月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

なぜ、行政主導のまちづくり、行政主導の観光は上手くいかないのか      【花月楼に関する疑問 ―組織論― 】

行政主導のまちづくりは、全国的に見ても成果を挙げているとは言えません。行政主導の観光も同様でしょう。

「行政主導はダメだよ」と我々は言います。

もっとも、文句だけなら誰でも言えます。そこから一歩抜け出して「ならば、どのような方法ならば良いのだろうか」という改善策を考えてみたいのです。

本稿で示すのは、次の内容です。

(1)行政と民間の論理がぶつかるとき、行政の論理が勝つ。

(2)問題は行政スタッフ自身にあるのではない。行政の組織文化である「官憲主義」こそが問題である。この「官憲主義」を理解して乗り越えない限り、行政主導のまちづくり、行政主導の観光は止まらない。行政主導の観光が動き続ける限り、(1)は延々と繰り返され、結果として民間活力は失われていく。


(3)官憲主義は、国から地方自治体に至るまで蔓延する「行政の組織文化」である。しかし、基礎自治体である勝山市は、その強みを活かして官憲主義を乗り越えていかねばならない。






基本的視点

論を進めるに当たり、私の発想法の基本について説明したい。

①事態を悪くしようとして活動する人はいない。
②物事は、常にシンプルである。

我々は誰かを悪者にしたがる。「行政が悪い」「政治家が悪い」「商店街の連中は頭が固い」等々。

だが、「〇〇が悪い」と言い続ければ問題は解決するだろうか。いたずらに対立を深めるばかりで、決して問題を解決することはないだろう。

しばし、立ち止まって考えていただきたい。

世の中を悪くしてやろうと、意図的に活動している人はいない(確信的犯罪者を除いて)。誰しも、住みよい世の中を作りたいと考え、自分の仕事が世のため他人のためになることを望んで活動している。

なのに、世の中は、なぜうまくいかないのか。
うまくいかないのは、うまくいかないだけの「問題がある」からだ。

そう、悪いのは人ではない。問題なのだ。

「悪い人はいない。悪いのは『問題』であって、我々は力をあわせて、その問題を解決しなければならない」というのが、①の考え方だ。


②については、「複雑そうに見える問題でも、ボトルネックになっているのは、せいぜい2~3か所に過ぎない」という考え方なのだが、この点について詳しく語ることが目的ではないので、詳述は避ける。

TOC(制約理論)に詳しい方なら、上記の発想がゴールドラット博士のものであることをご理解いただけるはず。ご存知ない方は『ゴール2』をお読みください。









行政と民間の論理がぶつかるとき、何が起きるか。

観光分野においては、民間ビジネスが参入する。ゆえに、行政の論理と民間の論理がぶつかることが想定される。

このときに、優先されるのは行政の論理だ。

《行政の論理と民間の論理はぶつかるの?と疑問に思われた方へ》
民間の論理から言えば、道の駅云々の前に、恐竜博物館前の駐車場を封鎖して、そこでケータリングを大量に並べてもらった方が、よほどビジネスとして効率が良いのです。しかし、行政の論理で言えば、それは許されざる行為でしょう。

恐竜博物館を来館するお客様相手に、いくつかのビジネスを考えてみてください。「これなら儲かりそうだ」というまで、真剣に考えてみてください。おそらく、そのビジネスモデルは、どこかで行政の論理とぶつかることでしょう。
逆に、ぶつからないモデルであるならば、あなたはすぐにそれに取り掛かるべきです。

数年来にわたって私も頭を悩ませ続け、恐竜博物館がらみで行政の論理とぶつからないモデルを2つほど作ることができました。かくの如くに、『行政の論理で作られたもの』をビジネスに応用するのは難しいのです。



企業内での対立と比較してみると、構造がわかりやすい。

製品開発部を置いている企業では、営業部と開発部の対立はよく見られる光景だ。
営業部は「これだけ俺たちは頑張ってるのだ。開発部はもっと売れる商品を作って持ってこい」と言い、開発部は「俺たちがこれだけの製品を作ってるのに、営業の奴らは何をやってるんだ」と言う。

そして、経営陣はこの対立を調整しながら会社経営を進めていく。

これを図式化すれば次のようになる。


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これに対して、民間の論理と行政の論理がぶつかったときに調整役はいない。

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調整役がいないとき、どちらの論理が勝利するのか。それは行政である。「公益」の名の下に許認可権を持ち、補助金事業委託費等の予算権限を有する行政に「勝てる」だけの民間企業は稀だ。

ここで重要なのは「調整する」のではなく、「勝てる」ということです。企業城下町と呼ばれるような、「特定の企業が、税収の大半を占め、住民の雇用にも多大の影響を及ぼす」状態でもない限り、行政をねじふせて「勝てる」論理を持ちえる企業は稀なのです。

ならば、議会がそれをできるのか?と言われると、これも難しい問題です。特定の企業の論理を議会がバックアップすることの是非にまで話が及ぶからですね。

 




ここまでの説明だと、行政が悪者のように感じられる。
民間の論理をねじ伏せて、行政の論理を押し通し、あたかも世の中を悪くしているのは、行政スタッフなんじゃないのか?……実は、さにあらず。
「行政スタッフは、『自分たちが民間の論理を阻害している』とは考えていない」


実際に行政に手ひどくやられた経験をお持ちの民間人からすれば信じがたいことだが、行政スタッフは「自分たちが民間の論理を阻害している」とは考えていない。これは、13年にわたって行政スタッフと話をし続けてきた私が保証する。


ほとんどの行政スタッフは、真面目に、かつ善意で物事を進めている。

むしろ、行政スタッフの中には「行政が悪い」という声を過敏に受け止めて、委縮する傾向すらあるくらいです。



冒頭の、「事態を悪くしようとして活動する人はいない」というテーゼを思い出して欲しい。まさに、ここには「悪者」はいない。




民も官もそれぞれに最善と思うことをやっていながら、結果として対立してしまう。その構図については次の図をご覧いただきたい。

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行政は、公益を追及するがゆえに「官が主導となり皆が発展する」道を模索する。その先に勝山市の発展がある。
民間は、「観光のビジネス化により市内の企業の発展」を目指す。企業が発展することは、被雇用者である市民の利得向上、税収アップなどの効果をもたらし、ひいては勝山市の発展につながる。

「事態を悪くしようとして活動している人はいない」との、冒頭のテーゼが正しいことがおわかりいただけると思う。お互いに、良いと思えることを進めているのに、民と官は対立する。




それじゃ、悪いのは何なのだろう?……それは、行政内の「組織文化」とでも呼ぶべき「官憲主義」だと私は考えている。
上の図では「官が主導し、皆が発展する」という発想だ。







官憲主義という文化


官憲主義「統治集団以外の者が、政治にタッチすることは許されない。ただし、政治にタッチしない限り、大衆にはすべての権利と自由が保障される」と定義しよう。

言論・表現・信教の自由、職業選択・居住などの権利、レジャー、スポーツ等の趣味、すべての自由は保障される。ただし、国民は政治にタッチしてはいけない。政治は、一定の公認の資格を持つ集団に委任されねばならない……という考え方である。


注意】官憲主義と全体主義は全く異なります。

全体主義とは、「すべての人間が政治にタッチしなければならない」という発想です。全ての人間が政治にタッチしなければならないがゆえに、文学であろうと音楽であろうと思想・宗教に至るまで、すべてが政治性を帯びます。
文化大革命のときに、三角帽をかぶせられた知識人や教師たちは、「我々が信奉する革命原理を軽んじる、もしくは賛成していない(=政治にタッチしていない)」という理由から市中を引き回されました。「時局傍観は許されない」と大東亜戦争末期に、政府は国民に呼びかけました。



「市民を豊かにするのは統治者の務めである」とは、至極まともな発想だ。これに「統治者以外の人間は政治にタッチしない」という官憲主義を加えると、「市民は政治にタッチするな。政治の果実を口にすればそれで良い」という発想が出来上がる。


この発想は、3つの興味深い現象を導き出す。

ひとつは、「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、「自分たちが何をすべきか」よりも「行政は何をしてくれるのか」という論理へ傾くこと。
これを「おねだり民主主義」と呼ぼう。


もうひとつは、「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、統治に関わる人間以外の人々は、文句を言うしか方法がなくなる点。
これを「箱庭民主主義」と呼ぼう。

そして、3つ目は「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、統治に関わる人間から委任を受けた人々は、政治的責任の全てをとらねばならない点。
これを「責任転嫁民主主義」と呼ぼう。

「箱庭民主主義」「おねだり民主主義」「責任転嫁民主主義」は、私の造語です。類義語があった場合はご容赦ください。

 

まずは、「おねだり民主主義」について。

民主主義の精神は、「自主・自立」にある。
まちづくり活動は、その意味で、極めて民主的な活動のはず)

ところが、「おねだり民主主義」の精神が跋扈するようになると、「自分たちが何をすべきか」よりも「行政は何をしてくれるのか」という論理へ人々の関心は傾く。

前述したように、根底にあるのは「市民は政治に口を挟むな。市民は政治の果実を口にすれば良いのだ」という発想だ。この発想は統治者から「恵み」をもらうかわりに、政治には口を出さないという互恵関係へと具現化する。市民は政治にはタッチしない。つまり、非政治的な存在になる。そのかわりに統治者は豊かな生活を保障せよ……という発想である。

互恵関係ができあがると、豊かな生活を保障してくれないことは、この互恵関係を統治者が裏切ることを意味する。したがって、裏切った政府に対して抗議することが民衆には許され、政府に対して抗議するストライキや騒動は、もし発生したならば「政府の責任」として統治者が糾弾されることとなる。

米騒動」のような非政治的暴動は政府の責任であり、「子供の貧困」も政府の責任となる。なぜなら、「民衆は政治に口出ししないかわりに、民衆は政治の果実を口にできる」とのお約束を破ったのは、政府の方だからだ。

逆に、互恵関係の下では、シールズのような政治的活動は政府の責任にはならない。「市民は政治に口を挟まない。その代わりに『恵み』を政治からもらうのだ」との「お約束」を破ったのは政府の方ではなく、シールズの方だからだ。したがって、互恵関係の下では、シールズの活動は大衆の共感を得ることはない。




「箱庭民主主義」において、市民は政治にタッチできない。タッチしているようで、実は、行政のお飾りでしかない事例は多々見られる。

行政が事業を行う際の審査会などは典型例であろう。市民代表として、市民団体や区長会から充て職が割り振られて参加する。実際に会議に出席しても、行政が作った叩き台にいくつかの意見を述べるばかりで「こんな叩き台では納得いかない。新しいものを作りなさい」と市民が言えない空気で充満している。


かくの如くに、市民が政治にタッチできない現況で、市民に残された方法は「行政に対して文句を言う」ことのみとなる。
 「また行政が〇〇するらしい」
 「どうせ失敗するに決まってる」
 「勝山みたいなところで、何をやったって無駄だよ」
実に……聞きなれた文句ばかりだ。




以前、私は当ブログの記事において、「属人主義」をテーマとしました。

「属人主義」とは、「誰かスーパーマンが現れない限り、現状を打破することはできない」という考え方です。


「箱庭民主主義」と「属人主義」とは、実に食い合わせがよろしい。
市民は政治にタッチしません。政治にタッチできない以上、不満を漏らすよりほかにない。そして、「行政主導でうまく行かない現状を、誰か打破してくれないだろうか」という待望論こそが属人主義に他ならない。

 

話は横道にそれるのですが……よくよく考えてみれば、わが国のマスコミも箱庭民主主義の中で気炎を上げているに過ぎません。

マスコミは「善玉」と「悪玉」でしか論調を張れなくなってきます
「マスコミは、なぜ政府のやったことを評価しないのだろう。是々非々で臨むことができないのだろうか」と疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
マスコミが攻撃しているのは、官憲主義なのです。

もう一度申し上げますが、官憲主義とは「統治者以外の大衆は、政治にタッチしてはいけない」とするものです。

そして、官憲主義にとって最大の敵はマスコミと議会です。なぜなら、マスコミは「大衆が政治に興味を失ってどうする?もっと政治的コミットをしなければ!」と訴える立場であり、政治から遠ざけようとする官憲主義と激しくぶつかり合います。

ただし、その論調は官憲主義を「悪玉」と描いて「とにかく政府のやることに批判する」といった形にならざるを得ません。政府をひたすら「悪玉」として描くマスコミの在り方は、官憲主義下のマスコミの在り方としては誠に正しいものであり、逆説的ですが、マスコミが現在の論調を続けていることこそが、わが国が官憲主義下にあることの証拠でもあるのです。




これは誤解を招きかねない物言いになりますが、「投票率を向上しよう」との運動は官憲主義の下では効力を発揮できません。なぜなら、「我々は政治にタッチしないから、その代わりに政府は俺たちの面倒をみてくれ」という互恵関係が成り立ってしまえば、投票に行くことなど無意味だからです。




「責任転嫁民主主義」においては、統治者から委任を受けた組織・個人は、その政治的責任までをも負わねばならない。

責任論で言うならば、受託した組織・個人の責任は、その委任者まで及ぶ。「そんな人物を選んだ責任をどう考えるのか?」と糾弾されるのが当然なのだ。

ここで「おねだり民主主義」を思い出していただきたい。「政治には口を挟まないから、政治の果実をわれわれは口にする」との互恵関係が成立していた。

統治者から委任を受けた組織・個人は、権力の一部を受ける代償として互恵関係をも引き受けているのだ。したがって、この互恵関係を満たすことができない受託者は政治的責任までをも引き受けねばならない。

ゆえに、統治者は受託者を探す。自らに政治的責任が及ばぬように。





さて、これら3つの特徴は、何も行政に限定されるものではない。おおよそ官僚主義がのさばるような大組織には大なり小なり現れるのではなかろうか。

会社経営などに興味はない。給料さえもらえれば、何も問題はないという社員の意識は、まさに経営者と社員との「互恵関係」。
上司に逆らったところで無意味だよ。うちの会社はどうにもならないよ……とグチをこぼすより対処の方法がない「箱庭会社」。
プロジェクトは経営陣肝いりで発案されたけれど、これ失敗したら左遷どころかクビだよな……と「責任転嫁企業」

「統治者」を「会社経営者」、「市民」を「従業員」と読み替えてみると、官僚主義に冒された企業ならばありふれた話になる。







まちづくり花月楼に見る「官憲主義」の現れ

行政組織は、国―県ー市町村という流れで構成されるがゆえに、行政文化である官憲主義は、国から市町村に至るまで大なり小なり存在する。

ただし、国や県と異なり、市町村は市民(=現場)と直接に相対するがゆえに、官憲主義のほころびが見える形で現れる。

まちづくりや観光が、まさにその典型例だ。
「統治者、統治機関以外は政治にタッチしない」との官憲主義を観光に持ち込むならば、どのような観光が展開されるだろうか。行政が観光の戦略を策定し、指示し、予算をつけ、民間に実行させる。これは多くの自治体で行われている観光行政であり、無論、勝山市でもこれまで延々と行われてきた。


パンフレットを刷ってみたり、単発イベントを行ってみたり、時々、思い出したように東京で展示会を行ってみる。行政が商工会議所や観光協会に声をかけて民間事業者の出店を求め、「○○人来たから大成功」と自画自賛する。



下の画像を見ていただきたい。勝山市民の皆さんは、これを記憶されているだろうか。つい2年前まで勝山で売られていた「恐竜ようかん」である。

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どういう脈絡で選ばれたのかは未だに謎であるが、東京女子流というアイドルグループを用いて作られた羊羹である。今では誰も話題にもしない。行政の中ではなかったことになっている。
(未だに我が家には空き箱が保管されているのです




勝山市民は「平泉寺御膳」をご存知だろうか。
白山平泉寺全国発信プロジェクトの一環として、予算をつけてまで開発されたものなのだが、現在、これを提供する店舗は勝山市内にない。
(かつて、平泉寺の白山亭さんで出されたことはあったが)

勝山市内で提供する店舗がないのに、全国発信プロジェクトもなかろうに……と思うのだが、行政の補助金の切れ目が縁の切れ目。役所のやる気がなくなったところが、事業終了の合図である。

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行政の理屈で民間は動かない。そして、民間の理屈で行政も動いてくれない。





花月楼を事例に考えてみよう。

12月定例議会では、花月楼に関する事業は、行政から勝山商工会議所に提案があって進められたものだという事実が発覚した。

《行政の嘘》
当初から、行政は議会に対して「商工会議所から提案があって、この事業は進められています」との説明に終始しました。

しかし、それは嘘だったということが12月定例議会で明らかになったわけです。
この案件は、行政から商工会議所に持ち込まれたものであり、商工会議所からの提案書も行政の指示があって書かれたものだったのでした。私は、様々な人々への聞き取り調査を行う過程で、「これは行政から持ち込まれたに違いない」との確証を得ていましたが、ようやくそれが明らかになったわけです。

理事者が虚偽の答弁をすることは、議会と行政の信頼関係そのものを崩す行為であり、断じて許すわけにはいきません。

ただし、一理事者が虚偽の答弁をしたことと、官憲主義の問題とは別次元の話です。




12月定例議会において、予算委員会に商工会議所所属の方を参考人として招致し、詳しくお話を伺った。

行政から商工会議所に話が持ち込まれた。ここは重要である。なぜなら、商工会議所は「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」という権利を持つからだ。
実際、参考人として議会に来ていただいた商工会議所の方も「行政の支援をお願いしたい」と強調されていた。



ここが曲がり角である。

「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」という問いは、突き詰めるとリスクテイクの問題へ移行する。
 「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」
 「建物は行政で用意してください」
 「補助金は行政の方で、国から引っ張ってきてください」
一見すると、リスクをどんどん下げていくので良いことのように思われる。おそらく、「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」との問いを発している方に何の悪気もないはずだ。誰だってリスクは低い方が良いに決まっている。

実際、議員の前で行政支援を強く訴えた商工会議所の方は、熱意に溢れる人である。新規創業者よりも廃業者の方が圧倒的に多い勝山市の現状を憂い「勝山の商業を何とか活性化しなければ我々に未来はない」との想いが強く伝わる内容だった。

それでも気をつけねばならない。

行政主導でリスクを下げていくと、民間ビジネスではありえないくらいの低リスクな事業が成立してしまう。この低リスクが、逆に地域から利益を奪い取ってしまうのだ。
「おねだり民主主義」が変化した「おねだり官製ビジネス」の悪弊である。


道の駅を考えてみよう。道の駅は基本的に自治体が事業主体になり、施設は税金によって開発する。運営を、指定管理者や第三セクターなどの民間に任せるというモデルを採るのが普通だ。
もし、民間が事業として施設を建設するならば、施設整備の初期投資部分を回収しなければならない。それは売上から捻出するのが常識であろう。ところが、道の駅の初期投資は税金でまかなわれている。つまり、初期投資がなくともビジネスに参入できるという、「おいしい」状況が出来上がる。それは「損益分岐点が歪んだ形で設定され、生産性が低くても維持可能なビジネス」が誕生することを意味する。

「官製の低リスクビジネスが、本来産むはずだった利益すら地域から奪い取る」と言う理由はここにある。
 





加えて、花月楼に関しては行政主導であるがゆえに、人がついてこないという問題が発生する。「政治に口を出すな」との官憲主義下で、人々は行政のやることに口出しできない。できるのは、文句を言うこととサポタージュすることくらいであろう。

だから、サポタージュするのだ。
 「また行政が花月をなんかするらしい」
 「アホくさ。なんで俺らが手助けせなあかんのや?」
 「放っておけや。どうせうまくいかんやろ」

「箱庭民主主義」の当然の帰結である。






すると、今度は真面目にやろうとしている人たちがババを引くことになる。

今回、参考人として市議会までご足労いただいた勝山商工会議所の方は、これから本当に大変な道を歩まねばならない。勝山の商業を何とかしなければという想いと、さりとてなかなか市井の人々がついてこないという「箱庭民主主義の帰結」の狭間で、ご苦労されることが目に見えるからだ。

また、今回の花月楼の件で、受託に名乗りをあげた飲食業者の方も「市のケツについてまわって、うまいこと儲けてる」との言われなき誹謗中傷にさらされている。私は彼の性格をよく知っているが、「誰も引き受け手がいないのなら、勝山のために」と引き受けてくれたのだろう。

そして、肝心の行政は「それは民間が考えることですから」の一点張りだ。
まさに「責任転嫁民主主義」である。

さすがに、私も批評ばかりをしているわけにはいきませんので、この問題に真正面からぶつかることに致します。真面目に活動している人がバカを見る。私が最も忌み嫌うことですから。




もう一度、申し上げる。
冒頭に申し上げたように、「物事を悪くしようとして活動している人はいない」はずなのだ。

なのに、なぜこのようなことになってしまうのか。
真面目に頑張ろうとしている人が誹謗中傷を受け、市井の人々はついてこず、完成すれば「地域の利益を縮小再生産する低生産性」のビジネスができあがる。

我々が望む未来はこのようなものなのか?

この官憲主義を払拭する手立てはないものか?



 (以下、次の投稿へと続く)