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月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

【雑感】 役所のやることがうまくいかない理由とは? (前篇)

初めに

誤解を避ける意味で、冒頭に申し上げます。これから述べる内容は、勝山市役所を念頭に置いてのことではありません。おそらく津々浦々の行政に大なり小なり当てはまることでしょう。

 

そして、これも念を押しておきたいのですが、「役所がダメだ」という結論を導き出すのが、本稿の目的ではありません。後で述べるように、マックス・ウェーバーは官僚制度に何かしらの期待を抱いていたのです。血縁によらず、専門的知識労働者たる官僚たちがその持てる力をフルに発揮できるならば、必ず世の中はうまくいくはずだ…と。

ところが、なぜかそれはうまくいかないようです。

それはなぜなのだろう。私はそこを知りたい。

もちろん、その答えがすぐに導き出せるはずはないのですが、つらつらとそういったことを考えてみたいのです。

 

そして、私はこうも思うのです。

個別の役人・官僚の人格が問題なのではない。官僚制度のメカニズムそのものに問題があるのではないか。官僚制度が人間性そのものに訴える『何か』があるのではないか。

そこを正確にとらえないと「お役所仕事」はいつまでたってもなくならない。

 

 

  

お役所仕事とは?

 

「お役所仕事」という言葉があります。

 

この「お役所仕事」を考えたのはマートンという社会学者ですが、マートンの考え方を理解するためには、まずはウェーバーについて語らねばなりません。でないと、「お役所仕事」の本質を見誤ることになりますので、しばしのお付き合いを。

 

M・ウェーバーはドイツの人。19世紀から20世紀にわたって活躍しました。 『プロティスタンティズムの倫理と資本主義の精神』、『職業としての政治』『職業としての学問』などは現在でも大きな影響を及ぼしています。

 

ウェーバーは近代官僚制度についても考察しました(というか、おそらく近代官僚制度の研究は彼に始まると言っても良いでしょう)

 

統治をするには、統治のシステムが求められます。この点は、近代であろうが古代であろうが変わりません。統治者がいること。統治のルールがあること。そして、統治のシステムがあること。この3点は、現在も過去も同じなのです。

中世の家臣団による統治システムでは、血縁によるつながりや感情的な結びつきが重要視されました。これに対し、近代官僚制度は「法というルール」に基づき「歴史的特権身分が廃止された人々」による統治の手法だとウェーバーは言うのです。

 

おそらくウェーバーは民主制度の確立において、近代官僚制度が果たす役割に期待していたと私は思うのです。法というルールに則り、その職務に精通した人々が特権に依らず選ばれて従事することで、市民に対する福利は増すはずだと。

 

そして、ウェーバーは近代官僚制度を詳細に定義しました。

この定義から「官僚制度の逆機能」を引き出したのがマートンです。

 

マートンは主張します。

ヴェーバーの言うことはもっともだ。だが、ヴェーバーの主張するような『官僚の特性』が正しい方向に働けば良いが、悪い方向へ働くと次のような点が出てくる」

 

彼が『官僚制の逆機能論』で特に強調したのは、次の3点でした。

 

①法や規則の手段の自己目的化

ウェーバーが近代官僚制度の特徴として挙げたのは、「法というルールに従う」ことでした。ところが、この法令・規則の順守が行き過ぎるとどうなるでしょうか。

本来、法例は「あるべき姿を達成するため」に制定されるものです。ところが法令・規則の順守が行き過ぎると、本来の目的達成を次にしてでも法令・規則を守らねばならないという、手段と目的の逆転現象が発生します。前提となっている事実・状況が変化しても法令・規則を貫徹しようとする原理主義的発想になり、臨機応変な対応をすることができません。

 

②官僚組織の同調主義・自己保存化

形式的に法令・規則を適用する「形式主義」が行き過ぎると、今度は「秘密主義」が頭をもたげてきます。マートンは言います。官僚組織は外部に対して法規の絶対化を主張し妥協することを知らないが、身内に対しては情緒的な同調をする。官僚組織の存在意義が自己保存と自己肥大に傾くと。

 

特に、日本の文化風土として、組織は『疑似血縁団体』としての性格を帯びる傾向があります。「会社は家族のようなもの、会社のために働く」といった「会社人間」が典型例で、会社とはひとつの血縁団体でもあります(ですから会社からの解雇が村八分・勘当といった意味合いを帯びるのですが)。

 

組織は、企業であれ行政であれ何らかの目的を必ず持っています。その点は「家族」といえども同じです。ただ、家族が他の組織と一線を画しているのは、家族の場合、その目的は「存続すること」「維持すること」が第一義であり、「活動」を中心に置いていないことです。石油を販売しない石油会社はありませんし、モノを作らない製造会社も考えられません。企業はその「活動」を中心に置きます。しかし、日曜日にお父さんが子供を遊園地につれていかなければ成立しない家族というものはありません。

家族は、活動を中心に置かず、その維持を中心に置きます。

そして、組織が『疑似血縁団体』……すなわち、「擬制的家族」としての性格を強く帯びるようになると、組織の自己保存が最優先されるようになります。

「わかってはいるのだけれど、切るには忍びない」といった感覚を否定しづらいのはこの情緒が理性的判断を阻害するためです。

 

③官僚組織の非人格的な画一的対応

「お役所仕事」のイメージとは「愛想がない、融通がきかない、機械的対応」といったネガティブなものばかりですが、これは行政サービスという平等性を突き進めていくと、必然的にこうなってしまうわけです。

ウェーバーは近代官僚制の特徴を「非人格的」であることに求めました。「非人格的」であることは「非人間的」であることと異なります。人によって態度を変えることなく、サービスを提供する。職員の「この人は好き、嫌い」といった個人的嗜好で態度が変わる、こういったことをウェーバーは「人格的」として非難しました。

ところが、「人によって態度を変えることがない」ということが裏返されて「誰にでも同じような対応しかとらない」、挙句に「市民のニーズに応えられない」という結果に陥っているとマートンは主張します。

 

 

 

 

前提

 この「お役所仕事」の問題は、実は、もの凄く議論が広範囲にわたり、かつ、根が深いものです。

一番まずいのは、「役所はダメだ」「役人は世間を知らない」「役人は馬鹿ばっかりだ」と言ったレッテルを貼って議論を済ませてしまうこと。これでは、問題は何も解決しません。

 

 この問題を考える際には、次の3つの前提を置いた方が良いと思われます。

 

①「お役所仕事」の改善は、我々の生活を豊かにするであろうこと

 よく「行政」と「政治」を混同される方がいらっしゃいますが、この二つは厳密に考えると全く異なるものです。

 

 行政学のテキストなどでは、行政を次のように定義します。

「政治体系において権威を有する意思決定者によって行われた公共政策の決定を実行することに関連する活動」

 

行政とは、政策を実行すること。これが本来の意味です。そして、現代社会では市民生活の隅々にまで行政作用が及んでいます。朝起きて顔を洗う。その水は上水道です。通勤のために駅まで歩きます。その道は公道です。車での通勤をする方は、自動車を保有されていることでしょう。自動車は税金の塊です……といったように、福祉・教育・労働・産業政策、租税等々、生活の隅々にまで行政作用は及んでいます。

 

つまり、「お役所仕事」を改善するということは、我々の生活そのものを豊かにするのだという前提から話を進めなければなりません。 

 

 

 ②「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない

上記の前提に立つのであれば、「お役所仕事」の改善はお役所にだけ任せておけば良いというものではない……との考え方にたどり着きます。

 

「お役所仕事」の改善は、私達市民の生活そのものを劇的に変えるかもしれない。ならば、市民もひと肌脱ごうではないか。そういう発想に立ってもらうと、話は随分とやりやすくなります。

 

役人も市民です。我々も市民です。同じ視点で、我々の生活を豊かにするべく考えようではありませんか。

それこそが「地方自治の本旨」だと私は思うのです。

 

③「お役所仕事」の張本人は、至極真面目に仕事をしている

ならば、肝心の役人の人たちはどうなのか?というと、実は彼らは至極真面目に仕事をしています。中には、ごくごく少数ではありますが、そうでない人もいますが……まあ、それはどんな組織にもいる人たちです。

 

ほとんどの役人たちは真面目に仕事をしている。だからこそ、問題なのです。

 

企業でいうならば、利益のでない仕事に従業員が精を出すことほど無残なことはありません。顧客である市民に「お役所仕事」と叩かれながら、そのお役所仕事に本人たちは一生懸命取り組んでいる。そして、役人自身が「役所が叩かれるのはしょうがないよ」と半ば諦めている。

 

喜劇を通り越して、悲劇的ですらあります。

社会的リソースとして、役人の皆さんは貴重です。彼らの能力を開放する仕掛け、仕組みはないものでしょうか。

 

ウェバーは民主主義の担い手として官僚制度に期待しました。それは官僚制度がある種の特徴を持っているからです。そして、その特徴を突き詰めてしまうと、逆に民主主義を阻害するのだと主張したのがマートンでした。

コインの裏表のような、この議論。我々はどのように考えればよいのでしょうか。

 

 (かなり話が長くなりました。この続きは、後編へ)