月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

「勝山市は、その小ささを武器にして発展する」ことの、経済思想的意味 vol.2

 

不安定化する「豊かな社会」

ー不安定化する「豊かな社会」とはどういうこと?

まず、「豊かな社会」と「発展する社会」とは違うということを理解してもらうことが重要になります。「発展する社会」は高度経済成長期の我が国をイメージしてもらえればいいでしょう。これに対して「豊かな社会」とは、まさに現在の低成長期に入った社会を指します。

豊かな社会はその豊かさゆえに不安定さを増すという現象が今回のテーマですね。


ーそのテーマが「勝山市は、その小ささを武器にして発展すること」と、どうつながるの?


いきなり結論を焦ってはいけません。物事は順序立てて考えていきましょう。

資本主義というものは、その性質上、利益を生まなければ成立しません。
ならば、どこが最も利益を生むのか。言うまでもなく「新しいもの」です。できれば、誰も今まで手をつけてこなかった分野があればよろしい。


経営学でいう「ブルーオーシャン」ですね。

そう。そこでは、きわめて大きな利益を独占できます。

新しいもの・分野が大きな利潤を生み出す。市場競争を徹底化させれば、当然のように、資本は新しいもの・分野へ向けて流れていきます。


ー当然でしょうね。


その結果、何が生じるのでしょう。
新しいもの・新しい分野に位置しない活動は、もはや十分な利潤を得られなくなります。日常的な製品、伝統的技術、ありきたりのモノ、生活密着品、農業・食糧……公共的な意義をもったもの、すなわち、交通や通信。こういった商品は大きな利潤を生み出しません。

大きな利潤を得られなくなった生産者は、徐々に市場から撤退し、その姿を消します。あるいは、海外からの供給に頼ることになるでしょう。



ーそれは、市場を中心に置く資本主義経済では当然のことでは?


そう。当然のことと思われています。そこをもう少し掘り下げてみたいのですよ。

巨視的な視点で眺めれば、過度の資本主義的競争は公共的な活動領域を浸食していくのではないか。これが私の問題意識にあります。

医療、教育、福祉環境保全といった公共的な活動領域は、そもそもが利潤原理に乗りません。資本が、公共的活動領域から新しい分野・新しいものへと流れていく結果、公共的活動領域の資本が脆弱化していくように思われるのです。


ーどういうこと?


「豊かな社会」と「発展する社会」では、全く異なるということです。「発展する社会」とは、戦後の高度経済成長期をイメージしてもらえれば結構です。そこでは、資本主義の発展はわれわれの生活を豊かにし、公共部門を拡大し、社会の安定をもたらしました。成長の時代においては、「資本主義」と「社会の安定」は矛盾をはらみません。

これに対して、「豊かな社会」とは現在のような低成長期の時代です。そこでは、資本は「社会の安定」に用いられるべきものまで、市場に流して「資本主義」を発展させようとする。すると、「社会の安定」と「資本主義」は齟齬をきたすようになります。



ーう~ん……ちょっとイメージが沸きにくい


そうですか。ならば、小泉構造改革を具体例にして考えてみましょう。


小泉構造改革とは、何であったか。


ー小泉構造改革ですか。


小泉構造改革が何であったのか。これは評価が未だ定まっていないところです。

ただ、小泉構造改革負の遺産として挙げられるものは、
 ・所得格差の向上
 ・労働市場の流動化によるフリーター派遣労働者問題
 ・金融市場の不安定性
 ・食糧市場・資源市場の不安定性
 ・IT市場の不安定性
などがあります。


小泉構造改革により不安定化した、労働・資本・自然資源・情報等の知的資源。これらに共通することは生産要素であることです。


ー生産要素ってなに?



生産要素生産物とは決定的に異なります。生産要素は、それ自体は企業の生産活動によっては生産されません。社会や自然や人間の中にある「社会的」存在物です。企業は複数生産要素を結び付けてることによりアウトプットを生み出し利潤を得ます。つまり、生産物が最初から市場で商品として販売されることを目的としているのに対して、生産要素は元々市場で商品化を期待されていません。


ーなんだか、よくわからない。


ならば、労働について考えてみましょう。あなたは労働者として生まれてきましたか?


ーそんなことはないでしょ(苦笑)


そう、われわれは労働者として生まれてきたのではありません。社会的生活を営む「人間」として生まれてきました。

社会の中でわれわれは様々な価値を持ちます。父親としての価値、地域コミュニティーの中での価値、消費者としての価値……そういった様々な価値を労働という一面に縮減して無理やり生産要素にしているだけのことです。


ーふむ……



そもそも、なぜ労働市場には労働時間規制、賃金規制、雇用契約による雇用保障等々の規制があるのでしょうか。

それは、労働という「本来的に人間的な活動」を生産活動に用いるためには規制が必要だからです。過酷な職場環境を「非人間的な労働環境」と表現することがありますが、逆に、「人間的な労働環境」とはどのようなものかを考えてみればおわかりでしょう。


ーその人の人間的価値が発揮される職場かな?


でしょうね。「本来的に人間的な活動」を生産活動に用いることが労働であるならば、人間的な労働環境であるための規制が必要になるのです。

人間的な活動は社会的存在物であり、生産要素であり、様々な価値を持つものです。その多面的価値を持つ人間を、徹底的に自由市場にさらけ出せば、その人の人間的価値そのものを潰しかねません。つまり、労働という生産要素を無尽蔵に市場化させてしまっては、社会そのものが弱体化しかねないのです。

 
小泉構造改革で行ったことは、規制を撤廃することにより労働市場の流動化を図ることでした。ここで重要なことは、労働という生産要素を高度に市場化させたことです。


ーその結果がワーキングプアや所得格差だということ?


というよりは、それがもたらす社会的不安定性でしょうね。先ほど申し上げたように、豊かな社会では「社会的安定性」と「資本主義:」は齟齬をきたすことになりかねない。本来、公共的なものである「労働」を高度に市場化してしまったゆえに、ワーキングプアや所得格差による社会的不安定性をもたらした……という実例です。

通常、労働時間規制や賃金規制に関しては「市場原理に任せては、大資本により賃金そのものが安く買い叩かれて労働者の不利になる」との説明から始まるのが普通でした。しかし、その説明の底にあるものは「人間はそもそも生産物ではない」という考え方です。マルクスが「労働力を商品化することには無理がある」と熱心に説明したのも、ここにあるのでしょう。



ーでも、食糧は生産要素じゃないでしょ?商品化を目的として食糧生産を行っているのだから、生産物じゃないの?


ならば、われわれは何ゆえに食糧自給率を気にするのでしょう。徹底的な市場原理主義を貫くのであれば、食糧をすべて海外産にすることは合理的であるはずなのに。

食糧はわれわれの社会にとって最も基礎的な資源です。「飢え」ほど社会を不安定にさせる要素はありません。その危機感があるからこそ、われわれは食糧自給率を問題視するのです。つまり、「食糧」は公共的な意味合いを持つのであり、この要素を無尽蔵に市場化させてしまっては、社会的安定性が弱体化しかねないのです。


重要なことは、小泉構造改革とは、本来、社会の公共物であるはずのものを規制改革の名のもとに市場化してしまったこと。これにより、社会の不安定さが増したこと。ここにあります。





どこで折り合いをつけるのか?

ー先ほどからの議論を見ていると、あなたは資本主義に反対の立場?


反対でも賛成でもありません。ただ、市場原理主義というものが、否応なしにわれわれの社会基盤に及んでくるということを認識しなければならない……という立場です。


ーそういった立場の考え方は、具体的にどうなるの?

「資本主義」と「社会の安定」が齟齬をきたさないように、折り合いをつけながらやっていくしかないでしょう。


ー折り合い?

新しいパラダイムが必要だということです。


パラダイムとは?

パラダイムとは、モノの見方とか考え方の枠組みと理解してください。

昨年末から2か月かけて、小規模農家の所得向上策を入念に検討し政策化しましたが、その過程で「小規模農家が現在の経営面積を維持したままで、国産大豆を生産することは可能か」という問題も併せて検討したことがあります。結論から申し上げると、現行の枠組みの中では、どこをどういじっても小規模のままでは外国産の大豆に価格面で太刀打ちできませんでした。


ーそりゃそうでしょう。それも市場主義の当然の帰結です。

そう。今まではそこで思考が止まっていました。外国産の安い大豆を輸入すれば、それでいいじゃない……というところで止まっていたわけです。

しかし、まったく異なる視点から考えれば、農家所得を1.5倍にすることはできるのです。農家は農家、小売りは小売り、流通は流通という従来の考え方を変えれば、それくらいはできる。


ーそれがパラダイムの変化?


ちょっと違うのですよ。
もうひとつ例を挙げましょう。

地方公共交通、具体的にはバスですね。これは田舎に行けばいくほど惨い状況です。1日3便なんてこともある。朝に1便、正午に1便、夕方に1便。


ーそれは不便でしょう。


不便ですよ。ですが、これも市場原理に従えばもっともな話なのです。乗る人が少なくなるから便数も少なくなる。便数が少なくなるから、不便きわまりない。乗る人はさらに減る……という負のスパイラルです。


ーまあ、当然でしょうね。


そう、これまではそこで思考が止まっていました。税金を投入して、なんとか地域公共交通を維持しなければならない。これは、ある意味、地域福祉の考え方と言えます。この考え方を基礎にして地域公共交通は維持されてきました。
しかし、発想を真逆のものにすれば、どうでしょう。完全に自由な地域公共交通ができたならば、人の流れとモノの流れが活性化します。これをベースに新たな産業化が可能になります。


ーふむ。そのあたりを詳しく説明して欲しいな。



このモデルの詳細な説明は、後日にしましょう。それは戦術論の話になりますから。今、重要なことは経済思想的なパラダイムです。

もう一度言います。
高度経済成長期のように、成長する社会においては「資本主義」の発展は社会的インフラを整備し福祉を向上させ「社会的安定」をもたらします。しかし、低成長期に入る豊かな社会においては、「社会的安定」に用いられるべき社会資本までをも「資本主義」の発展に振り分けられかねません。それがアメリカ発の新自由主義の結末です。

その結果、雇用、食糧、金融といった生産要素や社会福祉、教育といった公共部門までが不安定になっていきます。そして、何よりも地域の過疎化そのものも市場原理主義の考え方からすれば当然の帰結なのですね。

ですから、「資本主義」と「社会的安定」との折り合いをつけなければならない。「資本主義」の力を使って「社会的安定」を構築しなければなりません。


ーそれは、どのような形で?


新しい市場を創る」という形で達成されます。


ー新しい市場とは?


その話は、「水泳帽子」を事例にとって次回に考えてみましょう。