月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.2

 

我が国の不幸感はどこから来るのか

冒頭に申し上げたように、本当におじいちゃん・おばあちゃんは幸せなんだろうか。そういう思いが私の中にあります。

老健施設などに入っている人たちを見ると、どうしてもその思いが強くなる。これは施設が悪いんじゃないんです。施設の職員は本当に努力されています。それじゃ、施設に入れる家族が悪いのか。そんなことはありません。やむにやまれぬ理由があってのことです。誰も悪くない。でも、施設に入って「それじゃ、おじいちゃーん。運動しましょうか」とグーパー運動している姿を見ると、悲しくなるのです。

一生懸命に生きてきた人たちの尊厳ってどこにあるんだろう。おじいちゃん・おばあちゃんのひとりひとりにパーソナル・ヒストリー、つまり人生の歴史があり、大切にしているものもあり、生きがいもある。そういったものに光を当てられないものだろうか。

そんなことを考えてしまうのです。



実は、行政サービス自体も、この傾向があります。

行政サービスの特徴は、人の人生をストーリー化して対策を練るところにあります。

例えば、人を「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付する。そういう行政サービスを行います。「結婚して子供を産んだけれども、離婚して生活が苦しい」という人生であるならば、寡婦控除を給付する。そういう行政サービスもあります。

ただ、これには大きな欠点があります。必ず、このストーリーから漏れてしまう人がいる点です。

先ほど、「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付すると言いました。しかし、失業保険を受け取れる期間に必死で仕事を探しても見つからなかった人はどうなるのでしょう。
「働いている人」でも、若年労働者では低賃金で働いている若者が多数います。そういう人と50代で年収800万円の人を同列に扱って良いものでしょうか。

そういうとき、行政は、ストーリーを細かく細分化し始めます。働いている人の中で、更に年収200万円以下の人で、かつ、20代の独身者には、〇〇という行政サービスを支給します。といった具合に。

それでも、全てをカバーできないのです。必ず、漏れてしまう人たちがいる。



なぜなら、行政サービスというのは、サービスの許認可だからです。〇〇という資格のある人だけが受けることができる。これが行政サービスの特徴です。

最大公約数で「日本国民なら受けられる」行政サービスがあります。日本国民であることが資格になってるサービスです。義務教育などがそうです。65歳以上の人で年金を支払い続けた人ならば、年金受給の資格があります。要介護認定を受けた人、これも資格です。

行政サービスとは、詰まるところ、資格のある人は受けられるが、そうでない人は受けられない。そういうサービスです。

そうすると、結論として、高齢者の皆さんの生活をトータルにみる行政サービスは存在しないことになります。高齢者だからという理由で受けられるサービスは、ごく一部のものを除いて存在しません。



先ほど、老人施設でのおじいちゃん・おばあちゃんの扱いと行政サービスは似ていると申し上げました。
施設の職員の方にお話を伺うと、施設の人も困っているんです。レクレーションをしたいのだけれども、みんなに同じレクレーションをしてもすぐに飽きられる。かといって、ひとりひとりの興味に合わせてレクレーションを作り上げようとすると費用と時間がついていかない。仕方がないから、「おじいちゃ~ん。グーパー運動しましょうか」となってしまう。

行政サービスを徹底させようとすると、とてつもない費用と時間がかかります。したがって、水で薄めたようなサービスにならざるを得ません。

おそらく、ここにいらっしゃる皆さんは行政サービスに満足されていないでしょう。それはよくわかります。そういった苦情を何件も受けておりますので。

その苦情というか、声を聞いていると、不満の根っこにあるのは「まるで年寄りを乞食のように扱う」ことにあるように感じています。高齢者を「何でも欲しがる連中、ただもらうだけの存在、社会の金食い虫」のように扱う。俺はそれが我慢ならん。苦情の底には、そういう想いが見てとれる。

必要なことは人間の尊厳の回復です。
行政サービスも、老人施設も。


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孤立化する人々

尊厳の回復というお話に絡めて、孤立化についてお話ししましょう。

よく「孤独死」などがニュースになりますが、「孤独」と「孤立」は根本的に違うと私は考えています。

確かに両方とも、「独りでいる」という点では同じです。しかし、「孤独」とは、独りで想いを交し合う状態を指します。逆に、「孤立」とは、誰とも想いを交し合えない状態です。

これから、あるコマーシャルを見ていただきます。宝石店のものですが、登場する人物は、孤独なのでしょうか。それとも孤立しているのでしょうか。動画の終盤に、本当に小さな声で、主人公がある言葉を発します。お聞き逃しなく。



【ケイウノ動画】~ふたりで、ひとつの人生を~Full ver.


登場する男性は「孤立」していません。なぜなら、彼には語り合う妻が今も傍らにいるからです。もちろん、妻は既に亡くなっていますが、それでも男性は彼女と語り合うことができる。

本当に怖いのは「孤立」です。誰とも想いを交わすことができない。世の中に人はたくさんいるにもかかわらず、その誰とも想いを交わすことができない。これほど、辛いことはありません。

なぜなら、そこには「人の尊厳」がないからです。人にとって最も辛いことは「お前には価値がない」と言われることです。「お前なんか産まれてこなかった方が良かった」と母親に言われた子供の気持ち、「お前の人生には全く意味がなかった」と死ぬ間際に言われた人の気持ちを想像してください。「孤立」とは、このような状況なのです。


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社会に蔓延するニヒリズム

皆さんの年代ですと、「ニヒルな男」という言葉を耳にされたことがあるでしょう。

例えば、「あっしには関係ございやせん」で一世を風靡した木枯し紋次郎であったり、市川雷蔵演じる眠狂四郎がニヒルな男の代名詞かもしれません。


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ニヒルという言葉は、ニヒリズムから来ています。ニヒリズムとは、日本語で「虚無主義」と訳されます。虚無主義とは、この世界には真理や絶対的な価値などないという考え方です。だったら、俺は自分の価値観のみに従って世の中を渡っていく……と、これがニヒルな男のダンディズムです。

さて、これとは別に、京都大学佐伯啓思教授が……この人は経済学者なのですが……ニヒリズムとは「手段が目的化した社会を指す」と主張しました。

「生活が苦しい。良い服を着て、美味いものを食べたい。だから一生懸命に働く」と頑張っていたはずが、いつのまにか金儲けが目的になってしまう。金を得ることは生活を豊かにするとの目的を達成するための手段であったはずなのに、その金儲けが目的になってしまう。
 社会を良くしたい。そのために権力を持たなければ何もできない。そう思って活動していたはずが、いつのまにか権力奪取が目的になってしまう。
 社会を正しいものにしたいと権力批判をしていたはずなのに、いつの間にか権力を批判することが目的になってしまい、何でも批判しなければすまなくなる。

このような社会で、人は虚無的にならざるをえないと佐伯教授は言います。なぜなら、手段が目的になってしまったら、永遠にゴールにはたどり着けないからです。金儲けが目的になった人に「いくら貯めればあなたは満足しますか?」と尋ねても答えられません。ニヒルなヒーローならば、俺は俺の価値観で生きていくと言うでしょう。それで彼は満足するのです。しかし、金儲けを目的にした人は、金儲けが俺の生き様だと主張しても、永遠に満足することはありません。


そして、こういったニヒリズムが蔓延し始めると、人も組織も自己保存を目的にし始めるのではないか。私はそう考えています。

永遠にゴールにたどり着けないのなら、今を生きるより他にありません。昨日あったものが今日もあったのならば、明日もなければいけない。

何のためにあるのか、もはやその目的すら忘れてしまったような組織がいつまでも残っている。なぜ切れないのでしょう。
まちづくり活動もそうです。まちづくり活動は、自分たちの住んでいるまちを良くしようとする活動です。その目的が手段になってしまって、「今年も何かをしなくちゃいけない」と義務化してしまいます。「もう大変だよ。やりたくないよ」という声すら聞こえてきます。


昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけの社会。
息苦しい社会です。







高齢者は、もっと!

これを言うと、気分を害されるかもしれません。でも、敢えて申し上げるのであれば、新しい挑戦をするよりも、昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけのもの。
皆さんがそんな存在になって欲しくないのです。

「若い者の邪魔にならないように過ごそう」
そう考えるのではなく、
「若い者の手助けをしてやろう」
「若い者に、私の経験を通して『生き方』を伝えよう」
と思って欲しいのです。