地方に国会議員はいりません・・・と主張する最高裁
■最高裁の「1票の格差判決」について思うこと
先だって出された最高裁の「1票の格差判決」は、2つの点で納得がいかないものでした。
ひとつは、裁判官の付則意見の中に「人口が少ない地域には、もはや国会議員はいらない」としか理解できない意見が多数見られた点です。
もうひとつは、「そもそも1票の格差とは何か?」という根本的な疑問を明らかにしないまま、それを自明のものとして扱い違憲判決を出すという、まさに『タメにする議論』がまかり通っている点です。
■現在の「1票の格差」は信用の置けない指標である
そもそも1票の格差はどのようにして求められるのでしょう。
2012年の衆議院選挙を例にとりましょう。
千葉4区は最も有権者の多いところで、その数は49万7350人。これに対して高知3区は最も有権者の少ないところで、20万5461人でした。人口の多い選挙区でも少ない選挙区でも選ばれる国会議員は1人です。したがって、高知3区の1票は価値があり、千葉4区の1票は価値が小さくなると考えられ、その格差は、
(最も有権者の多い選挙区の有権者数)÷(最も有権者の少ない選挙区の有権者数)
と計算します。
具体的には、
(千葉4区の有権者数)÷(高知3区の有権者数)=2.42
したがって、2012年の衆議院選挙における「1票の格差=2.42倍」と求めるのです。
さて、私が納得できない最初のポイントは、この「格差=最高値÷最低値」という計算式そのものです。
「格差」とは不平等の程度を表すものです。不平等の程度を表すために「最高値÷最低値」といった手法を用いることは通常ありえません。
例えば「経済格差」を表現するために、2014年フォーブス長者番付で日本人トップであった孫正義氏の資産2兆488億円を最高値、最低値を1円とし、
(最高値)÷(最低値)
=2兆488億円÷1円
=2兆488億倍
と計算して「日本の経済格差は、2兆488億倍だ!」と主張するようなものです。経済格差を求める方法としては、通常は、「ジニ係数」を用いますが、最高値を最低値で割るような単純な方法でありません。
最高裁はなぜこのような指標を用いるのでしょうか。
その理由を、かつての最高裁は、
「2倍という数字は理論的、絶対的な基準とまでは言えない」
「2倍という数字は、常識的で分かりやすい」
と控えめに述べていました。つまり、最高値を最低値で割るという方法が理論的ではないこと、そして2倍という数値が基準としては「単にわかりやすいから使っているに過ぎない」ことを最高裁自身も認めていたのです。
しかし、今回の判決文では、もはやそのような控えめさは全く見られず、ただひたすらに(最高値)÷(最低値)で求められた数字だけを頼りに違憲判決を出しています。
実は、経済学における「ジニ係数」と同様の手法が政治学にもあり、より実態に近い「1票の格差」を計算する手法は開発されています(LH法など)。最高裁は、違憲判決を出すのであれば合理的な手法により格差を求めてから出して欲しいものです。
■「1票の格差」をスタートラインに置くべきなのか?
今回の判決において、山本庸幸裁判官は反対意見で次のように述べています。
「投票価値の平等は他に優先する唯一、絶対的な基準として守られるべき」
これは、憲法の「法の下の平等」から導き出されるものですが、この平等原理を議論のスタートラインに置くべきなのでしょうか。私たちはそこから議論を始めなければならないと思うのです。
例えば、「地方自治の本旨」から議論をスタートしてみてはどうでしょう。
現在の「都道府県を単位とする選挙区割り」を、かつての最高裁は地方自治の本旨に基づくものとして評価していました。
(※)2004年の最高裁判決の補足意見「政治的にまとまりのある単位を構成する住民の意思を集約的に反映させることにより地方自治の本旨に適うようにしていこうとする従来の都道府県単位の選挙区が果たしてきた意義ないし機能」と評価している。
「私たちの住む地域は私たちの手で良いものにする」との地方自治の延長線上に、「我々の代表を国政へ送り出し、我々の声を国政に反映させる」との考え方があります。
例えば、アメリカの上院議員選挙では、人口の多寡にかかわらず各州2名の上院議員が選出されます。人口最大のカリフォルニア州でも最小のワイオミング州でも州から選出される上院議員は2名です。したがって、1票の格差は68倍と凄まじいものになっています。それでも、アメリカ合衆国憲法では「各州2人」と厳然と定められています。これは、州が独立の単位として存在するアメリカならではの事情もありますが、我が国においても、都道府県を地方自治の単位とするのであれば、1票の格差は許容されるべきではないでしょうか。
(※)ちなみに、アメリカ上院選挙方式を我が国にも適用して、「都道府県単位で3名」といった参議院議員選挙をすべきだとの主張があります。これに対して、憲法の法の下の平等を重視する立場の論者からは、その方式は憲法違反であり憲法を改正しなければ導入できないとの反論が根強く出されています。
重要なことは、「我々の意思を国政にどのように反映させるか」という点です。
今回の最高裁判所の判決では、
①国民の意思を適正に反映させることが大事だ。
②適正に反映させるとは1票の格差を是正することだ。
③是正するためには、都道府県単位の選挙区を改めるべきだ
との論理展開になっています。
これは「国民の平等原理」に基づくものです。
ならば、「都道府県の平等原理」に基づくとどうなるのでしょうか。
②地方自治を通した国民の意思を適正に反映させることが大事だ。
③そのためには、国民ひとりの「1票の格差」は容認せざるを得ない。
との論旨も展開できるのではありませんか?
20世紀を代表する思想家オルテガは、その主著『大衆の反逆』の中で、こう主張しています。
「選挙制度が適切ならば何もかもうまくいく」
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本当の意味で「都道府県の平等原理」を実現するためには、道州制の在り方なども含めた国民的な議論が必要です。そういった議論の延長線上に1票の格差問題は解決されるべきです。先ほどのオルテガの言葉は「適切な選挙制度とは、そういった『国の在り方』を考えて選挙制度を構築すればうまくいく」と理解すべきであり、最高裁判決のように「投票価値の平等を実現するために選挙制度を変える」ことにより適正な選挙制度は達成できないのです。
(※)蛇足ですが、福井県議会議員は区割りがされていますが、県議会議員選挙における「1票の格差」は憲法違反に問われないのでしょうか?
■奢るな、最高裁!
まず、最高裁が出した「違憲状態」と「違憲判決」の違いを押さえてください。
「違憲状態」とは、「1票の格差が限りなく憲法違反に近い状態である」との意味です。これに対して「違憲判決」とは「1票の格差は憲法違反である」と認めることです。更に、憲法違反の状態でなされた選挙は無効です。無効な選挙によって選出された国会議員は、当然にその身分を失う結果となります。
最高裁は、これまで選挙無効の判決を下したことはありません。
(※)厳密には、1945年に大日本帝国憲法下で鹿児島2区の衆議院選挙に大審院が無効判決を出したことがあります。また、2013年に広島高裁岡山支部にて衆議院選挙の無効判決が出ました。
選挙無効の判決を出さない理由は、選挙のやり直しという前代未聞の時代が引き起こす混乱に加えて、「裁判所は『非民主的』存在であること」を最高裁が、わきまえていたからでしょう。
裁判官は民意によって選ばれた者ではないがゆえに、裁判所は「非民主的」存在です。これはプラスの側面とマイナスの側面があります。
司法は、多数決民主主義に支配されないという意味でプラスなのです。国民のムードや論調によって判決が左右されることがあってはいけません。お隣の韓国では目下、産経新聞ソウル支局長が「大統領を侮辱した」として訴えられていますが、このように政治状況や国民のムードで司法が揺れ動くことは大きな問題です。
同時に、多数決民主主義に支配されないという意味で、最高裁には一定の抑制が求められます。そこを超えて「司法の暴走」が始まった場合、15人の裁判官の考え方が日本を規律することになります。
今回の判決で木内道祥裁判官は次のように述べています。
「選挙を無効とする選挙区を選ぶ規律は熟していない。一部の選挙区のみを無効とはせず、全選挙区の違法を宣言するのにとどめるのが相当だ」
何という傲慢さ。
理論的な根拠の乏しい「最大値÷最低値」で割り出した数値を基にして、選挙無効の判決の与える重大さも考慮せずに、「無効とする選挙区を選ぶ規律は熟していない」と吐き捨てるとは。
奢るな!最高裁!!