月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

《後編》「神話」としての自治体  -そもそも自治体とはなにかー

素朴な疑問

13年の間、市議会議員として自治体を眺め、行政を見続けながら、いくつかの素朴な疑問にぶち当たることがありました。
「なぜ行政のやることは、うまくいかないのだろう」
「なぜ行政と市民との協働はうまくいかないのだろう」

あるとき、ふと思い至りました。
「行政スタッフが無能だからではない」
「これは『行政という制度設計』のせいだ」

行政スタッフが無能であるなら、もはや手の施しようはありません。しかし、事態はそうではありませんでした。彼らは有能でやる気もあります。

自治体にとって最大の敵は『自治体という制度設計』そして、『行政という制度設計』でした。そして、原因が制度設計にあるのならば、われわれはそれを克服することができるはずです。


コーディネーション、モチベーション

 自治体は、利害を一にしない人々の集合体です。自治体の中の行政部門が、すべてを取り仕切り、それでうまくいくのであれば物事は簡単です。しかし、現実にはそうではありません。市民、市民団体、企業等々の様々な人々と行政が協働して、自治体は運営されています。

 この協働は、ひとつの宿命的な問いを私たちに投げかけます。
「人を動かすときに、どのようにして動機づけ、共通の目標へ導くのか」
人を動機づけ、共通の目標へ導き、活動へ誘う。この仕組みをどのように設計するのかとの問題です。
 人を動機づけることはモチベーションの問題です。共通の目標へ導き、活動へと誘うことはコーディネーションの問題です。この二つを同時に解決しなければならないのですが、事はそう単純なものではありません。
 なぜなら、一般的に、コーディネーションは指揮官の権限を強大化することで高まりますが、モチベーションは現場の人々の権限を強めることで高まるからです。コーディネーションとモチベーションは対立する概念なのです。


これは自治体だけでなく、企業やNPOにとどまらず、すべての組織に当てはまる問題です。

例えば、コーディネーションとモチベーションのどちらを強化するのかという視点から、企業をアメリカ型と日本型に類型してみます。

アメリカ型企業においては、コーディネーションが強化される傾向があります。上司が部下に対して生殺与奪の権限を持ち、誰が決定権を持つのかを明確にします。このような組織では、企業戦略が決定されたら、後は、徹底的にそれを実施することが求められます。

このアメリカ型企業においては、2点の問題が生じます。
ひとつは、絶大な権限を握る最高指揮官の権限をいかに統制するのかという問題です。もうひとつは、置き換え可能とみなされる社員のモチベーションをどのように維持していくのかという問題でしょう。


これに対して、日本型企業はモチベーションが強化される傾向にあります。コンセンサスを重視し、現場の意思を重要視する日本企業は、現場で働く人々にとっては最高の環境です。常に新規の商品を企画して、市場に投入する日本企業は、商品という目に見えるものを追いかけます。多くの社員が開発、製造、営業の実務に動員され、具体的で明確な目標(商品を作り、売る)という仕事に従事します。チームとしての達成感は言うことがありません。

(余談です)
逆説的ですが、日本型企業に大型定番商品が少ないのは、新規商品を次々に投入することに原因があるように思われます。アメリカは、大型定番商品が存在します。ソーダ―でコカコーラ、ビールでバドワイザー、鎮痛剤ではタイレノールといったように。
こういった大型定番商品を育て、そのマーケティングに力を注ぐのはアメリカ企業の得意とするところです。そういった商品は持続的に高収益を上げますから。
 アメリカのホワイト・キャッスルはアイスクリームとハンバーガーのチェーン店ですが、一度としてポジションを変えていません。店舗外装は、およそ1世紀近くにわたって変わっていませんし、これといって特徴のないチェーン店ですが、アメリカ人ならば誰でも知っている店であり、年間収益でバーガーキングを上回りマクドナルドに次ぐ2位の地位を占めています。


日本型経営は、次の2つの問題を抱え込みます。
ひとつは、戦略性に欠けるということ。時間軸で同一企業が違うことをやりはじめるちぐはぐさ、同じ企業内で生じる部門間でのばらばらさ、戦略が行き届かず、コーディネートされていないために生じる問題です。
もうひとつは、人材育成の点です。日本型キャリアシステムは、最強の職能部長を養成するためのものです。事業部長、企業役員、社長という戦略家を作り出すためのものではありません。


さて、そこで質問です。
自治体という組織体は、アメリカ型経営の特徴を持っているのか、日本型経営の特徴を持っているのか、どちらでしょうか。

私のみるところ、アメリカ型経営の「デメリット」と日本型経営の「デメリット」を併せ持つのが自治体組織の特徴です。

自治体には首長が存在し、強力なリーダーシップで自治体経営を行っているのだから、アメリカ型経営に近いのではないか?と思われた方は、自治体と行政とを同列に考えています。
確かに、行政において首長の存在は絶対です。その意に染まぬ行為は許されないでしょう。しかし、自治体を構成するものは行政だけではありません。行政は、市民、市民団体、企業等々と協働しなければならないのです。
「行政 笛吹けど、市民 踊らず」
とは、組織の構成員のモチベーションが上がらない、アメリカ型経営のデメリットを如実に表しています。


そして、自治体は、日本型経営のデメリットも併せ持ちます。

自治体の内部では様々な諸活動が行われています。現場の人々は意を尽くし、まちづくり活動やイベントを行います。
ところが、そういったまちづくり活動やイベントを実施し続ける人々から聞かれる言葉は、疲労感に満ちています。「何のためにやっているのか、わからなくなる」「この活動はいつまでやればいいのだろう」……なぜ、そのような言葉が現場から出てくるのか。それは、その活動に「意味を与える何か」が欠けているからです。もちろん、欠けているものが「戦略」なのですが。




それでは、なぜ、自治体がこのような特徴を持つのでしょうか。

それは、次の2つの理由にあると考えます。
 (1)もともと、自治体には明確な目標が存在しない
 (2)もともと、自治体にはそれを達成する手段もない

 
この辺りを、もう少し掘り下げて考えてみましょう。




自治体には明確な目標が存在しない

自治体経営」という言葉を、私たちは当たり前のように使います。そして、経営には「経営戦略」が必要だ。したがって、自治体経営には経営戦略が必要だ………との三段論法も当たり前に使います。

ところが、自治体経営には経営戦略が必要だと主張する人々は、ある基本的な点を見逃してこれを論じているようです。
それは、「企業と異なり、自治体には明確な目標が存在しない」ことです。

「そんな馬鹿な話があるか。自治体はそれぞれ中長期の戦略目標を立てて、それを政策に落とし込んでいるではないか」との異論を持たれる方もいるでしょう。確かに、自治体は様々な計画を作り、その達成に向けて政策を立案・実行します。
しかし、それは企業も同じこと。中長期の計画を立てて事業化していくのです。
ただし、企業が持つ「利益の追求」に匹敵するだけの目標を自治体は持ち合わせていません。



なぜ、自治体には明確な目標が存在しないのか。それは国との関係が大きな影響を及ぼすからです。



自治体は地方政府なのか?

自治体はどのような組織なのか。これを考えるために、ひとつの問いを立ててみましょう。
自治体は、地方政府ですか?」
住民自治という地方自治の理念から考えるならば、本来、自治体は地方政府としての活動を期待されるべきです。

しかし、自治体は地方政府ではありません。
地方政府であるならば、市民は政治的な価値判断を行い、自治体を政治的に運営できるはずです。江戸時代の「藩」であったり、西部開拓時代の中西部のタウンといった存在が、本来の地方政府の位置づけになるのでしょう。

仮に、自治体が地方政府として活動し、「自分たちのことは自分たちで決める」というのであれば、自治体の構成員である市民は、実に多くのことを決めねばなりません。教育、土木、民生、衛生、防災等々の諸問題を、下手すればゼロから、すなわち制度設計の点から判断することになります。
しかし、実務でそのような事態は発生しません。なぜなら、国が政策の「標準化」を行うからです。具体的には、国の法律が自治体に努力義務を課したり、政策奨励的な国庫補助金が交付されたり、地方交付税基準財政需要額に算入されたりと、国の意思は様々な形で自治体に影響を及ぼしています。

要するに、市民による政治的価値選択の必要性が不要になるよう、国が政策の方向付けを予めしてしまっているのです。

したがって、原発再稼働問題、産業廃棄物処理場の建設、小中学校の統廃合といった例外的問題を除いて、市民が政治的価値判断を下さねばならない事例は、ほとんどありません。


国と自治体との関係は、ある意味、自治体と町内会との関係にも似ています。
町内会は自治組織です。自治組織であるならば、自分たちのことは自分たちで決められるはずです。実際に町内会は規約を作り、組織を構成し、役員会・総会で意思決定を行います。
しかし、現実問題として、町内会が独自に決められる範囲は限定されています。ゴミを出す曜日は自治体が指定してきます。防災、介護、地域公共交通等々の諸問題は、自治体が標準化しています。町内会で決められることは、町内会内部の細々とした内容に限られているのです。

興味深いことに、「自治体から若者が離れていく」という問題と「町内会の加入率が年々低下していく」という問題は、見事なほどパラレルな構造を持っています。

自治体は確かに独立した法人です。しかし、国が政策標準化を各分野で行う現状では、もはや自治体に明確な目標が存在しないのも当然なのです。町内会に明確な目標が存在しないように。

自治体が町内会に期待していることは何でしょう。
それは町内会内部のマネジメントです。
国が自治体に期待していることも同じでした。
自治体が突出することなど望んでいません。
自治体内部のマネジメントをちゃんとやっていてくれさえすれば良かったのです。

少なくとも、高度経済成長の時代にはこれで良かった。
学校を作り、道路を整備し、公民館を備え、上下水道を整えていき……と、必要なものは政策標準化で国が定めて、自治体に求められるのは、標準化された政策のマネジメントでした。

ところが、少子高齢化と人口減少、そして日本国自体が低成長になった現在、政策標準化の枠組みだけは依然として残され、そして、その状況下で「地方創生」が求められています。





国土分割の境界線としての自治体区域

アメリカには自治体の存在しない区域があります。未法人化区域と呼ばれますが、日本にはこのような未法人化区域はありません。国土が隙間なく自治体で埋め尽くされた、言うなれば「分割された国土」として自治体は存在します。

極論を申すならば、自治体の「区域」は国土を分割した「境界線」以上の意味を持ちません。それは、自治体に解散規定がないことからも明らかです。
すべての組織は規約に解散規定を持ちます。町内会であれ、企業であれ。自治体は企業と同じく法人であり、企業が解散規定を持つのであれば、自治体にも解散規定があってしかるべきです。しかし、自治体内の住民がすべて転出して、住民がゼロになるといった究極の状態が発生しても自治体は自然消滅しません。なぜなら、それは国土の中に身法人化区域を発生させることを意味し、許されないからです。


そして、自治体をこのように位置づける制度設計は、日本全国一律の行政サービスを可能にしました。
なぜ、地方交付税といった財政調整調整制度があるのでしょう。財政調整制度の趣旨は、自治体の財源に著しい地域差があるためと説明されます。地方税の税源が均等ではないため、全国どの市町村でも同一水準の一般財源を保障するために財政調整制度はあるのだと。
では、なぜ同一水準の一般財源を保障する必要があるのでしょう。それは、国土のどこに住んでいても同じサービスを保障するためです。どこに住んでいても同様の教育を受けられ、蛇口をひねれば新鮮な水が出てくる。そういった均質なサービスを可能にするためです。

しかし、日本全国一律の行政サービスを担保するということは、必然的に、自治体相互間での機能的差異を禁止することを意味します。どの自治体であろうと、行政サービスや規制内容について、自治体ごとに異なってはいけません。




自治体「区域」を巡る「ちぐはぐさ」


前述したように、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。自治体間のサービスの差異は否定され、国土に一律の行政サービスが実施されます。

この秩序の下では、納税者である住民や企業は、自治体からの転出動機を失います。全国一律の行政サービスが展開される以上、現在住んでいる自治体よりも望ましい行政サービスを持つ自治体は原則存在しないためです。もちろん、個々の自治体の行政運営の上手/下手によりサービスの程度は多少異なるでしょう。しかし、居住地移転のコストを上回るだけの、自治体間の差別化のメリットは存在しません。

念のために申し上げますが、上記は自治体間競争としての話です。勝山市と他市町村との行政サービスには根本的な差異がない以上、どこに住もうと同じサービスは担保されるはずです。したがって、「より良いサービスを目指して自治体間を移動する」といった事態が、そもそも発生しないのです。

《中編》で「若者の流入出は、自治体間競争ではない」と述べたことを思い出してください。若者が渋谷に住むのは、「渋谷区」に住みたいからではありません。渋谷区が勝山市よりも優れた行政サービスを実施しているからでもありません。若者は自治体選択でなく、別な理由から都会へ向かいます。

若者の転出は、自治体間のサービスの差異を理由としていません。にもかかわらず、自治体は、自治体間のサービスの差異で転出を止めようとします。

この「ちぐはぐさ」が、自治体実務において、若者定住策の効果が上がらない構造的原因です。




これに対応するには、自治体は「個別的政策的の差異」ではなく、自治体そのものの差別化」を図るべきなのです。商品の違いを売り込むのではなく、会社そのものの違いを売り込んだApple社のように。

そして、この「自治体そのものの差別化を図る」との方向性は、自治体の「区域」のもうひとつの意味からも正しいといえます。

国家にとって、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。しかし、住民にとっては、アイデンティティを付与する強固な地盤となります。平成の大合併で誕生した自治体の内部で、合併以前の自治体の縄張り争いが起きるのも、旧自治体の「区域」が地元住民にとってのアイデンティティであるからです。

自治体の「区域」は「ふるさと」と位置づけられ、若者へ訴えかけます。「ふるさとに帰っておいで」と。
ふるさとは唯一無二のものです。ならば、その価値を具現化し訴えかける手法も唯一無二のものであって良いはず。つまり、若者が流入しやすいように「自治体の構造そのものを変える」くらいの手法を用いて、差別化を図っても然るべきでしょう。

しかし、自治体の「区域」は、自治体間の横並びの構造を崩すことができません。住宅補助金や新築補助金といった個別的政策の差異で勝負するのみです。若者の心に「勝山へ帰ろう」との言葉を植えつけるだけの力強さに欠けます。


どこがボトルネックなのでしょうか。
ここまでお読みいただいた方は、すでにおわかりのことでしょう。
自治体に対して国が行う「政策の標準化」です。


ならば、われわれはどうすれば良いのでしょうか。
国の地方自治制度を変えなければ物事がすすまない……というのであれば、この話はここで止まってしまいます。

対応策としては、次の3点を推し進めるべきと考えます。
(1)自治体そのものの差別化を図る。
(2)そのために、シビルマクシマムの考え方に立つ。
(3)「公権力行使の独占論」を骨抜きにする




自治体そのものの差別化を図る

自治体そのものの差別化を図るとは、具体的に言えば「私たちの自治体は〇〇だ」と宣言することです。

ただし、ここで思い出していただきたい。
《中編》で述べたように、誰も反論できないような宣言には意味がありません。
 「私たちの自治体は面白いものがたくさんあります」
 「私たちの自治体には美味しいものがたくさんあります」
 「私たちの自治体では、住民は笑顔で暮らしています」
誰も否定できない宣言文ばかりです。誰も否定できないがゆえに、誰の心にも届きません。

われわれが目指すべきは差別化であって、差異化ではありません。

あなたがダイエットに興味があるとします。本屋へ行けば、様々なダイエット本があなたの目に飛び込んでくるでしょう。
 「〇〇式ダイエット」
 「30日でやせるダイエット」
 「食べなくてもやせるダイエット」
これらは一見すると、それぞれが差別化をアピールしているようにも見えますが、大きな違いは見当たりません。思い返してください。われわれは若者の心の中に「たったひとつの言葉」を植えつけようとしています。比較検討されるような言葉では、差別化になっていません。

ならば、どのような言葉を紡ぐのか。

(1)顧客を絞る
 (例)妊娠直後のダイエット、50代の体力を70台まで維持する運動プログラム…etc

(2)ベネフィットを絞る
 (例)お腹周りが5㎝絞れる、足やせダイエット…etc

(3)関係性の強化
→クライアントとの関係性の強化。クライアントの求めるものをどの程度達成しているか。「あなたのこれまでを作ってきた〇〇、これからのあなたをサポートし続ける〇まる」
このビジネスモデルを作ったのが、ベネッセであることを思い出しましょう。ベネッセは、時間軸でのビジネスモデルを作り上げました。「たまごクラブ」から受験までをカバーするモデルは、前身の福武書店ではできなかったことです。

(4)ゴールの差別化
 →最終地点の差別化。ベネフィットが直近の結果を約束するのに対して、ゴールは最終地点の結果を約束する。

現在、自治体が紡いでいる言葉は、この4点の中の(3)「関係性の強化」に過ぎません。それも、顧客(市民)からすれば選択したものではなく、単に「勝山市に生まれたから」と、運命論的なものにとどまりまります。


では、この言葉を紡ぐためには、どのような戦略を立てて差別化を図るべきでしょうか。
それがシビル・マクシマムの創造になります。




シビル・マクシマムの創造

国は「政策の標準化」を通して、国の意思を自治体へ及ぼします。その結果、国が政策の方向付けを予め行っているために、市民による政治的価値選択は不要となります。


市長選挙に出馬した経験から申し上げますが、市長選挙公約に「政治的価値判断」が出てくることは極めて稀です。
中部縦貫自動車道の早期開通」「第二恐竜博物館の誘致」といった公約は、単に公共事業に関する公約であり、政治的価値判断ではありません。政治的価値判断とは、「勝山市をどういったまちにするのか」というビジョンとそこへ辿り着くための戦略です。


しかし、大概の自治体において、市長選挙の公約は
 「若者が帰ってくるまちづくり」
 「高齢者にやさしいまちの実現」
といった「ぼんやりとした公約」の羅列に終わるのが普通です。
国の「政策標準化」の威力はそこまで強いのです。

よく市長選挙で言われる言葉が
「誰が市長になったところで、何も変わらないよ」
その通りです。そういう国づくりを、自治体制度設計を、国は行ってきたのですから。


ならば、どうすれば良いのか。
「政策標準化」と「横並び」という国の枠組みに抵触することなく、自治体を変える方法はあるのか。

逆手に取ることです。

シビル・ミニマムを逆手にとって、シビル・マクシマムを創造するのです。
シビル・ミニマムとは、自治体が住民のために備えなければならない最低限の生活環境を指します。全国どの自治体でも提供される、同一水準の画一的な行政サービスを指し、まさに国の政策標準化と横並びの構造です。

自治体は様々なサービスを住民に提供します。教育、交通、介護、福祉、土木、衛生、消防等々。その分野のどれかひとつで良いので、日本最高水準を目指してください。
それが私のいうシビル・マクシマムです。

これは、口で言うほど簡単なものではありません。

「私たちの自治体は、公共交通の住民負荷が全国最小の自治体です」
と宣言してみましょう。自治体内の住民が、子供からお年寄りまで自由に公共交通を使い、その負荷がない。そのような自治体がこれまで存在したでしょうか。
もちろん、そのような自治体であれば、人の移動の自由さが「人・モノ・サービス」の自由化へつながる政策を容易に打てるはずです。

「私たちの自治体は、子供たちに学校教育内容を100%理解させて卒業させる、日本で唯一の自治体です」
と宣言してみるのも良いかもしれません。ただし、県教育委員会との軋轢や予算措置を覚悟してください。
しかし、親世代には「子供を育てるなら〇〇市だ」との強烈な言葉を植えつけることでしょう。

「私たちの自治体は、観光客に完全な満足を与える、日本で最高の自治体です」と宣言すると、何をしなくてはならないでしょう。観光客の満足度を最大限にするために、交通・飲食・宿泊とうとうのネットワーク整備を図らねばなりません。
「手ぶらで来てください。われわれは貴方の要望に全力で答えます」
それをやった自治体が存在したでしょうか。

高齢者福祉に特化したシビル・マクシマムも充分に考えられます。子育て世代に特化したものや、学習障害発達障害の児童・生徒への教育に特化したシビル・マクシマムも可能です。


「カテゴリーをつくれ」
《中編》で述べたカテゴリーとは、シビル・マクシマムの創造です。
新しいカテゴリーをつくり、自治体がその方向へ進む。どのカテゴリーを選ぶのか、そこにこそ、自治体の「戦略」が求められるのであり、この段階で初めて、市民はどのカテゴリーを選択するかというの政治的価値判断を行使することが可能となります。




ただし……戦略を立てても、それだけでシビル・マクシマムは創造できません。人材と資金が足りないのです。

人材と資金をどこから?
冒頭に掲げた問題がその解答を示すでしょう。自治体を構成する「行政と市民・市民団体・企業とのコーディネーション」です。




行政は市民や企業と協働できない

国の政策標準化は、自治体に強大な影響力を及ぼします。しかし、政策標準化の効果が及ばない領域も自治体内には存在します。

市民と企業です。
元々、政策標準化は自治体内の行政セクターに働きかけ、結果として市民生活に影響するするという形式をとります。したがって、国から直接働きかける制度、例えば年金・医療・介護等々を除き、政策標準化は自治体内部の行政セクターを対象とします。

さて、国の政策標準化を逆手にとってシビルマクシマムを実現しようとするとき、必要となるのは人材と資金です。この調達を図ろうとするならば、市民と企業と行政が協働して行うより方法はありません。
ところが、冒頭で「行政 笛吹けど、市民 踊らず」と申し上げたように、市民・企業と行政のコーディネーションは上手くいかないのが通常です。


なぜか。
それは簡単なお話で、そもそも行政は市民や企業と協働できないからです。

私の経験上、この話を自治体職員にすると、間違いなく嫌な顔をします。自治体職員の意識の中では「私たちは、市民や企業と協働している」との意識があるからです。それを否定するつもりもありませんし、自治体職員を責めているのでもありません。

「行政は市民や企業と協働できない」これは自治体職員や政治家の責任ではありません。そもそもの制度設計がそうなっているからです。

それが「公権力行使の独占論」です。



公権力行使の独占論

ひとつの思考実験をしてみましょう。

町内会が自治体の中にあります。
ある町内会長がひとつの提案をしました。
「俺たちは、自分たちの住んでいる地域のことを誰よりも知っている」
「ならば、町内会が結束して、行政に俺たちの要望を通そうじゃないか」
彼は、他の町内会長を説得して、自治体のすべての町内会が入る組織を作り上げ、「町内会連合会議」との名づけました。

こうなると、真っ先に骨抜きにされるのは議会です。
議員は地元の支持を得なければ当選できない。その地元の組織は一致団結して自治体全域を固めている。こうなると、議会はその町内会連合会議の意向を無視できません。

行政もこれには頭を悩ますでしょう。自治体内で施策を実施する際に、地元の同意は不可欠です。ところが町内会連合会議が一致団結して行政に歯向かう状態が出現したら、行政は施策を実施することができません。

この町内会連合会議は、次第に、力を発揮し始めて住民自治の理想を実現しようとします。
「来年度の、〇〇市の予算案を町内会連合会議に持ってきなさい」
「私たちの同意がないような予算案は、議会に働き掛けてボツにする」
ここまで来ると、実際に自治体を運営する隠然たる力を持つのは、住民の代表である町内会連合会でしょう。

彼らは自分たちが持った権力の大きさを十分に自覚しています。したがって、民主的な手続きを自ら定め、公平・公正に住民の意思を反映させようと努力し、実際にそれは実現されています。
しかし……どれほど、この町内会連合会議が力を高めようとも、彼らは絶対にある権限を得ることができません。

それが「公権力の行使」です。

公権力の行使の独占とは、行政処分や公の意思決定に関する事務は公務員に独占させるという考え方です。

考えてみれば不思議な話です。

住民自治を基本とする地方自治体ならば、先ほどの思考実験でいう町内会連合会が「公の意思決定」を行っても良いはずです。否、事実上の公の意思決定は彼らがしているのかもしれません。しかし、彼らは住民であり公務員でない以上、決して彼らが公権力を手にすることはできません。

公権力の行使は公務員が独占する。これは法が定める以前の話として強固なドグマを形成しています。

一例をあげましょう。外国人は日本国の公務員になることができるのか。この問題につき、1953年3月25日の内閣法制局はひとつの見解を示しました。
「法の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには、日本国籍を必要とするものと解するべきである」
国家意思の形成への参画は公務員に独占される、したがって、国民でない外国人が公務員になることはできない……と述べているのであり、公権力行使の独占は、明文規定がなくとも法理として当然のものと位置づけられています。

「行政は、公権力を独占する公務員により運営される」
「公権力を行使する以上は、不偏不党・公正・中立でなければならない」
この論理は、あたかも警察権の「民事不介入」のように、行政の出足を鈍らせ、行政と市民・企業との協働を阻みます。

行政が商工振興を図ろうとする際に、工場誘致の補助金を手厚くする、出店補助金を創設するといった補助金行政が一般的です。
なぜ、行政は補助金行政を行うのか。それは、不偏不党・公正・中立であるからです。「民間のことは民間で決めてもらう。行政はインセンティブを与えるのみである」
なぜなら、行政は公権力を扱うがゆえに民事不介入だからです。

行政自身が壁を作ってしまっています。
この壁が自治体内における「行政と市民・市民団体・企業」のコーディネーションを不全化し、シビル・マクシマムの実現を困難にします。

シビル・マクシマムが創造できない以上、自治体は明確に他自治体との差別化を打ち出すことはできません。差別化が打ち出せない以上、個別的政策の差異を訴えるより他に手段を持ちません。

それでは、若者の心の中に言葉を植えつけるどころか、子育て世代や高齢者に対してもインパクトを持たないでしょう。



エピローグ

私はこんなことを考えています。
不死の人間がいないように、不滅の組織もあり得ない。最善の組織もあり得ないし、最高の自治体も存在しない。
でも、それを目指すことはできるはずです。
戦後の高度経済成長を支えた地方制度の枠組みは、明らかに制度疲労を起こしています。しかし、国がその枠組みを変えてくれるのを待っていたのでは、われわれ地方の人間が死滅してしまう………ならば、法が定める枠組みの中で、換骨奪胎しながらやるより他にない。
そう思うのです。

《前編》《中編》《後編》と三回にわたって述べた後には、当然に、「公権力の独占論をいかに骨抜きにするのか」が次のテーマになります。

これについては、(誠に勝手ながら)別に論考の場を設け、そちらに譲ることに致します。
なぜなら、それこそが私が市長選挙で掲げた『行政2.0』そのものだからです。


『行政2.0』とは何か。ここでそれを述べることは致しません。次の話を出すことでご容赦ください。

経営学の歴史に詳しい方ならば、経営戦略理論には二つの潮流があることをご存知でしょう。
ひとつは、ポジショニングであり、ひとつはケイパビリティです。
ポジショニングとは、ざっくりとした説明になりますが「外部環境を重要視する」立場です。儲かる市場を探して儲かる立場を築けば、企業は利益が上がるではないか!と主張する説です。
ケイパビリティとは、「内部環境を重要視する」立場といえます。企業活動は人間的側面が強いのだ。組織としての強みなどを活かすことが重要だ!と主張する説です。


自治体が、どの分野でシビル・マクシマムを創造するのか。これはポジショニングの議論です。そして、自治体内部で行政と市民・市民団体・企業がどのようにコーディネーションされるのか。これを扱う『行政2.0』はケイパビリティの問題といえるでしょう。

どちらが大事かという問題ではなく、どちらも欠かすことのできない大事な問題です。


ポジショニングとして、どこを目指すのかを明らかにしない。
ケイパビリティとして、組織内のコーディネートがうまくできない。
このような自治体組織そのものを変えていかなければ、自治体内の人材が腐ってしまう。結果として、自治体の活力自体が失われていきます。

そういった自治体の姿そのものを変えていきたい。
それが私の見果てぬ夢でもあります。