月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

高校再編問題をバネにして勝山の教育を考える

 

現状

昨日、本年の県立高校の入学試験に関する志願状況が発表された。これによると、勝山高校の倍率は0.94倍(定員129人、出願121人)。大野高校の倍率は0.99倍(定員151人、出願149人)。共に定員割れであり、この現状は数年続いている。

福井県が策定した「県立高等学校再編整備計画」は、大野高校は5クラス編成、勝山高校が5クラス編成を基本構想としていた。現在の勝山高校は4クラス編成であり、構想基準を下回っている。

現在、福井県は前述の再編整備計画に基づき、第2次実施計画を完了した。これは、坂井地区、若狭地区の職業系専門学校を中心とした再編である。

今回の一連の県立高校再編のサイクルは、主に職業系専門学校を中心とした再編であり、この再編が県内で終了した段階で、次は普通科の再編が行われることが想定される。

再編への時間的サイクル

現在行われている高校再編は、前述の再編整備計画に基づく。この再編整備計画の策定は、
 ①平成19年12月 福井県高等学校教育問題協議会に対して諮問
 ②平成20年10月 答申を県教委が受ける。
 ③平成20年10月 「新しい県立高校の在り方検討会」を設置
 ④平成21年3月 再編整備計画発表
 ⑤平成23年4月 奥越明成高校開校
とのスケジュールで行われた。

こういった「表に出てくるスケジュール」の前には、数年間の地元説明、関係者への根回し等の期間が必要となる。これらの準備期間を3年程度と見積もると、再編問題が浮上してから7~10年間で再編が完結すると見るのが妥当だろう。


論点

この奥越地域の普通科の再編問題について
「奥越で普通科の再編?そんなの先の話でしょ?」
と構えることもできる。

しかし、将来に訪れる可能性が高い再編問題をバネにして、勝山の教育そのものを根本から見直す機会にしたい。「ピンチをチャンスに変えよ!」ということだ。

勝山高校が再編の対象になったときに、あたふたと慌てふためくのではなく、「勝山高校は、勝山高校の独自性ゆえに他の高校と再編することができません。なぜなら、それは勝山高校の教育を殺すことになるからです」……との論理でこの問題を克服したい。

ならば、その独自性をどのように発揮するのか。それを今のうちから考えていかなければならない。

一番まずい手法は、ピンチをピンチのまま放置して政治的解決を図ろうとすることだ。


普通科の差別化

これをご覧の方に質問。
「高等学校の普通科とは何ですか?」

案外と答えにくい質問だ。商業科ならば商業系の勉強を、工業科ならば工業系の勉強を中心に据えて勉強する高校です……と定義することができる。

ならば、高等学校普通科をは何を勉強するところなのだろうか。
これは高等学校設置基準の第5条に次のように定めてある。
 

第5条 高等学校の学科は次のとおりとする。
      一 普通教育を主とする学科
      二 専門教育を主とする学科
      三 普通教育及び専門教育を選択履修を
        旨として総合的に施す学科

ここでは、普通教育を主とする学科が普通科だと定義されている。それじゃ「普通教育って何ですか?」という疑問が出てくるのだが、結論から言えば、学習指導要領で決められた単位を学ぶ学校が「普通教育を行う普通科」と定められている。

普通科の高校を卒業された方は、「現代文4単位、古典4単位、数学基礎2単位……」という高等学校の通知表を思い出して欲しい。通知表に書かれてあった教科が「普通教育における各教科」である。そして「普通教育における各教科」を学ぶものが「普通教育」の内容だと、高等学校学習指導要領で定められている。なんとなくわかったようなわからないような説明で申し訳ないのだが、そう言うしかないのでご了承いただきたい。


つまり、普通科で教育内容の差はない。差がない以上、どのようにして普通科同士の差別化を図るのか。そこが重要となってくる。

この差別化の難しさは、私立高校が県立高校との差別化をどのように図るのかにも同様に表れる。「甲子園を狙う(スポーツによる差別化)」「東大進学率を上げる(学力による差別化)」「就職率を高める(就職による差別化)」等により、私立高校は県立高校との差別化を図る。

ならば、勝山高校は私立高校が行うような差別化をすべきなのだろうか。それもひとつの手法なのかもしれないが、私は別の途を模索したい。


地域高校だからダメなのか?

その地域の子供たちが、そっくりと高校へ進む……という高校がある。これを「地域高校」と呼ぼう。勝山高校はこの地域高校の典型例だ。

この地域高校にはいくつかの弊害があることは間違いない。そのひとつは、競争のなさである。小中学校が義務教育で、高校も持ち上がりのように入学してしまう。競争がないために、学力自体も徐々に低下していく。これが地域高校の弊害と(一般的に)言われるものだ。
確かに、この弊害だけを見れば、勝山高校と他の高校普通科との差別化は難しいだろう。勝山高校は、勝山の地域高校であり「勝山の子供だけを受け入れる高校」としか認識されない。

そこで、視点を逆転させてみたいのだ。
そもそもの過ちは、勝山高校を他の高校と差別化しようとした点にある。つまり、勝山高校の再編問題を勝山高校単体で見ることが議論の枠を狭めている。

勝山市の教育そのものを、他市の教育と差別化したらどうなるだろう」
勝山市の小中学校では、他市では実践されていない教育が行われており、勝山の子供たちは、小ー中ー勝山高校と他市とは異なる教育が受けられる」
もしも、こんな状態が出現したらどうなるだろうか。

地域高校だからダメなのではなく、むしろ「地域高校とは、ある意味、小中高一貫校である」との視点に立つならば、我々は勝山の子供たちのためにオリジナリティあふれる教育を提供できるのではないだろうか。


私案

例えば、「勝山のまちづくり」という視点から教育を眺めてみよう。

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現在行われているESD教育などは「勝山を愛する心を育む」に含まれることだろう。エコミュージアムが発展したジオパーク関連もここに位置する。勝山の歴史や文化、風土を教えて勝山に対する愛情を育む。ここがすべての基本となる。

勝山の魅力を発信する……どうせ発信するなら「世界に広く発信する」くらいの気構えで臨むのであれば、語学教育も必要となる。ならば、小学生の頃から英語教育を更に充実すべきだ。
勝山市の小中学校は、独自の英語カリキュラムを作成し、例えば「小学校卒業までに英検3級合格を目指しましょう」「中学校卒業までに英検準2級合格を目指しましょう」といった、目に見える目標を与えても良いと考える。

試験勉強を加熱することが目的ではない。人は誰でも目標がないと熱が入らない。学校での語学カリキュラムを小学校から充実させて、その理解度のチェックに英検を用いるだけのことである。
(英検はその性質上、学習指導要領とリンクされているので、学校教育内容の理解度のチェックとして用いることに適している)

英検の公式発表によれば、2013年の英検の「小学生の合格率」は次のようになっている。カッコ内は合格者数。
・5級 85%(94428名)
・4級 62%(40804名)
・3級 53%(13769名)
・準2級 46%(4555名)
・2級 41%(2418名)
・準1級 16%(351名)
・1級 11%(28名)
英検1級に合格する小学生がいるとは驚きだが、大阪や兵庫のインターナショナルスクール(幼稚園)では、卒園までに英検3級合格が当然のようになっている。


問題解決学習とは、「自主的に問題を発見して、自分の力で解決する」もので、そもそも従来の学習指導要領から重要視されてきた。知識偏重に偏りすぎたとの反省に基づくものである。

しかし、本来の問題解決学習は極めて困難なものだ。試しに、お子様に「何か疑問に思っていることある?」と尋ねてみられると良いだろう。「特にないけど?」と反応するのが普通だ。大人だってそうだろう。不思議や疑問に思うことはあっても、それを解決しようと思うことは、そうそうあるものではない。

だが、この問題解決学習はとても重要なものだ。この組織の問題点はなんだろう。このチームの人間関係はどのように修復していけば良いのだろう……社会では様々な問題があり、それを解決していかなければならない。その能力を子供の頃から培っていくためには、これまでの学習指導要領的な問題解決学習ではなく、「大人たちが使っている問題解決学習」を導入することまで視野に入れるべきだ。
(もちろん、子供に大人用のテキストを渡しても理解できるはずはないが)



「勝山を愛する心を育み」
「勝山の魅力を世界に発信できる語学力とコミュニケーション力を備え」
「勝山の抱える問題点を身の回りから解決できる能力を持つ」
そんな子供になって欲しいと思う。

 

これは「言うは易し 行うは難し」の典型例であり、膨大な時間と多額の予算を必要とする。まず、現行の小中学校の業務の棚卸をしなければならない。授業時間は限られている。オリジナルの教育を施したばかりに、他の教科が手薄になりました……ではお話にならない。英語教育のカリキュラムを刷新した後には、専任の教員を配置しなければならない。その予算も必要となろう。問題解決学習を子供向けに組みなおすプロフェッショナルは、現在の学校教育界には存在しない。その配置もしなければならない。


しかし、敢えて私はこういった方法を提案する。
「勝山高校を残すか残さないか」という矮小化された考え方ではなく、「勝山の子供たちのために、どのような教育が望ましいのか」をこそ我々は、大人の責務として、語るべきではないのか。そう思うからだ。
そして、他に素晴らしいプランは必ずや存在するはずだ。それを持ち合って議論したい。その先に必ずや勝山の教育の未来はあると確信している。


孟母三遷の教え

古より「孟母三遷の教え」との言葉もあるように、親、特に母親にとって、我が子の将来とそのための教育は重要視される。

孟母三遷の教え》
孟子の母は、はじめ墓場のそばに住んでいた。孟子が葬式の真似ばかりするので、市場の近くに引っ越した。すると、今度は孟子が商人の駆け引きを真似はじめた。そこで学校のそばに転居したところ、礼儀作法を真似るようになった。これこそ教育に最適の場所だとしてここに定住した。

勝山市は小中学校の間から、子供たちにオリジナリティ溢れる教育をする。勝山の子供はこの教育を受けることができる。

孟母は勝山を離れるだろうか。
市外に住む孟母たちは、どう思うだろうか。
その子供たちが上がってくる勝山高校はどうなるだろうか。

誤解していただくと困るのだが、人口を増やすために、勝山高校を残すために……ではなく、「子供たちにどのような教育を提供するのか」という、いわば『王道』を進むことにより、我々の未来は開けると思うのだ。

フランス諷刺週刊誌に、彼らの傲慢さを見る

 

神がそれを望んでおられる

1095年11月。フランスでクレルモン公会議が開かれた。法王ウルバヌス2世は、聴衆に向かって聖地奪回を力強く訴えかけ、その熱弁の最後は次の言葉で閉められる。
神がそれを望んでおられる

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聴衆は一人残らず感動に包まれ、群衆の間からは「神がそれを望んでおられる(Deus lo vult)」の声が沸き起こった。十字軍の始まりである。

ペンは剣より強し

フランス紙フィガロは「イスラム原理主義の残虐行為で犠牲となった17人に哀悼の意をささげ、連帯を示し、民主主義と自由を守るために結集した。この国中が団結した光景に感動しないでいられようか」と述べ、「(デモが行われた)2015年1月11日は歴史的な日になるだろう」と書いた。

そして、この社説の冒頭は「フランスは立ち上がった」との威勢の良い言葉で始まっている。


民主主義と自由を守るために結集した群衆たちは、何かを勘違いしてはいないか。この事件の発端にあるのは、「表現の自由」の名の下に大切な存在をレイプされたイスラムの怒りなのだ。無論、テロを正当化するつもりはないが、同時に、言論の自由の名を借りれば何を言っても許されるわけもない。

言論の自由を守れ」とフランスの言論人たちは言う。ならば問いたい。あなた方は一度でも「ホロコーストに縛られた言論界」を風刺したことがあったか?ナチスを一言隻句でも擁護することは西欧言論界のタブーである。そのタブーを皮肉ったことはあったか?

猫のイラスト集で一躍名を馳せたフランス人のイラストレーター、モーリス・シネ氏は、今回のテロの対象となったシャルリー・エプド社を解雇にされている。2008年のことだ。その解雇理由は「発言が反ユダヤ的である」とのものだった。そのときフランスの言論人たちは抗議の声を上げなかったのか?そのダブルスタンダードさには辟易する。

「ペンは剣より強し」と主張するのであれば、あなた方は剣よりも強いペンの使い方にこそ配慮すべきではないのか。剣よりも強いペンの力で、イスラム教徒の大切にしているものを踏みにじる権利はない。東日本大震災後の日本を風刺し「手が4本になっている奇形の相撲取り」を登場させて被災者の感情を逆なでする権利もないはずだ。

さらに辟易するのは、二言目には「民主主義への挑戦」と言い立てるマスコミだ。


イスラム民主化

イスラム民主化」という表現を耳にされた方も多いことだろう。過去10年近くにわたってアメリカを中心とする西欧諸国は、イラクアフガニスタン民主化させようとしてきた。その試みはうまくいっているとは到底言い難い。
そして、今や熱い視線を注がれているのはアジアの民主化である。

ミャンマーの軍政は2010年以降に「上からの民主化」に乗り出した。インドネシアでは、昨年4月に行われた総選挙で民主化後初となる庶民出身の大統領ウィドド氏が選出された。

なぜ、アジアの民主化が注目されるのか。そこには
「多民族・多宗教・多文化国家でも民主化は定着する」
「自由・民主主義は西洋文明に限定されるものではない。人類普遍の価値観である。したがって、非西洋文明でも育つのだ」
というファンタジーが崩れては困るという理由がある。このファンタジーがあったからこそ、アメリカを中心とする西欧諸国は、「イスラムと民主主義は両立する」としてイラクアフガニスタンに手を突っ込んだ。当地で華々しい成果を得られなかったアメリカとしても、民主化を進める理由そのものを失うわけにはいかない。イスラムでは道半ばではあるが、アジアでは成功しているのだと強弁したいのだろう。

そこに見え隠れするのは、
民主化が進まない国や地域は遅れた後進国である」
「非民主国家は野蛮な国である」
との思いだ。

それは、あたかも「神が望んでおられる」として十字軍を結成した思想にも似ている。
民主化が進まぬ国の人々を解放し、彼らに民主主義の恩恵を与えることこそ我々の使命であるとの傲慢さは、現代の十字軍を結成するのだろう。

民主政に必要なものこそ、フランスに欠けているものだ

民主政体が最高の政体であるという主張は、政治思想史の中では近代以降の話に過ぎない。むしろ、プラトンに代表されるように、古来より民主政に対する不信感は強かった。なぜなら、民主政体においては多数派が暴走するからである。民意の名の下に多数派が暴走した場合、もはや止めるものは何もない。

民主主義に基づく政治体制をひけば、すべてが良くなるわけではない。世の中がHappyになるわけでもない。民主政体は国民が作り上げていく政体であるからこそ、その運営が困難な政治体制なのだ。

民主主義は二つのものから成り立つと私は考えている。ひとつは制度、もうひとつはモラルだ。三権分立といったものは制度と考えてもらえば良いだろう。もうひとつのモラルについては少々説明を要する。

モラルの根底にあるのは「人間は不完全な生き物である」との強固な確信だ。性善説性悪説かという単純な問題ではない。人の性が善であろうとも、人は過ちを犯す。人の性が悪であろうとも、人は善行をする。
ただ、間違いなくいえることは、人は完全ではないゆえに過ちを犯す。だから、権力を分散しておかねばならない。人は耳の痛いことを嫌う。だから言論の自由を保障しなければならない。人は不完全であるがゆえに、どのような聖人君子を就けても権力は腐る。だから定期的に入れ替えをしなければならない。

こういったモラルの中には、ひとつの黄金律がある。
ひとつの価値観には、同じだけの質と量を持った真逆の価値観が存在する

この世に絶対的真理など存在しない。ひとつの主張には必ず同じ正当性をもった真逆の主張が存在するのだ。だから、英語でも"Look at the both sides of the shield.(盾の両面を見よ)”との諺があるではないか。

自分たちの信じるものがあるならば、必ず相手にも同じように信じる者があるはずだ。そのモラルがあれば、イスラム教徒の教祖を裸にしレイプするような風刺画(とも呼べぬ代物だが)を描くことはためらうはずだ。

民主政に必要なものこそが、フランスに欠けていたものだ。


3つの課題をクリアできるか?そこに「地方創生」の未来がある

地方創生はありがたいのだけれど…

安倍内閣が目玉政策のひとつとして挙げている「地方創生」。その具体的な方針については、首相官邸HPに詳細が掲示されている。

地方に住む我々としては、これはこれでありがたい。だが、本当に「地方創生」メニューは地方を活性化させるのだろうか。そのためには3つの課題をクリアしなければならないと考える。


第一の課題「国は補助金縛りの体質から抜け出せるのか?」


安倍首相が掲げるアベノミクスは、成長戦略の一環として公共投資を拡充する。これは経済政策として正しい。一方で、アベノミクスが地方の成長戦略として正しいかと言われると、これは違う。

先の衆議院選挙では「アベノミクスの効果を地方の隅々にまで」との標語が踊った。アベノミクスはデフレにあえぐ経済に対するカンフル剤であって、地方が経済的に「一息つける」効果をもたらすものの、「一息つける」効果しかないゆえに、その効果は時間軸で限定的にならざるを得ない。地方が一息つけることと、地方が経済的に自立し活性化していくこととは別次元の問題なのだ。

したがって、アベノミクスと地方創生は別物と考えなければならない。

さて、地方創生は地方の自立を目標とする。だが、地方の自立が叫ばれたのは最近のことではない。

高度経済成長以降、地方は常に「均衡ある国土の発展」の対象だった。このテーマを具体的な計画に落とし込んだものが全国総合開発計画(全総)だ。
この全総の歴史は古く、第1次全総が策定されたのは昭和37年、所得倍増をうたった池田内閣の時代である。その第1次全総の基本的課題に「都市の過大化の防止と地域格差の是正」が盛り込まれていることは興味深い。つまり、我が国は半世紀にわたって延々と地域格差の問題に取り組んでいたことになる。

半世紀にわたって地域格差を無くすために何が行われてきたのだろうか。新幹線を引き、高速交通網をめぐらせ、情報インフラを整備するといった手法、すなわち、国が方針を定めて地方の格差を是正するといった手法がこれまでのやり方だった。

これに対して「地方創生」は地方の自主性を重んじている。
ただ、意地の悪い見方をすれば、地方の自主性を重んじるとは「地方でやりたいことを考えてくれ」と丸投げされたようなものだ。どうせ丸投げするなら、完全に丸投げして欲しい。「補助金」であるからには「この補助金は〇〇には使えません」「この補助金の目的に沿わないので認められません」との縛りがかけられているからだ。


国をひとつの人体と考えるならば、地方自治体はいわば個々の細胞である。主要な臓器だけが活発に動きながら、末端の細胞は衰弱し中には壊死しかかっている、これが日本の現状である。どのような栄養素を取り込んで活性化していくのか、それは末端の個々の細胞に任せておいた方が良い。いちいち頭脳が指示できるものではない。

これまで、国は補助金にヒモをつけ縛りをかけることで、末端の自治体にまでその影響力を行使し続けた。その誘惑を断ち切ることができるのだろうか。国も「一括交付金」の制度も視野に入れているようなので、期待はできそうである。

そうなると次なる問題は、各自治体内で生じてくる。「我々が本当に欲しいものは何か?」という問題だ。


第二の課題「自治体は、本当に欲しいものから目をそらせていないか?」

我々地方に住む者は、何が欲しいのだろう。

我々は「金」が欲しいのではない。金が欲しいのであれば、国からの補助金に依存する体制に安穏した方が良い。国からの補助金で箱物を作り、道路を整備し、民間事業者にお金が回る。駅前商店街活性化で補助金をもらい道路を整備し街並みを直して、民間事業者にお金が回る。

ただし、そのお金は一度切りだ。しかも特定の民間事業者の収益という形でそれは自治体内部に入る。つまり、補助金は影響力の及ぶ範囲でも限定されているだけでなく、時間的にも限定的なのだ。

我々地方に住む者が本当に欲しいもの。それは「利益を産むサイクル」である。
林業でも製造業でもサービス業でも良い。利益が地域経済内を循環して更なる利益を産むというサイクルこそが、我々の欲するものだ。


ならば、補助金が「利益を産むサイクル」を育てない理由はどこにあるのか。いくつもの原因がそこにはあるのだが、最も大きな原因の一つは「行政がそもそも利益を考慮していない」点にある。

地方自治体の視線の中で、利益を出すものとは民間事業者を指す。行政は利益を追求すべきでないと考えられている以上、それは致し方のないことなのだろう。しかし、「行政が利益を追求すべきではない」ことと「行政は利益を考慮していない」ことは全く別物である。


政策を打ち立てる行政が利益を考慮していないと、どのようなことが起きるのか。往々にしてあるパターンとしては、政策を立てる際に、民間の意見を聴くとして審議会を持つ。メンバーは商工会議所やJA、観光協会などお馴染みのメンバーばかりである。その会議では「商店街活性化」「農業の活性化」「商店街への誘客」など勇ましい文句が踊るが、肝心の「利益を産むサイクル」の話は一向に出てこない。

市議会議長であった時分に、多くの他市の議長と話し合う機会を得た。少なくとも私が知己を得た全て……文字通り全ての……議長が同じ思いを抱いていた。我々は利益を産むサイクルが欲しいのだ。地方はいつまでも「お恵み」をもらっていてはいけないのだ。だが、政策を立案する行政が、相も変わらず「それは民間事業者が考えることですから」と腰がひけている…と。

国は「地方が考えるべきだ」と投げる。
地方の自治体は「それは民間事業者が考えることですから」と投げる。
しかし、民間事業者に投げているのであれば自治体は「民間事業者からの抜本的なアイデアを募集します」とは言えば良いのに、それは言わずに審議会を開いて民間のアイデアを聞いているふりをする。そして、なぜか政策はいつの間にか出てきて国に提示し補助金が降りてくる。
補助金が降りてきて、自治体は民間事業者に仕事をまわす。
ひどいものになると審議会すら開かずに国・県から予算を引っ張ってきた後で、プロポーザルという美名の下に「予算があるから何か考えて!」と言い始める。

これまで延々と繰り返されてきたこのサイクルをどこかで断ち切らないと、真の「地方創生」は実現されない。

 

 

第三の課題「自治体、民間事業者、そして市民も、本当にすべきことから目をそらせてはいないか?」


ここに勇気ある自治体が現れて、民間事業者に対してこんな提案をしたとしよう。
「地方の活性化は地方経済の活性化を抜きにして考えることはできません。しかし、行政主導で経済活性化を行うことは困難です。民間事業者の皆さんのドラスティックなビジネスモデルをお待ちしています」
「我々は本気です。そのビジネスモデルが優れたものであるならば、行政は全面的なバックアップをお約束します。必要ならば行政内部の機構そのものを変えてもかまいません」
……ここまで主張する自治体が現れたならば、賞賛に値する。しかし、残念ながら地方でそのような自治体が出現したとしても、手を挙げる民間事業者は少ないことだろう。

ここにこそ、「地方の疲弊」の根本があるように思う。

新たにビジネスを立ち上げ制度の仕組みそのものまで変えて「利益を産む構造」を創りだす。それは、まさにイノベーションに他ならない。その人材が都市部へ流出したこと、それが地方の疲弊の根本である。人材がいないのではない。人材を育ててこなかったツケが回ってきただけのことだ。例えるならば、JAに依存してきた農家に「明日から自立せよ」と迫るようなものである。農家に人材がいないわけではない。ただ、自立したくともノウハウもなければOJTもない。

本当に必要なことはイノベーションを起こし得るだけの人材を地域で育て、彼らに機会を与え、結果が出るまで粘り強く待ち続ける。これが、自治体レベルで地方創生を実現するためにやらねばならないことだろう。


地方創生が真に効果を発揮するためには、
 ①国が補助金体質を改めることができるか。
 ②自治体が、自治体主導体質を改めることができるか。
 ③地方に人材が育つまで我慢することができるか。
この3つの課題をクリアしなければならない。各項目は、これまでの「均衡ある発展」における補助金依存体質からの脱却を意味する。自治体、民間事業者、そして市民は意識を変えて取り組まねばならない。たとえ時間がかかろうとも。

朝日新聞の元旦社説を読んで、平泉澄博士のことを想う

年頭の社説


あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

さて、新聞にとって1月1日の社説は重要なものです。その年をどうとらえるのか。その年をどのように行動すべきか。各紙はそれぞれに工夫を凝らしながら社説を編みます。

というわけで、朝日新聞の1月1日の社説を読んでみました。
さすがに、昨年に福島第一原発の「吉田調書の捏造」と従軍慰安婦の「吉田証言の捏造」の二つを謝罪しただけに、いささかトーンを変えてきました。

これまでは、「日本が悪い!」「植民地支配を謝罪せよ!」といった論調をどのようにシフトさせたのか。まずは1月1日の社説をご覧ください。



グローバル時代の歴史―「自虐」や「自尊」を超えて



歴史の節目を意識する新年を迎えた。

 戦後70年。植民地支配をした日本と、された韓国があらためて関係を結びなおした基本条約から50年という節目でもある。

 しかし今、そこに青空が広がっているわけではない。頭上を覆う雲は流れ去るどころか、近年、厚みを増してきた感さえある。歴史認識という暗雲だ。

 それぞれの国で「自虐」と非難されたり「自尊」の役割を担わされたり。しかし、問題は「虐」や「尊」よりも「自」にあるのではないか。歴史を前にさげすまれていると感じたり、誇りに思ったりする「自分」とはだれか。

■歴史のグローバル化

 過去70年間を振り返るとき、多くの人の頭に浮かぶ歴史的な出来事は何だろうか。

 震災や台風といった災害、オリンピックのような祝祭、あるいはバブル経済政権交代かもしれない。たいていは日本の光景だろう。歴史を考えるときの「自分」とは、ふつう日本人としての「自分」だ。

 しかし今、その「ふつう」が必ずしも「ふつう」ではすまない時代に入っている。グローバル時代だ。

 ヒトやモノ、カネ、情報が軽々と大量に国境を超える。社会が抱える問題も国境では区切られなくなっている。金融危機地球温暖化感染症……。日本だけの問題ではない。被害に遭うのは多くの国の経済弱者だったり、農民だったり、人類全体だったり。解決に取り組む人々のネットワークも日本という枠におさまらない。

 歴史が自分たちの過去を知り、今の課題を乗り越えて未来を切り開くための手がかりだとしたら、国ごとの歴史(ナショナル・ヒストリー)では間に合わない、ということになる。

 では、どんな歴史が必要か。

 米ハーバード大学名誉教授の歴史家、入江昭さんは昨年出版した「歴史家が見る現代世界」の中で「グローバル・ヒストリー」の重要性を訴えている。

 国や文化の枠組みを超えた人々のつながりに注目しながら、歴史を世界全体の動きとしてとらえ、自国中心の各国史から解放する考え方だ。

 現代はどんな国も世界のほかの国や人とつながり、混ざり合って「混血化」「雑種化」していると指摘する。「その流れを止めたり、もともと存在もしなかった『純粋』な過去に戻ろうとしたりするのは歴史を神話にすりかえることである」

■忘れるための歴史

 フランスの思想家、エルネスト・ルナンが1882年、パリ・ソルボンヌ大学で「国民とは何か」という講演をした。国民国家についての古典的な考え方のひとつとされる。

 そこで彼は、国民という社会を築くうえで重要なのは「忘却」あるいは「歴史についての誤り」だという。国民の本質は「すべての人が多くの事柄を共有するとともに、全員が多くのことを忘れていること」とも。だから「歴史研究の進歩はしばしば国民性にとって危険です」とまで語っている。

 どんな国にも、その成り立ちについて暴力的な出来事があるが、なるべく忘れ、問題にしない。史実を明らかにすれば自分たちの社会の結束を揺るがすから――。

 ナショナル・ヒストリーについての身もふたもない認識である。

 そのフランスで昨年、第2次大戦中の対独協力政権(ビシー政権)について「悪いところばかりではなかった」などと書いた本が出版された。批判の矛先は、これまでの歴史研究のほか家族など伝統的な価値観の「破壊」にも向かう。ベストセラーとなった。

 グローバル化でこれまで人々のよりどころとなっていた国民という社会が次第に一体感をなくす中、不安を強める人たちが、正当化しがたい時代について「忘却」や「誤り」に立ち戻ろうとしているかのようだ。

 「一種の歴史修正主義です」とパリ政治学院上級研究員のカロリヌ・ポステルヴィネさん。東アジアの専門家だ。「自虐史観批判は日本だけで見られるわけではありません」

■節目の年の支え

 東アジアに垂れ込めた雲が晴れないのも、日本人や韓国人、中国人としての「自分」の歴史、ナショナル・ヒストリーから離れられないからだろう。日本だけの問題ではない。むしろ隣国はもっとこだわりが強いようにさえ見える。

 しかし、人と人の国境を超えた交流が急速に広がりつつあるグローバル時代にふさわしい歴史を考えようとすれば、歴史は国の数だけあっていい、という考えに同調はできない。

 自国の歴史を相対化し、グローバル・ヒストリーとして過去を振り返る。難しい挑戦だ。だが、節目の年にどうやって実りをもたらすか、考えていく支えにしたい。

 ふむ…一読して何を言いたいのかよくわからない文章です。要するに
 ①人は自国の歴史に誇りを持ちたいのだ。
 ②それは日本だけではない。
 ③しかし、世の中はグローバル化が進んでいる。
 ④したがって、歴史もグローバル時代に相応しいものにすべきだ。
ということを言いたいのでしょう。

どうやら、
 (A)日本は植民地支配で中国や韓国に悪いことをした。
 (B)その歴史を直視すべきだ。
 (C)そして、中国や韓国と歴史観を共有すべきだ。
という従来の主張に「グローバル化」というオブラートをかぶせてきました。でも、歴史観を共有すべきだという看板だけは降ろさないようですが。

この論法では、重要なことがひとつ抜け落ちています。
それは「人はなぜ歴史を学ぶのか」という大問題。

その問題の切り口を探る際に、ひとりの重要な人物が福井県には存在します。

平泉澄……皇国史観の親玉として歴史学会のみならず言論界、否、日本の歴史そのものから抹殺された人物です。

(恐らく、地元の勝山市民ですら、もはや平泉澄博士の名を知る人は少なくなったことでしょう。実に残念なことです)

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平泉澄博士に学ぶ「歴史を学ぶ意義」

近代保守主義は革新主義と同時にこの世に生を受けました。なぜなら、保守主義とは革新主義のアンチテーゼとして誕生したからです。

その意味で、近代最初の保守主義者はE・バーク(1729ー1797)といえます。

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バークを通じて平泉博士にぶち当たった頃、私の中で博士に対するイメージは通俗どおりの「ゴリゴリの皇国史観の親玉」でした。

天皇陛下を天壌無窮の存在として捉えるだけの、神学とも呼ぶべき歴史学。その総帥としてのイメージ。私の持っていたイメージは、まさに通俗的なそれでした。

そのイメージを木端微塵に打ち砕いたのが、この書でした。
(若手研究者による掛け値なしの名著です)

 

丸山眞男と平泉澄?昭和期日本の政治主義

丸山眞男と平泉澄?昭和期日本の政治主義

 

 

人々は言います。「平泉史学は神学だ」と。
確かにそうなのかもしれません。
仮に平泉史学を神学だとするならば、なぜ平泉博士は歴史学を神学にまで高める必要性に駆られたのか。その理由の一端が、この書を読んでわかったような気がしました。

明治期の日本は、西欧より様々なものを貪るように吸収しました。法学、税学といった国家の仕組みそのものから、土木、農学、工学といった実学、物理学、科学等々の自然科学、哲学といった人文科学等、様々なものを吸収しながら、最後まで皿の上に乗らなかったものがあります。それが神学でした。

ここで我々が見落としてはならないことは、神学を克服することで西欧近代思想は始まったことです。
キリスト教の影響力が強い西欧諸国において、理性とは何か。神とは何か。その矛盾を克服する過程の中で、西欧近代思想は強靭な生命力を得ました。
(事実、ドイツ観念論の集大成として知られるヘーゲルも、その出発点を神学に負っている)

そもそも神学とは何でしょうか。
それは神という絶対なる存在者を通して世界を把握する手法です。そして、神学は信仰に強固な理論づけをします。

信仰とは、全人格的なものです。全人格的ということは、ひとりの人の中において結実し完成されねばなりません。そのような信仰の基礎となる神学の代わりをするものがあるならば、それは、やはりひとりの人の中において世界を結実するものでなくてはなりません
ヘーゲルの『個人―社会―国家』のプロセスは、このような下敷きがあったのではないかと私は考える)


さて、西欧より神学を輸入しなかった日本では、西欧近代思想が持つ「理性の強さ」をぶつける相手を持ちえませんでした。西欧人が神学に立ち向かうことによって己の理性を強固なものにしていったのに対し、日本人は理性の産物のみを導入したのです。

理性は自生するものではありません。理性の産物である近代文明の果実のみを輸入する、日本人のそのような態度の内に、確固たる理性が発生するはずもありませんでした。ましてや、西欧知識人が悩んだ「信仰と理性の葛藤」に苦しむ人は少なかったことでしょう。

平泉博士が「歴史とは全人格的なもの」と述べ、自らの史学を神学にまで高めようとしたのは、この葛藤そのものの克服を日本において独自に解決しようとしたのではないか。私はそう思うのです。

つまり、平泉博士は

 ①歴史は全人格的なものとして学ぶべきだ。

 ②その中で必ず葛藤が出てくる。

 ③その葛藤の中で理性は強靭な生命力を持つ。

と考えたのだろうと忖度するのです。


理性と歴史の葛藤とは?

例えば、大東亜戦争における特攻隊を考えてみましょう。
「特攻隊は無駄死にだった」
「特攻隊員は国に騙されていたのだ」
と片づけることは簡単です。
しかし、全人格的に特攻隊員の歴史を我が身に引受けたとき、事態の様相は全く変わります。「仮に私が特攻隊員と同じ立場であったとき、果たしてどのように振る舞うことができただろうか」

果たして上官の命に逆らうことができただろうか。
あの時代の空気に逆らうことができただろうか。
私は何かを守るために、あのような行動を起こすことができただろうか。
その守るべきものとは何なのか。
あの時代の「空気」とは何だったのか。
そもそも「空気」とは何か。
 
想いは千路に乱れ容易に答えはでてきません。様々な葛藤がそこには発生します。その葛藤から導き出される答えは、万人に共通する正解ではありません。A氏にはAの答えが、B氏にはBの答えがあることでしょう。それが全人格的であるということです。人の顔が異なるように、葛藤を経て出た言葉は人によって異なるのが当然なのですから。

そのように考えると、朝日新聞の社説がいかに薄っぺらいものであるかがおわかりになるでしょう。

グローバルな歴史観は、これからの混沌としたグローバル社会の中でいつかは形成されるのかもしれません。しかし、それはナショナルな国民国家の成員として、我々がそれぞれに全人格的に歴史を引き受け、それらの想いを交差させた上で、はじめて成しうるものなのです。

戦後70年の節目に当たる本年は、本来、「歴史を全人格的に引き受け、葛藤を経たうえで各人が結論を導き出す」活動の端緒に位置づけられるべきです。

そして、それこそが平泉澄博士が望んだことだと、私は思うのです。

【備忘録】 戦略ストーリー作成の10ヶ条

新しい事業を組み立てていく中で、その事業戦略をストーリーに落とし込む段階まで辿り着いた。そこで、自作のストーリーに漏れやダブリがないか(MECE)、論理的な破たんはないかとの自戒の意味を込めて、戦略ストーリー作成のための10ヶ条を記しておく。

使用したテキストは、「ストーリーとしての競争戦略」。類書の中では屈指の名作である。 

 ①エンディングから考える

戦略ストーリーの目的は、長期利益の実現である。したがって、ストーリーを紙芝居にするならば、最後の一枚は「……というわけで、長期利益が出ましたとさ、めでたしめでたし」で終わらなければならない。

このエンディングを固めるためには、実現すべき「競争優位」と「コンセプト」の二つをはっきりとイメージする必要がある。

競争優位は、単純である。顧客が支払いたいと思う水準(WTP)を上げるか、コストを下げるか、無競争状態に持ち込む(ニッチ化)か、選択肢は限られている。

コンセプトは、目的である。決して目標ではない。目標は客観的な指数であり、それはドライでクールなゴールである。目的とは、ストーリーにかかわる人々がコミットするホットなゴールである。スターバックスが「第3の場所」を市場に提示する際に、どのような人々をターゲットにしたのか。アスクルがターゲットにする顧客をどのようにイメージしたか。
「顧客が動くストーリー」をどれだけ鮮明にイメージできるかがコンセプトづくりの勝負である。斬ったら血がでるくらいの生々しい具体的なイメージが求められる。



②「普通の人々」の本性を直視する

「誰をどのように喜ばせるのか」をはっきりイメージすることがコンセプトを構想する際には求められる。そこでは、「誰に嫌われるのか」という視点が大切になる。誰からも愛されるとは、誰からも愛されないと同義だ。

しかし、独自性の追求は「とがった」顧客をターゲットにすべきではない。あまりにもマニアックな顧客は、どく特殊なニッチに押込められるだけだ。ニッチに特化した無競争を初めから意図する場合を除き、あまりにも独創的なコンセプトはビジネスにならない。

人間の本性は変わらない。人間が人間を相手にビジネスをしている以上、本当の意味で「新しい価値」などはそもそも存在しない。

「言われたら確実にそそられるけれども、言われるまでは誰も気づいていない」、これが最高のコンセプトである。



③悲観主義で論理を詰める

ひとたびコンセプトを固めたら、コンセプトについては楽観主義であるべきだ。いちいちコンセプトを疑っていたらストーリー作りは前に進まない。

しかし、一つ一つの因果論理を考えるときは悲観主義者の構えをとるべきである。失敗した戦略ストーリーを眺めていると、「こうやっておけば、どうにかなるさ」との論理で構成要素がつながっていることが多い。

ストーリーが緩くなる典型的パターンが、特定の「飛び道具」や「必殺技」に寄りかかる症状だ。インターネットブームの頃の「ポータル戦略」がその例として挙げられる。一撃で勝負がつくような飛び道具や必殺技はない。そのようなものがあるならば、そもそも戦略ストーリーそのものの必要性はない。

戦略ストーリーが意図する強みは、個別の打ち手の中にはない。打ち手をつなげていく因果論理の一貫性こそが競争優位の源泉である。


④物事が起こる順序にこだわる

ビジネスモデルの戦略論とストーリーの戦略論の決定的な違いは「時間軸」である。ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を合わせているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している。

因果論理の組み立てに不可欠の条件は、「AがBと連動する」との共変関係だけでなく、「AはBに先行して起きる」という時間的先行性があることだ。

ビジネスモデルは明確な構想があったにもかかわらず、ビジネスの最終的なかたちをいきなり実現しようとして、すべてを同時並行的にフルスケールでやる失敗例は多い。

意思決定や実行が早いことと、「いきなり丸ごと」式にやることは違う。


⑤過去から未来を構想する

ビジネスを継続的に成長させるためには「長い」ストーリーが必要になる。ストーリーに拡張性や発展性が織り込まれていなければならない。

しかし、正確な未来など誰にもわからない。先見の明などは存在しない。将来どうなるかを理解できるならば、戦略ストーリーはつくりやすいが、そのような将来予測は誰にもできない。

戦略は長期的に考えなければならない。しかし、その長期的なスパンは自分が依拠するストーリーの上で考えるべきだ。ストーリーは将来の機会を見つめるためのレンズである。漠然と将来を眺めてみても、ありきたりの未来しか見えない。ストーリーというレンズを通して、真の機会は像を結ぶ。

ストーリーの延長線上に将来像を描けなくなったら、ここで初めてストーリーを捨てて全面的な書き換えに踏み切らざるを得ない。
ただし、ストーリーを書き換えて成功した企業は極めて数少ない。

ストーリーの全面書き換えの困難さから二つのことが理解できる。

ひとつは、「ストーリーは窮屈さを感じるくらいがちょうど良い」ということだ。
戦略ストーリーがしっかりしているほど、ある打ち手がそれまでのストーリーにフィットするか否かがはっきりと判断できる。優れたストーリーには窮屈なところがある。

第二に、ストーリーを構想する以上は、少なくとも10年、できれば20年くらいの賞味期限が期待できるような、できるだけ長いストーリーを構築すべきである。全面書き換えが極めて難しい以上、それくらいの賞味期限がなければならない。


⑥失敗を避けようとしない

どんな秀逸な戦略ストーリーでも、それが本当に成功するかは事前には判断できない。誰も将来は予測できない。最後のところは、やってみるしかない。

だとしたら、事前にできることは2つしかない。

ひとつは、事前に戦略ストーリーを持ち、組織でしっかりと共有することである。

サッカーの例えで言えば、戦略ストーリーを持つことは、攻撃や主義の流れ、パス回しを事前に構想した上で試合に臨むということだ。いざ試合が始まってみると、相手のある話なので思い通りにはいかない。その試合の混沌とした状況の中で、戦略ストーリーを共有できているのか否かは決定的な違いをもたらす。

もうひとつは、戦略ストーリーの中で失敗をきちんと定義しておくことだ。

どのラインで撤退するのかを決めておくことにより、我々は安心してチャレンジできる。「ハッピーエンディング」を定めておくと同時に、「アンハッピーエンディング」をあらかじめ織り込んでおかねばならない。

ストーリーは失敗をさけるためにあるのではない。むしろ、きちんと失敗するためにある。どんな成功した企業でも、ストーリーを実現していく過程でさまざまな失敗を経験する。大切なことは失敗を避けることではなく、「早く」「小さく」「はっきり」と失敗することだ。


⑦「賢者の盲点」を衝く

その業界を知り抜いている「賢い人」が聞けば、「何をバカなことを」と思う。しかし、ストーリー全体の文脈に置いてみれば、一貫性と独自の競争優位の源泉となっている。部分の非合理を全体での合理性に転化する。これがストーリーの戦略論の醍醐味だ。

カイゼン」「かんばん方式」は、今日では世界中の製造現場で導入されているトヨタ発の方式だが、70年代初めに問う米企業の幹部がトヨタを見学したときに、彼らは「トヨタはものづくりがわかっていない」と眉をひそめた。

スターバックスが直営店方式にこだわったとき、フランチャイズを当然と考えていた人々はその考えを理解できなかった。

もしもトヨタが「われわれは遅れている。だから欧米のベストプラクティスを取り入れなければならない」と考えていたら、世界を席巻するイノベーションは生まれなかっただろう。同時に、トヨタの思いついた「違ったこと」が欧米幹部にすぐに理解できるようなものだったら、即座に模倣されたことだろう。

一見すると「非合理」に見えながら、全体のストーリーに組み込むと競争優位をもたらすゆえんである。

常識を疑え。
なぜその常識が信じられているのか。その背後にある論理を突き詰めろ。
そこには何らかの非常識や非合理が隠されている。

「なぜ」の積み重ねを大切にせよ。
その積み重ねは当事者の頭の中にしかない。
メディアで飛び交うのは「最新のベストプラクティス」でしかない。常識の背後にある非常識は日経新聞の一面には出てこない。


⑧競合他社に対してオープンに構える

優れた戦略で成功すれば、当然、競合他社は戦略を模倣する。しかし、競合他社に対して防御的な構えをとるべきではない。いくら防御しようとしたところで、このご時世では完全に防御しきれない。そもそも、その戦略が本当に優れたストーリーになっていれば、模倣の脅威はそれほど大きくないはずだ。

トヨタやデルのように優れた戦略ストーリーで成功した企業の多くは、その手法をオープンに構える。それは、自分たちが構築したストーリーに自信があるからだ。「一部の構成要素は取り入れられても、ストーリー全体はそう簡単にまねできない」との自身である。

⑨抽象化で本質をつかむ

戦略ストーリーは現実のストーリーに落とし込まねばならない。しかし、具体的な事例だけを見ても戦略ストーリーは作れない。その作成には抽象化が必須となる。

刻一刻とメディアはビジネスの速報を流してくれる。しかし、断片的な情報からは戦略は見えてこない。1990年代の終わりには多くのメディアはエンロンの「革新的なビジネスモデル」を大絶賛していた。アマゾンにしても創業当初は絶賛され、ネットバブルが崩壊して赤字続きが危惧された頃は散々にこき下ろされ、最近になってまた絶賛されている。その間、アマゾンの戦略ストーリーが依拠している論理の本質は何も変わっていないのだ。

具体的事象の背後にある論理を汲み取り、抽象化することが大切である。具体的事象をいったん抽象化することによって、それは初めて汎用的な知識ベースとなる。汎用的な論理を、自分の文脈で具体化することにより、自分のストーリーに応用することができる。

このように抽象化と具体化を往復することにより、物事の本質が見えてくる。

アメリカでトヨタ生産方式(TPS)が注目を集め始めた1980年代では、アメリカ人はTPSを単純に在庫を減らすための方法と捉えた。したがって、TPSの導入は機械組み立て産業に限られていた。
ところが、90年代に入ると、TPSの本質は「時間」にあるのではないかとの抽象化の視点が提示された。企業のあらゆる活動で時間短縮を図ることが競争優位につながるという論理化である。この抽象化のシフトにより、TPSはPC、航空機、医療器具、樹脂成型、非製造業の物流、郵便、建設、病院など様々な分野へ応用された。トヨタの現場(事例)から抽象化された論理を具体化させ、その具体化からさらに抽象化を図った事例である。


⑩思わず人に話したくなる話をする

手っ取り早くわかる優れたストーリーの条件は、そのストーリーを話している人自身が「面白がっている」ということだ。自分が面白がっているからといって必ずしも成功するとは限らない。しかし、本人が面白いと感じないようなストーリーは他人も面白いとは思わない。そのようなストーリーがビジネスで通用するはずはない。

思わず人に伝えたくなる話。これが優れたストーリーだ。





■一番大切なこと

戦略ストーリーにとって一番大切なこと、それはストーリーの根底に抜き差しならない接辞なものがあることだ。

「切実さ」は「面白さ」と異なる。面白いとは、あくまでも自分を主語にしている。自分にとって面白いことでなければ、ストーリー作りは始まらない。面白ければ、文字通り、寝食を忘れてのめりこめる。

しかし、面白いだけではその情熱は長続きしない。

「切実さ」とは、煎じ詰めれば、「自分以外の誰かのためになる」ということだ。直接的には顧客への価値の提供だが、その向こうにはもっと大きな社会に対する「構え」なり「志」がなければならない。

優れた戦略ストーリーを読解していくと、必ずと言ってよいほど、その根底には、自分以外の誰かを喜ばせたい、人々の問題を解決したい、人々の役に立ちたいという切実なものが流れている。

だからこそ、世の中は捨てたものじゃない。



勝山市の成長戦略 その2 -最高のまちはどこにもない-


前回のおさらい

何度も繰り返すのですが、「このまちは最高です」と自治体・住民が思うことは大切なことです。その想いがなければ、そもそも自治体の絆が成り立ちません。しかしながら、その想いを前面に出すと思わぬ陥穽に墜ちることがあります。

今回はその辺りを詳しく見ていきましょう。


前稿のおさらいです。
「このまちは最高です」との自治体・住民の主張は、「最高さ」を根拠として他自治体との差別化を図るものです。
その差別化は、
 ①地理的独自性
   (このまちは緑豊かな自然に囲まれた地域です)
 ②歴史的・伝統的独自性
  (このまちは歴史的文化財が豊富で、ユニークな祭りなどがあります)
 ③人間性の独自性
   (このまちに住む人々は、心温かくあなたを迎えてくれます)
といったパターンで行われます。多くの自治体のHPや観光HPで、この手の文言が散りばめられていることでしょう。


主観性のワナ

前稿のおさらいが終わったところで、結論から申し上げると、「このまちは最高です」との主張が落ちる陥穽とは、「主観性のワナ」です。多くの自治体がこのワナにかかっているのですが、当事者はワナにかかっていること自体を認識していないように思われます。

主観性のワナは、主張が主観的であるがゆえに、その価値を他者と共有することが難しいという特徴を持ちます。



主観性のワナの特徴は、次の2つの点で如実に表れます。
 ①体験の先行性
 ②比較困難性

「①体験の先行性」とは、人は体験したことを元に共感するという性質です。歯の痛みは本人にしかわかりません。しかし、「歯が痛くて痛くて…」と言えば、相手方は己の経験をもとにして想像してくれることでしょう。ここに共感が発生します。したがって、一度も虫歯になったことのない人は、歯の痛みを共感することは不可能です。

つまり、「このまちは最高だ」と主張しても住んだことのない人には伝わらないのです。したがって、「住んでみなければわからない」ような主張をいくら繰り返したところで共感を得られることはありません。

「②比較困難性」は、主観的な主張の比較の困難さを表しています。「このまちは最高です」との自治体Aの主張と、「いやいや、うちのまちこそ最高ですよ」との自治体Bの主張とを比べる基準などありません。なぜならどちらの主張も主観に基づいているからです。駅前の蕎麦屋と3丁目の蕎麦屋のどちらが美味しいかを言い張るようなもの。下手すれば、空手と柔道のどちらが強いのかを主張し合うことにも似ており、比較のしようがないのです。



主観性のワナの具体例ー魅力あふれる観光地づくりー

体験の先行性と比較困難性が最も顕著に現れる事例は、観光地づくりです。観光地づくりをする場合、
 (1)中核となる有名観光地
 (2)その周辺の小・中規模観光地
とエリア分けをして、(1)を訪れた観光客を(2)で周遊していただくというプランを立てます。これは自治体内部でも、自治体間またぐ広域観光でも同様です。


(1)は問題ありません。放っておいても観光客は来るのですから。問題は(2)です。ここに成功した観光地は、小布施などごくごく少数の事例にとどまります。


なぜ、有名観光地からその周辺の小・中規模観光地へ人々は周遊しないのでしょうか。それは皆さん自身がよくわかっていらっしゃるはずです。
  「だって、知らないし」
  「事前に調べても何が楽しそうなのか、よくわからない」

「このまちは最高です」との主張は主観的です。主観的なメッセージは、時として独りよがりになりかねません。
行ったことがないので体験の先行性はない。他自治体と同じようなものばかりで比較が困難である。独りよがりなメッセージは顧客に対してそのような印象しか残さないでしょう。

ならば、独りよがりではないメッセージとはどのようなものでしょう。
それも体験の先行性にヒントがあります。

体験の先行性とは、「行ってみなければわからない」ということ。この体験の先行性はコインの表裏から成り立っています。表面は「行ってみなければわからないから、とりあえずは行かない」。裏面は「行ってみたら良かったので、もう一度行く」というもの。裏面をリピーターと言います。
リピート率60%を誇る湯布院温泉は、「人を癒す温泉」とのテーマに基づき40年にわたるまちづくりを行いました。「このまちは最高です」と言わずに「あなたを癒す温泉です」と主張したのです。


試しに、どこでも良いです。自治体のHPや観光協会のHPを開いて、そこの文言をチェックしてみてください。
「このまちは最高です」
「このまちは〇〇や××をやっています」
といった主観性溢れるメッセージ以外のものはあるでしょうか?
湯布院が打ち出した「人を癒す温泉」といったメッセージ性と同様のものを見出すことはできるでしょうか。

こういったHPは、様々なイベント情報や観光地情報で埋め尽くされています。それはあたかもスーパーのチラシのようです。ただし、スーパーのチラシには「明日は〇〇がお買い得です」との明確なメッセージが込められています。
 ①地理的独自性
 ②歴史的・文化的独自性
 ③人間性の独自性
に基づいて、様々な施策・イベント等には明確なメッセージ性があるのでしょうか。





主観性のワナの具体例②ー地元に帰ってこない若者たちー

主観性のワナの事例として、こちらは根深く、より深刻です。

多くの地方自治体は、大学進学で都会に行って戻ってこない若者たちや、結婚を機に都市部へ出て居を構える若者たちの存在に悩んでいます。

地元を離れる若者たちは、将来、再び地元へ戻るつもりがあるのか。民間事業者のアンケート調査によれば6割に及びます。おおむね、我々の実感に基づく数値です。

地元に住んでいた若者たちが、大都市圏の大学へ進学し職を得て地元を離れる……というストーリーで考えてみましょう。
大学進学するまで彼は地元に住んでいました。したがって、体験の先行性は満たしています。自治体はこの「体験の先行性」を訴えます。つまり、若者たちが持つ地元愛に訴えかけます。「ここは最高のまちだろう?だから戻っておいで」と。

しかしながら、若者たちが地元を離れる理由は「都市圏で仕事が見つかったから」といった客観的な理由です。

いや……正確には「客観的に見せられる理由」と言った方が良いのかもしれません。地元にまったく職がないのかと言えばそうでもありません。地元で就職活動をしない時点で地元へ戻る意思は毛頭ないのです。単に地元へ戻りたくない理由として「都市圏で仕事が見つかったから」と述べるだけのこと。



名著『売れるもマーケ当たるもマーケ』において、著者はマーケティングの手法を22の法則に分類しました。その第4法則として「知覚の法則」を提示します。


【第4法則】知覚の法則
マーケティングとは商品の戦いではなく、知覚の戦いである。客観的な事実というものは存在しないし、事実というものも存在しない。ベストの商品などありっこないのだ。
マーケティングの世界に存在するのは、ただ、顧客や見込客の心の中にある知覚だけである。知覚こそ現実であり、その他のものはすべて幻である。私たちは信じたいと思うものを信じるのである。同様に味わってみたいと思うものを口にするのだ。

売れるもマーケ 当たるもマーケ―マーケティング22の法則

売れるもマーケ 当たるもマーケ―マーケティング22の法則

 

 自治体は若者の体験先行性に訴えます。
「このまちは最高のまちだろう?」

しかし、若者の心には届きません。体験の先行性を重視して地元に残る若者も確かに存在します(私もそうでした)。しかし、体験の先行性を重視しない若者にとって、それは彼らの知覚を何ら呼び起さないものでしかありません。


「地元には戻りたくない」と思う若者が、地元に戻りたくない理由は様々でしょう。案外、その分かれ目は些細なことだったりするのかもしれません。
しかしながら、これまで多くの自治体はその分析すらせずに、
 「若者が働く場がないから戻らないのだ」
 「若者が遊ぶ場がないから戻らないのだ」
 「子育て支援が充実していないから戻らないのだ」
と結論づけて、定住化促進政策を実施してきました。働く場がないのならば企業誘致を行いましょう。遊ぶ場がないのならば、レジャー施設に補助金を出しましょう。地元に戻り家を建てる人には、〇〇万円の補助を出しましょう。子育て支援策として、出産祝い金を出しましょう・・・


しかし、多くの人々は薄々気づいているはずです。そんなことでは若者は地元に戻ってこないことを。子育て支援を充実してくれることは、その自治体に住む人々にとっては大変にありがたいことです。地元に戻った若者が家を建てるときに補助金が出ることも大変にありがたい……でも、それがあるから若者は地元にもどってきたのではないということを。





 

最高のまちなど、どこにも存在しない

繰り返しになりますが、「このまちは最高のまちです」と地域住民が思うことは、とても大切な事です。しかしながら、その想いは自治体の外へ出しても、その主観性のゆえに人々の共感を呼びません。

自治体の外へ向けるメッセージは、別の原理によって組み立てられたものでなくてはならないのです。それこそが最高のまちなど、どこにも存在しないという当たり前の原理です。


最高のまちなど、どこにも存在しないのだという原理に基づいてどのようなメッセージを発信するのか。それについては、次稿にて。

勝山市の成長戦略 その1  -思い込みを取り除こう-

冒頭にあたり

勝山市は人口2万5千人の小さな自治体です。この小さな自治体がこれからの自治体間競争を勝ち抜くためには、どのような戦略が必要なのか。私はこの点を数年間にわたって考え続けてきました。ようやくその答えが垣間見えてきたので、その結果を数回にわたって当ブログにて述べていきます。

「戦略とはなにか?」
私は戦い方だと考えています。どこにターゲットを絞り、手持ちの資源をどのように投入し、何を目指して戦うのか。その戦い方こそが戦略であり、勝山市の将来を左右するものです。


これから数回にわたって、

「自治体間競争とは、そもそも何をめぐる競争なのか」

「自治体間の競争においては、我々は何をもって『優位』となすのか」

「自治体間競争で優位を築くために何をすべきか」
といった点について重点的に述べていくつもりですが、その前段として今回はひとつの思い込みについて論じます。

この思い込みは実に厄介な代物です。それは自治体のまちづくりに欠かせないものでありながら、それが逆にまちづくりの発展の足枷になりかねません。

その思い込みとは、
「私たちのまちは最高である」




「最高の製品」は存在しない

たいていの製品や事業において「最高」なるものは存在しません。試しに「最高の車」を想定しましょう。軽トラックが欲しい人にとってベンツは何の価値もありませんし、ベンツの最高級クラスとフェラーリの最高級クラスとの比較も意味がありません。

ところが、多くの企業は「最高を巡る争い」へ突入します。

この典型例として経営学の教科書に出てくる事例がホテルの「ベッド戦争」です。
1999年にウェスティン・ホテルが、数千万ドルの投資を行いベッドリネン、枕、マットレスを吟味して「天国のようなベッド(Heavenly Bed)」を導入しました。もちろん、競合ホテルとの差別化を図るためです。予想通り、競合ホテルは直ちに対抗策を図ります。ヒルトンは「静寂のベッド」、マリオットは「元気回復コレクション」、ハイアットは「ハイアット・グランド・ベッド」といったように。
 マスコミが2006年にベッド戦争の終結を宣言するに至るまでに、各社は巨額の投資をして自社ブランドの開発・導入を行いました。そして、この等級ならばどのホテルに泊まってもベッドの品質には差がないことが保証されています。


『競争の戦略』の中で、マイケル・ポーター教授はこの状態を「競走の収斂」と呼びました。

 

競争の戦略

競争の戦略

 

企業ごとの違いがひとつ、またひとつと失われ、やがてどの企業も見分けがつかなくなる状態です。そして、競争の収斂に陥ったとき、もはや顧客にとって判断材料となるのは価格のみであり、企業は熾烈な価格競争に走らざるをえません。


経営学は諌めます。
「最高の商品・サービスは存在しない」
「あるのは、『私にとって最高の商品・サービス』である」
と。
顧客を分析し、対象を絞り(セグメント)、業界の中における自社の位置を明らかにせよ(ポジショニング)と。

なぜなら、製品・サービスの価値を最終的に定義するのは、提供者ではなく顧客だからです。
 




このまちは最高です 

「このまちは最高のまちだ」との自己評価を、自治体はまちづくりの基礎に置きます。「私たちのまちに誇りを持ちましょう」と。


誤解の無いように申し上げておきますが、私はこれ自体を否定するつもりは毛頭ありません。住民が自分のまちを誇りに思うことはとても大切なことです。私自身も、自分の住むまちを誇りに思っています。

私が申し上げたいのは、「このまちは最高のまちだ」という想いを前面に打ち出すことは、企業が「最高を巡る争い」に突入する事態と同じ結果をもたらすことだという点です。


もう一度、企業が「最高を巡る争い」をする際の特徴を思い出してください。競争に参加している企業がその独自性を発揮できなくなる、すべての製品・サービスが同様のものになってしまい価格競争しかできなくなる。そういった状態が競走の収斂でした。

「このまちは最高のまちだ」と自治体・住民が主張するとき、他のまちとの差別化は
 ①地理的独自性
 ②歴史的・文化的独自性
 ③人間性
で行うのが通例です。

「私たちのまちは、美しい山々と素晴らしい自然に恵まれています(地理的独自性)」
「私たちのまちは、歴史的に素晴らしくユニークな祭りや文化財が豊富です(歴史的・文化的独自性)」
「私たちのまちは、温かい人間味あふれる人々がいます(人間性)」
どの自治体でも決まり文句として出てくるものばかりです。

繰り返しになりますが、私はこれ自体を否定しているのではありません。これを前面に押し出すこと自体が陥穽に墜ちると言いたいのです。

では、どこに陥穽があるのか。

それは次稿で詳しく。 

 

 

選挙にまつわるエトセトラ

 

投票場へ一番乗りすると、とある特典が。

あなたが、投票場へ一番乗りしたとします。すると、あなたは選挙管理委員会から次のようなお願いをされることでしょう。

「投票箱の中を確認してください」

 

誰かがこっそりと投票箱に不正をしかけないように、1番最初に投票する人は中身が空であることを確認します。これを「零票確認」と言います。

 

ちなみに、公職選挙法施行令第34条に定められています。

公職選挙法施行令第34条

投票管理者は、選挙人が投票をする前に、投票所内にいる選挙人の面前で投票箱を開き、その中に何も入っていないことを示さなければならない。

 

これを目当てに1番乗りをする人もいらっしゃるようです。2chで言うところの「2Get」の心境なのかもしれません。
皆さんも一度チャレンジしてみてはいかがでしょうか?


投票済証」という隠れアイテム

投票場へ行くと投票用紙をもらいます。他にも投票済証と呼ばれる隠れアイテムが存在します。

 

これは、文字通り「投票が済んだことを証明します」というもの。自治体によってデザインは全く変わります。私は勝山市投票済証がどのようなものかを確認したことがありませんw

ぜひ、皆さんも投票済証をもらって、「私のところはこんな投票済証なんだ」と確認してみてください。せっかくなので、ゲットした投票済証は、Facebook等で公開してみてくださいw

ただし、投票済証は投票所で係りの人に申し出ないともらえません。もちろん、投票が済んだ後でもらってくださいね。



投票用紙にも、ある細工が

さて、何気なく扱っている投票用紙にも、隠れた細工がなされています。

1枚1枚確認しなければならない集計作業を効率よく行うために、投票用紙には「形状復元紙」が使われています。

 

候補者の氏名を記入した後、多くの人は投票用紙を二つ折りにして投票箱に入れることでしょう。この二つに折られた投票用紙は投票箱の中で「形状復元」つまり、二つ折りの状態から元の状態に戻るのです(こっそりと)。

 

 

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最下位が二人いたときは、どうする?

「1票の重み」とはよく言われる言葉ですが、本年11月16日に執行された舞鶴市議会議員選挙では、定数28名のところに、28番目得票者が二人でるという異例の事態が発生しました。俗にいう「最下位が二人いる」状態です。


 このような事態が発生すると、市の選挙管理委員会は大わらわになります。まずは、徹底的に無効票を調べねばなりません。なにしろ、無効票のうち1票でも有効票が出てくれば結果は変わりますから。
 舞鶴市議会議員選挙では、無効票はありませんでした。両者ともに1057票。

 

そこで、伝説の公職選挙法第95条第2項が出てくるのです。
それこそが「くじ引き」 

公職選挙法第95条第2項

当選人を定めるにあたり得票数が同じであるときは、選挙会において、選挙長がくじで定める。

 両者の届出番号を書いた紙を箱の中に入れて、選挙管理委員長がこれを引くことになるのですが……いくら規則とは言え、委員長も心中穏やかではないでしょうね。

 

 

選挙七つ道具

選挙期間中の選挙活動は、朝の8時から始めて構いません。
ところが、選挙初日は朝8時から選挙カーが動くことはありません。なぜなら、「選挙7つ道具」が選挙管理委員会から届かない限り、選挙カーを動かすことができないからです。

この選挙7つ道具とは、

 ①選挙事務所の標札

 ②選挙運動用自動車・船舶表示板

 ③選挙運動用拡声機表示板

 ④自動車・船舶乗車船用腕章

 ⑤街頭演説用標旗

 ⑥街頭演説用腕章

 ⑦個人演説会用立札等の表示

を指します。

 例えば、私もそうですが、選挙カーに乗っている「候補者」はシートベルトをしめなくても構いません。普通に考えれば道路交通法違反ですが、この7つ道具の(どれか)をつけることで免除されているのです。

ただし、選挙カーから身を乗り出して手を振る行為は、ダメですw
(程度の問題ですが)

 

 

 

1票の格差?

日本で一番人口の多い村は沖縄県読谷村で人口3万9000人。逆に、日本で一番人口の少ない村は東京都青ヶ島村で、人口201人。

ぐるりを山に囲まれた・・・ファイナルファンタジーの世界に出てきそうな島でして、一度でいいから行ってみたい場所です。

 

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小さくても立派なひとつの自治体ですので、村議会も存在します。定数は6名。
昨年、任期満了につき村議会議員選挙が執行されました。

その結果はこちらから

う~ん……なんというかw

 

 

 

選挙に行ってオマケをもらう?

先だって行われた沖縄県知事選挙では「選挙割」とのイベントが行われました。先ほど申した「投票済証」をゲットして、飲食店で見せると1000円割引になるというもの。詳しくはこちらから

 

同様の取り組みは、過去にもさまざまな場所で行われました。

横浜市の「センキョ割」や、岩手県の「未来はぼくらの手の中プロジェクト」など。

 

中には、箱根ホテル小湧園のように、投票済証を提示すると宿泊料金が50%安くなるというサービスをつけているところも。

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投票済証はどの自治体のものでも良さそうですが、要確認ですね)

 

特典があるから行く、ないから行かないというものでもありませんが、国民の権利・義務として投票を行い、ついでに特典も味わうというのは乙なものかもしれません。

地方に国会議員はいりません・・・と主張する最高裁

最高裁の「1票の格差判決」について思うこと

 先だって出された最高裁の「1票の格差判決」は、2つの点で納得がいかないものでした。

ひとつは、裁判官の付則意見の中に「人口が少ない地域には、もはや国会議員はいらない」としか理解できない意見が多数見られた点です。

 

もうひとつは、「そもそも1票の格差とは何か?」という根本的な疑問を明らかにしないまま、それを自明のものとして扱い違憲判決を出すという、まさに『タメにする議論』がまかり通っている点です。

 

 

現在の「1票の格差」は信用の置けない指標である

そもそも1票の格差はどのようにして求められるのでしょう。

2012年の衆議院選挙を例にとりましょう。


千葉4区は最も有権者の多いところで、その数は49万7350人。これに対して高知3区は最も有権者の少ないところで、20万5461人でした。人口の多い選挙区でも少ない選挙区でも選ばれる国会議員は1人です。したがって、高知3区の1票は価値があり、千葉4区の1票は価値が小さくなると考えられ、その格差は、

 (最も有権者の多い選挙区の有権者数)÷(最も有権者の少ない選挙区の有権者数)
と計算します。

具体的には、

 (千葉4区の有権者数)÷(高知3区の有権者数)=2.42
したがって、2012年の衆議院選挙における「1票の格差=2.42倍」と求めるのです。

 


さて、私が納得できない最初のポイントは、この「格差=最高値÷最低値」という計算式そのものです。

「格差」とは不平等の程度を表すものです。不平等の程度を表すために「最高値÷最低値」といった手法を用いることは通常ありえません。

 

例えば「経済格差」を表現するために、2014年フォーブス長者番付で日本人トップであった孫正義氏の資産2兆488億円を最高値、最低値を1円とし、
 (最高値)÷(最低値)
 =2兆488億円÷1円
 =2兆488億倍
と計算して「日本の経済格差は、2兆488億倍だ!」と主張するようなものです。経済格差を求める方法としては、通常は、「ジニ係数」を用いますが、最高値を最低値で割るような単純な方法でありません。



最高裁はなぜこのような指標を用いるのでしょうか。

 

その理由を、かつての最高裁は、

「2倍という数字は理論的、絶対的な基準とまでは言えない」

「2倍という数字は、常識的で分かりやすい」

と控えめに述べていました。つまり、最高値を最低値で割るという方法が理論的ではないこと、そして2倍という数値が基準としては「単にわかりやすいから使っているに過ぎない」ことを最高裁自身も認めていたのです。

しかし、今回の判決文では、もはやそのような控えめさは全く見られず、ただひたすらに(最高値)÷(最低値)で求められた数字だけを頼りに違憲判決を出しています。

 

実は、経済学における「ジニ係数」と同様の手法が政治学にもあり、より実態に近い「1票の格差」を計算する手法は開発されています(LH法など)。最高裁は、違憲判決を出すのであれば合理的な手法により格差を求めてから出して欲しいものです。

 

 

 

「1票の格差」をスタートラインに置くべきなのか?

今回の判決において、山本庸幸裁判官は反対意見で次のように述べています。

「投票価値の平等は他に優先する唯一、絶対的な基準として守られるべき」

 

これは、憲法の「法の下の平等」から導き出されるものですが、この平等原理を議論のスタートラインに置くべきなのでしょうか。私たちはそこから議論を始めなければならないと思うのです。

 

例えば、「地方自治の本旨」から議論をスタートしてみてはどうでしょう。

 

現在の「都道府県を単位とする選挙区割り」を、かつての最高裁地方自治の本旨に基づくものとして評価していました。

(※)2004年の最高裁判決の補足意見「政治的にまとまりのある単位を構成する住民の意思を集約的に反映させることにより地方自治の本旨に適うようにしていこうとする従来の都道府県単位の選挙区が果たしてきた意義ないし機能」と評価している。

「私たちの住む地域は私たちの手で良いものにする」との地方自治の延長線上に、「我々の代表を国政へ送り出し、我々の声を国政に反映させる」との考え方があります。

 

例えば、アメリカの上院議員選挙では、人口の多寡にかかわらず各州2名の上院議員が選出されます。人口最大のカリフォルニア州でも最小のワイオミング州でも州から選出される上院議員は2名です。したがって、1票の格差は68倍と凄まじいものになっています。それでも、アメリカ合衆国憲法では「各州2人」と厳然と定められています。これは、州が独立の単位として存在するアメリカならではの事情もありますが、我が国においても、都道府県を地方自治の単位とするのであれば、1票の格差は許容されるべきではないでしょうか。

(※)ちなみに、アメリカ上院選挙方式を我が国にも適用して、「都道府県単位で3名」といった参議院議員選挙をすべきだとの主張があります。これに対して、憲法法の下の平等を重視する立場の論者からは、その方式は憲法違反であり憲法を改正しなければ導入できないとの反論が根強く出されています。

 

重要なことは、「我々の意思を国政にどのように反映させるか」という点です。

 

今回の最高裁判所の判決では、

 ①国民の意思を適正に反映させることが大事だ。

 ②適正に反映させるとは1票の格差を是正することだ。

 ③是正するためには、都道府県単位の選挙区を改めるべきだ

との論理展開になっています。

これは「国民の平等原理」に基づくものです。

 

ならば、「都道府県の平等原理」に基づくとどうなるのでしょうか。

 ①地方自治の本旨都道府県単位にある。

 ②地方自治を通した国民の意思を適正に反映させることが大事だ。

 ③そのためには、国民ひとりの「1票の格差」は容認せざるを得ない。

との論旨も展開できるのではありませんか?

 

20世紀を代表する思想家オルテガは、その主著『大衆の反逆』の中で、こう主張しています。

「選挙制度が適切ならば何もかもうまくいく」

 

大衆の反逆 (中公クラシックス)

大衆の反逆 (中公クラシックス)

 

 

本当の意味で「都道府県の平等原理」を実現するためには、道州制の在り方なども含めた国民的な議論が必要です。そういった議論の延長線上に1票の格差問題は解決されるべきです。先ほどのオルテガの言葉は「適切な選挙制度とは、そういった『国の在り方』を考えて選挙制度を構築すればうまくいく」と理解すべきであり、最高裁判決のように「投票価値の平等を実現するために選挙制度を変える」ことにより適正な選挙制度は達成できないのです。

 

(※)蛇足ですが、福井県議会議員は区割りがされていますが、県議会議員選挙における「1票の格差」は憲法違反に問われないのでしょうか?

 

 

 

 

奢るな、最高裁


まず、最高裁が出した「違憲状態」と「違憲判決」の違いを押さえてください。

違憲状態」とは、「1票の格差が限りなく憲法違反に近い状態である」との意味です。これに対して「違憲判決」とは「1票の格差は憲法違反である」と認めることです。更に、憲法違反の状態でなされた選挙は無効です。無効な選挙によって選出された国会議員は、当然にその身分を失う結果となります。

 

最高裁は、これまで選挙無効の判決を下したことはありません。

(※)厳密には、1945年に大日本帝国憲法下で鹿児島2区衆議院選挙大審院が無効判決を出したことがあります。また、2013年に広島高裁岡山支部にて衆議院選挙の無効判決が出ました。

選挙無効の判決を出さない理由は、選挙のやり直しという前代未聞の時代が引き起こす混乱に加えて、「裁判所は『非民主的』存在であること」を最高裁が、わきまえていたからでしょう。

 

裁判官は民意によって選ばれた者ではないがゆえに、裁判所は「非民主的」存在です。これはプラスの側面とマイナスの側面があります。

 

司法は、多数決民主主義に支配されないという意味でプラスなのです。国民のムードや論調によって判決が左右されることがあってはいけません。お隣の韓国では目下、産経新聞ソウル支局長が「大統領を侮辱した」として訴えられていますが、このように政治状況や国民のムードで司法が揺れ動くことは大きな問題です。

 

同時に、多数決民主主義に支配されないという意味で、最高裁には一定の抑制が求められます。そこを超えて「司法の暴走」が始まった場合、15人の裁判官の考え方が日本を規律することになります。

 

今回の判決で木内道祥裁判官は次のように述べています。

 「選挙を無効とする選挙区を選ぶ規律は熟していない。一部の選挙区のみを無効とはせず、全選挙区の違法を宣言するのにとどめるのが相当だ」

 

何という傲慢さ。

理論的な根拠の乏しい「最大値÷最低値」で割り出した数値を基にして、選挙無効の判決の与える重大さも考慮せずに、「無効とする選挙区を選ぶ規律は熟していない」と吐き捨てるとは。

 

奢るな!最高裁!!

 

 

解散に「大義」は必要なのだろうか?

「大義なき解散」と人は言うけれど

今回の衆議院解散に関してマスコミは「大義なき解散」と言うのですが、

「あなたの言う『大義』ってなに?」

という疑問に答えてくれる論者・コメンテーターは少ないものです。

 

 

 

「消費税増税の先送り」を問うことは「大義」ではないのか?

マスコミの中には「今回の衆院選挙はアベノミクスに対する審判だ」という論調もあります。これは正しいでしょう。

 

私は、消費税増税の先送りこそが『大義』の名に相応しいと考えています。前回の野田政権(民主党)の解散総選挙までやった三党合意があるわけです。消費税は10%に上げるという内容の三党合意が。これを大きく修正することが、今回の解散総選挙の中心的な論点になるのではありませんか?


アベノミクスの腰を折ったのは、まちがいなく消費税を8%に増税したことでした。この調子で10%に上げられたのでは、景気の減速は確実でしょう。ならば、三党合意を反故にしてでも、10%増税を先延ばしにしなければならない。その信を国民に問う。これほど明確な「大義」はありません。

 

■解散は総理大臣の専権事項です

そもそも衆議院の解散とは、どのような意味合いを持つのか。これは三権分立論で語られるべきです。

 

内閣の考える方向性と国会の進む方向性が異なったときは、内閣総理大臣衆議院を解散するより他にありません。つまり、内閣の方向性を国民が支持するか否かを国民に問うのです。その典型例が小泉内閣による郵政解散でした。小泉内閣は郵政改革を断行する理由を、衆議院総選挙における圧倒的な勝利に求めたのです。

 

国会議員の中にも「粛々と消費税を10%に増税すべきだ」との考えを持つ議員が数多くいます。それら議員の考えを覆して「現在の景気動向を見れば、消費税10%への増税は先送りすべきだ」との内閣の考え方を押し進めるためには、国民の支持が必要になります。

ならば、解散総選挙に踏み切るより他にないでしょう。

 

そもそも解散は内閣総理大臣の専権事項であり、かつ、本来的に大義など必要もないことのなのです。

 

党利党略?

「今回の解散は自民党の党利党略だ」とマスコミや野党は批判します。

選挙なんて党利党略でやるに決まってるじゃないですか。野党の人々は何て言ってますか?「うちはまだ準備ができてない」これも党利党略ですよ。みんなの党が解党してみたり、生活の党から民主党へ鞍替えしてみたり右往左往の体ですが、「こんな急いで解散するなよ」というボヤキだって党利党略です。

 

秘密情報保護法案が成立したときや、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときにマスコミの人々は何て言いました?
解散総選挙をして国民に信を問うべきだ」

はい、その解散総選挙がやってきましたよ?なぜ、マスコミの人々は反対するのです?
「こんな急に解散するなよ」

「まだ国民への煽りができてないじゃないか」

と野党の皆さんのように仰るつもりですか?


600円で安倍内閣の方針を後押ししてみませんか?

皆さんは、今の段階で消費税を10%に上げることに賛成ですか?
私は到底賛成できません。8%に値上げしたことによる景気の中折れは指標でも明らかです。せっかくのアベノミクス増税で中折れした。

 

しかし、与党自民党の中にも「粛々と10%に値上げせよ」という勢力は、谷垣幹事長をはじめとして根強く存在します。なにより財務省がそれを強力にプッシュしています。

これを覆すのは並大抵のことではありません。

要するに、安倍内閣は「国民の力を貸してくれ」と言ってるわけです。解散総選挙で、「消費税10%の増税は先延ばしにする」との安倍内閣の方針を、国民が圧倒的に支持するのであれば、先延ばしは実現できるのです。

 

衆議院解散総選挙にともなう予算は700億円。「700億円の無駄遣い」とマスコミは騒ぎだてますが、国民ひとりの負担額としては600円です。600円を払って安倍内閣の「消費税増税は先送りする。まずは景気回復を優先する」との主張を後押ししませんか?