月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

勝山の観光、まちづくり会社、そして行政




 

観光まちづくり会社の方からのご指摘

先だってのこと。とある場所にて、観光まちづくり会社の方からご指摘をいただきました。
「憶測でなんでも書かないで欲しい」
どうやら当ブログの記事内容についてのことのようでした。

会話の内容をくわしく書くのも野暮の極み。これ以上は申しません。
ただ、誤解なきよう申し上げておきますが、私は観光まちづくり会社の存在を否定しているのではありません。否定するのであれば、議員時代に議会で否定していたでしょう。私が我慢ならないのは「観光まちづくり会社を縛り付けて、今の状態にしてしまった政治と行政の無定見さ」についてです。

観光まちづくり会社の設立時には、勝山商工会議所のスタッフが陣頭に立たれました。その中心には「あの人がいなかったらできないだろう」と衆目が認める方がいましたが、行政との交渉に疲れた彼の顔を見るにつけ気の毒な思いに駆られたものです。
 観光まちづくり会社が立ち上がれば、立ち上がったで、現場スタッフは周囲の無理解に悩まされていることでしょう。現場スタッフと直接話をしたことはありませんが、市内事業者の方々のお話を聞けば、軋轢が生じているであろうことは容易に想像できます。

つくづく「気の毒に…」と感じます。

「観光まちづくり会社の経営は行き詰まるだろう」
との思いは、今でも何ら変わりません。
なぜなら、「間違った道を全力で走らせている」からです。

もちろん、走らせているのは行政であり、走らされているのは観光まちづくり会社であることは言うまでもありません。

何が間違っているのでしょうか。
どうやって修正していけばよいのでしょうか。



なぜ戦略が必要なのか

行政主導が犯した過ちの最たるものは「戦略の欠如」です。

まずは、なぜ戦略が求められるのか、その点について考えてみましょう。

結論から申せば、戦略が求められる最大の理由は、誰も未来のことをわからないからです。

当然のことです。誰も未来のことは分かりません。しかし、分らない未来に向かって私たちは進んでいかねばなりません。
誰しも、新しいことへ挑戦するのは不安を抱きます。
誰しも、今の環境を変えてしまうことは苦痛です。
だからこそ、「どうだい?この方向へ進めば、こんな未来があるよ?」と、誰も見たことのない世界を活き活きと描く必要があります。ここに戦略を立てる意義があります。

政治・行政主導で行われた観光まちづくり会社の立ち上げには、この戦略、すなわち「活き活きとした未来像」が抜け落ちています。行政にとっては、観光まちづくり会社を立ち上げることがゴールであり、道の駅を完成させてテープカットすることが最終目標なのでしょう。しかし、会社は生き残って社会に貢献しなければなりません。道の駅は潰れずに運営する必要があります。「全力で間違った道を進ませている」どころか、行政は道の方向性すら示すことなく進ませているのです。

この点を具体的に見ていきましょう。



本当に戦略が欠けているのか

前回も取り上げましたが、ここでもう一度、市民の皆さんに目を通していただきたい書類があります。
勝山市観光まちづくり会社を日本版DMOとして認定して欲しい」と国土交通省に提出した書類です。
 (リンクはこちら


何となく戦略っぽいことが書かれてあるようですが、このペーパーには、戦略の「せ」の字もありません。

サッカーを例に考えてみましょう。
監督の仕事は、チームを勝利に導く戦略を構想して、それを実行に移すことです。

日本代表チームの監督が、「監督!どういった戦略でワールドカップに挑みますか?」と尋ねられたときに、「日本代表の戦略は、決勝トーナメントのベスト4だ」と答えたら変な感じがしませんか?それは戦略ではなく、目標だからです。
国土交通省に提出したペーパーに描かれている数字は、目標であって戦略ではありません。

「次のブラジル戦だが、ブラジル攻撃陣はこういう風に攻めてくるはずだ。グラウンドコンディションは〇〇で、当日の温度は〇〇。湿度は〇〇だ。それが日本代表の戦略だ」と言われても、意味不明です。それは戦略ではなく、環境の分析ですから。恐竜博物館に何万人来る、自然環境は素晴らしい。歴史遺産がある……等々は、市場環境の分析に過ぎません。

「日本代表は、この23人だ。先発メンバーには遠藤を軸としてこういうポジションでいく。このタイミングで、このメンバーをこういう風に変えていく。これが日本代表の戦略だ」と言われても納得できません。それは戦略ではなく、組織編成の問題です。
商工会議所をはじめとした各種団体の組織で臨む……と言われても、それは単に組織の話。戦略ではありません。同様に、長尾山や花月楼を組み合わせて行くのだ……という説明も、「スターティングメンバーは、長友、本田…で行く」式の説明の域を超えていません。

「日本代表の戦略は、攻撃的に行くことだ」
このような雑な戦略はないはずなのですが、世の中には溢れかえっています。いわゆるバズワードと呼ばれるもので、経営の世界で言えば「メガコンピタンス」「フラット化」「SCM」「CSR」……など枚挙に暇がありません。

観光の分野では「観光の産業化」が代表例でしょう。聞けば感覚的に理解できるが、具体的に何も説明していない言葉。これも戦略ではありません。

このペーパーを読み終わった後に、「まるで証券マンの営業みたいだ」と語った人がいました。まさに的確な反応といえるでしょう。「儲かりまっせ、損はさせませんよ」だけでは、人は心の底から納得できないのです。


戦略を欠くと何が生じるか

戦略を欠いた行動は、「進むべき未来像」を欠くがゆえに次の結果をもたらします。
 ①現場が動きがチグハグなものになる
 ②したがって、現場の周囲が動かなくなる
 ③結果として、お客は動かない

「進むべき未来像」を欠けば、現場の行動はひとつのベクトルを向きません。したがって現場の動きはチグハグなものになります(①)。その結果、現場の周囲の動きは鈍くなっていきます。観光まちづくり会社で言えば、花月楼や長尾山の施設へ納品している組織・事業者が、新規製品の開拓などへ意欲を燃やしません(②)。
そして、ここが肝心な点ですが、①と②から導き出される結論として、お客が動きません。現場も現場の周囲も動かない場所に客が来る道理がないのです。
(この道理は、拙稿の後半において具体的に説明します)

①~③の結果を外部から見ていると
「チグハグだ」
「やる気がない」
「税金の無駄だ」
といった評価が観光まちづくり会社に向けられるようになります。これでは必死で頑張る現場が報われません。




では、どうするのか?まずは2つのものを揃えるべき

戦略が欠けているから、間違った道を全力で走らされる。
ならば、今からでも戦略を立てるべきです。

では、どのように?

最低限、次の2つを揃える必要があります。
それは、
 ①活き活きとした未来像
 ②そこへ至る道筋

ひとつひとつ、具体的に見ていきましょう。



ハッピーエンドの物語には、未来像が欠かせない


再度申しますが、戦略とは、未来を知ることのできない私たちに、「どうですか?こんな未来は。ワクワクしませんか?」と問いかけるものです。

したがって、出来の良い戦略は、通常、物語の形式をとります。物語形式がもっとも人の心を動かすからです。

そして、物語は「描くべき未来像」から始まり、「ハッピーエンド」で終わるのが常です。

例えば、アマゾンの物語。

 アマゾンの物語が描く未来像は、「買い物がワンクリックで終わって、翌日には自宅に届くような世界って便利だよね」に尽きます。もちろん、その未来像へ辿り着くための技術的強みは多岐にわたりますが、描く未来像は1点です。
 そして、アマゾンの物語は「そんな世の中が実現できました。結果としてアマゾンの利益は上がりました。めでたし、めでたし」とのハッピーエンドで締めくくられます。

 スターバックスの物語が描く未来像は、「家と会社以外にくつろげる場所があるといいよね」というものでした。彼らはそれを「サードプレイス(第三の場)」と位置づけ、それを実現するために通常では考えられない手法を用いて、物語の筋(論理)をつないでいきました。しかし、物語の描く未来像は1つです。
 そして、この場合でも、「そんな場所が実現できました。結果としてスターバックスの利益は上がりました。めでたし、めでたし」とのハッピーエンドに落ち着きます。

では、観光まちづくり会社の物語は、なんでしょう。
次の2点に要約できます。
 ①勝山に観光客が来ています。
 ②物販・飲食等で利益をえました。めでたし、めでたし。

これを
 ①「買い物がワンクリックで終わって、翌日に自宅に届くような世界」をつくる
 ②それを実現できました。結果として顧客が来ました。
 ③物販などで利益を得ました。めでたし、めでたし。
とのアマゾンの物語とを比較したときに、抜けているのは①の「未来像」であり、それこそが、まさに「戦略の核となる未来像」の欠如なのです。

厳密に言えば、観光まちづくり会社の物語は、次の構成を採るはずです。
 ①(未来像)
 ②観光まちづくり会社の描いた未来像へのスキームができました。
 ③市内事業者が利益を伸ばし始めました。
 ④結果として、観光まちづくり会社も利益を伸ばし始めました。
 ⑤めでたし、めでたし。
③と④は公的側面を持つ観光まちづくり会社特有のロジックです。ここでは、アマゾンと比較するために、敢えてそこには触れませんでした。

ならば、どのような未来像を描けば良いのでしょうか。

私は何でも良いと思うのです。
 「観光客がびっくりするような勝山にしよう」

もちろん構いません。面白いじゃないですか。観光に行けば、混雑した観光地に、どこで昼食をとれば良いのかもわからない情報不足、クタクタに疲れた側で「もう飽きたよ~、次はどこへ連れてってくれるの?」と容赦なくねだる子供。
 世の中に、そんな観光地が溢れている中で「勝山へ行ったときだけは、ちょっと違った」とのサービスを提供するのも面白いでしょう。



未来像へ辿り着く道筋が必要だ

未来像を作れば戦略になるというものでもありません。そこへ辿り着く道筋が明確でなければ、未来像は「絵にかいた餅」でしかありません。ジョン・レノンが高らかに名曲「イマジン」を歌おうとも、その未来像へ辿り着く道筋が不明では、その未来像は決して現実のものにはなりません。
(もちろん、そのことをもって「イマジン」の価値は一分も損なわれませんが)


仮に
「観光客がびっくりするような勝山にしよう」
との未来像を描いたとしましょう。

すると、色々な情景が頭の中に浮かんできます。
「飲食店で、こんなサービスを受けたら、観光客がびっくりするだろうな」
「旅館で、こんなおもてなしがあったらどうだろう」
「こんなパッケージツアーを作ったら、わくわくするよね」
自分が観光客なら、こんなサービスを受けてみたい……との思いは誰しもあるはずです。そこからスタートするから、その情景には血肉が通っています。


その情景を現実のものとするためには、変えなければいけない箇所は多岐にわたります。飲食店や旅館のサービスのあり方、土産物の売り方見せ方、観光地でのサービスの仕方といった表面に出てくる改革もあれば、情報連絡の取り方、お客のフィードバックを活かす体制づくり……など表面・裏面での抜本的な改革が必要になるでしょう。

それが、未来像へ辿り着く道筋です。
「〇〇をこういう風にすれば、✖✖が生じます」
「結果として、観光客は驚きます」
「観光地に飽き飽きしている観光客を驚かせて、『もう一度勝山へ行きたい』と思わせましょう」
との道筋が通ります。


そして、なによりも観光まちづくり会社のスタッフは言えるのです。
「観光客が驚く顔を一緒に見ましょうよ」
と。
飲食店へ営業に行き、観光客が驚くような「ちょっとしたサービス」をつけてくださいとお願いできます。実際にそんなサービスが提供されるならば、喜ぶのは観光客だけではないでしょう。平常使う勝山市民も喜びます。店も売り上げの増が期待できます。
 観光客を驚かすようなツアーパッケージ、観光客がびっくりするような緊急時の対応、それを可能にする組織づくり、そういったものを積み重ねていけば、他の観光地と一線を画する「観光地としての勝山のポジショニング」も明確になります。
 重要なことは、戦略を立てることにより、人々のベクトルをひとつの方向へまとめること。すなわち、この物語に携わる人々が「それなら俺にも出来ることがある」と具体的なイメージを喚起できる点なのです。


前述したように、戦略が欠如することは
 ①現場が動きがチグハグなものになる
 ②したがって、現場の周囲が動かなくなる
 ③結果として、お客は動かない
との結果をもたらします。
政治・行政主導で進められた観光まちづくり会社の設立と運営方法には、決定的に戦略が欠けています。戦略が欠けたまま動くことは、現場のスタッフを苦しめ、周囲の事業者を困惑させ、ひいては市民に迷惑をかけることでしょう。
そこには、目指すべき未来像も、それを可能にする手段・目標も、人々を糾合するベクトルもないからです。

「儲かりまっせ」は、戦略ではないのです。

拙稿の「観光客を驚かせよう」との戦略は、旧・勝山市観光協会が作り上げた幻のペーパー『観光ビジョン2016』を参考にしました。県の観光課職員が驚愕したこのペーパーは、異色の戦略と言えるものでした。のちに、くだらぬ政争の具として潰され、日の目を見ない結果になりました。勝山の観光を考える上で、実に残念なことです。




ものごとは戦略通りに動かないからこそ、「任せる度量」が必要になる

しかし、観光まちづくり会社が戦略を立てて挑もうとしても、それだけでは足りません。物事は戦略通りに動くはずがないからです。したがって、そこを「じっとこらえてやらせる」度量が求められます。

DeNA創業者の南場智子氏は、世界的なコンサルティング会社であるマッキンゼーの共同経営者でした。ありとあらゆる理論に精通する戦略家ですが、いざ事業を始めてみると、本人が書くには「失敗のフルコースを片っ端から経験した」そうです。
挙句に、「ビジネススクールで学ぶことは役に立ったかとよく訊かれる。自らの経験から率直に話すと、私はかなり懐疑的だ」とまで述べています。

戦略がなければ間違った道を行く。これは前述したとおりです。しかし、戦略が指し示すのは方向だけです。道なきところに道を切り開いていく実務では、想定外のことが起こります。チラシの写真1枚、煽り文句ひとつで集客が異なるのが現場の実務です。そのような現場で数えきれない失敗を重ねてこそ、はじめて成功はもたらされます。

観光まちづくり会社も、失敗を重ねることでしょう。その失敗を重ねる現場を「じっとこらえてやらせる」だけの度量を発揮するのは、行政・政治の役割です。しかし……どうもそれを期待できそうにありません。

拙稿の冒頭で申し上げた、観光まちづくり会社の方との会話の中で、興味深いことを伺いました。
「観光まちづくり会社の売り上げから、1000万円が勝山市に支払われている」

全くもって行政のやることはチグハグです。
観光まちづくり会社の売り上げから1000万円を納めさせて、市の一般会計に混ぜてしまうくらいならば、その1000万円を
「観光活性化の独自の政策に使ってくれ」
「その事業内容は、現場を知る君たちに任せる」
と言えば良いのです。
その1000万円を新しい観光事業に充てることで、新たな顧客を呼び込むことができる。これが通常の発想です。行政がやろうとしていることは、
「今年はこれだけの収穫があった。これなら、来年の作付けを増やすことができる」
と言っている農家から、来年度の種もみを取り上げる行為に似ています。
金の卵を産むニワトリは、太らせてこそ良い卵を産むことができるのです。

行政が観光実務をすることはできません。行政が観光戦略を立てることもできません。だからこそ、実務もこなせて観光を一元化する存在として観光まちづくり会社が求められたのであり、議員時代の私も賛成しました。

ならば、なぜ一元化させてあげないのか。
なぜ、任せられないのか。



まとめ ー今、なすべきことはなにかー

私の中で「このままならば、観光まちづくり会社の経営は行き詰るだろう」との思いは豪も変わりません。同時に「勝山市民の支持も得られないだろう」との思いも同じです。

今からでも遅くはありません。
次のことをすべきです。
 【A】観光まちづくり会社は、独自に戦略を立てて実行する
 【B】行政は、その支援に徹する


【A-①】戦略づくり
まず求められるのは、戦略です。
 (1)未来像(活き活きとした未来像)
 (2)それを実現する具体的手段(具体的事業、組織体制など)
 (3)他市町とのポジショニングの違い
最低限、この3つは求められます。
ここで特記すべきは、この戦略をたてるべきは観光まちづくり会社の人々だという点です。周囲の人々や行政に意見を聞くことも必要ですが、最後の最後で決断すべきは観光まちづくり会社です。



【A-②】戦略の実務への落とし込み
観光まちづくり会社の戦略は、実務へ落とし込まねばなりません。そこでひたすら試行錯誤を繰り返すこととなるでしょう。重要なことは、
 (1)小さなミスを数多くこなす
 (2)そのミスを微調整しながら、ひとつの成功へつなげる
 (3)その成功は、戦略の文脈に置かれる内容であること
 (4)その成功は、必ずしも大きなものでなくともよいこと
との方針を明確にしておくことです。
失敗を許容しない組織は伸びません。試行錯誤は失敗を前提とした考え方です。しかし、どうせ失敗するなら小さい失敗を数多くこなしていった方が良い。(1)の点です。その小さな失敗を微調整しながら、事業を成功へと導いていきます。新たな土産物を製品開発する場合でも、新しいツアー製品を企画する場合でも、イベントをしかける場合でも何でも同じです。これが(2)の点です。
ただし、その成功は、必ず戦略の文脈に置かれる内容でなければなりません。戦略の道筋から外れた成功を重ねても実に結びつきませんから。これが(3)の点です。
(唯一の例外として「予期せぬ成功」というケースがありますが、今回はそこに言及するのは避けましょう)

そして……ここが肝心の点ですが、その成功は大きなものでなくて良いのです。
議員生活13年。そして一人の市民として2年。勝山の観光行政を見てきましたが、残念なことに成功した事例はふたつしかありませんでした。
(その2つが何であるか。それはここで述べません。ただ、奇妙なことに、この2つはいずれも市外の人が成し遂げた成功です)

勝山市民は、成功に飢えています。小さな成功で良いのです。
 ・わくわくする未来像と、そこへ至る道筋を示す(戦略の提示)
 ・小さな成功を積み重ねる
このことにより、市民は「この小さな成功が大きな物語の実現につながる」と実感できます。戦略の文脈にそった小さな成功の積み重ねこそが、市民に希望を持たせ、次へのチャレンジへと進ませるのです。これが(4)の点です。
(この論理から言えば、「一発逆転」の大技をかけることは意味がありません。「道の駅を作ればなんとかなるだろう」式の大技は、市民に「どうせ失敗するって」との不安を呼び起こすからです)


【A-③】市民に対する定期的報告
勝山市が出資者であるということは、勝山市民が出資者であるということです。ならば、出資者である市民に事業報告をすることが求められます。

しかし、出資者である市民へ事業の成果を報告することは、単に「株主への説明責任」を果たすといった意味以上の効果をもたらします。

観光まちづくり会社
 (1)新しい未来像を掲げていることを示し
 (2)その未来像へ向けた事業を着々と展開し
 (3)失敗も含めて成果を上げているのだ
といった点を市民に示すこと、それ自体が市民の気運を高めていくのです。




そして、行政は行政で次のことをすべきでしょう。

B-①】枠をつくらない
前述した1000万円の話も論外なものですが、例えば、観光まちづくり会社が、次のような提案をしたとします。
「私たちの戦略の主軸になるのは、恐竜博物館のある長尾山総合公園だ」
「今でこそ、恐竜博物館はメジャーなものの、長尾山総合公園そのものの訴求力は高くない」
「恐竜博物館がある長尾山総合公園を、こんなコンセプトで統一しよう」
さて、行政は聞いてくれるでしょうか。

かなりの高確率で、
「だめです」
と言うか、
「それは、政治マターですので、私たちの権限外です」
と言うでしょう。いずれにせよ、門前払いです。

政治マターまで行政がこなし始めると、ややこしいことが生じます。しかし、観光まちづくり会社は産声を上げたばかりの、いわば、よちよち歩きを始めた組織です。枠をつくらずに対応すべき段階です。観光まちづくり会社が戦略を立て、独自の観光事業を展開することを最終目標とするならば、今は枠をつくらずに対応できるものは全て対応することが求められます。



B-②】市民への公開義務を果たすための資本上積み

前回の拙稿でも述べたように、観光まちづくり会社の収支状況は市民に公開されません。なぜなら、公開する義務がないからです。
なぜ、公開する義務がないのか。それは、勝山市が出資した240万円が、地方自治法に定める「市民に説明義務が発生するライン」である「資本金の25%」に達していないからです。

逆に言えば、あと100万円積み増しをするだけで、資本金1000万円の25%に達して、堂々と勝山市は観光まちづくり会社の収支を市民に報告することができます。

harukado0501.hatenablog.com


私が常々申しているのは、「暗くするからオバケが出る」ということ。明るい昼間からオバケは出てきません。暗くするからオバケは出るのです。
公表しないから「隠してるんじゃないのか?」と疑われ
「隠しているんじゃないのか?」と疑われるからこそ、「悪いことしているに違いない」と邪推される。

堂々と公開すればいいじゃないですか。
ビジネスに失敗はつきもの。堂々と公開して、観光まちづくり会社が立てた戦略とともに市民に説明すれば良いだけなのです。
「観光まちづくり会社は、こんな未来像を描いている」
「私たち勝山市は、この未来像を真摯に受け止め、全力で応援している」
「今は、まだうまく行かないことの方が多い。それは収支決算書を見てもお分かりのとおりだ」
「だが、長い目で見てあげて欲しい。勝山の若いもんが頑張ってるのだ。応援してあげて欲しい」
と、なぜ行政は言えないのでしょうか。


どのような事業であれ、その成否を握るカギは「人」です。立派な誘客施設を作ろうとも、観光施設を建設しようとも、箱モノで人は来ません。
勝山の魅力を作るのも「人」ならば、それを発信するのも「人」です。そして、勝山を訪れるのも「人」です。

そして、「人」を育てるのも、また「人」なのです。そこを弁えない限り、行政は擦り切れるまで人材を使い続け、事業も育たない……という、いつもの展開を繰り返すだけになるでしょう。

民は依らしむべし、知らしむべからず   -観光まちづくり会社とはなにものかー

 

 

はじめに

まちを歩いていると、様々な方とお話をする機会を得ます。他愛もない話から、苦情や要望まで内容は様々です。
ただ、最近、苦情や要望の中に出てくる話題として「観光まちづくり会社」が目立つようになりました。
「何をやっているのかわからない」くらいなら受け流すだけなのですが、「商売のジャマばかりされている」といった内容になってくると、話は剣呑になってきます。


かと思うと、こんな話も耳にします。

まちづくり会社のスタッフが観光ボランティアガイドの皆さんを集めて、開口一番
「これからは観光ボランティアを無料でやるのは止めてください」
「ガイドは有料制にしてください」
「ガイド1回につきひとり500円を観光客からとってください」
「なお、その500円のうち200円はまちづくり会社に納めてください」
「ただし、観光客からお金をとる交渉は、ガイドの皆さんで行ってください」
と言い放ち、ボランティアガイドの皆さんを激怒させて、すごすごと引き下がった。

そんな話を聞くと、
「……気の毒に……」
と同情せざるを得ません。

誰に同情してるのか?
まちづくり会社の現場スタッフに。

役所は、俗にいう「手足を縛って水の中に放り込む」ことを平然とやります。そのために、現場スタッフは上記のような窮余の策を講じざるを得なくなります。

そもそも、観光まちづくり会社が「会社」を名乗るからには、会社経営をしなければなりません。そして、会社経営には「経営の帯」と呼ばれる固定収入が必要です。ところが、役所が絡むと縛りがきつすぎて自由な経営ができないために、いつまでたっても経営の帯が定まりません。

あれもダメ、これもダメ……ダメ出しする役所は気楽なものですが、追い込まれるのは常に現場スタッフ。観光ボランティアを激怒させたのも、そんな提案を出さざるを得ないまでに追い込まれたからでしょう。


気の毒に……でも、「観光まちづくり会社ってなに?」「何やってるのかさっぱりわからない」という声があるのも事実です。



先月のこと、市内全戸に不思議な冊子が配られました。
『イントロ』と名づけられたオールカラー42ページの冊子は「勝山の企業紹介」

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なぜ「不思議な冊子」なのかと申しますと、勝山市民に対して市内企業の宣伝をしたところで意味がないからです。

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「いや、別に紹介されなくても知ってるし……」
「紹介するなら、なぜ、もっと多くの企業を紹介しないの?」
「ここに乗せる/載せないの基準は、だれが決めたの?」
とツッコミどころ満点の冊子でした。

背を見れば、発行は観光まちづくり会社

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そういえば、花月楼のパンフレット(まちづくり会社発行)を何種類も持参して
「こんなものに税金を投入しているのか」
と私に延々と怒りをぶちまけた市民の方もいらっしゃいました。
(とんだとばっちりですw)


現場スタッフは手足を縛られて動かざるをえない。にもかかわらず、活動すれば「何をやってるのかわからない」「見えない」「商売のジャマだ」「ピンハネ屋」「税金の無駄遣い」と揶揄される。

いったい、観光まちづくり会社とは何なのでしょう。

そんな疑問を抱く市民も多いことでしょう。
では、疑問に思った市民は、どこから調べれば良いのでしょう。






観光まちづくり会社の秘密

結論から申し上げましょう。

市民にはわかりません

実際に探した私が申し上げます。無理です。絶対にわかりません。

まず、市民の皆さんが予算を調べようとしても市立図書館には予算書も決算書も置いてありません。信じられない話ですが、図書館職員といっしょに調べてもありませんでした。

ならば、市のホームページを見れば予算書があるはず。
勝山市 平成30年度予算」
と検索してみれば、次の画面が出てくるはずです。

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とにかく市のホームページは使い勝手が悪いので困ります。

興味のある方は、サイト内検索で
「勝山の姿(勝山市統計集)」

「インフルエンザ 補助金
といったキーワードで検索してみてください。
「お探しのページを見つけることができませんでした」のオンパレードです。




めげずに辿り着いた「財政課のページ」

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実は、ここにも「まちづくり会社の秘密」は書かれていません。


なぜならば、「まちづくり会社の秘密」は平成28年4月の臨時議会で定められたものでして、財政課のページからはたどり着けないのです。

ならば、どこにあるのか。

思わぬことに、勝山市議会のページから行くことができました。忘れ去られた感のある議会ページでしたが、それゆえにひっそりと残っていたようです。


それが下記の予算書。平成28年4月臨時議会で可決された「まちづくり会社への出資」の予算です。
勝山市は240万円をまちづくり会社の資本金へ出資しました。

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資本金1000万円のまちづくり会社へ240万円を出資する。この240万という数字こそが「まちづくり会社の秘密」の核心部分です。

どういうことか。

これを説明するには、まずは地方自治法から話を始めましょう。


地方自治法は、第243条の3で次の趣旨のことを定めています。
「市長は、第三セクターの会社の財務状況を毎年議会に報告しなければならない」

具体的には、どのような第三セクターを指すのでしょうか。それは地方自治法施行令第152条に定められています。
地方公共団体が4分の1以上を出資する株式会社」

おわかりですね。
仮に勝山市が250万円を出資してしまうと、資本金1000万円の4分の1に達してしまう。そうなると毎年の財務状況を勝山市議会に報告しなければなりません。出資金240万円の意味は
「観光まちづくり会社の財務状況は、市議会に報告しない」
という意思表示の表れなのです。

市議会に報告する必要がなければ、後はブラックボックス化するだけです。
「確かに、勝山市は観光まちづくり会社に出資しています」
「しかし、観光まちづくり会社は民間企業です」
「民間企業に財務状況を報告する義務はありません。あなた方は税務署ですか?」
との理由を盾に、観光まちづくり会社はその財務状況の公開を拒むことができます。

こうなってしまっては、財務状況を市民が知ることは不可能です。

冒頭で申し上げたように、市民には知るすべがないのです。



一例を挙げましょう。

まだ私が市議会議員であった自分の話です。

花月楼を改装するために県補助金や市の予算を投じて、1億円余りの工事を行うことが決まりました。建物の所有権が観光まちづくり会社へと移っていたため、工事の発注者は観光まちづくり会社でした。

そこで、工事発注を何としても一般競争入札で行うことを主張しました。民間企業が発注するのならば何も言うことはありません。どこの企業に発注しようが自由でしょう。しかし、観光まちづくり会社勝山市が株主です。いわば公金で運営されている第三セクターなのですから透明性が担保されていなければなりません。

「市の発注する工事と同じ基準で一般競争入札を行わなければならない」
予算委員会で主張した私に対して、副市長は明確に答弁しました。
「そのように取り計らいます」

市議会議員を辞め。選挙に身を投じた後に
「おい、松村さん。いつの間にか花月楼の工事が始まっとるぞ」
との声が届きました。
一般競争入札どころか、市内の業者が「え?いつ入札したの?」と驚くタイミングで、秘密裏に入札は行われていました。

「おいおい、どういう経過でやったの?」
「どの業者が札を入れたの?」
「いくらで落札したのよ」
そんな疑問に答える義務は、勝山市にもまちづくり会社にもありません。

なぜなら、市議会に報告する義務がないからです。
報告する義務がなければ、報告する必要がありません(当たり前)。
報告する必要がなければ、報告することもありません(当たり前)。
報告しなければ、突っ込まれることもありません(当たり前)。
突っ込まれることがなければ……後はご想像どおりです。


予算書に記載されていた240万円とは、そういった意味です。
観光まちづくり会社に、今も、そういったきな臭い話がつきまとって離れないのは残念なことです。






赤字前提の会社経営

市民の目に触れないところで、何をやっているのかわからない。そんな観光まちづくり会社の事業ですが、根っこは明らかです。

赤字垂れ流しで行う元本保証の観光事業

なぜ、そう言えるのか。

国土交通省の資料を見てみましょう。これは勝山市国土交通省に日本版DMOを申請した際の資料です。

ここに、観光まちづくり会社の予想収支が掲載されています。詳しくは資料を見ていただければお判りになりますが、特筆すべきは収益予想の杜撰さです。

まずは、支出の部から見ていきましょう。

【支出の部】
平成30年度  1億2538万5千円 (内訳 原価4318万 一般管理費3617万)
平成31年度  1億3867万1千円 (内訳 原価7916万 一般管理費5950万)
平成32年度  1億3951万1千円 (内訳 原価7971万 一般管理費5979万)
平成33年度  1億3976万1千円 (内訳 原価7996万 一般管理費5979万)

さて、これらの支出に対して収入はどうなっているのでしょうか。

平成30年度を見ると

総収入 1億3759万6千円
  【内訳】
    収益事業収入  9059万6千円
             花月楼    256万円
             長尾山  8803万6千円

    公益事業収入  4700万円
             受託業務    4050万円
             観光情報発信   50万円
             ジオツーリズム   600万円
となっています。

ここで見慣れない単語が出てきました。「公益事業収入」の中の「受託業務」とは何でしょうか。

簡単に申すならば、「勝山市が観光まちづくり会社に委託する業務」ということです。
観光パンフレットの発行や、もろもろの業務を観光まちづくり会社へ委託することを当て込んで収支予想は立てられています。

平成30年度だけのことならば、まだ我慢も出来ますが、そうではありません。

受託業務の見込み
 平成30年度 4050万円
 平成31年度 4500万円
 平成32年度 4500万円
 平成33年度 4500万円

今も、そしてこれからも勝山市は赤字を補填し続けなければなりません。


観光まちづくり会社の収支予想から見えてくるのは、
「赤字になったら勝山市が補填してね」
という態度です。

要は、赤字を垂れ流すことを前提に観光事業をする。しかも、その赤字は勝山市が補填するので元本割れを起こすことは無い……という、とてもビジネスとは言えない代物だったのです。



さて……仮に市内の建設業者がこんなことを言い始めたらどう思いますか?
「平成30年度は、市から4050万円の発注が弊社に出る予定です」
「それだけではありません」
「平成33年まで毎年4500万円の発注が確実に市から見込めますので、経営は安泰です」

そんな建設業者がいたならば、お目にかかりたいものです。
ならば、なぜ観光まちづくり会社にだけ許されるのでしょうか。

役所のとある部長は、こう嘯いているそうです。
「公益目的の団体だから発注できる」

それは通らない理屈というもの。

「財務状況を出しなさい」と言われれば「市の出資があるとは言え、観光まちづくり会社は私企業ですので、財務状況を出すわけにはいきません」と断っておきながら、市の事業を発注する段になれば「観光まちづくり会社は、市が出資している公益目的の団体ですので」と独占させる。

そんな身勝手な理屈が通るのは、役所周辺だけです。
だから、市内業者や市民は怒っているのです。




観光まちづくり会社の経営が行き詰まる理由

観光まちづくり会社の経営は、早晩行き詰るだろうと考えています。

赤字垂れ流しを勝山市がケツ拭きする。この図式で出発する限り、行き詰らざるを得ないのですね。

例えば、来年の夏は長雨だったとしましょう。長雨ともなれば例年と比べて観光客の入込は減少します。収入減になれば、赤字が膨らみます。
さて、勝山市がケツ拭きをしようとすれば、新規事業を予算化しなければなりません。ケツ拭きをするにも「ほい、現金」と現金を渡すわけにはいかないのです。あくまでも、新規事業を予算化してその事業を観光まちづくり会社に請け負わせる型式でなければ違法性すら帯びてしまいます。

役所としたら、それは面倒くさい。新規事業ともなれば議会に説明しなければなりませんし、根回しも必要です。第一、懐が豊かでない勝山市の財政でホイホイと新規事業を立ち上げられるわけもありません。

そこで役所は机の上から言うのです。
「赤字を減らせ」

ところが、ビジネスなんて「10撃って1当たればラッキー」の世界です。延々と失敗を重ねながら少しずつ輪郭を表してくるのがビジネス。

だから、「10撃って9失敗しても良い」ように、企業は利潤を内部に留保して万が一に備えます。ところが観光まちづくり会社には「9失敗してもよい」だけの内部留保がありません。赤字前提でケツ拭きを勝山市にさせている限り、「赤字を補填してもらって、ようやくトントン」になるだけで、新たなチャレンジ・リトライを可能にさせるだけの内部留保を積めないのですね。

おわかりでしょうか。

観光まちづくり会社のモデルは、スタートラインからビジネスの根本に反しているのです。


新しい事業にチャレンジしたいと現場が願っても、役所がウンと言わない。顔を見れば「赤字を減らせ」の一辺倒。現場はどんどんやる気をなくしていって、ルーチンワークをこなすだけ。


店を開けば、初年度こそ珍しさゆえに人は来たものの、あっという間に飽きられて閑古鳥。「お前たちの努力が足りないからだ」と上からは責められ、「それなら顧客開拓のために予算をつけてくださいよ」と言っても、雀の涙程度の予算をつけて「後はお前たちの営業努力だ」と放り出される。

完全な負の悪循環です。

冒頭申しあげた「現場スタッフの手足を縛っておいて水の中へ放り込む」とは、この負の悪循環そのものであり、観光まちづくり会社の経営は早晩行き詰るだろうと考える理由です。



民は依らしむべし、知らしむべからず

議員バッジを外して市民目線で見ると、市政は本当に見えずらいものです。とにかくわからない。

この前、有権者巡りをしている中で、半ば冗談でこんなことを言われました。
「松村さん。あなたが市長になったとしても、できることは大野市との合併くらいや」
市政が見えずらいがゆえに、人々は不安に駆られます。

勝山市の財政が厳しい……とは薄々感じてはいます。しかし、どの程度厳しいのかは、市民には皆目見当もつきません。

皆さんはご存知でしょうか。
勝山市にある公共建造物の維持費が、毎年、どの程度の金額であるのか。
勝山市が地代として支払っている金額は、毎年、どの程度なのか。
「観光、観光」と掛け声は勇ましいが、いくらの観光予算を投入して、どの程度のリターンが生じているのか。




12月定例会の市長招集あいさつで、来年度の予算編成ではマイナス5%シーリングで臨む方針が出されました。
マイナス5%シーリングとは、本年度の事業予算の規模から5%削減することを意味します。教育、福祉、土木、消防、民生など様々な予算の規模を5%削減する。

ふむ……ちなみに市長はご存じなのだろうか。北部中学校の理科室が雨漏りしていることを。防水工事をしたくても「予算がない」の1点張りでバケツが置かれていることを。
市営住宅の住民が「壁が壊れて」何とかして欲しいとお願いしても「予算がない」の1点張りで相手にしてくれないことを。

おそらく観光予算は削られないのでしょう。5%シーリングの網の目をくぐって、観光費はつけられ延々と事業予算は継続されるに違いありません。

しかし、勘違いしないでいただきたい。勝山市が観光まちづくり会社のケツ拭きをやっているのではありません。勝山市民が、その税金を使って観光まちづくり会社のケツ拭きを強要されているのです。そして、肝心の市民はケツ拭きを強要されていることすら知らされず、ゆえに市民は気づくこともありません。

そして、いよいよ道の駅の建設が始まろうとしています。

道の駅の建設は、勝山市が行います。国・県の補助金を得て。
そして、観光まちづくり会社が運営をする。これも決まっています。

国や県の補助金を得ることは、良い面と悪い面を持ちます。
良い面は、もちろん市の負担が軽くなること。
悪い面は、目的外使用ができなくなること。
国の補助金をもらってしまった以上、目的外の使用はできません。道の駅としては使えなかったけれど、それじゃ、建物を別の用途で使おうか……とはいかないのです。

すべては観光まちづくり会社にかかっています。
その観光まちづくり会社の財務は、市民の目の届かないところにあります。

「民は依らしむべし、知らしむべからず」

市民が真の実情を知らされるのは、ドン詰まりになってにっちもさっちも行かなくなったときなのでしょう。そして、その時には事態は最悪の状態になっていることは容易に想像がつきます。

その時が来ないことを祈るばかりです。

                         

勝山は昔より暑くなったのか? それとも我々の耐性が低くなったのか?

今年の暑さは殺人的です。熱中症で搬送されたとのニュースが毎日のように流れています。皆様も、くれぐれも体調管理にお気を付けください。


なにしろ、日本の暑さには動物園の象やライオンがバテるくらいです。
アフリカの方も申しています。
(画像はGWの暑さについてですが)

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さて、話は変わります。

市議会議員時代のことです。「学校にクーラーを入れよう」との議案が上程されました。その際に、議論の対象となったのは
「クーラーをつけねばならぬほど、勝山市は暑くなったのか?」
このときは、学校現場から
「今の暑さは昔と違います」
との意見が強く出されたため、「それならば」とクーラー導入に舵を切りました。

確かに、昔と比べると暑さがエゲつない感じがします。

その一方で、こんな意見もあります。
「昔も暑かった」
「そんな熱中症で倒れる奴なんか少なかった」
「今の人たちはクーラーに慣れ過ぎて、暑さに我慢できなくなっただけのことだ」

果たしてどうなのでしょう。

東京や大阪ではヒートアイランド現象が確実視され、35度を超える猛暑日の日数が増えていることが報告されています。
では、勝山市は?


興味があったので調べてみました。

(注1)勝山の観測データーが残っているのは1978年から。大野市は76年から残っているので、同じ奥越ということで大野市のデーターを使用しました。
福井気象台のホームページからデーターを見ることができます。

福井地方気象台ホームページ


(注2)
対象を8月としました。7月は梅雨の出入り具合によって気温などがまちまちだからです。

 

まずは、1976年から2017年までの41年間の「8月の平均気温」の推移を見てみました。

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一目見て、突出しているのは1985年の猛暑と、1993年の冷夏ですね。

93年の冷夏……ああ、あの年ですよ。冷夏で米がとれずにインディカ米を輸入した年。夏の間中、雨が降っていた記憶があります。
後にも先にも寿司屋でインディカ米の握りずしを食べたのは、あの年だけでした。

しかし、このグラフだけでは何とも言えませんね。




最高気温に目を向けてみましょう。

気象庁は「日最高気温平均値」を出しています。1日には最高気温と最低気温がありますが、8月1日の最高気温、2日の最高気温……と出していき、その平均値をとった値です。

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これ見ると、さほどの変化がないなぁ……なんだか、きれいに収束しているように見えるし。

私はどちらかというと、「最近の暑さはエグいですよね」派なので、「やっぱり最高気温上昇してるでしょ?」的なデーターが欲しいのです。正直なところ。






ならば……最高気温は最高気温でも、ズバリ「その年の8月の最高気温」に焦点を当ててみましょう。

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これまた何だかわかったようなわからないようなグラフになってしまいました。
ちょっと、近似値とってみましょうか。そうすれば傾向が見えるかもしれません。

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微妙に上昇しているのですが、おそらく上昇値は0.2度程度でしょう。これでは「昔と比べてエグい暑さ」とは言えません。





困ったなぁ。
何とかデーターで「ほ~ら、最近の暑さはエグいでしょ?」と言いたいんだけれど、なかなか出てこない。





ちょっと切り口を変えてみましょう。

ニュースなどでも、夏日・真夏日猛暑日の呼称が出てきますが、

夏日・・・・・最高気温が25度を超える日
真夏日・・・・最高気温が30度を超える日
猛暑日・・・・最高気温が35度を超える日

と分類されています。これだけエグい暑さの日が続くのですから、真夏日猛暑日の日が増えているはず。

というわけで41年分の「8月1日から31日までの最高気温」を洗い出して、数えてみました。真夏日の日数。


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すごいな。1985年。31日の月のうち30日が真夏日でしたよ。9月1日に小松市で37.8度を記録したそうですが、無茶苦茶な猛暑です。

逆に記録的な冷夏の1993年なんて、月のうち28日が30度以下でした。この年の8月13日なんて最低気温16度、8月にあるまじき寒さです。

これも近似値とってみましょう。

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おっ?傾向として真夏日が昔より1週間ほど増えてる。ほほう、これは「暑さはエグくなった」派には良い報せですね。


この調子、この調子。

これならば、35度を超える猛暑日も増えているに違いない。ちょっとワクワクしてきましたよ。

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あれ?……なんか……ビミョー……(´Д`)…… 

個人的には、こんなグラフが欲しかったんだけど。

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このグラフでは85年の猛暑の凄さが際立つものの、これを使って「最近の暑さはエグい」とは言い切れない。





でも、実際に熱中症で死亡された方はいるわけでして……

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出典:厚生労働省熱中症の死亡者数ー平成25年度までの動向ー」

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121413.html


熱中症でお亡くなりになる方は、やはりというべきか高齢者に多いのが現実です。

今回調べた限りでは「昔よりも暑さがエグくなったか」どうかはわかりませんでしたが、「昔も暑かった」と仰る方は高齢者に多いんですよね。
「情けない、昔も暑かったんじゃ!」
「今の若いもんは、すぐクーラーに逃げたがる。だから、こらえ性がなくなるんじゃ!」
みたいなお小言をくらいます。


高齢者の皆さん、1985年の猛暑を潜り抜けてこられた皆さんですが、今年の夏も暑いことは事実です。我慢は禁物、クーラー効かせて、こまめに水分補給をしてください。

1960年代にクーラーが普及してたら、みな当たり前のようにクーラーつけてますって。



《おまけ》
朝日新聞が、いつものように善人ぶって
「運動部のみんな、熱中症にかかるくらいなら、『もうダメだ』『無理だよ』と声をあげよう。勇気をもって声を出そう」
などと書いてみましたが、
「それじゃ、夏の甲子園中止な」
「応援スタンドで熱中症にならない工夫をしろよ」
と即座に突っ込まれていました。

www.asahi.com



イノベーションが起きる社会をつくる -行政2.0ノート②備忘録も兼ねてー

 ■備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。



情念がイノベーションを起こす

行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちにこそ、私たちは目を注がねばならない。その人たちの抱える問題こそが、解決しなければならないものである。これらの問題を解決することは、行政サービス全体の質をあげることにつながる。

これが「行政2.0ノート①」の要旨だった。

harukado0501.hatenablog.com


議論が錯綜しないように、最初に定義しておきたい。
「問題解決」とは、行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちの問題を解決することとする。他の言葉と混乱しないように、この意味で用いるときには問題解決と太字で表記する。


さて、この問題解決だが、これは紛れもなくイノベーション(革新・新結合)だ。イノベーションとは技術革新だけを指すものではない。新しいアイデアから、新しい価値を創造することを指す。
行政サービスから漏れ落ちる人々に光を当て、彼らを救うために新しい制度・システムを創り出す。その新しい制度は、彼らだけでなく世の中の人々に利益をもたらす。問題解決が目指すところであり、これはイノベーションに他ならない。




では、このイノベーションたる問題解決はどこからスタートするのだろうか。

勝山市民から始まるのだ。

困っている勝山市民を目の当たりにし、
「これではいかん」
「このお婆ちゃんを助けてあげたい」
「友達の子供が学校で困っている。何とかしてあげたい」
と思う人の「情念」からイノベーションは始まる。




皆さんはOXO(オクソー)という会社をご存じだろうか。1990年設立の、アメリカでは有名なキッチン用品メーカーだ。

このOXOの最初の大ヒット商品が縦型ピーラーだ。

 

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

 

 



この製品開発の発端は、創立者ファーバー氏の「情念」にあった。

ファーバー氏が妻と二人で旅行に出かけたときのことだ。タルトを作るためにピーラーでリンゴの皮むきをしていた妻の姿を見て、氏は心を痛めた。細い金属製のピーラーは皮むきに力を使うために、軽い関節炎を患っていた妻が手を痛めてしまったからだ。
「なぜキッチン用品で手を痛めるのだ」
「なぜもっと使いやすいものがないのか」
ファーバー氏の「情念」とは憤りだ。この憤りが、縦型ピーラーを生んだ。持ち手は手になじみやすく、弱い力でもしっかり握ることができる。これまでのピーラーと異なり、縦型なので力の加わる動線が一本線で弱い力でも楽々と皮をむける。

手の弱い妻に使えるデザイン。それは、妻を助けるだけでなく、ユニバーサルデザインとなった。ゆえに、大ヒットを記録した。



問題解決も同様だろう。

多くの勝山市民は心を痛めている。
「なぜ、うちの婆さんは買い物にいけないのだ」
「なぜ、毎年毎年断水騒ぎが起こるのだ」
「なぜ?」
その情念、憤りがなければ問題解決は始まらない。

これと対照的なものが、マーケティングから始める事例だ。マーケティングは対象者を観察することから始める。その観察に加えて、業界の動向やライバル企業の動向、ターゲット消費者の行動様式、市場の需要要件などを加えて分析を進め、その分析を基礎として事業を組み立てていく。

だが、マーケティングは、行政サービスからこぼれ落ちた人を拾わない。マーケティングが拾う数字はマス(大衆)であり、セグメントを構成する多数派だ。

このことは、行政サービスからこぼれ落ちた人たちは少数派であることを意味しない。彼らは少数派ではない。単に光が当たらない存在なのだ。この社会に多数存在しながらも、光が当たらないがゆえに拾い上げてもらえない人々だ。

マーケティングは、彼らの苦しみを拾い上げない。
彼らの苦しみを、怒りを理解できるのは、唯一、彼らに寄り添う人々だ。彼らの悩みを目の当たりにする人である。

だが、憤りを感じる市民だけでは問題は解決できない。
「私たちは、目の前で困っているこの人を救いたい」
「だが、私たちには技術・知見がない」
「ならば、技術・知見を持っている人をチームに加わってもらおう」


市内外の企業がここに登場する。




(補足)
問題を提起する人は、苦悩する市民に寄り添う市民だ。だが、必ずしも「問題を提起する人=問題を解決する人」である必要はない。要は、提起する人と解決する人が「出会う場」をつくることだ。
その「出会う場」については後に詳述したい。


(補足2)
前述したOXO社のファーバー氏は言う。
「世界は悪いデザインだらけだから、やるべきことはたくさんある」
私は思う。
「世の中を悪くしたいと考えている人はいない」
「なのに、世の中はなぜ良くならないのか」
「なぜ、私たちは自分たちの手で世の中を変えられないのか。おかしいではないか」
政治家としての私の「情念」であり、憤りだ。



問題解決は企業のフロンティア


数年前、まだ私が市議会議員だった頃の話だ。

社名を明かすのは仁義に悖るのでA社としておくが、日本人ならば知らぬ者がいない事務機器メーカーである。このA社からお声がけをいただいた。
ちょうど安倍政権が華々しく「地方創生」を強力に推進していた時期だった。地方創生のメニューを作るのに意見を伺いたいとの申し出であったので、A社中部地方エリアの重鎮と会合を持った。

数十人の社員と重役に囲まれた会合の場で「当社はこういった『地方創生プラン』を考えています」と提示されたラインアップは、事前に想像していたものを超えるものだった。
田んぼを潰してニュータウンを造る。中心市街地再開発で大型ビルを建設する……といった大型再開発のプランから、市役所や観光地をプロジェクションマッピングしましょうというイベント型に至るまで、これでもかと見せつけられたものは………「地方の自治体で使えないもの」ばかりだったのだ。

「私のような一介の市議会議員が偉そうなことを申してすみませんが……」
と一応の前置きはした(と思う)。

「残念な話ですが、多くの地方の自治体は御社のプランを導入できません」
「導入できるだけの体力が、われわれにはないのです」

「私たちが求めているのは『こんなものがあったら良いよね』というものではありません。『これがないと生きていけないよね』というものです」

「地方創生とは、再開発ではありません。何度も申し上げますが、われわれは再開発する余力すらないくらいまで追い込まれています」
「現在の問題を解決する。その解決をスモールビジネス化していく。その積み重ねを経ることで少しずつ経済と活力を回復していく。われわれが進むべき坂道です。その坂道を登り切ったとき、初めて、御社の提示されるような再開発プログラムも可能になるでしょう」

「地方の自治体が欲しているのは、この坂道を登る方法です」
「その方法は、『あなた方の抱えている問題を解決しますよ』というソリューションの形で出てくるのでしょう」
「御社が提示すべきは、このソリューションです」
「地方の公共交通を改善するソリューションを提案します。駅前活性化のソリューションを提案します。そういったソリューションにならば、自治体は喜んでお金を出すことでしょう」
「そして、そのソリューションは御社に膨大な利益をもたらすはずです」
「御社のように全国展開をする企業ならば、各都道府県に営業所はあることでしょう。つまり、1700の自治体に営業をかけられるではありませんか」
「どの企業も、未だ、このソリューションの価値に気づいていません。だから、今がチャンスです」

私の目の前にいた重役は怪訝な顔をしていた。一体、この男は何を言っているのだろうという雰囲気がありありと見えた。



もうひとつの事例を挙げよう。

ここでも社名は伏せてB社としておこう。B社はシニアカーのメーカーだ。

シニアカーをご存じないための方に申し上げると、足の悪い高齢者が異動の手段として用いる乗り物だ。

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高齢者は公共交通の不備で自由に外出できない。
「病院までのバスが欲しい」
との高齢者に詳しく話を聞く過程で
「その後で買い物をしたり散策したい」
との欲求があることがわかった。

ならば、シニアカーを使おう……と考えた。中心市街地にシニアカーを10台から20台程度配置し、これをレンタルできるようにしておく。中心市街地までは公共交通で行くとして、そこから先の移動手段に用いてもらおうとの趣旨だ。

だが、この内容ではメーカーは首を縦に振らないだろうと私は思っていた。
メーカーの営業マンが自治体を回るときに、
「我が社のシニアカーを用いて、中心市街地の活性化を図りませんか?」
勝山市の導入事例をご覧ください。シニアカーを使って中心市街地を回る高齢者が、これだけ増えました」
と説明しても、他自治体が
「数が増えるだけではねぇ……」
お茶を濁すことが容易に想像できたからだ。


自治体の首長とは面白い存在だ。市民からすると「他の自治体の先進事例を学べば良いのに」と思うのだが、首長は決してそれはしない。先進事例を目の端に入れているのだが、それを真似することはプライドが許さない。
「〇〇市の市長に話をしに行ったら、『なんかいいアイデアないか?』『でも、他の自治体が使ってる奴は嫌だな』と言われました。」
と苦笑いする営業マンに出会ったことがある。さもありなんとこちらも苦笑した。

先進事例は真似したくない。かといって何もしない訳にはいかない。ならば……と、首長たちはありきたりな事業に飛びつく。あるときは、道の駅といった、ありきたりな箱モノに飛びつき、あるときは、NPOを作らせて中心市街地活性化を図ったり。そうやって、全国にありきたりな事例が積み上げられていく。

要は、首長は自治体のオリジナリティーを出したいのだ。「他所と違って、うちはこんなことをやっていますよ」と主張したいメンタリティーがある。それは当然だろう。
ならば、そのメンタリティーをくすぐるパッケージにすれば、B社は売り込みがしやすいはずだ。

そこで、シニアカーGPS機能をつけてみることを提案した。高齢者がシニアカーを使ってどういった動線を描くのか、何に反応してどのような行動を示すのか。データーを取るためだ。

なんのために?中心市街地活性化の基礎データーとするために。これまで、中心市街地活性化は思い込みでできあがっていた。「高齢者は〇〇といった動きをするだろう」「高齢者はこれに反応するにちがいない」といった予見だけで物事は決められていた。
シニアカーがもたらす客観的データーは中心市街地活性化に根拠を与えるだろう。

そして、そこに商店街の人々を加えよう。商店街の人々は、このデーターを喉から手が出るほど欲しいはずだ。彼らに情報を公開しよう。このデーターを使って商店街の人たちは〇〇や〇〇といったことができる。それだけじゃない。シニアカーを置く場所は人の流れの結節点になるはずだから〇〇といったこともできるんじゃないのか………B社の営業マンと語り合う中でアイデアはどんどん膨らんでいった。

様々なアイデアを加えていき、最終的なパッケージは、まさに「シニアカーを用いた中心市街地活性化」の様相を呈してきた。各自治体は、ツール(道具)としてこのソリューションを導入した後に、独自の使い方ができるだろう。

そんな話し合いを重ねた後、最後の問いをB社営業マンに投げかけた。

「さて、御社からはシニアカーを10台勝山市にいただきたい」
「私たちはこれを用いて、勝山市で新しいサービスを始める」
「もちろん、御社にとって10台を無償提供することは痛い出費になるはずだ」
「だが、ここで得られた知見を御社は1700の自治体に売り込みにいけるだろう。それは、御社にとって大きなビジネスチャンスになるはずだ」

B社の営業マンは考えた後に答えた。
「私の一存で決められません。社長に会ってください」

後日、彼から連絡が届いた。
「社長がぜひお会いしたいと申しております」

その日取りを決めて、まさに事態が動こうとした矢先に、あの下らない政争が起きた。私自身がそこに巻き込まれてしまったがゆえに、この話も止まってしまった。









A社の事例とB社の事例を通して、次のことがわかる。

ひとつは、問題解決がビジネスになることに多くの企業は気づいていない。
A社の事例を見ても明らかだが、多くの企業はこの点に気づいていない。需要はそこに間違いなく存在する。後はその需要に気づいて手段を提供すればよい。市場規模は日本全国の自治体に及ぶ。まさしく問題解決は企業にとってのフロンティアなのだ。


多くの企業が問題解決の可能性に気づいていないがゆえに、問題解決の方法は市民が考えねばならない。これが2点目。問題解決がビジネスになるのだと周知されれば、将来的には企業側からアイデアを持ちこまれるだろう。しかし、現段階では市民が考えねばならない。市民がアイデアを練り、それを企業へ持ち込み、興味ある企業と組んで問題解決を図らねばならない。

だからこそ、アイデアを練る際には衆知を集めなければならない。これが3点目。現状に憤りを感じる市民が独りでアイデアを練り上げるのは困難だ。

憤りを感じた市民が問題を提起する。
「これはおかしいんじゃないか?」
確かにそれはおかしいと感じる市民が集まってくる。職人もいれば事務職もいる。退職した方もいれば主婦もいるだろう。ひとつの憤りの周りに様々な技能と知見が集まる。それらの衆知を集めて、初めて問題解決のソリューションの雛形はできる。




ただし……ここで大きな困難が出現する。行政の壁だ。
どれほど衆知を集めようとも企業と連携しようとも、この行政の壁を超えることはできない。それほどまでにこの壁は厚く高い。


行政の存在価値と行政サービス     -行政2.0ノート:備忘録も兼ねてー

備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。




そもそも、行政とは何のためにあるのだろう


「行政は何のためにあるのだろうか?」

この質問に対する最大公約数的な回答は
「私たちの生活を支えてくれるため」
というものだろう。

ゴミの収集や上下水道といった基本インフラの整備。学校を運営し子供を育成し、長じて医療・福祉など生活を支援する。産業支援などで世の中を活性化する。これらは、私たちの生活を支えてくれるだろう。

しかし、ここで私たちはひとつの疑問にぶち当たる。
「行政は、『私』の生活を豊かにしてくれているのだろうか」
「行政は、『私』の抱えている問題を解決しているだろうか」
行政が「私たち」の生活を支えてくれているのは理解できる。しかし、「私」の抱えている問題を行政は解決してくれない。

「私の抱える問題」とは、次のような人たちが抱える問題だ。

「病院や買い物に行きたいのに、1日にバスは3便しか来ない」と嘆くお婆さん。
「なぜ、学校でうちの子はのけ者にされるんでしょう。うちの子が発達障碍を持っているからでしょうか」と悲嘆にくれるお母さん。

全くの私的な問題は自分で解決するより他にない。嫁と姑の不仲に関する苦情を役所に持って来られても、役所も困る。それはご家庭で解決してくださいと言われるだろう。

ここでいう「私の問題」とは、「私たち」の生活を支えてくれるはずの行政のサービスが、「私」にとって意味をなさない場合を指す。公共交通は人々の生活を支えてくれるはずなのに、1日3便しか来ない地域に住む「私」にとっては、不便でしかない。学校は子供たちを健やかに育成する場所なのに、発達障害を持つ「私の子供」に対して対応してくれない。

これらの嘆きは、議員時代の私のところに寄せられたものの一部だ。

そして、この人たちの特徴は、市役所の担当課や学校へ行っても相手にされなかったことだ。相手にされなかったからこそ、議員であった私のところへ駆け込んだのだ。中には、「どうせ役所は相手にしてくれないだろう」と見切りをつけて私のところへ来られたケースも少なからずあった。

市民の幸福を高めるために存在するはずの市役所、市民の「役」にたつ「所」のはずなのに、なぜ彼らは相手にされないのだろう。

その疑問は「行政サービスとはなにか」を考えてみないとわからない。





行政サービスってなんだろう

「二項分類」という言葉がある。難しいように見えるけれども、話は単純だ。要は「基準にもとづいてアレかコレかに分ける」ことだ。

行政サービスは、この二項分類で行われる。しかもカテゴリーで括ってしまうという方法で。

例えば、人を「仕事を持っているか否か」という基準で「被雇用者」と「失業者」とのカテゴリーに分ける。そして分けた後に、失業者には失業保険を出すとの行政サービスを提供する。これが行政サービスの出し方の典型だ。

行政は人をカテゴリーに分ける。だから、あなたも行政から様々なカテゴリーを与えられている。

例えば、私だったら「自営業」で「行政書士」で「男」で「妻と3人の子供がある」等々のカテゴリーを与えられている。そのカテゴリー分けに従って、様々な行政サービスが付与される。「自営業」だから税務申告の際には青色申告するとか、「自営業」だから国保に加入せよとか、子供がいるから児童手当が支給されるとか……様々な行政サービスが該当することになる。

しかし、カテゴリーに括られない人たちはどうなるのだろう。

例えば、「被雇用者」というカテゴリーは賃金を支給される労働者のことだ。これまでだったら、雇用されている限り賃金は保証されていたし、失業したら失業保険が出るという対応でなんとかしのげた。
しかし、低賃金の不安定労働者はどういった対応をすれば良いのだろう。雇用は不安定で低賃金だし、社会保険もない。労働条件は最低で、短期雇用を繰り返す綱渡り。

彼への対応方法は二通りある。

ひとつは「それは自分の問題だから、自分で何とかしなさいよ」と切り捨てる方法だ。困った時には親や家族が面倒見なさいよ……という返し方もあるだろう。しかし、それはあまりにも酷すぎる。

そこで、行政は違う方法を採用する。

カテゴリーを増やすのだ。

「被雇用者カテゴリー」の中に「低賃金・短期雇用のカテゴリー」を作ろう。非正規雇用もこのカテゴリーの中に入れてしまおう。非正規雇用も厚生年金に入れるような制度をつくろう……と考えるのだ。

すると困ったことが起きてくる。
「主婦のパートも非正規雇用には多い。この人たちも厚生年金に入れるのか?」
「いやいや、それはおかしな話になるから、男性非正規雇用に限定しよう。」
「ちょっとまってくれ。主婦のパートを外すことには成功したが、未婚女性の非正規雇用はどうなる?その人も入れるのか?」
「それじゃ、その人たちも含めるとしよう」
「でも、その人たちも結婚して主婦になるのだぞ?」
「え~っと、それじゃ……」
事態は際限なく複雑化していく。

この典型例は税制だ。
税制の複雑怪奇なことたるや凄まじい。あの複雑で納税者の目をくらませようと目論んでいるのではないか?……と勘ぐってしまうほどだ。

複雑化していくことも確かに問題だ。だが、最も深刻な問題は、どれほどカテゴリーを増やして細分化したところでカテゴリーから漏れる人が必ずいること。ここが行政サービスの致命的な欠陥だと私は考えている。


ある意味、行政とは「行政サービスの許認可権を持つ場所」だとも言えるだろう。カテゴリーの中に入る人々にのみ行政サービスを提供し、そこから漏れた人々には提供しない。

それじゃ、提供するかしないかの基準は誰が決めるのですか?と問われれば「法が定めます」となる。その法は「国民の代表者である政治家が決めます」となり、論理としては破綻していない。国民に対してのサービスの内容は国民が選んだ代表者が決めるのだ……と教科書通りの説明をされれば、ケチのつけようがない。

だが、教科書に載っている説明をされても私たちは納得できない。

「なるほど、説明はわかった」
「ならばカテゴリーから漏れた人々はどうなるのか」
「彼らを切り捨てて私たちは前へ進むのか」
この問いに答えていないからだ。

当の市役所職員にも、ここで悩む人は少なからずいる。しかし、彼らは規則に従って動く他に道はない。情や場の空気で基準を曲げ放題になってしまっては役所は崩壊してしまうからだ。

無論、見て見ぬふりをする職員もいる。これは事実だ。同時に、心を痛めている職員もいるのだ。これも事実だ。ただし、役所の職員は助けたくとも助けられない。
それが現状だ。

何かがおかしい。




1匹の羊を救うことは99匹の羊を救うことにつながる

カテゴリーから漏れた人々は、何が辛いのだろうか。

「役所に相談に行ったが、どうにもならないと言われた」
「門前払いを喰らった」
と私のところへ来られた方々は何に憤りを感じているのだろう。何人もの方々からお話を伺う中で、痛いほどその理由をわかった。

彼らは尊厳を傷つけられたことに我慢がならないのだ。

彼らは役所の対応に怒っているのではない。「お前は根無し草だ」「社会の中でお前の居場所になるカテゴリーはないのだ」と言わんばかりの、行政サービスそのものに憤っているのだ。その怒りを役所の職員にぶつけているに過ぎない。

彼らを放置してはならない。

カテゴリーから漏れた人々、役所の職員が密かに心を痛めながらも対応できない人々、彼らこそが、私たちの解決しなければならない課題である。

「問題解決が必要だ」
「問題解決こそ私たちの進む道だ」
と猫も杓子も問題解決の重要性を唱える。

ならば、問題解決の「問題」とはなんだろう。

「問題」とは彼らの抱える問題に他ならない。

1日3便しか来ないバスを待つお婆ちゃん、わからない授業を黙って1日中聞かねばならない中学生、老々介護に疲れ切った息子、そういった様々な人たちが背骨が軋みそうな重みに日々耐えながら、それでも声に出せずにいる課題。
それこそが、私たちの解決しなければならない問題だ。

こういう話をすると、
「その人たちを救うことで、他の人たちの利益を損ねるのではないか」
との反論を耳にすることがある。

それは違う。

ひとつの事例を挙げよう。私自身が携わった事例だ。

「1日3便しかバスが来ない」との嘆きを受けた私は、ひとつのことを考えた。
「バスの路線を変えて、このお婆さんの住む地区を通すようにしようか」
しかしこの方法は、すぐに頭から消え去った。バスの路線を変更すれば、変更された地区にバスが通らなくなる。それではバスの便がないと嘆くお年寄りを別な地区で発生させるだけだ。

「ならば、公共交通そのものを変えるより他にない」
探しに探しまくった果てに、東京大学に目を着けた。タクシー代わりに使えて市内のどこへでも運んでくれる公共交通システムの新たな運用方法を開発したからだ。東京大学の開発者と掛け合い、勝山へ来てもらい、市内での運用試算をしてもらうと同時に協議会を立ち上げた。その協議会は後に市の協議会へと正式にスライドした。

ここで問題が立ち上がった。勝山の地形を考えると運行コストが膨大になるとの結論が出たのだ。協議会自体が尻込みをする中で、私は更なる道を模索した。
「人を運ぶのは公共交通だが、公共交通で物も同時に運んだらどうなるだろう」
市内を自由に動く公共交通、ドア・トゥ・ドアで動く公共交通ならば、同時に物も運べば良いのではないのか。
そこで、私は宅急便最大手のヤマトに声をかけ、エリアの重役と話をした。宅配便業界はこれから必ず業態問題が首を絞めることになる。なぜなら、宅配便の利益率はおおよそ4%。人件費があまりにもかかりすぎるからだ(実際に昨今の宅配便業界のニュースを見れば予想通りになったといえる)。ならば、公共交通でその荷物を私たちが運ぼう。あなたがたは勝山まで運んでくれればいい。ただし、荷物を運ぶ手間賃を私たちはいただき、公共交通運営の糧にしたい。市内の高齢者も喜ぶ、運営する勝山市も助かる、そしてあなた方自身の利幅もあがる。win-winの関係ではないか……と。

法令上の問題や、当の勝山市が尻込みしてしまったために、この話はここで止まってしまった。くだらない政争の具にされたことも痛かったが、実はこの話は死んではいない。いずれかの段階で必ずや顔を出してくるとだけ申し上げておく。

上記の話からもおわかりのように、カテゴリーから漏れた人々の課題を解決しようとすれば、もはやカテゴリーそのものを壊すより他にない。それは制度そのものをリニューアルすることだ。そして、リニューアルされた制度は、皆が等しく利益を受ける。

「カテゴリーからこぼれた人のためにカテゴリーを細分化して、新しいカテゴリーをつくろう」との、これまでの行政のやり方は、パイを増やすことなく、パイの奪い合いをするだけだ。パイを大きくすることを考えずに、新しいカテゴリーをつくれば、これまで食べてきたパイが小さくなることを不安視し、反対する人は必ず出てくる。
他の人の利益を回すのではなく、受益者が等しく利便性を上げるシステム。それでなければ、真の問題解決とはいえない。


考えてみていただきたい。
勉強についていけずに1日中机に座っているだけの生徒が、「ぼくもやればできるんだね」と目を輝かせるような学校が、他の生徒の利益を損ねるだろうか。
老々介護で悩む長男が、「なんとか私でもやっていけそうです」と答える介護環境は、他の人たちの邪魔になるだろうか。

1匹の羊を救おうとする行為は、必ずや残りの99匹に利益をもたらす。




問題を解決するのは誰なのだろう

ここで、もう一度冒頭の問いに戻ろう。
「行政は何のためにあるのだろう」

この問いに対して
「私たちの生活を支えるため」
と答えることは正しい。私もそう思う。

それならば、なぜ問題は解決されないのだろうか。

もう一度、これまでの話を振り返ってみよう。

行政は人々をカテゴリーに分ける。そして、そのカテゴリーに当てはまらない人々には満足な行政サービスが受けられない。お腹が痛いと泣いている子供に必要なものは胃薬であって、絆創膏ではない。必要としている人に必要なサービスが行き届いていないからこそ問題が発生する。

そして、カテゴリーから漏れた人々の抱える「問題」こそが解決すべき課題だ。

ここまで話は進んだのだけれど、肝心な部分が抜け落ちている。

それは、行政が解決できない問題を行政に解決させようとすること、それ自体が無理なのではないか?といった根本の疑問だ。

率直に言って、私は無理だと思っている。

行政が解決できる範囲は、カテゴリーに含まれる人のみだ。カテゴリーから漏れた人を助けること自体、行政にできるものではない。

要は私たちの生活の問題のすべてを、行政に解決してもらおうとすること。それ自体が、間違いなのだ。

純私的な問題は個人で解決するとして、そうではない問題のすべてを行政に解決してもらおうとすると、カテゴリーから漏れてしまう人々が出てくる。漏れた人々は、行政が助けられる範囲ではないはずの人たちだ。その人たちをも「行政に救え」と叫んでみても虚しいだけだ。

私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない。

ただし、ここは注意が必要だろう。「抱える問題」をしっかりと定義しておかないと、混乱をきたすからだ。

私たちの生活の課題を3つに分けよう。

①純私的な課題
②行政サービスのカテゴリーに含まれる課題
③行政サービスのカテゴリーから漏れ落ちた課題

①は嫁姑の確執のようなものだ。全くの私事は、自分で解決していただくより他にない。②は、従来の行政サービスを考えてもらえればいいだろう。上下水道の整備や教育福祉などがこれに当たる。「私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない」と言っても、道路を自分たちでつけろという意味ではない。
③こそが、私たちの抱える問題であり、私たちが解決すべき問題だ。


では、この③の問題を誰が解決するのだろう。

バスの不便さをかこつ高齢者が自分自身で解決すべきなのか
買い物難民は自分たちで解決すべきなのか
学校で困っている発達障碍児は自分で解決すべきなのか

それは違う。

もちろん、自分で解決できればそれが最善だ。しかし、自分で解決できないからこそ問題になっているのだ。自分でできないからこそ、他の人を頼るより他にない。

だが、世の中はそういうものではなかろうか。

食卓にならぶ食事の材料をすべて自分で作っている人はいない。通勤に使う自家用車を自分で組み立てる人もいない。私たちは自分でできないことばかりだ。でも、世の中はそれでうまく回っている。お互いに必要なものを供給しあって。別段そこには「誰かを助けるために」との想いはない。しかし、結果としてお互いがお互いを助け合っている。

だったら、問題を抱える人は問題を解決できる人を頼ればいい。

通常、問題を解決する人たちを「社会起業家」と呼ぶ。社会が抱える諸問題を解決することを生業とする人たちのことだ。

そこで私たちはハタと困る。
「その社会起業家はどこにいるのだ?」

私たちの周りにいるのは、
 ・行政サービスをする行政マン
 ・ボランティア活動をする人々
 ・地区(町内会)で地区の活動をする人々
であって、社会起業家も問題解決のプロもいない。

いないからといって諦めるわけにはいかない。なぜなら、問題は現に存在しているからだ。

なぜいないのか。
なぜ育たないのか。
どうすれば社会起業家は出現してくれるのか。

それこそが行政2.0の真骨頂だ。


付 言

どうすれば社会起業家は出現するのか。これは行政2.0の真骨頂だが、その内容は追々説明するとして、この「方法」は勝山市でしか通用しないと思っている。

行政2.0の「思想」そのものは普遍的なものだ。だって、「地方自治の本旨」なるものを突き詰めていけば、そうならざるを得ないから。だから、どの自治体にも適用することはできるだろう。

でも、その「方法」となると勝山市でしか通用しない。

なぜ?と言われれば単純な話で「勝山が小さいから」

勝山は人口2万5千人の小さな市だ。しかも、全国の自治体が抱えているような問題を全て抱え込んでいる。進む過疎化と増える高齢者、地元を後にする若者たち。増える耕作放棄地、寂れる中心市街地。抱えていないのは海くらいのもので、日本全国の自治体の頭痛の種をすべて背負いこんでいるといってもいい。

それらをすべて逆手に取ってやろう……というのが、勝山で行おうとする行政2.0の「手法」だ。

大きな自治体には決してできない。なぜなら、大きすぎて小回りがきかないからだ。他の自治体を例にとって恐縮だが、例えば福井市も様々な問題を抱えている。しかし、福井市は行政2.0の手法を試すには大きすぎる。
福井市内の社地区だけで約3万人弱の人口がある。これだけで勝山市の規模を超えている。社地区の抱える問題は「新興住宅地の問題」であって、これを解決しようとすれば、そこに特化した施策を打たねばならない。ところが同じ福井市内の美山地区では高齢化・過疎化の問題があり、これはこれで別な対策を打たねばならない。このように規模の大きな自治体は問題解決をしようにも、問題の種類とエリアが大きすぎて対応できないのだ。

弱い奴がいつまでも負ける、大きい奴はいつも勝つ……というのでは面白くない。小さい奴にだって勝つチャンスはあるはずだ。小さい奴が大きい奴と同じことをやったところで、負けるに決まってる。

ならば、小さい奴は小ささを武器にして闘えばいい。

中学校部活動についての私案 (1)目標とする部活動の姿と現状の課題 

本稿の目的

本稿は、中学生の部活動に関する私案である。

「生徒数が減ったから部活ができない」のではなく、「生徒数が減った今だからこそ、もう一度原点に戻って部活動のあり方を考えよう」との趣旨で作成した。「生徒が減ったから部活ができないので、学校を再編する」との意見への反論の意味も含まれている。

無論、これから述べる内容は私案に過ぎず、もっと優れた案が必ず存在するはずである。
皆様からの忌憚の無いご意見を頂戴したい。



目標とする部活動の姿

私は次のような部活動の姿を目指したい。

《中学生になると部活動が始まる。部活動に参加するかしないかは個々の生徒が自主的に判断する。生徒が参加したいのであれば参加する。部活動に興味がないのであれば参加しない。

ただし、参加するメリットはある。

ひとつは、生涯スポーツの観点からスポーツに親しむ経験を持つことができる点だ。したがって、複数の部活動を掛け持ちすることも可能である。

加えて、部活動に参加することで問題解決能力が高まる点もメリットとして見逃せない。
チームの課題をどのように解決するのか。これまでならば教員の指示に従うだけだったが、生徒たちはチーム内で話し合うようになった。自分たちのチームに何が足りないのか、具体的にどのような方法でそれを克服していくのか。皆が考え、語り合う。チームプレーを通して、集団での問題解決の手法を学ぶのだ。

それは生徒個々の練習にも表れている。その種目を行う上で自分に何が足りないのか、どのような能力を高めれば良いのか、生徒は個人個人が指導者と相談し考えて練習メニューを組む。したがって、嫌々練習をさせられてると感じる生徒はいない。定期的に行われる体力測定により、自分たちの能力の向上は目に見える形で数値化される。

自分に何が足りないのか、それを克服するためにどのようなメニューを組めば良いのか。部活動で訓練を積んだ生徒たちは、その手法を学業へ応用し始めた。
「先生、僕は数学の〇〇が苦手なんですけど、どういうことをやればいいですか」
「先生、私は歴史が好きじゃないんです。人物に興味を持てないんですけれど、具体的に何をしていいのかわかりません。相談に乗ってください」
といった問いかけが生徒から教師へ増えていった。受けた問いかけの重要性に気づいた教員たちは、内気で声がけできない生徒に対して積極的に問いかけるようになった。
「何か困っていることない?」
「前回の試験で〇〇ができてなかったけれど、具体的にどうすればいいのか、一緒に考えてみようよ」

「自学帳を1ページ埋めること」といった宿題は鳴りを潜めた。そして遂に宿題そのものが減るようになった。必要性がなくなったからだ。
生徒たちは部活動を通して、「自己で目標を定めてそれを達成する喜び」を知った。自分で学ぼうとする彼らに「全員で校庭5周」にも似た一斉宿題は意味がないのだ。
結果として、部活動の指導を離れた教員たちは、より深く子供たちに接するようになった》


……以上が、私が考える「目標とする部活動の姿」である。

部活動問題を考える際に、私たちはややもすると制度設計から話を始めてしまう。重要なことは、「今の部活動体制をどうするのか?」ではなく「部活動を通して子供たちに何を学んでほしいか」であるべきだ。その延長線上に「ならば、どのような制度設計をすべきか」との議論が来る。

私は部活動を通して、子供たちに
 ①スポーツに親しむ習慣
 ②問題解決の手法とそれを駆使する能力
を得て欲しい。それら能力は、特に部活動を通して得ることが期待されるものであり、部活動で得られた問題解決手法は学業に好影響を与えるのみならず、学校を卒業しても生きる力として不可欠なものだと考えるからだ。


このような部活動の姿を実現するためには、現在の課題を解決していく必要がある。
では、どのような課題が存在するのか。次にそれら課題を見ていきたい。

 

 


解決すべき課題

①部活動の位置づけ

(a)そもそも「本校中学生は全員部活参加」は、妥当なのか?
市内中学校では、「中学生になったら部活は全員参加すること」とされる傾向がある。しかし、学習指導要領上、部活動は生徒の自主的・自発的な参加により行われるものとされている。
 ⇒【課題】そもそも部活動に全員参加する根拠と意義はあるのか


(b)部活動は学校教育の中でどのように位置づけられているか?
部活動は学校教育の一環として行われてはいるものの、教育課程には含まれない。とはいえ、学校教育の一環として行われる以上、教育目的に沿ったものでなければならない。
部活動を通して、生徒に何を学び何を伸ばして欲しいのか。それを明確にすべきである。
 ⇒【課題】何のために学校で部活動をするのか。その意義づけ。

(参考)
「学習指導要領 総則
   第4指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」

(13)生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。




②教員が部活動を見ることについて

(a)部活動を担当することは教員多忙化につながるのか?
本県中学校教諭にとったアンケートにおいて、「忙しく感じることや負担に感じること」の1位が部活動・クラブ活動であった。
 (資料出典)
   福井県教員意識調査の結果http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kyousei/02kaigi_d/fil/067.pdf

確かに、教員が部活動を担当することにより生徒の個性を把握しコミュニケーションを密にすることも可能である。ただし、本来的に教員は教育課程を充実させることを本分とする。教材研究など授業充実に割く時間を部活動に充てることは本末転倒であろう。



(b)専門外の部活を担当することの是非
教諭自身が経験のない種目を担当することは、教諭の負担を増やすのみならず、生徒にとっても十分な指導を受けられない恐れがある。
 ⇒【課題】外部指導員の導入の是非

 

 

 




③外部指導員を導入することについて

(a)外部指導員の法的地位
外部指導員を導入する場合、彼らの法的地位を確立しておく必要がある。民間人として勝山市から委託を受ける形にするのか。もしくは、嘱託職員として雇用するのか。
 ⇒【課題】外部指導員の法的地位


(b)外部指導員は有償かボランティアか
(a)の問題と密接に関係するのか、この問題である。果たして外部指導員は有償にするのか、ボランティアでするのか。
 ⇒【課題】外部指導員を有償とするか、ボランティアとするか



(b)外部指導員が行う指導の適正担保
外部指導員がどのような指導をするのか。この点には2つの視点が必要となる。
ひとつは、種目実技に精通しているか否かという点である。これは部活動の指導をする上で欠かすことのできない技能となる。
もうひとつは、教育活動の一環としての部活動の特性を理解した指導ができるか否かという点である。部活動が教育活動の重要な一環を担う以上、単に種目実技の技能を教えれば足りるというものではない。「部活動をとおして子供たちは何を学ぶのか」といった部活動の目的を理解した指導が求められる。
これら2つの視点は、外部指導員の採用時に求められるばかりではない。通常の部活動において確実に履行されているかといったチェックをどのように図るのか、それら技能を向上させるための講習会等がバックアップ体制が敷かれているかといった外部指導者への支援体制も必要となる。
加えて、仮に外部指導員の指導に行き過ぎがあった場合、どのような対応を図るのかといった問題にまで検討が及ばねばならない。
 ⇒【課題】外部指導員の指導内容・技能をどのように担保するか



(c)文科系部活動に外部指導員を入れることの是非
文科系部活動に外部指導員を入れることは、運動系部活動に外部指導員を入れることと分けて考える必要がある。
例えば、吹奏楽部の指導者に求められることは音楽教育の技能であり、それを最も備えているのは音楽教師であることを考えるならば、外部指導員を招聘する必要性自体が乏しい。


                  《続く》



中学校再編の議論は本質を欠いている

 

1匹と99匹と

政治の限界はどこにあるのか。
政治で救われない人々はどこに救いを求めれば良いのか。

英文学者であった福田恆存は、評論「1匹と99匹と」の中で、この問いについて語りました。

「1匹と99匹」とは、新約聖書ルカによる福音書)の中に現れる話です。
《あなたが100匹の羊を持っていたとしよう。そのうちの1匹を見失ってしまったならば、残りの99匹を野原に置いたままでも探しにいくのではないか。そして見つけ出したならば、友達や近所の人に「見失った羊を見つけた。喜んでくれ」と言うだろう》
ここから「迷える子羊」との言葉が出ました。たった1匹の迷える子羊のために全力を尽くさねばならないとの趣旨です。

政治は100匹の羊のすべてを救うことはできない。だからこそ、善き政治とは己の限界を意識して、見失った1匹の羊の救済を文学に期待するのだ。福田恆存はそう言います。

「1匹のはぐれ者が出ることを認めろ」と福田恆存は主張しているのではありません。100匹の羊を救うことはできないかもしれない。例えそうであったとしても、社会的に定式化されたロジックによって見失われてしまう「最後の一匹」のことを常に気に留めているのか? 99匹の論理では常に正しいとされる人生経路、そこから外れてしまった一人ひとりを見つめているのか?福田恆存は、そう問うているのです。

政治がそうであるように、教育もまた同じではないでしょうか。

教育の限界はどこにあるのでしょうか。
学校教育で救われなかった子供たちはどこに救いを求めれば良いのでしょうか。




中学校再編問題は不毛である

今月24日に、勝山市教育委員会は市内の3中学校の再編に向けた検討委員会を設置しました。来年2月に検討委員会からの答申を受け、来年度中に方針を決定するとのことです。

中学校再編問題を考える上で見落としてならない点は、中学校再編には正解が存在しないという特性です。

中学校再編には正解などありません。
したがって、学校の規模をテーマにする限り、議論は平行線をたどります。
大規模校には大規模校の長所・短所があり、小規模校には小規模校の長所・短所がある以上、再編推進派は「大規模校の長所と小規模校の短所」を、再編反対派は「大規模校の短所と小規模校の長所」を延々と主張するだけです。

その不毛な堂々巡りに加えて、「母校をなくすな」といった感情論が渦巻き、話し合いは錯綜します。行きつく先は、勝山市が提案する再編の素案に賛成するのか反対するのかといった、これまた不毛な二者択一が残されるのみ。どこまで行っても、この議論は不毛なのです。



1匹を救えているのか?

学校再編問題は「100匹の羊をどのように囲い込むか」の問題に過ぎません。100匹の羊を3つの柵で囲むのか、1つの柵に入れてしまうのか。それだけの話です。
羊をどのように囲っても、必ず見失ってしまう羊が出てきます。その羊を私たちは見つけることができるのか?私たちがすべき議論はそこなのです。

現在の3校体制で起きている諸問題は、本当に再編によって解決できるのですか?

市内の事例をあげましょう。すべて実話です。

A君は発達障碍(聴覚過敏)で、すべての音を拾ってしまいます。「補聴器をつけると、すべての音を補聴器が拡大するので頭が痛くて困る」とこぼす高齢者がいますが、まったく同じです。黒板の前でしゃべる先生の声も、同級生の話声も同じレベルで拾ってしまう。頭が痛くて仕方がない……しかし、彼に差し伸べる手はありませんでした。
「落ち着きがない」「集中力に欠ける」と先生から言われ続け、彼はやる気も無くし学力も伸びないまま中学校を卒業しました。

B君は勉強が苦手です。小学校の頃は、まだ何とかついていけましたが、それでも宿題をするのに両親の助けをかりて何時間もかかる状態でした。中学生になり授業についていけず、ただ黙って座っている時間に耐えかねて夏休み明けに学校に行けなくなりました。

C先生は退職された中学校の校長先生でした。既に他界されています。
「松村さん。私が校長していた時分は、成績の悪い生徒を『お客さん』と呼んでたんだよ。毎日学校へ来てくれて、悪ささえしてくれなければそれでいいんだ。お客さんなんだから。黙って座って授業を受けて、給食を食べて、部活動して帰ってくれればそれでいい。ひどいと思うかい?私だってひどいと思うよ。でも、他にどうすればいいんだい?先生は授業だ部活だPTAだと忙しいんだよ。先生たちに何ができるっていうの?」



勉強ができればそれでいい……などと安直な意見に与するつもりはありません。しかし、小学生や中学生の段階で「僕はできないんだ」「私には無理なんだ」と諦めて自分自身を慰めねばならない子供がいる。その現実とどう向き合うのか。



私が学校を再編するのであれば、お願いしたい条件はただひとつだけです。
「1匹の羊を見つけ出して欲しい」

40分の授業を40分で理解できる子は99匹の羊です。40分の授業を60分かけて理解する子や80分かけて理解する子がいます。その1匹の羊に「それじゃ、一緒にこの問題解いてみようよ」「心配しなくても大丈夫、分かるまでつきあってあげるから」と言って欲しい。
なぜ、あの子は授業中に耳をふさぐのだろう。耳をふさぐからには、なにか理由があるはずだ。「なぜ君は耳をふさぐの?」と聞く人がいれば、A君は聴覚過敏が見つかったかもしれません。その言葉が欲しかった。



私は、先生たちを信頼します。
先生たちは子供の健やかな成長を願っています。「できたよ、先生!」とにこやかに笑う子供の笑顔を見たいはずです。

ならば、その先生たちが子供と向き合えない状態、子供を「お客さん」と呼ばねばならない状態を作り上げている要因は何か。それを見極めて、取り除くことこそが喫緊の最重要課題です。


学校の再編よりも、やらねばならないことは山積しています。
それを取り除いた後で、ゆっくりと再編の議論を進めれば良い。
もっとも、その段階にまで教育の質を高めれば、再編する意義も薄れることでしょう。

市民は行政情報をどこまで知りうるのか   -行政2.0ノートー

はじめに

「行政が何をやっているのか。わからない」との疑問を、多くの人々が持ちます。

 例えば、全国ニュースにまでなった勝山市の給水・断水騒動。
 本年1月29日(月)から始まった断水・給水制限は、2月26日(月)に解除されるまで続きました。1か月以上にわたる給水制限の原因はどこにあるのでしょう。
 今年は56豪雪以来の大雪でした。この大雪への対策として家庭で融雪・消雪に上水道を用いたことが給水制限を引き起こしたとの見方があります。しかし、雪の少なかった昨年も給水制限は行われたのであり、2年連続で給水制限が行われたことを大雪では説明できません。
 なぜ、断水・給水制限が起きているのか。市民には理由は知らされないままです。

 池田中学の男子生徒が校舎から飛び降り、自ら命を絶ってから1年。昨年10月に公表された調査報告書には、担任や副担任の厳しい叱責が生々しく記載されていました。なぜ、学校内の指導内容が保護者に伝わっていなかったのでしょう。

 国でも同様の状況が生じています。
 現在、国会を大騒動に陥れている森友学園の文書改竄問題では、決裁文書を書き換えるという、およそ行政執行にあるまじき行為の真偽が取りざたされています。

なぜ、行政は情報を出さないのでしょうか。
情報を出さないことは、どのような弊害を生むのでしょうか。
仮に情報を出すとするならば、どこまで出せば良いのでしょうか。



行政が情報を出さない理由

行政が情報を出さない理由。
それは、情報を独占することが力の源だからです。

 ここに二人の人間がいます。ひとりはある事柄についての情報を熟知していますが、もうひとりは情報を全く持っていません。このように圧倒的な情報格差がある場合を情報の非対称性と呼びます。
 そして、ここが重要な点ですが、明らかに情報の非対称性があるとき、情報を持たない人は情報を持つ人に対して従わざるを得なくなります。
 なぜ、私たちは医者に従うのでしょうか。私たちは医学情報に無知であり、医者は医学情報を持っているからです。ここには、明らかな情報の非対称性が見受けられます。弁護士もそうです。私たちは、情報の非対称性があるときに、相手に従わざるを得ません。
 しかし、医者や弁護士が持つ情報の格差は許されるべきです。なぜなら、私たち一般人との知識格差があるがゆえに、彼らはプロフェッショナルとして市場価値を持つのですから。
 ならば、行政が市民との間に情報格差を設けることは許されるのでしょうか。

私は許されるべきではないと考えます。

その理由は3点あります。

 第1に、行政が扱う分野は市民サービスです。市民にどれだけのサービスを提供するのか、ここで行政スタッフはプロフェッショナルとしての技能を有する以上、そもそも情報を出し惜しみする理由が存在しません。

第2に、「協働した問題解決」に逆行するからです。本当に行政が市民と協働して地域の問題解決を図ろうとするならば、情報格差を設けることは市民の問題解決参画を拒むものです。

 第3に、情報を出さないとする文化は、内向きの発想を生み、次第に「情報を隠す文化」へと進むからです。これが由々しき問題を生みます。



行政は情報を隠すうちに、市政の課題も見えなくしてしまう

 情報を出さないことと、情報を隠すことは全くの別物です。
 情報を出さないことは、本来、出す必要性のない情報を対象としています。あなたの年収の額がいくらであるか。そのような情報を公開する必要はありません。
 これに対して、情報を隠すこととは、出す必要性のあるのに出さないことです。あなたが年収を正確に税務申告しない場合、罪に問われることでしょう。なぜなら、税務署に対して年収情報を出すべきにもかかわらず、あなたは出さなかったからです。

行政は情報を出しません。前述したように情報の非対称性を生むことこそが、行政の力の源だからです。そして、情報を貯め込み続けていくうちに、「情報を出さない文化」は容易に「情報を隠す文化」へと姿を変えます。

なぜ、情報を隠すのでしょうか。

一言で申せば楽だからです。
仮に誤った場合でも、情報を隠しておけば叱責されることもありませんから。


しかし、情報を隠すうちに、行政は大きなものまで市民の目から遠ざけてしまいます。

市民の目から遠ざけられているもの。それは、市政が解決すべき課題・問題です。

今冬の断水・給水制限などは、典型的な事例でしょう。

私は、老朽化に伴う水道管の破裂が原因だと考えています。市議会議員時代から私も水道管交換を主張し、一部の議員の間でもこの問題は深刻な結果を産むと予想されていましたが、手つかずの状態で放置されたままです。
 しかし、行政から正確な情報は市民に流れてきません。水道管の老朽化はどの程度進んでいるのか。改修工事の予定はどうなっているのか。その財源は手当できるのか。そういった問題や課題が明らかにされないまま、事態は隠されたまま静かに進行していきます。
 そして、抜き差しならない状態になったときに多くの勝山市民が気づきます。

上水道の漏水が原因であるならば、老朽化した水道管は順次交換していかねばなりません。でなければ、漏れた水は道路下の土壌を流し続け、道路が陥没し始めます。

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この段階まで来て、人々は「市政の課題・問題点」の深刻さに気づきます。しかし、気づいた時には既に手の施しようがないところまで事態は進行しています。




情報を出さないことは、市政の課題を見せない文化を作り上げ、結果として市政に重大な影響を及ぼします。

情報は公開すべきです。

ならば、どこまで公開すべきなのでしょうか。



どこまでの情報を公開するのか

私が構想している行政の新しい姿「行政2.0」では、情報の公開・共有を重要な点と位置づけています。

では、情報はどこまで公開するのか。

2点を公開すべきと考えます。
①政策決定権者が、政策決定の材料とする資料のすべて
②政策決定に至るまでの過程


政策決定権者とは、通常、市長です。つまり、勝山市長がAという政策を決断する材料のすべてに勝山市民はアクセスできなければなりません。加えて、政策決定に至ったプロセスについても同様です。



なぜ、全ての情報を公開すべきなのか

なぜ、すべての情報を公開すべきなのでしょうか。
理由は3点あります。

まず、行政2.0の主たるテーマである「現場第一主義」が挙げられます。

市政の課題や問題は、常に現場でしか起きません。教育や福祉、産業育成、公共交通、中心市街地活性化といった市政の課題や問題は、常に現場で発生します。そして、問題が現場で発生する以上、その解決方法も現場で探らねばならないのです。

行政2.0での「現場第一主義」では、トップダウンはおよそあり得ません。確かに、制度そのものを変えねばならない事態は発生するでしょうが、それも現場の声を受けてのことです。
 その現場で問題解決を図ろうとする人々は、市民と行政スタッフであり、彼らに全ての情報が開示されていなければ、そもそも決断ができません。


第二に、情報を全て開示しなければ市民は行政に対して信頼感を抱きません。

市民協働、現場第一主義……そのような奇麗ごとを並べたところで、肝心の情報すら完全に開示しない相手に、人は信頼感を抱くでしょうか。
「どうせ、役所が決めるのだろう?だったらあいつらに任せておけばいいじゃないか」
といったお役所任せの体質は、まさに不信感の表れなのです。

その不信感の矢面に立たされているのは、現場の行政スタッフです。彼らは一生懸命に現場で仕事をこなしますが、市民の行政不信から不当な扱いを受けていると言っても過言ではありません。彼らを守るためにも、情報は広く開示し市民の誰もがアクセスできる状態を作る必要があります。

「明るいところにお化けはいない」と言うではありませんか。すべてを公開し、秘密などない状況にしておけば、誰も不信感を抱きません。暗闇を作るからこそ、人はそこに疑心を抱きます。
そして、その疑心を逆手にとってのさばる輩も出てくるのです。情報を完全に公開することは、その手の輩を排除する効果も持ちます。



第三に、情報を全て開示することは、市政の方向を市民に伝える効果を生みます。

経済学には「機会費用」との考え方があります。我々はいくつかの候補の中から、たったひとつの行為しか選択することができないのです。
「結婚しなかったら、私の人生はどうなっていただろう」などと妻は時々私に語りますが、それも機会費用の考え方です(どういう趣旨で私に語るのかは謎ですが)。

政策も同じことです。我々が有する資源が無限でない以上、ある政策を選択することは別の可能性を捨てることを意味します。それでも、我々は選択し前へ進んでいかねばなりません。
政策決定権者である市長が政策を決定する。その際に判断材料とした全ての資料は市民に公開される。会議の議事録も何もかも。その資料の中では「勝山市はこれからどの方向を目指すのか」が明らかにされているのです。



すべての情報を公開して大丈夫なのか?と疑問をお持ちのあなたへ

私が「市長が持つ情報のすべては、市民に公開すべきだ」と言うと、「そんなことをして大丈夫なのか?」と不安気に答える人がいます。

逆に、公開することでどのような不都合が生じるのでしょうか。

国レベルであるならば、外交情報や軍事情報などの機密情報はあるでしょう。これらが公になることで国家に不利益をもたらすことは十分にあり得ることです。
しかし地方自治体レベルで、秘匿にすべき情報はありません。

市民の個人情報以外の情報を公開することで、勝山市に不利益になることはないのです。




どのような方法で、情報は公開され討議されるのか

では、どのような方法で情報は公開されるのか。  

情報公開は様々な手段により行われることとなるでしょうが、「進捗ボード」と呼ぶWebページを構想中です。これは、各地区からの要望事項や具体的な諸問題が、現在、どのような取り組みをされているのかをリアルタイムで表示するものです。協議段階であれば、何月何日の会議にかけられたのか。その議事録はどうなっているのか。「何が問題になっているのか」「その問題はどのような解決が図られているのか」を明らかにするものです。

この進捗ボードや様々な方法で情報は公開され、勝山市民は全ての情報にアクセスできるようになります。


勝山市民に求められる姿勢

行政が情報を完全に開示するためには、行政内部の有り方を改善することが求められます。同時に、勝山市民の皆さんにも意識を変えていただかなければなりません。

「我々が責めるべきは、人でなく、課題・問題である」といった問題解決型の発想に立っていただきたい。でなければ、情報を開示する意味はありません。

我々は、ややもすると現状への不満を他人に負わせがちです。
「勝山がダメなのは〇〇のせいだ」
「〇〇がしっかりしていないから、何をやってもダメだ」
「あそこの連中が足を引っ張る」……等々。
しかし、他人を責めてばかりいても一時の憂さ晴らしにはなるものの、課題は解決されないまま放置されます。

我々の目の前にあるのは問題であり課題です。勝山市民は、行政スタッフであろうと市民であろうと、等しく「一緒に問題を解決する仲間」なのです。
この意識が醸成されない限り、情報公開は犯人捜しの道具にしかなりません。
情報を公開した、しかし、公開したために行政スタッフは更に批判されるばかりだ……というのでは、元の木阿弥です。行政は再び情報を出し惜しみすることになるでしょう。

情報公開を活かすも殺すも、そのカギを握るのは勝山市民の皆さんなのです。

【勉強・受験】  基礎力・応用力のお話  ③ネットワーク化を図る方法

ネットワーク化を図る方法


さて、これまでの内容を要約すると、
 ①知識は知識のままでは使えない。
 ②知識はネットワーク化して初めて使えるものになる。

そうなると、次は
「どうやってネットワーク化を図るのか」
との手法の話になります。

結論から申し上げますと、「プロの方にご相談ください」と言うしかありません。身も蓋もない話で恐縮ですが、学力状態や学年、性格など子供により状況は千差万別で対処方法が異なるのです。

ただ、これで終わったのでは、さすがにどうかとも思いますので、「ネットワーク化を図る際に、私が最も重要視すること」をお話ししましょう。


ネットワーク化を図る際に、私が最も重要視するのは「その子が、学んだ内容を自分の言葉で語れるか」との点です。実際に、私は子供たちに頻繁に要求します。
「それはどういうことなの?」
「それじゃ、今やったことを自分の言葉で説明してごらん」

学んだ内容を自分の語る。何度も何度も繰り返して語る過程で、子供たちは二つの力を伸ばします。
①再現力
②論理性



再現力について

ネットワーク化を図る大前提として、知識がちゃんと定着している必要があります。では、知識が定着しているとは、どのような状態を指すのでしょうか。
それは「学んだことを再現できる」状態です。

例えば、「ヨーロッパの地理」の知識が定着したか否か、これを確かめたいとき、私は子供に1枚の白紙を渡します。
「さあ、ここにヨーロッパの地図を書いてみて」
「書けたら、国名を入れていって」
もう1枚わたして、
「同じように、ここにヨーロッパの地図を書いて、国名を入れて、次は言語分布のエリアを入れていって」
と次々と再現させます。

理科ならば、例えば、「大地のしくみ」を勉強した後に
子供に1枚の白紙を渡して、
「岩石の種類を、系統だって書き出してみて」
と求めます。
「岩石は……まずは、火成岩と堆積岩に分かれるでしょ?」
「ええと……次は、火成岩は火山岩と深成岩に分かれるから……」
と子供たちは知識を再現し始めます。

数学ならば、今度は紙すら渡しません。
「二次関数を習ったよね。二次関数で習ったことを順番に言ってみて」



ヨーロッパの地理を習得した子は、当たり前のように白紙に地図を書き、その中に必要事項を埋め込んでいきます。二次関数の理解の低い子は、何を習ったのかすら再現できません。


こういった訓練は、2つの効果を発揮します。

ひとつは、当然のことですが知識の定着率を格段に上げます。
そもそも再現できないような知識は、知識としても使えません。したがって、テストで点を取ることもかないません。
授業は理解できた。教科書の例題も解けた。宿題でワークもこなした。でも、再現しようとしても再現できない。この段階に留まっている子供たちは、皆さんが予想するよりも多いのです。

かくいう大人も(私も含めて)同じようなものでしょう。
本を読んでいて理解しているつもりでも、「たった今読み終えたばかりの本の内容を再現してください」と言われると、案外とできないものです。
下手すると、「ああ、面白かった」と映画館を出たばかりのときに「あれ?そういえば映画の内容ってどんなんだっけ?」と訝しく感じるときすらあります。

知識の再現とは、案外と難しいのです。



効果の二つ目は、子供の心理に与える影響です。
人はゴールが見えないときに、極度の疲労を感じます。山登りでも、山頂が見えれば「あそこがゴールだ」と気持ちを新たにすることができますが、鬱蒼とした森の中を延々と歩くのは苦痛です。
「ぼくは、〇〇単元の知識を全て再現できる」……これは子供たちに達成感と同時に安心感を与えるのです。なぜなら、テストでそれ以上の知識はでないのですから。





論理性について

学んだ内容を自分の言葉で語ることは、子供の思考の論理性を高めます。

この論理性を高める訓練が、知識のネットワーク化に決定的に重要となります。

論理的に語ろうとすると、一般的には演繹的に語るか、帰納的に語るかの2通りの道を通ります。

演繹的に語るとは、最初に一般法則を出しておいて話を進める手法です。

(A)すべての人間は死ぬ(一般法則)
(B)ソクラテスは人間である
(C)だからソクラテスは死ぬ(結論)

前回述べた、数学の関数問題の解き方を例に挙げると、

(A)どうせ、関数なんて①グラフを書くか、②座標を出すか、③式を求めるか。
   それしかやることないよね (道理)
(B)この問題も、同じやり方でやってみよう
(C)ほら、やっぱり解けた(結果)

といった流れになります。最初に一般法則としての道理が存在し、それを問題に当てはめて結果として解答を導き出すプロセスです。


一方、帰納的に語るとは、いくつかの事柄を並べて共通のルール、法則を導き出す手法です。

(A)東京都民の平均年収は高い
(B)名古屋市民の平均年収は高い
(C)大阪府民の平均年収は高い
したがって、
(D)大都市圏の住民の平均年収は高い

この帰納的手法が、「知識と知識を結び、共通項を作る」という道理のレベルの議論であることは、前回の拙稿をお読みの方はピンと来ることでしょう。




学んだ内容を自分の言葉で語る中で、子供たちは演繹的に語ったり帰納的に語ったりと、この2つの道を行ったり来たりする経験を積みます。

その過程の中で、論理性を学んでいくのです。


この手法を具体的に述べることは簡単ではありません。と申すのも、子供ごとに性格や知識の定着状況、論理的能力の段階など、様々ですので、私が出す質問も異なるのです。

ただ、「ああ、この子はそういう説明ができるようになったのか」「ならば、この分野については論理的に語ることができるようになったね」という、ひとつの目安はあります。

その目安とは、「説明が、ストーリーとして聞ける」こと。

その分野を論理的に説明できる人物が語るとき、その話す内容は実にシンプルで、かつ、ストーリーとして聞けるものになっています。

それは大人であろうと、子供であろうと同じことなのです。






例 外

ただし、何事にも例外はあるものです。

これまでのやり方は、
 ①知識と知識を組み合わせる
 ②共通項を探り当てる
 ③それが道理である
とのやり方です。言わば、論理と論理で新しい道を模索する方法です。論理と論理であるならば、質問と問いかけといったやり方で対処することが可能です。対話を繰り返しながら、新しい「知のフレームワーク」を発見する方法ですから。

ところが、対話を重ねてもダメ、自分自身の力で「新しいフレームワーク」を獲得しなければならない分野があります。

それが図形問題です。

図形問題は得意な子と苦手な子がはっきりと分かれる分野です。

苦手な子の特徴。それは図形認識の見方(フレームワーク)がひとつしかないことです。

例えば、下の図を見てください。皆さんは何に見えますか?

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およそ間違いなく「立方体」もしくは「正六面体」と答えるはずです。
しかし、アフリカの特定の部族は、これを立方体と認識しないそうです。これを「12本の線」のある「平面図形」として捉えるのだとか。

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我々が「立方体」と考える図形も、上の三角形も彼らにとっては、「平面図形」として認識されるのです。



図形問題を苦手とする子も同様です。問題として与えられた図形を、別な形で認識できません。

具体例を挙げてみましょう。

私の教えている子供たちには、しばしば「面積迷路」を用いて、その認識パターンを学習してもらいます。



「面積迷路」とは、次のような問題です。

予めルールをお伝えします。
(1)使う知識は小学校3年生までのものとする。
(2)したがって、分数や少数、方程式なども使わない。
(3)使える知識は、せいぜい、(縦×横)=(四角形の面積)程度。


それでは、頭の体操として、次の問題に挑戦してください。
(ちなみに、図の縮尺は敢えて適当にしてあります)

10分以内で正解に辿り着けたら、かなり柔軟な思考の持ち主です。


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ちなみに、私の教えている中学生に解かしてみたところ、鉛筆を持たずに図を眺め、おおよそ2分足らずで正解に辿り着きました。

この問題の特徴は、「答えに必要な数字は全て求めているはずなのに、図形の見方を変えない限り正解に辿り着けない」点にあります。
「あれ?でないぞ?」という人は視点を変えて見てください。
(※正解は後ほど)



さて、2分足らずで正解に辿り着く子の、思考はどのようなものなのか。

先ほどの「アフリカの部族の立方体」と同じで、図形の苦手な子は、問題の図形をそのまま見ているだけです。

しかし、上記のような図形問題を数多く解く中で、子供たちは「レイヤー思考」と呼べる思考様式を身につけて、図形問題を得意にしていきます。

「レイヤー思考」の持ち主は、問題の図形をいくつかの階層に割りふり、全く異なる図形の組み合わせのように考えることができます。

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上記の1階レイヤー、2階レイヤー、3階レイヤーの図形を重ね合わせればひとつの図形が完成する。そういった思考様式を身につけるのです。
(もちろん、これはモデル図でして、実際に子供たちが1階レイヤーなどと割り振るわけではありません。「問題図の図形のこの部分だけ浮かんで見える」といった形で現れます)

こればかりは、「考え方・ものの見方」であり、論理や対話で身に着くものではありません。ですから、図形問題だけは例外であると申し上げました。


しかし、この力も練習により伸ばすことは誰でも可能だと私は確信しています。

2分足らずで解いた中学生も1年前はうんうん唸りながら問題に立ち向かっていました。3か月くらい練習中の中学1年生の子は、今なら前述の問題を6分程度で解けるくらいにまでなりました。

子供の可能性は無限です。
確かに「40分の授業内容を20分で理解できる子」と「40分の授業内容を60分で理解できる子」との間には、理解の速度の違いはあります。
 ややもすれば、私たち大人は「40分の授業内容を何分で理解できるか」との速度競争の観点で子供を評価しがちです。しかし、真に評価すべきは「時間はかかっても、『理解した』というゴールに達した」ことではないでしょうか。

これからも、そういった子供たちをサポートできれば。そんなことを考えています。



あ、そうでした。
先ほどの面積迷路の問題の回答を載せておきます。

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余談をふたつほど

最後に、余談をふたつほど。
これまでの経験の中で、身に染みて分かったことでもあり、保護者の皆さんにご理解いただきたい点でもあります。

ひとつは、皆さんは塾や家庭教師をつける時期を間違っています。

ほとんどの保護者が、お子様を塾や家庭教師につけるのは
・成績が下がってきた
・来年から受験生だ
といった時期でしょう。

中には、
センター試験終わって、後1か月!
・クリスマス前で、高校受験まで2か月!
という時期に来られる保護者もいらっしゃいます。


違うのです。時期が明らかに違う。

私が保護者の立場ならば、
 ・小学校卒業してから中学校入学した後の最初の中間試験まで
 ・中学校卒業してから高校入学した後の最初の中間試験まで
この時期に全ての資本を投入します。

例えば、高校受験生が年末に
「もう駄目だ。家庭教師を雇ってベタ張りで教えてもらおう」
としたときの投下資本と、
「小学校卒業したので、中学入学までに中1の内容を薄くでもいいから総ざらいしておこう。そのために家庭教師を雇ってベタ張りで3週間教えてもらおう」
としたときの投下資本は、全く変わりません。

しかし、子供にとってどちらが有益でしょうか。

中3のドン詰まりになって「どうせ、俺はできねえよ。やる気もないし」といった状態になっている子供の尻を叩いてやる気を起こして無理無理勉強させる。
片や、「これから中学生だ」「中学生になったら新しい勉強が始まる」「不安だけど楽しみだな」という子供を教える。
どちらが学習効果が高まるのか。火を見るよりも明らかです。

本当に多くの保護者の皆さんが、この陥穽に落ちます。



そして、もう1点。これは本当に重要な点です。
何度強調してもしきれないくらい……というか、この業界に身を置いた人間ならば、保護者に向かって怒鳴りたいくらいの衝動に駆られる「事実」です。

それは、「塾や家庭教師をつけたから成績が上がると思わないで欲しい」

大切なことなのでもう一度言います。

塾や家庭教師をつけたから成績が上がると思わないで!

これは、教える側が努力を怠る言い訳ではありません。

考えてみてください。

週2回、ピアノ教室に通わせる。家では一度もピアノに触ることすらない。そんな子供が「私は東京芸大に行って、ピアノで有名になるんです」と言ったならば、周囲はどう思うでしょうか。

野球クラブにプロの選手が来てくれて技術指導をします。「カーブはこう投げるんだよ」「君のバッティングフォームは、ここを強制した方がいいね」……次の日に、いきなりカーブを投げる子はいません。4割バッターになる子もいません。地道な練習を経て、技術を習得し、それで結果が出るのです。

私たちは、子供たちに勉強の仕方を教えます。知識も伝えます。その活用の方法や、道理へ辿り着く道筋も示します。
しかし、その道を進むか進まないか。それは、本人が努力するより他にありません。

そもそも、週2回塾や家庭教師をつけた程度で、スイスイと成績が上がるのであれば、これほど簡単な話もありません。皆が東大京大へと進むことでしょう。

子供たちに勉強をさせてください。

そして、それはごくごく簡単な方法で可能となるのです。


今年の1月2日。
世の中は、まだお屠蘇気分が抜けていない3が日です。
ある塾を覗けば受験生たちが朝の10時から自習をするため机に向かっていました。それも一人や二人ではありません。何十人もの高校受験生、大学受験生が机に向かっているのです。おそらくこの子たちは、朝の10時から自習室が閉まる時刻まで勉強をするのでしょう。毎年の風景とは言え、涙が出そうになります。

なぜ彼らは自習室に来るのか。
独りではモチベーションが上がらないからです。
「僕はひとりじゃない」
「こうやって勉強している同学年の人や先輩たちがいる。私も負けていられない」
そうやって気力を振り絞ります。

ならば、自習室に通えない子はどうすればいいのか。
ご家庭の協力があれば可能なのです。
「あんた、宿題したの?」
「ちゃんと勉強してるの?」
と言いながら、お母さんはTVを見ていませんか?
子供には子供部屋を与えたのだから、そこで勉強すればいい。私は疲れたしTVを見てゆっくりと過ごしたい……その気持ちはよく分かります。心の底からわかります。
しかし、そこで3か月の間、我慢して欲しい。

3か月で結構です。

子供を台所へ呼んでください。理由は何でもいいです。子供を独りにしないで欲しい。
「一緒に勉強しよう」
でも構いません。
「私は本を読んでるから、宿題片付けて」
でもいいでしょう。

TVも消して静謐な空間で、親と一緒に勉強する。
そんな生活を3か月でいいから過ごしてみてください。

そして、時々、お子様に聞いてください。
「何か手伝えることある?」
「私は勉強分からないけど、逆に、私に教えてよ」
それで結構です。私の立場からすれば、これほど有難いこともないのです。





つまらぬ余談を長々と申しました。
しかし、20年やってきた人間の率直な意見として承っていただければ幸いです。








【勉強・受験】  基礎力・応用力のお話  ②ネットワーク化できる子供の発想

 

ネットワーク化できる子供の発想



では、「成績の良い」子供たちは、どのように共通項を掴んでいるのか。次にそれを見ていきましょう。

前述した数学の関数問題を例に取ります。

もう一度、関数問題を苦手とする受験生の内部を見てみましょう。

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これは、まさに知識レベルで混乱している状態です。

ならば、成績の良いとされる子たちはどのような発想をするのでしょうか。



中高6年間の「関数の旅」の第1歩は、中学1年生の「比例・反比例」から始まります。
具体的には、次のような問題です。簡単な問題ですので、皆さんも是非チャレンジしてみてください。

《問1》

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《問2》

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《問3》

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こういった問題をこなす過程で、勘の良い子は気がつきます。
「なんだ、結局は①グラフを書く ②式を求める ③座標を求める。この3つだけのことじゃないか」


そう、その通り。よく気がつきました……と、私は褒めます。なぜなら、関数の問題は、どこまで行っても
 ①グラフを書く
 ②式を求める
 ③座標を求める
この3つを延々とやり続けるだけのことだからです。


そこに気づいた子供の発想は、次のようなものになります。

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1次関数であろうが2次関数であろうが、変域を求める問題だろうが文章題だろうが、結局やることは一緒でしょ?……と、彼らは考えます。
したがって、新しい問題を見た時も鉛筆が止まることはありません。なぜなら、「結局、やることは一緒でしょ?」との発想に立つならば、方針がぶれることはないからです。

「結局、やることは一緒でしょ?」……これは、前述した主婦の料理を同じです。「小麦粉がないなら〇〇を使えばいいじゃない。だって、結局やることは一緒でしょ?」
道理を掴んだ人間はやることが見えています。見えているのだから、やるだけ。

逆に、数学の苦手な子は問題を前にしてウンウン唸っています。知識がバラバラになっているために、「どこから始めれば良いのか」との取っ掛かりが見えません。「ここはこうすればいいよね」との取っ掛かりを与えると、「あっ、そうか!」と鉛筆が進みます。そういった姿を見て、「なんだ、この子はできるじゃないか」と私たちは考えません。逆に「この子は、まだネットワーク化ができていない」と判断するのです。



これは数学だけの話ではありません。理科でも社会でも英語でも同様です。



「日本地理はバッチリです」という子がいるのならば、私たちはその子に問います。
「そうですか。それでは、京浜工業地帯とは?」
「続いて、北陸工業地域とは?」
これが知識レベルの質問です。教科書に出ている知識を問う質問です。

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知識レベルでの定着ができたならば、次のレベルの質問が始まります。

「では、京浜工業地域と北陸工業地域を比較して、北陸工業地域の特徴を説明してください」
これがレベル2の問題。

この問いは、様々な問いかけを子供たちに要求します。
「なぜ北陸地域に伝統工業が発達したのか」
「なぜ伝統工業は、地域ごとに異なるのか」
といった問いを考えることで、子供たちの中にある知識はネットワークを形成します。

北陸地方は雪が降る」
「雪が降れば、農業はできない」
「農業ができないから、冬は別なことをする」
「そうやって伝統工業が発達したのだ」
と共通項を結ぶ過程で子供たちは気づきます。

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逆に、「北陸工業地域と比較して、なぜ京浜工業地帯に出版・印刷業が発達したのか」との問いは、京浜工業地帯の性格を浮き彫りにします。






そして、こういった経験を積み重ねていく過程で、道理は更に進化していきます。
「道理と道理を結びつけて、更に深い道理を作り上げていく」との段階です。

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先ほどの地理の例を挙げるならば、
「北陸と関東の工業を結びつけて共通項を探る経験」のような思考経験を繰り返す子供たちは、途中であることに気づきます。
「そうか!農業や工業・商業は、その地域の地理的特性に影響されるのか」
更に深い道理のレベルでの気づきです。

「産業は、その地域の地理的特性に影響される」……このことは、当たり前のことです。そして、教科書にも何度も書かれ、先生たちは口が酸っぱくなるくらい繰り返します。

ですが、ネットワーク化を図らなかった子にとって、「産業は、その地域の地理的特性に影響される」との内容は、単に知識のひとつでしかありません。

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ネットワーク化を図る作業を続けていく過程で、子供たちは自分自身の理解として「ストンと肚に落ちる」経験をします。
「ああ、そうか。そういうことだったんだ」
「知識のフレームワーク」と呼ばれる、様々な知識を統括する道理をつかんだ瞬間です。

ここまで来れば、記述式・論述式だろうがどのような問題にも対応できることでしょう。






これは余談ですが、様々な形で「更に深いレベルでの道理」は存在します。

例えば、数学・理科ならば

小学校で学ぶ「シーソー」

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中学1年生で学習する食塩水の問題

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高校1年生で学習するチェバの定理

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これらは、すべて同じ道理で考えることができます。したがって、シーソーの理屈さえわかっていれば、すべて解ける仕組みです。






歴史ならば、例えばこれ。
「これは何ですか?」

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教科書の挿絵に出てくる有名な作品ですから、中学生は答えます。
ミケランジェロがつくったダビデ像です」

これは知識のレベルの話です。

ダビデ像が掲載されている教科書の同じページには、必ず「ルネサンス(文芸復興)」の用語も掲載されています。ですから、知識レベルとして「ダビデ像」と「ルネサンス(文芸復興)」は必ず押さえてあります。

そこで私たちは問います。
「なぜ、ダビデ像はスッポンポン(裸)なのか?」

これは、中学生にとっては実に難しい問いです。
使う知識は中学生の歴史の教科書に全て載っているはずですが、私の経験上、この問いに答えられる中学生は稀です。

これを読んでおられる皆さんも、是非考えてみてください。




さて、それでは次に「どうやって、知識のネットワーク化を図るのか」。その手法について考えてみましょう。