月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

子供は教師に出会うのではない

 

学校での授業を動画で行うと、何が生じるのだろう

みなさんは、スクー(Schoo)をご存じだろうか。

大人の「学びの場」として、興味深い授業内容を動画で公開している(有料だが)。

schoo.jp


ふと、思った。
「学校での授業を、このような動画で行うと、何が生じるのだろうか」と。


誤解して欲しくないのだが、私は、学校で現在行われている授業が無価値だと言いたいのではない。事実、ほれぼれするような授業をする先生たちは数多く存在する。

しかし……逆説的な物言いになるのだが、ほれぼれするような授業をする先生たちがいるからこそ、動画での授業をする意義があるとも言える。
 先生たちは、教案を書き、教材を整え、授業へと臨む。その授業内容を高めるために、研究授業を行い、己の技能を高めていく。いわば、教師の授業スキルとは、職人芸だ。
 ならば、職人芸を磨き上げた教師の授業を受けられる児童・生徒と、そうではない教師の授業を受ける児童・生徒との格差をどのように埋めれば良いのだろうか。その意味では、職人芸を極めた教師の動画を見た方が良いことだってあるかもしれないのだ。



そして……根本的な疑問なのだが……そもそも、30人もの子供をひとつの教室に缶詰にして一斉授業を行う必要性があるのだろうか。生活集団として30人がひとつの教室にいることは納得できる。しかし、理解度が異なる子供たちに一斉授業をする意味を、我々はもう一度問い直す時期に来ているのではないだろうか。

新しい単元を学ぶ。その理解を確かなものにするために、問題演習などを行う。そこでの理解度が低いならば、さらに説明をし、演習を行い、理解度を高めていく。
学習のサイクルは突き詰めるとここに辿り着く。
 このサイクルは、個々の児童・生徒によりスピードが異なる。40分の授業内容を10分で理解する子もいれば、40分かけて理解する子もいる。中には、80分かけて理解する子もいるだろう。
 この子供たちを一斉授業で対応してきたのが、これまでの教育だった。それを否定するのではなく、「技術が長足の進歩を遂げた今だからこそ、できることがあるのではないか」との発想に立ち、根本に立ち返りたいのだ。



すべてを転換するなんて、そもそもあり得ない

前述のような話をすると、「教育の否定だ」と反発されかねないが……ちょっと待って欲しい。

そもそも、技術が進歩してもなくならないものは、なくならない。

メールやLineがこれだけ普及したにもかかわらず、手紙を書くという行為はなくならない。なぜなら、手紙を書くという温もりのある行為そのものに価値があるからだ。

車が登場し、飛行機が空を闊歩する時代になっても、なぜか馬車は存在する。むしろ、馬車という「ゆっくりと動く乗り物」に乗ることで、移動の醍醐味、景色を楽しむ愉悦といった「移動するという行動の持つ価値」を再確認できる。

ならば、新しい技術を取り込んで学校教育を再構築することで、我々は何を再確認するのだろうか。




子供たちは教師に出会うのではない

授業を動画にしようが、授業を100%インターネット化しようが、「教育は人が人に対して行うものだ」という本質は変わらない。

そして、子供たちは学校で教師ではなく、恩師に出会う。

誰しも、自らの学生時代を振り返った時に、忘れられない先生がいる。「苦しかったあの時に励ましてくれた」「何気ない一言に助けられた」「しょーもない先生だったけど、よくしてくれた」

その想いに共通するのは、「私を真正面から見てひとりの人間として扱ってくれた」との想いだろう。

教育に求められることは、ひとりひとりの子供を真正面から見る時間的余裕を教師に持たせることだ。卒業式を迎えた子供たちが、心の底から「先生、本当にありがとうございました」とお礼を言える環境を整えることであり、それは教師のみならず、子供にとっても最高の教育成果だと考える。

これだけ技術が進歩した現在、その教育環境を整える下地は十分に揃っている。

後は、我々がそれをするかしないか。
大人たちこそが、真剣に考えなければならない。