月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

官は強し 民は弱し

レストハウス長尾山が建つ

福井県を代表する観光名所になった感のある「福井県立恐竜博物館」。その県立恐竜博物館は、勝山市の長尾山総合公園にある。

その県立恐竜博物館の前に、レストハウス長尾山という建物がある。来館者に飲食を提供し、お土産物の販売等を行う場所だ。



まずは、このレストハウス長尾山の設立経緯について説明したい。

今でこそ、年間90万人を超える来館者が県立恐竜博物館を訪れる。しかし、レストハウス長尾山が誕生した16年前は、年間20万人程度の来館者しかなかったと記憶している。

行政は、観光協会に強く圧力をかけた。
「これから恐竜博物館の来館者をもてなす施設が必要だ」
観光協会が率先してやって欲しい」

観光協会には苦い記憶があった。
越前大仏である。

30年前の昭和62年5月18日に開眼法要をした越前大仏は、その圧倒的なスケールと規模により大きな集客力が予想された。地元商工会議所の主導により門前市には多数の店舗が入店した。
当初こそ、抜群の集客力を見せ、門前市の店舗は大いに賑わったときく。しかし、その集客力を維持できず、観光客が減少し門前市に出店した店舗主たちは大きな負債を抱いて撤退した。夜逃げ同然に勝山を後にした人もいたと聞く。残された店舗主たちも、負債の返済に多くの時間を費やした。

勝山市内の商工業者がその返済に苦しんでいる、まさにその時期に、行政から「長尾山に誘客施設を作れ」と迫られたのである。観光協会が躊躇するのは十分に理由があった。また、2000年に開催された恐竜エキスポこそ大きな賑わいを見せたものの、それ以降、恐竜博物館は閑散としていた。あの当時、恐竜博物館は海のものとも山のものともわからなかったのだ。

行政の圧力は増すばかりで、
「あんたらがしないのなら、福井から業者を引っ張ってきてもいいんだぞ」
と半ば恫喝をする段階まで行った。一連の発言は、当時の観光協会理事会の議事録に残っていると伺っている。

観光協会は組織として動けない。しかし、行政は強圧的にやってくる。福井から業者を引っ張ってくるとまで言われては地元業者の名折れ。

事ここに至ってはやむなし。
「これからどうなるかわからないが、まずはやってみよう」
観光協会会員の有志が集まって会社を設立し、レストハウス長尾山を建設した。もちろん、設立者たちの個人負担によってである。

観光協会が土地を借りて、会員有志が建物を建てるという形式はこのようにしてできた。

後々、この形式が彼らにとってアダとなる。





官は強し 民は弱し

レストハウス長尾山が立ち上がってしばらくは何の変化もなかった。恐竜博物館は、徐々に人を増やしてはきたものの、大きな変化はなかった。

2010年を超えたあたりから、少しずつ状況は変化する。福井県が特別展を開催し、PRに力を入れることで県立恐竜博物館の来館者数が劇的に増えていったのだ。

不思議なことに、それまで何の話題にもなっていなかったレストハウス長尾山が、来館者が増加するにつれ問題視されるようになる。

そして、レストハウス長尾山と観光協会に対して、行政から最後通牒が下された。
「次の賃借の更新はしませんから」

この辺りの経過については、別の機会に詳しく述べることもあるだろう。
ただ、当時の私は理不尽さを強く感じていたことは事実だ。なにしろ、行政は要綱を変更してまで更新できない理由を作り上げたのだから。

当時、既に観光協会の理事役員を退任していた方が、私に漏らした一言が未だに忘れられない。
「松村さん、役所はこんなにエゲつないイジメをするんですか」


無論、一度借りたら永代借りられるというものではない。契約法上、更新の都度都度に協議し更新しない場合はある。
しかし、レストハウス長尾山の設立経緯、そしてレストハウス長尾山の経営者たちは、まだ借金の返済途中であったことを考えるならば、酷な話であったことは事実だ。
「苦しい時に助けてくれと言いながら、儲かるようになったらジャマだどけ!と言わんばかりの役所の対応には腹が立つ」
どこを押しても何も変更できない。市議会議員として無力感に苛まれていた当時の私にとって、その言葉は堪えた。


前述したように、レストハウス長尾山の土地は観光協会が市から借りる、そして会員有志で設立した建物がその上に立つという形式で運営されていたのだが、その点がアダとなった。
観光協会の一部の人間が利益を貪っている」
と付け込まれたのだ。

一寸の虫にも五分の魂という。レストハウス長尾山には彼らなりの理屈がある。彼らは、誰も手を挙げなかったから悲壮な覚悟で店を構えたのだ。儲かる保証も見込みも無い中で地道な努力を重ねて、ようやく軌道に乗ろうかという段階で「お前らだけが利益を貪っている」とは、横槍もいいところだ。

それでも彼らは妥協案を出す。レストハウス長尾山のスペースの一部を開放して、広く出店者を募る。少なくとも私たちだけで利益を独占するつもりはない。

その妥協案は完全に無視された。

「特定の人たちだけが利益を得るという状況は、変更しなければなりません」
徹頭徹尾、それが行政の論理だった。

その論理の下に、建物は勝山市に無償譲渡を余儀なくされた。無論、店舗主が抱えていた借金はそのまま残された。





やはり官は強いのか

長尾山公園に、新たな誘客施設が建設される。その起工式が行われるそうだ。

観光まちづくり会社とは何ものか。私には未だに理解できない。
ただ、これだけは申し上げておきたい。

「特定の人たちだけが利益を得るという状況は、変更しなければなりません」
という行政の理屈でレストハウス長尾山は立ち退きを余儀なくされた。「建物の借金もようやく返し終えるので、もう少し待ってもらえませんか」との関係者の願いも踏みにじり、行政は半ば強権的に彼らの所有建物を市に無償譲渡させた。

その理由が、「特定の人たちだけに利益を得させない」ことであるならば、観光まちづくり会社は広く利益を分配させるものでなければならない。

本当にそれができるのか。

勝山市民には注視していただきたい。

松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.3

 

「想い」を伝える

いきなり話が飛びますが、「絶対に死なない生き物」がこの世には存在します。
何だと思います?
ウィルスです。

ウィルスが生物なのかどうか。これは学者の間でも、未だに決着のつかない問題なのですが、それはさておき。ウィルスは自分を分裂させます。ひたすら自分のコピーを作っていきます。ですから、自分が死んでも代わりの自分がいます。

しかし、我々はそうではありません。人類の祖先は、子を産み、育てるという方法を選択しました。ここで面白いのは、子を産み、育てるだけならば、人間の寿命は30歳くらいで十分だということです。実際に1900年の人口統計を見ると、日本の平均寿命は44歳になっています。これは、乳幼児死亡率が高かったせいもあります。

しかし、そんな中でも人類は文字を発明し、自分たちの記録を次の世代に残そうとしました。記録文学で、絵画で、彫刻で、何とかして自分たちの生きた証を残そうとしたのです。



「想い」を伝えることができるのは人だけです。確かに想いを伝えることは難しいことです。ですが、あなたの「想い」を伝えることのできる人は、あなた以外にいません。周囲の人に、次の世代に、あなたの「想い」は様々な形で伝わっていくのです。


話もいよいよ最後に差し掛かりました。
終わりに2本の動画をご覧いただきます。



まずは、寿司屋のコマーシャルです。


銀のさら CM 母と子




もうひとつ、見ていただきましょう。これは日本のものではなく、タイの生命保険会社のCMです。


タイ保険会社の感動して涙が止まらなくなる動画【日本語字幕】


どうでしょうか。

みなさんは誰にあなたの「想い」を伝えたいと感じましたか。

ぜひ、その方にあなたの「想い」を伝えていただきたい。これは私からの心からのお願いです。もしも、お家に戻られて、皆さんがだれか一人。奥さんでもお子さんでも、仏壇の中の遺影でもいい。だれかに「想い」を伝えていただければ、私の拙い話も無駄ではなかったなと思います。

長い時間、お付き合いいただきありがとうございました。とりとめもない話で申し訳ありませんでしたが、ご容赦ください。

ありがとうございました(拍手)。



















松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.2

 

我が国の不幸感はどこから来るのか

冒頭に申し上げたように、本当におじいちゃん・おばあちゃんは幸せなんだろうか。そういう思いが私の中にあります。

老健施設などに入っている人たちを見ると、どうしてもその思いが強くなる。これは施設が悪いんじゃないんです。施設の職員は本当に努力されています。それじゃ、施設に入れる家族が悪いのか。そんなことはありません。やむにやまれぬ理由があってのことです。誰も悪くない。でも、施設に入って「それじゃ、おじいちゃーん。運動しましょうか」とグーパー運動している姿を見ると、悲しくなるのです。

一生懸命に生きてきた人たちの尊厳ってどこにあるんだろう。おじいちゃん・おばあちゃんのひとりひとりにパーソナル・ヒストリー、つまり人生の歴史があり、大切にしているものもあり、生きがいもある。そういったものに光を当てられないものだろうか。

そんなことを考えてしまうのです。



実は、行政サービス自体も、この傾向があります。

行政サービスの特徴は、人の人生をストーリー化して対策を練るところにあります。

例えば、人を「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付する。そういう行政サービスを行います。「結婚して子供を産んだけれども、離婚して生活が苦しい」という人生であるならば、寡婦控除を給付する。そういう行政サービスもあります。

ただ、これには大きな欠点があります。必ず、このストーリーから漏れてしまう人がいる点です。

先ほど、「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付すると言いました。しかし、失業保険を受け取れる期間に必死で仕事を探しても見つからなかった人はどうなるのでしょう。
「働いている人」でも、若年労働者では低賃金で働いている若者が多数います。そういう人と50代で年収800万円の人を同列に扱って良いものでしょうか。

そういうとき、行政は、ストーリーを細かく細分化し始めます。働いている人の中で、更に年収200万円以下の人で、かつ、20代の独身者には、〇〇という行政サービスを支給します。といった具合に。

それでも、全てをカバーできないのです。必ず、漏れてしまう人たちがいる。



なぜなら、行政サービスというのは、サービスの許認可だからです。〇〇という資格のある人だけが受けることができる。これが行政サービスの特徴です。

最大公約数で「日本国民なら受けられる」行政サービスがあります。日本国民であることが資格になってるサービスです。義務教育などがそうです。65歳以上の人で年金を支払い続けた人ならば、年金受給の資格があります。要介護認定を受けた人、これも資格です。

行政サービスとは、詰まるところ、資格のある人は受けられるが、そうでない人は受けられない。そういうサービスです。

そうすると、結論として、高齢者の皆さんの生活をトータルにみる行政サービスは存在しないことになります。高齢者だからという理由で受けられるサービスは、ごく一部のものを除いて存在しません。



先ほど、老人施設でのおじいちゃん・おばあちゃんの扱いと行政サービスは似ていると申し上げました。
施設の職員の方にお話を伺うと、施設の人も困っているんです。レクレーションをしたいのだけれども、みんなに同じレクレーションをしてもすぐに飽きられる。かといって、ひとりひとりの興味に合わせてレクレーションを作り上げようとすると費用と時間がついていかない。仕方がないから、「おじいちゃ~ん。グーパー運動しましょうか」となってしまう。

行政サービスを徹底させようとすると、とてつもない費用と時間がかかります。したがって、水で薄めたようなサービスにならざるを得ません。

おそらく、ここにいらっしゃる皆さんは行政サービスに満足されていないでしょう。それはよくわかります。そういった苦情を何件も受けておりますので。

その苦情というか、声を聞いていると、不満の根っこにあるのは「まるで年寄りを乞食のように扱う」ことにあるように感じています。高齢者を「何でも欲しがる連中、ただもらうだけの存在、社会の金食い虫」のように扱う。俺はそれが我慢ならん。苦情の底には、そういう想いが見てとれる。

必要なことは人間の尊厳の回復です。
行政サービスも、老人施設も。


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孤立化する人々

尊厳の回復というお話に絡めて、孤立化についてお話ししましょう。

よく「孤独死」などがニュースになりますが、「孤独」と「孤立」は根本的に違うと私は考えています。

確かに両方とも、「独りでいる」という点では同じです。しかし、「孤独」とは、独りで想いを交し合う状態を指します。逆に、「孤立」とは、誰とも想いを交し合えない状態です。

これから、あるコマーシャルを見ていただきます。宝石店のものですが、登場する人物は、孤独なのでしょうか。それとも孤立しているのでしょうか。動画の終盤に、本当に小さな声で、主人公がある言葉を発します。お聞き逃しなく。



【ケイウノ動画】~ふたりで、ひとつの人生を~Full ver.


登場する男性は「孤立」していません。なぜなら、彼には語り合う妻が今も傍らにいるからです。もちろん、妻は既に亡くなっていますが、それでも男性は彼女と語り合うことができる。

本当に怖いのは「孤立」です。誰とも想いを交わすことができない。世の中に人はたくさんいるにもかかわらず、その誰とも想いを交わすことができない。これほど、辛いことはありません。

なぜなら、そこには「人の尊厳」がないからです。人にとって最も辛いことは「お前には価値がない」と言われることです。「お前なんか産まれてこなかった方が良かった」と母親に言われた子供の気持ち、「お前の人生には全く意味がなかった」と死ぬ間際に言われた人の気持ちを想像してください。「孤立」とは、このような状況なのです。


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社会に蔓延するニヒリズム

皆さんの年代ですと、「ニヒルな男」という言葉を耳にされたことがあるでしょう。

例えば、「あっしには関係ございやせん」で一世を風靡した木枯し紋次郎であったり、市川雷蔵演じる眠狂四郎がニヒルな男の代名詞かもしれません。


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ニヒルという言葉は、ニヒリズムから来ています。ニヒリズムとは、日本語で「虚無主義」と訳されます。虚無主義とは、この世界には真理や絶対的な価値などないという考え方です。だったら、俺は自分の価値観のみに従って世の中を渡っていく……と、これがニヒルな男のダンディズムです。

さて、これとは別に、京都大学佐伯啓思教授が……この人は経済学者なのですが……ニヒリズムとは「手段が目的化した社会を指す」と主張しました。

「生活が苦しい。良い服を着て、美味いものを食べたい。だから一生懸命に働く」と頑張っていたはずが、いつのまにか金儲けが目的になってしまう。金を得ることは生活を豊かにするとの目的を達成するための手段であったはずなのに、その金儲けが目的になってしまう。
 社会を良くしたい。そのために権力を持たなければ何もできない。そう思って活動していたはずが、いつのまにか権力奪取が目的になってしまう。
 社会を正しいものにしたいと権力批判をしていたはずなのに、いつの間にか権力を批判することが目的になってしまい、何でも批判しなければすまなくなる。

このような社会で、人は虚無的にならざるをえないと佐伯教授は言います。なぜなら、手段が目的になってしまったら、永遠にゴールにはたどり着けないからです。金儲けが目的になった人に「いくら貯めればあなたは満足しますか?」と尋ねても答えられません。ニヒルなヒーローならば、俺は俺の価値観で生きていくと言うでしょう。それで彼は満足するのです。しかし、金儲けを目的にした人は、金儲けが俺の生き様だと主張しても、永遠に満足することはありません。


そして、こういったニヒリズムが蔓延し始めると、人も組織も自己保存を目的にし始めるのではないか。私はそう考えています。

永遠にゴールにたどり着けないのなら、今を生きるより他にありません。昨日あったものが今日もあったのならば、明日もなければいけない。

何のためにあるのか、もはやその目的すら忘れてしまったような組織がいつまでも残っている。なぜ切れないのでしょう。
まちづくり活動もそうです。まちづくり活動は、自分たちの住んでいるまちを良くしようとする活動です。その目的が手段になってしまって、「今年も何かをしなくちゃいけない」と義務化してしまいます。「もう大変だよ。やりたくないよ」という声すら聞こえてきます。


昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけの社会。
息苦しい社会です。







高齢者は、もっと!

これを言うと、気分を害されるかもしれません。でも、敢えて申し上げるのであれば、新しい挑戦をするよりも、昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけのもの。
皆さんがそんな存在になって欲しくないのです。

「若い者の邪魔にならないように過ごそう」
そう考えるのではなく、
「若い者の手助けをしてやろう」
「若い者に、私の経験を通して『生き方』を伝えよう」
と思って欲しいのです。

松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.1

 

この講演録について

資料を整理していたら、たまたま1年前に行った講演の音源が出てきました。
良い機会なので、文字起こしをして加除添削して、記録として残しておきます。実際の講演は、パワーポイントを使って行いましたので、パワーポイント資料も上げておきます。

なお、講演は、高齢者を対象に行われました。



この講演の内容

みなさん、おはようございます。本日は、お招きいただきありがとうございます。
今日は、「想いを伝える」というテーマで、休憩を挟んで1時間半くらいのお話をしたいと考えています。

さて、本日の内容は次の3つの点についてです。

ひとつは、なぜ「想いを伝えること」が必要なのでしょう。

二点目は、我が国の不幸感は、どこから来るのでしょう。この問題です。

これについては、少々お話をしなければなりません。20世紀から21世紀に変わろうとする境目で、村上龍という作家が「希望の国エクソダス」という小説を発表しました。

あらすじをばらすと読んでない方々がご迷惑でしょうから、詳細は述べませんが、ざっくりとしたあらすじだけ。近未来の日本を舞台に、いきなり80万人の中学生が学校を捨ててビジネスを始めるという話です。この中学生たちが発した言葉が、この小説を有名なものにしました。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」

いつの間に、「日本には希望がない」と言われるようになったのでしょう。そして、中学生がそういうのであれば、皆さん、高齢者はどうなのでしょう。

(「あんまり高齢者、高齢者って言わないで」との発言あり)

そうですか。それなら、「お年寄り」と呼びましょうか。

(「それもイヤだな」との発言あり)

そうですか。では「おじいちゃん・おばあちゃん」とお呼びしましょう(会場笑)。
おじいちゃん・おばあちゃんたちの幸福はなんでしょう。そこを考えてみたいのです。
これが二つ目。


三つ目は、「想いを伝えること」とは何でしょう。誰に何を伝えるのでしょう。

この3点を今日はお話したいと思っています。

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なぜ「想いを伝えること」が必要なのか

なぜ「想いを伝えること」が必要なのか。結論は簡単です。皆さん、おじいちゃん・おばあちゃんたちの社会の中でのポジションが変わってしまったからです。

皆さん、こんなことを考えていませんか?
「若い者の邪魔にならないようにしなくちゃいけない」

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うなずいていらっしゃる方も、かなりいらっしゃるようです。



ここで、ちょっと歴史の話をしましょう。

昭和30年代というと、皆さんが若かりし頃のお話です。その頃の勝山の風景を思い出してください。ひょっとすると、まだ勝山にお嫁に来られていない方もいらっしゃるかもしれませんが、日本の農村風景はだいたい、どこも同じでした。

昭和30年代の農村生活は、昭和一桁の年代の農村生活とほぼ同じです。もちろん、細々としたものは違うでしょう。鉄道が通っていなかった。灯りは電気じゃなくランプだった。そういった違いはあるでしょうが、基本的なライフスタイルは同じでした。

昭和一桁の農村生活は大正時代のものと同じです。大正時代の農村生活は明治時代と似ていて、明治時代の農村生活や江戸後期のものと根っこは同じ。こうやってさかのぼっていくと、昭和30年代の農村生活はどこまでさかのぼるることができるでしょうか。

歴史学者網野善彦によると、昭和30年代の農村生活は室町時代前期にまでさかのぼることができるそうです。つまり、細々とした違いはあっても、約600年以上にわたって農村生活は一貫していたのです。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

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ところが、高度経済成長が始まって高齢者の皆さんの立場は大きく変わりました。



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経済が成長する時期は、専門家の時代です。会社に行けば、営業のプロ、経理のプロがいる。農業には農業のプロが、林業には林業のプロが。そうやって、効率を高めていくから経済も成長する。そういった時代です。ですから、高度経済成長期から職業が細かく分かれていくようになりました。

これ、昔は違ったわけです。一人の人間が、農業もできる。山仕事もできる。山に入れば食べられる草と食べられない草も判別できる。独りでなんでもできる人をジェネラリストと呼ぶのですが、究極のジェネラリストです。無人島へ連れて行っても、ひとりで生き延びられる人が昔の人です。

そう考えると、政治のプロなんてのは全く無人島では役に立ちません(笑)。なにしろ、政治家というのは変な職業で、米一粒育てることもしなければ家一軒建てることもしない。無人島へ連れて行ったら真っ先に餓死する職業です。

話を戻しますと、昔の人は究極のジェネラリストでした。何でも知ってるし一家言持っています。ですから、若い者がわからないことがあると、尋ねてくるわけですね。

楽隠居なんて言葉がありますが、昔の人は早ければ30代で隠居してしまう。隠居して何をするのかと言えば、村の仕事をするわけです。小さな頃から農作業や山作業、村作業を30年近くしていると30代後半くらいになります。30年も繰り返していれば、その道のプロです。ですから色々な世間知、ノウハウがある。その知恵を、今度は村落共同体のために使おう。それが隠居の意味です。

それが成り立つ前提には、「困ったことがあれば年寄りに聞け」というルールがあります。農作業や山作業だけではありません。家庭内の困ったことや悩み事も年寄りに聞くのです。

スライドにあるのは、民俗学者宮本常一の「忘れられた日本人」です。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

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この本には、宮本常一がフィールドワークで得た話が収められており、昭和初期の農村風景を見るには絶好の書です。この中で、先ほど述べたように、若嫁の愚痴を聞く役割の老人などが出ています。

こういった、「なんでも年寄りに聞け」という風習は、高度経済成長で失われてしまいました。なぜなら、どの分野でも「その道のプロ」がいるからです。おばあちゃんの知恵を利用しなくても、子供が病気になったら小児科へ連れていけばいい。孫が熱を出したからと言って下手に手を出すと、お嫁さんに叱られますしね(爆笑)。農業やっててわからなくなったら農協に聞けばいい。そうやって、「なんでも年寄りに聞け」という風習はなくなってしまった。

でもね。私、思うんですよ。ありとあらゆる分野にプロはいるのですが、唯一、プロがいない分野がある。
それは「生き方を教える」という分野。

パソコン使わせたら、申し訳ないが、皆さんは20代の若者には太刀打ちできませんよ。もちろん、私も太刀打ちできません。
でも、「生きるとはどういうことか」「苦しいときをどうやって切り抜けていくのか」といった生き方の点で、若者は皆さんに太刀打ちできません。

よく言うでしょ?「汝の食したる飯粒の数、我が舐めたる塩粒の数に及ばず」って。お前みたいな若造がいきがったところで、お前の食ってきた米粒の数よりも、俺が流してきた汗水、これには悔し涙とかいろんなものが入るのでしょうが、その塩粒の数が多いんだよ……と。人生を歩んできた人にしか言えないセリフです。

皆さんは、長い人生を歩まれてきた方々です。それだけで、私は尊敬されるべきだと思う。心から思ってます。
なぜなら、「生き方」を教えることができる人は、皆さんしかいないから。

ちょっと余談ですが……というか、私の話には余談しかないのですが(笑)、よく知育・徳育・体育と言うでしょ?教育に必要なものは、知・徳・体だと。それで、知を教える大学はいくらでもあります。体育を専門に教える大学もあります。日本体育大学とか。それじゃ、徳育を専門に教えている大学ってあります?ないんですよ。なぜなら、それは教えるものじゃない。見て学ぶものだからです。

それじゃ、誰を見て学ぶのです?皆さんを見て学ぶんです。苦しいときや悲しいときを乗り越えてきた皆さんを見て学ぶのです。

時々、聞くんです。「最近の年寄りはワガママだ」って。うなずいている人がいますが、うなずいている皆さんも、そう言われているかもしれない(爆笑)。
ワガママになるのは当然なんです。だって、おじいちゃん・おばあちゃんに聞いてくれないじゃないですか。見てくれる人がいなかったら化粧する人なんていないでしょ?それと同じで、聞いてくれる人がいなかったら、「生き方」を教えようという気にもならない。教えることもないのなら、それを自分の背中で示そうという気にもならない。だから、ワガママになるのは当たり前です。

「生き方」を伝える。それはまさに「想いを伝える」ことと同じだと私は考えています。




「想いを伝えること」は難しい


それじゃ、「想いを伝えよう」としても、これがとにかく難しい。

身近にいても、想いを伝えることは難しいものです。あれは、確かフランスの詩人で……だれだっけ。うろ覚えで申し訳ないのですが、「道を歩いていたら、向こうから老人と青年が連れ立って歩いてきた。二人の間に会話はなかった。それで私は理解する。彼らは親子であると」そんな内容の詩だったと記憶しています。

男性の方ならお判りでしょうが、息子はある年齢になると父親と会話をしなくなります。何を話してよいのかわからないから。私も父親と世間話ししかしません。もどかしい関係ですね。

ここで、とある企業のCMをご覧ください。CMの中に、本人の想いを語る分身というか黒子が出てきます。もしも、こんな黒子がいたならば、コミュニケーションはもっと楽なものになるのかもしれません。


SUUMO ココロの声ストーリー




例えばね、これ。ここにいらっしゃるご年配の方ならば、身に染みておわかりでしょうが、嫁と姑のコミュニケーションも難しい。今、ものすごい数の女性陣がうなずきましたね(笑)。

嫁さんは、実は気を利かしている。お義母さんのためにと思ってやっている。姑さんも実は気を利かしている。嫁さん大変だろうからと思って手を出すと怒られる(笑)。我が家は三世代同居です。そんな話をすると、大変だろうと同情される(笑)。嫁と姑の間でコミュニケーション取れば何の問題もないんです。お互いに気を使ってるんだから。でも、それはないんですよね。これ、何でしょうね。本当に困ったものです。

困ったと言えば、こういうお話をするとね。ここには私の地元の方もいらっしゃる。我が家の母親をご存知の方もいらっしゃる。そういうお方がご親切に「松村さんのとこは、嫁姑がうまくいかないの?」と、うちの母親に尋ねてくる(大爆笑)。
これはおやめいただきたい。どうかお願いします。

(「それなら、明日にでも聞きにいかなくちゃ」との声あり)

いやいや、それだけはどうかご勘弁いただきたい(笑)。
あくまでも一般論で申し上げておる次第ですから。

憲法記念日に憲法を考える

 昨日は憲法記念日
新聞TVで報道された、各種集会における様々な意見を見て感じたことを。


アメリカが打ち込んだ二本の杭

戦争に敗れた我が国に、アメリカは二本の杭を打ち込んでいった。ひとつは、日本国憲法であり、もうひとつは日米同盟である。

革新勢力は日本国憲法という杭にしがみつき、これは我が国の国民が作ったものだとの幻想にふけっている。保守勢力は日米同盟という杭にしがみつき、我が国はアメリカと対等なのだと夢想する。

どちらも、虚妄ではないか。アメリカが作った箱庭で砂遊びにふける子供と同じではないか。

上記のような主張をしたのは、大熊信行だった。

 

日本の虚妄―戦後民主主義批判

日本の虚妄―戦後民主主義批判

 

 

保守も革新も、お互いに、相手が杭にしがみついている様はよく見える。

したがって、保守は革新に向かって叫ぶ。「日本国憲法は米国が押し付けたものだ」と。実際、その通りだ。

革新は保守を罵る。「日米同盟は、対米従属だ」と。実際、その通りだ。

そして、国民はその不毛なやりとりにうんざりする。





言葉を失った我々は迷走する

フランスの哲学者(精神医学者)ジャック・ラカンは「言葉の意味」、すなわちシニフィアンを重視した。

 シニフィアンとは、元々言語学の用語である。

「言葉の意味、イメージ」と考えれば良い。そして、その意味を与えられている対象がシニフィエである。「山」という文字、もしくは「や・ま」という音声。これがシニフィエである。
そして、その言葉からイメージするものがシニフィアンといえる。
 ・シニフィエ  ⇒「や・ま」という音声、「山」という文字
 ・シニフィアン ⇒山のイメージ


 
シニフィエシニフィアンを考えた人物は、構造学の始祖ソシュールだった。ソシュールは、このシニフィエシニフィアンを一体のものとして考えた。「リンゴ」という言葉・音声と、リンゴのイメージは一体のものだとした。

それを分離したのがラカンである。

そして、ラカンは著書『精神病』で、要約するとこのようなことを言っている。

言葉の意味、イメージというものは、互いに結びついて思考を形成する。ところが、ひとつの言葉の意味が居場所を失うと、全体の結びつきが混乱をきたし、精神病を引き起こす元となる。

 

精神病〈下〉

精神病〈下〉

 

 
戦後日本に軍備はあった。警察予備隊と呼ぼうが自衛隊と呼ぼうが軍備は間違いなく存在していた。軍備というシニフィエ(対象)は存在し続けたにもかかわらず、われわれに欠けていたのは、軍備を表現するシニフィアン(言葉の意味、イメージ)である。

軍備はありながら軍事に口を閉ざした結果、軍事というシニフィアンは欠落した。なぜなら、口を閉ざした瞬間に意味は行き場を失うからだ。

意味は共有されてこそ価値を持つ。口を閉ざした人間の間で、意味を共有することはありえない。

軍備の「意味」について口を閉ざした私たちの中で、軍備の意味(シニフィアン)は行き所をなくしてしまった。

そのために、われわれは軍事問題を正しく把握することができないとの病理に陥った。

結果として、軍事を語ろうとすると思考そのものが混乱をきたす。無理に語ろうとすれば幼児化・退嬰化した表現しかできなくなる。「他国が責めてきたら反撃せずに無抵抗で受け入れよう」などと幼児化した議論や、「このご時世にどこの軍隊が日本を攻めて来るのか」といった退嬰的議論しかできなくなった。

大熊が指摘した二本の杭の、もうひとつ。すなわち、憲法でも同様の事態が起きた。

戦後日本に憲法はあった。その憲法の下に様々な法体系が整備され社会は動いている。しかし、憲法というシニフィエ(対象)は存在していても、われわれに欠けていたのは、なぜわれわれはそれに従わねばならないのだという根本のシニフィアンである。

われわれは自分で憲法を作ったことがない。明治憲法然り、日本国憲法しかり。憲法はありながら、その根幹である制定権力や制定経過に口を閉ざした結果、われわれは「憲法をつくる」という問題を正しく把握できないとの病理に陥った。

結果として、「憲法をつくる」すなわち、憲法改正について語ろうとすると思考そのものが混乱をきたし、幼児化・退嬰化した表現しかできなくなる。「憲法を変えることは軍国主義につながるという幼児的思い込み」や、「これまでうまくやっていたのだから変える必要はないだろう」という退嬰的議論しかできなくなった。




なぜに国民が憲法をつくってはいけないのか

私は憲法改正を求める。
もちろん、それは大熊の主張する、アメリカの打ち込んだ杭に捕まっている無様さを否定したいとの想いからでもあるが、根本にあるのは、なぜ国民が憲法をつくってはいけないのかとの素朴な疑問があるからだ。

日本国民は、一度も憲法を作ったことがない。明治憲法は欽定であり、それは時代の要請であった。日本国憲法は押し付けであり、それは時代の圧力であった。

憲法は国民のものではないのか。そして、憲法は道具であろう。ならば、持ち主が道具を使いながら改良していって何が悪いのか。

なぜ、国民が憲法をつくってはいけないのか。



パラノイアの戯言

護憲派と呼ばれる論者の言葉を聞いていると、この人たちは世の中の何を見ているのかと問いたくなる。

直近で言えば、テロ等準備罪を新設する組織犯罪処罰法改正案を議論すれば、「法案を通せば戦争する国へ一直線」と批判をするが、一般国民の感覚からすれば「またか」となろう。彼らはPKO法案のときも同じことを言っていた。特定秘密保護法案のときも同じだった。「戦争のできる国」「戦前回帰」と紋切り型の批判を繰り返すのみで、何等の建設的な意見を出さない。

前述したラカンは興味深いことを指摘している。
ラカンは「シニフィエ無きシニフィアン」を想定した。シニフィエとは対象である。シニフィアンとは言葉の意味、イメージである。ラカンの言う「シニフィエなきシニフィアン」とは、対象がないにもかかわらず、言葉遊びにふける人々のことだ。

そして、ラカンは彼らをパラノイア(偏執症)と診断した。
パラノイアとは何者か。隣人に攻撃されているといった異常な妄想にとらわれる人々のことだ。政権は常に国民を迫害するために活動している。国は国民を戦争へ送り込もうと考えている。そのために憲法を変えるのだ……と。

まさに、護憲派がやっていることはパラノイアの一言に尽きる。

そして、国民は当にそのことに気づいている。国民が冷ややかな目で彼らを見つめる所以だ。




改憲派のごまかし

ならば、改憲派が何をやっているのか。
戦後日本で憲法について論じることは、まさにタブー(禁忌)だった。しかし、1990年に西部邁氏が文芸春秋紙に改正憲法試案を公表した頃から風向きが変わり始める。
私もこれは鮮明に記憶がある。まさか改正憲法試案がメジャー雑誌に掲載されるなどとは、当時は想像もできなかった。

その後に、保守派である中川八洋氏の憲法試案であったり、読売新聞社憲法試案であったり、小沢一郎氏のものであったりと、様々な憲法試案が作成された。

そして、2012年に自民党日本国憲法改正草案が上梓されたが、正直なところ、私はどれも肚に落ちるものではなかった。

根本的な問いが抜けているからである。
「日本国民の憲法とはどうあるべきか」
「国民は日本国をどのようにつくりたいのか」

碩学がつくられた試案に対して口を挟むのはおこがましい話だ。しかし、ここを考えずして作られた憲法草案は、単なる状況適応にしか過ぎない。
「われわれは誰なのだ」
「何のために国をつくっているのか」
「どのような国をつくりたいのか」
それを議論してこその憲法草案ではないのか。

ましてや、保守派を名乗るのであれば、憲法草案を論じるに避けては通れない大問題が二つある。

ひとつは天皇の存在だ。

多くの思想家を絡めとったこの問題を避けて通るわけにはいかない。
カール・シュミットは「主権者とは例外状況に関して決定を下すものである」と語った。例外状況とは、国家における非常事態を考えれば良い。東日本大震災のような国家的危機状態や大東亜戦争末期のような時期がこれに当たる。
ここに決定を下すものは誰だろうか。

数年前に、久しく見ていなかった映画『日本沈没』をビデオで見た。無論、昭和48年版である。仮に、日本国が沈没するような未曽有の災害が生じたとする。日本人が国土を失い、ユダヤ人の味わったディアスポラ(大離散)を味わった結果、日本人は世界に散らばらざるを得ない状況に追い込まれたとする。
ユダヤ人はユダヤ経典を以てアイデンティティとした。ならば、われわれは何をもって日本人とするのか。
要は、「日本沈没の憂き目にあったときに、国民はそれぞれに大事なものを持ち出すだろう。だが、日本人全員として、何かひとつ持ち出せるとしたら、何を持ち出すのか。」という問いである。富士山は、海に沈んだ。ありとあらゆる建造物は無くなる。そこで日本人は何を「日本人の象徴」として持ち出すのだろうか。

その問いには、日本人は「天皇陛下を」と答えるのではなかろうか。私はそう思う。無論、そのような状況になれば、俺たちはアメリカ人になるよ、ロシア人になるよと言う日本人もいるだろう。だが、日本人が散り散りになったとしても、なお日本人としてのアイデンティティを保ちたいと考える人々がいるならば天皇を仰ぎ見るのではなかろうか。東日本大震災を慰撫された陛下を被災地の人々が仰ぎ見たように。その光景を見た日本国民が復興への思いを強くしたように。

なぜ、そう思うのか。なぜに皇室は敬愛を受けるのか。
それを突き詰めて考えずして「天皇は象徴である」の言葉だけで済ますのは思想的怠慢と言うべきであろう。


もうひとつは、日本国の固有法の問題だ。

法律の世界には、継受法と固有法との分類がある。継受法とは輸入された法律であり、固有法とはその国・文化が作り上げた法律を指す。大化の改新で日本は中国律令を輸入した。これは継受法である。そして、明治期に欧米法を輸入した。これも継受法である。ならば、我が国には固有法がなかったのか。そんなことはない。中学生が歴史を習う際に必ず覚えさせられる、あの御成敗式目はまぎれもなく固有法であった。

近代法は理性に照らして正しい、中世の法は封建的であるがゆえに遅れている。これは悪しき思い込みである。
「法とはなにか」これは難しい問題であるが、確実に言えることは、法に納得しなければ誰も法を守らないという点だ。利害の衝突があるから法は必要とされる。そして、法に則って裁きはなされる。事実、御成敗式目に延々と書かれた条文を読むと、中世の生活様式、人々の考え方、道徳律などがよくわかる。

固有法とはそういうものだろう。人々の風習、文化、伝統が積み重なって固有法はできあがる。

われわれが憲法を制定しようとする。それは日本固有の憲法であり、まさに固有法だ。

ところが、なぜか我が国の法制史家たちは憲法の問題に口を出そうとしない。また、憲法草案者たちもその意見を求めようとしない。




日本人の「強み」とはなにか


自らが憲法をつくる。つまり、規則を作るときに欠かせないことがあると考える。それは「自分たちは誰なのか」ということ。

私が憲法改正を議論したいのも、この点を明確にしておきたいからだ。そして、自分たちは何者なのかを問うことは、「自分たちの強みは何か」を意識することでもある。


塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』の冒頭には、次のような記述がある。

知力ではギリシア人に劣り、
体力では、ケルトガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、少なくない資料が示すように、ローマ人自らが認めていた。それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。一大文明圏を築き上げ、それを長期にわたって維持することができたのか。

 

ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず

ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず

 

 

ローマ人の物語』を読み続けていくと、ローマ人が「制度の力」でハンニバルに打ち勝ち、「他者を抱擁する力」で周辺地域をローマ帝国に組み込んでいく様がわかる。そして、何よりも感心するのは、ローマ人自身がその強みを理解していたことだ。

日本人の強みは何であろうか。

例えば、「強力な現場力」を挙げるのも良い。日本人の持つ現場力は強烈だ。そして、その力ゆえに明治期以降の日本は国力を威容した。そして、その現場力を過信し戦略なき戦いに身を投じたゆえに、大東亜戦争を敗れた。「強みにより組織は力を伸ばし、強みにより組織は身を亡ぼす」とはよく言ったものだ。

ならば、日本人の強みの「強力な現場力」を最高に活かすために、政治はどのようにあるべきか。道州制で現場力を活用すべきなのか。選挙制度は?教育の在り方は?働き方は?

そういった議論の上に、はじめて憲法があるのではないのか。




こういう話をすると、「それは法律論ではない」と反論されることがある。
われわれがつくろうとするのは、憲法である。われわれの国家そのものと言っても良い。国家にある国民や領土のみならず、生活や文化までをも含むのが憲法である。いわば、国の在りようそのものと言っても良い。

国の在りようは、かつては「国体」と呼ばれていた。国体を英訳すればConstitutionであり、Constitutionを再度和訳すれば「憲法」である。

日本人とは何か。われわれの強みは何なのか。その強みを活かすため、われわれの子孫につなげるためにどのような制度をつくるのか。
そういった憲法論議を私はしたい。そして、そのような憲法論議を待つ。

恐竜博物館のある長尾山総合公園をプロデュースしよう  《いきなり大勝負をしかけるな!》

 

忙しい方のために、1分でわかる「今回のまとめ」

①「何をするか」も重要ですが、「どのように進めるのか」も重要です。

②行政は、いきなり結論を決めて大勝負をしかけます。これを箱モノ行政と呼びます。「これはダメだ」と失敗に気づいた時には修正も後戻りもできません。

③顧客の反応を見ながら修正を図り「小さく産んで大きく育てる」手法が求められます。これをリーン・スタートアップと言います。

④その手法は、道の駅建設や学校再編問題など様々な場所で役に立ちます。



はじめに

長尾山総合公園のプロデュースについて、《前編》《中編》とお話してきたのですが、《後編》に行く前に、ちょっと1回、休憩してお話したいことがあります。

長尾山総合公園のプロデュースを考えているわけですが、その進め方について。
これまでは、「何をするのか」というお話でしたが、「どのようにするのか」というhow toのお話です。

これはどうしてもお話ししておきたい。


ーどうして?-

実際の結論が全く違うことになりうるからです。

なぜ、実際の結論が違うことになるのか。
それは、いきなり決め打ちをしないからです。
《前編》《中編》で考えてきた内容を、「これで決定!」みたいに決めてかからない。
だから、やっていく過程で内容が変わることは十分にあり得ます。


ーどういうこと?-


決め打ちしても、それはこちら側の都合。お客様の都合に合わなければ、そもそもビジネスとして成り立ちませんから。

よく言うでしょ?「小さく産んで大きく育てる」と。

実用最小限のモデルを作り、お客様に提示して反応を確認しながら、作り上げていった方が良い。その過程で、当初、われわれが目論んでいた方向と全く異なる方向へ進むことは、十分にありうることです。



ーだから、決め打ちをしないということ?-

そうです。

この手法をリーン・スタートアップと言います。




ー初めて聞くのだけれどー

詳しくは後ほど説明しますが、われわれはこの手法を導入しなければなりません。



ーなぜ?-

行政は、いきなり大勝負をしかけるからです。

これまで「箱モノ行政」の弊害が言われ続けてきました。

曰く、「誰も使わないデカい施設に税金を使うのか!」
曰く、「収益を産まない施設は無駄だ!」
曰く、「こんな施設、誰が使うんだ?」
曰く、「こんな施設を延命させるために、なぜ、血税を投入するのだ?」


「箱モノ行政」の特徴は、決め打ちをして、いきなり大勝負をしかけることにあります。その弊害はふたつ。

ひとつは、これは失敗だと分かったときには、後戻りができません。なにしろ箱モノは残っているのですから。もう、どうにもこうにもならない。

ふたつめは、ただでさえ失敗は明らかなのに、行政は過ちを認めませんから、血税を投入して箱モノを延命し続けるという、二重に出血をともなう結果になります。



これを回避するために、リーン・スタートアップを導入すべきなのです。






リーン・スタートアップとはなにか?


リーン・スタートアップを語る前に、スティーブ・ブランクという人について説明しましょう。


ーそれはだれ?-

この人。

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ブランクは、起業家として8つの新規事業立ち上げ(スタートアップ)に参加し、4つを株式上場にまで導きました。
「1000に3つ」と呼ばれるように、IT関連会社の上場率は1%未満です。それに4社も成功したとは、まさに魔術師と呼ぶにふさわしい実績です。

1999年にビジネス界を引退したブランクは、その成功の秘訣を公開しました。
それが、4ステップ17段階64項目からなる「顧客開発」モデルです。




ちなみに、下のアマゾンの画像は新装版。 

アントレプレナーの教科書[新装版]

アントレプレナーの教科書[新装版]

 

 

さて、その魔術師ブランクの1番弟子と言える人が、エリック・リース。

このエリック・リースは、ブランクの手法を用いて実際に事業を成功に導きます。そして、彼は、ブランクの手法とトヨタの作り上げた「リーン生産方式」を下敷きにして、「ムダのない新規事業立ち上げ」を提唱します。

それがリーン・スタートアップです。



ー具体的にはどういうもの?-


小さく失敗して事業を育てる」方法です。


新たな事業を始めようとする場合、いきなり大勝負をしかけてはいけません。

まずは、実用最小限の製品(MVP)を作り、顧客に売ってみることです。ここで重要なことは、実用に足る最小限の製品であれば良いということ。人はどうしても不完全なものを人目にさらしたくありません。あれもこれもと付け加えたくなりますが、それではダメです。最小限の労力と時間で開発できるものなのです。

そして、それを顧客に売ってみます。そして、芽がないと判断したら、すぐに製品やサービスを改良したり、事業の内容を一新したりして、軌道修正を繰り返します。

傷が浅いうちに進路を変更し、重傷を負って事業そのものが継続できなくなる事態を避けるためですね。




ー具体的な事例はあるの?-

リースの著『リーン・スタートアップ』には、ZAPPOS(ザッポス)の事例があります。


ーZAPPOS(ザッポス)とは?-

世界最大のオンライン靴店です。1999年に創業され、急成長を遂げ、10年後の2009年にAmazonに推定12億ドルで買収されています。

ZAPPOSが一番最初に何を行ったのか。
このあたりは、著書から抜き出しましょう。

ザッポスの創業者、ニック・スインマーンは、ここに行けばどんな靴でも買えるというオンラインのショッピングサイトがないのが残念だった。それまでなかったすばらしい買い物体験ができたらいいなと思ったのだ。そのあと進む道としては、十分な時間をかけてビジョン全体をテストする方向もあった。数多くの倉庫と流通業者、そして大規模な売り上げがあげられる見込みまでがそろったビジョンだ。この進め方は、大失敗したウェブバン(Webvan)やペット・ドット・コム(Pet.com)など、電子商取引のパイオニアがよく採用していた。

スインマーンは実験からスタートすることにした。まず、靴をオンラインで買う顧客がいるという仮説を立てる。そしてその仮説を検証するため、近所の靴屋に頼んで在庫品の写真を撮らせてもらった。撮った写真はウェブに掲載し、それを誰かが勝ってくれたらお店の売値で買うからと言って。

このようにザッポスはごく小さくシンプルな形でスタートした。
  (『リーン・スタートアップ』p81-82)

結果としてこの実験は成功し、ZAPPOSは「顧客は靴をオンラインで購入する」との仮説を、ほぼコストをかけずに実証しました。

始めから立派なウェブサイトを作るのではなく、低コストで簡単なサービスを立ち上げたのです。

普通の起業家ならやりたくなるのです。立派なウェブサイトを作り、靴の在庫を大量に仕入れ、広告を打ち、物流網を構築して、満を持してサービスを提供する。しかし、実際にサービスを始めてみたら、全く売れなかった。

そうではなく、実用最小限の製品(MVP)を顧客に提示し、顧客の反応を見ながら修正を図っていく。その方法が理にかなっています。
リースは、このサイクルを「構築・計測・学習」と呼ぶのですが、重要なことは、この「構築・計測・学習」の試行錯誤のサイクルを、いかに迅速に、しかもどれだけ回し続けることができるのかが重要になるということです。



ーなるほどねー

「構築・計測・学習」のサイクルを回すということは、ある意味で、われわれの思い込みを正していくことです。

われわれの予測はすべて「仮説」すなわち、思い込みに過ぎません。
「〇〇という商品は顧客に受けるだろう」
「▲▲というサービスは、✖✖というターゲットに受けるだろう」
これらは「仮説」に過ぎないのです。

であるならば、その仮説が正しいのか否かを低コストで検証しながら進めていかざるをえません。

そして、いざとなれば事業戦略それ自体も見直す必要があります。




ー戦略も?ー

リースは、それをピポッドと呼びます。バスケットボールでやる、ピポッドと同じ意味です。

ビジョンは滅多なことでは変えません。しかし、それを実現するための戦略は、柔軟に変えて構いません。むしろ、変えていかなくてはなりません。
ただし、両足を一遍に動かせば倒れてしまいます。だから、片足ずつ軸を保ちながら動くのです。だからピポッドなのです。



ー話を聞いていると、新規事業立ち上げのコストを下げる方法みたいだー


それは誤解です。エリック・リースも注意を喚起している点です。

いずれにせよ、新規事業の立ち上げには、大勝負をしかけなければならない時期があります。要は、いきなり大勝負をしかけて大失敗するのか。それとも、リーンスタートアップを回して確証を得た後に大勝負をしかけるのか。
そのタイミングの問題なのです。

そして、行政はいきなり大勝負をしかけたがる。
それが箱モノ行政の弊害でもあります。




なぜリーン・スタートアップを導入するのか? ―「箱モノ行政」は非難される理由―


ーそもそも箱モノ行政とは何なの?―

行政が主導する、施設開発型のまちづくり」と私は定義しています。



ー学校なども箱モノなの?-

全ての箱モノが問題なのではありません。おおよそ、箱モノは4つに分類することができます。

【A】市民生活になくてはならないもの
【B】市民生活にあると便利なもの
【C】市民生活にとって、あってもなくても構わないもの
【D】市民生活にとって、あると困るもの

学校、体育館、図書館といった施設は【A】に含まれるものです。【B】は、勝山市で言えば温泉センター水芭蕉のような施設でしょうね。

【C】から話は難しくなってきます。勝山市内で【C】の代表例は、勝山ニューホテルでしょう。市民生活にとって、あってもなくても構わないものです。なにしろ、市民は勝山ニューホテルに宿泊しませんから。その勝山ニューホテルに、1億円も2億円も改修費をかけるとなると、費用対効果の問題が出てきます。

【D】は……市民の皆さんのご想像にお任せします(苦笑)。建てたはいいが、これは絶対に儲からないだろう。お荷物になるだろう。そんな建物のことです。




ーそれで、箱モノ行政は何がわるいの?ー

箱モノ行政の特徴は、作ることが目的であることに尽きます。「とにかく建物を作る!」これが目的になってしまうと、次の3つの弊害が現れます。

 ①きちんと収支を弾いていない。
 ②住民・企業との連携がとれない。
 ③評価の手順と基準ができていない。

まずは、「①きちんと収支を弾いていない」というところから説明しましょう。

箱モノ行政が批判される理由は、血税をつぎ込むからではありません。
血税をつぎ込んだだけのリターンがないからです。

「行政は金儲けをするところではありませんから」
という理屈を、しばしば行政は主張します。つまり、元々収支をはじくつもりがありません。

血税をつぎ込んだだけのリターンが見込めないということは、施設からの収入が少ないということです。施設の収入が少ないということは、利用者が少ないということです。そして、利用者が少ないということは、そもそも需要がないということを意味します。

もちろん、学校や図書館のように、元々収益を考えていない建物もあります。これはリターンがなくても構わない。しかし、行政の大好きな「中心市街地活性化の起爆となる建物」とか「駅前再開発の導入となる建物」といった類の箱モノには、リターンの考え方が求められます。

10億円の建物を作るとしましょう。この建物は年間想定収入が8000万円。諸経費を差し引くと5000万円の純利益があがるならば、純利回りは5%。したがって、20年で投資費用は回収できる……普通ならこういう計算をするものです。
そして、「それじゃ、この建物は本当に5000万円の純利益を叩き出すのか?」という議論が始まる。需要はあるのかないのか?という話ですね。


この部分の議論、ある意味、最も重要な部分をすっとばす。収支にこだわらないものですから、高かろうが低かろうが問題ではない。行政にとって重要なことは、「建てること」であり、「手持ちの予算と国・県の補助金で建つのか」という点です。

そして、ここが最大の問題点なのですが、収支を弾かないということは、価値の作りこみをしなくなるのです。



ーどういうこと?-

収支をはじかないということは、リターンを真剣に考えていないということです。リターンを真剣に考えるためには、価値の作りこみをしなければなりません。
「顧客にどのような価値を提供し、対価をいただくのか」
その作りこみを、建設前に延々と議論し続けます。

ところが、リターンを真剣に考えないのであれば、価値を作りこむ必要もありません。そして、出来上がった建物は需要がなく、当然にリターンもない。そういう結果に陥りやすいのです。

投資回収もできないのなら、作らなければいいのに……と思っても、行政は止まりません。なぜなら、作ることが目的だからです。




作ることが目的になれば、「まずは作ってから、後は考える」という発想になります。さすがに住民や企業と連携しないわけにもいかないので、審議会を設置することになりますが、そこに集められるメンバーといえば、商工会議所、JA、森林組合、区長会連合会などの代わり映えしない面々。
本当に汗をかいてやる人を中心に置かなければならないのですがね。

だから、実際にテナント運営をしようとする人たちが設計に加われないなどという、馬鹿げた自体も発生するのです。

これが②の弊害です。


そして、「まずは作ってから、後は考える」という手順で進めていくと、建物が出来上がった後は……推して知るべし。事後の評価方法がありません。
本当にこの建物は必要だったのか。血税を投入した価値があったのか。こういった評価をする手順も、手法もありません。
これが③の弊害です。



ーでも、行政はPDCAサイクルを回しているはずだが?-

PDCAサイクル。つまり、P(Plan:計画)⇒D(Do:実行)⇒C(Check:評価)⇒A(Action:改善)のサイクルを回すことですね。

確かに、行政はPDCAサイクルを回します。事業計画書にも「PDCAを回す」と書かれています。

ですがね。基本的なことたずねますけれど、行政が「この施策は間違っていました」と認めた話を聞いたことがあります?



ーあまりないなー

「公務員無謬の原則」というものがありましてね。
「無謬(むびゅう)」とは、「間違いがない」という意味です。



ーそんな馬鹿な話があるの?-


いや、そんなにおかしな話でもありません。例えば、裁判などになったときに警察官の証言は重く扱われます。「警察官無謬の原則」です。

これは、信頼の問題なのです。「公務員・警察官は一般の人とは違うのですよ。間違いが許されない職業です。国民は、あなたがた公務員・警察官をそのように信頼していますので、あなたがたもそれに応えてくださいね」……と、そういう文脈でとらえられるべきものです。

ですから、公務員・警察官が「俺たちは間違えてはいけない。国民の負託に応えなければならないからだ。だから、しっかりと仕事をしなければならない」と用いるのは構いません。
でも、「俺たちは間違えてはいけない。だから、ミスをミスとして認めるわけにはいかない」との論理で使われると、全く逆の方向へ進んでしまいます。


このような状況下では、PDCAサイクルも違う方向で用いられます。

・ある箱モノを計画した(P:計画)
・実際に箱モノを建設した(D:実行)
・ところが予定よりも客がこなかった(C:評価)
・だから、来年度は予算をつけてイベントを行う(A:改善)

ありがちなシナリオです。延々と血税を垂れ流すのは、この類のPDCAサイクルです。

問題は「C:評価」の部分ですね。本当に評価すべきは、計画(P)の中身と、箱モノを建ててしまった(D)のはずなのに、そこを評価することはありません。なぜなら、そこでの過ちを認めてしまっては、公務員無謬の原則に反するからです。そして、建ててしまった以上は、後戻りもできないのです。



ーリーン・スタートアップと全く逆だー

そう。何もかもが全く逆になっている。
だから、リーン・スタートアップを行政にも導入しなければならないのです。





道の駅でリーン・スタートアップを用いてみよう


実際に、道の駅でリーン・スタートアップを実行すると、どのようになるのか。ちょっと考えてみましょう。



ー道の駅かー

そう、道の駅です。
一説には、全国の道の駅の9割は赤字経営だと言われる……あの道の駅です。

9割が赤字経営だとしたら、これはまさに箱モノ行政の典型例と言えるでしょう。リターンそっちのけで作ってしまい、運営してみたら赤字だった。仕方がないので、行政が運営補助を入れて収支をトントンに持っていく。そのパターンです。




ーそれで、道の駅にリーン・スタートアップを導入するならば?-

まずはビジョンを決めなければなりません。

何のために道の駅を作るのかという、ビジョンです。

リーン・スタートアップをする過程で、戦略を変えていくことはあります。でも、ビジョンを変えてはいけない。ビジョンまで変えてしまっては、何のために事業をやっているのかわからなくなります。

そこで、ビジョンを考えてみましょう。
私だったら、ビジョンは「地域経済が潤う」。この1点に絞ります。観光客へのおもてなしとか、それは地域経済が潤うための手段であって目的ではない。



さて、それではビジョンを元にして仮説を立ててみましょう。
「勝山を訪れる観光客は、土産物を買いたいと考えている」

この仮説を検証したければ、何をすれば良いと思いますか?



ー実際に土産物を売ってみれば良いのでは?ー

でしょうね。私もそう考えます。

恐竜博物館の前に、テントをいくつか並べて、そこで勝山の産品を売ってみれば良い。
実際に、それは既に行われています。
売り上げも、そこそこあったみたいで、これは喜ばしいことです。



ーそのテントで売れれば仮説は検証されたということ?-

そう単純なものでもありません。

なぜなら、これだけでは事業の成長性が見えないからです。
「1日1万人の来館者が来る施設の前で、テントを出した。品数は30品目。そこそこ売れた。ならば、もっと大掛かりにしかければ、もっと売れるはずだ」
これはあまりにも粗雑な論理です。

果たして、この事業は将来どうなるのか。本当に成長できるのか、その可能性はあるのか。これが見えなければ、そもそも大勝負を打つことができません。「テントで売れたから、道の駅を作ればもっと売れるはずだ」「だから、道の駅を作れ」というのは、無茶すぎます。



ーならば、どうする?-

もっと常識的なところからスタートしましょう。

例えば、メーカーや小売店の事業計画ならば、販売量に比例して成長していくことがわかります。
「商品の販売で利益を得る」
「その利益をマーケティングと販売促進に再投資する」
「新しい顧客を獲得する」
という成長シナリオがあります。

したがって、ポイントは3つ。
 ・顧客ごとの利益率はどれくらいか。
 ・新規顧客の獲得コストはどれくらいか。
 ・既存顧客の購入リピート率はどれくらいか。
この3点に絞って、仮説を立てていくことになります。


しかし、道の駅でこれは使えません。



ーどうして? 道の駅も小売り店みたいなものだけど?-

道の駅は、一見すると小売店にも見えます。しかし、小売店ではありません。ひょっとすると、楽天やZAPPOSのような売り手と買い手をマッチングさせる存在かもしれません。

なぜなら、単なる小売りだと仮定すると、何を売っても構わなくなりますから。日本全国からモノを仕入れて売れば良い。それならば、道の駅とスーパーマーケットとの何が違いはなくなります。道の駅のビジョンを地域振興としたのであれば、勝山市内、最低近隣自治体の「地のモノ」と「観光客」をマッチングさせる存在が道の駅だと考えるべきでしょう。

そして、道の駅を、楽天のようなマッチングビジネスだと位置づけると、成長モデルは小売店と全く異なり、ネットワーク効果が最重要課題となります。「他よりも、そこで取引したい」と売り手にも買い手にも思ってもらう必要があるからです。
つまり、「あそこへ出品すれば買い手が多くつく、高く売れる」と、売り手に思わせ、「あそこを覗けば、色々なモノが安く買える」と買い手に思わせなければなりません。

このようなマッチングビジネスでは、新たに流入する売り手・買い手の定着率からネットワーク効果の強さを計測し、それを高めていくことが成長モデルの原動力になります。



ただ、これも道の駅では使えません。



ーなぜ?-

道の駅は「観光客を顧客とする」と定めました。観光客は基本的に一見さんだと思った方が良い。一見さん相手にネットワーク効果、すなわち「どのように定着率を高めるのか」を考えても仕方ないでしょう。

そもそも、本当に道の駅を「観光客」と「勝山市内の地のモノ」とのマッチングビジネスだと定義するのであれば、われわれは既にその具体的事例を見ています。


ーそれはなに?-

大野市の朝市。

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つまり、道の駅建設という箱モノすらいらなくなってしまう。




ーそれじゃ、どうすればいいの?-


「地域振興」をビジョンとして掲げ、「観光客に対して」「勝山の地のモノを売って」「売り上げを伸ばしたい」と考えている。

ならば、売り上げとは、そもそも何なのか。そこから考えていきましょう。

(売上)(延べ購入回数)×(1購入当たりの平均購入個数)×(平均単価)

一見さんの観光客を対象とするということは、観光客ひとり当たりの「延べ購入回数」が「1回」であることを意味します。だって考えてみてください。県外から来たお客さんが、わざわざ道の駅の店のためにリピートする。これはちょっと非現実的です。

したがって、延べ購入回数を増やそうと思えば、「リピート率0%の顧客を来店させる」ことを前提に来店者総数を上げていかねばなりません。とにかく人を呼ばねばお話にならない。そういうビジネスを仕掛けることになります。

そこで、仮説を立ててみるわけです。
「仮説:にぎわい創出のイベントをしていれば、観光客は立ち寄る」

この仮説を確かめたければ、何をすれば良いでしょう。




ーそりゃ、イベントするでしょうー

当然にそうなります。

例えば、夏休みの期間は県立恐竜博物館が賑わう期間です。
恐竜博物館とインターチェンジを結ぶ路線のどこかで、「福井の夏の冷たいものフェア」でもやってみましょう。県内から人気のソフトクリームやアイスクリーム、かき氷、ジュース。なんでもいい。とにかく冷たいものをかき集めてフェアを行う。

果たして、観光客は来るでしょうか。もちろん、その結果については、やってみなければわかりません。

そして、その翌週は、今度は同じ場所でトラック市をやってみる。勝山市内の農産物を集めて、観光客が来るか否か。これを確かめてみる。

その次の日には、県内のケータリングカーに集まってもらい、観光客に様々な食を提供しながら反応を見る。

こういった小さなイベントを繰り返しながら、
「仮説:にぎわい創出のイベントをしていれば、観光客は立ち寄る」
との仮説を検証します。

果たして、観光客は来るのだろうか。来たとして総数はどれくらいになるだろうか。イベント来客者数の比率はどうなのだろう。案外と市内客の方が多いのかもしれない。ファミリー層はどのような物産を購入していくのか?その購入者の比率はイベント全体のどの程度に上るのか。そういった点を調査検証していくのです。



ー結果をみて検証するわけだー

そうですね。
「福井の夏の冷たいものフェア」には人が集まったが、農産物のトラック市には集客力がなかった……という結果なら、何がわかるのでしょう。例えば、恐竜博物館を訪れた観光客相手には農産物は売れないという結果に落ち着くのかもしれません。

こればっかりは、やってみないとわからない。
しかし、やらないことには、何もわからない。
そういう類のものです。


ただし、仮説検証のサイクルを回すことでわかることは必ずあります。
予想した事、予想しなかった結果、様々な検証結果を得ることができる。単なる市場調査ではわからなかった、顧客目線でのニーズなどがわかるのですね。

世界最大のオンライン靴店であるZAPPOSのスタート実験については、前述したとおりです。ZAPPOSは、事業を始めるに当たって、ごく小さくシンプルな形でスタートしました。仮説を立て、顧客はどのような反応を見せるのだろうかと検証を続けました。

ZAPPOSが何を学んだのか。それはエリック・リースの著から引用しましょう。

もしザッポスが過去に行われていた市場調査を利用していたら、あるいはあらたに調査を行っていたら、おそらく、顧客が考える顧客の望みを知ろうとしただろう。しかし、ザッポスは提供サービスを構築した。ごくシンプルなものではあったが、提供サービスを構築したからこそ、ザッポスは以下のことを学べたのだ。

【1】顧客の望みについて制度の高いデータが得られた。頭の中で考えただけの質問を発するのではなく、顧客がどう動くのかを観察したからだ。

【2】現実の顧客とやりとりする位置に自らを置き、顧客のニーズを学んだ。たとえば事業計画に価格の引き下げが組み込まれるケースが考えられるが、その場合、価格が引き下げられた製品を顧客はどう考えるのかが問題となる。

【3】顧客が予想外の行動をする場合があり、そのときザッポスはたずねようとも思わなかった情報を入手した。たとえば顧客が来るを返品してきた場合など。

(中略)
スタートはおどろくほど小規模だったが、だからといってザッポスの大きなビジョンが実現しないことにはならない。その証拠としては、2009年にザッポスが電子商取引の巨人、アマゾン・ドット・コムに推定12億ドルで買収された事実があれば十分だろう。
  (『リーン・スタートアップ』p82-83)


道の駅は、観光客に飲食や物販を提供する。ならば、その実用最小限のモデル(MVP)を作ってみて、仮説を検証する。その結果を受けて修正を図る。そして、これを何回も何回も回し続ける。

そして、その中で、道の駅の建設そのものが大きく修正される可能性は大きいでしょう。



ーなぜ?-

道の駅を建設するのは、何のためですか?
もしも、「建物を作らなくても、『地域振興』の目的を図ることができる」のならば、道の駅なんぞ作る必要はないのです。




ーでも、国や県の補助もらってるから、安く建てられるー

ああ、それ言うんですよ。行政職員も言うし、下手すると議員までもが言う。
そういう発想だから、いつまで経っても箱モノ行政はなくならない。

いいですか。建物にはライフサイクルコストがかかります。



ーそれはなに?-

建物が建てられてから、解体廃棄にいたるまで、様々な費用がかかります。光熱水費などの運用費用、保守・管理などの保全費用、修繕費用、一般管理費など多岐にわたります。一般には、建設費のおよそ3~4倍の費用がかかると言われています。

建設費の補助をもらったから安く建てられる……でも、運用費用、保全費用、修繕費用などは勝山市民の税金でまかなわねばなりません。
いわば、自分たちの子供にツケを回すようなものです。


本当に、道の駅が建設すべきものであるのならば、建設しなければなりません。
そこに国・県の補助を得るのであれば、それは本当にありがたい。

だが、道の駅を建設しなくても、別の方法で「道の駅建設の当初の目的」を達成できるのならばば、特段、建設する必要はないのです。


これですね。酷い話になると、「国・県に補助をもらう約束をしてしまったので、もう後戻りはできない」とか、平気で言い始めるんですよ。もう、ここまで来ると、誰のために建設しているのか、何のために建設するのか、建てた後はどうなるのか……といった話はすっとんでしまい、「ひたすら建設に向けてがんばる」という事態が生じます。




まあ、愚痴はこれくらいにしておきましょう。

本題に戻りますが、小さなイベントを繰り返し行うことや、様々な仮説検証を回すことは、二つの大きな利点を産みます。



ーふむ。それはなに?-

ひとつは、思わぬ成果を得る点です。ZAPPOSがテストの結果で思わぬ情報を手に入
れたように、必ず、テストは思わぬ結果をもたらします。

例えば、テストとして観光客向けのトラック市を開催したが、観光客よりも勝山市民の比率が高かった……という結果が出たとしましょう。
道の駅の仮説としては、「観光客向けに、勝山の『地の野菜』は売れない」との結論を導き出せます。

しかし、別の視点から見れば「勝山市人には、勝山の『地の野菜』を安く提供することは、ビジネスになりうる」との結論を導き出すこともできます。全く新しいビジネスの種が見えてきます。



ーふむ、そんなもんかねー

ドラッカーは、その著『イノベーションと企業家精神』で、イノベーションのための7つの機会を列挙しました。新しい知識を活用せよ、人口構造の変化に着目せよ……といった7つの機会の最初に来るのは、「予期せぬ成功」です。

予期せぬ成功ほど、イノベーションの機会となるものはない。これほどリスクが小さく苦労の少ないイノベーションはない。しかるに予期せぬ成功はほとんど無視される。困ったことには存在さえ否定される。
  (P.ドラッカーイノベーションと企業家精神』p18)



そして、第二の利点は、ステークホルダーのネットワークを作ることができる点です。




ステークホルダーとはなに?-

ステークホルダーは、「利害関係人」という意味です。

ここにひとつの企業があるとします。企業は日々活動していますので、様々な人々や団体に影響を及ぼします。

例えば、この企業がメーカーだったとしましょう。資材を買い付ける取引先もステークホルダーですし、顧客である製品の売り先もステークホルダーです。
もちろん、株主もステークホルダーに含まれます。利益をあげるか否かは、株主にとっては重大な関心ごとです。
経営者自身や従業員もステークホルダーですね。他にも、金融機関もステークホルダーでしょうし、地域住民もステークホルダーです。
最も広い意味でこの言葉を使うのであれば、競合相手や税務当局、行政官庁までもステークホルダーに含まれることでしょう。


そして、リーンスタートアップの実験として小さなイベントを繰り返し行うことで、ステークホルダーのネットワークは強化されていきます。

例えば、軽トラ市を開催すれば、そこへ参加する出品者の意識とネットワークは強くなります。ケータリング祭りでも何でも良い。実験イベントを繰り返し行い、検証を加えていくということは、イベント参加者に後日集まってもらい「あれはなぜ売れなかったのだろう」「次はどうすれば良いのだろう」と検討を重ねることです。
ネットワークが強くなるのは当然でしょう。


そして、何よりも、最重要にして最大のステークホルダーが強化されます。




ーそれは、だれ?-

顧客です。顧客こそが、われわれが考えねばならない最重要にして最強のステークホルダーです。この顧客が強化される。



ーなぜ?観光客は一見さんでしょ?-

これは、私の予想ですが、観光客を相手としてリーン・スタートアップの実験を行います。それは小さなイベントを回し続けていくという形で行われますが、その過程で、われわれは新たな顧客に出会うはずです。

その顧客とは、当の勝山市民であり、近隣自治体の方々になるでしょう。
日を置かずに、同じ場所で様々な実験イベントが行われている。毎回、メニューも趣旨も異なる……となると、本筋では観光客向けの実験イベントでありながら、地元の市民が顧客として訪れる可能性が強い。

このようにして、出品者、参加者としてのステークホルダーも、顧客としてのステークホルダーもお互いに強化されていくのです。




ー話を聞いていると、あなたが前々から言っている「成功体験の積み重ね」のようだー

そうですね。

新規事業の立ち上げは、それがどのようなものであろうとも、極めて不確実な状態で、新しい製品やサービスを作り上げます。
不安でたまらないですよ。実際にやる方は。

唯一できることは、一歩一歩前に進んで成功体験を積み重ねるより他にないでしょう?


そう考えると、これまでの道の駅が失敗し続けた理由も明らかではありませんか。

誰だってリスクを背負いたくない。大失敗して「それ見たことか」と後ろ指さされたくない。小さな成功体験でもあれば、事業の成長に期待も出来るでしょうが、それすらない。
そんなとき、人々が「行政がなにかしてくれなければ、先へ進めない」と言うのは、もっともな理屈です。
そして、行政は行政で「それは民間のすべきことですから」とケツをまくる。
そんな無責任体質で、事業がうまくいくことなどありえません。




ちなみに、リーン・スタートアップは、新規事業の立ち上げに有効ですから、学校再編などにも用いることができますよ。


ーいや、いくらなんでも学校再編は。ビジネスじゃないんだからー

ビジネスだから使える。ビジネスじゃないから使えない。そういうものではありません。リーン・スタートアップとは、「新規事業の立ち上げをマネジメントする」ためのものです。

先ほど申し上げたでしょう?「新規事業の立ち上げは、それがどのようなものであろうとも、極めて不確実な状態で、新しい製品やサービスを作り上げます」と。ビジネスであろうとなかろうと、規模が小さかろうと大きかろうと、新規事業の立ち上げは、極めて不確実な状態であり、それをマネジメントしようするのがリーン・スタートアップです。






学校再編問題をリーン・スタートアップで回してみよう

学校再編の根本的な仮説は、「学校を再編すれば、子供たちのためになる」というもの。



ー経費削減とかは、根本的な仮説にならないの?-

もちろん、それを主目的にするのであれば、それが根本仮説になるでしょう。
ただ、経費削減を目的にするのであれば、市民に対して「経費削減が主たる目的です」と説明しなければなりませんね。

もっとも、「経費削減が主たる目的です」と説明されて、それで納得できる市民は少ないでしょうけれど。



ー「学校を再編すれば、子供たちのためになる」とは、ザックリとした仮説だー

そう、その通り。そして、このザックリとした仮説しか存在しないところが、学校再編問題をこじらせる原因なのです。

「学校再編により、大集団ができます。大集団は子供の社会性を育てます」
「学校再編により、大集団ができます。子供の部活動はより活性化します」
という主張は「仮説」です。

「学校再編をせずに、小集団のままでいきます。先生と小集団の関係はより密接になり、子供たちによりよい教育を受けさせることができます」
という主張も「仮説」です。

どちらも仮説にすぎません。そして、学校再編賛成派と反対派はお互いに仮説をぶつけ合って勝負をつけようとする。これでは、いつまで経っても感情的な対立が続くだけです。



ーそれじゃ、どうすればいいの?-

『リーン・スタートアップ』の著者であるエリック・リースの言葉を借りるならば、
・顧客に価値を提供できないものは、すべてムダ。
・それを検証できないようなものも、すべてムダ
ということです。

「学校再編により、大集団ができます。大集団は子供の社会性を育てます」
このような仮説をどのように検証できるのです?検証できないような仮説は、そもそもムダなのです。

「学校再編をせずに、小集団のままでいきます。先生と小集団との関係はより密接になり、子供たちによりよい教育を受けさせることができます」
この仮説は、そもそも学校再編の否定根拠になっていません。なぜなら、再編して大きな学校を作っても、小集団に分けさせることは可能だからです。


つまり、仮説の立て方そのものが誤っているような気がしてなりません。

そもそも、学校再編の対象者、つまりビジネスでいう「顧客」は誰です?



ーそれは、子供でしょうねー

でしょう?ところが、学校再編でもめているところは、大概こんな感じになっています。

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この図を見て、何か気づきませんか?


ー肝心の子供がどこにもいないー

そう、肝心の子供がどこにもいない。サービスを受けるはずの顧客である「子供」がどこにもでてこない。



ーでも、保護者も学校も地域住民も、子供のことを考えて主張しているのでは?-

一見すると、そのように思われます。保護者は「学校再編は子供のためにならない」と主張し、教員も地域住民も「学校再編は子供のためにならない」と主張します。しかし、それは対立を産む結果しかもたらさない。

もう一度、リーン・スタートアップの目的を考えてみましょう。新規事業の立ち上げは、不確定要素が極めて強い。その中で、いきなり大勝負をしかけるのは危険すぎる。ならば、小さなモデルを作り、仮説を検証を繰り返しながら修正を図っていくべきだ……これがリーン・スタートアップの趣旨です。

この根底にあるものは、「ビジョンを達成するためには、本当にその方法しかないのか?他にも有効な手段はあるはずではないのか?」といった考え方です。

道の駅であれば、「地域振興」がビジョンでした。そして、そのビジョンを成し遂げるために「果たして道の駅という手法で成功するのか」を検証するのですね。

学校再編であれば、「子供たちの教育に良いことをする」というビジョンがあります。そして、そのビジョンを成し遂げるために「果たして学校再編という手法で成功するのか」を検証することになります。


ーうんー


大概、教育委員会は「学校を再編すれば、子供たちのためになります」との仮説を提示してきます。

この仮説は検証できないということは、さきほど申し上げたとおりです。

先ほどのリーン・スタートアップの考え方に従えば、
「学校再編以外に、子供のためになることはないのか?」
という仮説が最初に来なければいけないのです。教育委員会は嫌がるでしょうが、この仮説が最初にこなければいけない。


そして、この仮説を掲げたとき、次のような図ができあがります。

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教育委員会(行政)・保護者・教員・地域住民が、手を取り合って「子供たちのために何ができるのか」を考える……そういう図式です。

この図式になったときに、初めて様々な仮説モデルを作ることができます。


ーどんなモデル?-

そうですね………例えば、学校の勉強についていけない子供たちの数を減らそうと考えます。40分の授業を40分で理解できる子は学校の勉強についていける。しかし、40分の授業を60分で理解する子に対しては、20分をどこかでみなければなりません。これは単に個人の能力差の問題であり、善し悪しの問題ではない。速く走る子もいれば足の遅い子もいるように、学習にも能力が現れます。ただそれだけの話です。
ただ、40分の授業を60分かけて理解する子に対するケアを、われわれは図らねばならない。
ならば、ここで仮説を立てるができます。
「40分の授業内容を40分で理解できない子に、更に補習をすれば理解できる」

この仮説を検証するモデルを作るのためには、補習をする時間を組めばいい。



ーでも、先生たちにそんな時間的余裕があるの?-

ないでしょうね。多忙を極める現場で、それだけの余裕はありません。

ならば、次の仮説が出てくるのです。何が、現場の先生の時間を奪っているのだろうか。事務手続きか、書類の作成か、指導準備に充てる時間か。それらを調査の上、事務所類手続きに割く時間が大きいのであれば、それを軽減するための仮説を立てればいい。
教育委員会が、事務軽減を図ることにより、現場に週10時間の余裕ができる」

この仮説をモデル化するためには、教育委員会は実際に事務軽減のための施策をとらなければなりません。学校教育課に人員を充てる、事務執行のやり方を見直す等々の現実の対応をすることになります。



ーそれは、改革というものでは?-

そう、組織の改革ですよ。学校再編問題で教育委員会と保護者・教員・地域とが対立している状態では、決してできないことです。


子供たちのために、関係する人々がネットワークを組んで、組織の在り方やネットワークの組み方から作り直しましょう。それは、極論すれば………一から、全てを作り直しませんか?ということでもあります。

もちろん、法令に定められた組織は崩すわけにはいきません。教育委員会制度が気に入らないと主張する方がいても、法令で定められている以上は設置しなければならない。しかし、運用については、われわれが考えれば良いことです。

PTAのあり方、モンスターペアレントへの対処の仕方、学校の事務軽減、校長の権限強化、様々なことを一から考えて作っていけば良い。そのために「仮説ー検証ー学び」のサイクルはあるのです。




ーでも、これは大騒動だ。手間のかかる作業ですよー

でしょうね。手間のかかる作業です。

でも考えてみてください。
学校再編を進めてみた、しかし、実際にはうまくいかなかった。今となっては後の祭りだ……というような状況を迎えることに比べれば、はるかにマシというものです。


少なくとも、現在の学校再編問題は、教育委員会が保護者・教員・地域住民にたいして「ご理解をいただく」ものです。われわれがしたいのは「理解すること」ではありません。本当に子供たちにのためになる手法なのです。




長尾山総合公園の話に戻りましょう


最後に、長尾山総合公園のプロデュースの話に戻りましょう。

延々と、リーン・スタートアップの手法について語ってきたわけですが、なぜ、これについて語ってきたのか。これには理由があります。


ーなぜ?-

《前編》と《中編》と2回にわたって長尾山総合公園のプロデュースについて語ってきたわけですが、どうやら「長尾山総合公園をアミューズメントパークにする」と理解されている方が少なからずいらっしゃる。


ーだめなの?-

いえ、ダメというわけではないのです。ただ、私が思うのは3点。

①行きつく先(ゴール)として「長尾山総合公園をアミューズメントパークにする」という発想は、十分にありうる。


②ただし、いきなり大勝負をしかけることはない。

③お客様の反応を見ながら、少しずつ微調整、時には大胆な方向転換をしながら、ゴールを目指しましょう。その結果として、「長尾山総合公園はアミューズメントパークにならなかった」ということも、十分にありうる。


リーン・スタートアップの考え方に従うならば、このようになるのです。

私は、このブログの記事「神話としての『雇用創出が若者の定住を産む』という定説」を書き、その中で「顧客は自分の購買動機を説明できない」と繰り返し申しました。

顧客は自分の心の中の「ある言葉」に従って行動する。しかし、その言葉を自分自身で説明しようとしてもできない……ならば、われわれは「顧客はこれを欲している」と決め打ちしてはいけないのです。

修正と学びを繰り返しながら、事業を大きく育てていけばいい。
あくまでも、「長尾山総合公園を〇〇というふうにプロデュースしよう」という主張は、最初のアイデアでしかありません。

重要なことは、
 ①顧客の反応を見ながら修正を図っていく。
 ②いきなり大勝負をしかけない。
 ③だめなら、いつでも撤退できる環境を整えておく
ことなのです。

恐竜博物館がある長尾山総合公園をプロデュースしよう 《中編》

前回のおさらい

まずは、《前編》の内容をおさらいしておきましょう。

①県立恐竜博物館と連携しながらも、県立恐竜博物館に依存しない形で、長尾山総合公園をプロデュースする。

②県立恐竜博物館に訪れる来客数の73%は、ファミリー層である。したがって、長尾山総合公園もファミリー層をターゲットとする。

③加えて、リピート率を考えるならば、メインターゲットは福井県内のファミリー層である。拡大エリアは、金沢・富山までとする。

④ファミリー層のインサイトを探れば、「半日、腰を落ち着けて子供を楽しませる場所が欲しい」ことがわかる。県内の市場環境から見て、半日、腰を落ち着けてファミリー層が遊べる場所は少ない。したがって、長尾山総合公園はその方向性を採用する。



長尾山総合公園のポテンシャル


ー最初に聞いておきたいんだけど、長尾山総合公園のポテンシャル、つまり、潜在的な可能性をどういうふうに考えてる?-

これはですね……抜群です。もう、金の卵を産むニワトリと言ってもいいくらい。


福井県が発表した平成27年度福井県観光客入込数(推計)を見てみましょう。
福井県内の有名観光地の入込客数が出ています。

東尋坊…………………147万9千人
芝政ワールド……………44万1千人
大本山永平寺……………58万1千人
一乗谷朝倉氏遺跡……108万人
あわら温泉……………101万8千人

さて、ここに面白いものが出てきます。
西山公園…………………99万人


ー西山公園って、あの鯖江市にある西山公園?-

そう、あの西山公園です。
見事なツツジや、レッサーパンダでも有名ですね。

この西山公園は、行った方はご存知でしょうが、公園です。アミューズメントパークでも何でもない。でも、あそこでは「焼き鳥合衆国」はじめ様々なイベントも開かれています。

そして、興味深いのは県内客の比率です。

東尋坊…………………147万9千人(内、県内客20万7千人)
芝政ワールド……………44万1千人(内、県内客 7万9千人)
大本山永平寺……………58万1千人(内、県内客 9万9千人)
一乗谷朝倉氏遺跡…………108万人(内、県内客20万5千人)
あわら温泉……………101万8千人(内、県内客32万人)

つまり、入込客数に対する県内客の割合は、

東尋坊…………………14%
芝政ワールド…………18%
大本山永平寺…………17%
一乗谷朝倉氏遺跡……19%
あわら温泉……………31%

となります。これに対して、西山公園は

西山公園……………99万人(内、県内客71万3千人)

入込客数に対する県内客の割合は、実に72%に及びます。

公園の特徴が如実に出ている数字です。公園は市民や県民が使うもの。「ちょっと出かけてみようか」と遊びに行く場所。気安さが観光地とは違います。

《前編》で、私は「長尾山総合公園は、福井県民をターゲットとする」と述べました。その理由の一端は、長尾山総合公園が公園だからです。観光地へファミリーで行くというのは、なかなかありません。目的が違うからです。子供を遊ばせるために永平寺に行く、一乗谷朝倉氏遺跡へ行く。これはちょっと違う。
気軽に子供を遊ばせに行くのであれば、真っ先に出かけるのは公園です。ここで、公園と観光地との差異化が図れる。

ただ、公園で半日遊ばせるのも難しい。そこが他の公園と長尾山総合公園との差異化です。


西山公園と異なり、長尾山総合公園には、何といっても県立恐竜博物館がある。
しかも、恐竜博物館の客層はファミリー層が4分の3を占めている。

これはもの凄く重要なことです。
顧客ターゲットが最初から絞られているのですから。



ーそれは、そんなに大切なことなの?-


そりゃそうでしょう。顧客の層をどうやって絞り込むのか。それで皆が頭を悩ますのですから。通常は、顧客をいくつかの層にわけます。セグメント化と呼ばれる行為です。そして、その中の特定のセグメントに手持ちの資本を集中させる。これがターゲティングです。ここを見誤ると、すべてが狂ってしまう。


東尋坊を考えてください。東尋坊を訪れる人たちの年代、性別、団体の様相などは確定できます?
子供が多いのですか?ファミリーですか?カップルですか?それとも高齢者ですか?
私も何度も東尋坊に足を運びましたが、よくわからない。表現するなら「多種多様」としか言いようがありません。こういうときが一番困るのです。

そこを考えなくてよい。これだけでも、長尾山総合公園はアドバンテージを持っているのです。手持ちの資源をどこへ集中させるかが明白ですから。



もう一度申しますが、方向性さえ間違わなければ、長尾山総合公園は金の卵を産むニワトリです。

ただ、現状では、その金の卵を産むニワトリに、金の卵を産ませないようにしている。
その最たるものが、ゴールデンウィークと夏休みの期間に、長尾山総合公園に車の乗り入れをさせていることです。


ファミリーを楽しませるのか苦しませるのか


ゴールデンウィークと夏休みの間は、長尾山総合公園への車の乗り入れを禁止する。これは、どういうこと?-

《前編》の最後は、そこで終わりましたね。
それでは、そこから話を続けましょう。

「県内のファミリー層に半日滞在してもらう」という方針を立てたのであれば、ゴールデンウィークと夏休みの間は、長尾山総合公園の車の乗り入れを禁止します。

具体的には、長尾山総合公園の外部の駐車場に車をとめて、そこからパークアンドライド方式で、バスでのピストン輸送で長尾山総合公園まで来客者を運ぶことになるでしょう。



ーなぜ、そんな手間のかかることをするの?-

簡単な話です。現在の方式では、単に苦痛を与えているだけだから。

ゴールデンウィークや夏休みともなれば、多くの人々が県立恐竜博物館へ訪れます。そして、名物の渋滞が始まる。1キロ2キロの渋滞なんて珍しくもありません。

しかも渋滞中は、トイレにも行けない。物売りが来るわけでもない。車に缶詰のままです。そんな思いをして、県立恐竜博物館へ辿り着く。ようやく、入れると思うと、県立恐竜博物館の入り口で長蛇の列ができている。


ーあれはひどいよ。なんで?-

元々、県立恐竜博物館を建設したときに、入館者のMaxを40万人程度で設定しました。100万人の来客数に対応できるはずがない。キャパシティーを超えているのです。

福井県が第二恐竜博物館の建設に踏み切った理由は、もちろん県の観光戦略として恐竜ブランドを更に伸ばそうという意図もあったのですが、現在の恐竜博物館の受け入れキャパを超えているという事態も無視できなくなったからでしょう。


ーなるほどねー


想像してください。

あなたが子供を楽しませるために県立恐竜博物館へ行こうとする。
車に乗って勝山へ向かいます。

ところがそこへ待っているのは車の渋滞です。
子供はトイレに行きたいと言い始める。「なんで、あのときトイレに行っておかなったんだ」と怒りたい気持ちをあなたはこらえる。コンビニは遠くに見えたので、奥様が子供を連れてコンビニまで歩いていく。大変です。そんな思いをして長尾山総合公園へ辿り着いた。「駐車場の空きはないのか?」と駐車スペースを探して、ようやくあなたは駐車することができた。

車を止めて、恐竜博物館まで歩いていくと、入館者が入り口で長蛇の列をなしている。どうやら券を購入する人たちが列を作っているようだ。「さっき寄ったコンビニで入場券を売っていたのは、こういう理由だったのか。しまった。あのとき買っておくべきだった」と、あなたはほぞを噛む。しかし、ここまで来て帰るわけにもいかない。「ねえ、まだなの?まだ入れないの?」と我慢の限界まで来ている子供たちをなだめながら、諦めて列に並ぶ。

ようやく恐竜博物館の建物内に入ることができた。

建物内も溢れんばかりの人だ。でも、せっかく来たのだからと歩いて見て回る。
子供たちは喜んでくれたようだが、2時間近く歩き回ったあなたはヘトヘトに疲れている。

平成24年度 恐竜博物館の滞在時間】
30分未満………………………0.63%
30分以上1時間未満……………3.16%
1時間以上1時間30分未満……19.56%
1時間30分以上2時間未満……13.15%
2時間以上2時間30分未満……23.79%
2時間30分以上3時間未満………6.26%

子供たちも飽いてきたようなので、あなたはそろそろ恐竜博物館から出ようと提案し、家族は博物館を出る。あなたの目に飛び込んできたのは、目の前の駐車場を埋め尽くす車の姿と人の多さ。
「特に、ここでやることは他になさそうだ」
とあなたは思う。

さて、次にあなたが考えることは?


ーそうだな……「一刻も早く、ここを脱出したい!」という感じかなー

そうでしょうね。私でもそう考えます。とにかく、この場所から離れたい。
これではファミリーに楽しみを与えているのか、苦痛を与えているのかわからない。


「長尾山総合公園で、ファミリーが、半日、腰を落ち着けてゆったりと楽しむ」との方向性を打ち出しました。「一刻も早く、この場から立ち去りたい」と思わせるようでは、まったくの逆方向のことをしているのです。


また、従来のやり方。つまり、ゴールデンウィークや夏休み期間に長尾山総合公園の駐車場に車で乗り入れするやり方は、商売のやり方としても間違っています。



ーどういうこと?-

渋滞を起こさないで、駐車場の回転率を上げようと思えば、お客様には早く退場してもらうより他にありません。長尾山総合公園の滞在時間が短ければ短いほど駐車場の回転率はあがります。

ラーメン屋ならば回転率を上げれば上げるほど、利益が発生します。ですがわれわれは、ラーメン屋ではない。駐車場の回転率をあげることは、県立恐竜博物館の来館者をさばくことを意味し、長尾山総合公園には何の益もないことです。要するに、「長尾山総合公園から早く出て行ってください」と言うわけですから。

われわれが駐車場を経営しているのであれば、回転率を上げることは利益を上げることを意味します。しかし、長尾山で時間をすごしてもらおうという趣旨からすれば、駐車場の回転率を上げることに何のメリットもありません。

よく言われることですが、「恐竜博物館へ行っても、食事をする場所がない」
それでは、食事をする場所を作りましょう……と考えて、更に滞在時間を延ばせば、駐車場の回転率を下げて混雑を大きくするばかりです。


ーだったら、長尾山総合公園から退出いただいて、別な場所に集まってもらえばいいんじゃないの?-

そう考えているが現在の勝山市の方向性です。道の駅を作る、まちなかへ誘客するなどの手法を模索していますが、《前編》で述べた商売の常道から外れています。お客様は動かしてはいけません。

なぜ駅前に商店街があるのですか?それは駅に人が集まるからです。人が集まるからビジネスが成り立つ。駅に人が集まるのに、わざわざ駅から5キロも離れたところに店舗を構えさせ、客様を分散させてビジネスしようなどと考える人はいません。効率が悪いからです。

長尾山総合公園での滞在時間を延ばすからこそ、その時間を活用して様々なサービスを顧客に提供することができます。飲食もしていただく。施設を使ってもらって利用料を支払いいただく。そういったビジネスが発生するのです。
《前編》で述べたように、永平寺の顧客囲い込みモデルは、ビジネスモデルとして依然有効なものです。




また、ゴールデンウィークや夏休みに長尾山総合公園に車で乗り入れて、かつ、渋滞を緩和させようという試みは、政策論としても間違っています。


ーそれは、どういう意味で?-

長尾山総合公園は勝山市の所有物です。したがって、県立恐竜博物館の来館者のために、勝山市は駐車場を整備しました。ところが、その駐車場のキャパすら超えて来館者が訪れるため、渋滞が発生しています。

この渋滞に対しては、5つの方法しかありえません。

 ①渋滞を解消することをあきらめる。
 ②パーク&ライドを更に充実させる。
 ③長尾山総合公園に駐車場を更に増設する。
 ④駐車場の回転率を上げる工夫をする。
 ⑤全面乗り入れ禁止にする。

①「渋滞解消をあきらめる」というのも、ひとつの選択肢です。ただし、これは顧客満足をはなから無視した方法です。

④は先ほど申し上げたように、長尾山総合公園に何らの益ももたらしません。

ならば、②「パーク&ライドを更に充実させる」、③「長尾山総合公園の駐車場を更に増設する」というプランはどうでしょう。

この方法を採用するならば、「なぜわれわれは市税を投入しなければならないのか」との問いに答える必要があります。歯に衣着せぬ言い方をするならば、「なぜ、われわれは税金を使って観光客を喜ばせる必要があるのか」という問いです。

「それがおもてなしの精神です」という、おためごかしは無視しましょう。確かに、おもてなしの精神は必要です。しかし、それとて限度というものがある。

長尾山総合公園は、勝山市民のための公園です。勝山市民が楽しむことのできる場でなければならない。したがって、《前編》で申し上げた「ファミリー層が、半日、腰を落ち着けてゆっくりと楽しむ場」のファミリー層とは、原則、勝山市民を含むのです。

福井県内のファミリー層」まで拡張したのは、ビジネスモデルとして成立させるためです。ビジネスモデルとして成立させるためには、顧客の数、すなわち市場の規模(スケール)を確保しなければならない。それならば、福井県内のファミリー層を対象としよう!というだけの話。

原則は、勝山市民のファミリー層が楽しむものでなければなりません。

市税を投入するとはそういうことです。
ゴールデンウィークや夏休みの混雑期に、勝山市民が長尾山総合公園へ行きたいと思いますか?
「今の時期はどうせ込み合ってるから行ったところで……」
と尻込みするのでは、市税を投入した価値はありません。

混雑期でも、勝山市民が「それじゃ、子供を連れて半日過ごそうか」と思えるような条件整備を整えて初めて市税投入した意味があるのです。



ー市税を投入する意味は、観光産業の活性化という形でリターンするのでは?-

う~ん……一体、いつになったらリターンするのでしょうね。

リターンという概念は、
 ①市税を投入する。
 ②経済波及効果を産む。
 ③市民の収入アップにつながる。
 ④税収増加を産む。
このサイクルを指すものです。

現在の長尾山総合公園内に市税を投入して、パーク&ライドを増強したり、駐車場を増設することが、どのような経済波及効果を産むのでしょうか。建設費用が特定業者に対して影響を及ぼす程度で、その効果は限定的です。




乗り入れ禁止の効果


ー乗り入れ禁止の効果は?-


乗り入れを禁止することにより、初めて、「ファミリー層が、半日、腰を落ち着けてゆったりと子供を遊ばせることができる」との方針を実現することができます。

この段階で、ようやくわれわれは「それならば、どのような手法で、ファミリー層に半日楽しんでもらおうか」という議論をすることができる。



ーでも、わからないことがあるー

なんでしょうか。



ーなぜ、これまで乗り入れ禁止をすることができなかったの?-

理由は3つでしょうね。

ひとつは、予算の問題です。

ゴールデンウィークや夏休み期間に駐車場への乗り入れを禁止する。これを実現するためには、2つのものが欠かせません。ひとつは長尾山総合後編から離れた場所で駐車場
を確保すること。そして、そこから長尾山総合公園まで運ぶ手段を確保するための予算です。

予算の問題については、これはビジネスモデルそのもののに関わってきます。

これは、「どこで収益を上げるのか」、「その収益でビジネスモデルを維持できるのか」という話でして、乗り入れ禁止による顧客の移動に関するコスト。バスの借り上げ料などは、ビジネスモデルの中で考えなければなりません。

ビジネスモデルをどのように構築するのか。それは《後編》で説明します。




ーそれじゃ、乗り入れ禁止をしなかった二つ目の理由は?-


二つ目の理由は、福井県との関係性です。

思うに、乗り入れ禁止に真っ先に反対するのは福井県でしょう。県立恐竜博物館への来館者に悪影響を及ぼすとの理由で。

これは、現行の方式よりも顧客メリットが高まることを前提に、福井県を説得するより他に方法はありません。




ー長尾山総合公園は勝山市のもの。福井県の説得が必要なの?ー



行政というのはそういうものなのです(苦笑)。




ーでも、どうやって説得するの?-



現行方式では、長尾山総合公園に車で乗り付ける目的はひとつしかありません。県立恐竜博物館へ行くためです。目的がひとつしかないから、前述したように、県立恐竜博物館の入り口で券売の長蛇の列ができる。

しかし、長尾山総合公園への車の乗り入れを禁止する。バス等の手段を確保する。そして、長尾山総合公園で半日過ごせるだけのアミューズメント性を高める。すると、長尾山総合公園に来た人々は、県立恐竜博物館の入り口の長蛇の列を見てどう思います?

「あれだけ並んでるのなら、子供を遊ばせながら時間を見て、混雑が解消されてから恐竜博物館に入ろうか」

つまり、県立恐竜博物館への入館混雑を緩和する効果があります。

それに、われわれは「福井県民のファミリー層」をターゲットにしています。県立恐竜博物館と勝山市がタイアップして、福井県民のファミリー層を楽しませよう。県にとっても悪い話ではありません。

いずれにせよ、これは説得しなくてはいけない。




ーそれじゃ、乗り入れ禁止をしなかった三つ目の理由は?-


行政は新しいことをやりたがらない。
それだけです。



ー3つの理由は理解したけど、乗り入れを禁止したら、何ができるの?-

乗り入れを禁止することにより、顧客が長尾山総合公園で過ごす時間を確保することができます。

ようやく、ここでわれわれは次の議論をすることができます。
「われわれは、長尾山総合公園内で顧客にどのような価値を提案するのか」

その価値については、《後編》で詳しく述べましょう。



   -《後編》へ続くー


恐竜博物館がある長尾山総合公園をプロデュースしよう 《前編》

今回から、《前編》《中編》《後編》の3回に分けて、恐竜博物館がある長尾山総合公園のお話します。
具体的には、長尾山総合公園を、どのようにプロデュースしようか!という内容です。

「プロデュース」とは、「テーマを決めて価値を創造し、発信する」という意味で使っております。



ー長尾山総合公園に、何か問題でもあるの?-


県立恐竜博物館は、ぐんぐん来客数を伸ばしています。ちょうど1年前の今頃、年間来客者数が90万人を突破しました。おそらく、今年度は100万人を超えることでしょう。



ーでも、ディズニーランドやUSJと比べると、小さなもんでしょ?-

そう卑下するものではありません。

綜合ユニコムがとりまとめた「全国の主要レジャー・集客施設 入場者数ランキング2016」によると、確かにディズニーランドやUSJの入館者数は桁ハズレです。

ディズニーランド…………3000万人
USJ…………………………1400万人

でも、100万人の来館者というと、遊園地部門でいうならば、としま園とほぼ同じ入場者数です。

ミュージアム部門で比較しても、

ミュージアム部門】
1位.金沢21世紀美術館………237万人
2位.国立新美術館……………229万人
3位.国立科学博物館…………222万人
4位.東京国立博物館…………199万人
5位.広島平和記念資料館……150万人
となっているので、いいところまでつけている。これは間違いないでしょう。


ところが、恐竜博物館がある長尾山総合公園。
画像で示すと、このような感じです。

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この総合公園のプロデュースができていません。これをしっかりとしないと、勝山市の観光戦略など、様々な施策がチグハグな結果に陥ってしまいます。

「年間に100万人来ますよ」
「だったら、モノ売れば儲かりますね」
「だったら、飲食提供すれば儲かりますね」
といった単純な考え方では困るのです。

「この国道沿いは、年間400万人の交通量があります」
「だったら、モノ売れば儲かりますね」
「だったら、ラーメン屋開けば儲かりますね」
そんな商売する人、世の中にいません。確かに人の通らない場所に立地しても儲かるはずがない。だが、人の通るところなら確実に儲かるものでもない。それで儲かるなら世の中これほど楽なことはありませんよ。しかし、現在の長尾山のプロデュースは、これに近いものです。

われわれは長尾山総合公園を訪れる人々の誰に対して、どのような価値を、どのような方法で提供するのか。それをどのようなビジネスモデルに落とし込むか。それを明確にすべきです。


そして、もうひとつ確認しておきたいことは、県立恐竜博物館をプロデュースすることと長尾山をプロデュースすることは、全く異なるものだということです。


ーなにがちがうの?-

有名観光地を考えていただければ、分かっていただけると思います。
例えば、近場で言うならば永平寺道元禅師が開山した有名な古刹です。この永平寺は「お寺としての永平寺」として単体で存在します。
そして、永平寺には門前町があります。飲食する場所、宿泊する場所、お土産物を売っている場所。そういったものが含まれる。
お寺のことはお寺にお任せする。そして、自治体や企業、商店主、住民の皆さんが考えるのは門前町です。ここをどうプロデュースするかを考える。

「お寺としての永平寺」を恐竜博物館、「永平寺門前町」を長尾山総合公園と対照させればおわかりでしょう。県立恐竜博物館のことは、福井県に任せておく。われわれは、恐竜博物館に来館する年間100万人の人々を、長尾山総合公園でどのように楽しんでもらうのか。そして、どのようにしてビジネスにつなげていくのか。これらの点をプロデュースするのです。


上記の点を踏まえたうえで、まずは県立恐竜博物館について考えてみましょう。
そもそも恐竜博物館に訪れる人々は、どのような人々でしょうか。


対象はファミリー層


ー客層見てると、ファミリー層じゃないの?-

そう、ファミリー層です。平成24年に恐竜博物館がとったアンケートを見ても、来館者の構成は、圧倒的にファミリー層になっていて、その比率は実に73%にものぼります。

平成24年度恐竜博物館調査結果
【来館者の構成】
1人で来た……………………3.9%
家族・親戚と来た…………73.6%
友人・知人と来た……………9.2%
学校で来た……………………4.0%
職場で来た……………………1.6%
旅行会社のツアーで来た……2.7%
その他…………………………3.6%
無回答…………………………2.0%

それじゃ、ファミリー層をターゲットにしましょう。


ー「学校で来る」とか「旅行会社のツアーで来る」とか、そういった人たちを伸ばさなくていいの?-

ほら、もうズレてる。県立恐竜博物館に来る人々を多様化させよう!具体的には修学旅行で来る学生を増やそうとか、旅行会社のツアーを増やそうとか……そういったことは福井県が考えることなのです。さっき言ったばかりでしょう。

われわれには無尽蔵の資源はありません。人的・物的・予算的に限られた資本を用いるときに、「あれもこれも」と手を広げることは危険なのです。

恐竜博物館の来館者の73%はファミリー層です。
であるならば、長尾山総合公園のプロデュースはファミリー層をターゲットにすべきです。


そこでですね。

ファミリー層が望むことは何でしょうね。


ファミリー層のインサイトを衝け


ーそりゃ、子供を喜ばせることでしょうー

そう、それが基本です。ただ、財布を握ってるのは誰ですかという発想は必要です。基本的に子供に決定権はない。子供が駄々をこねても親が「それはダメ」と言えば、それで終わり。

親の二つの欲求、つまり「子供を喜ばせたい」との欲求と「あそこへ行ってみたい」との欲求を満たさなければなりません。

その点に関して成功したのは、キッザニアでしょう。
職業体験というのは、子供にとってはリアルなおままごとです。子供は楽しい。そして、親も「職業体験や知育は、子供のためになる」と動機づけができる。親に「あそこへ行かせてみたい」と思わせることに成功している。

そして、何よりも、親が楽ができる。
同伴保護者は、保護者ラウンジで子供たちを見ているのがルールです。子供たちが遊んでいるのを眺めている。

 


ーそれは重要なの?-

これはね。無視できない要素ですよ。

子供を遊ばせたい、楽しませてあげたい。これは親としての願いです。ただ、休日に「どこかへ連れて行って」と子供にせがまれると、「たまの休日くらいは休ませてくれ」と言いたくなるときもある。



ー切実な話だ(笑)ー

中でも一番疲れるのは、次にどこへ連れて行かなければならないかを考えること。
恐竜博物館へ行く。でも、恐竜博物館で半日は潰せない。すると、次はどこへ行こうかという話になる。ぐるぐると色々なところを車を運転して移動する。
これは疲れますよ。

半日、腰を落ち着けて時間を費やすことができる。そんな場所があるといいですよね。

以前だったら、百貨店・デパートがこのビジネスモデルでした。まだ、モノがいきわたらなかった高度経済成長期には、百貨店・デパートというのは「あこがれのモノが置いてある」華やかな場所でした。そこをブラリと歩きながら、最上階のレストランで食事をする。子供たちを屋上の遊具やウルトラマンショーなどで楽しませる。
半日、時間を費やすモデルになっていたわけです。

ところが、今はそういった場所がない。

親のインサイトをつかないといけません。そして、「子供の面倒みるのは大変でしょ?」という提案は十分にインサイトになりうるものです。


インサイト?-

インサイトとは消費者ニーズよりも更に深く掘り下げた感情です。USJマーケティングを担当し、売り上げを急激に伸ばした森岡毅氏によると、消費者インサイトは「消費者の隠された真実」を指すものです。指摘されてみて平気で「そうだよ」なんて消費者に反応されるものはインサイトではありません。「いや、そんなことはないよ!」と拒否してみたくなったり、考えるのが嫌だからできるだけ考えないようにしているものがインサイトです。

森岡氏が手掛けたインサイトの例として、USJのクリスマスイベントのCMがあります。下記の動画を見ると、確かに2010年(3)からCMの方向性が2方向に分かれています。



【冬らCM】☆USJ クリスマス限定CM 特集☆【X'mas限定】


ひとつは正攻法のCM。「こんなに素晴らしいクリスマスイベントやりますよ」というもの。
もうひとつは、「こんな素晴らしいクリスマスイベントを、お子様と過ごせる時間は限られていますよ」というもの。
明らかに後者は、親に向けてのメッセージです。

森岡毅氏の発言をそのまま引用しましょう。
この時に衝くことにしたインサイトは親の切ない深層心理をエグるものです。これを奇麗な言葉で表現すると、「子供と本気で楽しめるクリスマスはあと何回もない」というものです。
 もっとわかりやすく表現すると「あなたのまだあどけなくてかわいい娘はすぐに大きくなって、クリスマスなんてあなたと一緒に過ごしたがらなくなります。すぐにクリスマスイブは帰ってこなくなって、ホテルで彼氏と過ごすようになりますよ。だってお母さん、あなたも身に覚えがあるでしょう?」というもの。
 これをそのまま露骨にするとさすがに世の中に避難されますから、我々はそのインサイトをこのようなコピーに変換して切ないパパの目線のナレーションで語りました。
「いつか君が大きくなってクリスマスの魔法が解けてしまうまでに、あと何回こんなクリスマスが過ごせるかな……」と。
  (『USJを劇的に変えたたった1つの考え方』森岡毅著 p158)

これがインサイトを衝くということです。



さて、ファミリー層のインサイトに話を戻しましょう。

「子供の面倒をみるのは大変ですよね」
これは立派なインサイトです。

類似でいうなら、ご家庭の主婦が「たまには温泉で羽を伸ばしたい」というニーズ。そのニーズの底に隠れているインサイトに似ています。
奥様は食事をつくる、洗濯から何から何までする。もちろん、奥様方はそれを嫌がってはいない。家族のためにがんばっています。でも、「たまには、食事をつくることや家事全般から離れてのんびりと過ごしたい」との思いはあるでしょう。

「家族の面倒をみるのは嫌ですか」
と聞かれれば、そんなことはない!と奥様方は否定するでしょう。しかし、「たまには家事から自由になってのんびりと過ごしたい」とのインサイトがある。

こういった主婦向けのインサイトを狙ったビジネスモデルは、かなり出てきていますよね。

ー例えば?-

ベネッセが出版している「サンキュ!」という雑誌。これを見ていると、なるほどと思います。他にもESSEであったりLeeであったり、家庭画報STORYなどを見ていれば、おのずと見えてきます。

思うに、女性には根本的なインサイトがあるような気がします。
「この人と結婚してなかったら、私はどんな人生を歩んでいたのだろうか」

今の旦那に格別不満もない、子供たちもすくすくと育っている。今の生活に不満は特別ないのだけれど、あのとき別な選択をしたなら、私の人生はどうなっていたんだろう……男はあんまり考えない発想です。


この話は色々と面白い論点を多く含むのですが、今の議論との関連性が薄いので、また今度にしましょう。

話を戻しますと、
「子供の面倒みるのは疲れるでしょう?」
も同様にインサイトになりうるのです。

子供を楽しませたい。遊びに連れていきたい。しかし、それは疲れることだ。
できれば、腰を落ち着けて子供たちがどっぷりと遊べる場所が欲しい。あちこちと動き回るのは疲れる。

だったら、そのインサイトを衝きましょう。
「子供を遊ばせたいとの親の思いをかなえます」
「でも、『あそこへ行きたい』『次はここへ』という、子供に振り回されるのもゴメンこうむるでしょう?」
「できることなら、腰を落ち着けて半日ゆっくりと、ひとつの場所で子供が満喫できるような場所があればいいのに……そんなあなたの要望におこたえします」



ー「半日」とはどの程度の時間なの?-

おおよそ、4時間から5時間の時間を過ごす場所と考えていただきたい。
それだけの時間を過ごすことになれば、当然に食事の時間も含むことになります。


ーなるほど、話を続けてー


ところが、福井県内で、半日、腰を落ち着けて時間を費やすことのできる場所は、私の考えるところでは1か所しかありません。


ー三国競艇場?-

それは大人が半日過ごす場所。しかも、半日過ごせるかどうかも怪しい。1レース目でお帰りいただく羽目になるかもしれません。

冗談はさておき、ファミリーが、半日、腰を落ち着けて時間を費やすことのできる場所は、県内では唯一「芝政ワールド」だけです。

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しかし、芝政ワールドは有料です。
「半日どころか1日過ごせることはわかってる。でも、おいそれと行ける場所ではない」と親が感じる場所です。年に1回行くか行かないか。そういった場所ですね。
つまり、芝政ワールド
「ある程度の金額を払うけれども」
「家族で1日腰を落ち着けて遊べる場」
なのです。

県内には子供を遊ばせる場所は多々あります。しかし、たいてい子供は2時間もすれば飽きてしまう。半日腰を落ちづけて遊べる場はありません。

だから、カテゴリーとしては美味しいカテゴリーなのです。長尾山総合公園が
「低料金で」
「家族で半日腰を落ち着けて遊べる場」
というカテゴリーを打ち出したならば、福井県内に競合はいませんから。



顧客を絞り込め


ーそれじゃ、その方向で行くの?-

いや、その前に「誰をターゲットとするのか」という問題を考えねばなりません。


ーターゲットは、ファミリー層でしょ?-

ファミリー層をターゲットにすることは当然です。
問題は、「どこのファミリー層をターゲットとするのですか?」ということ。われわれの顧客はどこにいるのですか?という問題です。

だって、県立恐竜博物館には県内外から多くのお客様が来館します。その来館者のだれをターゲットとするのですか?
それによって話はガラリと変わってきます。

例えば、東京から県立恐竜博物館へ来る人がいます。この人たちは、旅行です。「旅行」と「半日腰を落ち着けて遊べる場」は結びつかない。


ーそういうもの?-

あなたが子供にせがまれて東京ディズニーランドへ行ったとしましょう。せっかく東京へ行くのだから、ディズニーランド以外にも見たいものはある。別に、腰を落ち着けて船橋市を見て回ろうとは思わないはず。「次は東京スカイツリーを見に行こう」「その後は秋葉原へ行こう」と、色々な場所へ移動するでしょう。
「旅行」は移動を基本とするものです。腰を落ち着けるものではない。したがって、東京から来るお客様をターゲットとするのは、意味がない。


「誰をターゲットとするのか」という話の中で、「それじゃ東京から来るお客様をターゲットにしよう」とすると、長尾山総合公園のプロデュースはチグハグなものになってしまうのです。

東京から来る人は県立恐竜博物館以外にも見たいところ、行きたい場所がある。ならば、長尾山総合公園に留まる動機がない。動機のない人たちに発信しても無駄です。


ーそれじゃ、東京でやっている恐竜博物館のPRは意味がない?-

だから、それは次元の違うお話だと申し上げたでしょう。
県立恐竜博物館のことは福井県がやることです。福井県が東京からの来館者を伸ばしたいのであれば、東京でPR活動をすることには十分に意味があるでしょう。

われわれは長尾山総合公園をプロデュースするのです。去年も今年も来館者の総数は100万人で変わりはない。しかし、東京から来る人々の比率が10%も増えた。そんなことは起こるはずがありません。もしも、東京からの来館者数が増えたならば、総来館者数は100万人から110万人になるだけのこと。

「われわれが長尾山総合公園をプロデュースする」とは、現在訪れている100万人の人々に対して、長尾山総合公園をどのように見せ、何を発信するのかということです。

福井県が東京で県立恐竜博物館をPRするのであれば、ぜひ頑張って成功させていただきたいと願うだけです。もちろん嫌味ではありません。正直な気持ちです。

勝山市がやるのであれば「税金の無駄だ」と言うでしょうが。



ーということは、結局どのエリアの人々がターゲットになるの?-

「半日、腰を落ち着けて子供たちを楽しませたい」との欲求に基づいて、「恐竜博物館に行って、半日、長尾山総合公園で遊んで、日帰りで帰るファミリー層」とターゲットを定めたのであれば、そのまま読み解けば良いのです。
「2時間かけて車で移動して、長尾山で半日過ごして2時間かけて帰る」


次の図をご覧ください。

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車で2時間圏内だと、金沢、富山から岐阜、彦根舞鶴というエリアになります。
車で3時間圏内だと、名古屋・京都・大阪という大市場をエリアに含むことができます。

われわれは、日々、恐竜博物館を訪れる県外ナンバーを見続けています。ですから、関西圏、北陸からお客様が来るというのは、感覚的にしっくりと来ます。


ところが、ここにひとつの見落としがある。


ーそれはなに?-

上の図を見てもわかるように、車で2時間圏の面積のほとんどを占めているのは、福井県です。そして、県立恐竜博物館の来館者数の地域別割合を見てください。

平成24年度県立恐竜博物館の来館者の内訳】
富山県………3.86%
石川県………6.79%
愛知県……16.18%
岐阜県………5.90%
滋賀県………3.98%
京都府………6.43%
大阪府……11.41%
兵庫県………7.15%

福井県……12.41%

仮に総来館者数を100万人とするのであれば。愛知県から16万人。大阪府から11万人。福井県から12万人来ている計算になります。福井県のお客さんよりも愛知県のお客さんの方が多い。


ーということは、愛知県や大阪府から来る人をターゲットにするということ?ー


つい、そう考えてしまうでしょう?そこが間違いの素です。私だったら、絶対に愛知や大阪の人を長尾山総合公園のターゲットにしない。するとしても、二次的ターゲットにすることでしょう。


ーなんで?愛知の方が人が来るのでしょ?-

愛知県の人口が720万人。大阪府の人口が890万人。福井県の人口が80万人。720万人の人口の愛知県から16万人。890万人の大阪府から11万人。80万人の人口の福井県から12万人。

さて、県立恐竜博物館へ来る比率が高いのはどちらですか?


ーなるほど、そういうことかー

そう、福井県民の方が、県立恐竜博物館へ来るのです。当たり前の話です。地元なのだから。ところが、なぜか長尾山をプロデュースするとの話の流れになったとき、愛知や大阪やという話が出てくる。目の前に出現する愛知ナンバーや大阪ナンバーの車に惑わされてしまう。

われわれは県立恐竜博物館の入館者数を増やすことを目的にしていません。あくまでも長尾山総合公園のプロデュースを目的にしているのです。

先ほど述べたように、福井県内には、腰を落ち着けてファミリー層が半日を過ごす場はありません。これが市場環境です。そして、その市場環境は、われわれのブルーオーシャンですよ。

ブルーオーシャンとは、いまだ他の競合相手が存在しない未開拓市場を指します。競合相手がいなければ儲かるのは当然ですよね。

県内には、ファミリーが、半日、腰を落ち着けて楽しむことのできる場はない。消費者のインサイトを眺めれば、その需要は強い。そして、われわれは発信するコンセプトを「ファミリーが、半日、腰を落ち着けて楽しむことのできる場所」と定めた。

そうならば、われわれが真っ先にターゲットとすべきは、福井県民なのです。



ーでも……大阪や名古屋のお客さんを捨てるのはもったいないー


その気分はよくわかります。しかし、こう考えてみてください。
「長尾山総合公園のヘビーユーザーになりうる人は誰ですか」

愛知県から大阪府からお客様は県立恐竜博物館へ来る。これは、ありがたいことです。では、彼らは年に何回来るのですか?もう一度申しますが、人口80万人の福井県で、そのうち12万人が恐竜博物館を訪れている。

これは強烈なリピート率がなければ達成できない数字です。

愛知県から恐竜博物館に昨年も来た。今年も来た。そういうお客様もいらっしゃるでしょう。これも大切なリピーターです。

恐竜博物館が、こういった県外のリピーターをどのように遇するのか。これは県立恐竜博物館に考えていただきましょう。
われわれが考えるのは、県内にいる強烈なリピーターの人たちです。



ー先ほどから聞いてると、恐竜博物館との棲み分けを、えらく気にしているようだけど?-

何回も申しているように、県立恐竜博物館のことは博物館に、長尾山総合公園のことはわれわれで。これが基本スタンス。

これは、長尾山総合公園を伸ばしていく上で、譲れないラインです。

確かに県立恐竜博物館の来館者を、長尾山総合公園の入館者のベースとする。これは間違いところです。
しかし、それにもたれかかっていてはいけません。

ある施設に強烈な集客力がある。それで、その集客力を当てにして、多くの人々がビジネスを営み始める。ところが、その施設の集客力が下がったときに、何が起きますか?

共倒れです。

われわれは、長尾山総合公園をプロデュースしようとしています。そして、幸いなことに長尾山総合公園には、強烈な集客力を持つ県立恐竜博物館がある。その集客力をベースにして、長尾山総合公園をプロデュースするのは当然の理です。
しかし、われわれは県立恐竜博物館に依存はしない。
極端なことを言えば、「明日、県立恐竜博物館が火災でなくなったとしても、長尾山総合公園の死活問題にはならない」くらいの力を蓄えておくのです。


ー第2恐竜博物館のこともあるしねー

そう、その問題もあるのです。現在、第2恐竜博物館を福井県は建設しようとしています。これがどこに建設されるのか。これは勝山市にとっても重大な関心ごとです。

仮に……勝山市以外の場所に第2恐竜博物館が建設された場合、勝山市にある第1恐竜博物館の入館者数は増えるでしょうか、減るのでしょうか。


ー普通に考えれば減るでしょうねー

そう考えるのが普通でしょう。「相乗効果で増えるはずだ」などと主張する人は、考えてみれば良いのです。敦賀市に水族館を作って「三国にある松島水族館との相乗効果でお客が見込める」などと主張しないでしょう?競合施設は、食い合いを始めるのが普通ですから。

そういった不測の事態にも対応できるように、われわれは長尾山総合公園の魅力を高めておかなければなりません。


ー第2恐竜博物館が勝山に来たら?-

来たら来たで重畳でしょう。それだけのことです。

いずれにせよ、長尾山総合公園をプロデュースする意味は、恐竜博物館を尊重しながらも、それに全面依存しないこと。長尾山総合公園はそれ単体で生き延びることができるのだという方向性を明確にする点にあります。

県立恐竜博物館のことは県に任せておきなさい。われわれは長尾山総合公園に力を注ぐのです……と私が繰り返し述べるのも、ここに理由があるのです。





顧客を囲い込め

次に考えるのは、顧客の長尾山総合公園内における滞在時間を延ばす方法です。



ー長尾山総合公園で、お客を囲い込むということー

「囲い込む」という表現は微妙なところですが、意図するところは間違ってはいません。



ー恐竜博物館から勝山市の中心市街地への誘客は?-

ああ、その問題ですか。

それを考えるのは止めましょう。



ーえ?いいの?-


だって、間違っていますから。
これまで勝山市は、恐竜博物館から中心市街地へ人を流そうとしました。
これは二つの点から間違っています。


ひとつは、商売の常道に外れている。
「お客は動かすな」が商売の常道です。なぜ商店街があるのか、それを考えてください。商店街へ行けば全てが揃うからです。ショッピングモールもそう。一度集めたお客様を動かしてはいけない。

県内で言えば、永平寺などがその典型例です。奥山深い場所に永平寺はあります。そこへ団体バスで乗り付ける。永平寺を参拝する。門前町で食事もする。お土産物も買う。何しろ団体バスで乗り付けるわけだから、観光客は他に行きようがありません。永平寺門前町の中をぐるぐると歩くより他にない。

これは団体旅行を基本としてバスで高齢者が乗り付けるというビジネスモデルです。
かつては凄かったらしいですよ。永平寺観光物産協会の人に聞いたところによれば、
「朝、シャッターを開けたらお客さんが歩いてるのよ」
「だから何もしなくても儲かった」
ところが、このビジネスモデルが崩れ始めた。団体客がバスで乗り付けるというスタイルから個人観光客へシフトし始めたからです。


永平寺の門前市が採用したビジネスモデルは崩れつつあります。しかし、それが崩れ始めた理由は、団体旅行バスに依存したビジネスモデル。つまり、門前市に人を呼び込む手段と逃がさない手段が崩れたのです。顧客の飲食・買い物・宿泊を門前市だけで完結させるというビジネスモデルは未だに有効です。
「お客を動かしてはいけない」
「お客を囲い込んで逃げさせてはならない」
これは商売の常道なのです。


勝山市の理事者には何度も注意したんですけどね。
永平寺の門前のビジネスモデルを参考にした方が良い」



ーなるほど、それでは「勝山市が犯した二つ目のミス」とはなに?-

自分勝手な理屈だということ。これまでのやり方は、観光客に対する押し売り以外のなにものでもありません。

非常に冷酷な言い方になるかもしれません。でも、取り繕ったところで何の益もありませんから申し上げます。
「中心市街地に、恐竜博物館に匹敵する観光魅力があるのですか?」

正確に私の意図を表現するために、こう言い換えましょうか。
「確かに中心市街地には魅力あふれる場所があります。ただ、恐竜博物館に匹敵する魅力として、それを磨いてきましたか?」

行政は「磨いてきました」というかもしれません。
磨いてきたのならば、もっと人が訪れてしかるべきなのです。


恐竜博物館へ来た来館者を中心市街地へ誘導する。それは中心市街地の魅力を今以上に高めてからのお話。少なくとも、当の勝山市民が楽しむことのできる場として中心市街地を活性化した後の話です。
常々申し上げているように、「地元の人間が楽しむことのできない場所に、観光客が来るはずがない」のです。中心市街地に地元の人間が来ないような場所に観光客を誘導するなどとは、夢物語でしかありません。



ーその話は長くなりそうだから、そこまでにしておきましょうか。それで、長尾山総合公園にファミリーを囲い込むためには?-

そうですね。

まず、真っ先にやらなければならないことは、長尾山総合公園に車の乗り入れを禁止することでしょうね。



ーえっ?-

長尾山総合公園に、車で入ってはいけない。少なくとも、ゴールデンウィークと夏休み期間は、それを徹底することです。

 


勝山市が、あれだけ駐車場を整備したというのに?-

確かに勝山市は営々と駐車場を整備し続けてきました。

もう一度、冒頭で出した画像を見てみましょう。

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県立恐竜博物館の前に「1P」の表記があります。これは第一駐車場のこと。そのほかにも「2P」、「3P」、すなわち第二駐車場と第三駐車場の記載があります。これらは、来館者数の増加に対応するために勝山市が整備してきたものです。

私の記憶では、駐車台数の総数は2000台を超えるものだったはず。

ゴールデンウィークと夏休みの期間は、これを封鎖します。乗り入れ自体を禁止するのです。



ーなぜ?-

お客様のことを考えれば、当然だからです。

そして、これをしなければ長尾山総合公園のプロデュースも始まらない。

この続きは、《中編》で。

「神話」としての自治体 ー補遺ー

制度設計のあり方



ーこの前の《後編》は、わかりにくかったように感じましたー

うーん。そうみたいですね(苦笑)。申し訳ない。

私の抱えてる不満をもっと前面に出せば良かったかな……と反省してます。



ー不満というのは?-



われわれは、なぜゆえに「こうなって欲しい」という社会をつくることができないのだろう?……ただ、これだけです。

もちろん、理想の社会なんてあるわけがない。《中編》で引用した「マーケティング22の法則」にも書いてありましたね。「ベストな商品などありっこないのだ」と。
そのとおりなのです。この世の中に理想のものや最高のものなどない。

でも、「こんなものがあったら素晴らしいよね」と思えるものを作ることはできる。


実際にね。市長選挙が終わってから、色々な人が様々なアイデアを私のところに持ってきてくださる。

 


ー選挙終わった後に?-

そう。不思議なことに選挙が終わった後で。
「松村さんが当選してたら、こんなこと一緒にやろうと思ってたんです」
う~、それなら選挙前に持ってきてくれれば……と思わないでもない(苦笑)。

まあ、それはさておき。色々のアイデアの中には、「あ、これは大事ですね。確かに大事だ」と思わせるもの。事業としては小さいけれど重要ですよね、そういったアイデアから、「これは……すごいこと考えましたね。確かに、これ実現したら勝山おもしろいだろうな」といった、途方もないスケールのものまで様々なアイデアがあるわけです。

ここで二つのことに気づくのです。

ひとつは、「な~んだ、皆さん結構アイデア持ってるじゃない」ということ。こんなことが実現できたら楽しいよね、もうちょっと世の中便利になるよね。そういった想いを、皆さんお持ちなんです。

もうひとつは、「それじゃ、なぜ、そのアイデアが表に出てこないのか」ということ。
これは制度の問題です。

人々がアイデアを出す。それが人の目に触れるような制度を作ってしまう。Web上でもいいです。何でもいい。「こんなものできたら面白くない?」というアイデア提案でもいいし、「この問題を解決して欲しい」との問題提起でもいい。とにかく、世の中を良くしようよ!という想いが人目に触れる場所が欲しい。「共有の手段」です。

次に、その問題・アイデアを目にした人々が集まる場所が欲しい。「その問題なら弊社の技術がお役に立てそうです」と企業が来る。俺のサラリーマン生活での経験が役に立つかもねと訪れる市民がいるかもしれない。そういった人々が集まって知恵を出し、実現化するためには「場所」が必要です。


そして、何よりも必要なものは成功体験です。これが最も欠けている。

われわれは、能力があるのに自信を失っている子供と同じです。能力はある、やればできるのに!と傍から見てると思う。でも本人は自信を失ってる。「どうせ、ボクなんてやったってできないよ」

そんな子にやる気を取り戻させるためには、あなたならどうします?


ーとりあえず、できることからさせてみるー


そうでしょ?それが普通の考え方。まずは簡単な目標をクリアする。その成功体験を基礎にして、少しずつハードルを上げていく。

まちづくりにせよ、観光にせよ、その成功体験の積み重ねが欠けているのです。

そして、重要なことは「共有する手段ー場所の設置ー成功体験」との流れは、制度の問題だということ。これまで、「共有する手段ー場所の設置」までは制度の問題として考えられてきました。実際に、これをやっている自治体もあるのです。

ただ、成功体験までも含めた制度は存在しなかった。



ー成功体験まで制度に含めることはできるの?-

「成功体験まで制度に含める」というと、難しく聞こえるでしょう。でも、身の回りをみれば、そういったものはいくらでも探すことはできますよ。

職場改善運動なども、そうでしょう。
「日々の業務の中で、〇〇といった問題が発生している」と声かけがされる。これは問題共有の手段です。そして、「これをどのように解決しようか、それを考えるために午後5時から会議室に集まってください」と人々が集まる。問題解決の場所ですね。そして、協議しあって「〇〇という方法で解決してみよう」となる。行動に移して、職場の問題を解決すれば「やってよかったね。それじゃ、次の問題も解決してみようか」となる。


ーでも、うまくいかないこともあるー

確かに、職場改善運動がうまく回らない職場もあるでしょう。その原因も制度設計にあるのです。なぜうちの職場改善運動は機能しないのか。なぜ「どうせ、こんなことやったって何も変わらないよ」とのグチが出てくるのか。それは、現場に権限が委譲されていないことが理由なのかもしれません。目的が明確に設定されていないからかもしれません。そういった原因も制度設計に含まれるのです。

変革は、成功体験を積み重ねていくより他にありません。

例えば、市場化テストをご存知ですか?



ーさあ、知りませんねー

「官でやっている業務のなかで、民間でもできることは民間に任せよう」という方針です。例えば、勝山市でも下水道を直営方式から下水道事業団に任せています。その方が効率的で安価だからですね。
こういった方式は、確か……小泉内閣のときに導入されましたが、元々はアメリカのインディアナポリスが大々的に行ったと記憶しています。8年間で4億ドルの削減を果たしたはず。

そのインディアナポリスも、小さな成功体験を積み重ねて、ようやく市場化テストへ辿り着いた。
たかが、「官のやってることの一部を民にゆだねる」だけでも、大変な道のりです。組織を変えていこうとすると、地道に小さな成功体験を積み重ねて、人々の意識を少しずつ変えていって、という作業を続けなければなりません。


それじゃ、何でそんな面倒くさいことまでして、組織を変えなくちゃいけないのか。当然にそういう疑問が出てくると思うんです。

結局、「悪いのは人じゃない。悪いのは問題だ」ということなんでしょうね。

 


ーどういうこと?-

われわれは他人をあげつらうじゃないですか。「〇〇のせいで、うまくいかないんだ」と原因を人のせいにする。
「上司が馬鹿ばっかりだから、この会社はうまくいかねえんだよ」
「あの商店街の連中が旧態依然だから、勝山の中心市街地はいつまでたってもダメなんだよ」
といった具合に。

人を責めて自体が好転するのならば、すれば良いでしょう。しかし、人を何百回責めたところで世の中は変わらない。
「〇〇のせいで、うまくいかないんだ」
この「〇〇」に入るのは、人じゃない。問題です。

解決すべきは人ではない。問題です。
そして、問題を解決するために、われわれは組織を持っている。

ところが、組織というものは面白いもので、一度出来上がってしまうと、その「目的」を忘れて「存続」を目的にし始める。組織が問題解決をできないのならば、組織そのものを変えるより他にないでしょう。

自治体もそうです。自治体という組織が時代にそぐわなくなってきた。高度経済成長期には、旧来の自治体は上手く機能していたかもしれません。しかし低成長時代、しかも少子・高齢化の時代には機能していないのは明らかです。法令の範囲内で時代に沿った組織に変えていかなければ。そういう思いがあります。

 

 

人々の心に「言葉を植えつける」ことの意味

 

ー「自治体が若者の心の中に言葉を植えつける」と《中編》《後編》にあったけど?ー

これは結構誤解を生みやすいところなんですが、人の心を変えることなんて、そうそう簡単にできるわけがない。おこがましい話なんです。人の心は複雑だし、他人が何を考えるのかなんて本当に理解できるはずはない。自分の心の中ですら、よくわからないんですから。

でも、人々が消費行動や選択行動を起こすときには、何かが心の中でささやいてる。それは間違いない。私の妻が「トヨタ車は素晴らしい」と考えてトヨタ車を購入したように。


だったら、自治体も人々の心に届くようなメッセージを発しましょう。そして、そのメッセージに込められた内容を実現しましょう。そういうことです。


ーそこのつながりがよくわからないー

そうですね……ひとつの事例をあげましょう。
ニチレイアセロラドリンクをご存知ですか?

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ー知ってますよー

アセロラドリンクは 1990年代後半に、ブランド認知率が90%を超えていました。これは「誰でも知っている商品」だということです。しかし、売り上げは停滞していました。「誰でも知っている商品なのに売れ行きが伸びない」という困った状態に陥っていたのです。

ニチレイは考えたのです。消費者のほとんどはアセロラドリンクを知っている。しかし、手に取って購買するところまでいかない。アセロラドリンクと購買行動をつなげるためにどうすれば良いのだろうか。

そして、ニチレイは市場調査を行いました。

アセロラドリンクから連想するのは「ビタミンC」であり、「ビタミンC」から連想するのは「体に良い」ことでした。

そして、今度は逆の方向の調査を行ったのです。つまり、一般消費者に「体に良い食品は何ですか」と尋ねたのですね。すると、最も連想されたのは「カルシウム」であり、二番目は「ビタミンC」でした。そして、「ビタミンCで連想する食品」を尋ねたところ、一番目が「ビタミン剤」であり二番目は「レモン」だったと。ここにアセロラドリンクは登場しませんでした。

「体に良いものを飲みたい」と考える消費者が連想する飲みものは、アセロラドリンクではなかった。



ーそれで、ニチレイはどうしました?-

アセロラドリンクはビタミンC」といった伝え方を止めました。
思い切って、対象者を絞ったのです。簡単なようですが、これは本当に勇気のいる決断です。対象者を絞るということは、それ以外の人々はいらないと宣言するようなものですから。
具体的には、ニチレイは「肌に良い」に焦点を絞りました。

そして、「肌に良い」からアセロラドリンクまでつながるストーリーを作り上げたのです。
「お肌に悩む人はアセロラドリンクをお飲みください。お肌を保つにはビタミンCが効果があります。でも、ビタミンCは毎日摂らないと効果がありません。レモンの34倍のビタミンCを含んでいるアセロラ、その天然アセロラでつくられているアセロラドリンクを毎日飲んで、お肌の若さを保ちましょう」

次の動画は、「アセロラドリンクはビタミンC」と訴えていた時期のCMです。


ニチレイアセロラドリンクCM岡本綾子




ーうわ、懐かしい。岡本綾子ですかー

そう、岡本綾子さんです。
そして、「肌に良い」に焦点を合わせた後のCMがこちら。
先ほどのストーリー要素がすべて入っていることに気づきます。


いいなCM ニチレイ アセロラドリンク 片瀬那奈



ーそれでニチレイはどうなったの?―

結果として、アセロラドリンクの売り上げは40%の伸びを示しました。販売数量の上昇もさりながら、重要なことは、ヘビーユーザーの割合が増えたという点でしょうね。ヘビーユーザーは、簡単に競合ブランドへは流出しませんから。

アセロラドリンクの事例は、2つのことを教えてくれます。

ひとつには、対象を絞れということです。全ての人間に届くようなメッセージなどは存在しないからです。
もうひとつは、そのメッセージを明確にしたならば、ストーリーを作り上げて人々の心に届けよという点です。




ーなるほど。ということは、勝山市も対象者を絞ってメッセージを送れということ?-

確かにその通りなのですが、民間企業と自治体では絞り方が異なるのです。

アセロラドリンクは「肌にやさしい」と絞りました。「それ以外の見込み顧客は捨てても構わない」との覚悟です。顧客を絞ること、これは自治体にはできません。自治体のサービスに顧客を絞って「捨てる」という発想はないからです。

フェラーリ―が大衆車を作らないのは、フェラーリ―社が顧客を限定しているからです。下世話な言い方ですが、フェラーリ―を購入できるくらいの金持ちしか相手にしていない。それがフェラーリ―社のブランドの源泉でもあるのです。ですが、これは自治体にはできません。

自治体のサービスは平等に行われなければならない。平等ということは、誰でも受けられるということです。顧客を絞って「捨てる」という発想は存在しません。



ーそれじゃ、対象者を絞れないでしょ?ー

そこが「行政2.0」の考え方のミソです。
顧客を絞る、つまり「誰を捨てるのか」ではなく、事業を絞る、つまり「どこを伸ばすのか」という発想ですね。




「行政2.0」という発想


下の図をご覧ください。

 

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「行政1.0」とは、従来の行政サービスだと考えてください。これまでの行政サービスは、「行政1.0」として引き続き行われます。何も変わりません。

これが1階部分だとすると、2階部分が「行政2.0」となります。

 



ー2階建ての家をイメージしろということ?-

ええ、そういったイメージでいいと思います。
1階は従来通りの行政サービスを行うところ。2階部分は、特定のサービスを伸ばすところです。教育、農林水産業、商工業支援、医療、福祉、土木、交通……様々な自治体サービスの中で、特定のサービスを最高水準まで伸ばすのです。
《後編》で述べたシビル・マクシマムの発想ですね。

2階で何をやるのか。それは各自治体が考えることでしょう。そこに自治体の戦略が表れ、独自性の見せ所となります。

ただし、二つのことだけは守らねばなりません。
(1)「どこを伸ばすのか」を明確に打ち出し、ストーリーに落とし込む
(2)その成果に向けて、行政ー市民・市民団体ー企業が連携する

 


 

ー(1)で言う「ストーリー化」とは、どういうこと?-


アセロラドリンクを思い出してください。
「お肌に悩む人はアセロラドリンクをお飲みください。お肌を保つにはビタミンCが効果があります。でも、ビタミンCは毎日摂らないと効果がありません。レモンの34倍のビタミンCを含んでいるアセロラ、その天然アセロラでつくられているのが、アセロラドリンクを毎日飲んで、お肌に『Keep C』です!」
とのストーリーを作り上げました薬事法に抵触しない範囲で)


例えば、行政2.0、つまり二階建てに「教育」を置いた場合は、どのようなストーリーを提供できるでしょうか。

「お子様の教育に関心のある方々は勝山市にお住みください。現在の公教育では、40分の授業を40分内に理解できる児童・生徒だけが、つまづかずに先へ進めます。勝山市では、40分の授業内容を60分かけて理解できる子にも、しっかりと対応して、すべての児童・生徒が教科内容を100%理解できて卒業することを約束します」

「お子様の教育に関心のある方々は勝山市にお住みください。勝山市は、子供たちに2つの贈り物をします。ひとつは『体の使い方』…人は誰に教わるわけでもなく、歩き、走り、投げ、飛びます。しかし、あなたのお子様の体の使い方は正しいですか?正しい体の使い方を知っている子供は稀であり、たまたま正しい体の使い方を知っている子は小学校で『運動のできる子』になります。勝山市が雇用するプロが、正しい体の使い方を全ての子供たちに教えます。もうひとつは、『問題解決の方法』……ビジネスパーソンになって初めて学ぶ問題解決の手法を、勝山市では独自に小学生の頃から教えます。この2つの贈り物は、お子様にとっての一生の財産になることでしょう」

勝山市でこれをやる!」という意味で挙げたわけではありません。あくまでもストーリーの一例として思考実験で作ってみました。

 


ー面白そうだけど、実際にできるの?ー

 

できますよ。ただし、それを成功させるためには、先ほど申した
 (2)その成果に向けて、「行政」ー「市民・市民団体」ー「企業」が連携すること
が絶対条件になります。

理由は簡単で、自治体予算は行政1.0の部分しかカバーしていないのです。その上に2階部分を作ろうと思うと、マンパワーと資金が必要になる。これを調達するには、市民・市民団体と企業が参画しないと進みません。



ーボランティアや寄付に頼るということ?ー

それもひとつの手段でしょう。ですが、ボランティアや寄付に頼ると持続性を失います。もちろんボランティアや寄付は尊い。ですが、それに依存しすぎるとお互いに辛くなってきますから。

そうですね……さきほど「教育」で2階部分を作ったので、「教育」つながりで、こんなストーリーを作ってみましょうか。くれぐれも、言っておきますが、「これを勝山でやるのです」という意味ではなく、ひとつの思考実験としての事例ですよ。


ーはいはい、わかってますよー

 

本当にわかってるのかな……まあ、いいや。先に進めましょう。

「お子様の教育に関心のある方は、勝山にお住みください。勝山市は語学教育に力を注いでいます。お子様が小学校を卒業する際には、英検3級を皆が取得しているプログラムを作成しています」


ーなぜ英語?-


私がヒアリングした中で、保護者の要望が最も強かったものが「英語を伸ばして欲しい」だったという単純な理由です。個人的には漢文教育を強化したいんですがね。

それはさておき、小学生卒業時に英検3級を取得しよう。これは無茶なことでも何でもありません。インターナショナル系の保育園では、保育園を卒園するまでに英検3級を取りましょうと運園しているところもあるくらいです。そして、市内の小学生が英検3級持って中学校へ行けば、当然に中学校卒業までに英検準2級を取りましょうという話になる。これまた不可能なことではありません。

ただ、それを実現しようとすると、困ったことが起きます。
小学校で英語を教える教員の確保、つまりマンパワーの問題。そして、英語教育を実施するための予算、つまり金の問題が発生します。


ーそれは当然だよねー

 

そう、これまではそこで止まっていた。行政1.0の世界ではそうでしょう。でも、行政2.0ではそうではありません。

思い込みを捨てることが大切です
教室で教える人物が教員でなければならない必然性はないでしょ?


ーまさかとは思うがー

 

そう、塾の先生だっていいじゃありませんか。「そりゃ無茶だよ」という顔をされていますが、それこそ思い込みというものではありませんか?

市内には、公文や学研教室、英語ならECCジュニアの教室が多々あります。小学校区にひとつは必ずあると言ってもよい。ならば、公文なら公文の教材を使わせてもらえばよいでしょう。A小学校は公文を、B小学校は学研を、C小学校ではECCジュニアを……と、校区内にある塾を割り振っても良いでしょう。
塾の経営者の忙しい時間帯は、学校が終わってから夜にかけてです。ならば、時間帯がダブることもないでしょう。
学校の教室には先生がいなくちゃいけない。これは揺るがせにできない原則です。だったら、小学校の英語の事業中には、教室内に担任の先生がいて、子供たちは塾教材をやっていても構わないでしょう。



ーにわかに肯定できる話じゃないが、予算はどうするの?勝山市が負担する?ー

予算を勝山市が負担する。それもひとつの方法でしょう。ですが、私なら公文の本社や学研の本社へ出向くでしょうね。そして、本社の人たちに言うでしょう。

「われわれ勝山市は、これから日本で最初の事業を展開します。塾業界と公教育の融合です。われわれのメリットは、この事業により、市内の子供たちの成績が向上することです。」
「御社のメリットは、新たなビジネスチャンスをつかむことです。御社は勝山市内での実績を基にして、日本全国の自治体に売り込むことができます。『福井県勝山市では、当社の教材を公教育に活用することで、子供たちに目覚ましい伸びが実現できました。どうです。あなたの自治体でも採用しませんか』と。これは大きなビジネスチャンスです」
「先行投資として考えていただきたい。この大きなビジネスチャンスのために、勝山市内の小学校で教える英語教育教材、塾経営者の時間給等の必要経費は、御社でご負担いただけるとありがたい」

ざっくり言うと、こんな感じですかね。あくまでも思考実験としてですが。

企業が参加する意味、イノベーションの機会。こういったものが、ここに発生します。



ー言いたいことはわかるんだけどー

でしょうね。その感覚はわかります。思い込みを捨て去るというのは実に難しい。私自身を振り返ってみても痛切します。

しかし、考えてみてください。前述したストーリーを、合わせ技で合体させてみましょう。

「お子様の教育に関心のある方々は勝山市にお住みください。現在の公教育では、40分の授業を40分内に理解できる児童・生徒だけが、つまづかずに先へ進めます。勝山市では、40分の授業内容を60分かけて理解できる子にも、40分の授業内容を80分かけて理解する子にも、しっかりと対応して、すべての児童・生徒が教科内容を100%理解できて卒業することを約束します」
「加えて、勝山市は語学教育に力を注いでいます。お子様が小学校を卒業する際には、英検3級を皆が取得しているプログラムを作成しています」

こんな自治体があったら良いなと思いませんか。


ーいいでしょうねー

そう、あったら良いんですよ。
だったら、なぜ作っちゃいけないのですか?
冒頭にも申しましたが、私の持っている素朴な疑問です。

公共交通や医療・福祉、中心市街地活性化、生涯スポーツ、様々な分野で「こんな風になったら良いのにな」と思うことは多々あるはずです。それをなぜ作っちゃいけないのでしょう。

行政1.0は、それを許さない。だったら、2階部分を作ればいいじゃないですか。




ーだったら、1階部分は不必要なんじゃない?-


それは絶対に違う。1階部分が不必要になることはありません。行政サービスの基本となるのは行政1.0。これは鉄則です。この1階部分を揺るがせにしてはいけない。

 『県庁そろそろクビですか?「はみだし公務員」の挑戦』の著者である円城寺氏は、佐賀県庁の職員です。
佐賀県内のすべての救急車にipadを配備して、搬送時間短縮に成功したという実績を持つのですが、こういうことをする職員は、公務員の中では浮くでしょうね。著者が言うところの「はみだし公務員」です。

県庁そろそろクビですか?: 「はみ出し公務員」の挑戦 (小学館新書)

県庁そろそろクビですか?: 「はみ出し公務員」の挑戦 (小学館新書)

 

 

私が円城寺氏に共感するのは、氏が「はみ出すことは偉いことでも何でもない」というスタンスに立つことです。

お役所仕事なんて、完璧に遂行して当たり前。誰も評価してくれない。でも、そのお役所仕事に誇りを持て!と説く円城寺氏は、新人職員には「まずは前例や既存の制度を学ぶことだ」とのメッセージを伝えるそうです。

思うに、円城寺氏は、日常業務を真摯にこなすことの中で生じる疑問。これこそが重要だと考えているのでしょう。彼が全ての救急車にipadを配備しようと考えたのは、「そこに救える命があるから」との、現場での切実な願いからです。

公務員は、様々な矛盾を抱えながら仕事をしています。市民のお困りごとを解決したい、しかし現状の業務においてそれは困難だ。どうすれば解決できるだろう……こういった矛盾を感じるのは、若手の職員に多いですね。



ー行政のプロになれ!ということだー

 

そう。そして、2階建て部分の行政2.0は、行政スタッフだけでなく様々な業種のプロフェッショナルが集合することで成り立ちます。

プロフェッショナルというと大げさかもしれない。でも、皆さんは日々のお仕事の中で、その道のプロと呼ぶべき存在になってるわけです。農業で食べてる人もいる。営業職の人もいる。世の中には色々な職業の人がいるわけです。それぞれにその道のプロでしょう。

その知恵を集合しましょう。問題意識と「こんなものがあったら面白いだろうなぁ」との目標を共有しましょう。
後は、冒頭に述べたように、問題意識の共有の方法と、場所と成功体験の話に戻るのです。




ーこれまでも、そういった取り組みはあったはずでしょ?-


そう、あったんです。あったけれどうまくいかなかった。少なくない数の自治体で、そういった試みは行われたのですが、私の知る限りにおいて、ことごとくと言ってよいほど失敗しています。

その道のプロが集まりましょう。知恵を出し合って新しい事業を立ち上げましょう。人が集まり、実際に何かをしようとする。でも、うまくいかない。

うまくいかない理由は行政主導だからです。行政1.0の理屈をそのまま持ち込んでくるからおかしくなる。

例えば、「駅前の再開発を行います」なんで大きなプロジェクトをぶち上げる。「中心市街地の再活性化を行います」でも構いません。
そこで、民間の知恵をお借りしたいなどといった理屈で、民間人が集められる。ところが、大きなシナリオは行政が描いてしまうので、民間の人々が知恵を出す必要もない。
要するに、アリバイ作りに使われているようなものです。
「私たちは市民や民間の意見を聞いていますよ」

呼ばれるメンバーも、いつも同じようなものです。商工会議所、JA、区長会連合会、商店街の代表……etc。


13年間議員をやってきて、嫌になるくらいこういった場面は見てきました。他市町の議員さんたちに聞いても、どこも同じようなものです。



ー行政が悪いということ?-


行政が悪いというよりも、何回も申し上げているように、制度設計が合わないのですよ。時代にそぐわない。行政サービスの連続性を考えれば、行政1.0をなくすことは考えられません。しかし、時代に即した自治体経営を考えるのであれば、行政が主導するやり方は間違っている。行政主導を続ける限り、民間の知恵も技術、市民の意欲、そういったものをコーディネートすることができないからです。

われわれは少子・高齢化の時代、すなわち人口減少社会に向かっています。人口減少社会とは、社会資本が減少する社会のことです。人口が減ることにより、マンパワーや市場需要規模や様々なものが減少する。
減少する社会資本を活用するには、それらをコーディネートするより他にありません。

だから、行政2.0が必要なのです。

そして、それは現場の要請にも合致しています。
市民は、問題解決をしてもらいたい。公共交通や買い物難民や、教育や福祉や様々なところに問題は山積しています。
企業はイノベーションの場を欲しています。自らの技術をビジネスにするための場を模索している。
後は、必要なものはそれをコーディネートする制度だけです。冒頭に申し上げた「共有の手段ー場所の設置ー成功体験」のサイクルを制度化するのです。そのためには、現行の行政主導を変えねばなりませんね。



ー行政2.0を導入したとして将来的な展望はどうなる?ー

どうなるのか。それは、分かりません。
なぜなら、行政2.0は手法でしかないからです。手法である以上、「どのような手法で解決するのか」を示すのみで、「何を解決するのか」を考えるのは別の次元の話です。

ただ、行政2.0が導入されて、行政スタッフが独自の権限で動き、仕事に達成感を持つようになれば、おのずと変わってくるでしょう。
「本当の仕事がしたいのなら、勝山市役所を受けてみよう」

若者も同じじゃないですか。
「都会へ行ったところで歯車で終わるのがオチだ。勝山に戻れば思いっきり能力を発揮することができる」

もちろん、5年や10年でそこまで行けるとは思っていません。
しかし、どこよりも早く手を着けた自治体が、誰よりも早くその境地に達するのでしょう。



《後編》「神話」としての自治体  -そもそも自治体とはなにかー

素朴な疑問

13年の間、市議会議員として自治体を眺め、行政を見続けながら、いくつかの素朴な疑問にぶち当たることがありました。
「なぜ行政のやることは、うまくいかないのだろう」
「なぜ行政と市民との協働はうまくいかないのだろう」

あるとき、ふと思い至りました。
「行政スタッフが無能だからではない」
「これは『行政という制度設計』のせいだ」

行政スタッフが無能であるなら、もはや手の施しようはありません。しかし、事態はそうではありませんでした。彼らは有能でやる気もあります。

自治体にとって最大の敵は『自治体という制度設計』そして、『行政という制度設計』でした。そして、原因が制度設計にあるのならば、われわれはそれを克服することができるはずです。


コーディネーション、モチベーション

 自治体は、利害を一にしない人々の集合体です。自治体の中の行政部門が、すべてを取り仕切り、それでうまくいくのであれば物事は簡単です。しかし、現実にはそうではありません。市民、市民団体、企業等々の様々な人々と行政が協働して、自治体は運営されています。

 この協働は、ひとつの宿命的な問いを私たちに投げかけます。
「人を動かすときに、どのようにして動機づけ、共通の目標へ導くのか」
人を動機づけ、共通の目標へ導き、活動へ誘う。この仕組みをどのように設計するのかとの問題です。
 人を動機づけることはモチベーションの問題です。共通の目標へ導き、活動へと誘うことはコーディネーションの問題です。この二つを同時に解決しなければならないのですが、事はそう単純なものではありません。
 なぜなら、一般的に、コーディネーションは指揮官の権限を強大化することで高まりますが、モチベーションは現場の人々の権限を強めることで高まるからです。コーディネーションとモチベーションは対立する概念なのです。


これは自治体だけでなく、企業やNPOにとどまらず、すべての組織に当てはまる問題です。

例えば、コーディネーションとモチベーションのどちらを強化するのかという視点から、企業をアメリカ型と日本型に類型してみます。

アメリカ型企業においては、コーディネーションが強化される傾向があります。上司が部下に対して生殺与奪の権限を持ち、誰が決定権を持つのかを明確にします。このような組織では、企業戦略が決定されたら、後は、徹底的にそれを実施することが求められます。

このアメリカ型企業においては、2点の問題が生じます。
ひとつは、絶大な権限を握る最高指揮官の権限をいかに統制するのかという問題です。もうひとつは、置き換え可能とみなされる社員のモチベーションをどのように維持していくのかという問題でしょう。


これに対して、日本型企業はモチベーションが強化される傾向にあります。コンセンサスを重視し、現場の意思を重要視する日本企業は、現場で働く人々にとっては最高の環境です。常に新規の商品を企画して、市場に投入する日本企業は、商品という目に見えるものを追いかけます。多くの社員が開発、製造、営業の実務に動員され、具体的で明確な目標(商品を作り、売る)という仕事に従事します。チームとしての達成感は言うことがありません。

(余談です)
逆説的ですが、日本型企業に大型定番商品が少ないのは、新規商品を次々に投入することに原因があるように思われます。アメリカは、大型定番商品が存在します。ソーダ―でコカコーラ、ビールでバドワイザー、鎮痛剤ではタイレノールといったように。
こういった大型定番商品を育て、そのマーケティングに力を注ぐのはアメリカ企業の得意とするところです。そういった商品は持続的に高収益を上げますから。
 アメリカのホワイト・キャッスルはアイスクリームとハンバーガーのチェーン店ですが、一度としてポジションを変えていません。店舗外装は、およそ1世紀近くにわたって変わっていませんし、これといって特徴のないチェーン店ですが、アメリカ人ならば誰でも知っている店であり、年間収益でバーガーキングを上回りマクドナルドに次ぐ2位の地位を占めています。


日本型経営は、次の2つの問題を抱え込みます。
ひとつは、戦略性に欠けるということ。時間軸で同一企業が違うことをやりはじめるちぐはぐさ、同じ企業内で生じる部門間でのばらばらさ、戦略が行き届かず、コーディネートされていないために生じる問題です。
もうひとつは、人材育成の点です。日本型キャリアシステムは、最強の職能部長を養成するためのものです。事業部長、企業役員、社長という戦略家を作り出すためのものではありません。


さて、そこで質問です。
自治体という組織体は、アメリカ型経営の特徴を持っているのか、日本型経営の特徴を持っているのか、どちらでしょうか。

私のみるところ、アメリカ型経営の「デメリット」と日本型経営の「デメリット」を併せ持つのが自治体組織の特徴です。

自治体には首長が存在し、強力なリーダーシップで自治体経営を行っているのだから、アメリカ型経営に近いのではないか?と思われた方は、自治体と行政とを同列に考えています。
確かに、行政において首長の存在は絶対です。その意に染まぬ行為は許されないでしょう。しかし、自治体を構成するものは行政だけではありません。行政は、市民、市民団体、企業等々と協働しなければならないのです。
「行政 笛吹けど、市民 踊らず」
とは、組織の構成員のモチベーションが上がらない、アメリカ型経営のデメリットを如実に表しています。


そして、自治体は、日本型経営のデメリットも併せ持ちます。

自治体の内部では様々な諸活動が行われています。現場の人々は意を尽くし、まちづくり活動やイベントを行います。
ところが、そういったまちづくり活動やイベントを実施し続ける人々から聞かれる言葉は、疲労感に満ちています。「何のためにやっているのか、わからなくなる」「この活動はいつまでやればいいのだろう」……なぜ、そのような言葉が現場から出てくるのか。それは、その活動に「意味を与える何か」が欠けているからです。もちろん、欠けているものが「戦略」なのですが。




それでは、なぜ、自治体がこのような特徴を持つのでしょうか。

それは、次の2つの理由にあると考えます。
 (1)もともと、自治体には明確な目標が存在しない
 (2)もともと、自治体にはそれを達成する手段もない

 
この辺りを、もう少し掘り下げて考えてみましょう。




自治体には明確な目標が存在しない

自治体経営」という言葉を、私たちは当たり前のように使います。そして、経営には「経営戦略」が必要だ。したがって、自治体経営には経営戦略が必要だ………との三段論法も当たり前に使います。

ところが、自治体経営には経営戦略が必要だと主張する人々は、ある基本的な点を見逃してこれを論じているようです。
それは、「企業と異なり、自治体には明確な目標が存在しない」ことです。

「そんな馬鹿な話があるか。自治体はそれぞれ中長期の戦略目標を立てて、それを政策に落とし込んでいるではないか」との異論を持たれる方もいるでしょう。確かに、自治体は様々な計画を作り、その達成に向けて政策を立案・実行します。
しかし、それは企業も同じこと。中長期の計画を立てて事業化していくのです。
ただし、企業が持つ「利益の追求」に匹敵するだけの目標を自治体は持ち合わせていません。



なぜ、自治体には明確な目標が存在しないのか。それは国との関係が大きな影響を及ぼすからです。



自治体は地方政府なのか?

自治体はどのような組織なのか。これを考えるために、ひとつの問いを立ててみましょう。
自治体は、地方政府ですか?」
住民自治という地方自治の理念から考えるならば、本来、自治体は地方政府としての活動を期待されるべきです。

しかし、自治体は地方政府ではありません。
地方政府であるならば、市民は政治的な価値判断を行い、自治体を政治的に運営できるはずです。江戸時代の「藩」であったり、西部開拓時代の中西部のタウンといった存在が、本来の地方政府の位置づけになるのでしょう。

仮に、自治体が地方政府として活動し、「自分たちのことは自分たちで決める」というのであれば、自治体の構成員である市民は、実に多くのことを決めねばなりません。教育、土木、民生、衛生、防災等々の諸問題を、下手すればゼロから、すなわち制度設計の点から判断することになります。
しかし、実務でそのような事態は発生しません。なぜなら、国が政策の「標準化」を行うからです。具体的には、国の法律が自治体に努力義務を課したり、政策奨励的な国庫補助金が交付されたり、地方交付税基準財政需要額に算入されたりと、国の意思は様々な形で自治体に影響を及ぼしています。

要するに、市民による政治的価値選択の必要性が不要になるよう、国が政策の方向付けを予めしてしまっているのです。

したがって、原発再稼働問題、産業廃棄物処理場の建設、小中学校の統廃合といった例外的問題を除いて、市民が政治的価値判断を下さねばならない事例は、ほとんどありません。


国と自治体との関係は、ある意味、自治体と町内会との関係にも似ています。
町内会は自治組織です。自治組織であるならば、自分たちのことは自分たちで決められるはずです。実際に町内会は規約を作り、組織を構成し、役員会・総会で意思決定を行います。
しかし、現実問題として、町内会が独自に決められる範囲は限定されています。ゴミを出す曜日は自治体が指定してきます。防災、介護、地域公共交通等々の諸問題は、自治体が標準化しています。町内会で決められることは、町内会内部の細々とした内容に限られているのです。

興味深いことに、「自治体から若者が離れていく」という問題と「町内会の加入率が年々低下していく」という問題は、見事なほどパラレルな構造を持っています。

自治体は確かに独立した法人です。しかし、国が政策標準化を各分野で行う現状では、もはや自治体に明確な目標が存在しないのも当然なのです。町内会に明確な目標が存在しないように。

自治体が町内会に期待していることは何でしょう。
それは町内会内部のマネジメントです。
国が自治体に期待していることも同じでした。
自治体が突出することなど望んでいません。
自治体内部のマネジメントをちゃんとやっていてくれさえすれば良かったのです。

少なくとも、高度経済成長の時代にはこれで良かった。
学校を作り、道路を整備し、公民館を備え、上下水道を整えていき……と、必要なものは政策標準化で国が定めて、自治体に求められるのは、標準化された政策のマネジメントでした。

ところが、少子高齢化と人口減少、そして日本国自体が低成長になった現在、政策標準化の枠組みだけは依然として残され、そして、その状況下で「地方創生」が求められています。





国土分割の境界線としての自治体区域

アメリカには自治体の存在しない区域があります。未法人化区域と呼ばれますが、日本にはこのような未法人化区域はありません。国土が隙間なく自治体で埋め尽くされた、言うなれば「分割された国土」として自治体は存在します。

極論を申すならば、自治体の「区域」は国土を分割した「境界線」以上の意味を持ちません。それは、自治体に解散規定がないことからも明らかです。
すべての組織は規約に解散規定を持ちます。町内会であれ、企業であれ。自治体は企業と同じく法人であり、企業が解散規定を持つのであれば、自治体にも解散規定があってしかるべきです。しかし、自治体内の住民がすべて転出して、住民がゼロになるといった究極の状態が発生しても自治体は自然消滅しません。なぜなら、それは国土の中に身法人化区域を発生させることを意味し、許されないからです。


そして、自治体をこのように位置づける制度設計は、日本全国一律の行政サービスを可能にしました。
なぜ、地方交付税といった財政調整調整制度があるのでしょう。財政調整制度の趣旨は、自治体の財源に著しい地域差があるためと説明されます。地方税の税源が均等ではないため、全国どの市町村でも同一水準の一般財源を保障するために財政調整制度はあるのだと。
では、なぜ同一水準の一般財源を保障する必要があるのでしょう。それは、国土のどこに住んでいても同じサービスを保障するためです。どこに住んでいても同様の教育を受けられ、蛇口をひねれば新鮮な水が出てくる。そういった均質なサービスを可能にするためです。

しかし、日本全国一律の行政サービスを担保するということは、必然的に、自治体相互間での機能的差異を禁止することを意味します。どの自治体であろうと、行政サービスや規制内容について、自治体ごとに異なってはいけません。




自治体「区域」を巡る「ちぐはぐさ」


前述したように、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。自治体間のサービスの差異は否定され、国土に一律の行政サービスが実施されます。

この秩序の下では、納税者である住民や企業は、自治体からの転出動機を失います。全国一律の行政サービスが展開される以上、現在住んでいる自治体よりも望ましい行政サービスを持つ自治体は原則存在しないためです。もちろん、個々の自治体の行政運営の上手/下手によりサービスの程度は多少異なるでしょう。しかし、居住地移転のコストを上回るだけの、自治体間の差別化のメリットは存在しません。

念のために申し上げますが、上記は自治体間競争としての話です。勝山市と他市町村との行政サービスには根本的な差異がない以上、どこに住もうと同じサービスは担保されるはずです。したがって、「より良いサービスを目指して自治体間を移動する」といった事態が、そもそも発生しないのです。

《中編》で「若者の流入出は、自治体間競争ではない」と述べたことを思い出してください。若者が渋谷に住むのは、「渋谷区」に住みたいからではありません。渋谷区が勝山市よりも優れた行政サービスを実施しているからでもありません。若者は自治体選択でなく、別な理由から都会へ向かいます。

若者の転出は、自治体間のサービスの差異を理由としていません。にもかかわらず、自治体は、自治体間のサービスの差異で転出を止めようとします。

この「ちぐはぐさ」が、自治体実務において、若者定住策の効果が上がらない構造的原因です。




これに対応するには、自治体は「個別的政策的の差異」ではなく、自治体そのものの差別化」を図るべきなのです。商品の違いを売り込むのではなく、会社そのものの違いを売り込んだApple社のように。

そして、この「自治体そのものの差別化を図る」との方向性は、自治体の「区域」のもうひとつの意味からも正しいといえます。

国家にとって、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。しかし、住民にとっては、アイデンティティを付与する強固な地盤となります。平成の大合併で誕生した自治体の内部で、合併以前の自治体の縄張り争いが起きるのも、旧自治体の「区域」が地元住民にとってのアイデンティティであるからです。

自治体の「区域」は「ふるさと」と位置づけられ、若者へ訴えかけます。「ふるさとに帰っておいで」と。
ふるさとは唯一無二のものです。ならば、その価値を具現化し訴えかける手法も唯一無二のものであって良いはず。つまり、若者が流入しやすいように「自治体の構造そのものを変える」くらいの手法を用いて、差別化を図っても然るべきでしょう。

しかし、自治体の「区域」は、自治体間の横並びの構造を崩すことができません。住宅補助金や新築補助金といった個別的政策の差異で勝負するのみです。若者の心に「勝山へ帰ろう」との言葉を植えつけるだけの力強さに欠けます。


どこがボトルネックなのでしょうか。
ここまでお読みいただいた方は、すでにおわかりのことでしょう。
自治体に対して国が行う「政策の標準化」です。


ならば、われわれはどうすれば良いのでしょうか。
国の地方自治制度を変えなければ物事がすすまない……というのであれば、この話はここで止まってしまいます。

対応策としては、次の3点を推し進めるべきと考えます。
(1)自治体そのものの差別化を図る。
(2)そのために、シビルマクシマムの考え方に立つ。
(3)「公権力行使の独占論」を骨抜きにする




自治体そのものの差別化を図る

自治体そのものの差別化を図るとは、具体的に言えば「私たちの自治体は〇〇だ」と宣言することです。

ただし、ここで思い出していただきたい。
《中編》で述べたように、誰も反論できないような宣言には意味がありません。
 「私たちの自治体は面白いものがたくさんあります」
 「私たちの自治体には美味しいものがたくさんあります」
 「私たちの自治体では、住民は笑顔で暮らしています」
誰も否定できない宣言文ばかりです。誰も否定できないがゆえに、誰の心にも届きません。

われわれが目指すべきは差別化であって、差異化ではありません。

あなたがダイエットに興味があるとします。本屋へ行けば、様々なダイエット本があなたの目に飛び込んでくるでしょう。
 「〇〇式ダイエット」
 「30日でやせるダイエット」
 「食べなくてもやせるダイエット」
これらは一見すると、それぞれが差別化をアピールしているようにも見えますが、大きな違いは見当たりません。思い返してください。われわれは若者の心の中に「たったひとつの言葉」を植えつけようとしています。比較検討されるような言葉では、差別化になっていません。

ならば、どのような言葉を紡ぐのか。

(1)顧客を絞る
 (例)妊娠直後のダイエット、50代の体力を70台まで維持する運動プログラム…etc

(2)ベネフィットを絞る
 (例)お腹周りが5㎝絞れる、足やせダイエット…etc

(3)関係性の強化
→クライアントとの関係性の強化。クライアントの求めるものをどの程度達成しているか。「あなたのこれまでを作ってきた〇〇、これからのあなたをサポートし続ける〇まる」
このビジネスモデルを作ったのが、ベネッセであることを思い出しましょう。ベネッセは、時間軸でのビジネスモデルを作り上げました。「たまごクラブ」から受験までをカバーするモデルは、前身の福武書店ではできなかったことです。

(4)ゴールの差別化
 →最終地点の差別化。ベネフィットが直近の結果を約束するのに対して、ゴールは最終地点の結果を約束する。

現在、自治体が紡いでいる言葉は、この4点の中の(3)「関係性の強化」に過ぎません。それも、顧客(市民)からすれば選択したものではなく、単に「勝山市に生まれたから」と、運命論的なものにとどまりまります。


では、この言葉を紡ぐためには、どのような戦略を立てて差別化を図るべきでしょうか。
それがシビル・マクシマムの創造になります。




シビル・マクシマムの創造

国は「政策の標準化」を通して、国の意思を自治体へ及ぼします。その結果、国が政策の方向付けを予め行っているために、市民による政治的価値選択は不要となります。


市長選挙に出馬した経験から申し上げますが、市長選挙公約に「政治的価値判断」が出てくることは極めて稀です。
中部縦貫自動車道の早期開通」「第二恐竜博物館の誘致」といった公約は、単に公共事業に関する公約であり、政治的価値判断ではありません。政治的価値判断とは、「勝山市をどういったまちにするのか」というビジョンとそこへ辿り着くための戦略です。


しかし、大概の自治体において、市長選挙の公約は
 「若者が帰ってくるまちづくり」
 「高齢者にやさしいまちの実現」
といった「ぼんやりとした公約」の羅列に終わるのが普通です。
国の「政策標準化」の威力はそこまで強いのです。

よく市長選挙で言われる言葉が
「誰が市長になったところで、何も変わらないよ」
その通りです。そういう国づくりを、自治体制度設計を、国は行ってきたのですから。


ならば、どうすれば良いのか。
「政策標準化」と「横並び」という国の枠組みに抵触することなく、自治体を変える方法はあるのか。

逆手に取ることです。

シビル・ミニマムを逆手にとって、シビル・マクシマムを創造するのです。
シビル・ミニマムとは、自治体が住民のために備えなければならない最低限の生活環境を指します。全国どの自治体でも提供される、同一水準の画一的な行政サービスを指し、まさに国の政策標準化と横並びの構造です。

自治体は様々なサービスを住民に提供します。教育、交通、介護、福祉、土木、衛生、消防等々。その分野のどれかひとつで良いので、日本最高水準を目指してください。
それが私のいうシビル・マクシマムです。

これは、口で言うほど簡単なものではありません。

「私たちの自治体は、公共交通の住民負荷が全国最小の自治体です」
と宣言してみましょう。自治体内の住民が、子供からお年寄りまで自由に公共交通を使い、その負荷がない。そのような自治体がこれまで存在したでしょうか。
もちろん、そのような自治体であれば、人の移動の自由さが「人・モノ・サービス」の自由化へつながる政策を容易に打てるはずです。

「私たちの自治体は、子供たちに学校教育内容を100%理解させて卒業させる、日本で唯一の自治体です」
と宣言してみるのも良いかもしれません。ただし、県教育委員会との軋轢や予算措置を覚悟してください。
しかし、親世代には「子供を育てるなら〇〇市だ」との強烈な言葉を植えつけることでしょう。

「私たちの自治体は、観光客に完全な満足を与える、日本で最高の自治体です」と宣言すると、何をしなくてはならないでしょう。観光客の満足度を最大限にするために、交通・飲食・宿泊とうとうのネットワーク整備を図らねばなりません。
「手ぶらで来てください。われわれは貴方の要望に全力で答えます」
それをやった自治体が存在したでしょうか。

高齢者福祉に特化したシビル・マクシマムも充分に考えられます。子育て世代に特化したものや、学習障害発達障害の児童・生徒への教育に特化したシビル・マクシマムも可能です。


「カテゴリーをつくれ」
《中編》で述べたカテゴリーとは、シビル・マクシマムの創造です。
新しいカテゴリーをつくり、自治体がその方向へ進む。どのカテゴリーを選ぶのか、そこにこそ、自治体の「戦略」が求められるのであり、この段階で初めて、市民はどのカテゴリーを選択するかというの政治的価値判断を行使することが可能となります。




ただし……戦略を立てても、それだけでシビル・マクシマムは創造できません。人材と資金が足りないのです。

人材と資金をどこから?
冒頭に掲げた問題がその解答を示すでしょう。自治体を構成する「行政と市民・市民団体・企業とのコーディネーション」です。




行政は市民や企業と協働できない

国の政策標準化は、自治体に強大な影響力を及ぼします。しかし、政策標準化の効果が及ばない領域も自治体内には存在します。

市民と企業です。
元々、政策標準化は自治体内の行政セクターに働きかけ、結果として市民生活に影響するするという形式をとります。したがって、国から直接働きかける制度、例えば年金・医療・介護等々を除き、政策標準化は自治体内部の行政セクターを対象とします。

さて、国の政策標準化を逆手にとってシビルマクシマムを実現しようとするとき、必要となるのは人材と資金です。この調達を図ろうとするならば、市民と企業と行政が協働して行うより方法はありません。
ところが、冒頭で「行政 笛吹けど、市民 踊らず」と申し上げたように、市民・企業と行政のコーディネーションは上手くいかないのが通常です。


なぜか。
それは簡単なお話で、そもそも行政は市民や企業と協働できないからです。

私の経験上、この話を自治体職員にすると、間違いなく嫌な顔をします。自治体職員の意識の中では「私たちは、市民や企業と協働している」との意識があるからです。それを否定するつもりもありませんし、自治体職員を責めているのでもありません。

「行政は市民や企業と協働できない」これは自治体職員や政治家の責任ではありません。そもそもの制度設計がそうなっているからです。

それが「公権力行使の独占論」です。



公権力行使の独占論

ひとつの思考実験をしてみましょう。

町内会が自治体の中にあります。
ある町内会長がひとつの提案をしました。
「俺たちは、自分たちの住んでいる地域のことを誰よりも知っている」
「ならば、町内会が結束して、行政に俺たちの要望を通そうじゃないか」
彼は、他の町内会長を説得して、自治体のすべての町内会が入る組織を作り上げ、「町内会連合会議」との名づけました。

こうなると、真っ先に骨抜きにされるのは議会です。
議員は地元の支持を得なければ当選できない。その地元の組織は一致団結して自治体全域を固めている。こうなると、議会はその町内会連合会議の意向を無視できません。

行政もこれには頭を悩ますでしょう。自治体内で施策を実施する際に、地元の同意は不可欠です。ところが町内会連合会議が一致団結して行政に歯向かう状態が出現したら、行政は施策を実施することができません。

この町内会連合会議は、次第に、力を発揮し始めて住民自治の理想を実現しようとします。
「来年度の、〇〇市の予算案を町内会連合会議に持ってきなさい」
「私たちの同意がないような予算案は、議会に働き掛けてボツにする」
ここまで来ると、実際に自治体を運営する隠然たる力を持つのは、住民の代表である町内会連合会でしょう。

彼らは自分たちが持った権力の大きさを十分に自覚しています。したがって、民主的な手続きを自ら定め、公平・公正に住民の意思を反映させようと努力し、実際にそれは実現されています。
しかし……どれほど、この町内会連合会議が力を高めようとも、彼らは絶対にある権限を得ることができません。

それが「公権力の行使」です。

公権力の行使の独占とは、行政処分や公の意思決定に関する事務は公務員に独占させるという考え方です。

考えてみれば不思議な話です。

住民自治を基本とする地方自治体ならば、先ほどの思考実験でいう町内会連合会が「公の意思決定」を行っても良いはずです。否、事実上の公の意思決定は彼らがしているのかもしれません。しかし、彼らは住民であり公務員でない以上、決して彼らが公権力を手にすることはできません。

公権力の行使は公務員が独占する。これは法が定める以前の話として強固なドグマを形成しています。

一例をあげましょう。外国人は日本国の公務員になることができるのか。この問題につき、1953年3月25日の内閣法制局はひとつの見解を示しました。
「法の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには、日本国籍を必要とするものと解するべきである」
国家意思の形成への参画は公務員に独占される、したがって、国民でない外国人が公務員になることはできない……と述べているのであり、公権力行使の独占は、明文規定がなくとも法理として当然のものと位置づけられています。

「行政は、公権力を独占する公務員により運営される」
「公権力を行使する以上は、不偏不党・公正・中立でなければならない」
この論理は、あたかも警察権の「民事不介入」のように、行政の出足を鈍らせ、行政と市民・企業との協働を阻みます。

行政が商工振興を図ろうとする際に、工場誘致の補助金を手厚くする、出店補助金を創設するといった補助金行政が一般的です。
なぜ、行政は補助金行政を行うのか。それは、不偏不党・公正・中立であるからです。「民間のことは民間で決めてもらう。行政はインセンティブを与えるのみである」
なぜなら、行政は公権力を扱うがゆえに民事不介入だからです。

行政自身が壁を作ってしまっています。
この壁が自治体内における「行政と市民・市民団体・企業」のコーディネーションを不全化し、シビル・マクシマムの実現を困難にします。

シビル・マクシマムが創造できない以上、自治体は明確に他自治体との差別化を打ち出すことはできません。差別化が打ち出せない以上、個別的政策の差異を訴えるより他に手段を持ちません。

それでは、若者の心の中に言葉を植えつけるどころか、子育て世代や高齢者に対してもインパクトを持たないでしょう。



エピローグ

私はこんなことを考えています。
不死の人間がいないように、不滅の組織もあり得ない。最善の組織もあり得ないし、最高の自治体も存在しない。
でも、それを目指すことはできるはずです。
戦後の高度経済成長を支えた地方制度の枠組みは、明らかに制度疲労を起こしています。しかし、国がその枠組みを変えてくれるのを待っていたのでは、われわれ地方の人間が死滅してしまう………ならば、法が定める枠組みの中で、換骨奪胎しながらやるより他にない。
そう思うのです。

《前編》《中編》《後編》と三回にわたって述べた後には、当然に、「公権力の独占論をいかに骨抜きにするのか」が次のテーマになります。

これについては、(誠に勝手ながら)別に論考の場を設け、そちらに譲ることに致します。
なぜなら、それこそが私が市長選挙で掲げた『行政2.0』そのものだからです。


『行政2.0』とは何か。ここでそれを述べることは致しません。次の話を出すことでご容赦ください。

経営学の歴史に詳しい方ならば、経営戦略理論には二つの潮流があることをご存知でしょう。
ひとつは、ポジショニングであり、ひとつはケイパビリティです。
ポジショニングとは、ざっくりとした説明になりますが「外部環境を重要視する」立場です。儲かる市場を探して儲かる立場を築けば、企業は利益が上がるではないか!と主張する説です。
ケイパビリティとは、「内部環境を重要視する」立場といえます。企業活動は人間的側面が強いのだ。組織としての強みなどを活かすことが重要だ!と主張する説です。


自治体が、どの分野でシビル・マクシマムを創造するのか。これはポジショニングの議論です。そして、自治体内部で行政と市民・市民団体・企業がどのようにコーディネーションされるのか。これを扱う『行政2.0』はケイパビリティの問題といえるでしょう。

どちらが大事かという問題ではなく、どちらも欠かすことのできない大事な問題です。


ポジショニングとして、どこを目指すのかを明らかにしない。
ケイパビリティとして、組織内のコーディネートがうまくできない。
このような自治体組織そのものを変えていかなければ、自治体内の人材が腐ってしまう。結果として、自治体の活力自体が失われていきます。

そういった自治体の姿そのものを変えていきたい。
それが私の見果てぬ夢でもあります。