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月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

花月楼に関する3つの疑問 ―インターミッション―

 

インターミッション

なぜかブログに花月楼のことを書き始めたら、色々な人から色々なことを言われるようになりました。ちょっと不思議な想いがします(苦笑)。

花月楼を再生するな!」「手を加えるな!」という趣旨ではありません。要は「時期が早すぎる」ということです。

花月楼の問題は、単に花月楼だけの問題ではありません。勝山市の大きな流れを見て判断しなければならない問題です。

……というわけで、今回はインターミッション。幕間劇をお楽しみください。



負のスパイラル

多くの自治体が抱えている問題は、負のスパイラルから成り立っています。
手書きで申し訳ありませんが、下の画像が負のスパイラルです。

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自治体は様々な問題を抱えています。農業でいえば、後継者の問題、耕作放棄地の問題。福祉政策、中心市街地活性化、教育問題等々、数え上げればキリがありません。
これらの諸問題のほとんどが「人口減少」から発生していることを押さえておいてください。

そして、これら諸問題の多くが未解決のまま放置されている。もちろん、行政も市民も様々な努力をしてきたことは事実です。しかし、残念ながら行政主導のやり方では解決できない問題ばかりです。

「また、ダメだったか」「どうせ勝山じゃ何やったってダメだよ」:との諦観、つまりあきらめムードが漂ってくると、当然に人々は市外へ転出し始めます。

転出された方々に詳しく話を聞くと、実は転出の理由は「新しい場所へ行ってみたかった」とか「職場に近いから」とか「酒飲んだときに、勝山まで変えるのが面倒だ」といった……そういうレベルの理由が多かったりするのです。
(もちろん、深刻な理由を抱えていらっしゃった方もいましたが)

 転出が増えれば、人口減少が進むのは当然の理。そして、人口減少が進めば、未解決の問題たちは、解決するためにより困難さを求めてきます。


この負のスパイラルを断ち切り、なおかつ、矢印の向きを逆転させることに成功したら?
つまり、正のスパイラルが動き始めたら?
なかなか面白い世の中になると思いませんか?


そうなるためには、この忌々しい負のスパイラルのボトルネックを探さねばなりません。
そう、ボトルネックは「諸問題を解決できていない」こと。
正確に言えば、「解決できたと『実感』できていない」ところにあるのです。





我々に必要なもの

我々は理性で動いているようで、その実、感情の生き物です。理性で考えれば「これを食べればダイエットにならない」と分かっていても、目の前のドーナツに手が伸びる。「ここで子供を叱ってはならない」と分かっていても、つい子供を怒鳴ってしまう。部屋を片付けなければわかっていても、億劫でやめてしまう。

そんな経験は私だけではないはず(多分)。

先ほど申したように「諸問題を解決できていない」ことと「解決できたと実感できていない」ことは、似ているようでまったく別物です。

私事ですが、最近、息子からせがまれてインライン・スケートを買いました。
早速、息子が試してみるのですが、なかなか上手くいかない。私も横からアドバイスをするわけです。練習を繰り返す過程で、色々なことができるようになってくる。
「やったね。できるようになったじゃないか」:
と息子に言っても、当の本人は浮かぬ顔をしている。どうやら、できたという実感が湧かない様子。

「問題が解決できた」とは息子が技をできる段階まで達した「事実」です。しかし、できるようになったと実感するのは息子自身です。彼が「実感」できない限り、息子はできたとは思っていない。この乖離こそが重要なのです。


「物事を改革しようとする際には、変化を細かく起こせ!」とは、よく言われることです。言うなれば、数学のテストで40点しか取れない子供に「次のテストは90点を取りなさい」などと言っても無駄なのです。40点しか取れない子供ならば、次のテストは45点を目標にしなければならない。変化は細かく起こさなければならない……という意味なのですが、これは必要条件であって十分条件ではない。


正確には、こう言わなければなりません。
「物事を改革しようとする際には、変化を細かく起こして、それぞれの段階で勝利体験を実感させよ!」
40点を取った子供が、次のテストで45点を取った。これは大きな進歩です。しかし、「事実」として進歩したとしても、当の本人が「でも、クラスの全員は僕よりもいい点数を取ってるんだ」と進歩を「実感」できないのであれば、それは勝利体験とは呼べません。いくら外野が誉めそやしたところで、当の本人が実感できていなければ、それは勝利体験とは言えません。

逆に言えば、変化が起きたことを「実感」させれば、次のステップへ進むための強力な動機付けになるのです。

日本には「雪だるま式借金」という言葉がありますが、アメリカには「雪だるま式返済法(Dead Snowball)」というやり方があることをご存知でしょうか。これは借金返済方法としては異例のやり方です。
    ①借金のリストをすべて書き出せ。
    ②それらを金額の小さな順に並べよ。
    ③まず、完済するのは小さな金額の借金から。
ルールはこれだけですが、常識的にはあり得ない方法です。通常ならば、金額の高い借金から完済していかなければなりません。なぜなら、金額が高い借金は、それだけ利息が高いので、後回しにすればするほど借金の山がうず高く積まれるからです。

この「雪だるま式返済法」を提唱したラムジー夫妻は、それでも「小さな借金から支払うべきだ」と主張し、事実、夫妻自身はこの方法で借金地獄から抜け出しました。

人は負債の山を前にすると無気力になる。果てしなく続く借金との戦いに「自分でも勝てる!」と確信を持ちながら戦い続けるためには、2000万円の借金を返すために途方もない努力をするよりも、まずは、滞納中の1万5000円の携帯電話料から支払うべきなのだ。ひとつひとつの勝利が次への戦いへのモチベーションとなるのだ……という趣旨なのです。

「実感すること」が次へのステップのモチベーションになることの好例です。



政治が人を相手にする行為であるにもかかわらず、政策立案者は、ややもするとここを見逃します。

今の我々に必要なものは「小さな勝利体験」であり、勝利を「実感」することです。


花月楼自体を再生させようと思えば、たいして難しい話でもありません。行政がテコ入れし続ければ良いだけ。

行政関係者は忘年会・新年会、各種会合は必ず花月楼を使うこと。旅行代理店を通して、飲食は必ず花月楼を使うように指示すること。毎年、イベント費用をつけて花月楼周辺で定期的にイベントを実施すること。これらのことをやり続けていれば、花月楼には人が訪れ、「事実」として花月楼の入込客数は増加することでしょう。

しかし、それは市民が「実感」する「勝利体験」ではありませんね。


市民が「実感」する「勝利体験」とは、中心市街地に市民自身が周遊することです。
例えば、市民の高齢者が中心市街地を2~3時間ゆったりと周遊できるプログラムを作りる。「今日は中吉座で昔の映画をやってる」と聞いたので、お年寄りが友達と連れ立ってやってくる。ついでに、茶飲み話もしていく。ふと周りを見回すと「最近、この界隈を訪れる人が増えてきたな」と実感する。

こういった勝利体験の積み重ねを実感してこそ、初めて、中心市街地活性化の第一歩が築けるのです。「市民は中心市街地を周遊しないが、花月楼だけは観光客が来ている」という事態は、市民の勝利体験ではありません。


そして、「市民の勝利体験」は思わぬ効果を産むことでしょう。
それは「道の駅はコンビニに負ける」という、不吉な予想ともリンクしています。






行政主導の欠陥

高速道を走っていると、コンビニが入っているサービスエリアがあることに気付きます。不思議だと思いません?コンビニに売っている商品の大半は、サービスエリアの売店でも売っています。しかしながら、コンビニはそこにあり、実際にお客さんが来る。


これは理由が二つあると考えられます。

ひとつは「意思決定の麻痺
選択肢が増えれば増えるほど、それがどんなによい選択肢であろうと、我々は凍り付きます。

 野村総研が行った調査で見えてくるものは「情報が多すぎて困る消費者」像です。
日本の消費者の7割が、商品やサービスを購入する際に「情報が不足していて困る」よりも「情報が多すぎて困る」と感じていることが、1万人アンケート調査からわかっています。

 

情報が多すぎる、つまり選択肢を増やせば増やすほど、人々は疲れ果てます。

結婚されている方は、奥様がこういうセリフを吐かれる場面に出くわしたことはありませんか?
「今日の晩御飯、なににしようかしら? もう毎日考えるのは面倒くさいわ」

合理的な判断に従えば、選択肢が増えることは自由度が高まることであり、称賛されてしかるべき状態のはず。しかし、人はどうやら選択肢が多くなればなるほど疲れてしまうようです。

 バルー・シュワルツは、その著書の中でこう言っています。
多くの選択肢に直面すると「人は負担を背負いきれなくなる。こうなると、選択の自由はわたしたちを解放するどころか、委縮させるものになる。暴圧といっていいかもしれない」

新装版 なぜ選ぶたびに後悔するのか オプション過剰時代の賢い選択術

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目の前に、道の駅やサービスエリアがあります。
そこに立ち寄れば、確かに地場産品が売っていることでしょう。しかし、それは「選択肢を増やす」ことに他ならない。ならば、慣れ親しんだコンビニに入るほうがいい。何が売っているかもわかっている。どういう陳列棚になっているかも予想できる。そちらのほうが、よほど気楽でいい……と考える人々が多いからこそ、サービスエリアや道の駅の中にコンビニが存在するのでしょう。





サービスエリアや道の駅の中にコンビニがある、ふたつめの理由は「コンビニが自分の部屋の延長である」ことです。


コンビニがなぜ存在するのか。これは昔から抱いていた疑問でした。24時間開店しているからなのか?……とも考えましたが、仮に、24時間開いているスーパーの隣にコンビニがあったとしても(現実にはありえませんが)、私はコンビニに行きます。

これは女性陣には理解しがたいことかもしれませんので、ご主人にお尋ねください。男性陣はかなりの確率で私の意見に賛同していただけるものと思っております。「単にスーパーで買い物した経験がないからでしょ?」という理由でもないのですw

コンビニに行く理由……というよりもコンビニに行くと落ち着く理由は何なんだろうと考えた挙句、「コンビニは自分の部屋の延長ではないか?」という理由に落ち着きました。

自分のアパートの冷蔵庫の延長がコンビニの保冷棚であり、自分の本棚の延長がコンビニの本棚なのです。コンビニに「ぶらりと行く」のは、何かを買うためではありません。行ってみて「欲しいものがあれば、補充する」感覚なのです。特に欲しいモノがなければ、まあ、店にも悪いから肉まんのひとつも買って帰るか……となる。スーパーマーケットは必要なものを買いに行く場所です。コンビニは、行ってみて必要なものを補充する場所なのです。「とりあえず、行ってみる」という場所がコンビニなのですね。

サービスエリアにコンビニがある。すると、別に何を買うわけでもないけれど、まずは行ってしまう。それがコンビニの面白さであり、恐ろしさでもあります。

生半可な道の駅では、目の前にあるコンビニには勝てませんよ。これは私の持論です。





本論に戻しますと、コンビニは「とりあえず、行ってみる」場所です。
前述したように、中心市街地に高齢者の流れが出来た、その勝利体験が生まれたならば、シメたものです。そこは「とりあえず、行ってみる」場所になったからです。



今年の1月のことです。農水省にお話をしに行ったついでに、「おばあちゃんの原宿」として有名な「とげぬき地蔵商店街」をじっくりと見てきました。

わかったことは、高齢者の動線はただひとつであること。とげぬき地蔵で有名な高岩寺にお参りして「体の痛いところがあるのなら、お地蔵様の同じところをさする」だけ。後は、お友達とお茶をして帰る。実際に聞き取りしたお年寄りは、この行動パターンでした。

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要はニーズを掴んでいるかどうかです。高齢者に話を聞き続ければ、実は、高齢者は「お友達とお話する」場所があればいい。それがよくわかります。すると、「お友達とお話をする『きっかけ』を作って欲しい」というニーズが表面に出てきます。


ここでコンビニの「とりあえず行ってみる」が出てくるわけです。
「とりあえず、お地蔵さんにお参りしよう」
これがお友達を誘うきっかけになる。人通りも多いし、なにやら楽しそうだ。ならば、行ってみようか……という話になる。


もう一度、振り返ってみましょう。
「小さな成功体験」とは、「あれ?最近、この近辺に賑わいが出てきたな」という実感です。それは、実体験として「実感」できる。
すると、その実感を他人に話したくなる。
「最近、本町や後町に人の流れが出てきたみたいやざ」
「なんで?」
「私も行ってみたけど、いろんな面白いことやってるみたいや」
「ほんなら、いっしょに行ってみよさ」


おわかりでしょうか。
「勝利体験」が「市民としての自信」を産んでいることに。勝山にも面白い場所が出来たざ、「とりあえず行ってみよさ」……という流れに。それがコンビニのように「自分の部屋の延長線」に捉えられてくれるようにまでなれば完璧です。





さて、これが行政主導でできるでしょうか。
どのような理屈を並べようとも、昨年から眺め続けていた結果と、私の行った聞き取り調査を総合すると、今回の花月楼の再生は行政主導としか言いようがありません。


私が「花月楼の再生は時期尚早だ」と主張する理由がおわかりいただけるでしょうか。
市民が周遊しない場所に観光客を呼んだところで(それ自体が不能ですが)、それが負のスパイラルを解消するものなのでしょうか。

ましてや、行政主導で行われる本事業を引き受けた人々、企業、団体の人々が引き受ける避難やご苦労を思うと、正直気の毒でなりません。


許せないこと

議会内部にも「とりあえずどうなるのか。お手並み拝見」という意見があるのですが、正直、私はそのような意見を持ちえません。

今回の花月楼再生において、勝山市は商工会議所、観光協会まちづくり会社というカードをテーブルの上に出そうとしています。このカードはここで切るべきではありません。なぜなら、このカードを切ってしまい、失敗の憂き目にあったならば、我々に残されたカードはもうないのです。

「最初から失敗を考えてどうする!」と私に言った人がいましたが、ならば逆に教えていただきたいくらいです。「成功する要因はどこにあるのです?」と。

このカードは、軽々しく切るべきカードではないし、その時期でもない。