月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

少し昔話をしましょう   -5年前の出来事と4年前の市長選挙についてー

 




少し、昔話をしましょう。

なぜ、昔話をする気になったのか。その理由は、長話にお付き合いいただければ、おわかりになろうかと思います。




「あるべき選挙」を追求した4年前の市長選挙

4年前のことです。

勝山市長選挙に立候補した私は、とある問題に直面していました。
その問題とは、現職であった山岸正裕氏にまつわる「不穏当な事実」を公開するか否かということ。

「不穏当な事実」とは、山岸正裕氏の自宅脇を流れる用水に関するものです。

「本来ならば、自費ですべきところを公共工事に潜り込ませてやったのではないか」「しかも、その事実を役所ぐるみで隠ぺいしていたのではないか」と、選挙の翌年には勝山市民から刑事告発まで受けた案件ですので、覚えていらっしゃる市民の方も多いことでしょう。

結果として、山岸正裕氏は非を認めて300万円を超えるお金を弁償したわけです。





実は、私は市長選挙に立候補する時点で、この情報は既に掴んでいました。情報を掴むどころか、契約書面や設計図面など必要な証拠書類は全て押さえていました。

したがって、いつでもそれをマスコミに公開することが可能でした。
(さすがに、「役所ぐるみで隠ぺいしていたのではないか?」との疑惑に対する証拠書類は持っていませんでしたが)


「この情報は市民に公開すべきだ」
「そうすれば、お前は絶対に勝てるんだぞ?」
と、私の極々近い人々は、強く迫りました。彼らの思いは痛いほど理解できましたし、ありがたかった。私に勝って欲しいからこそ、彼らは私に公表すべきと詰め寄ったのですから。

それは、私とて同じでした。
私は自分のかかげる政策を現実のものにしたい。そして勝山を再生したい。しかし、そのためには選挙に勝たねばならない‥‥選挙告示の1か月前に出馬するという無謀な挑戦をしていた私にとって、この問いかけには抗しがたい魅力がありました。

そして、散々悩んだあげくに、私は掴んだ情報を公開しないことを決めました。


選挙はそうであってはならないと思ったからです。

首長選挙は、ある意味で自治体の未来を決める選挙です。候補者は、己がイメージする勝山市の未来を掲げて、そこへ向かう政策を披露し、その優劣を競うべきです。したがって、互いに互いの悪口を言い合う場であってはならない‥‥第一、そんな選挙をしたのでは、最も惨めな思いをするのは有権者つまり勝山市民ではないか。そんな選挙はできない。

結果は、皆様ご存知の通りでして211票差という僅差で惜敗することになりました。

未だに言われます。
「あのとき、公表していれば、今頃お前は市長だったはずだ」

確かにそうかもしれません。そうでなかったかもしれません。それは誰にもわからないことです。

ただ、ひとつだけ言えることは、あの時の選択が間違っていたとは、今でも思っていません。やはり、選挙は‥‥特に首長選挙は‥‥政策で戦うべきなのです。





さざ波が立ち始める

さて、勝山市長選挙まで1年を切りました。面白いことに、とあるFacebookページに新規ビューが来るようになりました。

なるほど、来年の選挙に向けて情報収集が始まったか‥‥
4年前の市長選挙のように、今回も誹謗中傷とデマを飛ばしまくるのか‥‥

同時に「そんなに知りたければ、こちらから教えてあげるのに」と思いたち、今回、昔話をすることにしました。



もっとディープな話はいくらでもあるのですが、さすがにブログという公開の場ですることもできませんので、それは個人的にお話しすることにしましょう(笑)。冗談のような本当の話は、現実に起こりうるのです。こんな田舎で、そんなドロドロとした話が実際に起こるものなのか‥‥と皆さんが驚くこと請け合います。

ということで、今回は、5年前に私に降りかかった騒動についてお話ししましょう。




5年前に降ってわいた疑惑

昨年、勝山市議会議員選挙が行われました。

5年前にも市議会議員の選挙が行われましたが、8月執行の選挙を間近に控えた5年前の3月定例議会で、私にある疑惑が降ってかかりました。
「松村は、国の事業を活用して金銭を着服している」

最初、何を言っているのかと思いましたが、一部の議員が騒いでいるのを見て、これはただ事ではないと気づきました。


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さて、それでは問題視された事業とは何だったのでしょうか。








問題とされた7年前の事業

今を遡ること7年前のことです。この数年前から、私は広域観光の取り組みを独自に始めていました。
北陸新幹線金沢駅開通を数年後に控え、「これから金沢と勝山の交流が鍵になる」との想いがあったからです。

勝山の若手経営者たちと力を合わせ、数年がかりで細い人脈を少しずつ太くしていき、そして、ようやくひとつの事業が実現しました。

それが、金沢駅でのPR物販事業です。

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勝山市永平寺町坂井市あわら市の地元の産品を金沢駅内で販売しながら、福井県のPRをするというもので、夏休みの期間中行われました。

この事業には2つの困難がありました。

ひとつは、金沢の人々の「福井アレルギー」です。

金沢駅構内で物販・PRを始めた当日に、いきなり「福井の人間が、金沢駅で何をやってるんだ」と怒鳴られましたが、金沢の人はどういうわけか福井の人を一段下に見る傾向があるようです。その原因に、前田の殿様と松平の殿様の確執を挙げる人もいます。

私は、金沢における福井の露出が低いためだろうと考えていました。金沢を巡ってみても、そこに「福井」を感じさせるものは何もありません。福井への動線を全く感じさせません。要は、金沢の人にとって、福井県民は見知らぬ余所者でしかなかったのです。


もうひとつは、JRと商売をする難しさです。

単に「金沢駅構内で物販しました」と言っても、そこへ至るハードルはとてつもなく高いものでした。
誰しも人が集まるところで商売をしたい。ましてや金沢駅構内となれば、人の通りも北陸随一です。


折しも、北陸新幹線金沢駅開業を数年後に控え、福井県が県の総力をあげて金沢駅構内にアンテナショップを出店しようとしていた時期でした。

県の担当職員が金沢駅へ行ってみたら、そこでいきなり物販をやっている連中がいる。PRをしている。聞けば、勝山の市議会議員と勝山の若手経営者たちだ。一体全体、彼らはどうやって金沢駅へ入れたのだ?‥‥「いや~、あのときはびっくりしましたよ」と県の職員は後日、私に語りました。

県レベルなら入れるところも、民間レベルでは難しい。ましてや、金沢駅構内ともなれば、どこの馬の骨ともわからぬ連中が割り込めるものではありません。そこへ入るためには、ビジネス上の人脈が求められます。

私たちが数年がかりで太くしていった人脈は、ようやくそこへ辿り着くまでになったのです。

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何が問題視されたのか

さて、7年前に行った事業が問題視されたとき、
「松村は国の委託事業を利用して金を着服した」
と一部議員から言われました。

これは、そもそもあり得ない話です。

国の委託事業を受けたのは、紛れもない事実です。

ただし、私たちは1円も触れる立場にはありませんでした。「金銭を管理して、その支払いを厳格に行う団体を別に見つけてきなさい」というのが国の方針でしたので、JTBにお願いして、その団体に手を挙げてもらったのです。

確かに、事業を行ったのは私たちです。必要物を購入するにもお金は必要です。そのお金の支払いは、JTBが求めるやり方で入札を行い、支払いはJTBから行われました。

すると、こんな反論が出てきます。
「松村は、業者に仕事を投げてバックマージンを取っていたに違いない」

私はバックマージンを取ったこともなく、そもそもそういう発想を持たないので、そういう反論を聞いた時に「なるほど、そういう発想もあるのか」と逆に感心したくらいですが‥‥‥バックマージンを取ることはありえません。

バックマージンというのは、上の立場の者が下の立場の者に仕事をさせて、「仕事をやるから金を寄こせ」と強要することでしょう。

私たちは金沢での人脈を太くするために時間を費やしてきました。私たちは「仕事をしてください。お願いします」と言う立場なのです。

はっきり申し上げるならば、私たちが付き合っていた金沢の人々にとっては、この程度の仕事は雑工事に分類されるような「ちっぽけな仕事」です。
「それでも、新幹線が通った後には、必ずや金沢と福井との交流が始まるはずです」
「その手始めとして、お願いできませんか」
と、こちらからお願いし、やってもらった仕事でした。
その立場の私たちが「バックマージンよこせ」などと言えますか?


ちなみに、この事業を通して私は手弁当で動きました。
勝山の若手経営者からは「いくらなんでもタダ働きは」と言われましたが、「皆が儲けるために私は給料もらってるんだから、皆が儲ければいい。私はタダ働きで結構」と、言い続けました。

したがって、金沢まで日参した交通費から食費まで全て自前になりました。だからこそ、私は堂々と言えるのです。「自分でやりました」と。



そもそも、問題のある事業であるならば国の会計監査を通らないでしょう?

市議会の調査委員会が中部運輸管理局まで、出向いて行って大騒ぎになったそうです。実は、それ以外にも市議会調査委員会の的外れな調査は霞が関の、しかも、全く関係のないところまで波及を及ぼしたのです(知らぬは当の調査委員会の議員さんだけでした)。そんな騒ぎを引き起こしておいて、実際に問題があったのならば、国の会計監査は容赦なく首を取りに来ます。

当時、「本当に松村は金を着服したのか?」と警察も動いたと聞いております。しかし、すぐに動きを止めました。
「こんなもの、金を着服できるはずがない」

大山鳴動してネズミ一匹と言いますが、大騒ぎしておきながら、結果としてネズミの一匹も出てきませんでした。当たり前です。何もないところに火をつけただけなのですから。

単に、「新聞報道で『松村に何かあるぞ』と思わせればそれでいい」と思ったのかもしれません。

しかし‥‥彼らの思惑は、勝山市に強烈なダメージを与えることになったのです。





 

騒動の後に何が残ったか

「松村は金を着服したのではないか」
と騒いだ一部の議員たちに呼応して、議会内に特別委員会が立ち上がりました。

この特別委員会の調査は、私たちの想像を超えたことをし始めます。

調査と称して、金沢の民間企業のところまで行ってしまったのです。
なぜ、私と共に事業を行った勝山市内の若手経営者のところへ行かなかったのか。行って話を聞けば済むことだったのに。
共に事業をした市内若手経営者たちには、一切話を聞くこともせずに金沢の民間事業者へ行ってしまった。

私たちが何を目的として、数年がかりで人脈をつくっていったのか。
どのような将来像を描いて、あの事業を行ったのか。
私と共に汗を流した彼らに聞かずに、金沢の企業へ突撃をかけた結果、何が起きたのか。


「もう勝山とはおつきあいしません」


私たちが数年がかりでやってきたことが、水泡にきした瞬間でした。


必死で国の委託事業を取りに行きました。霞が関にも足を運びました。国の採択を受けた瞬間は、皆でガッツポーズしました。「これで金沢へ行ける」
「今はこんなちっぽけな出店だけれど、ここから始めよう」
「必ず、これは大きくなるはず。そうしたら、勝山の人たちを誘って、皆で儲けよう」
そう言い合いながら、なんとか乗り切った事業でした。
その努力を全て水の泡にしてくれた。



あれから5年が経ちます。

その間に北陸新幹線金沢駅開業がありました。しかし、金沢と福井‥‥いえ、もっと有体に言えば、金沢と勝山の関係は密になったでしょうか?

何も変わらない。

「勝山とおつきあいはしません」
全てはここで終わったのです。




泥仕合は市民に何ももたらさない



これがあの騒動の顛末です。

勝山にとって何ら益をもたらさなかった騒動でした。

「勝山とはおつきあいしません」
と言われたときの悔しさは今でも忘れません。

だからこそ、冒頭に戻って私は思うのです。
「選挙は、お互いに罵り合う場所ではない」

泥を互いに投げつけあって、市民は得をしないのです。なぜなら、泥を投げる行為は、相手が営々と成し遂げてきた行為を踏みにじるものだから。私たちが数年かけて太くしていったパイプを失ったように、敵とは言え、敵にも積み上げてきた「何か」はあるのです。

逆に言えば、何も為さなかった人間は相手に泥を投げるより他に手はないのかもしれませんね。



なぜこの騒動は始まったのか

ここまで読まれた方には、ひとつの疑念が残ることでしょう。
「そもそも、なぜゆえにこの騒動は起きたのか」


これを語るには‥‥ちょっと紙面が足りませんし、前述したように、表に出せないこともあります。

市役所内の闇は深い‥‥とだけ申し上げておきましょう。
皆さんが想像する以上に、闇は深いのです。

おそらく、今年は市役所の闇がひとつひとつ暴かれていく年になるでしょう。
全ての闇に光が照らされるには、やはりトップが変わらねばなりませんね。