月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

子供たちに「考える武器」を与えよう

 

いじめ、不登校……

先だってのこと。妻と次のような会話をした。

「○○さんところの娘さん、かわいそうに不登校になったみたい」
「なぜ?」
「う~ん……いじめられたみたいよ」
こういう話を耳にすると、暗澹な気分におちいる。

子供の社会は、我々の社会よりもよほど狭い。子供たちにとって、家庭と学校とが世界のほとんどだろう。その学校へ行けない状態に陥った子供たちの心境を思うと胸が痛む。



いじめは、人だけのものではないらしい。

さかなクンがいじめに関する素晴らしい文章を発表されている。

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中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。

 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。

朝日新聞2006年12月2日)


魚であろうと、人であろうと、集団をつくればいじめは起きるのだろうか。
大人の世界にもいじめはある。
子供の世界にもいじめはある。
そんな中で、我々は子供たちに何をなせばいいのだろうか。




万人の万人に対する闘争

人間の性が善であるか悪であるかという問題は、古来より哲学者や倫理学者の重要なテーマだった。

この人間の性を善悪でとらえる規範倫理学の考え方は、おそらく正義論と直結していたゆえに、重要なものと考えられたのだろう。「正義」は「善とみなされること」をなす以外に達成できないからだ。

確かに、我々は「善もあり悪もあるのが人間だ」などと鷹揚に構えるあまりに、正義を失ってしまったような気もする。60年代の邦画を見ると、やたらと正義が大手を振っているが、そこには明確な規範があった。「弱いものを守るのが男のつとめ」「男は男らしくせよ」「男は泣くな!」という規範があって、はじめて成り立っていた正義があった。無論、それが良いことかどうかは別問題だが。


 古来、中国で性悪説を唱えた人として荀子が有名だが、西欧で性悪説を大々的に展開した人物にトマス・ホッブズがいる。

ホッブズと言えば「万人の万人に対する闘争」が有名だ。

彼は、思考実験として「自然状態」を考える。国家もなく、集団もなく、個人はバラバラで生きていく。そういう状態を想定してもらえば良いだろう。

ここでホッブズは、凄まじくドライなことを言い始める。
「そのような自然状態では、人間は平等である」

社会は格差を生む、自然状態では格差がないから人間は平等である……というルソー的な平等観ではないし、「自然状態では力の強い人間や狡猾な人間が強いだろう」といった考えでもない。

自然状態では人間は平等である。なぜなら、一番弱い人間でも、寝首をかくなどの方法で一番強い人間を殺せるではないか……これがホッブズの言い分だ。

 

そして、自然状態では人はお互いに争い始める。
「人間は人間に対して狼である」
そして、「万人の万人に対する闘争」へと至る。



人は面白いことをやるもので、この自然状態の実験が行われたことがある。1960年代後半に、ロンドン動物園は100頭のヒヒを使って自然状態をつくった。その結果は次のようなものだった。長くなるが、引用しよう。

何年か前、ロンドン動物園は、ヒヒでまことに身の毛のよだつ経験をした。「猿ガ丘」とよばれる囲いに100頭のヒヒを入れて、自然状態をまねる試みをおこなったのだ。

  けれど、最初からヒヒの間にははてしない闘いがくりひろげられ、多数の個体が死んだ。二年目の終わりに残ったのは59頭だけだった。そこで、新たに雌を30頭と雄を5頭いれた。ところが、それによって事態はいっそう悪化した。雄どもは互いに殺しあったばかりでなく、数頭の雌を文字どおりばらばらに引き裂いたのだ。

   三年後には、わずか39頭の雄と9頭の雌が生き残っただけだった。それでもまだ彼らは戦い続けていた。
                           「人間行動の生物学」ダニエル・コーエン著

ホッブズは自然状態を「人口少なく、獰猛で、短命で、貧しく、汚く、人生の喜びも美も何もない」と記している。まさに、ロンドン動物園の「猿ガ丘」は、そのような状態だっただろう。


なぜ、ヒヒはこのような状態に陥ったのか。

問題は、……(中略)……動物園のヒヒの群づくりが自然のものではないということである。野生のヒヒの社会は、開けたサヴァンナの厳しい条件下にあってすら、それほど残忍ではないようだ。ヒヒの群は、一頭の優位雄か、徒党を組んだ二、三頭の優位雄によって率いられている。動物園でおこる果てしない闘いと抑圧はみられない。

……(中略)……

社会的順位は何年にもわたって、あるいは数世代にわたってゆっくりと確立される。ロンドン動物園のヒヒたちには、安定した社会的順位を確立するチャンスがまったくなかったのである。
       (前掲書、下線部は松村)

社会的秩序が確立できなかったがゆえに、ヒヒは「万人の万人に対する闘争」:へ突入した。

この秩序はいじめにも重大な関連性がある。

 

考える武器を子供たちに!


いじめが起きている教室に強力な秩序を与えると、いじめは止む。このことは事例として知られている。具体的には警察を教室の中に入れてしまうのだ。ただし、これは教育行政並びに現場の先生方は極端に忌避する。

教育行政や現場の先生方から「公権力の介入を許すな」という言葉を聞くと違和感を感じる。なぜなら、教育行政や現場の先生方は、我々保護者からすれば「公権力」そのものだからだ。幸いにして、私の子供が通う学校ではそのようなことを言う先生はいないのだが、市外のとある学校で上記のセリフを聞いたことがある。

 
「秩序」というと、我々は「命令ー服従」の関係を真っ先に思い浮かべる。


しかし、秩序とはそのような簡単なものなのだろうか。ならば、会社を思い浮かべて欲しい。上司は部下に命令する。それは「命令ー服従」だけの関係なのだろうか。上司は部下とコミュニケーションをとり、職場では雰囲気を良くするために同僚同士が意思疎通を図る。「命令は命令なのだから、何も文句を言わずに働け」といった強圧な秩序は存在しない。

そのような強圧な秩序は軍隊の中にしか存在しない……などとも考えてはならない。軍隊なら、上官は更にシビアで過酷な状況に置かれる。なぜなら、命令一つで部下を死地に送り込みかねないからだ。ゆえに、軍隊こそ上官と部下との密接なコミュニケーションが必要となる。このことは、米軍アカデミーにおける教科内容を見れば明らかだ。


ビジネス界では、そういったコミュニケーションのツールが様々に開発されてきた。それは単なる秩序の維持ではない。働くという行為を「人が人間らしい活動をするための手法」と認めることで、初めて開発されたものばかりだ。
働くことは、単に糊口をしのぐ手段ではない。人は働くことで社会に寄与し、その存在価値を高めていく。個人として人は働くばかりでなく、職場ではチームとして働く。コミュニケーションのツールは、そのためにある。


残念なことに、そのツールは社会人になってから与えられる。
なぜ、子供たちにそのツールを与えることができないのだろう。


そのツールがあれば、子供たちは自分で自分たちの秩序を作ることができるのではないか?
「何がこの教室内で問題なのか」
「自分たちでそれを解決できないだろうか」
「そのために、皆で考えて行動しよう」
「それじゃ、実際に考えてみよう……」
このような教室があったら、いじめは起きるだろうか。


これらの手法は、ビジネス界では何も珍しいものではない。
自由に発言ができる雰囲気づくり(ラポール)をつくるための手法、
自分たちが置かれた状況で「何がボトルネックになっているのか」を見つけ出す手法、
そのボトルネックを「どのように解決するのか」を考える手法、
対立する考え方を「統合して解決する手法」
……などは、ビジネスパーソンが学ぶべき手法として確立したものばかりだ。

私は、この手法を子供たちに「考える武器」として与えたい。


もちろん、ビジネスパーソンが教えこまれる内容を、そのままの形で小学生に教えることはできない。だが、発達段階に応じた内容を伝えることは十分に可能ではなかろうか。

例えば、TOC(制約理論)を教育界に導入しようとする動きもある。このような動きが更に活発化することを強く望む








秩序、徳、いじめ

古来より教育は「知育・徳育・体育」と言われ、「知・徳・体の健全な発達を目指すこと」が教育の目的とされてきた。

大学を想像していただければ、おわかりのことと思う。「知」に関する大学は、それこそゴマンとある。「体」に関しても体育大学がある。ならば「徳」を専門に教える大学があるだろうか。あるわけがない。なぜなら、テストをして○×の試験をするようなものではないからだ(点数の低い者に「徳が低い」と言うのも変な話だ)


なぜ、「秩序」と「徳」などという……ある種、抹香くささすら感じるものを持ち出すのか。

我が国が自由主義国家だからだ。


言うまでもなく、戦後の我が国は自由主義国家であり、国・行政は各人の持つ思想や信条に一切干渉してはならない。国家が法律をもって拘束するのは、その人の思想・信条が行為として外に現れたときにのみ、その行為を罰するのみである。

したがって、いじめをした子供たちの行為は、いじめをした後にしか罰することができない。事前にその行為にストップをかけることもできない。この点で法は無力であり、ストップをかけることができるのは、「いじめた子供」の内的規範だけなのだ。

この内的規範こそが、従来「徳」とされてきた。しかし、この「徳育」をどのようにすべきか。従来は「道徳」がこれを担ってきた。そこで教えられるのは、価値観でしかない。その価値観に従えば、いじめは悪いことに決まっている。

重要なことは、その価値観を具現化する「手法」が欠けていた点だ。



加えて、我々が見逃しがちな事実がある。
それは「教室は、新興住宅地と同じだ」ということ。


この話を続ける前に、組織について余談をひとつ。

子供たちは同級生を選べない。先生を選ぶこともできない。そのような集団は、会社組織と若干異なる。

日本的組織の典型例は「カイシャ」だと言われるが、学級集団こそ日本的組織の典型例だと私は考えている。

組織とは必ず目的が存在する。そして、その目的が達成されれば組織は解体されても不思議ではない。ところが、世の中には「存続すること」が目的とされる組織・集団がある。

その典型例は家庭だろう。「あなたの家庭は、どのような目的の下に集まった集団なのですか?」などと尋ねることは非礼の極み。
我々は「学校は行くべきもの」として捉えている。何のために学校に行くのか、なんのために子供たちを学校へ通わせるのか。その目的を明確に認識しないまま、学校は行くのが当然の場所として子供を通わせる。

子供たちにとっては「行かねばならない場所」
親にとっては「行くのが当たり前の場所」
そういった位置づけの場所である学級集団は、「存続すること」が目的とされる組織に他ならない。

存続すること」が目的の組織では、その集団から外れることは「村八分」を意味する。不思議なことに、いじめられた子供が転校する場合、あたかもドロップアウトのような扱いを受けることがある。


 そして、「存続すること」が目的とされる、もうひとつの例が村落共同体のようなコミュニティーだ。コミュニティーが「存続すること」を目的としていることは、殊更説明を要しないだろう。

ここで話を元に戻すのだが、村落共同体には強力なルールが存在することがある。なにしろ、2代前3代前どころか7代前10代前の出来事が息づいている場所なのだ。長い歴史の中で培われたルールがあってもおかしくはない。

そのルールが疎ましくてコミュニティーを後にする人もいるのだが、ならば、彼らの住む新興住宅地は、ルールが希薄で困る場所でもある。

何かを決めようとしてもなかなかきまらない。
コミュニティーの重要さは理解はするが、面倒くさいことはいやだ。
……といったように、縛りのなさがもららす弊害もやはりあるのだ。
そこでは、組織の意味を確認し、皆で話し合って、何をするのかを考える。そういったコミュニティーづくりが求められる。

それは学級組織も同じこと。






いじめのないクラスは気持ちいいよね……といえば、子供たちは誰しも納得はする。ただし、それは価値観の問題に過ぎない。そこで止まっている限り、いじめは起きる。
その価値観を実際に運用する手法こそ、子供たちに必要なものだ。

いじめのないクラスは気持ちいいよね…といっても、そのクラスという組織、秩序をどのように作っていくのか。その組織作りの手法がなければ、画塀に帰すだけだ。




もう一度申し上げる。

我々大人が考える理想のクラスとは、どのようなクラスなのだろう。
クラスで問題が発生したときに、なにが問題なのか。それを語り合って、みなで解決方法を模索しながら結論へ至る。そして、それを積極的に実現する。
そんなクラスではなかろうか。

もちろん、大人がそれをできているとは言い難い。大人の社会でも難しいのだ。だが、だからといって子供たちにはできないだろうと高を括ったり、あきらめたりすることもあるまい。

なぜなら、手法はすでに出来上がっているからだ。



子供たちに「考える武器」を与えたい。私は切にそう思う。
それを学ぶことが、社会に出たのちに有益であるという点もあろう。だが、根本には、いじめで自死を選ばねばならなかった子供たちの不憫さがある。
「どんな問題でも必ず解決できるはずだ」
「その方法は、このまえ先生が教えてくれた」
「だったら、それ使ってみようよ!」
という児童・生徒がクラスの中にいたなら、どうなっただろう。