれが最善だ。しかし、自分で解決できないからこそ問題になっているのだ。自分でできないからこそ、他の人を頼るより他にない。

だが、世の中はそういうものではなかろうか。

食卓にならぶ食事の材料をすべて自分で作っている人はいない。通勤に使う自家用車を自分で組み立てる人もいない。私たちは自分でできないことばかりだ。でも、世の中はそれでうまく回っている。お互いに必要なものを供給しあって。別段そこには「誰かを助けるために」との想いはない。しかし、結果としてお互いがお互いを助け合っている。

だったら、問題を抱える人は問題を解決できる人を頼ればいい。

通常、問題を解決する人たちを「社会起業家」と呼ぶ。社会が抱える諸問題を解決することを生業とする人たちのことだ。

そこで私たちはハタと困る。
「その社会起業家はどこにいるのだ?」

私たちの周りにいるのは、
 ・行政サービスをする行政マン
 ・ボランティア活動をする人々
 ・地区(町内会)で地区の活動をする人々
であって、社会起業家も問題解決のプロもいない。

いないからといって諦めるわけにはいかない。なぜなら、問題は現に存在しているからだ。

なぜいないのか。
なぜ育たないのか。
どうすれば社会起業家は出現してくれるのか。

それこそが行政2.0の真骨頂だ。


付 言

どうすれば社会起業家は出現するのか。これは行政2.0の真骨頂だが、その内容は追々説明するとして、この「方法」は勝山市でしか通用しないと思っている。

行政2.0の「思想」そのものは普遍的なものだ。だって、「地方自治の本旨」なるものを突き詰めていけば、そうならざるを得ないから。だから、どの自治体にも適用することはできるだろう。

でも、その「方法」となると勝山市でしか通用しない。

なぜ?と言われれば単純な話で「勝山が小さいから」

勝山は人口2万5千人の小さな市だ。しかも、全国の自治体が抱えているような問題を全て抱え込んでいる。進む過疎化と増える高齢者、地元を後にする若者たち。増える耕作放棄地、寂れる中心市街地。抱えていないのは海くらいのもので、日本全国の自治体の頭痛の種をすべて背負いこんでいるといってもいい。

それらをすべて逆手に取ってやろう……というのが、勝山で行おうとする行政2.0の「手法」だ。

大きな自治体には決してできない。なぜなら、大きすぎて小回りがきかないからだ。他の自治体を例にとって恐縮だが、例えば福井市も様々な問題を抱えている。しかし、福井市は行政2.0の手法を試すには大きすぎる。
福井市内の社地区だけで約3万人弱の人口がある。これだけで勝山市の規模を超えている。社地区の抱える問題は「新興住宅地の問題」であって、これを解決しようとすれば、そこに特化した施策を打たねばならない。ところが同じ福井市内の美山地区では高齢化・過疎化の問題があり、これはこれで別な対策を打たねばならない。このように規模の大きな自治体は問題解決をしようにも、問題の種類とエリアが大きすぎて対応できないのだ。

弱い奴がいつまでも負ける、大きい奴はいつも勝つ……というのでは面白くない。小さい奴にだって勝つチャンスはあるはずだ。小さい奴が大きい奴と同じことをやったところで、負けるに決まってる。

ならば、小さい奴は小ささを武器にして闘えばいい。