月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

環境問題、勝山の道の駅、そしてボルガライス

お忙しい方へ「まとめ」

環境問題が難しいのは、自然環境がシステムだからです。システムに対しては「〇〇すれば××だよね」といった「設計思想」で臨むことができません。

同様に、社会システムも設計思想に馴染みません。

今朝の報道で、勝山市の道の駅隣接地を市が購入する方向であることが示されました。ホテルやレストラン、ファーストフードが入る予定だそうです。
別の紙面で、ボルガライスが県境や国境を越えて、様々な店でメニューに載るとの記事もありました。

前者は極めて設計思想的であり、後者は自然発生的です。

勝山市が踏まねばならないのは、市民と共に「本当に美味いもの」を育て、磨き、商品化するとのプロセスです。





環境問題はむずかしい

環境問題がにわかに脚光を浴びている。国連の気候変動サミットが開催されているためだが、今回のシンボル的存在は、やはりグレタ・トゥーンベリさんなのだろう。


【報ステ】「裏切るなら許さない」グレタさんの訴え(19/09/24)


環境問題を考えるときに、私は二つの点を強調したくなる。

ひとつは、私たちの持つ「後ろめたさ」だ。

私たちは、生活を工業製品や農業生産物に満たして生きている。
「あなた方は、自然を犠牲にしているのだ」
「環境破壊の上に、あなた方の生活は成り立っているのだ」
と言われると、「そのとおりですね」と答えるより他にない。

何しろ、私たちの周りのもので、自分自身で作ったものなどなにもない。「そんなことはありません。私は環境負荷をかけずに生活しています」などと回答できる人物は、ごくごく稀だろう。

その「後ろめたさ」に、つけこんでくる輩がいるのではないか?

つけこんでくる輩とは、俗に言う「環境利権」にむらがる連中であったり、自らを「環境的に正しいポジション」に置いて他者を責めてくる連中(例:過激なヴィーガン)であったりする。

我ながら情けないことだが、「ひねた大人」になってしまった私は、どうしても環境問題を「大々的に煽る人たち」を見ると、そういった連中が目に付くようになり、反射的に斜に構える癖がついてしまった。

中学生でもあるまいし、斜に構えることもなかろう?‥‥と、自責の念をもって我が身を振り返るのだが、こうなってしまったのも、環境問題を考えれば考えるほど、その難しさに途方に暮れるからだ。

それは、システムの難しさと言い換えても良い。
環境問題で強調したい二つ目の点である。





システムの難しさ

自然環境は、様々な要因が複雑に混じり合い、お互いに影響を及ぼしながら存続している。

これは、ひとつのシステムだ。

システムを考えるときの難しさを、極論で言えば、
「あなたがいてもいなくても、システムはまわる」
ことにある。

勝山の自然から、例えば、赤とんぼが消えたら何が起きるだろうか。
そんなことは誰にもわからない。
ひょっとしたら、とてつもない影響が出るのかもしれない。出ないのかもしれない。出ても、それは数十年後なのかもしれない。

よくニュースなどで「人類のせいで動植物100万種が絶滅した」と流れる。
https://www.bbc.com/japanese/48182496

だから人類にどのような影響があるのか。自然界のシステムはどの程度破壊されたのか。それは誰にもわからない。数年後に自然は崩壊するのかもしれないし、しないのかもしれない。

そこにシステムの面白さと怖さがある。






システムを単純に考えてはいけない

「システムを単純に考えてはいけない」
私は常々、そう肝に銘じている。

「単純に考える」とは、「〇〇をすれば、××が起きる」という設計主義だ。
大工さんを100人揃えて、そこに必要な資材を置いておけば、放っておいてもビルはできない。必ずそこには設計図があり、「これをすれば、必ずあれが起きるはずだ」との前提がある。

「自然は言う事を聞いてくれない」
こんな当たり前のことは、ちょっと百姓仕事をすれば誰でもわかる。自然の理屈を人の知識で逆転させようとしても、どこかに破綻が生じる。

システムを設計主義で考えてはいけない。
流れに沿ってやらなければ、どこかで破綻をきたす。

なぜ、こんな発想に立つにいたったのか。
もうひとつのシステムである「社会」を扱う部門、つまり「政治」に携わってきたからだ。

政治の難しさは、システムの難しさに通じるところがある。
「なぜ、政策どおりに人は動いてくれないのだろう」
「なぜ、予測した効果が生じないのだろう」

それは、社会というシステムを設計主義で考えているからだ。
流れに沿ってやらなければ、どこかで破綻をきたす。自然では「自然の理」があるように、社会には「人の哩」がある。その理を踏まえない政策は、どうやってもうまくはいかない。



道の駅側のホテルとボルガライス

今朝の福井新聞朝刊に、二つの記事が掲載されていた。

ひとつは、「勝山市が道の駅の隣接地を購入する」との記事。
ホテルや農家レストラン、ファーストフード、飲食店が来るそうだ。

もうひとつは、「越前市B級グルメ ボルガライス 海越え山越え」との記事だ。
越前市ボルガライスを提供する店が県外に広がっているとのこと。

実に対称的な記事だと感じた。
設計思想」と「自然発生的」との違いといってよい。




勝山市の道の駅の隣接地に、農家レストランを作る。ファーストフードが来る。それ自体は素晴らしいことだ。ここでビジネスをやって利益を上げてくれる市民がいるならば、素晴らしい。

しかし、そこに「人の哩」はあるのだろうか。
「人の哩」と言えば難しくなるが、単純に言えば「根源的な欲求」、すなわち「人は美味いものには金を出す」との当然の理屈に他ならない。

「あそこに人が来る」
「だったら、あそこに店を構えれば人が来るだろう」
「だから出店をする」
それは当然の発想だろう。私でもそう考える。

ただ、そこでちょっと考えて欲しいのだ。
「人通りのあるところに出店することは、入込客の可能性を増やす」
「しかし、利益を保証するものではない」
要は、繁華街に店を出しても「味がまずければ店は潰れる」といった、これまた当然の理屈がそこにある。

かたや、武生のボルガライス知名度をあげて、県外にまで出店者を持つようになった。これはPR戦略の上手さもさることながら、「うちのボルガライスは美味いですから、どうぞお食べください」「美味しいでしょ?だったら、お宅の店で出してみませんか?」と、美味い物には金を出すとの根本を突いたからだ。
(そして、この仕掛けには、あの有名な公務員がいる)






勝山市が、今、急務とされることは場所を造成することではない。
「本当に美味いもの」を育て、磨き上げ、そして市場に出すまでに大きくすることだ。
もう10年近く叫ばれ続けながら、なかなか形にならない‥‥「新商品開発」の単発イベントばかりが展開されてきたが、そろそろ本腰を入れてはいかがだろうか。




(付記)
「社会というシステム」を設計主義で考える人が陥る穴が二つある。

ひとつは、設計主義特有の「影響が他に及ばない」もしくは「予想しない悪影響を及ぼす」点だ。
沖縄で、ハブの被害に苦しんだ人々が天敵のマングースを導入したが、マングースはハブを食わなかった(影響が他に及ばない)。それどころかトカゲやヤンバルクイナを食い始め深刻な生態被害をもたらした(予想しない悪影響を及ぼす)。

今回の道の駅隣接のホテルやレストランの記事を見た市民は、「それでなに?」と思うだろう。「影響が他に及ばない」事例だ。

もちろん、効果が限定的であっても、それを主たる目的にする分には問題はない。「道の駅の隣接地のホテルとレストラン等を活性化させる」との点を主眼にするのであれば、その目的は達成されるだろう。

だが、その効果は限定的だ。少なくとも、「本当に美味いもの」を作ろうとする市民の運動が盛り上がることに比べれば。



設計主義者が陥る、もうひとつの落とし穴。
それは、設計主義者は、往々にして「初めに結論ありき」でやってくる点だ。「〇〇ならば××だ」との発想が前面に押し出されるならば、当然に、上から目線でやってくるだろう。

その弊害は色々なところで表面化している。