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月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

《後編》「神話」としての自治体  -そもそも自治体とはなにかー

素朴な疑問

13年の間、市議会議員として自治体を眺め、行政を見続けながら、いくつかの素朴な疑問にぶち当たることがありました。
「なぜ行政のやることは、うまくいかないのだろう」
「なぜ行政と市民との協働はうまくいかないのだろう」

あるとき、ふと思い至りました。
「行政スタッフが無能だからではない」
「これは『行政という制度設計』のせいだ」

行政スタッフが無能であるなら、もはや手の施しようはありません。しかし、事態はそうではありませんでした。彼らは有能でやる気もあります。

自治体にとって最大の敵は『自治体という制度設計』そして、『行政という制度設計』でした。そして、原因が制度設計にあるのならば、われわれはそれを克服することができるはずです。


コーディネーション、モチベーション

 自治体は、利害を一にしない人々の集合体です。自治体の中の行政部門が、すべてを取り仕切り、それでうまくいくのであれば物事は簡単です。しかし、現実にはそうではありません。市民、市民団体、企業等々の様々な人々と行政が協働して、自治体は運営されています。

 この協働は、ひとつの宿命的な問いを私たちに投げかけます。
「人を動かすときに、どのようにして動機づけ、共通の目標へ導くのか」
人を動機づけ、共通の目標へ導き、活動へ誘う。この仕組みをどのように設計するのかとの問題です。
 人を動機づけることはモチベーションの問題です。共通の目標へ導き、活動へと誘うことはコーディネーションの問題です。この二つを同時に解決しなければならないのですが、事はそう単純なものではありません。
 なぜなら、一般的に、コーディネーションは指揮官の権限を強大化することで高まりますが、モチベーションは現場の人々の権限を強めることで高まるからです。コーディネーションとモチベーションは対立する概念なのです。


これは自治体だけでなく、企業やNPOにとどまらず、すべての組織に当てはまる問題です。

例えば、コーディネーションとモチベーションのどちらを強化するのかという視点から、企業をアメリカ型と日本型に類型してみます。

アメリカ型企業においては、コーディネーションが強化される傾向があります。上司が部下に対して生殺与奪の権限を持ち、誰が決定権を持つのかを明確にします。このような組織では、企業戦略が決定されたら、後は、徹底的にそれを実施することが求められます。

このアメリカ型企業においては、2点の問題が生じます。
ひとつは、絶大な権限を握る最高指揮官の権限をいかに統制するのかという問題です。もうひとつは、置き換え可能とみなされる社員のモチベーションをどのように維持していくのかという問題でしょう。


これに対して、日本型企業はモチベーションが強化される傾向にあります。コンセンサスを重視し、現場の意思を重要視する日本企業は、現場で働く人々にとっては最高の環境です。常に新規の商品を企画して、市場に投入する日本企業は、商品という目に見えるものを追いかけます。多くの社員が開発、製造、営業の実務に動員され、具体的で明確な目標(商品を作り、売る)という仕事に従事します。チームとしての達成感は言うことがありません。

(余談です)
逆説的ですが、日本型企業に大型定番商品が少ないのは、新規商品を次々に投入することに原因があるように思われます。アメリカは、大型定番商品が存在します。ソーダ―でコカコーラ、ビールでバドワイザー、鎮痛剤ではタイレノールといったように。
こういった大型定番商品を育て、そのマーケティングに力を注ぐのはアメリカ企業の得意とするところです。そういった商品は持続的に高収益を上げますから。
 アメリカのホワイト・キャッスルはアイスクリームとハンバーガーのチェーン店ですが、一度としてポジションを変えていません。店舗外装は、およそ1世紀近くにわたって変わっていませんし、これといって特徴のないチェーン店ですが、アメリカ人ならば誰でも知っている店であり、年間収益でバーガーキングを上回りマクドナルドに次ぐ2位の地位を占めています。


日本型経営は、次の2つの問題を抱え込みます。
ひとつは、戦略性に欠けるということ。時間軸で同一企業が違うことをやりはじめるちぐはぐさ、同じ企業内で生じる部門間でのばらばらさ、戦略が行き届かず、コーディネートされていないために生じる問題です。
もうひとつは、人材育成の点です。日本型キャリアシステムは、最強の職能部長を養成するためのものです。事業部長、企業役員、社長という戦略家を作り出すためのものではありません。


さて、そこで質問です。
自治体という組織体は、アメリカ型経営の特徴を持っているのか、日本型経営の特徴を持っているのか、どちらでしょうか。

私のみるところ、アメリカ型経営の「デメリット」と日本型経営の「デメリット」を併せ持つのが自治体組織の特徴です。

自治体には首長が存在し、強力なリーダーシップで自治体経営を行っているのだから、アメリカ型経営に近いのではないか?と思われた方は、自治体と行政とを同列に考えています。
確かに、行政において首長の存在は絶対です。その意に染まぬ行為は許されないでしょう。しかし、自治体を構成するものは行政だけではありません。行政は、市民、市民団体、企業等々と協働しなければならないのです。
「行政 笛吹けど、市民 踊らず」
とは、組織の構成員のモチベーションが上がらない、アメリカ型経営のデメリットを如実に表しています。


そして、自治体は、日本型経営のデメリットも併せ持ちます。

自治体の内部では様々な諸活動が行われています。現場の人々は意を尽くし、まちづくり活動やイベントを行います。
ところが、そういったまちづくり活動やイベントを実施し続ける人々から聞かれる言葉は、疲労感に満ちています。「何のためにやっているのか、わからなくなる」「この活動はいつまでやればいいのだろう」……なぜ、そのような言葉が現場から出てくるのか。それは、その活動に「意味を与える何か」が欠けているからです。もちろん、欠けているものが「戦略」なのですが。




それでは、なぜ、自治体がこのような特徴を持つのでしょうか。

それは、次の2つの理由にあると考えます。
 (1)もともと、自治体には明確な目標が存在しない
 (2)もともと、自治体にはそれを達成する手段もない

 
この辺りを、もう少し掘り下げて考えてみましょう。




自治体には明確な目標が存在しない

自治体経営」という言葉を、私たちは当たり前のように使います。そして、経営には「経営戦略」が必要だ。したがって、自治体経営には経営戦略が必要だ………との三段論法も当たり前に使います。

ところが、自治体経営には経営戦略が必要だと主張する人々は、ある基本的な点を見逃してこれを論じているようです。
それは、「企業と異なり、自治体には明確な目標が存在しない」ことです。

「そんな馬鹿な話があるか。自治体はそれぞれ中長期の戦略目標を立てて、それを政策に落とし込んでいるではないか」との異論を持たれる方もいるでしょう。確かに、自治体は様々な計画を作り、その達成に向けて政策を立案・実行します。
しかし、それは企業も同じこと。中長期の計画を立てて事業化していくのです。
ただし、企業が持つ「利益の追求」に匹敵するだけの目標を自治体は持ち合わせていません。



なぜ、自治体には明確な目標が存在しないのか。それは国との関係が大きな影響を及ぼすからです。



自治体は地方政府なのか?

自治体はどのような組織なのか。これを考えるために、ひとつの問いを立ててみましょう。
自治体は、地方政府ですか?」
住民自治という地方自治の理念から考えるならば、本来、自治体は地方政府としての活動を期待されるべきです。

しかし、自治体は地方政府ではありません。
地方政府であるならば、市民は政治的な価値判断を行い、自治体を政治的に運営できるはずです。江戸時代の「藩」であったり、西部開拓時代の中西部のタウンといった存在が、本来の地方政府の位置づけになるのでしょう。

仮に、自治体が地方政府として活動し、「自分たちのことは自分たちで決める」というのであれば、自治体の構成員である市民は、実に多くのことを決めねばなりません。教育、土木、民生、衛生、防災等々の諸問題を、下手すればゼロから、すなわち制度設計の点から判断することになります。
しかし、実務でそのような事態は発生しません。なぜなら、国が政策の「標準化」を行うからです。具体的には、国の法律が自治体に努力義務を課したり、政策奨励的な国庫補助金が交付されたり、地方交付税基準財政需要額に算入されたりと、国の意思は様々な形で自治体に影響を及ぼしています。

要するに、市民による政治的価値選択の必要性が不要になるよう、国が政策の方向付けを予めしてしまっているのです。

したがって、原発再稼働問題、産業廃棄物処理場の建設、小中学校の統廃合といった例外的問題を除いて、市民が政治的価値判断を下さねばならない事例は、ほとんどありません。


国と自治体との関係は、ある意味、自治体と町内会との関係にも似ています。
町内会は自治組織です。自治組織であるならば、自分たちのことは自分たちで決められるはずです。実際に町内会は規約を作り、組織を構成し、役員会・総会で意思決定を行います。
しかし、現実問題として、町内会が独自に決められる範囲は限定されています。ゴミを出す曜日は自治体が指定してきます。防災、介護、地域公共交通等々の諸問題は、自治体が標準化しています。町内会で決められることは、町内会内部の細々とした内容に限られているのです。

興味深いことに、「自治体から若者が離れていく」という問題と「町内会の加入率が年々低下していく」という問題は、見事なほどパラレルな構造を持っています。

自治体は確かに独立した法人です。しかし、国が政策標準化を各分野で行う現状では、もはや自治体に明確な目標が存在しないのも当然なのです。町内会に明確な目標が存在しないように。

自治体が町内会に期待していることは何でしょう。
それは町内会内部のマネジメントです。
国が自治体に期待していることも同じでした。
自治体が突出することなど望んでいません。
自治体内部のマネジメントをちゃんとやっていてくれさえすれば良かったのです。

少なくとも、高度経済成長の時代にはこれで良かった。
学校を作り、道路を整備し、公民館を備え、上下水道を整えていき……と、必要なものは政策標準化で国が定めて、自治体に求められるのは、標準化された政策のマネジメントでした。

ところが、少子高齢化と人口減少、そして日本国自体が低成長になった現在、政策標準化の枠組みだけは依然として残され、そして、その状況下で「地方創生」が求められています。





国土分割の境界線としての自治体区域

アメリカには自治体の存在しない区域があります。未法人化区域と呼ばれますが、日本にはこのような未法人化区域はありません。国土が隙間なく自治体で埋め尽くされた、言うなれば「分割された国土」として自治体は存在します。

極論を申すならば、自治体の「区域」は国土を分割した「境界線」以上の意味を持ちません。それは、自治体に解散規定がないことからも明らかです。
すべての組織は規約に解散規定を持ちます。町内会であれ、企業であれ。自治体は企業と同じく法人であり、企業が解散規定を持つのであれば、自治体にも解散規定があってしかるべきです。しかし、自治体内の住民がすべて転出して、住民がゼロになるといった究極の状態が発生しても自治体は自然消滅しません。なぜなら、それは国土の中に身法人化区域を発生させることを意味し、許されないからです。


そして、自治体をこのように位置づける制度設計は、日本全国一律の行政サービスを可能にしました。
なぜ、地方交付税といった財政調整調整制度があるのでしょう。財政調整制度の趣旨は、自治体の財源に著しい地域差があるためと説明されます。地方税の税源が均等ではないため、全国どの市町村でも同一水準の一般財源を保障するために財政調整制度はあるのだと。
では、なぜ同一水準の一般財源を保障する必要があるのでしょう。それは、国土のどこに住んでいても同じサービスを保障するためです。どこに住んでいても同様の教育を受けられ、蛇口をひねれば新鮮な水が出てくる。そういった均質なサービスを可能にするためです。

しかし、日本全国一律の行政サービスを担保するということは、必然的に、自治体相互間での機能的差異を禁止することを意味します。どの自治体であろうと、行政サービスや規制内容について、自治体ごとに異なってはいけません。




自治体「区域」を巡る「ちぐはぐさ」


前述したように、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。自治体間のサービスの差異は否定され、国土に一律の行政サービスが実施されます。

この秩序の下では、納税者である住民や企業は、自治体からの転出動機を失います。全国一律の行政サービスが展開される以上、現在住んでいる自治体よりも望ましい行政サービスを持つ自治体は原則存在しないためです。もちろん、個々の自治体の行政運営の上手/下手によりサービスの程度は多少異なるでしょう。しかし、居住地移転のコストを上回るだけの、自治体間の差別化のメリットは存在しません。

念のために申し上げますが、上記は自治体間競争としての話です。勝山市と他市町村との行政サービスには根本的な差異がない以上、どこに住もうと同じサービスは担保されるはずです。したがって、「より良いサービスを目指して自治体間を移動する」といった事態が、そもそも発生しないのです。

《中編》で「若者の流入出は、自治体間競争ではない」と述べたことを思い出してください。若者が渋谷に住むのは、「渋谷区」に住みたいからではありません。渋谷区が勝山市よりも優れた行政サービスを実施しているからでもありません。若者は自治体選択でなく、別な理由から都会へ向かいます。

若者の転出は、自治体間のサービスの差異を理由としていません。にもかかわらず、自治体は、自治体間のサービスの差異で転出を止めようとします。

この「ちぐはぐさ」が、自治体実務において、若者定住策の効果が上がらない構造的原因です。




これに対応するには、自治体は「個別的政策的の差異」ではなく、自治体そのものの差別化」を図るべきなのです。商品の違いを売り込むのではなく、会社そのものの違いを売り込んだApple社のように。

そして、この「自治体そのものの差別化を図る」との方向性は、自治体の「区域」のもうひとつの意味からも正しいといえます。

国家にとって、自治体の「区域」は国土を分割する「境界」としての役割以上を持ちません。しかし、住民にとっては、アイデンティティを付与する強固な地盤となります。平成の大合併で誕生した自治体の内部で、合併以前の自治体の縄張り争いが起きるのも、旧自治体の「区域」が地元住民にとってのアイデンティティであるからです。

自治体の「区域」は「ふるさと」と位置づけられ、若者へ訴えかけます。「ふるさとに帰っておいで」と。
ふるさとは唯一無二のものです。ならば、その価値を具現化し訴えかける手法も唯一無二のものであって良いはず。つまり、若者が流入しやすいように「自治体の構造そのものを変える」くらいの手法を用いて、差別化を図っても然るべきでしょう。

しかし、自治体の「区域」は、自治体間の横並びの構造を崩すことができません。住宅補助金や新築補助金といった個別的政策の差異で勝負するのみです。若者の心に「勝山へ帰ろう」との言葉を植えつけるだけの力強さに欠けます。


どこがボトルネックなのでしょうか。
ここまでお読みいただいた方は、すでにおわかりのことでしょう。
自治体に対して国が行う「政策の標準化」です。


ならば、われわれはどうすれば良いのでしょうか。
国の地方自治制度を変えなければ物事がすすまない……というのであれば、この話はここで止まってしまいます。

対応策としては、次の3点を推し進めるべきと考えます。
(1)自治体そのものの差別化を図る。
(2)そのために、シビルマクシマムの考え方に立つ。
(3)「公権力行使の独占論」を骨抜きにする




自治体そのものの差別化を図る

自治体そのものの差別化を図るとは、具体的に言えば「私たちの自治体は〇〇だ」と宣言することです。

ただし、ここで思い出していただきたい。
《中編》で述べたように、誰も反論できないような宣言には意味がありません。
 「私たちの自治体は面白いものがたくさんあります」
 「私たちの自治体には美味しいものがたくさんあります」
 「私たちの自治体では、住民は笑顔で暮らしています」
誰も否定できない宣言文ばかりです。誰も否定できないがゆえに、誰の心にも届きません。

われわれが目指すべきは差別化であって、差異化ではありません。

あなたがダイエットに興味があるとします。本屋へ行けば、様々なダイエット本があなたの目に飛び込んでくるでしょう。
 「〇〇式ダイエット」
 「30日でやせるダイエット」
 「食べなくてもやせるダイエット」
これらは一見すると、それぞれが差別化をアピールしているようにも見えますが、大きな違いは見当たりません。思い返してください。われわれは若者の心の中に「たったひとつの言葉」を植えつけようとしています。比較検討されるような言葉では、差別化になっていません。

ならば、どのような言葉を紡ぐのか。

(1)顧客を絞る
 (例)妊娠直後のダイエット、50代の体力を70台まで維持する運動プログラム…etc

(2)ベネフィットを絞る
 (例)お腹周りが5㎝絞れる、足やせダイエット…etc

(3)関係性の強化
→クライアントとの関係性の強化。クライアントの求めるものをどの程度達成しているか。「あなたのこれまでを作ってきた〇〇、これからのあなたをサポートし続ける〇まる」
このビジネスモデルを作ったのが、ベネッセであることを思い出しましょう。ベネッセは、時間軸でのビジネスモデルを作り上げました。「たまごクラブ」から受験までをカバーするモデルは、前身の福武書店ではできなかったことです。

(4)ゴールの差別化
 →最終地点の差別化。ベネフィットが直近の結果を約束するのに対して、ゴールは最終地点の結果を約束する。

現在、自治体が紡いでいる言葉は、この4点の中の(3)「関係性の強化」に過ぎません。それも、顧客(市民)からすれば選択したものではなく、単に「勝山市に生まれたから」と、運命論的なものにとどまりまります。


では、この言葉を紡ぐためには、どのような戦略を立てて差別化を図るべきでしょうか。
それがシビル・マクシマムの創造になります。




シビル・マクシマムの創造

国は「政策の標準化」を通して、国の意思を自治体へ及ぼします。その結果、国が政策の方向付けを予め行っているために、市民による政治的価値選択は不要となります。


市長選挙に出馬した経験から申し上げますが、市長選挙公約に「政治的価値判断」が出てくることは極めて稀です。
中部縦貫自動車道の早期開通」「第二恐竜博物館の誘致」といった公約は、単に公共事業に関する公約であり、政治的価値判断ではありません。政治的価値判断とは、「勝山市をどういったまちにするのか」というビジョンとそこへ辿り着くための戦略です。


しかし、大概の自治体において、市長選挙の公約は
 「若者が帰ってくるまちづくり」
 「高齢者にやさしいまちの実現」
といった「ぼんやりとした公約」の羅列に終わるのが普通です。
国の「政策標準化」の威力はそこまで強いのです。

よく市長選挙で言われる言葉が
「誰が市長になったところで、何も変わらないよ」
その通りです。そういう国づくりを、自治体制度設計を、国は行ってきたのですから。


ならば、どうすれば良いのか。
「政策標準化」と「横並び」という国の枠組みに抵触することなく、自治体を変える方法はあるのか。

逆手に取ることです。

シビル・ミニマムを逆手にとって、シビル・マクシマムを創造するのです。
シビル・ミニマムとは、自治体が住民のために備えなければならない最低限の生活環境を指します。全国どの自治体でも提供される、同一水準の画一的な行政サービスを指し、まさに国の政策標準化と横並びの構造です。

自治体は様々なサービスを住民に提供します。教育、交通、介護、福祉、土木、衛生、消防等々。その分野のどれかひとつで良いので、日本最高水準を目指してください。
それが私のいうシビル・マクシマムです。

これは、口で言うほど簡単なものではありません。

「私たちの自治体は、公共交通の住民負荷が全国最小の自治体です」
と宣言してみましょう。自治体内の住民が、子供からお年寄りまで自由に公共交通を使い、その負荷がない。そのような自治体がこれまで存在したでしょうか。
もちろん、そのような自治体であれば、人の移動の自由さが「人・モノ・サービス」の自由化へつながる政策を容易に打てるはずです。

「私たちの自治体は、子供たちに学校教育内容を100%理解させて卒業させる、日本で唯一の自治体です」
と宣言してみるのも良いかもしれません。ただし、県教育委員会との軋轢や予算措置を覚悟してください。
しかし、親世代には「子供を育てるなら〇〇市だ」との強烈な言葉を植えつけることでしょう。

「私たちの自治体は、観光客に完全な満足を与える、日本で最高の自治体です」と宣言すると、何をしなくてはならないでしょう。観光客の満足度を最大限にするために、交通・飲食・宿泊とうとうのネットワーク整備を図らねばなりません。
「手ぶらで来てください。われわれは貴方の要望に全力で答えます」
それをやった自治体が存在したでしょうか。

高齢者福祉に特化したシビル・マクシマムも充分に考えられます。子育て世代に特化したものや、学習障害発達障害の児童・生徒への教育に特化したシビル・マクシマムも可能です。


「カテゴリーをつくれ」
《中編》で述べたカテゴリーとは、シビル・マクシマムの創造です。
新しいカテゴリーをつくり、自治体がその方向へ進む。どのカテゴリーを選ぶのか、そこにこそ、自治体の「戦略」が求められるのであり、この段階で初めて、市民はどのカテゴリーを選択するかというの政治的価値判断を行使することが可能となります。




ただし……戦略を立てても、それだけでシビル・マクシマムは創造できません。人材と資金が足りないのです。

人材と資金をどこから?
冒頭に掲げた問題がその解答を示すでしょう。自治体を構成する「行政と市民・市民団体・企業とのコーディネーション」です。




行政は市民や企業と協働できない

国の政策標準化は、自治体に強大な影響力を及ぼします。しかし、政策標準化の効果が及ばない領域も自治体内には存在します。

市民と企業です。
元々、政策標準化は自治体内の行政セクターに働きかけ、結果として市民生活に影響するするという形式をとります。したがって、国から直接働きかける制度、例えば年金・医療・介護等々を除き、政策標準化は自治体内部の行政セクターを対象とします。

さて、国の政策標準化を逆手にとってシビルマクシマムを実現しようとするとき、必要となるのは人材と資金です。この調達を図ろうとするならば、市民と企業と行政が協働して行うより方法はありません。
ところが、冒頭で「行政 笛吹けど、市民 踊らず」と申し上げたように、市民・企業と行政のコーディネーションは上手くいかないのが通常です。


なぜか。
それは簡単なお話で、そもそも行政は市民や企業と協働できないからです。

私の経験上、この話を自治体職員にすると、間違いなく嫌な顔をします。自治体職員の意識の中では「私たちは、市民や企業と協働している」との意識があるからです。それを否定するつもりもありませんし、自治体職員を責めているのでもありません。

「行政は市民や企業と協働できない」これは自治体職員や政治家の責任ではありません。そもそもの制度設計がそうなっているからです。

それが「公権力行使の独占論」です。



公権力行使の独占論

ひとつの思考実験をしてみましょう。

町内会が自治体の中にあります。
ある町内会長がひとつの提案をしました。
「俺たちは、自分たちの住んでいる地域のことを誰よりも知っている」
「ならば、町内会が結束して、行政に俺たちの要望を通そうじゃないか」
彼は、他の町内会長を説得して、自治体のすべての町内会が入る組織を作り上げ、「町内会連合会議」との名づけました。

こうなると、真っ先に骨抜きにされるのは議会です。
議員は地元の支持を得なければ当選できない。その地元の組織は一致団結して自治体全域を固めている。こうなると、議会はその町内会連合会議の意向を無視できません。

行政もこれには頭を悩ますでしょう。自治体内で施策を実施する際に、地元の同意は不可欠です。ところが町内会連合会議が一致団結して行政に歯向かう状態が出現したら、行政は施策を実施することができません。

この町内会連合会議は、次第に、力を発揮し始めて住民自治の理想を実現しようとします。
「来年度の、〇〇市の予算案を町内会連合会議に持ってきなさい」
「私たちの同意がないような予算案は、議会に働き掛けてボツにする」
ここまで来ると、実際に自治体を運営する隠然たる力を持つのは、住民の代表である町内会連合会でしょう。

彼らは自分たちが持った権力の大きさを十分に自覚しています。したがって、民主的な手続きを自ら定め、公平・公正に住民の意思を反映させようと努力し、実際にそれは実現されています。
しかし……どれほど、この町内会連合会議が力を高めようとも、彼らは絶対にある権限を得ることができません。

それが「公権力の行使」です。

公権力の行使の独占とは、行政処分や公の意思決定に関する事務は公務員に独占させるという考え方です。

考えてみれば不思議な話です。

住民自治を基本とする地方自治体ならば、先ほどの思考実験でいう町内会連合会が「公の意思決定」を行っても良いはずです。否、事実上の公の意思決定は彼らがしているのかもしれません。しかし、彼らは住民であり公務員でない以上、決して彼らが公権力を手にすることはできません。

公権力の行使は公務員が独占する。これは法が定める以前の話として強固なドグマを形成しています。

一例をあげましょう。外国人は日本国の公務員になることができるのか。この問題につき、1953年3月25日の内閣法制局はひとつの見解を示しました。
「法の明文の規定が存在するわけではないが、公務員に関する当然の法理として、公権力の行使または国家意思の形成への参画にたずさわる公務員となるためには、日本国籍を必要とするものと解するべきである」
国家意思の形成への参画は公務員に独占される、したがって、国民でない外国人が公務員になることはできない……と述べているのであり、公権力行使の独占は、明文規定がなくとも法理として当然のものと位置づけられています。

「行政は、公権力を独占する公務員により運営される」
「公権力を行使する以上は、不偏不党・公正・中立でなければならない」
この論理は、あたかも警察権の「民事不介入」のように、行政の出足を鈍らせ、行政と市民・企業との協働を阻みます。

行政が商工振興を図ろうとする際に、工場誘致の補助金を手厚くする、出店補助金を創設するといった補助金行政が一般的です。
なぜ、行政は補助金行政を行うのか。それは、不偏不党・公正・中立であるからです。「民間のことは民間で決めてもらう。行政はインセンティブを与えるのみである」
なぜなら、行政は公権力を扱うがゆえに民事不介入だからです。

行政自身が壁を作ってしまっています。
この壁が自治体内における「行政と市民・市民団体・企業」のコーディネーションを不全化し、シビル・マクシマムの実現を困難にします。

シビル・マクシマムが創造できない以上、自治体は明確に他自治体との差別化を打ち出すことはできません。差別化が打ち出せない以上、個別的政策の差異を訴えるより他に手段を持ちません。

それでは、若者の心の中に言葉を植えつけるどころか、子育て世代や高齢者に対してもインパクトを持たないでしょう。



エピローグ

私はこんなことを考えています。
不死の人間がいないように、不滅の組織もあり得ない。最善の組織もあり得ないし、最高の自治体も存在しない。
でも、それを目指すことはできるはずです。
戦後の高度経済成長を支えた地方制度の枠組みは、明らかに制度疲労を起こしています。しかし、国がその枠組みを変えてくれるのを待っていたのでは、われわれ地方の人間が死滅してしまう………ならば、法が定める枠組みの中で、換骨奪胎しながらやるより他にない。
そう思うのです。

《前編》《中編》《後編》と三回にわたって述べた後には、当然に、「公権力の独占論をいかに骨抜きにするのか」が次のテーマになります。

これについては、(誠に勝手ながら)別に論考の場を設け、そちらに譲ることに致します。
なぜなら、それこそが私が市長選挙で掲げた『行政2.0』そのものだからです。


『行政2.0』とは何か。ここでそれを述べることは致しません。次の話を出すことでご容赦ください。

経営学の歴史に詳しい方ならば、経営戦略理論には二つの潮流があることをご存知でしょう。
ひとつは、ポジショニングであり、ひとつはケイパビリティです。
ポジショニングとは、ざっくりとした説明になりますが「外部環境を重要視する」立場です。儲かる市場を探して儲かる立場を築けば、企業は利益が上がるではないか!と主張する説です。
ケイパビリティとは、「内部環境を重要視する」立場といえます。企業活動は人間的側面が強いのだ。組織としての強みなどを活かすことが重要だ!と主張する説です。


自治体が、どの分野でシビル・マクシマムを創造するのか。これはポジショニングの議論です。そして、自治体内部で行政と市民・市民団体・企業がどのようにコーディネーションされるのか。これを扱う『行政2.0』はケイパビリティの問題といえるでしょう。

どちらが大事かという問題ではなく、どちらも欠かすことのできない大事な問題です。


ポジショニングとして、どこを目指すのかを明らかにしない。
ケイパビリティとして、組織内のコーディネートがうまくできない。
このような自治体組織そのものを変えていかなければ、自治体内の人材が腐ってしまう。結果として、自治体の活力自体が失われていきます。

そういった自治体の姿そのものを変えていきたい。
それが私の見果てぬ夢でもあります。

















《中編》「神話」としての「勝山は魅力にあふれている」との定説 -われわれは誰に向かって発しているのかー

勝山市政 政治

前回の内容

前回の内容を振りかえってみましょう。
①人間の心理は複雑である。

②ゆえに、消費者は消費行動を起こす際に、自分の選択を明確に説明できない。


③地元に戻るか否かを選択する若者にも同様の心理が働いている。勝山を離れる若者は、自分の選択を明確に説明できない。


④「雇用の場がないから若者が戻らない」との定説は誤りである。

⑤「若者は地元に戻らないのが当たり前」と発想を転換し、それでも若者が戻ってくるような、市内・市外の若者に響く政策ゼロベースでつくるべきだ。



本稿は、下記の点を論じます。

(1)若者が勝山市へ戻るか否かは若者が決める。勝山市の「主戦場」は若者の心の中である。

(2)ところが、現在のやり方で、若者の心の中に「勝山は素晴らしい」との想いを刻みつけることはできない。

(3)なぜなら、若者の心に刻みつける「言葉」が間違っているし、そもそも「住んでみなければわからない」ような政策は意味がないからだ。

(4)勝山市がすべきは、新たなカテゴリーをつくることだ。






「私は買う」……そのとき、心の中にあるもの

「消費者は、自分の持つ消費欲求を言葉に説明できない」と繰り返し述べてきました。しかし、読まれている方の中に、このような疑問を持った方はいませんか?
「いや、そんなことはない。私は明確な目的を持って買っている」

その通りです。消費者の心の中には「なにか」がいます。消費行動をするとき、自分の心の中にある「なにか」に従って行動しています。


2年前に、我が家は車を買い替えました。20万キロ近く乗った車に愛着はありましたが、さすがに子供が大きくなってくるに従い、車が手狭になったからです。
買い替えるときに、我が妻はトヨタ車以外の選択肢を持ちませんでした。日産やホンダには目もくれません。妻曰く、「トヨタ車は、長持ちする」「トヨタ車は壊れにくい」「だから、私はトヨタ車を買う」

妻の論理展開は、とても興味深いものでした。妻の論理は詰まるところ次の2つの文章に尽きます。
トヨタ車はすばらしい」「だからトヨタ車を買う」
壊れにくい、長持ちする。そういった属性は単なる後付けに過ぎません。「トヨタ車は素晴らしい」との言葉こそが、わが妻の消費行動のスタートラインであり、これこそが、トヨタが我が妻の心に植えつけた「なにか」なのです。

そして、消費者の心の中にいる「なにか」とは、何でしょうか。


『売れるもマーケ 当たるもマーケ ーマーケティング22の法則―』の中で、著者アル・ライズとジャック・トラウトは次のように述べています。

「多くの人がマーケティングとは商品の戦いであると考えている。長い目で見れば結局、最良の商品が勝利するのだと。
   (中略)
 こうした考えは幻想である。客観的な現実というものは存在しないし、事実というものも存在しない。ベストの商品などありっこないのだ。マーケティングの世界に存在するのは、ただ、顧客や見込み客の心の中にある知覚だけである。知覚こそ現実であり、その他のものはすべて幻である
   (同書p38)」


私の経験上、この話をすると多くの方々が嫌な顔をされます。生産者や消費者を小馬鹿にされたような気分になるからでしょう。

それは違います。良い製品・サービスを作り出す努力を否定しているのではありません。「良い製品・サービスさえ提供していれば、それだけで市場で勝ち残れる」との思い込みは危険だと申し上げているのです。

 消費者に「これは良いものだ」と思い込ませれば勝ちなのだと、詐欺まがいのことを奨励しているのでもありません。良い製品・サービスを作り上げた後に、どうやって消費者の心に「これは良い製品・サービスだ」と認知してもらうのか。そのお話なのです。

 前回申したように、消費者は、自分の心の中にある消費欲求を言葉にできません。何かもやもやとした感情がそこにはあります。
 しかし、現実に、消費者はモノを買いサービスを選びます。そのとき、消費者の心の中には、「ある言葉」が発生しているはずです。わが妻が車を購入したときに、「トヨタ車はすばらしい」と考えていたように。
 前回の事例の中の、積水ハウスの「壁の薄さ」もそうです。何とは説明できないが、とにかく積水ハウスは嫌なのだ。その思いが「壁の薄さ」という言葉に象徴されて消費者から出てきました。買うにせよ買わないにせよ、われわれは自分の心の中の「ある言葉」に従って行動しています。

都会へ向かう若者たちも、地元に残る若者たちも、等しく自分の心の中の「ある言葉」に従って行動しているのです。

ならば、その「ある言葉」が「勝山市」と結びつくような形にすればいい。

それはどうやって?
そして、これは根本的な疑問なのですが、人の心を変えることなど簡単にできるのでしょうか?



「神話」としての「勝山は魅力にあふれている」との定説


前掲書の中で、著者はこう言っています。

会社が見込み客の心の中に一つの言葉を植えつける方法をみつけることができれば、信じがたいほどの成功を収めることが可能である。複雑な言葉である必要はない。独自な言葉である必要もない。辞書からすぐに引っ張り出せるような、簡単な言葉がベストである。
 (中略)
フェデラル・エクスプレス社は見込客の心の中に「翌日配送」という言葉を植えつけることに成功した。
 (中略)
食品会社のハインツは、「ケチャップ」という言葉を消費者の心に植えつけている。だが、同社はこれに満足せず、ケチャップの最も大事な属性を浮き彫りにすることにした。「どろりとしたケチャップ」という言葉を植えつけることによって、ハインツは50%のシェアを維持している。
     (前掲書 p50-52)

なるほど、つまり、著者にしたがうならば、われわれは「勝山市」を表現する簡単な言葉を探せば良いことになります。

勝山に生まれ育った若者たちには、どう表現すれば良いのでしょう。
「ふるさと勝山」
「歴史と文化など魅力あふれる場所」
他にもありそうです。
市外の若者に向けては?さすがに「ふるさと勝山」は使えませんが、
「素晴らしい自然の中での、エコライフ」
といったようなものは、どうでしょう。


しかし、これらの言葉を、前掲書の著者ライズとトラウトに見せたら、一笑にふされることでしょう。
「そんな言葉に何の意味があるんだい?」

私たちは、それに対して反対意見を唱える余地がないようなアイデアに焦点を絞り込むことはできないのである。例えば、あなたは自らを正直な政治家だと位置づけることはできない。なぜなら、それに対して進んで反対の立場をとろうとする人は、誰もいないからである(ただし、その可能性を秘めた候補者なら、わんさといるが)
 これに対して、自らを親ビジネス派とか、親労働派の候補者と位置付ければ、即座に認められるだろう。反対の立場にも支持者がいるからである。
     (前掲書 p58-59)

バッサリと斬られた後に、こんなことを言われるのかもしれません。

「誰も反対意見を唱えないような言葉は、何のインパクトもない。『私は正直者です』と言われても『ああ、そうですか』と答えるだけで、それは心の中に何も響かない。

 若者は全員勝山市で育っているのだろう?その若者に対して『ふるさと勝山』と叫んでも、『ええ、その通りです。僕のふるさとは勝山です。それで?』と答えるだけさ。そして、その若者たちは勝山を後にして都会へ向かうだろうよ。

 地元の若者は都会に出ていくんだろう?都会に魅力を感じるから。その若者に対して『ふるさと勝山』と叫んだところで、何も響かないよ。だったら、その『ふるさと勝山』の魅力をひとことで表してくれよ。その一言が大事なのだから。

……うん?……歴史と文化の魅力あふれる場所?……ダメだな。それも『ふるさと勝山』と同じ理由でダメだ。だって、『歴史と文化の魅力あふれる場所』と言われて誰が反対する?何度も言うが、誰も反対意見を唱えないような言葉は、心になにも植えつけない。

 もしも、君たちがこう言うのなら話は別だ。勝山市は『日本で最も歴史と文化の魅力あふれる場所』だとね。このセリフを言った瞬間に、隣の自治体や日本全国の自治体が反対意見を言い始める。勝山市が最も歴史と文化の魅力にあふれる場所?ちょっと待ってくれよ……とね。

それで、その反対意見に勝てるだけの『歴史と文化の魅力』が勝山市にあるのかね?多くの日本人をつかまえて『歴史と文化の魅力あふれる場所はどこですか?』と質問したときに、勝山市という返答が返ってくるのかい?違うだろ。普通は京都や奈良になるんじゃないのかい。

君たちが、地元の勝山に愛着があるのはわかる。それを誇りにしているのも理解する。それを傷つけるつもりは毛頭ない。誇りを捨てろと言ってるんじゃない。今問題にしているのは、市内や市外の若者の心に『勝山市は素晴らしい』と植えつけることだ。

ならば、他人の使っている言葉を使っちゃいけない。
『歴史と文化』は京都や奈良、金沢が使ってる。『にぎやかなまち』なら大都会が使っている。人々は心の中で連想する。『歴史と文化のまち』との言葉を聞けば、京都や奈良・金沢を連想する。『にぎやかなまち』なら大都市を連想する。
椅子取りゲームで、すでに座られている椅子にどうやって座るのだ?『歴史と文化』という椅子には、京都や奈良・金沢が座っているんだよ。それを無理やりどかせると思うのかい?

悪いことは言わないから、別な言葉を探しなさい。
君たちは、私たちがいう『独占の法則』を破っている」

自分の競合会社が顧客の心の中に、ある言葉を植えつけていたり、あるポジションを占めている場合に、その同じ言葉を植えつけようと試みるのは無駄である。

すでに述べたように、ボルボは「安全」という言葉を占有している。メルセデスベンツゼネラル・モーターズなど多くの自動車メーカーが、安全性を主体にしたマーケティングキャンペーンを実施しようと試みてきた。しかしボルボ以外は、顧客の心の中に安全というメッセージを投げ入れることに成功していない。
  (中略)
こうした悲惨な失敗の事例がいくつもあるのに、多くの会社が「独占の法則」を犯し続けている。いったん固まった大衆の心を変えることなどできはしない。
  (中略)
何年か前、バーガーキング社が、この危険な坂道を下り始め、結局、元のところに戻れなかった。市場調査によれば、ファーストフードに最も望まれる属性は「早いサービス(ファースト)」であった(何とも当たり前の話だ)。そこでバーガーキング社は意気盛んなマーケッターたちの言うとおりにやってみた。
   (中略)
このリサーチで見過ごされていたのは、マクドナルド社がすでに、アメリカで一番サービスの早いハンバーガーチェーンであるとの認知を得ていたことであった。「ファースト」という言葉はマクドナルド社が占有していたのだ。バーガーキング社はこれにひるむことなく、「早くて最高の食事を」というスローガンの下に、キャンペーンを打って出た。このキャンペーンは、たちまちのうちに惨めな失敗に終わった。
       (前掲書64ー68)


人は、心の中の「ある言葉」に従って行動します。
その「ある言葉」は一つの言葉で表されます。
そして、「ある言葉」が心の中を占有したら、もはや競合相手は手出しできません。

なるほど、確かにそうでしょう。歴史と文化の魅力あふれる場所ならば、京都か奈良です。ならば、われわれはどのようにして太刀打ちしていけばいいのでしょうか。

どこに活路を見出せばいいのでしょう。

前掲書著者のライズとトラウトならば、こう言うでしょう。
「カテゴリーの法則にしたがえ」



新しいカテゴリーをつくれ!

「カテゴリーの法則」とは次のような内容です。

あなたが新製品を開発するとき、真っ先に問題にすべきことは、「この新製品は競合商品よりどこが優れているか」ではなくて、「どこが新しいか」ということである。言い換えれば、この新製品はどのカテゴリーで一番手かということだ。
    (中略)
これは、ブランド志向に立つ従来の伝統的なマーケティング思想(どうすれば人々を自社のブランドに引き付けることができるか)には反する考え方である。ブランドのことは忘れて、カテゴリーについて考えて欲しい。

ブランドの話になると顧客は保守的になる。だれもが自分のブランドがなぜ優れているかをしゃべりたてる。ところが、カテゴリーの話になると、顧客は心を開くのである。新しい物にはだれもが興味を抱く。どこが優れているかに関心を寄せる人はほとんどいない。
  (同書p27~29)

若者に勝山市を選択して欲しい。しかしながら、その心に勝山の魅力を植えつけようにも、「にぎやかさ」とのカテゴリーでは都会に負ける。「歴史と文化の魅力」では、京都や奈良のブランド力に勝てない。ならば、全く新しいカテゴリーを作り出せ。
著者はそう言っています。


「うどん県」の名前を持つ香川県で、あなたがお蕎麦屋さんを開こうとします。さすがに「うどん県」だけあって、蕎麦屋に来るお客が少ない。そこで、あなたは考えます。
「よし、それでは『うどんより美味いお蕎麦あります』とのプロモーションを行おう」
 このプロモーションは確実に失敗することでしょう。うどん好きの人々に「うどんと蕎麦はどちらが美味いか」を尋ねることは、タブーです。なぜなら、うどんをブランド化させてしまうから。
 著者の言うように、ブランドの話になると顧客は誰しも保守的になります。自分の愛好するものがいかに優れているかを主張します。『うどんより美味いお蕎麦あります』と言われたなら、うどん好きの香川県民は、必死になって、うどんの美味しさをまくし立てるでしょう。
 あなたがすべきは、うどんと蕎麦を比較させることではなく、新しいカテゴリーを作ることです。「健康に気を使う人は、ぜひ蕎麦をお食べください」「一日1食の蕎麦は血圧を下げてあなたを健康にするでしょう(薬事法違反のCMですが)」と、蕎麦ダイエットや様々な手法を用いて「健康に優しい食べ物=蕎麦」のカテゴリーをつくり、そこを土俵として勝負すべきです。


新しいカテゴリーを作り、そこで1番になる。

ならば、どのカテゴリーで?……と話を進めたいのですが、もう少し、現状を眺めてみましょう。

すると、もうひとつの「思い込み」が見えてきます。
 

 

「住んでみないとわからない土地」に住みたいですか?

若者の心の中の「ある言葉」を刺激することが大切です。ところが、現行の若者定住政策は、刺激する力を全くといって持っていません。その理由は単純です。

現行の若者定住政策は「住んでみなければわからない」ものばかりだからです。

これは勝山市だけでなく、ほとんどの自治体が見過ごしている点です。
移住した人には家賃補助をする、家を新築すれば新築補助を出す。日本全国の自治体が様々な政策で若者の定住化を図ろうとしています。では、その自治体の魅力は何ですか?と問われると「住んでみなければわからない」

なぜ「お試し移住」政策がこれほどまで行われているのでしょう。HPで「お試し移住」を検索すれば、県単位で市町村で行われている様々なお試し移住政策がヒットします。勝山市もやっている、このお試し移住政策。逆から考えれば、勝山の魅力は住んでみなければわからないと白状しているようなものなのです。

消費者に対して「うちの商品の良さは、買ってみなければわからない」と商品紹介をする通販番組はありません。そもそものスタートラインが間違っているのです。

あなたに尋ねます。
あなたは日本全国のどこかに住んでいらっしゃる。
あなたのお隣にも自治体はあるはずです。
ならば、お隣の自治体の若者定住政策を5つ挙げてください。

5つ挙げられましたか?私はできませんでした。
お隣の自治体の若者定住政策も「住んでみなければわからない」ものだからです。そして、あなたのお住いの自治体も同様でしょう。

若者定住化政策は「住んでみなければわからない」ものばかり。
その自治体の魅力は?これも「住んでみなければわからない」

ところが、ひとつの疑問が生じます。
なぜ、若者たちは住んでもいない都会に魅力を感じて、都会へ行くのだろう。

考えてみれば不思議な話です。

そこには、都会に対する憧れが根底にあるのかもしれません。
定年後の移住先で、人気があるのは沖縄と北海道だそうです。シルバーライフを過ごそうというのですから、一度は訪れたことがあるかもしれません。しかし、そこで住んだ経験はないでしょう。にもかかわらず、沖縄と北海道に人気が集中するのは、ここに対する憧憬の念があるのかもしれません。

片や、住んでみなければわからない場所。
片や、住んでみなくても行きたい場所。

この違いは、自治体の違いから発生するのでしょうか。いいえ、これは自治体間競争ではありません。


自治体間競争でなく、「自治体vs観念としての大都会」

自治体間競争」という言葉を耳にすることが増えました。全国的な少子化傾向を踏まえて、各自治体は、自分の自治体へ人口の流入を図るために競争していると考えられています。

ですが、これまでの話からも明らかなように、現実には、人口の流出は「流出自治体vs流入自治体」の自治体間競争ではありませんでした。


都会へ出ていく若者は「東京」へ行きたいのであり「東京都」に行きたいのではありません。「渋谷」へ行きたいのであり、「渋谷区」に行きたいのでもないのです。


われわれが人口の流出入は自治体間競争だと仮定していましたが、それは誤りでした。それは「勝山市vs観念としての東京」と呼ぶべきです。もっと簡単に言えば、「田舎の自治体vs大都会」でしょう。

ここまで読まれてきた方は、あまりに当たり前の結論に
「そんなことは知っている」
「田舎の自治体が大都会と争っていることなど当たり前だ」
と拍子抜けしたかもしれません。

しかし、同じスタートラインに立っていても、「これまでの常識」と「本稿で考えてきた常識」とは全く異なります。


新しい常識

確かに、昔から言われてきました。「田舎から若者が都会へ出ていく。勝山市は何とかしろ」この声に従って自治体は動きます。それは「働く場の確保」であり「住宅補助といった補助金政策」といった形で政策になりました。
しかし、それらの政策は若者の心に届いていないようです。それはそうでしょう。若者の心のことなどお構いなしだからです。

これまでの常識と、それがもたらす結論を見てみましょう。

①田舎から若者が都会へ出ていく。つまり田舎の自治体が「人口の綱引き」で大都会と争っている。

勝山市で育った若者が、勝山へ戻ってくるのは当たり前だ。


③なのに返ってこないのは、雇用の場がないからだ。


④だから自治体は、雇用の場を増やさねばならない。


⑤全国の自治体が同様の施策をする中で差別化を図れていない


新しい常識は違います。

①田舎から若者が都会へ出ていく。つまり田舎の自治体が「人口の綱引き」で大都会と争っている。


勝山市で育った若者が、勝山へ戻ってこないのが当たり前だと考えよう。そして、市内の若者にも市外の若者にも訴求するだけの魅力を備えなければならない。


③われわれの主戦場は、若者の心の中である。


④若者に「大都市の魅力」に競合できる「勝山の魅力」を植えつけよう。ただし、それは大都会や他の自治体が使っている言葉ではだめだ。


⑤そのためには、自治体としての勝山市は、新しいカテゴリーを開発しよう。それにより大都市や他自治体との差別化が可能となる。



それでは、どのようなカテゴリーを作りあげれば良いのでしょうか。

その内容に踏み込む前に、われわれには大きな課題が突き付けられています。
カテゴリーを作るためには、われわれは「行政・自治体」というものをもう一度再編する必要があるからです。

それは私が提示する最後の疑問でもあります。
自治体とは、そもそも、なんですか?」



   《後編》へ続く。



《前編》神話としての「雇用創出が若者の定住を産む」という定説

勝山市政 政治

 

プロローグ

政策を考えるとき、私が気をつけることが二つあります。
「違和感を大切にすること」
「ゼロベースから組み上げること」

「違和感を大切にすること」とは、常識に従うことです。何やら目の前にうまそうな儲け話がある。しかし、私の中での常識に従えば、これは何かが違う気がする。そんなモヤモヤとした感じを大切にする。これが違和感を大切にすることです。

行政のやることは、一見すると「目の前にある儲け話」に似ています。「この施設を造れば、〇〇人の誘客が見込めます。売り上げ予測は〇〇円です」
おかしい、本当にそれでいいのだろうか。モヤモヤとした感じが沸き起こります。これが違和感です。


これに対して、「ゼロベースから組み上げること」とは、常識を疑うことです。ゼロベースとは、一から組み立てることではありません。文字通りゼロから作り上げます。このゼロの部分にあるものが「常識」です。われわれが当然と思っていることは、本当に当然のことなのだろうか。そこから疑ってかかり、新たな常識をつくり政策化していく。この一連の作業が「ゼロベースから組み上げる作業」です。


これから数回にわたり、いくつかの疑問を皆さんに提示します。
今までの常識を疑うことも多々でてきます。
中には、とても受け入れがたい結論があるかもしれません。

ただ、ひとつだけ確信をもって言えることがあります。新しい仕組みを作らない限り、これからの地方自治体は生き残りを図ることができません。そして、新しい仕組みとは新たな常識から生まれるものなのです。



 

「若者が定着しないのは、雇用の場がないからだ」

 これから「地方出身者が地元を離れるのは、雇用の場がないからだ」という定説に対して、私から疑問を投げかけます。

 これはなかなかに度胸のいることです。と申す理由は、この定説の力強さにあります。あまりにも強力過ぎて、反論すら許してはくれません。
 「若い者が地元を離れるのは、働く場がないからだ」
 「いえ、それは違います」
とでも反論しようものなら
 「なに!お前はなにをいってるんだ!!……(以下省略)……」
とのお𠮟りを喰らうことは確実です。

 その強力さと妥当さゆえに、誰も「若者が地元を離れるのは、働く場がないからだ」との定説に疑問を持つことがありませんでした。
 実際に、自治体職員や地方政治家たちは、積極的に企業誘致を推し進めます。彼らに、なぜあなた方は企業誘致をするのかと尋ねたならば、「若者の定住化を図るためだ」と即答するでしょう。

 
 しかし、この定説は的を射ているのでしょうか。地方出身者が地元を離れるのは、雇用の場がないことが原因なのでしょうか。

 というのも、この定説を逆から見ると奇妙なものになるのです。「地方出身者が地元を離れるのは、雇用の場がないからだ」という定説が正しいのであれば、「雇用の場が確保できれば、若者は都会へ出ずに地元へ定着してくれる」はずです。
ここで実務に携わる人々は困惑します。
 「どのような企業を誘致すれば若者は地元に残ってくれるのか」
 「TOYOTAを呼べば良いのか、SONYを誘致すれば若者は残るのか」
 「どのような業界の企業を何社呼べば若者は定着してくれるのだろうか」
これは悩ましい問題であると同時に、「雇用の場ができれば、若者は都会へ出ずに地元へ定着してくれる」という「定説の裏返し」の不完全さを示しています

 
 誤解しないでいただきたいのですが、私は「雇用の場をつくる必要はない」などと主張したいのでもありませんし、「若者が地元に定着しなくともよい」と言っているわけでもありません。企業誘致を進めることは、雇用の場を確保することであり、縮小する地方経済にとって欠くことのできない政策課題です。同様に、若者の定着を進めることも喫緊の課題です。

 むしろ、私が抱いているのは「地方出身者が地元を離れるのは、雇用の場がないからだ」との定説があまりにも強力すぎて、ひょっとして我々は大切なことを見逃していないか?との根源的な疑問です。
 われわれは何を見逃しているのか。そこを探らない限り、若者の定着率は高まりません。「地方創生」の本質的な議論も始まりません。


そこで、まず、われわれが何を思い込んでいたのか。その点について考えてみましょう。

 

 

消費者は自らの欲望を説明できない。若者たちも……

消費者は自分の欲求に従って行動します。欲しいモノがあるから買い、欲しいサービスがあるから対価を払うわけで、つまり、そこには消費者の欲求・ニーズが明確にあるはずだ……ごくごく自然な発想に思えますが、これに異を唱えるの書が『マーケティングの神話(石井淳蔵著)』です。

著者である石井氏は同書の中で言います。
「消費者は自らの欲望を表現できない。それどころか、消費目的や欲望を十分に認識していないし、それゆえに自覚さえしていない。消費者の欲望は複雑なのだ」

石井氏が挙げる一例が、日立が1987年に発売した洗濯機「静御前」です。
(40代以上の方は覚えていらっしゃるでしょう)

まずは下記の動画をご覧ください。当時の「静御前」のCMです。


HITACHI 洗濯機【静御前】 '87年CM



 『こんなに静かなんです。今まで気になっていた音が、ほら、嘘のよう』とのナレーションがCM中に挿入されてますが、石井氏の指摘によれば、消費者は、静御前の発売前に「洗濯機がうるさい」という認識を持っていませんでした。なぜなら「洗濯機が音を出すのは当然のこと」と考えられていたからです。

 それどころか、日立の開発部門も「静かな洗濯機を作ろう」との目的の下に製品を開発したわけではありません。たまたま出来上がった製品が静かであったので、それをウリしたらヒットしただけなのです。

ウォークマンもそうでしょう。「音楽を持って町へ出たい」というニーズがそもそも存在していませんでした。ところが、ウォークマンという商品自体が、消費者に新しいニーズを提供したのです。。消費者は、ウォークマンという商品を手にして初めて「ああ、そういった行動があるのだ」と消費欲求を見せつけられたのです。


このような事例を通して、石井氏は疑問を投げかけます。
「そもそも、消費者に確固たる消費目的や欲望はあるのか?」
「消費者がその製品やサービスを選んだ理由を、購入後に聞けば答えるだろう。しかし、それは後付けの理由ではないのか」

 洗濯機『静香御前』の例で言えば、「なにか洗濯機にご不満はありませんか?」と尋ねても消費者から明確な答えは返ってきません。「音がうるさいのではありませんか?」と尋ねることによって初めて「そういえば、確かにうるさいかもしれない」と答えます。

消費者は、自らの消費欲望や消費目的を明確に説明できないのです。
なぜなら、人間の心理はあまりにも複雑だからです。



「地元を後にする若者たちも同じではなかろうか」
これが私が抱く疑問のひとつです。

 若者は消費者ではない……との反論もあるでしょう。ここで立ち止まって考えてみましょう。
 消費行動とは何か。それは詰まるところ「選択する」ことに他なりません。われわれは消費行動において、常に選択を迫られます。Aという商品とBという商品を選択してAを購入する場合もあるでしょう。そもそも「モノを買うか/買わないか」という行動を選択する場合もあるでしょう。いずれにせよ、消費行動とは選択行動なのです。
(選択すらできない状況下では、消費はありえません。それはもはや「配給」と呼ぶべきです)

 「地元に帰る/帰らない」という選択をする若者たちの心理のなかにも消費行動と同じ力学が働いているのではないでしょうか。そして、石井氏が指摘するように、「なぜ地元に帰ったのか/帰らなかったのか」との選択を支える欲求を、若者たちは明確に説明できないのではないでしょうか。




「希望する職種がない」とは、後付けの理由

マーケティングの神話』から、興味深い事例をもうひとつ取り上げましょう。


積水ハウスは、納得工房という研究所を持っています。これにまつわるお話で、原文をそのまま抜き出します。

積水ハウスでは、最近、納得工房という名の研究所を京阪奈丘陵に造った。「研究者と顧客とが直接に対話する研究所」というのがその謳い文句である。家を建てようとする消費者がそこにやってきて、キッチンや風呂場や階段等々、さまざまの設備や機械を実際に使い、営業マンや専門家と相談しながら、自分に合った家づくりを考え確かめてもらおうというのである。
 (中略)
なかには「積水ハウスの住宅を買うつもりはないよ」というお客さんも、営業マンの説得に負けて納得工房へやってくる。そういったお客さんの一人は、「積水ハウスの家は壁が薄いので嫌だ」というのである。確かに、積水ハウスの壁は8センチメートルで、ライバル会社のそれは10センチメートル。もちろん、工房の中には壁や窓の防音性を実験する場所がある。その客は、一日、納得工房で過ごした結果、当初の意見を変え、積水ハウスに注文を出したというのである。
 (中略)
当研究所所長の福井専務の意見は、そのお客さんは「入念に実験して壁の薄さが問題にならないことを知ったがゆえに気持ちを変えたのではない」、そして「お客さんの気持ちはそんなに単純ではない」と言うのである。
 その客にとってみれば、「何かうまく表現できないが、積水ハウスは嫌なのだ」という気持ちを、誰もがわかりやすくかつ誰も否定しようもない、「壁の薄さ」という1つのパラメーターに集約させたのではないかというのである。何がお客さんの気持ちを変えさせたのかわからないが、「何か、積水ハウスに対するもやもやとした気持ち」が納得工房で時間を過ごすうちに晴れたのだろう、と専務は考える。そこのところを理解しないで、「”壁が薄い”という不満がお客さんからでています。何とかしましょう」ということで家づくりを進めると、「厚化粧」された家しかできないというのである。

(同書p28-30 赤字強調は松村)



われわれは様々な場面で決断します。もちろん、私も含めて、人は決断をするときに明確な理由に基づいて判断しています。しかし、人間の心理は複雑でもあります。


試しに、結婚されている女性の方に尋ねてください。
 「なぜ、この男性と結婚したのですか?」
 「愛していたからです。」
 「どこを愛していたのですか?」
 「……さあ……思い出せないわ」
とは冗談としても、付き合っているカップルに
 「どこが好きなのですか」
 「なぜ付き合っているのですか?」
と尋ねても、明確な言葉は返ってこないでしょう。せいぜい帰ってきても、
 「彼の『優しいところ』が好きなの」
との回答があるくらいで、その回答に
 「それじゃ、彼のどこが優しいのですか?」
と尋ねると答えに窮するはずです。
 彼女の心の中には、間違いなく彼に対する愛情があります。ただ、それはもやもやとしています。「好き」という気持ちを「彼の優しさ」に象徴させて、「優しいところが好きなの」という、一見すると合理的な説明をつけているのでしょう。


それくらい、人間の心理は複雑です。


地元を離れる若者も同じではないか……これが私が抱く疑問です。

 地元を離れた若者たちを対象にしたアンケートは過去に何度も実施されました。そして、これからも実施されるでしょう。
 そのアンケート中の「地元に希望する職種がなかった」等の回答は、積水ハウスにとっての「壁の薄さ」と同じだと考えます。アンケート回答欄を見て丸をつけねばならない。ならば、これだろう……と丸をつけたのが、「希望する職種がない」だっただけのことではないでしょうか。

 地元にいる人たちにも同じことが言えます。若者たちが地元を後にする、その姿を見て「なぜ彼らは地元を離れるのだろうか」との疑問を抱いています。このもやもやとした思いに明確な答えを見いだせない。地元に残ったわれわれは、積水ハウスにとっての「壁の薄さ」と同じような解答を自分たちで用意しているのかもしれません。それこそが「働く場がないからだ」との定説なのです。


ここまで来ると、なぜ各自治体が様々な若者定住策は効果が薄いのか、その理由もわかります。
積水ハウスの福井専務の言葉をもう一度引用します。「”壁が薄い”という不満がお客さんからでています。何とかしましょう」ということで家づくりを進めると、「厚化粧」された家しかできない
「働く場がないからだ」という不満が市民から出ています。何とかしましょうということで政策づくりを進めると、「厚化粧」された政策しかできないのです。あたりさわりのない、どの自治体も似たような政策ばかりで、地元へ戻れば補助金、家を建てれば補助金、中には無償の住宅譲渡まであります。「厚化粧」をした結果、自治体の顔がわからなくなり、横並びの同じような政策が並ぶばかりです。
 
 

 


ニュートラル(中立)に考えよう

誤解を招きかねない話を続けてきたので、ここでもう一度強調しておきます。

私は地元を離れた若者たちを非難するつもりもありません。雇用の場を確保しなくても良いなどと主張しているのでもありません。
私は、ニュートラル(中立)な立場から「若者の地元回帰」を考えたいだけです。
ニュートラルな立場から、発想の転換をしたいのです。

ニュートラル(中立)な立場とは何でしょうか。

「若者はなぜ地元に残らないのか?」との疑問の底には、「若者は地元に残るのが当たり前」との考えがあります。若者は勝山市で生まれて育った。その若者たちが地元に戻ってくるのは当然だ……との考え方です。

この発想を転換しましょう。「若者は地元に戻らないのが当たり前なのだ」と。これが私の主張するニュートラルな立場です。

ここでも誤解を招かぬよう、言葉を継いでおきます。

私は、地元を愛する若者を育てるなと主張しているのではありません。勝山の歴史と文化、自然の魅力や風土、そういったものを慈しむ心を育てること、すなわち愛郷心を育むことはとても大切なことです。私自身、私の子供にもそれを教えています。

その愛郷心にもたれかかることを止めましょう。私が申し上げたいのは、この点です。
愛郷心を育む、しかし、若者が戻りたくなるような政策は愛郷心とは別次元でつくりあげる。これがニュートラルな立場です。


そして、この立場にある限り、われわれ自身が変わらざるを得ません。

若者は地元に戻らないのが当たり前なのだ。そんな若者たちを地元に戻すためには、何が必要なのだろうか。自治体はどう変われば良いのだろうか。ゼロからこれを組み立てていくここそが、若者定住政策を作る上で必要であり、「一切の思い込みを捨てて、何ができるのかを考えよう」という立場でもあります。


加えて、このゼロベースから組み立てていくことは、若者の定着だけに効果をもたらすものではありません。市外から若者が流入する効果も期待できるはずです。なぜならば、「若者は地元に戻らないのが当たり前なのだ」との発想の下に組み立てられた政策は、市外の若者にも市内の若者にも等しく効力を発揮するからです。




マーケティングの思想・手法・実践

「ゼロベースから若者が選択する自治体を構築する」との方向性を定めたならば、次に必要なものはマーケティングの手法です。

なぜ、マーケティングの手法が求められるのでしょうか?

業績が伸びない企業と、われわれの苦悩が同じだからです。
 「なぜわが社の商品が売れないのだ」
 「こんなに良い製品なのにどうしてだ?」
それは本当に良い製品なのか?顧客のニーズに合致しているのか?そもそも顧客は誰なのだ?合致しているならば、どのようなPR方法を取っているのか?企業は、マーケティングを用いてその解答を出そうと試みます。
 われわれも同じような苦悩を抱いています。
「なぜ若者は地元を選んでくれないのだ」
「こんなに勝山市は良いところなのにどうしてだ?」
この苦悩を次のような問いに置き換えたとき、マーケティングは効力を発揮するのです。
 「どのような発想と手法を用いれば、若者は地元を選んでくれるのだ?」


 P・ドラッカーは「マーケティングの理想は、販売を不要にすることだ」と喝破しました。誰かが顧客をプッシュしなくとも、自然に売れてしまう状態をつくるのがマーケティングの理想です。その製品なりサービスを目の当たりにした顧客に「これが欲しかった」と感想を抱かせることですから、そのために、顧客が何を欲しているのか、何を望んでいるのか、何に価値を認めるのか。それらに想いを巡らせて、計画を練り組織をつくり、実行へ移さなければなりません。

そして……

若者の定着のために、マーケティングの思想と手法を用いて政策をつくりあげよう……そう考えて一歩を踏み出した瞬間に、われわれは大きな壁にぶつかることになります。
その壁は次の疑問の形で姿を現します。
 「われわれは、誰を相手に競争しているのか」
 「われわれの主戦場は、どこなのか」
 「その主戦場で、どのように差別化を図ればよいのか」

          

    

《中編》へ続く



 

新たな一歩

今回の勝山市長選挙は、皆さまご存知のとおり211票差で敗れるという結果に終わりました。
まずは、皆様に御礼を申し上げます。本当にありがとうございました。
政党の支持もなく、特定政党、区長会、業界団体の組織票もなく、それでもここまでの票をいただけたのは、ひとえに皆様のおかげです。ありがとうございます。


負けて悔しくないと言えば嘘になりますが、そういった悔しさよりも申し訳なさで一杯です。
荒土の奥で「新しい公共交通ができあがるのを1日も早く待っていますよ」と楽しみにしていたオバちゃんたちは、これからも不便なバスを使い続けるのだろうか。
「勝山を良くしておくれ」と私の手をとって涙を流していた昭和町のお婆ちゃんは、どんな気持ちでいるのだろうか。
「この子のためにも勝山を良くしてください」とサンプラザ前で乳母車をひきながら応援してくれた若いお母さんは、子供に勝山の未来をどう語るのだろう……

私には何の組織もありませんでした。
「勝山を一緒に変えよう!」
ただ、それだけをひとりひとりに訴え支持の輪を広げていきました。勝山を共に変えよう、新しい勝山を一緒に見よう。その想いがこの得票につながったのだと思います。いただいた票のひとつひとつに想いが込められています。

それに応えることができなかった。その申し訳なさで一杯です。



その意味で、山岸正裕市長に申し上げたい。
ご当選おめでとうございます。私は、この選挙戦を通してひとつのことを主張し続けました。「勝山市は誰が市長になろうとも、市長のものではない。議員や政治家のものでもない。ましてや市の職員のものでもない。勝山市は2万5000人の市民のものだ」
そう、勝山市は市民のものであって市長のものではありません。市民のために政治をしていただきたい。それが私からのお願いです。


さて、これからどうしようか……と。

これは公に語るのは初めてのことなのですが、13年前に市議会議員選挙に出馬したときに私はひとつの誓いを立てました。
「一度でも落選したときは、潔く政界から身を引く」
落選するということは、市民からNoを突き付けられることです。ならば、身を引くのが相応だろう。そう考えてきました。もちろん、これは何度も挑戦される方を批判するものではありません。それぞれのお考えあってのこと。私自身はこういう想いで市議会議員選挙を4度闘ってきました。

ただ、今回ここで身を引くことは何を意味するのだろうか……
選挙戦の中でも申しあげたとおり、私は「市長になりたい」から立候補したのではありません。「市長になって勝山市の諸問題を解決する」ために立候補しました。これも選挙戦で何度も申しましたが、中心市街地の活性化、公共交通、教育、産業振興、企業誘致等々の問題は、解決できる問題ばかりです。

私は落選しましたが、問題は解決されないままそこに放置されています。この問題を解決しないまま放置しておくことの方が市民に対する背信ではないのか。
そこに想いを致すとき、ここで立ち止まることはできません。

もう一度、一からの出直しです。



選挙のさなか、何度もこのセリフを叫びました。
勝山は、再びよみがえる。
皆さんの想いと力によって。
それが私の掲げた『勝山再生』なのです。

「勝山再生」に向けて、また新しい一歩を踏み出します。

今後ともよろしくお願いいたします。

なぜ、行政主導のまちづくり、行政主導の観光は上手くいかないのか      【花月楼に関する疑問 ―組織論― 】

行政主導のまちづくりは、全国的に見ても成果を挙げているとは言えません。行政主導の観光も同様でしょう。

「行政主導はダメだよ」と我々は言います。

もっとも、文句だけなら誰でも言えます。そこから一歩抜け出して「ならば、どのような方法ならば良いのだろうか」という改善策を考えてみたいのです。

本稿で示すのは、次の内容です。

(1)行政と民間の論理がぶつかるとき、行政の論理が勝つ。

(2)問題は行政スタッフ自身にあるのではない。行政の組織文化である「官憲主義」こそが問題である。この「官憲主義」を理解して乗り越えない限り、行政主導のまちづくり、行政主導の観光は止まらない。行政主導の観光が動き続ける限り、(1)は延々と繰り返され、結果として民間活力は失われていく。


(3)官憲主義は、国から地方自治体に至るまで蔓延する「行政の組織文化」である。しかし、基礎自治体である勝山市は、その強みを活かして官憲主義を乗り越えていかねばならない。






基本的視点

論を進めるに当たり、私の発想法の基本について説明したい。

①事態を悪くしようとして活動する人はいない。
②物事は、常にシンプルである。

我々は誰かを悪者にしたがる。「行政が悪い」「政治家が悪い」「商店街の連中は頭が固い」等々。

だが、「〇〇が悪い」と言い続ければ問題は解決するだろうか。いたずらに対立を深めるばかりで、決して問題を解決することはないだろう。

しばし、立ち止まって考えていただきたい。

世の中を悪くしてやろうと、意図的に活動している人はいない(確信的犯罪者を除いて)。誰しも、住みよい世の中を作りたいと考え、自分の仕事が世のため他人のためになることを望んで活動している。

なのに、世の中は、なぜうまくいかないのか。
うまくいかないのは、うまくいかないだけの「問題がある」からだ。

そう、悪いのは人ではない。問題なのだ。

「悪い人はいない。悪いのは『問題』であって、我々は力をあわせて、その問題を解決しなければならない」というのが、①の考え方だ。


②については、「複雑そうに見える問題でも、ボトルネックになっているのは、せいぜい2~3か所に過ぎない」という考え方なのだが、この点について詳しく語ることが目的ではないので、詳述は避ける。

TOC(制約理論)に詳しい方なら、上記の発想がゴールドラット博士のものであることをご理解いただけるはず。ご存知ない方は『ゴール2』をお読みください。









行政と民間の論理がぶつかるとき、何が起きるか。

観光分野においては、民間ビジネスが参入する。ゆえに、行政の論理と民間の論理がぶつかることが想定される。

このときに、優先されるのは行政の論理だ。

《行政の論理と民間の論理はぶつかるの?と疑問に思われた方へ》
民間の論理から言えば、道の駅云々の前に、恐竜博物館前の駐車場を封鎖して、そこでケータリングを大量に並べてもらった方が、よほどビジネスとして効率が良いのです。しかし、行政の論理で言えば、それは許されざる行為でしょう。

恐竜博物館を来館するお客様相手に、いくつかのビジネスを考えてみてください。「これなら儲かりそうだ」というまで、真剣に考えてみてください。おそらく、そのビジネスモデルは、どこかで行政の論理とぶつかることでしょう。
逆に、ぶつからないモデルであるならば、あなたはすぐにそれに取り掛かるべきです。

数年来にわたって私も頭を悩ませ続け、恐竜博物館がらみで行政の論理とぶつからないモデルを2つほど作ることができました。かくの如くに、『行政の論理で作られたもの』をビジネスに応用するのは難しいのです。



企業内での対立と比較してみると、構造がわかりやすい。

製品開発部を置いている企業では、営業部と開発部の対立はよく見られる光景だ。
営業部は「これだけ俺たちは頑張ってるのだ。開発部はもっと売れる商品を作って持ってこい」と言い、開発部は「俺たちがこれだけの製品を作ってるのに、営業の奴らは何をやってるんだ」と言う。

そして、経営陣はこの対立を調整しながら会社経営を進めていく。

これを図式化すれば次のようになる。


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これに対して、民間の論理と行政の論理がぶつかったときに調整役はいない。

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調整役がいないとき、どちらの論理が勝利するのか。それは行政である。「公益」の名の下に許認可権を持ち、補助金事業委託費等の予算権限を有する行政に「勝てる」だけの民間企業は稀だ。

ここで重要なのは「調整する」のではなく、「勝てる」ということです。企業城下町と呼ばれるような、「特定の企業が、税収の大半を占め、住民の雇用にも多大の影響を及ぼす」状態でもない限り、行政をねじふせて「勝てる」論理を持ちえる企業は稀なのです。

ならば、議会がそれをできるのか?と言われると、これも難しい問題です。特定の企業の論理を議会がバックアップすることの是非にまで話が及ぶからですね。

 




ここまでの説明だと、行政が悪者のように感じられる。
民間の論理をねじ伏せて、行政の論理を押し通し、あたかも世の中を悪くしているのは、行政スタッフなんじゃないのか?……実は、さにあらず。
「行政スタッフは、『自分たちが民間の論理を阻害している』とは考えていない」


実際に行政に手ひどくやられた経験をお持ちの民間人からすれば信じがたいことだが、行政スタッフは「自分たちが民間の論理を阻害している」とは考えていない。これは、13年にわたって行政スタッフと話をし続けてきた私が保証する。


ほとんどの行政スタッフは、真面目に、かつ善意で物事を進めている。

むしろ、行政スタッフの中には「行政が悪い」という声を過敏に受け止めて、委縮する傾向すらあるくらいです。



冒頭の、「事態を悪くしようとして活動する人はいない」というテーゼを思い出して欲しい。まさに、ここには「悪者」はいない。




民も官もそれぞれに最善と思うことをやっていながら、結果として対立してしまう。その構図については次の図をご覧いただきたい。

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行政は、公益を追及するがゆえに「官が主導となり皆が発展する」道を模索する。その先に勝山市の発展がある。
民間は、「観光のビジネス化により市内の企業の発展」を目指す。企業が発展することは、被雇用者である市民の利得向上、税収アップなどの効果をもたらし、ひいては勝山市の発展につながる。

「事態を悪くしようとして活動している人はいない」との、冒頭のテーゼが正しいことがおわかりいただけると思う。お互いに、良いと思えることを進めているのに、民と官は対立する。




それじゃ、悪いのは何なのだろう?……それは、行政内の「組織文化」とでも呼ぶべき「官憲主義」だと私は考えている。
上の図では「官が主導し、皆が発展する」という発想だ。







官憲主義という文化


官憲主義「統治集団以外の者が、政治にタッチすることは許されない。ただし、政治にタッチしない限り、大衆にはすべての権利と自由が保障される」と定義しよう。

言論・表現・信教の自由、職業選択・居住などの権利、レジャー、スポーツ等の趣味、すべての自由は保障される。ただし、国民は政治にタッチしてはいけない。政治は、一定の公認の資格を持つ集団に委任されねばならない……という考え方である。


注意】官憲主義と全体主義は全く異なります。

全体主義とは、「すべての人間が政治にタッチしなければならない」という発想です。全ての人間が政治にタッチしなければならないがゆえに、文学であろうと音楽であろうと思想・宗教に至るまで、すべてが政治性を帯びます。
文化大革命のときに、三角帽をかぶせられた知識人や教師たちは、「我々が信奉する革命原理を軽んじる、もしくは賛成していない(=政治にタッチしていない)」という理由から市中を引き回されました。「時局傍観は許されない」と大東亜戦争末期に、政府は国民に呼びかけました。



「市民を豊かにするのは統治者の務めである」とは、至極まともな発想だ。これに「統治者以外の人間は政治にタッチしない」という官憲主義を加えると、「市民は政治にタッチするな。政治の果実を口にすればそれで良い」という発想が出来上がる。


この発想は、3つの興味深い現象を導き出す。

ひとつは、「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、「自分たちが何をすべきか」よりも「行政は何をしてくれるのか」という論理へ傾くこと。
これを「おねだり民主主義」と呼ぼう。


もうひとつは、「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、統治に関わる人間以外の人々は、文句を言うしか方法がなくなる点。
これを「箱庭民主主義」と呼ぼう。

そして、3つ目は「統治者以外のすべての人間は、政治にタッチしてはいけない」ゆえに、統治に関わる人間から委任を受けた人々は、政治的責任の全てをとらねばならない点。
これを「責任転嫁民主主義」と呼ぼう。

「箱庭民主主義」「おねだり民主主義」「責任転嫁民主主義」は、私の造語です。類義語があった場合はご容赦ください。

 

まずは、「おねだり民主主義」について。

民主主義の精神は、「自主・自立」にある。
まちづくり活動は、その意味で、極めて民主的な活動のはず)

ところが、「おねだり民主主義」の精神が跋扈するようになると、「自分たちが何をすべきか」よりも「行政は何をしてくれるのか」という論理へ人々の関心は傾く。

前述したように、根底にあるのは「市民は政治に口を挟むな。市民は政治の果実を口にすれば良いのだ」という発想だ。この発想は統治者から「恵み」をもらうかわりに、政治には口を出さないという互恵関係へと具現化する。市民は政治にはタッチしない。つまり、非政治的な存在になる。そのかわりに統治者は豊かな生活を保障せよ……という発想である。

互恵関係ができあがると、豊かな生活を保障してくれないことは、この互恵関係を統治者が裏切ることを意味する。したがって、裏切った政府に対して抗議することが民衆には許され、政府に対して抗議するストライキや騒動は、もし発生したならば「政府の責任」として統治者が糾弾されることとなる。

米騒動」のような非政治的暴動は政府の責任であり、「子供の貧困」も政府の責任となる。なぜなら、「民衆は政治に口出ししないかわりに、民衆は政治の果実を口にできる」とのお約束を破ったのは、政府の方だからだ。

逆に、互恵関係の下では、シールズのような政治的活動は政府の責任にはならない。「市民は政治に口を挟まない。その代わりに『恵み』を政治からもらうのだ」との「お約束」を破ったのは政府の方ではなく、シールズの方だからだ。したがって、互恵関係の下では、シールズの活動は大衆の共感を得ることはない。




「箱庭民主主義」において、市民は政治にタッチできない。タッチしているようで、実は、行政のお飾りでしかない事例は多々見られる。

行政が事業を行う際の審査会などは典型例であろう。市民代表として、市民団体や区長会から充て職が割り振られて参加する。実際に会議に出席しても、行政が作った叩き台にいくつかの意見を述べるばかりで「こんな叩き台では納得いかない。新しいものを作りなさい」と市民が言えない空気で充満している。


かくの如くに、市民が政治にタッチできない現況で、市民に残された方法は「行政に対して文句を言う」ことのみとなる。
 「また行政が〇〇するらしい」
 「どうせ失敗するに決まってる」
 「勝山みたいなところで、何をやったって無駄だよ」
実に……聞きなれた文句ばかりだ。




以前、私は当ブログの記事において、「属人主義」をテーマとしました。

「属人主義」とは、「誰かスーパーマンが現れない限り、現状を打破することはできない」という考え方です。


「箱庭民主主義」と「属人主義」とは、実に食い合わせがよろしい。
市民は政治にタッチしません。政治にタッチできない以上、不満を漏らすよりほかにない。そして、「行政主導でうまく行かない現状を、誰か打破してくれないだろうか」という待望論こそが属人主義に他ならない。

 

話は横道にそれるのですが……よくよく考えてみれば、わが国のマスコミも箱庭民主主義の中で気炎を上げているに過ぎません。

マスコミは「善玉」と「悪玉」でしか論調を張れなくなってきます
「マスコミは、なぜ政府のやったことを評価しないのだろう。是々非々で臨むことができないのだろうか」と疑問をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
マスコミが攻撃しているのは、官憲主義なのです。

もう一度申し上げますが、官憲主義とは「統治者以外の大衆は、政治にタッチしてはいけない」とするものです。

そして、官憲主義にとって最大の敵はマスコミと議会です。なぜなら、マスコミは「大衆が政治に興味を失ってどうする?もっと政治的コミットをしなければ!」と訴える立場であり、政治から遠ざけようとする官憲主義と激しくぶつかり合います。

ただし、その論調は官憲主義を「悪玉」と描いて「とにかく政府のやることに批判する」といった形にならざるを得ません。政府をひたすら「悪玉」として描くマスコミの在り方は、官憲主義下のマスコミの在り方としては誠に正しいものであり、逆説的ですが、マスコミが現在の論調を続けていることこそが、わが国が官憲主義下にあることの証拠でもあるのです。




これは誤解を招きかねない物言いになりますが、「投票率を向上しよう」との運動は官憲主義の下では効力を発揮できません。なぜなら、「我々は政治にタッチしないから、その代わりに政府は俺たちの面倒をみてくれ」という互恵関係が成り立ってしまえば、投票に行くことなど無意味だからです。




「責任転嫁民主主義」においては、統治者から委任を受けた組織・個人は、その政治的責任までをも負わねばならない。

責任論で言うならば、受託した組織・個人の責任は、その委任者まで及ぶ。「そんな人物を選んだ責任をどう考えるのか?」と糾弾されるのが当然なのだ。

ここで「おねだり民主主義」を思い出していただきたい。「政治には口を挟まないから、政治の果実をわれわれは口にする」との互恵関係が成立していた。

統治者から委任を受けた組織・個人は、権力の一部を受ける代償として互恵関係をも引き受けているのだ。したがって、この互恵関係を満たすことができない受託者は政治的責任までをも引き受けねばならない。

ゆえに、統治者は受託者を探す。自らに政治的責任が及ばぬように。





さて、これら3つの特徴は、何も行政に限定されるものではない。おおよそ官僚主義がのさばるような大組織には大なり小なり現れるのではなかろうか。

会社経営などに興味はない。給料さえもらえれば、何も問題はないという社員の意識は、まさに経営者と社員との「互恵関係」。
上司に逆らったところで無意味だよ。うちの会社はどうにもならないよ……とグチをこぼすより対処の方法がない「箱庭会社」。
プロジェクトは経営陣肝いりで発案されたけれど、これ失敗したら左遷どころかクビだよな……と「責任転嫁企業」

「統治者」を「会社経営者」、「市民」を「従業員」と読み替えてみると、官僚主義に冒された企業ならばありふれた話になる。







まちづくり花月楼に見る「官憲主義」の現れ

行政組織は、国―県ー市町村という流れで構成されるがゆえに、行政文化である官憲主義は、国から市町村に至るまで大なり小なり存在する。

ただし、国や県と異なり、市町村は市民(=現場)と直接に相対するがゆえに、官憲主義のほころびが見える形で現れる。

まちづくりや観光が、まさにその典型例だ。
「統治者、統治機関以外は政治にタッチしない」との官憲主義を観光に持ち込むならば、どのような観光が展開されるだろうか。行政が観光の戦略を策定し、指示し、予算をつけ、民間に実行させる。これは多くの自治体で行われている観光行政であり、無論、勝山市でもこれまで延々と行われてきた。


パンフレットを刷ってみたり、単発イベントを行ってみたり、時々、思い出したように東京で展示会を行ってみる。行政が商工会議所や観光協会に声をかけて民間事業者の出店を求め、「○○人来たから大成功」と自画自賛する。



下の画像を見ていただきたい。勝山市民の皆さんは、これを記憶されているだろうか。つい2年前まで勝山で売られていた「恐竜ようかん」である。

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どういう脈絡で選ばれたのかは未だに謎であるが、東京女子流というアイドルグループを用いて作られた羊羹である。今では誰も話題にもしない。行政の中ではなかったことになっている。
(未だに我が家には空き箱が保管されているのです




勝山市民は「平泉寺御膳」をご存知だろうか。
白山平泉寺全国発信プロジェクトの一環として、予算をつけてまで開発されたものなのだが、現在、これを提供する店舗は勝山市内にない。
(かつて、平泉寺の白山亭さんで出されたことはあったが)

勝山市内で提供する店舗がないのに、全国発信プロジェクトもなかろうに……と思うのだが、行政の補助金の切れ目が縁の切れ目。役所のやる気がなくなったところが、事業終了の合図である。

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行政の理屈で民間は動かない。そして、民間の理屈で行政も動いてくれない。





花月楼を事例に考えてみよう。

12月定例議会では、花月楼に関する事業は、行政から勝山商工会議所に提案があって進められたものだという事実が発覚した。

《行政の嘘》
当初から、行政は議会に対して「商工会議所から提案があって、この事業は進められています」との説明に終始しました。

しかし、それは嘘だったということが12月定例議会で明らかになったわけです。
この案件は、行政から商工会議所に持ち込まれたものであり、商工会議所からの提案書も行政の指示があって書かれたものだったのでした。私は、様々な人々への聞き取り調査を行う過程で、「これは行政から持ち込まれたに違いない」との確証を得ていましたが、ようやくそれが明らかになったわけです。

理事者が虚偽の答弁をすることは、議会と行政の信頼関係そのものを崩す行為であり、断じて許すわけにはいきません。

ただし、一理事者が虚偽の答弁をしたことと、官憲主義の問題とは別次元の話です。




12月定例議会において、予算委員会に商工会議所所属の方を参考人として招致し、詳しくお話を伺った。

行政から商工会議所に話が持ち込まれた。ここは重要である。なぜなら、商工会議所は「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」という権利を持つからだ。
実際、参考人として議会に来ていただいた商工会議所の方も「行政の支援をお願いしたい」と強調されていた。



ここが曲がり角である。

「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」という問いは、突き詰めるとリスクテイクの問題へ移行する。
 「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」
 「建物は行政で用意してください」
 「補助金は行政の方で、国から引っ張ってきてください」
一見すると、リスクをどんどん下げていくので良いことのように思われる。おそらく、「ならば、行政は何をしてくれるのですか?」との問いを発している方に何の悪気もないはずだ。誰だってリスクは低い方が良いに決まっている。

実際、議員の前で行政支援を強く訴えた商工会議所の方は、熱意に溢れる人である。新規創業者よりも廃業者の方が圧倒的に多い勝山市の現状を憂い「勝山の商業を何とか活性化しなければ我々に未来はない」との想いが強く伝わる内容だった。

それでも気をつけねばならない。

行政主導でリスクを下げていくと、民間ビジネスではありえないくらいの低リスクな事業が成立してしまう。この低リスクが、逆に地域から利益を奪い取ってしまうのだ。
「おねだり民主主義」が変化した「おねだり官製ビジネス」の悪弊である。


道の駅を考えてみよう。道の駅は基本的に自治体が事業主体になり、施設は税金によって開発する。運営を、指定管理者や第三セクターなどの民間に任せるというモデルを採るのが普通だ。
もし、民間が事業として施設を建設するならば、施設整備の初期投資部分を回収しなければならない。それは売上から捻出するのが常識であろう。ところが、道の駅の初期投資は税金でまかなわれている。つまり、初期投資がなくともビジネスに参入できるという、「おいしい」状況が出来上がる。それは「損益分岐点が歪んだ形で設定され、生産性が低くても維持可能なビジネス」が誕生することを意味する。

「官製の低リスクビジネスが、本来産むはずだった利益すら地域から奪い取る」と言う理由はここにある。
 





加えて、花月楼に関しては行政主導であるがゆえに、人がついてこないという問題が発生する。「政治に口を出すな」との官憲主義下で、人々は行政のやることに口出しできない。できるのは、文句を言うこととサポタージュすることくらいであろう。

だから、サポタージュするのだ。
 「また行政が花月をなんかするらしい」
 「アホくさ。なんで俺らが手助けせなあかんのや?」
 「放っておけや。どうせうまくいかんやろ」

「箱庭民主主義」の当然の帰結である。






すると、今度は真面目にやろうとしている人たちがババを引くことになる。

今回、参考人として市議会までご足労いただいた勝山商工会議所の方は、これから本当に大変な道を歩まねばならない。勝山の商業を何とかしなければという想いと、さりとてなかなか市井の人々がついてこないという「箱庭民主主義の帰結」の狭間で、ご苦労されることが目に見えるからだ。

また、今回の花月楼の件で、受託に名乗りをあげた飲食業者の方も「市のケツについてまわって、うまいこと儲けてる」との言われなき誹謗中傷にさらされている。私は彼の性格をよく知っているが、「誰も引き受け手がいないのなら、勝山のために」と引き受けてくれたのだろう。

そして、肝心の行政は「それは民間が考えることですから」の一点張りだ。
まさに「責任転嫁民主主義」である。

さすがに、私も批評ばかりをしているわけにはいきませんので、この問題に真正面からぶつかることに致します。真面目に活動している人がバカを見る。私が最も忌み嫌うことですから。




もう一度、申し上げる。
冒頭に申し上げたように、「物事を悪くしようとして活動している人はいない」はずなのだ。

なのに、なぜこのようなことになってしまうのか。
真面目に頑張ろうとしている人が誹謗中傷を受け、市井の人々はついてこず、完成すれば「地域の利益を縮小再生産する低生産性」のビジネスができあがる。

我々が望む未来はこのようなものなのか?

この官憲主義を払拭する手立てはないものか?



 (以下、次の投稿へと続く)



子供たちに「考える武器」を与えよう

 

いじめ、不登校……

先だってのこと。妻と次のような会話をした。

「○○さんところの娘さん、かわいそうに不登校になったみたい」
「なぜ?」
「う~ん……いじめられたみたいよ」
こういう話を耳にすると、暗澹な気分におちいる。

子供の社会は、我々の社会よりもよほど狭い。子供たちにとって、家庭と学校とが世界のほとんどだろう。その学校へ行けない状態に陥った子供たちの心境を思うと胸が痛む。



いじめは、人だけのものではないらしい。

さかなクンがいじめに関する素晴らしい文章を発表されている。

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中1のとき、吹奏楽部で一緒だった友人に、だれも口をきかなくなったときがありました。いばっていた先輩(せんぱい)が3年になったとたん、無視されたこともありました。突然のことで、わけはわかりませんでした。

 でも、さかなの世界と似ていました。たとえばメジナは海の中で仲良く群れて泳いでいます。せまい水槽(すいそう)に一緒に入れたら、1匹を仲間はずれにして攻撃(こうげき)し始めたのです。けがしてかわいそうで、そのさかなを別の水槽に入れました。すると残ったメジナは別の1匹をいじめ始めました。助け出しても、また次のいじめられっ子が出てきます。いじめっ子を水槽から出しても新たないじめっ子があらわれます。

 広い海の中ならこんなことはないのに、小さな世界に閉じこめると、なぜかいじめが始まるのです。同じ場所にすみ、同じエサを食べる、同じ種類同士です。

 中学時代のいじめも、小さな部活動でおきました。ぼくは、いじめる子たちに「なんで?」ときけませんでした。でも仲間はずれにされた子と、よくさかなつりに行きました。学校から離れて、海岸で一緒に糸をたれているだけで、その子はほっとした表情になっていました。話をきいてあげたり、励ましたりできなかったけれど、だれかが隣にいるだけで安心できたのかもしれません。

 ぼくは変わりものですが、大自然のなか、さかなに夢中になっていたらいやなことも忘れます。大切な友だちができる時期、小さなカゴの中でだれかをいじめたり、悩んでいたりしても楽しい思い出は残りません。外には楽しいことがたくさんあるのにもったいないですよ。広い空の下、広い海へ出てみましょう。

朝日新聞2006年12月2日)


魚であろうと、人であろうと、集団をつくればいじめは起きるのだろうか。
大人の世界にもいじめはある。
子供の世界にもいじめはある。
そんな中で、我々は子供たちに何をなせばいいのだろうか。




万人の万人に対する闘争

人間の性が善であるか悪であるかという問題は、古来より哲学者や倫理学者の重要なテーマだった。

この人間の性を善悪でとらえる規範倫理学の考え方は、おそらく正義論と直結していたゆえに、重要なものと考えられたのだろう。「正義」は「善とみなされること」をなす以外に達成できないからだ。

確かに、我々は「善もあり悪もあるのが人間だ」などと鷹揚に構えるあまりに、正義を失ってしまったような気もする。60年代の邦画を見ると、やたらと正義が大手を振っているが、そこには明確な規範があった。「弱いものを守るのが男のつとめ」「男は男らしくせよ」「男は泣くな!」という規範があって、はじめて成り立っていた正義があった。無論、それが良いことかどうかは別問題だが。


 古来、中国で性悪説を唱えた人として荀子が有名だが、西欧で性悪説を大々的に展開した人物にトマス・ホッブズがいる。

ホッブズと言えば「万人の万人に対する闘争」が有名だ。

彼は、思考実験として「自然状態」を考える。国家もなく、集団もなく、個人はバラバラで生きていく。そういう状態を想定してもらえば良いだろう。

ここでホッブズは、凄まじくドライなことを言い始める。
「そのような自然状態では、人間は平等である」

社会は格差を生む、自然状態では格差がないから人間は平等である……というルソー的な平等観ではないし、「自然状態では力の強い人間や狡猾な人間が強いだろう」といった考えでもない。

自然状態では人間は平等である。なぜなら、一番弱い人間でも、寝首をかくなどの方法で一番強い人間を殺せるではないか……これがホッブズの言い分だ。

 

そして、自然状態では人はお互いに争い始める。
「人間は人間に対して狼である」
そして、「万人の万人に対する闘争」へと至る。



人は面白いことをやるもので、この自然状態の実験が行われたことがある。1960年代後半に、ロンドン動物園は100頭のヒヒを使って自然状態をつくった。その結果は次のようなものだった。長くなるが、引用しよう。

何年か前、ロンドン動物園は、ヒヒでまことに身の毛のよだつ経験をした。「猿ガ丘」とよばれる囲いに100頭のヒヒを入れて、自然状態をまねる試みをおこなったのだ。

  けれど、最初からヒヒの間にははてしない闘いがくりひろげられ、多数の個体が死んだ。二年目の終わりに残ったのは59頭だけだった。そこで、新たに雌を30頭と雄を5頭いれた。ところが、それによって事態はいっそう悪化した。雄どもは互いに殺しあったばかりでなく、数頭の雌を文字どおりばらばらに引き裂いたのだ。

   三年後には、わずか39頭の雄と9頭の雌が生き残っただけだった。それでもまだ彼らは戦い続けていた。
                           「人間行動の生物学」ダニエル・コーエン著

ホッブズは自然状態を「人口少なく、獰猛で、短命で、貧しく、汚く、人生の喜びも美も何もない」と記している。まさに、ロンドン動物園の「猿ガ丘」は、そのような状態だっただろう。


なぜ、ヒヒはこのような状態に陥ったのか。

問題は、……(中略)……動物園のヒヒの群づくりが自然のものではないということである。野生のヒヒの社会は、開けたサヴァンナの厳しい条件下にあってすら、それほど残忍ではないようだ。ヒヒの群は、一頭の優位雄か、徒党を組んだ二、三頭の優位雄によって率いられている。動物園でおこる果てしない闘いと抑圧はみられない。

……(中略)……

社会的順位は何年にもわたって、あるいは数世代にわたってゆっくりと確立される。ロンドン動物園のヒヒたちには、安定した社会的順位を確立するチャンスがまったくなかったのである。
       (前掲書、下線部は松村)

社会的秩序が確立できなかったがゆえに、ヒヒは「万人の万人に対する闘争」:へ突入した。

この秩序はいじめにも重大な関連性がある。

 

考える武器を子供たちに!


いじめが起きている教室に強力な秩序を与えると、いじめは止む。このことは事例として知られている。具体的には警察を教室の中に入れてしまうのだ。ただし、これは教育行政並びに現場の先生方は極端に忌避する。

教育行政や現場の先生方から「公権力の介入を許すな」という言葉を聞くと違和感を感じる。なぜなら、教育行政や現場の先生方は、我々保護者からすれば「公権力」そのものだからだ。幸いにして、私の子供が通う学校ではそのようなことを言う先生はいないのだが、市外のとある学校で上記のセリフを聞いたことがある。

 
「秩序」というと、我々は「命令ー服従」の関係を真っ先に思い浮かべる。


しかし、秩序とはそのような簡単なものなのだろうか。ならば、会社を思い浮かべて欲しい。上司は部下に命令する。それは「命令ー服従」だけの関係なのだろうか。上司は部下とコミュニケーションをとり、職場では雰囲気を良くするために同僚同士が意思疎通を図る。「命令は命令なのだから、何も文句を言わずに働け」といった強圧な秩序は存在しない。

そのような強圧な秩序は軍隊の中にしか存在しない……などとも考えてはならない。軍隊なら、上官は更にシビアで過酷な状況に置かれる。なぜなら、命令一つで部下を死地に送り込みかねないからだ。ゆえに、軍隊こそ上官と部下との密接なコミュニケーションが必要となる。このことは、米軍アカデミーにおける教科内容を見れば明らかだ。


ビジネス界では、そういったコミュニケーションのツールが様々に開発されてきた。それは単なる秩序の維持ではない。働くという行為を「人が人間らしい活動をするための手法」と認めることで、初めて開発されたものばかりだ。
働くことは、単に糊口をしのぐ手段ではない。人は働くことで社会に寄与し、その存在価値を高めていく。個人として人は働くばかりでなく、職場ではチームとして働く。コミュニケーションのツールは、そのためにある。


残念なことに、そのツールは社会人になってから与えられる。
なぜ、子供たちにそのツールを与えることができないのだろう。


そのツールがあれば、子供たちは自分で自分たちの秩序を作ることができるのではないか?
「何がこの教室内で問題なのか」
「自分たちでそれを解決できないだろうか」
「そのために、皆で考えて行動しよう」
「それじゃ、実際に考えてみよう……」
このような教室があったら、いじめは起きるだろうか。


これらの手法は、ビジネス界では何も珍しいものではない。
自由に発言ができる雰囲気づくり(ラポール)をつくるための手法、
自分たちが置かれた状況で「何がボトルネックになっているのか」を見つけ出す手法、
そのボトルネックを「どのように解決するのか」を考える手法、
対立する考え方を「統合して解決する手法」
……などは、ビジネスパーソンが学ぶべき手法として確立したものばかりだ。

私は、この手法を子供たちに「考える武器」として与えたい。


もちろん、ビジネスパーソンが教えこまれる内容を、そのままの形で小学生に教えることはできない。だが、発達段階に応じた内容を伝えることは十分に可能ではなかろうか。

例えば、TOC(制約理論)を教育界に導入しようとする動きもある。このような動きが更に活発化することを強く望む








秩序、徳、いじめ

古来より教育は「知育・徳育・体育」と言われ、「知・徳・体の健全な発達を目指すこと」が教育の目的とされてきた。

大学を想像していただければ、おわかりのことと思う。「知」に関する大学は、それこそゴマンとある。「体」に関しても体育大学がある。ならば「徳」を専門に教える大学があるだろうか。あるわけがない。なぜなら、テストをして○×の試験をするようなものではないからだ(点数の低い者に「徳が低い」と言うのも変な話だ)


なぜ、「秩序」と「徳」などという……ある種、抹香くささすら感じるものを持ち出すのか。

我が国が自由主義国家だからだ。


言うまでもなく、戦後の我が国は自由主義国家であり、国・行政は各人の持つ思想や信条に一切干渉してはならない。国家が法律をもって拘束するのは、その人の思想・信条が行為として外に現れたときにのみ、その行為を罰するのみである。

したがって、いじめをした子供たちの行為は、いじめをした後にしか罰することができない。事前にその行為にストップをかけることもできない。この点で法は無力であり、ストップをかけることができるのは、「いじめた子供」の内的規範だけなのだ。

この内的規範こそが、従来「徳」とされてきた。しかし、この「徳育」をどのようにすべきか。従来は「道徳」がこれを担ってきた。そこで教えられるのは、価値観でしかない。その価値観に従えば、いじめは悪いことに決まっている。

重要なことは、その価値観を具現化する「手法」が欠けていた点だ。



加えて、我々が見逃しがちな事実がある。
それは「教室は、新興住宅地と同じだ」ということ。


この話を続ける前に、組織について余談をひとつ。

子供たちは同級生を選べない。先生を選ぶこともできない。そのような集団は、会社組織と若干異なる。

日本的組織の典型例は「カイシャ」だと言われるが、学級集団こそ日本的組織の典型例だと私は考えている。

組織とは必ず目的が存在する。そして、その目的が達成されれば組織は解体されても不思議ではない。ところが、世の中には「存続すること」が目的とされる組織・集団がある。

その典型例は家庭だろう。「あなたの家庭は、どのような目的の下に集まった集団なのですか?」などと尋ねることは非礼の極み。
我々は「学校は行くべきもの」として捉えている。何のために学校に行くのか、なんのために子供たちを学校へ通わせるのか。その目的を明確に認識しないまま、学校は行くのが当然の場所として子供を通わせる。

子供たちにとっては「行かねばならない場所」
親にとっては「行くのが当たり前の場所」
そういった位置づけの場所である学級集団は、「存続すること」が目的とされる組織に他ならない。

存続すること」が目的の組織では、その集団から外れることは「村八分」を意味する。不思議なことに、いじめられた子供が転校する場合、あたかもドロップアウトのような扱いを受けることがある。


 そして、「存続すること」が目的とされる、もうひとつの例が村落共同体のようなコミュニティーだ。コミュニティーが「存続すること」を目的としていることは、殊更説明を要しないだろう。

ここで話を元に戻すのだが、村落共同体には強力なルールが存在することがある。なにしろ、2代前3代前どころか7代前10代前の出来事が息づいている場所なのだ。長い歴史の中で培われたルールがあってもおかしくはない。

そのルールが疎ましくてコミュニティーを後にする人もいるのだが、ならば、彼らの住む新興住宅地は、ルールが希薄で困る場所でもある。

何かを決めようとしてもなかなかきまらない。
コミュニティーの重要さは理解はするが、面倒くさいことはいやだ。
……といったように、縛りのなさがもららす弊害もやはりあるのだ。
そこでは、組織の意味を確認し、皆で話し合って、何をするのかを考える。そういったコミュニティーづくりが求められる。

それは学級組織も同じこと。






いじめのないクラスは気持ちいいよね……といえば、子供たちは誰しも納得はする。ただし、それは価値観の問題に過ぎない。そこで止まっている限り、いじめは起きる。
その価値観を実際に運用する手法こそ、子供たちに必要なものだ。

いじめのないクラスは気持ちいいよね…といっても、そのクラスという組織、秩序をどのように作っていくのか。その組織作りの手法がなければ、画塀に帰すだけだ。




もう一度申し上げる。

我々大人が考える理想のクラスとは、どのようなクラスなのだろう。
クラスで問題が発生したときに、なにが問題なのか。それを語り合って、みなで解決方法を模索しながら結論へ至る。そして、それを積極的に実現する。
そんなクラスではなかろうか。

もちろん、大人がそれをできているとは言い難い。大人の社会でも難しいのだ。だが、だからといって子供たちにはできないだろうと高を括ったり、あきらめたりすることもあるまい。

なぜなら、手法はすでに出来上がっているからだ。



子供たちに「考える武器」を与えたい。私は切にそう思う。
それを学ぶことが、社会に出たのちに有益であるという点もあろう。だが、根本には、いじめで自死を選ばねばならなかった子供たちの不憫さがある。
「どんな問題でも必ず解決できるはずだ」
「その方法は、このまえ先生が教えてくれた」
「だったら、それ使ってみようよ!」
という児童・生徒がクラスの中にいたなら、どうなっただろう。


 

花月楼に関する3つの疑問 ―インターミッション―

 

インターミッション

なぜかブログに花月楼のことを書き始めたら、色々な人から色々なことを言われるようになりました。ちょっと不思議な想いがします(苦笑)。

花月楼を再生するな!」「手を加えるな!」という趣旨ではありません。要は「時期が早すぎる」ということです。

花月楼の問題は、単に花月楼だけの問題ではありません。勝山市の大きな流れを見て判断しなければならない問題です。

……というわけで、今回はインターミッション。幕間劇をお楽しみください。



負のスパイラル

多くの自治体が抱えている問題は、負のスパイラルから成り立っています。
手書きで申し訳ありませんが、下の画像が負のスパイラルです。

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自治体は様々な問題を抱えています。農業でいえば、後継者の問題、耕作放棄地の問題。福祉政策、中心市街地活性化、教育問題等々、数え上げればキリがありません。
これらの諸問題のほとんどが「人口減少」から発生していることを押さえておいてください。

そして、これら諸問題の多くが未解決のまま放置されている。もちろん、行政も市民も様々な努力をしてきたことは事実です。しかし、残念ながら行政主導のやり方では解決できない問題ばかりです。

「また、ダメだったか」「どうせ勝山じゃ何やったってダメだよ」:との諦観、つまりあきらめムードが漂ってくると、当然に人々は市外へ転出し始めます。

転出された方々に詳しく話を聞くと、実は転出の理由は「新しい場所へ行ってみたかった」とか「職場に近いから」とか「酒飲んだときに、勝山まで変えるのが面倒だ」といった……そういうレベルの理由が多かったりするのです。
(もちろん、深刻な理由を抱えていらっしゃった方もいましたが)

 転出が増えれば、人口減少が進むのは当然の理。そして、人口減少が進めば、未解決の問題たちは、解決するためにより困難さを求めてきます。


この負のスパイラルを断ち切り、なおかつ、矢印の向きを逆転させることに成功したら?
つまり、正のスパイラルが動き始めたら?
なかなか面白い世の中になると思いませんか?


そうなるためには、この忌々しい負のスパイラルのボトルネックを探さねばなりません。
そう、ボトルネックは「諸問題を解決できていない」こと。
正確に言えば、「解決できたと『実感』できていない」ところにあるのです。





我々に必要なもの

我々は理性で動いているようで、その実、感情の生き物です。理性で考えれば「これを食べればダイエットにならない」と分かっていても、目の前のドーナツに手が伸びる。「ここで子供を叱ってはならない」と分かっていても、つい子供を怒鳴ってしまう。部屋を片付けなければわかっていても、億劫でやめてしまう。

そんな経験は私だけではないはず(多分)。

先ほど申したように「諸問題を解決できていない」ことと「解決できたと実感できていない」ことは、似ているようでまったく別物です。

私事ですが、最近、息子からせがまれてインライン・スケートを買いました。
早速、息子が試してみるのですが、なかなか上手くいかない。私も横からアドバイスをするわけです。練習を繰り返す過程で、色々なことができるようになってくる。
「やったね。できるようになったじゃないか」:
と息子に言っても、当の本人は浮かぬ顔をしている。どうやら、できたという実感が湧かない様子。

「問題が解決できた」とは息子が技をできる段階まで達した「事実」です。しかし、できるようになったと実感するのは息子自身です。彼が「実感」できない限り、息子はできたとは思っていない。この乖離こそが重要なのです。


「物事を改革しようとする際には、変化を細かく起こせ!」とは、よく言われることです。言うなれば、数学のテストで40点しか取れない子供に「次のテストは90点を取りなさい」などと言っても無駄なのです。40点しか取れない子供ならば、次のテストは45点を目標にしなければならない。変化は細かく起こさなければならない……という意味なのですが、これは必要条件であって十分条件ではない。


正確には、こう言わなければなりません。
「物事を改革しようとする際には、変化を細かく起こして、それぞれの段階で勝利体験を実感させよ!」
40点を取った子供が、次のテストで45点を取った。これは大きな進歩です。しかし、「事実」として進歩したとしても、当の本人が「でも、クラスの全員は僕よりもいい点数を取ってるんだ」と進歩を「実感」できないのであれば、それは勝利体験とは呼べません。いくら外野が誉めそやしたところで、当の本人が実感できていなければ、それは勝利体験とは言えません。

逆に言えば、変化が起きたことを「実感」させれば、次のステップへ進むための強力な動機付けになるのです。

日本には「雪だるま式借金」という言葉がありますが、アメリカには「雪だるま式返済法(Dead Snowball)」というやり方があることをご存知でしょうか。これは借金返済方法としては異例のやり方です。
    ①借金のリストをすべて書き出せ。
    ②それらを金額の小さな順に並べよ。
    ③まず、完済するのは小さな金額の借金から。
ルールはこれだけですが、常識的にはあり得ない方法です。通常ならば、金額の高い借金から完済していかなければなりません。なぜなら、金額が高い借金は、それだけ利息が高いので、後回しにすればするほど借金の山がうず高く積まれるからです。

この「雪だるま式返済法」を提唱したラムジー夫妻は、それでも「小さな借金から支払うべきだ」と主張し、事実、夫妻自身はこの方法で借金地獄から抜け出しました。

人は負債の山を前にすると無気力になる。果てしなく続く借金との戦いに「自分でも勝てる!」と確信を持ちながら戦い続けるためには、2000万円の借金を返すために途方もない努力をするよりも、まずは、滞納中の1万5000円の携帯電話料から支払うべきなのだ。ひとつひとつの勝利が次への戦いへのモチベーションとなるのだ……という趣旨なのです。

「実感すること」が次へのステップのモチベーションになることの好例です。



政治が人を相手にする行為であるにもかかわらず、政策立案者は、ややもするとここを見逃します。

今の我々に必要なものは「小さな勝利体験」であり、勝利を「実感」することです。


花月楼自体を再生させようと思えば、たいして難しい話でもありません。行政がテコ入れし続ければ良いだけ。

行政関係者は忘年会・新年会、各種会合は必ず花月楼を使うこと。旅行代理店を通して、飲食は必ず花月楼を使うように指示すること。毎年、イベント費用をつけて花月楼周辺で定期的にイベントを実施すること。これらのことをやり続けていれば、花月楼には人が訪れ、「事実」として花月楼の入込客数は増加することでしょう。

しかし、それは市民が「実感」する「勝利体験」ではありませんね。


市民が「実感」する「勝利体験」とは、中心市街地に市民自身が周遊することです。
例えば、市民の高齢者が中心市街地を2~3時間ゆったりと周遊できるプログラムを作りる。「今日は中吉座で昔の映画をやってる」と聞いたので、お年寄りが友達と連れ立ってやってくる。ついでに、茶飲み話もしていく。ふと周りを見回すと「最近、この界隈を訪れる人が増えてきたな」と実感する。

こういった勝利体験の積み重ねを実感してこそ、初めて、中心市街地活性化の第一歩が築けるのです。「市民は中心市街地を周遊しないが、花月楼だけは観光客が来ている」という事態は、市民の勝利体験ではありません。


そして、「市民の勝利体験」は思わぬ効果を産むことでしょう。
それは「道の駅はコンビニに負ける」という、不吉な予想ともリンクしています。






行政主導の欠陥

高速道を走っていると、コンビニが入っているサービスエリアがあることに気付きます。不思議だと思いません?コンビニに売っている商品の大半は、サービスエリアの売店でも売っています。しかしながら、コンビニはそこにあり、実際にお客さんが来る。


これは理由が二つあると考えられます。

ひとつは「意思決定の麻痺
選択肢が増えれば増えるほど、それがどんなによい選択肢であろうと、我々は凍り付きます。

 野村総研が行った調査で見えてくるものは「情報が多すぎて困る消費者」像です。
日本の消費者の7割が、商品やサービスを購入する際に「情報が不足していて困る」よりも「情報が多すぎて困る」と感じていることが、1万人アンケート調査からわかっています。

 

情報が多すぎる、つまり選択肢を増やせば増やすほど、人々は疲れ果てます。

結婚されている方は、奥様がこういうセリフを吐かれる場面に出くわしたことはありませんか?
「今日の晩御飯、なににしようかしら? もう毎日考えるのは面倒くさいわ」

合理的な判断に従えば、選択肢が増えることは自由度が高まることであり、称賛されてしかるべき状態のはず。しかし、人はどうやら選択肢が多くなればなるほど疲れてしまうようです。

 バルー・シュワルツは、その著書の中でこう言っています。
多くの選択肢に直面すると「人は負担を背負いきれなくなる。こうなると、選択の自由はわたしたちを解放するどころか、委縮させるものになる。暴圧といっていいかもしれない」

新装版 なぜ選ぶたびに後悔するのか オプション過剰時代の賢い選択術

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目の前に、道の駅やサービスエリアがあります。
そこに立ち寄れば、確かに地場産品が売っていることでしょう。しかし、それは「選択肢を増やす」ことに他ならない。ならば、慣れ親しんだコンビニに入るほうがいい。何が売っているかもわかっている。どういう陳列棚になっているかも予想できる。そちらのほうが、よほど気楽でいい……と考える人々が多いからこそ、サービスエリアや道の駅の中にコンビニが存在するのでしょう。





サービスエリアや道の駅の中にコンビニがある、ふたつめの理由は「コンビニが自分の部屋の延長である」ことです。


コンビニがなぜ存在するのか。これは昔から抱いていた疑問でした。24時間開店しているからなのか?……とも考えましたが、仮に、24時間開いているスーパーの隣にコンビニがあったとしても(現実にはありえませんが)、私はコンビニに行きます。

これは女性陣には理解しがたいことかもしれませんので、ご主人にお尋ねください。男性陣はかなりの確率で私の意見に賛同していただけるものと思っております。「単にスーパーで買い物した経験がないからでしょ?」という理由でもないのですw

コンビニに行く理由……というよりもコンビニに行くと落ち着く理由は何なんだろうと考えた挙句、「コンビニは自分の部屋の延長ではないか?」という理由に落ち着きました。

自分のアパートの冷蔵庫の延長がコンビニの保冷棚であり、自分の本棚の延長がコンビニの本棚なのです。コンビニに「ぶらりと行く」のは、何かを買うためではありません。行ってみて「欲しいものがあれば、補充する」感覚なのです。特に欲しいモノがなければ、まあ、店にも悪いから肉まんのひとつも買って帰るか……となる。スーパーマーケットは必要なものを買いに行く場所です。コンビニは、行ってみて必要なものを補充する場所なのです。「とりあえず、行ってみる」という場所がコンビニなのですね。

サービスエリアにコンビニがある。すると、別に何を買うわけでもないけれど、まずは行ってしまう。それがコンビニの面白さであり、恐ろしさでもあります。

生半可な道の駅では、目の前にあるコンビニには勝てませんよ。これは私の持論です。





本論に戻しますと、コンビニは「とりあえず、行ってみる」場所です。
前述したように、中心市街地に高齢者の流れが出来た、その勝利体験が生まれたならば、シメたものです。そこは「とりあえず、行ってみる」場所になったからです。



今年の1月のことです。農水省にお話をしに行ったついでに、「おばあちゃんの原宿」として有名な「とげぬき地蔵商店街」をじっくりと見てきました。

わかったことは、高齢者の動線はただひとつであること。とげぬき地蔵で有名な高岩寺にお参りして「体の痛いところがあるのなら、お地蔵様の同じところをさする」だけ。後は、お友達とお茶をして帰る。実際に聞き取りしたお年寄りは、この行動パターンでした。

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要はニーズを掴んでいるかどうかです。高齢者に話を聞き続ければ、実は、高齢者は「お友達とお話する」場所があればいい。それがよくわかります。すると、「お友達とお話をする『きっかけ』を作って欲しい」というニーズが表面に出てきます。


ここでコンビニの「とりあえず行ってみる」が出てくるわけです。
「とりあえず、お地蔵さんにお参りしよう」
これがお友達を誘うきっかけになる。人通りも多いし、なにやら楽しそうだ。ならば、行ってみようか……という話になる。


もう一度、振り返ってみましょう。
「小さな成功体験」とは、「あれ?最近、この近辺に賑わいが出てきたな」という実感です。それは、実体験として「実感」できる。
すると、その実感を他人に話したくなる。
「最近、本町や後町に人の流れが出てきたみたいやざ」
「なんで?」
「私も行ってみたけど、いろんな面白いことやってるみたいや」
「ほんなら、いっしょに行ってみよさ」


おわかりでしょうか。
「勝利体験」が「市民としての自信」を産んでいることに。勝山にも面白い場所が出来たざ、「とりあえず行ってみよさ」……という流れに。それがコンビニのように「自分の部屋の延長線」に捉えられてくれるようにまでなれば完璧です。





さて、これが行政主導でできるでしょうか。
どのような理屈を並べようとも、昨年から眺め続けていた結果と、私の行った聞き取り調査を総合すると、今回の花月楼の再生は行政主導としか言いようがありません。


私が「花月楼の再生は時期尚早だ」と主張する理由がおわかりいただけるでしょうか。
市民が周遊しない場所に観光客を呼んだところで(それ自体が不能ですが)、それが負のスパイラルを解消するものなのでしょうか。

ましてや、行政主導で行われる本事業を引き受けた人々、企業、団体の人々が引き受ける避難やご苦労を思うと、正直気の毒でなりません。


許せないこと

議会内部にも「とりあえずどうなるのか。お手並み拝見」という意見があるのですが、正直、私はそのような意見を持ちえません。

今回の花月楼再生において、勝山市は商工会議所、観光協会まちづくり会社というカードをテーブルの上に出そうとしています。このカードはここで切るべきではありません。なぜなら、このカードを切ってしまい、失敗の憂き目にあったならば、我々に残されたカードはもうないのです。

「最初から失敗を考えてどうする!」と私に言った人がいましたが、ならば逆に教えていただきたいくらいです。「成功する要因はどこにあるのです?」と。

このカードは、軽々しく切るべきカードではないし、その時期でもない。





花月楼再生に関する3つの疑問  その2.花月楼再生プランは組織に欠ける

 

本町商店街は「成功したまちづくり」事例だった?!

このブログを書いている最中に、衝撃的なニュースが飛び込んできました。
産経新聞10月22日全国版に、勝山市本町商店街が「にぎわいを取り戻した」成功事例として紹介されていたのです。

商店街低迷どう脱出?
ー成功10か所の事例紹介ー

近畿経済産業局は管内(2府5県)の商店街で低迷から脱した10カ所を「イケテル商店街」として選定し21日、ホームページを通じてアイデアや具体的な取り組みの紹介を始めた。人口減などから多くの商店街が苦しい環境に置かれる中、成功事例を参考に、にぎわいを取り戻してもらうのが狙いだ。

選ばれたのは「激辛グルメの聖地」として注目を集める京都府向日市の「京都向日市激辛商店街」や、歴史的街並みの整備などを通じて観光客を増やす福井県勝山市の「本町通り商店街」など。今回の10カ所を含め、今年度中に30カ所程度選ぶ予定という。


記事中には、ご丁寧に「にぎわいを取り戻した福井県勝山市の『本町通り商店街』」と写真まで掲載されてしましました。

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個人的には驚くほどのこともありません。
国が言う「成功事例」なんてこんなものばかりだからです。いろいろな視察に行って嫌になるくらい見せつけられていますので(苦笑)。

行政は過ちを認めません。
しかし、民間企業でこれをやれば「粉飾決済」と言われるのです。売ってもいないものを売ったと言い張り、あげてもいない利益を計上し、成功したと胸を張る。粉飾決済以外の何物でもありません。

現実を見ましょうよ。
私は「誰が悪い」式の犯人捜しには興味がありません。そんなことをしている時間的余裕はないし、第一、非生産的すぎる。
ただ、現実をごまかして事業を行ったところで、出来上がった事業は砂上の楼閣。永く持つものではありません。

というわけで、本題に戻りましょう。

 

花月楼再生は、組織に欠ける

花月楼をリニューアルし、まちなか誘客を図る。この素案には「組織が欠けている」ことが今回のテーマです。

主たる問題点は次の4点に集約されます。
まちづくりの悪いパターンである「属人主義」が出ている。
②市内地誘客への「段階」を踏まえていない。
③現在の我々に真に必要なものは、「成功体験」である。
④必要な人材は「親方」ではなく、「コーディネート役」である。





まちづくりの悪いパターン、属人主義

花月楼再生について「勝山まちなか観光戦略」では、まちづくり会社を設立し、このまちづくり会社花月楼を所有した上で運営することになっています。


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まちづくりが陥る悪循環「属人主義」が、ここには如実に表れています。
行政からまちづくりに至るまで、未だに、この「属人主義」が蔓延しているのは不思議なことです。

ここで言う「属人主義」とは、「まちづくりをするには、中心となってバリバリ盛り立ててくれる人がいなければならない」という発想です。

確かに、いかなる組織であろうとも、組織にはリーダーが必要です。それと属人主義とは似て非なるものでして、明確に区別しておかなければなりません。属人主義とは「まちづくりにはキーマンが必要だ」「キーマンがいなければ、まちづくりは進まない」という発想を指します。



属人主義的まちづくりは、3つの大きな失敗を起こしかねません。

ひとつは、戦略の不在を隠すこと。

前回の拙稿で「戦略」の話をいたしました。戦略は、論理で攻めていくものです。映画に例えるなら、名優や大女優は出演していないが、ストーリーの面白さが抜群に良かった……という映画が、戦略に優れた事業です。

他方で、属人主義的な「キーマン第一主義」は、「コマンドー」に代表されるヒーロー映画でしょう(誤解無きよう、私はこの映画が大好きですw)。戦場にアーノルド・シュワルツェネガーが登場して、とにかく銃をぶち回し敵をなぎ倒してハッピーエンド、めでたしめでたし……という映画。スカッとしますが、荒唐無稽甚だしい。

つまり、ちゃんとした戦略さえ立てておけば「キーマンがいないから、成功しないのだ」などという与太話は出てこないのであり、属人主義的キーマン第一主義は、いわば戦略不在を自ら証明しているに過ぎません。



ふたつめは、「誰か有能な人を探せば何とかなる」という他力本願の思考を引き起こすこと。

まちづくりは自分たちのためにやるものです。ところが、「キーマンがいなければ、まちづくりは始まらない」という発想は、「どこかに誰かがいるはず」「有能な人間を探し出してポジションに据えれば、万事それでうまくいく」といった、他力本願の思考を呼び起こしかねません。


三つめは、他力本願の思考は容易に無責任の思考に変わること。

「誰かがやってくれるはず」という他力本願の思考は、無責任の思考でもあります。市民は「行政がやってくれるだろう」と考え、肝心の行政は「市民団体がやってくれるのですから」となる。行政も市民も「勝山を発展させたい」との想いを共有しているはずなのに、お互いに責任をとろうとしない。そんな状態が発生します。


この3つの特徴が表れると、無気力と諦めという結果が出てきます。
戦略の不在は、「何のためにこの事業をやるのか」「この事業をやると何が起きるのか」という未来へのストーリーの欠如です。これがなければ、そもそも人は動きません。戦略が不在の状況で、行政主導のまちづくりだけが進んでいく。すると、人々は「またか、また始まったのか」となる。
「どうせ、何やったってダメだよ」という無気力と諦めまで後一歩です。


まずは現実を見ましょう。すべてはそこから始まります。
勝山のまちづくりは、本当に「まちづくり会社を立ち上げれば何とかなる」というレベルにまで達していますか?
「どうせ何やったってダメなんだよ」「もう、勝山は終わってるよ」という無気力と諦めの声は聞こえませんか?

「うちの会社は何やったてダメだよ」
「うちの会社の体質じゃね、たぶんダメだよね」
と、社員の士気が低い会社で「新しい部署を立ち上げて、バンバン売り上げ伸ばすぞ!」と気勢を発しても、その声は社員に届きません。

士気が低いのなら、まずはそれを受け止めて、そこからスタートしましょう。


今回の「勝山まちなか観光戦略」では、属人主義が「人」ではなく「組織」に変わったに過ぎないと感じる理由は、上記の現実を踏まえていないからです。まちづくり会社さえ作れば何とかなる……という発想は、士気の低い会社で新規事業を立ち上げるくらい悲劇的です。


ちなみに、私たちも花月楼再生のプランを考えてみましたが、仮にまちづくり会社を設立するのであれば、その資本金は最低でも4000万円。できれば6000万円は必要だとの結論に至りました。
ところが、「勝山まちなか観光戦略」で示されたのは資本金1000万円の資本金額。もちろん、行政が応分の出資をすることを前提としての金額です。

この資本金で事業はできません。となれば、当然に金融機関に対して融資を願うことになるのでしょう。しかし、その事業計画書もない……となると、市民はこのまちづくり会社をどのように捉えれば良いのでしょうか。




なら、どうすればいいの?


まずは現実を見ましょう。そこからです。
現実を考える際に、次の3つの疑問は重要です。

①本当に中心市街地の活性化は必要なのか?
②勝山では、まちづくりはビジネスとして捉えられていないのではないか?

③市民が周遊しない場所に観光客が来るのか?



①「本当に中心市街地の活性化は必要なのか?」
最初に考えるべきは、この問題です。我々は、ここからスタートしなければなりません。

なぜ、そこから始めなければならないのか。それは、行政主導のまちづくりは、往々にして根本問題を解決しないままに進められるからです。

 

 その典型例が、国の補助金をもらって行政主導で行う「商店街活性化事業」。
商店街活性化事業としては、
  ①誘客のためのイベント事業
  ②空き店舗対策事業
で成り立っている事例が少なくありません。
しかし、おかしくありませんか?
誘客のためにイベント事業をする理由は「お客が少ないから」です。空き店舗対策をする理由は「お店が少ないから」です。つまり、売り手も買い手もいない商店街を何とかしようとするのが、多くの自治体で見られる商店街活性化事業なのです。

事業をする前に、「そもそも、この商店街は必要なのか?」という根本問題を語ることが必要ではないのでしょうか。

平成15年に全国商店街振興組合連合会が行ったアンケートでは、全国の商店街で「繁栄している」と答えた商店街は2.3%に過ぎず、「停滞している」「衰退している」と答えた商店街は、実に96%に及びます。

 

行政がこれを口にすることはタブーです。そのようなことを口にした瞬間に「お前らは、俺たちを切り捨てるのか?」と地元商店街から猛反発を受けるからです。行政主導の再開発や活性化事業では「何のために活性化するの?」という根本問題がスッポリと抜け落ちたまま事業を進めた結果、イベント事業やチャレンジショップといった当たり障りのない事業が横行することになります。

切り捨てるのではありません。

「このエリアは商店街として必要性があるのかいなか」を語り合うのです。
勝山の中心市街地の人々が求めているのは「賑わい」なのではありませんか?「商店街としての復活」を本当に望んでいるのですか?

「でも、『何のためにやる』かを考えることって、組織づくりじゃなくて戦略づくりじゃないの?」と思われた方は鋭い!組織は必ず戦略に沿ったものになります。戦略を作っていく作業は、そのまま組織を作っていく作業にパラレルになるのです。





②勝山でまちづくりはビジネスとして捉えられていないのではないか?

まちづくりをビジネスとして捉えることは重要です。

ビジネスは短期決戦ではありません。稼ぐだけ稼いであとは撤退するというようなビジネスも確かに存在しますが、まちづくりをビジネスとして捉えたときにそのような手法を採ることはできません。
長期的な利益をどのようにもたらすのか。「賑わい」を維持しながらどのような利益を創造していくのか。

その仕組みをつくっていくのが、ビジネスとしてのまちづくりです。

名前を出すと申し訳ないので場所は伏せておきますが、県内有名観光地の観光協会を訪れて詳しくお話を聞いた時に、
「昔は観光客が放っておいても来てくれた。朝、店のシャッターを上げれば、そこには観光客がいた。だから、何も考えなくても商売ができた。だからね、松村さん。観光客が減っていったときに、私たちは何をしていいかわからんのですよ」

この方が困っておられるのは「仕組み」が機能しなくなったからです。

この県内有名観光地は、「この観光地では観光客が日常的に来るので、観光客にモノやサービスを提供すればビジネスとして成り立つ」という「仕組み」で動いてきました。ところが、その「仕組み」が機能しなくなったとき、人々は何をして良いのかわからなくなります。

「仕組み」というと難しく感じるかもしれませんが、世の中の大半の人々はこの「仕組み」の中で生きています。サラリーマンの人は「毎日、会社に行く」「サラリーをもらって生活する」ことが生活の仕組みです。ですから、「明日から会社に来なくていいよ」などと仕組みを壊されると、途端に何をすべきか途方に暮れるでしょう。
学生さんは、「毎日、学校に行く」ことが生活の仕組みです。学校へ行くという仕組みを壊されて、登校が苦痛になる。それがいじめの怖さです。
人々は「仕組み」の中で日々を生きています。ある意味、ルーチンワークのように。そのルーチンワークで利益が上がるようにするのがビジネスモデルという「仕組み」でもあります。

 

まちづくりとしての仕組み、ビジネスとしての仕組み、そして人材育成の仕組み。この仕組みがなければ、人は身動きが取れません。逆に言えば、仕組みをポンと目の前に提示されると、人は動きやすくなるのです。

「賑わいをつくる仕組み」「その仕組みの中で利益を生み出す仕組み」……そして、「それらの事業を減る中で人材が育っていく仕組み(OJT)」の3つが求められているのです。

その「仕組み」を語ることが戦略であり、その「仕組み」を実現化するために組織化が必要なのです。

 





③市民が周遊しない場所に観光客が来るのか?

市民が周遊しない場所に観光客を呼ぶ。常識的にあり得ないだけでなく、経営的にも非常識な発想です。会社経営で重視されるのは「収入の帯を作る」ことではありませんか?平日はまったく閑古鳥がないている。ゴールデンウィーク、夏休みといった大型連休のときには異常なまでに込み合う。これで店舗経営ができると思う経営者はいません。




以上の点から、必要なものは見えてきます。

①中心市街地の活性化を「何のために活性化するのか」を明確にする。
②市民が周遊できるプログラムをつくる。
OJTのプログラムをつくる。


 

次回は、この流れを具体的に考えてみましょう。


花月楼にまつわる3つの疑問  その1.花月楼再生プランは戦略に欠ける

 

はじめに

 9月定例会において、中心市街地の活性化策として旧料亭花月楼の再生案が示されました。
 確かに、恐竜博物館を訪れる観光客をベースとして観光に携わる雇用を確保していくこと、そして中心市街地の活性化は、極めて重要な課題です。市長が進める方策が成功すれば、素晴らしいことでしょう。それが成功することを市民のひとりとして願うばかりです(嫌味ではなく、正直な感想です)。


 しかし、冷静に考えたときに、今のやり方では花月楼は成功しません。それどころか、「道の駅―長尾山―花月楼を一体的にマネジメントする」構想(後述)も破綻する可能性が高いでしょう。
 その理由としては、
 (1)戦略が欠けている
 (2)組織が欠けている
 (3)責任が欠けている
こんな状況で成功すると考える方が無謀です。



繰り返しますが、花月楼を再生するな、道の駅を作るなと言っているのではありません。やるからには、成功する確率が高い方法で進めて欲しいと言っているのです。

後述しますが、9月定例会最終日の全員協議会では山岸市長自らが、道の駅と長尾山と花月楼を一体的にマネジメントするという構想を示されました。その構想自体は間違ってはいません。しかし、その手法を吟味するとき、危うさを感じずにはいられません。

道の駅に4億円、長尾山に2億円、花月楼に暫定で1億円……総合体育館を建設した後に、これだけの大型事業をする余裕が果たして勝山市にあるのか。そして、時宜を得ているのか。それを検証してみましょう。

 

現在の状況

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旧料亭花月楼は、明治37年(1904年)に建造されました。明治37年といえば日露戦争の年。繊維産業華やかなりし時代は、様々な宴席が設けられたことでしょう。ちなみに、勝山駅舎は大正3年(1914年)建設です。

さて、この花月楼をリニューアルしてまちなか誘客を目指すスキームで、今のところ分かっていることは次のとおりです。

(1)まちづくり会社を設立する。
(2)花月楼はまちづくり会社が所有・運営する。
(3)まちづくり会社は商工会議所等が中心となり設立する。
(4)市はリニューアル費用を補助する予定。
(5)県も補助する可能性がある。
(6)商工会議所等が「勝山まちなか観光戦略」を策定し、この戦略に沿って進める。


これを踏まえて、前述した3つの不安要因、
(1)戦略が欠けている
(2)組織が欠けている
(3)責任が欠けている
について説明します。





花月楼再生は、戦略に欠ける

商工会議所が中心となり策定された「勝山まちなか観光戦略」ですが、まずは策定に携わった方々のご尽力に対して深甚の経緯を表します。無から有を生み出すような戦略やプラニングを考え抜く際の、乾いた雑巾を絞って一滴を出すような苦労。これは、やった者でないとわからないものです。

そのご苦労を踏まえた上で敢えて申し上げるのですが、この「勝山まちなか観光戦略」は戦略ではありません。単なるアクションリストです。
(※「勝山まちなか観光戦略」は後ほどの画像で確認できますので、そちらをご覧ください)


「戦略」とは、その定義からもわかるように、未だ到来していない将来像を描くものです。あらゆる数字は過去のものです。まだ誰も見たことがない、見えないものを見せてくれる。それが「戦略」です。


まだ誰も見たことがないものを見せてくれて、なおかつ、それが腑に落ちるものである。市民の誰しもが「なるほど、それは確かにいけそうだ」と理解できるために、根っこで定義しなければならないのは、
 「お客様は、なぜその商品を買うのか
という点です。
 勝山の中心市街地へ誘致しようとするお客様は、「何か」を求めてまちなかへいらっしゃいます。そして、そこで商品なりサービスなりを買う。では、お客様は何を買うのでしょう。

 コーラーを買う人は、直接的には缶やペットボトルに入った黒い液体を買うのですが、「スカッとさわやかにのどを潤す」ことを欲しています。工具のドリルを買う人は、ドリルが欲しいのではありません。「穴をあけたい」のです。医者に行く人は「健康」を買うのであり、エステに行く人は「美」を買います。ならば、花月楼に来るお客様は、なぜ花月楼に来るのでしょうか。

ここが「勝山まちなか戦略」では明確になっていません。恐竜博物館を訪れるファミリー層に1階では惣菜ビュッフェをするという構想ですが、「食」を提供するだけならば花月楼を使う意味はどこにあるのでしょう。そもそも惣菜ビュッフェは、ファミリー層のニーズを掴んでいるのでしょうか。

そして……これは真剣に考えなければならない重大問題なのですが、「恐竜博物館を訪れるファミリー層は、『勝山の地のモノを食べたい』と考えているのかどうか」
ここは極めて重要なポイントです。ここをあやふやにして先に進むと、他の自治体の失敗例と同じ道を進みかねません。

 難しく考えることはないのです。皆さんが子供を連れて県外の観光地へ旅行したときのことを思い出すなり、想像してみてください。その観光地の『地のモノ』を子供たちと一緒に食べたいか否かです。
 例えば、「福井へ来たのでカニを食べていこう!」これはアリでしょうね。十分に想像できます。「永平寺へ来たついでにゴマ団子を食べてみよう」これも……まあ、ファミリー層で考えた場合、微妙なラインですがありうる話です。
 それでは「恐竜博物館に来たので、勝山の地のモノを食べていこう」……明らかに次元の異なる話をしているのがおわかりでしょうか。

 「勝山のモノは美味しいざ!」と勝山の人が言うこと、それ自体は間違いではありません。それはお国自慢として微笑ましいものです。ただし、これを基盤として事業を組み立て始めると大きな失敗をするでしょう。なぜなら、恐竜博物館を訪れるファミリー層は、勝山を訪れたのではなく、恐竜博物館を訪れただけにすぎないからです。

 福井県の知名度は、ご存じのとおり47都道府県の下から数えて3番目くらいです。この下から数えて3番目というのは厄介なものです。いっそのこと最下位ならば、それを逆手に取ることも可能でしょう。しかし、下から数えて3番目というのは何をするにも中途半端です。
(オールドな野球ファンは、かつてロッテが「テレビで見られない川崎球場」という逆説的なアピールをしたことを記憶されているでしょう)
その福井県が観光で売り出そうというとき、正直、私も思いました。「もともと知名度がない福井県が頑張ってもなあ……」 実際に、これまで福井県は知名度の低さを認めようとはしませんでした。長い間、そこには目をつむってきたのですが、ようやく近年、「現実を見ましょう。私たちは知名度が低いのです。それを認めた上で施策を講じるべきです」という部課長が現れてきました。
(名前を言うとご迷惑かかるでしょうから申しませんがww)

県も変わろうとしています。
私たちも現実を見ましょう。そして、もう一度、考えてみましょう。
「恐竜博物館を訪れたファミリー層は、どのような価値を求めて、わざわざ中心市街地の花月楼まで来るのか」

まずは、この問いに応えないことには戦略の第一歩を踏み出すことができません。



他にもまだまだ問題はあります。

ターゲット顧客の切り方がブレています。恐竜博物館を訪れるファミリー層、団体客向けのお座敷弁当、外国人観光客。「勝山まちなか戦略」では、これらをターゲット顧客としていますが、これは切り口として広すぎます。
ターゲットを定めるとは、お客様を絞ることです。なぜお客様を絞るのか。その理由は、絞らなければ絞ってきた競合に負けるからです。そして、顧客を絞るということは、他の市場を諦めるということを意味します。すべての人々に訴求する商品などは存在しません。
ファミリー層も、団体客も、個人客も、外国人観光客も取り込む……というのは、何も諦めていないということです。それはすなわち「どこにもトンがったところがない」商品を作り出すことを意味します。
(どこにもトンがったところのない商品の典型例は、行政の出す広報誌です。福井県の出す「グラフふくい」を、あなたはお金を出して買いますか?)



加えて、花月楼の強みは何かという点も曖昧です。強みは、そのまま差別化をもたらします。花月楼で地の食を提供することと、8番ラーメンでラーメンを食べることと、グリル山田でソースかつ丼を食べることと、コンビニで弁当を買うこと。これらの中で花月楼の差別化と強みは何でしょう。

 仮に、それが「文化財としての価値」と「左義長ばやしの体験等」であるならば、もはやファミリー層は捨てるべきなのです。
 要するに、「強み」-「差別化」-「ターゲティング」の一貫性ができていない。それは、繰り返しになりますが「お客様はなぜその商品を買うのか」という第一歩が定まらないところから来ています。




他にも言いたいことはあるのですが、戦略の欠如に関して最後にひとこと。

「戦略」が出来上がると、「次に打つ手が見えてくる」ものです。もう一度申しますが、戦略とは未だ目にしたことのないものを描くことです。この手を打てば、ここが変わる。ここが変われば、あそこが変化する……という道筋が時間軸で描かれます。

ところが、「勝山まちなか観光戦略」では、まず最初にまちづくり会社を作った後に、何をすれば良いのかがわかりません。アクションリストだと冒頭で申し上げたのは、ここに理由があります。

戦略とは、サッカーの試合で言えば「どのようにパスをつないでゴールを狙うか」を説明するようなものです。ゴールシーンを「中心市街地に観光客が周遊し、経済効果を産む」と設定し、パス回しのスタートラインを「花月楼で顧客にどのような価値を提供するのか」と設定した後に、誰がどのようなボール運びでゴールまで持っていき、ゴールを狙うのか。これを論理的に説明するものでなければなりません。

「フォワードは点を取れ」「ミッドフィルダーはボールを運べ」と定義しても、これは単なるアクションプランに過ぎず、ゴールまでの道筋は出てきません。

市民が本当に聞きたいのは、どうやってボールをゴールまで運ぶのか。そして、どのように点を取るのか。この論理的な道筋です。




※参考までに、「勝山まちなか戦略」を。
 

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では、どうすれば良いのか?

それじゃ、どうすれば良いのか。
もう一度、「お客様はなぜその商品を買うのか」というところから考え直しましょう。

難しい話ではありません(考え抜くことは難しいですが)。要は「誰をどのように喜ばせるのか」を考えることです。そこを突き詰めて考えていくと出てくる姿をコンセプトと呼びます。


このコンセプトは、人間の欲求をダイレクトに突かねばなりません。
「生存欲求」と呼ばれる、肉体的な快楽。美味しいモノを食べたい、暖かい家に住みたい、睡眠、性欲などの欲求です。苦痛を逃れたいという欲求もここにはあるでしょう。「社会的欲求」と呼ばれる、他人との関係において良く思われたいという欲求もあります。良い服を着る、ちやほやされたい。異性にもてたい。名誉欲等はここに含まれるでしょう。「自己欲求」と呼ばれる、自身の内に完結する欲求も重要です。もっと成長したい。自己を高めたい。こだわりを追及したい。充実感を得たいという欲求です。

こういった欲求を素直に見つめて、「誰をどのように喜ばせるのか」を考えましょう。



いくつか例を挙げましょう。

スターバックスは「サードプレイス(第三の場所)」をコンセプトに掲げています。家庭(第一の場所)でも職場や学校(第二の場所)でもない、第三の場所です。
ドイツのビアガーデンやイギリスのパブ、フランスやイタリアのカフェのように、ヨーロッパには人々が安心して集える避難場所が伝統的に確立しています。アメリカでも、そういったくつろげる場所を作りたい。これがスターバックスのコンセプトでした。「誰をどのように喜ばせるのか」、スターバックスにおいては「職場や家庭でストレスを抱える人々に、くつろぎの場所を提供したい」となります。売るモノはコーヒーではありません。「雰囲気」こそを売っているのです。


文房具販売大手の「アスクル」は、事務員の女性の苦労を助けることをコンセプトに掲げました。大手企業のように、資材部を持たない中小企業の女性事務員さんは、シャーペンがない、コピー用紙がない……と、その都度買いに行かねばなりません。何とかしてその苦労を解消できないか。ファックス一枚で「明日来る」ようなシステムができないものか。そこがコンセプトになっています。


地域情報誌ホットペッパーのコンセプトは「狭域生活情報誌」でした。生活情報誌は、それこそ世上にゴマンとあります。しかし、住んで買物して遊んで……という「人の生活圏」という切り口で捉えれば、せいぜい半径5キロくらいのものです。そんな我々に「北陸」や「金沢」の情報などいらないのです。



そういえば、先だって平泉寺在住の竹内和順議員が面白いことを仰っていました。
「僕は、平泉寺を『第二のハネムーンの場所』だと考えているのですよ」
第二のハネムーンとは、いわゆるフルムーンのことでしょう。子供も手を離れて夫婦が睦まじく旅行をする。「色々な苦労があったけれども、ここまで来ましたね」という会話が聞こえそうなシーンが頭をよぎります。
このシーンを補強するために何が必要か。色々な事業が派生していく予感がします。これは立派な「コンセプトの種」と言えるでしょう。


もう一度、じっくりと考えましょう。まちなかを誘客する人々に何を楽しんでもらうのか。花月楼を訪れる人々をどのように喜ばせるのか。

そのコンセプトが決まらないことには、何も先に進みません。
なぜなら、「コンセプトからすべてが始まる」ということは、「すべてはコンセプトのために」ということだからです。

スターバックスは、そのコンセプトである「サードプレイス」からすべては始まります。そして、その「サードプレイス」を実現するために、店舗の立地条件、店内の雰囲気、コーヒーの入れ方……等々の全てが規定されるのです。

また、コンセプトが不明瞭では、組織内に顧客提供価値を共有することすらできません。

「すべてはコンセプトの実現のために!」なのです。

もう一度、じっくりとコンセプトを考えましょう。まちなかを誘客する人々に何を楽しんでもらうのか。花月楼を訪れる人々をどのように喜ばせるのか。


そして、コンセプトが明確に決まらないのであれば、花月楼もまちなか誘客も進めるべきではないのです。





次回は、組織の問題について考えてみましょう。









「勝山市は、その小ささを武器にして発展する」ことの、経済思想的意味 vol.2

 

不安定化する「豊かな社会」

ー不安定化する「豊かな社会」とはどういうこと?

まず、「豊かな社会」と「発展する社会」とは違うということを理解してもらうことが重要になります。「発展する社会」は高度経済成長期の我が国をイメージしてもらえればいいでしょう。これに対して「豊かな社会」とは、まさに現在の低成長期に入った社会を指します。

豊かな社会はその豊かさゆえに不安定さを増すという現象が今回のテーマですね。


ーそのテーマが「勝山市は、その小ささを武器にして発展すること」と、どうつながるの?


いきなり結論を焦ってはいけません。物事は順序立てて考えていきましょう。

資本主義というものは、その性質上、利益を生まなければ成立しません。
ならば、どこが最も利益を生むのか。言うまでもなく「新しいもの」です。できれば、誰も今まで手をつけてこなかった分野があればよろしい。


経営学でいう「ブルーオーシャン」ですね。

そう。そこでは、きわめて大きな利益を独占できます。

新しいもの・分野が大きな利潤を生み出す。市場競争を徹底化させれば、当然のように、資本は新しいもの・分野へ向けて流れていきます。


ー当然でしょうね。


その結果、何が生じるのでしょう。
新しいもの・新しい分野に位置しない活動は、もはや十分な利潤を得られなくなります。日常的な製品、伝統的技術、ありきたりのモノ、生活密着品、農業・食糧……公共的な意義をもったもの、すなわち、交通や通信。こういった商品は大きな利潤を生み出しません。

大きな利潤を得られなくなった生産者は、徐々に市場から撤退し、その姿を消します。あるいは、海外からの供給に頼ることになるでしょう。



ーそれは、市場を中心に置く資本主義経済では当然のことでは?


そう。当然のことと思われています。そこをもう少し掘り下げてみたいのですよ。

巨視的な視点で眺めれば、過度の資本主義的競争は公共的な活動領域を浸食していくのではないか。これが私の問題意識にあります。

医療、教育、福祉環境保全といった公共的な活動領域は、そもそもが利潤原理に乗りません。資本が、公共的活動領域から新しい分野・新しいものへと流れていく結果、公共的活動領域の資本が脆弱化していくように思われるのです。


ーどういうこと?


「豊かな社会」と「発展する社会」では、全く異なるということです。「発展する社会」とは、戦後の高度経済成長期をイメージしてもらえれば結構です。そこでは、資本主義の発展はわれわれの生活を豊かにし、公共部門を拡大し、社会の安定をもたらしました。成長の時代においては、「資本主義」と「社会の安定」は矛盾をはらみません。

これに対して、「豊かな社会」とは現在のような低成長期の時代です。そこでは、資本は「社会の安定」に用いられるべきものまで、市場に流して「資本主義」を発展させようとする。すると、「社会の安定」と「資本主義」は齟齬をきたすようになります。



ーう~ん……ちょっとイメージが沸きにくい


そうですか。ならば、小泉構造改革を具体例にして考えてみましょう。


小泉構造改革とは、何であったか。


ー小泉構造改革ですか。


小泉構造改革が何であったのか。これは評価が未だ定まっていないところです。

ただ、小泉構造改革負の遺産として挙げられるものは、
 ・所得格差の向上
 ・労働市場の流動化によるフリーター派遣労働者問題
 ・金融市場の不安定性
 ・食糧市場・資源市場の不安定性
 ・IT市場の不安定性
などがあります。


小泉構造改革により不安定化した、労働・資本・自然資源・情報等の知的資源。これらに共通することは生産要素であることです。


ー生産要素ってなに?



生産要素生産物とは決定的に異なります。生産要素は、それ自体は企業の生産活動によっては生産されません。社会や自然や人間の中にある「社会的」存在物です。企業は複数生産要素を結び付けてることによりアウトプットを生み出し利潤を得ます。つまり、生産物が最初から市場で商品として販売されることを目的としているのに対して、生産要素は元々市場で商品化を期待されていません。


ーなんだか、よくわからない。


ならば、労働について考えてみましょう。あなたは労働者として生まれてきましたか?


ーそんなことはないでしょ(苦笑)


そう、われわれは労働者として生まれてきたのではありません。社会的生活を営む「人間」として生まれてきました。

社会の中でわれわれは様々な価値を持ちます。父親としての価値、地域コミュニティーの中での価値、消費者としての価値……そういった様々な価値を労働という一面に縮減して無理やり生産要素にしているだけのことです。


ーふむ……



そもそも、なぜ労働市場には労働時間規制、賃金規制、雇用契約による雇用保障等々の規制があるのでしょうか。

それは、労働という「本来的に人間的な活動」を生産活動に用いるためには規制が必要だからです。過酷な職場環境を「非人間的な労働環境」と表現することがありますが、逆に、「人間的な労働環境」とはどのようなものかを考えてみればおわかりでしょう。


ーその人の人間的価値が発揮される職場かな?


でしょうね。「本来的に人間的な活動」を生産活動に用いることが労働であるならば、人間的な労働環境であるための規制が必要になるのです。

人間的な活動は社会的存在物であり、生産要素であり、様々な価値を持つものです。その多面的価値を持つ人間を、徹底的に自由市場にさらけ出せば、その人の人間的価値そのものを潰しかねません。つまり、労働という生産要素を無尽蔵に市場化させてしまっては、社会そのものが弱体化しかねないのです。

 
小泉構造改革で行ったことは、規制を撤廃することにより労働市場の流動化を図ることでした。ここで重要なことは、労働という生産要素を高度に市場化させたことです。


ーその結果がワーキングプアや所得格差だということ?


というよりは、それがもたらす社会的不安定性でしょうね。先ほど申し上げたように、豊かな社会では「社会的安定性」と「資本主義:」は齟齬をきたすことになりかねない。本来、公共的なものである「労働」を高度に市場化してしまったゆえに、ワーキングプアや所得格差による社会的不安定性をもたらした……という実例です。

通常、労働時間規制や賃金規制に関しては「市場原理に任せては、大資本により賃金そのものが安く買い叩かれて労働者の不利になる」との説明から始まるのが普通でした。しかし、その説明の底にあるものは「人間はそもそも生産物ではない」という考え方です。マルクスが「労働力を商品化することには無理がある」と熱心に説明したのも、ここにあるのでしょう。



ーでも、食糧は生産要素じゃないでしょ?商品化を目的として食糧生産を行っているのだから、生産物じゃないの?


ならば、われわれは何ゆえに食糧自給率を気にするのでしょう。徹底的な市場原理主義を貫くのであれば、食糧をすべて海外産にすることは合理的であるはずなのに。

食糧はわれわれの社会にとって最も基礎的な資源です。「飢え」ほど社会を不安定にさせる要素はありません。その危機感があるからこそ、われわれは食糧自給率を問題視するのです。つまり、「食糧」は公共的な意味合いを持つのであり、この要素を無尽蔵に市場化させてしまっては、社会的安定性が弱体化しかねないのです。


重要なことは、小泉構造改革とは、本来、社会の公共物であるはずのものを規制改革の名のもとに市場化してしまったこと。これにより、社会の不安定さが増したこと。ここにあります。





どこで折り合いをつけるのか?

ー先ほどからの議論を見ていると、あなたは資本主義に反対の立場?


反対でも賛成でもありません。ただ、市場原理主義というものが、否応なしにわれわれの社会基盤に及んでくるということを認識しなければならない……という立場です。


ーそういった立場の考え方は、具体的にどうなるの?

「資本主義」と「社会の安定」が齟齬をきたさないように、折り合いをつけながらやっていくしかないでしょう。


ー折り合い?

新しいパラダイムが必要だということです。


パラダイムとは?

パラダイムとは、モノの見方とか考え方の枠組みと理解してください。

昨年末から2か月かけて、小規模農家の所得向上策を入念に検討し政策化しましたが、その過程で「小規模農家が現在の経営面積を維持したままで、国産大豆を生産することは可能か」という問題も併せて検討したことがあります。結論から申し上げると、現行の枠組みの中では、どこをどういじっても小規模のままでは外国産の大豆に価格面で太刀打ちできませんでした。


ーそりゃそうでしょう。それも市場主義の当然の帰結です。

そう。今まではそこで思考が止まっていました。外国産の安い大豆を輸入すれば、それでいいじゃない……というところで止まっていたわけです。

しかし、まったく異なる視点から考えれば、農家所得を1.5倍にすることはできるのです。農家は農家、小売りは小売り、流通は流通という従来の考え方を変えれば、それくらいはできる。


ーそれがパラダイムの変化?


ちょっと違うのですよ。
もうひとつ例を挙げましょう。

地方公共交通、具体的にはバスですね。これは田舎に行けばいくほど惨い状況です。1日3便なんてこともある。朝に1便、正午に1便、夕方に1便。


ーそれは不便でしょう。


不便ですよ。ですが、これも市場原理に従えばもっともな話なのです。乗る人が少なくなるから便数も少なくなる。便数が少なくなるから、不便きわまりない。乗る人はさらに減る……という負のスパイラルです。


ーまあ、当然でしょうね。


そう、これまではそこで思考が止まっていました。税金を投入して、なんとか地域公共交通を維持しなければならない。これは、ある意味、地域福祉の考え方と言えます。この考え方を基礎にして地域公共交通は維持されてきました。
しかし、発想を真逆のものにすれば、どうでしょう。完全に自由な地域公共交通ができたならば、人の流れとモノの流れが活性化します。これをベースに新たな産業化が可能になります。


ーふむ。そのあたりを詳しく説明して欲しいな。



このモデルの詳細な説明は、後日にしましょう。それは戦術論の話になりますから。今、重要なことは経済思想的なパラダイムです。

もう一度言います。
高度経済成長期のように、成長する社会においては「資本主義」の発展は社会的インフラを整備し福祉を向上させ「社会的安定」をもたらします。しかし、低成長期に入る豊かな社会においては、「社会的安定」に用いられるべき社会資本までをも「資本主義」の発展に振り分けられかねません。それがアメリカ発の新自由主義の結末です。

その結果、雇用、食糧、金融といった生産要素や社会福祉、教育といった公共部門までが不安定になっていきます。そして、何よりも地域の過疎化そのものも市場原理主義の考え方からすれば当然の帰結なのですね。

ですから、「資本主義」と「社会的安定」との折り合いをつけなければならない。「資本主義」の力を使って「社会的安定」を構築しなければなりません。


ーそれは、どのような形で?


新しい市場を創る」という形で達成されます。


ー新しい市場とは?


その話は、「水泳帽子」を事例にとって次回に考えてみましょう。