多元社会の到来
「経営学の父」と称されるドラッカーは知識労働者の役割を極めて重視した。
そして、知識労働者が重要な役割を果たすが故に、社会は多元化せざるを得ないとの結論に達する。
なぜなら、知識労働者がその専門性をいかんなく発揮するためには社会は細分化せざるを得ないからである。
医療の世界が「内科」「外科」といった大まかな分類を超えて、「口腔外科」「小児内科」といった細分化を辿った原因は、その方が医師の能力を特化できるからである。それは医療の世界にとどまらず、凡そ知識労働者の世界は専門化の方向へ進む傾向にある。特化・専門化した領域で強みを発揮する方が、よりニーズが満たされるからだ。
すると、専門化した組織は自らの目的を中心に置くようになる。そのような組織が社会の中に乱立した場合、それぞれの組織が独自の言葉で話し、独自の知識、独自の秩序、独自の価値観で動くようになる。
さて、ここで困ったことが生じる。
独自の価値観で動く組織は、ややもすると「それは我々の関知するところではない」と責任を放棄する傾向が生じることだ。「細分化されたニーズを満たすことは我々の組織の責務だ。しかしながら、社会全体に対する責任を我々が負うことはできないし、そもそもそれは我々の責務の範疇を超えている」と言われるならば、確かにもっともな理屈である。
しかし、世の中の組織が「社会の問題は我々の仕事ではない」と言い始めたならば、社会の問題は誰が解決するのだろうか。
これは、ドラッカーがその著『新しい現実』の中で投げかけた問いである。
おそらく、人々はこう言うだろう。
「社会の問題?それは『政治』が解決すべきことでしょう?」
違うのだ。はっきり申し上げるならば、もはや「政治の力は、皆さんが思う以上に力を削がれ」ている。
私も政治家の端くれである以上、上記のような発言をするのは屈辱的ですらある。しかし、この点を認識しないことには、政治は先に進むことができない。
なぜ、政治の力が削がれているのか。それは、「見えない循環論法」が生じているからである。そして、この「循環論法」が見えてこないと、今後の政治は大きなミスを起こしかねない。
この「循環論法」を説明する前に、ドイツの社会学者ウルリッヒ・ベックが言う「サブ政治」に言及したい。
ベックの言う「サブ政治」とは、本来政治とは無関係であった科学技術や経済が政治的な機能を果たすことを言う。端的な例を挙げるならば、ベックも記述したように「原発」の問題がある。本来、原子力発電とは科学技術的な側面しかなかった。それが今では政治の重大論点にまでなっている。遺伝子工学もそうだ。iPS等の技術そのものは科学技術でしかないが、それにより臓器複製、クローンと進んだ場合に政治的な側面を腹蔵せざるを得ない。
従来の「政治」とは、公権力に裏付けられた政治であった。その牧歌的な時代は過ぎ去り、公権力の裏付けのない政治、すなわち「サブ政治」の力が増大した現在において、果たして従来型の政治はどれだけの力を持ちうるのだろうか。企業が自主的に開発した画期的な技術は、私的な権利である。それを前にして公的な「従来型の政治」はどれほどの権限を持つのか。
ベックが提示した疑問は、ドラッカーが明らかにした知的労働社会と見事にひとつの線でつながる。
冒頭に示した、ドラッカーが投げかけた問いをもう一度噛みしめてみよう。
「知的労働者が力を持つ社会においては、組織は独自の言語、独自の論理、独自の価値観で動く」
「しかし、それらの組織のうち、社会全体に対して責任を負うものはひとつとしてない。社会の問題は誰かの仕事とみる。しかし、それは誰の仕事なのか」
そして、人々は言う。
「社会の問題?それは『政治』の仕事でしょう?」
ここでベックの言う「サブ政治」を思い出していただきたい。ドラッカーが言うように、知的労働者が重要な役割を果たす社会とは、ベックが言う「サブ政治」が力を持つ社会なのだ。それぞれの分野に特化した知的労働者がニーズを満たすために、その強みを発揮すれば、否が応でも「サブ政治」の力は増す。
①知的労働者は、その強みを特化して発揮する。
②その強みは絶大な力で成果をもたらす。
③その結果、政治的役割を持たない「専門的な分野」が社会全体に大きな影響を及ぼす。
④ところが、その「専門的な分野」は従来型の政治の力が及ぶところではない。
⑤したがって、「専門的な分野」が力をつければつけるほど、従来型の政治は力を失っていく。
⑥そして、「社会全体のあり方を考える」はずの、従来型の政治は益々その力を失っていく。
この連鎖をどこかで断ち切らねばならない。それが現在の政治学、そして政治思想に課せられた重大な論点だと私は考えている。
(現場で苦労している政治家の端くれの戯言ではあるが)