月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

なぜ日本には真正のリベラル政党が誕生しないのか ーその1:保守主義的思考とリベラル派の思考ー

目 次

私は政治信条として保守主義者を自認しています。
同時に、日本に真のリベラル政党が誕生することも強く願っています。

保守主義とリベラル派の関係を、私は「男女の関係のようなものだ」と考えています。男だけの社会や女だけの社会はあり得ません。保守主義者だけの社会、リベラル派だけの社会も存在しません。
男と女に優劣はありません。保守主義とリベラル派は考え方が異なるだけで、優劣はありません。
保守主義とリベラル派は対立します。あたかも、男女が喧嘩をするように。しかし、男女が共に語らいながら関係を深めていくように、保守主義とリベラル派は議論することができるはずです。

しかし、日本には真正のリベラル政党がありません。これは、55年体制の弊害が未だに続いているためでもあり、日本の政治を豊かにするためにも、一刻も早くこの枠組みから脱出すべきです。

今回の衆議院選挙を見ていて、その想いを強くしました。
これまで、政治家としてバッチをつけていたときは自民党の候補者の応援にドブ漬かりでした。もちろん今でも自民党なのですが、外野から眺めてみると分かることは多々あるものです。


第1回目となる今回は、次の点を強調しました。
保守主義者の限界はどこにあるのか?」
「なぜ枝野幸男の演説は人々の心を震わせたのか?」
「なぜリベラル派は『民衆の敵』になるのか?」
 

《第1回目:目次》
0.嫁でもわかる5行の要約
1.そもそも保守主義とはなにか
2.保守主義者の限界
3.リベラル派とは何か
4.なぜリベラル派は「非国民」になるのか


嫁でもわかる5行の要約(涙)

とりあえず書いたものを嫁に読んでもらいました。
「長い!」
心が折れる!」
「もっと簡単なものにまとめろ」
と心温まるリクエストをいただいたので、第1回目の内容を簡単に要約してみます。

PTA活動めんどうくさいよね。
でも、昔からやってることだし。やれば楽しいかもしれない。
あ?なんであの人、PTA総会で正論言ってるの?
私たちこれまで一生懸命やってきたし。今までの積み上げ台無しにする気?
ちょっと空気読んでよ。

こんな感じでいかがでしょうか?妻よ。

嫁のOKでました。

それでは、本論始まります。第1回目の最後まで読んでいただいて、もう一度「嫁でもわかる5行の要約」をお読みいただければ、この要約の趣旨がわかるはず……と信じたい。


そもそも保守主義とはなにか

保守主義「昔の方が良い……と思っている人たち」と単純化するのは、大きな間違いです。重要なことは「なぜ保守主義者は伝統を重んじるのか」を理解すること、そして、その理解のためには保守主義の出生にまで遡らなければなりません。

保守主義と革新主義とは双子です。革新主義が世界史に華々しく登場したフランス革命において、保守主義も誕生しました。

革新主義とは何でしょう。その特徴は、理性に重きを置く点にあります。
理性とは「物事の道理を考える能力、道理に従って行動できる能力」を指すと考えていただければ結構でしょう。

では、理性を中心に置くと何が起きるのでしょうか。時計の針をフランス革命から150年ほど戻してみると、近代哲学のスタートとなるデカルトの『方法序説』があります。

 

方法序説 (ちくま学芸文庫)

方法序説 (ちくま学芸文庫)

 

 

デカルトは「方法序説」の中で次のようなことを述べています。曰く、自然に成長・発展した都市より誰か一人が計画・設計した都市のほうが美しいと。
理性に基づいた都市設計論です。

ですが、誰かひとりが「理想の都市」「理想の社会」を造ろうとすれば、他者の関心や観点を無視して独善的に己の見方を特権化しなければなりません。そして、フランス革命においては、その独善性が存分に発揮されました。理性の名のもとに、ギロチンに血塗られた独裁政治を産んだのです。


その有様をドーバー海峡を通して見ていた英国の政治家、E・バークは猛烈な筆致で一冊の書を上梓します。『フランス革命省察』。これが保守主義誕生のマニフェストとされています。

 

フランス革命の省察

フランス革命の省察

 

 

バークが述べた内容は、シンプルに要約できます。
「この世の中は、君たちだけで作り上げたものなのか?」
……社会は複雑だ。それを合理化して認識することはできるだろう。だが、それを単純な目的合理性の下で改革するのは、君たちの傲慢ではないのか……と。

保守主義の基礎には、歴史的に生成された制度や秩序は、昨日今日達成されたものではない。長い時間の試行錯誤を経てかろうじて残されたものなのだ……との直観があります。

それは人間に対する洞察と言っても良いでしょう。保守主義者は次のように考えるのです。
「確かに、人の理性は貴重なものだ。だが、人が理性的な生き物であるならば、なぜ、この世の中から不合理や不正義はなくならないのか。人は賢くもあり愚かしくもある。その営みは悲劇的でもあり喜劇的でもある。神話の時代から、人々は同じことを延々と繰り返してきた。その人間性は何も変わっていない。ただ、人々は、その時代ごとに苦吟しながらも制度を練り上げてきた。その延長線に今があるに過ぎない」

したがって、保守主義者は漸進的な改革を好みます。保守主義者は、今の人間を特権的に賢いとは思わない以上、昔から残っているものを大胆に変えようと思わないのです。



保守主義者の限界

さて、保守主義者には決定的な限界があることも事実です。

ひとつは、主張に普遍性を持たない点です。

保守主義者が保守主義者である由縁。現在は過去の延長線に位置し、今が存在するのは過去の人々のおかげであるとの発想……(それは「現在の希少性」に対する直感と言えます)……その希少性に対する直感と、それを担う責任感、そして誇りです。

大東亜戦争における特攻隊を考えてみましょう。リベラル派にすれば「国に殺された」としか思えない特攻隊の若人に、保守主義者はなぜ感銘を受けるのでしょうか。それは、彼らが抱いた責任感に同感するからです。「私の死が次の世代の繁栄につながるのであれば」と死んでいった特攻隊の若人の責任感と誇りに(私を含め)保守主義者は強く同感します。

しかし、これは「主義」ではありません。

仮に、保守主義者が伝統主義者ならば、これは「主義」となりうることでしょう。伝統主義とは「伝統は何でも尊重すべし」との思考様式であって、全ての伝統を尊重すべしと定式化ができるのであれば、主義(ドクトリン)として相手に説明することができます。

ですが、保守主義は定式化ができません。
ただ、自らが負う伝統への個人的なコミットメント(誓約)の中にこそ保守主義者は生きているからです。秩序の希少性に対する直感、それを担う責任感と誇り。これらは個人的なコミットメントの中でしか発揮できません。そして、個人的なコミットメントである限り、決して主義や普遍的な理念として掲げられるものではありません。


ならば、自らが属する社会に対する個人的なコミットメントが保守主義者の特徴であるとすると、保守主義者のコミットメントは、特定の宗教団体の構成員が宗教団体に行うコミットメントや、極端な例を言えば、構成員がマフィア・暴力団といった組織に対して行うコミットメントと同列なのでしょうか。

それは違います。保守主義者の行うコミットメントには公共性が生じ、その公共性は「社会(=祖国)」の概念まで拡大するのです。
これは具体的に下図を見ていただきましょう。

私は、保守主義的思考は下図のような構造をなしていると考えています。

《図1:保守主義者の思考様式》

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保守主義者は、歴史や伝統を不可思議なもの、我々が安易に触ることができないものと考えます。

例えば、子供なら必ず一度は考える「私はどこから来たの?」という疑問。私には両親がいて、その両親にも両親がいて……という連鎖の中で、その鎖が一度でも切れたら存在しなかった自分。その希少性。そういった事柄に想いを馳せるとき、歴史や伝統は不可思議な、安易に触れるべきものでなくなります。
(したがって、保守主義者のコミットメント(誓約)とは「私はこの国を守る」といった明示的な誓約から、素朴な「世の中がうまくまわっているのは実に不思議だ」といった疑問に至るまで、様々な段階を踏みます)


そして、「私を育んだ歴史や伝統」のエリアは、ある一点でMAXとなります。そこが祖国概念です。ただし、これは国家概念と同一視してはなりません。あくまでも祖国とは、「我々と言語・文化や歴史を共有できる人々・組織」を指すのです。
(ドーデの『最後の授業』を思い返してください)

繰り返しますが、保守主義者にとって祖国とは、言語・文化や歴史を共有できる集団であり、そこには公共性が不可欠となります。

そして、その公共性を維持することが保守主義者の目的となるのです。
「我々の伝統は貴重なものである」
「伝統は公共的なものであり、それを維持することが肝要である」
「したがって、社会の抜本的な改革よりも漸進的改良が望ましい」

しかし、その公共性は特定の主義主張によって形成されているものではありません。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」との前提が置かれており、ここに保守主義者の陥りやすい思想的落とし穴が口を開けています。

この点は私自身も自戒するところです。「これまでもあったものだし、これからもあるものだ」と考えることは楽なのです。思想的怠慢を生じやすい。

本来ならば、保守主義者こそが「何が我々の伝統の根幹をなすのか」を考えねばなりません。それを省いて漸進的な改良行為を続けることは、単なる現実主義でしかありませんから。

よくリベラル派からは言われるのです。保守主義には思想がない(笑)。これは誤解と言うものです。「何が我々の伝統の根幹をなすのか」……一度でも想いを巡らせた人ならばお判りでしょうが、この問いに答えることは、絶えざる知的取り組みです。
ですが、保守主義的思考は、ややもすると「これまであったものだから、これからもそれでいいではないか」と、知的怠慢をもたらしやすいことも忘れてはいけません。




もうひとつの、保守主義者の限界を指摘しておきましょう。

保守主義者は、伝統を守るコミットメントをし、伝統の母体に公共性を見るがために、「敵を外部に見る」傾向があります。

俗な例えをすると、どんなにデキの悪い子であっても子供は子供……というようなものでしょうか。可愛いもので我が子に対する愛情が損なわれることはありません。あたかも「我が子を虐めるのは他人の子」の発想にも似て、保守主義者が愛国的情熱に駆られるときとは、常に「敵が祖国を脅かす」ときなのです。

民主政権下において我が国の安全保障はズタズタにされました。その際に、保守主義者が感じた怒りは、まさに「祖国が脅かされた」ことに対するものだったのです。

では、なぜこの「敵を外部に見る」特徴が保守主義者の限界なのか。それは、「保守主義者とリベラル派がなぜ対立するのか」との論点に深く関わってきます。


その論点に進む前に、まずは「リベラル派とは何か」について考えてみましょう。



リベラル派とは何か

リベラル派を一言で定義せよというのは難しい話ですが、その特徴を見出すことは簡単です。
「敵は内部にある」
具体的には、「社会の内部に、亀裂と対立を見出す」のがリベラルの特徴です。

リベラル派とは、基本的に個人を主体とします。個人の自由を最大限に発揮できるための政治体制は何か?を考えるのが彼らの特徴といえるでしょう。「個人はなぜ抑圧されるのか、なぜ自由ではないのか。それは社会の中に亀裂や対立があるからではないのか。一見すると、自明に思われる社会体制の中にこそ、個人を抑圧する原因があるのではないか」と、リベラル派は考えます。

無論、保守主義者も「社会に問題がない」とは考えません。ですが、保守主義者は、社会の問題を現在の制度の枠内で解決しようとします。それが漸進的改良ですから。リベラル派からすれば、それは社会の内部の亀裂や対立に目をつむり、場当たりにパッチを当て続ける行為にしか見えないのです。

リベラル派は考えます。なぜ個人は抑圧されるのか。なぜこれだけの矛盾と対立が社会内に存在するのに、保守主義者たちは目をつむるのか。
それならば、我々が立ち上がるより他にない……と。

保守主義者の思考様式の特徴が「上下方向への個人のコミットメント」にあるとするならば、リベラル派の思考様式の特徴は「社会問題に対する、個人間の横の連帯」にあると言えるでしょう。

《図2:リベラル派の思考様式》

 

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今回の衆院選挙において、立憲民主党枝野幸男氏が10月14日に演説会を行いました。

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この演説会に対するネットの感想を見てみましょう。
エスカレーターにのってゾクゾクした。枝野さんだけの戦いにしてはだめだ」

立憲民主党は枝野が作ったのではない、あなたが作ったのですという言葉はグッときた」


「俺たちは『当たり前のこと』を言いたいんだ。今はそれが言えない世の中になってしまってるんだ。だから当たり前のことを言うのが一周回って新鮮なんだ。当たり前のことを言って共感してくれる人がいるのがとんでもなく心強いんだ」


これらは、リベラル派の典型的な思考様式です。「世の中はおかしい」と主張することは当たり前のことであり、その当たり前のことすら言えない。そんな世の中はおかしい。ならば、我々は連帯しよう。枝野が作ったのではなく、立憲民主党は皆のものなのだ。さあ、枝野だけの戦いにしてはダメだ。皆で手をつなごう。



そして、ここにリベラル派の限界があります。

リベラル派の限界のひとつは、「連帯がうまくいかないと、分裂してまとまらない」こと。社会内部に問題や亀裂・対立を見出した人々が連帯する、これがリベラル派の思考様式です。しかしながら、問題意識は個々人によって異なります。その問題意識が異なると、うまく連帯できないのですね。
うまく連帯できないと、仲間内で喧嘩をし始める。こういうときは、遠い敵よりも近親間の方が憎悪が深くなるのは世の常です。部落問題、労働者問題等々で、左翼と呼ばれる人たちがどれだけ分裂し、お互いに確執を持っているか。それを見れば明らかでしょう。

この点、保守主義者は基本的に連帯を考えません。祖国概念を同一に持つ限り、連帯する必要性を感じないのです。「母なる祖国」という言葉が、(万国の)保守主義者の憧憬と一体感を刺激するという1点だけからも、意図的な連帯が不要であることがわかります。「母なる祖国」という概念には、既に「その祖国に包まれている国民」概念が含ますから、連帯が既にパッケージングされています。
(昔から保守主義者とロマン主義との食い合わせの良さが指摘されてきましたが、その理由はここにあります)



もうひとつの限界は、「リベラル派は『非国民』になる」ということです。

「政治的公共性は自明のものではない。社会には深い亀裂が存在する。敵は社会の内部に存在するのだ」……と異議申し立てをするのが、リベラル派です。ゆえに、リベラル派は『非国民』としての扱いを受けやすくなる。ここをもう少し考えてみましょう。




なぜリベラル派は「非国民」になるのか

保守主義者とリベラル派は対立します。しかし、ここが面白いところでして、対立していると考えているのはリベラル派の方であって、保守主義者は対立しているとは考えていません。

保守主義者の思考様式を振り返ってください。保守主義者は、国民は和して一体であると考えます。そもそも保守主義者にとって「敵は外部にある」ものであり、祖国内に対立があるとは考えません。
したがって、リベラル派は保守主義者を右翼と呼ぶのですが、肝心の保守主義者は自らを右翼とは定義しません。国民は和して一体であると考える以上、自らを中道と位置づけるのです。

逆に、保守主義者の思想……国民は和して一体であるとの考え……に従うならば、社会に亀裂と対立を見出すリベラル派こそが、社会の混乱をもたらす存在に映ります。すなわち、リベラル派とは「民衆の敵」であり、「非国民」なのです。

 
近代劇最大の作家であるイプセンは、そのものズバリ『民衆の敵』との戯曲を書き残しています。

民衆の敵 (岩波文庫 赤 750-2)
 

 


舞台はノルウェーの田舎町。
ある日、温泉が湧き出たので町の人々は、これで町おこしができると大喜びします。しかし、ストックマン医師は温泉が毒物で汚染されていることを知りました。ストックマン医師は、この事実を公開して温泉を改造しようと実兄である町長に勧めますが、町長は莫大な費用がかかることを理由に拒否します。

ストックマン医師は、新聞社を味方につけ、労働組合の支援もとりつけ、町長に撤回を迫ろうとします。新聞記者からは「あなたは『民衆の友』だ」と絶賛されるなど、ストックマン医師絶頂のときでした。

しかし、町長から「温泉大改造には、莫大な負債と二年の温泉閉鎖が余儀なくされる」と聞かされた組合長は、あっさりと寝返ります。あれほど医師を絶賛していた新聞社も、大多数の購読者を失う可能性の前にたじろぎ、医師を裏切りました。

民集会で温泉閉鎖を主張するストックマン医師ですが、人々は動きません。彼は絶望してこう叫ぶのです。
「真理と自由の最も危険な敵は、堅実な大多数である」
「多数が正義を有することは断じてない」
「この広い地球上のいたるところで、馬鹿こそまさしく圧倒的大多数を占めるものだ」
「馬鹿が利口を支配することが当たり前とは怪しからん話ではないか」
「正義とは常に少数のみの支配するところだ」
ついには、町民集会の無記名投票の結果、満場一致で『民衆の敵』の烙印を押されたストックマン医師は、終幕で家族に向かい「最大の強者は、世界にただ独り立つ人間である」と宣言し、永遠の反抗を誓うのです。

 
イプセン研究者からは評価の低い『民衆の敵』ですが、イプセンらしい人間観察に溢れています。おそらくリベラル派の人々は、痛いほどストックマン医師の言葉が突き刺さることでしょう。


ただし、イプセンはリベラル派の人々にも嘲笑を浴びせている点も忘れてはいけません。リベラル派は、なぜか選挙に敗れるたびに「これは民意ではない」「ポピュリズムだ」と騒ぐ傾向にあります。それが先鋭化したものがストックマン医師の言う「国民はバカだ」になるのです。
イプセン保守主義的現実重視を笑いものにすると同時に、ストックマン医師の言動にも冷笑を浴びせています。そういったものもすべてひっくるめての人間、そういう人間観察なのでしょう。

話を戻します。
保守主義的思考は、ややもすれば「今まであったものなのだから、これからもあるものなのだ」との考えに傾き、思想的怠慢に陥れば、単なる現実主義・事なかれ主義に堕します。その中で、社会の問題を主張する人々は「民衆の敵」なのです。


この構図は下図のようになるでしょう。


《図3:社会の中のリベラル派》

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そして、この構造を見事に逆手にとったのが、マルクスでした。
次回は、その「マルクスの逆手戦略」から話を始めましょう。


(次回へ続く)

 

なぜ日本には真正のリベラル政党が誕生しないのか ーその2:マルクスの戦略と55年体制ー

前回は、保守主義者とリベラル派の思考について考えてみました。何度も申すように、保守主義とリベラル派は決して対立するものではありません。しかし、日本では対立するものとして扱われてきました。その理由について考えてみましょう。

今回は、次の問題点に尽きます。
「なぜ、今回の衆議院選挙の争点がアベ政治の打破』しかないのか」


《第2回目:目次》
0.嫁でもわかる5行の要約(涙)
1.マルクスの描いた逆手戦略
2.マルクス戦略の失敗
3.リベラル派は社会の中でこそ輝く
4.55年体制とは保守とリベラルが作り上げた全体主義
5.番外編「外山恒一はどこにいるのか」

嫁でもわかる5行の要約(涙)

またしても嫁にダメ出しされたので、5行の要約を。

うちの旦那に、お義母さんのことを言うでしょ?
すると、すぐに「まあまあ、それは」とお茶濁すのよ。
なんで?私も感情的なところはあるけどさ。
「この場さえやり過ごせばOK」的な態度がみえみえ。
それが55年体制

嫁に見せたら、「なんか色んなことを思い出して腹立ってきた」と言われました。
ええ、自爆です(落涙)。

ということで、第二回目はじまります。
今回も最後までお読みいただいて5行要約にお戻りください。趣旨がおわかりになるはずです。





マルクスの描いた逆手戦略

リベラル派は、社会の中に問題を発見し亀裂や対立を炙り出す。それゆえに、社会の秩序と平安を脅かすものとして疎外される。これが前回のお話でした。

これを逆手にとったのはマルクスです。マルクスは言いました。「プロレタリアートは祖国を持たない」と。見事な「リ・ポジショニング戦略」です。

リ・ポジショニング戦略とは、相手の強みを逆手にとることです。マクドナルドがハッピーセットでファミリー層を狙うのならば、バーガーキングは「マクドナルドは子供のバーガー。わが社は大人のハンバーガーを提供します」と逆張りするような手法を指します。相手の強みは同時に弱みとなりうるとの考え方が、根底にあります。

社会内部の矛盾や対立を主張するために、社会内部にいる必要はなかろう。社会が我々を疎外するならば、我々は社会の外に出て「お前たちの王様は裸だ」と叫べば良いのだ……これがマルクスの戦略の根本にあると、私は考えています。

《図4:マルクスの逆手戦略》


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アウトカーストを自ら名乗り賛同者を募るようなもので、実に優秀な戦略です。




マルクスの戦略の失敗

ただ、マルクスの戦略には致命的な欠陥がありました。
社会(=祖国)の外に出た集団は、社会と語る言葉を持たなくなるのです。

この場合、「社会(=祖国)の外に出る」とは物理的に国外へ出ることを意味しません。社会内部にいながら、実質的に「社会の外にいる集団」を考えてみればよいのです。日本にいながら日本の法を全く無視する宗教カルト集団などは典型例でしょうし。外国人が言語・文化・道徳も異なるコミュニティをつくる場合もそうでしょう。
 「話の通じない相手」
 「何を考えているのかわからない集団」
そんなアンタッチャブルな集団と話をしようという人間はいません。

そして、社会はそのような集団と「政治」をすることができない。ここがマルクス戦略の致命的な欠陥なのです。

政治とは、言葉(=対話)を用いた意思疎通の中で社会を変革する営みです。そして、言葉(=対話)とは公共性の基盤なのです。

「公共性」とは何でしょうか。
私は、公共性をOS(オペレーティングシステム)のようなものだと考えています。様々なソフトウェアはOSを共有することで動きます。同様に、OSを共有しない限り、我々は社会を営めません。そのOSが公共性であり、マルクスの戦略はその公共性を断絶するものだったのです。


《図5:マルクスの逆手戦略が生む対立》

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「政治」ができないならば、もはや「闘争」しか手段はありません。闘争とは、自分が勝つか、相手が勝つかのゼロか100かの勝負です。己が生き延びるためには社会を転覆するより活路は無いと覚悟を決めたとき、その闘争は「革命」となります。

リベラル派の一定の年代層は学園闘争を懐かしみます。ですが、学園闘争は結果として日本の教育界になにも影響を与えませんでした。それは「闘争」をしかけたからです。社会の外に出て、社会を変えようとする試みは畢竟、そのような結果しかもたらしません。自分が倒れるか、相手が死ぬのか。そのような闘争から社会改良という発想は出てこないのです。

はっきり言えば、不毛です。

蛇足ですが……さすが「共産党」を名乗るだけあって、日本共産党マルクスの戦略を脈々と受け継いでいます。政治の世界に身を置いたものであれば、日本共産党が未だに《図5》の構造の中にあることを直観的に理解できることでしょう。
・自らの正義以外を認めない(一方的に自己の論理だけをまくし立てる)
・決して過ちを認めない(認めると、自分の負け。負けは自己存在の否定)
・こちら側(社会の公共性)の論理は通用しない(義理人情を信用すると、むしろ、それを逆手にとって信じた人間が馬鹿をみる)
・対話ができない
等々の特徴は、日本共産党が未だに持つマルクス戦略の残滓です。




リベラル派は社会の中でこそ輝く

リベラル派の特徴をもう一度確認しましょう。
リベラル派とは、「社会の内部に、亀裂と対立を見出す」存在です。

実際に、社会は常に諸問題を抱えています。その問題を炙り出す存在としてリベラル派は欠かすことのできない存在でして、その重要性は益々増大していくことでしょう。

なぜなら、現代が再帰性の増大」を招いているからです。

再帰性」とは何でしょうか。「第三の道」を提唱したA・ギデンズは、再帰性を「規範を無くした現代人が直面する自己規定」と考えました。

かつての世界は、ある意味、楽な世界だったと言えます。何が正しいのか、何が誤っているのか、それは伝統や宗教が教えてくれました。しかし、ニーチェの言うように「神は死んだ」のです。そして道徳は相対化され社会規範は薄まりました。

そのような社会では、何が正しいのか、何が誤っているのかを個々人がその場で考えるより他にありません。

これは、ある意味辛い社会です。
自分は何のために生まれて、何をして生き、死なねばならないのか。それを個々人が考えよ。社会は何のために存在し、構成員のために何をすべきなのか。それを皆で考えよ……こういう社会は、一見すると自由です。自由ですが、面倒くさいことこの上ありません。


しかし、仕方がないではないか。我々は近代に生きている。迷信や妄想を吹き飛ばした結果がこれなのだ。我々はこの社会で生きていくより他にない……これがギデンズの諦観だと思うのです。

そして、再帰性の高まる社会の中で、ギデンズが何よりも重要視しているのは「対話」です。

規範はない。支えるべき伝統もない。こんな社会では、自分自身の倫理や論理はあなたが自身がつくるしかない。そして、対話を通してこそ、我々はより良い生とより良い社会を作り上げることができる……との趣旨です。

近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

近代とはいかなる時代か? ─モダニティの帰結─

 

 
私自身もそう思います。
再帰性が高まっていることは事実です。そして、公共性を下敷きにして、我々はどのように社会を改良していくのかを語り合わねばなりません。そして、その営みこそが政治なのです。

リベラル派の「社会の中に亀裂や対立を見出す」性質は、社会を良くしていこうとの対話に欠かせない存在です。リベラル派は社会から飛び出てはいけません。リベラル派の性質は、社会の中でこそ輝くのです。

ここは、極めて重要な点なので再度強調しましょう。
保守主義者だけで、世の中は良くなりません。
社会を良くするためには、問題提起者のしてのリベラル派が不可欠で、両者の対話を通じて論点は整理され、政策に昇華され実現されることで、社会は改善されていくのです。

したがって、私はリベラル派を敵だとは認識していません。


ケント・ギルバート氏は、「なぜ反対意見の者にまで寛容なのか」と問われて、次のように回答しました。

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その通りです。保守主義者もリベラル派も、共に社会を良くするために活動するのであれば、同一平面上で議論をすることが可能です。

我々の目の前には「敵」がいるのではありません。「問題」があるのです。
問題を解決するために、我々は議論を重ねるのであり、相手を打ち負かすために議論をするのではない。この点だけは強調してもしすぎることはありません。


話を戻しましょう。
「社会内部に対立と亀裂を見出すものは社会の外に出ろ」とのマルクスの逆手戦略を、そのまま実現したのは日本共産党でした。
しかし、リベラル派の多くはそれに反発しました。実際に、社会の中で我々は改革を進めていくしかない……と、かつての社会党は結合したのです。議会制度に則って緩やかに労働者中心の世の中を作ろうとした社会党右派や、マルクス主義に則りながらも社会の中で改革を進めねばならないとした社会党左派がこれに当たります。

しかしながら、保守主義者とリベラル派は妙な構造を作り上げました。
それが55年体制です。



55年体制とは保守とリベラルが作り上げた全体主義

未だに日本の保守派もリベラル派も55年体制の枠組みから出てきません。この55年体制の枠組みが、我々の健全な議論を蝕んでいるのであって、その病巣は深くなる一方だと私は見ています。


55年体制とは何でしょうか。一般的には、1955年の自由民主党結成に端を発する戦後レジームの総称とされています。私は、ちょっと異なる見方をしておりまして、55年体制保守主義者とリベラル派の作り出した全体主義だと考えています。
(その全体主義が成功したか否かは別次元の論点です)

まず、全体主義とは何か。それは、
 【A】権威主義
 【B】国民生活に規制を強いる
この二つのカップリングだと政治学的には説明されます。
私は、この両者を「政治化の有無」を切り口に考えています。「政治化」とは「国民が政治に参加する度合い」と考えてもらえれば結構です。

権威主義とは「徹底的な非政治化」です。
徹底的な非政治化とは、国民は政治に口を出すな、ということです。その結果、国民は政治に口を挟まない。そのかわりに、国はそれ以外のすべての権利を国民に認める……ということになります。言論の自由も、信教の自由も経済活動の自由も認める。ただし、政治に口を出すことだけは許さない。
一見すると酷い話のようにも見えますが、そうでもありません。

例えば、古来より政治の理想の姿として「鼓腹撃壌」があります。あの「井をうがちて飲み、田を耕して食らう。帝力なんぞ我にあらんや」です。日々の生活に満足している。政治が何をやっているのか興味も無ければ関心もない……これが政事(まつりごと)の理想の姿であると考えられてきました。

この「徹底的な非政治化」は、国民の生活を政治が保障する。その代わりに文句を言うなとの、一種の委任関係で成り立っています。

ですから、国民が文句を言うときとは、委任関係が崩れたときになります。大正時代に起きた米騒動は富山の主婦から始まりました。これは「我々はお上を信任して口を出さずにいたのに、お上は我々の生活を守ってくれない」と委任関係を崩した政府に対する抗議活動であり、国民の支持を集めます。
これと、近年のSealdsの抗議デモと比較すると、Sealdsデモは政治デモです。したがって、ごく一部の人の共感を得られても国民的支持は得られません。なぜなら、「徹底的な非政治化」の社会の中では、国民が反旗を翻すのは委任関係を破ったときだけであり、富山の女性はそれを主張できてもSealdsはそれを主張できないからです。




逆に、「徹底的な政治化」を進めると何が起きるのでしょう。
それが【B】の「国民生活に規制を強いる」状態です。「総政治化」と呼んでもいいでしょう。

「総政治化」とは、「すべてが政治化される状態」と言えます。言論や職業、宗教や文化にいたる全てに政治が絡んできます。

その典型例が、中国の文化大革命です。
宗教はアヘンだと否定され、ベートーベン・モーツァルトなどの西洋音楽も否定され、すべてが「政治的に正しいものでなければならない」とされました。

こういった社会の中では、すべての人間は政治的存在と定義されます。したがって、「私は政治に関係ありません」などということは許されません。究極的には一国民全体をひとつの政治思想で統括し、すべては政治的評価の下に置かれる社会です。

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すべての対象は否応なく政治的判断の対象にされ、小説・演劇・音楽だけでなく、学問も服装も言葉遣いに至るまで、対象は無限定となります。


【A】の非政治化とは、本来政治問題になるはずの諸問題を政治化させない社会です。
【B】の総政治化とは、本来政治問題でないものまで政治化してしまう社会です。

この両者に共通しているのは、いずれも統制社会だということです。

そして、これら統制社会をミックスさせたものが、「55年体制全体主義」の枠組みだったと私は考えています。しかし、このミックスの方法は一種独特のものでした。





「非政治化統制社会」と「総政治化統制社会」は、図6のように、本質的にぶつかるものです。

《図6:非政治化統制社会vs総政治化統制社会》

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この2つの統制社会を図7のようにミックスさせたのが55年体制でした。非政治化統制社会と総政治化統制社会の対立そのもの飲み込むという荒業でもあります。。


《図7:総政治化統制社会を飲み込む非政治化社会》

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図7まで来ると、我々が馴染み深い構造が見えてきます。

非政治化された統制社会を目指すのが政府与党であり統治集団となる。
政治化れた統制社会を率いて対抗する勢力が野党として対立する。
③この両者が一定のバランスを取りながら政治を進めていく。

思い返してください。非政治化された社会とは「政治に口を挟まないならば、国は全ての権利を認める」という社会でした。それは「統治集団にとって変わろうなどと思わなければ何をしても良い」との論理です。
55年体制において、社会党は決して政権奪取を目指しませんでした。口では何とでも主張しましたが、最後の最後まで政権を奪取して統治集団になろうなどと考えなかったのです(自社さ連立政権は、相乗りを持ちかけられた結果に過ぎません)。
社会党は「統治集団である自民党にとって変わろうなどと思わなければ、どのような批判をしても構わない」との非政治化統制社会の論理に乗ったのです。

では、55年体制下の政権交代とは何だったのでしょうか。
総政治化された体制を思い返してください。総政治化とは「政治的でないものまで政治化してしまう」体制です。大臣の不倫でも些末な案件でも何でも構いません。粗を探して政治問題に格上げし、統治集団である自由民主党に対して野党は攻勢をしかけます。
その攻勢に対して、自由民主党は与党内での政権交代という形で対応しました。それで総政治化集団は満足したのです。俺たちの攻勢で与党は政権交代した……「与党のチェックをするのが野党の仕事」「政府の暴走を止めるのが我々の仕事」と。


この55年体制全体主義の枠組みは、現在でも効力を発揮しています。

今回の衆議院選挙で、野党が「アベ1強打倒」しか叫ばないのはなぜでしょうか。有権者の多くは疑問を抱いています。「打倒するのはいいが、その先にどんな社会があるの?」

モリカケ問題は、あれははっきり申し上げるならばデマ以外の何物でもない。「結局何が何だかわからない」というのが国民大多数の率直な感想だと思います。それはそうでしょう。追及している本人たちが「違法性はない」と認めておきながら追及しているのですから。公党の人間が一国の首相に悪魔の証明を延々と仕掛けるなどは、議会制そのものの堕落です。

しかし、55年体制の文脈で言えば、これは正当な主張なのです。政府与党を攻撃できるのであれば何でも構わない、政治的でないものまで政治化して政権を攻撃するのが総政治化体制ですから。



その意味で、野党の論理は、未だに55年体制を抜け出ていません。




さて、このような馴れ合いの全体主義の中で、言論はいよいよ変な方向へ進んでいきます。

もう一度、図3を眺めてみましょう。

《図3:社会の中のリベラル派》

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図3の構図は、図7の構図と同じです。
55年体制では、保守主義者を中心とする社会は、非政治化が進み、リベラル派を中心とする社会は総政治化が進みました。

《図7:総政治化統制社会を飲み込む非政治化社会》
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結論から申し上げると、55年体制の下で非政治化された統制社会で言論は縮小し、逆に総政治化された統制社会では同調圧力により言論は自壊したと私は考えます。

その辺りを次回で詳しく述べましょう。


(番外編)外山恒一はどこにいるのか


2007年の東京都知事選挙にて強烈なインパクトを与えた自称「ファシスト」の外山恒一
ご存じない方のために、東京都知事選挙政見放送を。


外山恒一の政見放送




「少数派の諸君!」と語りかける外山恒一の内容を聞いて、「ああ、この人はリベラル派なのだ」と考えると、外山恒一の主張を見誤ります。

外山恒一の主張は、図7の中でこそ意味を持つのです。

《図7:総政治化統制社会を飲み込む非政治化社会》

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結論から申し上げると、外山恒一は、図7のどこにも位置していません。55年体制の枠外に外山恒一は自らを置いています。

外山恒一の言う「多数派」とは、端的に言えば非政治化統制社会を運営している多数派です。「お前ら国民は何も考えなくてもいいんだ、俺たちに任せておけばOKなのだ」と言う多数派です。

ここで注目すべきは、外山恒一が言う「息苦しさ」は総政治化統制社会も含んでいる点です。

外山恒一がPC(ポリティカルコレクトネス)に対し猛烈に反発していることは、案外と知られていません。PCとは「政治的な正しさ」を意味し、差別的用語を禁止し人権に配慮した表現を用いる運動を指します。「ビジネスマン⇒ビジネスパーソン」「保母さん⇒保育士さん」のような事例がこれに当たります。
しかし、それは言葉狩りではないのか?人権の名のもとに表現の自由を奪っているのではないか?あたかも文化大革命のようではないか?と外山恒一は反発しています。

外山恒一が反発しているのは、55年体制が作り上げた統制社会そのものです。この中で「何かがおかしい」と感じる少数派の人々に、55年体制の外側から彼は語りかけていたのです。











《次回へ続く》


勝山市が長尾山総合公園で犯す致命的なミス

 

勝山市が長尾山総合公園で犯す致命的なミス

福井新聞の報道によれば、9月15日の勝山市議会において、第二恐竜博物館誘致の目的で勝山市が次の方針を明らかにした。
 ①長尾山総合公園の駐車場の拡張を行う。
 ②長尾山総合公園へのアクセス道路整備を行う。
 ③温泉施設「水芭蕉」を恐竜をテーマにした施設に改修する。
 ④まちづくり観光株式会社の物販施設を県全体の観光案内拠点とする。
 ⑤上記の物販施設で、市内飲食店での昼食予約ができるようにする。
 ⑥恐竜博物館の入場券を活用した市内飲食店での割引サービスを行う。


長尾山総合公園とは、福井県立恐竜博物館が位置する勝山市の公園である。下記の図は、長尾山総合公園整備計画図であり、②のアクセス道路整備は、下図に赤点線で示されている道路を指すものと思われるが、勝山市の説明だと「黒原経由」を明言しているので、別なルートになることも予想される。

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長尾山総合公園開発予定図



さて、勝山市が示した上記の方針は次の点で致命的な過ちを犯している。

ひとつは、長尾山総合公園の魅力を高める努力をしていない点勝山市の方針は、どこまで行っても「県立恐竜博物館だのみ」である。単独施設にもたれかかった施策は、その施設の誘客力が途絶えた時点で終わる。県立恐竜博物館が抜群の誘客力を持つ今こそ、その誘客力を活かして長尾山総合公園の魅力を高め、公園自体での誘客力を確保すべき時期なのだ。「ヒット商品を生み出した時こそ、その利益を活かして次世代の製品を作れ」との民間企業の知恵に学ばねばならない。


ふたつめは、経済波及が全く見込めない点。9月14日の福井県議会では、興味深い議論がなされている。井ノ部県会議員が「福井県立恐竜博物館の経済波及効果は、勝山市で33億円しかない。年間90万人が集まる施設としては物足りない」と福井県に斬り込んだ。県として苦しい答弁を余儀なくされたようだが、これは県が気の毒だ。
 というのも、福井県自身が勝山市の無策っぷりを腹ただしく思っているからだ。私が議員時代に県に行くと部課長から「いつになったら勝山市さんは金儲けてくれるんですかね」と、よく嫌味を言われた。議長時代には知事から直接苦言を呈されたこともある。昨年は、副知事に怒られた。「一体、勝山はどうなってるのか」と。


三つめは、勝山市民の存在がどこにもないことだ。長尾山総合公園は、市税を投入して整備する勝山市の公園である。観光客向けの整備をする必要性は認めるが、あくまでも「市民のための公園」なのだ。勝山市民が楽しめる工夫をすべきである。

この3つのミスに共通していることは、顧客のニーズを考慮していない点である。まさに、ここに尽きると言っても良い。
 温泉センター「水芭蕉」を恐竜仕様にして、誰が喜ぶのか。風呂に入った観光客が「あら、こんなところにも恐竜が」と言うだけのことであって、それを目指して観光客が「水芭蕉」に来ると考えること自体、本末転倒であろう。




顧客のニーズをつかめ

 行政は、まずは「ダメなこと」から入りがちだ。あれは金がないからダメです。これは規制があるからダメです……といった具合に、とにかくできない理由を探すところから始まる。
 逆に、政治は、まずは「理想の姿」を想い浮かべることから始まる。その上で、理想を実現する際に障害となる事柄をどのように乗り越えるのか、その点に工夫を重ねる。
(その姿勢がなければ、政治など只の権力闘争で終わる代物でしかない)

まずは、長尾山総合公園の「理想の姿」を想い浮かべる前に、現在の恐竜博物館へ来る観光客のことを想像してみよう。

 あなたは県外から恐竜博物館へ車でやってくる。恐竜博物館へ辿り着くまで、渋滞を我慢しなければならない。延々と続く渋滞の中で、ようやく恐竜博物館へ辿り着いた。しかし、駐車場の空きはどこなのだろうか。後部座席の子供たちは、「早く恐竜博物館へ行きたい」と叫ぶし、助手席の妻はイライラしている。全くなんてところだ。
 ようやく駐車場を探し当てたあなたたちは、今度は恐竜博物館の建物の前で並ばなければならない。入り口から続く行列。
 やっと博物館に入ることができた。しかし、人込みの中は疲れる。1時間、2時間と子供たちと一緒に館内を歩いたあなたは、疲労困憊だ。ようやく子供たちも満足したらしく、博物館の外へ出た。目の前の駐車場は、とにかく車と人で一杯だ。休憩したくとも、その場所もない。軽食をとりたくても、目の前にある誘客拠点施設は人混みだ。
 「こんな場所は一刻も早く脱出しなければ」


ならば、次のような長尾山総合公園はどうだろうか。

 あなたは県外から恐竜博物館へやってきた。昨年と違うのは、今年は渋滞が全く起きていない。これはどうしたことだろうか。恐竜博物館の近くまで来ると、理由が分かった。今年は、長尾山総合公園への車の乗り入れは全面禁止になっているようだ。
 シャトルバスが出ているようだ。シャトルバスが出ている個所は、勝山の中心市街地と越前大仏駐車場、平泉寺など数か所ある。あなたは平泉寺を選んだ。あなた自身、平泉寺に行ったことがないので、帰りに寄ってみようと思ったからだ。
 シャトルバスに乗って、恐竜博物館前に着いた。あなたは、昨年と異なる光景を目にする。ひとつは恐竜博物館の入り口に人が並んでいないこと。そして、博物館前の駐車場スペースにケータリングが数十台並んでいるだけでなく、テントがずらりと張ってある。これはちょっとしたお祭り風景だ。
 そして、博物館の反対側に目をやれば、子供が遊ぶことのできるアトラクション施設ができている。なるほど、ここで子供たちを遊ばすことができるから、博物館へ殺到することなく分散化ができているのか……とあなたは納得する。
 ゆったりと博物館を見学した後に、あなたは家族とケータリングで軽食を楽しむ。座る椅子の数も十二分にある。テントでは、ヨーヨー釣りや金魚すくいなど子供たちが楽しめる遊びが低価格で提供されている。眼の届くところで子供が遊べるのはありがたい。
 一休みしたあなたは、子供を連れてアトラクションへと向かった。どうやら、この公園は「自然と楽しむ公園」をテーマに作り直されているらしい。木々を使ったアスレチックや、巨大迷路などを楽しんでいるあなたは、隣の家族連れに話を聞いてみた。どうやら、この家族は勝山市内の人のようだ。休日を満喫できる場所として、勝山市内だけでなく県内から家族連れが来ているらしい。
 子供たちも充分に遊んだことに満足したあなたは、シャトルバスで平泉寺まで戻ることにした。せっかくだから、平泉寺を見てから帰ろう……


さて、こんな長尾山総合公園は可能だろうか。

結論から言えば可能だ。

まずは、長尾山総合公園への車の乗り入れを禁止する。
とは言っても、年中禁止にする必要はない。現状で、パーク&ライドを実施している時期はゴールデンウィーク中と夏休みの一期間、そして秋の特定時期だけである。その時だけで良い。長尾山の車の乗り入れを禁止するのだ。

長尾山総合公園への車の乗り入れを禁止した場合、シャトルバスの運行が不可欠になる。問題はその予算措置だ。

その予算措置のために、駐車場前にてケータリングを配置する。

ケータリングとは、飲食を提供する移動販売車である。
下記の写真は、Genjiroさんのお店。よく市立図書館付近でご商売をされている。ベーグルとカレーが実に美味しい。

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このケータリング出店者から出店料をいただく。ケータリング所有者の方々にリサーチしたところ、夏休みやゴールデンウィークであれば1日2万円、3万円の出店料を払ってでも店を出したいとのことだ。
何も難しいことは無い。最低基準を1日2万円と定めて、希望者に入札をかければよいだけのこと。仮に、ゴールデンウィーク、夏休み40日、秋に都合10日と考えれば、年間70日近くは出店が可能となろう。
ならば、20店舗×2万円(最低基準額)×70日で、黙っていても年間に最低でも2800万円が長尾山に入るではないか。

市内のバス会社に問い合わせたところ、バスを1日借り切ってシャトルバスに利用した場合、1日10万円あれば十分だとのこと。
ならば、シャトルバス発着場を
 ・中心市街地
 ・越前大仏
 ・平泉寺
 ・その他
の4か所に設定して、各発着場に大型バスを3台貼り付ければ1日で120万円。10日で1200万円。年間で20日走らせてもお釣りが来る。
 無論、シャトルバス発着場を上記の場所にする理由は、他の観光地を周遊してもらいたいがためである。

付け加えるならば、ケータリング20台に加えて、「勝山市民枠」を5台追加しておくのも面白い。勝山市民がケータリングを出すのであれば、出店料はとらない。そして、ケータリング車の開発に特化した補助金を創設する。「勝山市民枠」でケータリング車を作った市民は、左義長祭りや秋祭り、体育祭、歳の市など様々なイベントへ出ていくだろう。


さらに、長尾山総合公園内に、こんなものがあるとどうだろうか。

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ここまで、本格的なモノでなくとも構わない。子供たちが自然と遊ぶことのできる場であれば良いのだ。

ということは、これも可能だろう。

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これらは、やり方ひとつでどうとでもなる。

障害は2つ。

ひとつは、「長尾山総合公園をどのようにしたいのか」とのコンセプトがないこと。コンセプトがないから、いつまで経っても同じようなことしかできない。長尾山総合公園には指定管理者がいる。彼らの思うがままのコンセプトで行動させるだけの度量は、今の勝山市にはない。

もうひとつは、「自分たちだけで利益を得たい」と考える人々がいることだ。誰とは明言しないが、勝山市内の人ならばおおよそ検討はつくだろう。彼らは、絶対にケータリング車を招こうなどとは考えない。ならば、その誘客施設だけで観光客を満足させることができるのか……それもできない。
昔から「共存共栄」というではないか。多くの人々で観光客と市内・県内の人々に満足してもらい、結果として皆で儲けようではないか……との発想に立たない限り、長尾山総合公園は今のままであろう。

仮に、第二恐竜博物館が現状のままで長尾山総合公園に来た場合のことを考えたことがあるのだろうか。今以上の渋滞、今以上の混雑、うんざりする人々。「長尾山は混んでるからいかない」という市民。それが我々の望む姿なのか。真剣に考えるべき時期に差し掛かっている。

上の不始末は、常に現場にやってくる

 

上の不始末は、常に現場へやってくる

先に「官は強し 民は弱し」を書いた。書いた後で、ひとつ気になることがあったので、追記として拙稿をしたためる。

というのも「あの投稿のせいで、現場で汗をかいている人たちに迷惑がかかるのではないか」との想いがあったからだ。

上の不始末とは、大概、「見込みのない戦略」や「出たとこ勝負の方針」で引き起こされる。計画を立てる上の連中は、往々にして現場を知らない。ならば現場の声を拾い上げれば良さそうなものだが、それをすることもない。

話はいきなり変わるが、太平洋戦争での日本軍の戦死者230万人のうち、6割が餓死者であるとの分析を、故・藤原彰教授(一橋大学)がされていた。兵站を軽視した致命的なミスである。「見込みのない戦略」や「出たとこ勝負の方針」で、現場へシワ寄せが来た最たる例だ。



花月楼の開設に向けて現場で汗をかいてきた人たちがいる。
いずれも私にとっては馴染みの深い人たちばかりだ。

彼らの想いはひとつである。
「これが勝山のためになるのならば」
その想いで頑張っているのだが、世評は彼らに対して極めて厳しい。
「役所とつるんで金儲けしてる」
「どうせ利権目当てなのだろう」
そんな声が私のところにまで届くくらいだ。さぞかし彼らは辛い思いをしているに違いない。

3年前だっただろうか。彼らのひとりと酒を呑んだときのことだ。ピッチもあがり、酔いがまわってきたのだろう。彼は泣きながら私に言った。
「松村さん、ボクはね。勝山のためになればと思って頑張ってるんですよ」
「でもね。わかってもらえないんです」
「なんで、オレだけこんな目に遭わなきゃいけないんです?」

行政は酷いことをするものだ。
勝山のために頑張ろうとする若者を、擦り切れるまで使い続けるのだろうか。


市内には有能な人材があまたいる。
しかし、彼らは行政と距離を置き、ある一線以上に踏み込まない。あからさまに行政から離れていった人たちも多い。その理由は何か。それを行政は考えるべきなのだ。

行政の現場スタッフは薄々感じているだろう。何が問題なのかを。しかし、彼らも行政マンであるがゆえに、組織の人間であるがゆえにその問題を掘り起こそうとはしない。

「分かってはいるんだけどね」
「まあまあ、そう言わずに……」
馴れ合いのなかで、その理由を深掘りすることもなく、行政は都合の良い人材を擦り切れるまで使うのだろう。そして、彼が擦り切れたら別な団体や組織を探すのだろう。それが誰なのかは、おおよそ想像がつく。そして、現実はその通りに動いているようだ。

上のしわ寄せが現場スタッフに来るのは、行政組織内でも同じように起きる。「官は強し 民は弱し」の中でも述べたように、レストハウス長尾山は勝山市の担当課長と交渉を続けていた。その担当課長は、定年に1年を残して退職した。表向きの理由はあったが、交渉疲れの顔を見続けた私には別な理由があるようにしか見えなかった。彼もまた擦り切れるまで使われたひとりだったように思う。





「めずらしく市長と知事の意見が合致した案件ですから。これは何としても成功させないといけないのです」と、私の面前で平然と語った理事者がいた。発言者が誰か、そして何の案件についての発言なのか。それは言わない。言わずとも分かる人は分かる。これを読んでいる市役所職員なら、全ての人間がわかるだろう。

そんなくだらない理由から始まった事業で、勝山の人材を摩耗させるのは止めて欲しい。

累々の屍を踏み越えて進む道などないのだ。


本来、あるべき道とは、「皆が各々の能力を発揮して活性化する社会」ではないのか。勝山にいる人材にアイデアを出させ、それを実現できる権限を与え、彼らが活き活きと活躍できる。市役所の現場スタッフも活躍できる。それこそが勝山の未来の姿であると信じたい。

官は強し 民は弱し

レストハウス長尾山が建つ

福井県を代表する観光名所になった感のある「福井県立恐竜博物館」。その県立恐竜博物館は、勝山市の長尾山総合公園にある。

その県立恐竜博物館の前に、レストハウス長尾山という建物がある。来館者に飲食を提供し、お土産物の販売等を行う場所だ。



まずは、このレストハウス長尾山の設立経緯について説明したい。

今でこそ、年間90万人を超える来館者が県立恐竜博物館を訪れる。しかし、レストハウス長尾山が誕生した16年前は、年間20万人程度の来館者しかなかったと記憶している。

行政は、観光協会に強く圧力をかけた。
「これから恐竜博物館の来館者をもてなす施設が必要だ」
観光協会が率先してやって欲しい」

観光協会には苦い記憶があった。
越前大仏である。

30年前の昭和62年5月18日に開眼法要をした越前大仏は、その圧倒的なスケールと規模により大きな集客力が予想された。地元商工会議所の主導により門前市には多数の店舗が入店した。
当初こそ、抜群の集客力を見せ、門前市の店舗は大いに賑わったときく。しかし、その集客力を維持できず、観光客が減少し門前市に出店した店舗主たちは大きな負債を抱いて撤退した。夜逃げ同然に勝山を後にした人もいたと聞く。残された店舗主たちも、負債の返済に多くの時間を費やした。

勝山市内の商工業者がその返済に苦しんでいる、まさにその時期に、行政から「長尾山に誘客施設を作れ」と迫られたのである。観光協会が躊躇するのは十分に理由があった。また、2000年に開催された恐竜エキスポこそ大きな賑わいを見せたものの、それ以降、恐竜博物館は閑散としていた。あの当時、恐竜博物館は海のものとも山のものともわからなかったのだ。

行政の圧力は増すばかりで、
「あんたらがしないのなら、福井から業者を引っ張ってきてもいいんだぞ」
と半ば恫喝をする段階まで行った。一連の発言は、当時の観光協会理事会の議事録に残っていると伺っている。

観光協会は組織として動けない。しかし、行政は強圧的にやってくる。福井から業者を引っ張ってくるとまで言われては地元業者の名折れ。

事ここに至ってはやむなし。
「これからどうなるかわからないが、まずはやってみよう」
観光協会会員の有志が集まって会社を設立し、レストハウス長尾山を建設した。もちろん、設立者たちの個人負担によってである。

観光協会が土地を借りて、会員有志が建物を建てるという形式はこのようにしてできた。

後々、この形式が彼らにとってアダとなる。





官は強し 民は弱し

レストハウス長尾山が立ち上がってしばらくは何の変化もなかった。恐竜博物館は、徐々に人を増やしてはきたものの、大きな変化はなかった。

2010年を超えたあたりから、少しずつ状況は変化する。福井県が特別展を開催し、PRに力を入れることで県立恐竜博物館の来館者数が劇的に増えていったのだ。

不思議なことに、それまで何の話題にもなっていなかったレストハウス長尾山が、来館者が増加するにつれ問題視されるようになる。

そして、レストハウス長尾山と観光協会に対して、行政から最後通牒が下された。
「次の賃借の更新はしませんから」

この辺りの経過については、別の機会に詳しく述べることもあるだろう。
ただ、当時の私は理不尽さを強く感じていたことは事実だ。なにしろ、行政は要綱を変更してまで更新できない理由を作り上げたのだから。

当時、既に観光協会の理事役員を退任していた方が、私に漏らした一言が未だに忘れられない。
「松村さん、役所はこんなにエゲつないイジメをするんですか」


無論、一度借りたら永代借りられるというものではない。契約法上、更新の都度都度に協議し更新しない場合はある。
しかし、レストハウス長尾山の設立経緯、そしてレストハウス長尾山の経営者たちは、まだ借金の返済途中であったことを考えるならば、酷な話であったことは事実だ。
「苦しい時に助けてくれと言いながら、儲かるようになったらジャマだどけ!と言わんばかりの役所の対応には腹が立つ」
どこを押しても何も変更できない。市議会議員として無力感に苛まれていた当時の私にとって、その言葉は堪えた。


前述したように、レストハウス長尾山の土地は観光協会が市から借りる、そして会員有志で設立した建物がその上に立つという形式で運営されていたのだが、その点がアダとなった。
観光協会の一部の人間が利益を貪っている」
と付け込まれたのだ。

一寸の虫にも五分の魂という。レストハウス長尾山には彼らなりの理屈がある。彼らは、誰も手を挙げなかったから悲壮な覚悟で店を構えたのだ。儲かる保証も見込みも無い中で地道な努力を重ねて、ようやく軌道に乗ろうかという段階で「お前らだけが利益を貪っている」とは、横槍もいいところだ。

それでも彼らは妥協案を出す。レストハウス長尾山のスペースの一部を開放して、広く出店者を募る。少なくとも私たちだけで利益を独占するつもりはない。

その妥協案は完全に無視された。

「特定の人たちだけが利益を得るという状況は、変更しなければなりません」
徹頭徹尾、それが行政の論理だった。

その論理の下に、建物は勝山市に無償譲渡を余儀なくされた。無論、店舗主が抱えていた借金はそのまま残された。





やはり官は強いのか

長尾山公園に、新たな誘客施設が建設される。その起工式が行われるそうだ。

観光まちづくり会社とは何ものか。私には未だに理解できない。
ただ、これだけは申し上げておきたい。

「特定の人たちだけが利益を得るという状況は、変更しなければなりません」
という行政の理屈でレストハウス長尾山は立ち退きを余儀なくされた。「建物の借金もようやく返し終えるので、もう少し待ってもらえませんか」との関係者の願いも踏みにじり、行政は半ば強権的に彼らの所有建物を市に無償譲渡させた。

その理由が、「特定の人たちだけに利益を得させない」ことであるならば、観光まちづくり会社は広く利益を分配させるものでなければならない。

本当にそれができるのか。

勝山市民には注視していただきたい。

松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.3

 

「想い」を伝える

いきなり話が飛びますが、「絶対に死なない生き物」がこの世には存在します。
何だと思います?
ウィルスです。

ウィルスが生物なのかどうか。これは学者の間でも、未だに決着のつかない問題なのですが、それはさておき。ウィルスは自分を分裂させます。ひたすら自分のコピーを作っていきます。ですから、自分が死んでも代わりの自分がいます。

しかし、我々はそうではありません。人類の祖先は、子を産み、育てるという方法を選択しました。ここで面白いのは、子を産み、育てるだけならば、人間の寿命は30歳くらいで十分だということです。実際に1900年の人口統計を見ると、日本の平均寿命は44歳になっています。これは、乳幼児死亡率が高かったせいもあります。

しかし、そんな中でも人類は文字を発明し、自分たちの記録を次の世代に残そうとしました。記録文学で、絵画で、彫刻で、何とかして自分たちの生きた証を残そうとしたのです。



「想い」を伝えることができるのは人だけです。確かに想いを伝えることは難しいことです。ですが、あなたの「想い」を伝えることのできる人は、あなた以外にいません。周囲の人に、次の世代に、あなたの「想い」は様々な形で伝わっていくのです。


話もいよいよ最後に差し掛かりました。
終わりに2本の動画をご覧いただきます。



まずは、寿司屋のコマーシャルです。


銀のさら CM 母と子




もうひとつ、見ていただきましょう。これは日本のものではなく、タイの生命保険会社のCMです。


タイ保険会社の感動して涙が止まらなくなる動画【日本語字幕】


どうでしょうか。

みなさんは誰にあなたの「想い」を伝えたいと感じましたか。

ぜひ、その方にあなたの「想い」を伝えていただきたい。これは私からの心からのお願いです。もしも、お家に戻られて、皆さんがだれか一人。奥さんでもお子さんでも、仏壇の中の遺影でもいい。だれかに「想い」を伝えていただければ、私の拙い話も無駄ではなかったなと思います。

長い時間、お付き合いいただきありがとうございました。とりとめもない話で申し訳ありませんでしたが、ご容赦ください。

ありがとうございました(拍手)。



















松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.2

 

我が国の不幸感はどこから来るのか

冒頭に申し上げたように、本当におじいちゃん・おばあちゃんは幸せなんだろうか。そういう思いが私の中にあります。

老健施設などに入っている人たちを見ると、どうしてもその思いが強くなる。これは施設が悪いんじゃないんです。施設の職員は本当に努力されています。それじゃ、施設に入れる家族が悪いのか。そんなことはありません。やむにやまれぬ理由があってのことです。誰も悪くない。でも、施設に入って「それじゃ、おじいちゃーん。運動しましょうか」とグーパー運動している姿を見ると、悲しくなるのです。

一生懸命に生きてきた人たちの尊厳ってどこにあるんだろう。おじいちゃん・おばあちゃんのひとりひとりにパーソナル・ヒストリー、つまり人生の歴史があり、大切にしているものもあり、生きがいもある。そういったものに光を当てられないものだろうか。

そんなことを考えてしまうのです。



実は、行政サービス自体も、この傾向があります。

行政サービスの特徴は、人の人生をストーリー化して対策を練るところにあります。

例えば、人を「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付する。そういう行政サービスを行います。「結婚して子供を産んだけれども、離婚して生活が苦しい」という人生であるならば、寡婦控除を給付する。そういう行政サービスもあります。

ただ、これには大きな欠点があります。必ず、このストーリーから漏れてしまう人がいる点です。

先ほど、「働いている人」と「働いていない人」に分けて、働いていない人に失業保険を給付すると言いました。しかし、失業保険を受け取れる期間に必死で仕事を探しても見つからなかった人はどうなるのでしょう。
「働いている人」でも、若年労働者では低賃金で働いている若者が多数います。そういう人と50代で年収800万円の人を同列に扱って良いものでしょうか。

そういうとき、行政は、ストーリーを細かく細分化し始めます。働いている人の中で、更に年収200万円以下の人で、かつ、20代の独身者には、〇〇という行政サービスを支給します。といった具合に。

それでも、全てをカバーできないのです。必ず、漏れてしまう人たちがいる。



なぜなら、行政サービスというのは、サービスの許認可だからです。〇〇という資格のある人だけが受けることができる。これが行政サービスの特徴です。

最大公約数で「日本国民なら受けられる」行政サービスがあります。日本国民であることが資格になってるサービスです。義務教育などがそうです。65歳以上の人で年金を支払い続けた人ならば、年金受給の資格があります。要介護認定を受けた人、これも資格です。

行政サービスとは、詰まるところ、資格のある人は受けられるが、そうでない人は受けられない。そういうサービスです。

そうすると、結論として、高齢者の皆さんの生活をトータルにみる行政サービスは存在しないことになります。高齢者だからという理由で受けられるサービスは、ごく一部のものを除いて存在しません。



先ほど、老人施設でのおじいちゃん・おばあちゃんの扱いと行政サービスは似ていると申し上げました。
施設の職員の方にお話を伺うと、施設の人も困っているんです。レクレーションをしたいのだけれども、みんなに同じレクレーションをしてもすぐに飽きられる。かといって、ひとりひとりの興味に合わせてレクレーションを作り上げようとすると費用と時間がついていかない。仕方がないから、「おじいちゃ~ん。グーパー運動しましょうか」となってしまう。

行政サービスを徹底させようとすると、とてつもない費用と時間がかかります。したがって、水で薄めたようなサービスにならざるを得ません。

おそらく、ここにいらっしゃる皆さんは行政サービスに満足されていないでしょう。それはよくわかります。そういった苦情を何件も受けておりますので。

その苦情というか、声を聞いていると、不満の根っこにあるのは「まるで年寄りを乞食のように扱う」ことにあるように感じています。高齢者を「何でも欲しがる連中、ただもらうだけの存在、社会の金食い虫」のように扱う。俺はそれが我慢ならん。苦情の底には、そういう想いが見てとれる。

必要なことは人間の尊厳の回復です。
行政サービスも、老人施設も。


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孤立化する人々

尊厳の回復というお話に絡めて、孤立化についてお話ししましょう。

よく「孤独死」などがニュースになりますが、「孤独」と「孤立」は根本的に違うと私は考えています。

確かに両方とも、「独りでいる」という点では同じです。しかし、「孤独」とは、独りで想いを交し合う状態を指します。逆に、「孤立」とは、誰とも想いを交し合えない状態です。

これから、あるコマーシャルを見ていただきます。宝石店のものですが、登場する人物は、孤独なのでしょうか。それとも孤立しているのでしょうか。動画の終盤に、本当に小さな声で、主人公がある言葉を発します。お聞き逃しなく。



【ケイウノ動画】~ふたりで、ひとつの人生を~Full ver.


登場する男性は「孤立」していません。なぜなら、彼には語り合う妻が今も傍らにいるからです。もちろん、妻は既に亡くなっていますが、それでも男性は彼女と語り合うことができる。

本当に怖いのは「孤立」です。誰とも想いを交わすことができない。世の中に人はたくさんいるにもかかわらず、その誰とも想いを交わすことができない。これほど、辛いことはありません。

なぜなら、そこには「人の尊厳」がないからです。人にとって最も辛いことは「お前には価値がない」と言われることです。「お前なんか産まれてこなかった方が良かった」と母親に言われた子供の気持ち、「お前の人生には全く意味がなかった」と死ぬ間際に言われた人の気持ちを想像してください。「孤立」とは、このような状況なのです。


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社会に蔓延するニヒリズム

皆さんの年代ですと、「ニヒルな男」という言葉を耳にされたことがあるでしょう。

例えば、「あっしには関係ございやせん」で一世を風靡した木枯し紋次郎であったり、市川雷蔵演じる眠狂四郎がニヒルな男の代名詞かもしれません。


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ニヒルという言葉は、ニヒリズムから来ています。ニヒリズムとは、日本語で「虚無主義」と訳されます。虚無主義とは、この世界には真理や絶対的な価値などないという考え方です。だったら、俺は自分の価値観のみに従って世の中を渡っていく……と、これがニヒルな男のダンディズムです。

さて、これとは別に、京都大学佐伯啓思教授が……この人は経済学者なのですが……ニヒリズムとは「手段が目的化した社会を指す」と主張しました。

「生活が苦しい。良い服を着て、美味いものを食べたい。だから一生懸命に働く」と頑張っていたはずが、いつのまにか金儲けが目的になってしまう。金を得ることは生活を豊かにするとの目的を達成するための手段であったはずなのに、その金儲けが目的になってしまう。
 社会を良くしたい。そのために権力を持たなければ何もできない。そう思って活動していたはずが、いつのまにか権力奪取が目的になってしまう。
 社会を正しいものにしたいと権力批判をしていたはずなのに、いつの間にか権力を批判することが目的になってしまい、何でも批判しなければすまなくなる。

このような社会で、人は虚無的にならざるをえないと佐伯教授は言います。なぜなら、手段が目的になってしまったら、永遠にゴールにはたどり着けないからです。金儲けが目的になった人に「いくら貯めればあなたは満足しますか?」と尋ねても答えられません。ニヒルなヒーローならば、俺は俺の価値観で生きていくと言うでしょう。それで彼は満足するのです。しかし、金儲けを目的にした人は、金儲けが俺の生き様だと主張しても、永遠に満足することはありません。


そして、こういったニヒリズムが蔓延し始めると、人も組織も自己保存を目的にし始めるのではないか。私はそう考えています。

永遠にゴールにたどり着けないのなら、今を生きるより他にありません。昨日あったものが今日もあったのならば、明日もなければいけない。

何のためにあるのか、もはやその目的すら忘れてしまったような組織がいつまでも残っている。なぜ切れないのでしょう。
まちづくり活動もそうです。まちづくり活動は、自分たちの住んでいるまちを良くしようとする活動です。その目的が手段になってしまって、「今年も何かをしなくちゃいけない」と義務化してしまいます。「もう大変だよ。やりたくないよ」という声すら聞こえてきます。


昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけの社会。
息苦しい社会です。







高齢者は、もっと!

これを言うと、気分を害されるかもしれません。でも、敢えて申し上げるのであれば、新しい挑戦をするよりも、昨日存在していたものを今日も生き延びさせるだけのもの。
皆さんがそんな存在になって欲しくないのです。

「若い者の邪魔にならないように過ごそう」
そう考えるのではなく、
「若い者の手助けをしてやろう」
「若い者に、私の経験を通して『生き方』を伝えよう」
と思って欲しいのです。

松村治門講演録 「想いを伝える」 vol.1

 

この講演録について

資料を整理していたら、たまたま1年前に行った講演の音源が出てきました。
良い機会なので、文字起こしをして加除添削して、記録として残しておきます。実際の講演は、パワーポイントを使って行いましたので、パワーポイント資料も上げておきます。

なお、講演は、高齢者を対象に行われました。



この講演の内容

みなさん、おはようございます。本日は、お招きいただきありがとうございます。
今日は、「想いを伝える」というテーマで、休憩を挟んで1時間半くらいのお話をしたいと考えています。

さて、本日の内容は次の3つの点についてです。

ひとつは、なぜ「想いを伝えること」が必要なのでしょう。

二点目は、我が国の不幸感は、どこから来るのでしょう。この問題です。

これについては、少々お話をしなければなりません。20世紀から21世紀に変わろうとする境目で、村上龍という作家が「希望の国エクソダス」という小説を発表しました。

あらすじをばらすと読んでない方々がご迷惑でしょうから、詳細は述べませんが、ざっくりとしたあらすじだけ。近未来の日本を舞台に、いきなり80万人の中学生が学校を捨ててビジネスを始めるという話です。この中学生たちが発した言葉が、この小説を有名なものにしました。
「この国には何でもある。本当にいろいろなものがあります。だが、希望だけがない」

いつの間に、「日本には希望がない」と言われるようになったのでしょう。そして、中学生がそういうのであれば、皆さん、高齢者はどうなのでしょう。

(「あんまり高齢者、高齢者って言わないで」との発言あり)

そうですか。それなら、「お年寄り」と呼びましょうか。

(「それもイヤだな」との発言あり)

そうですか。では「おじいちゃん・おばあちゃん」とお呼びしましょう(会場笑)。
おじいちゃん・おばあちゃんたちの幸福はなんでしょう。そこを考えてみたいのです。
これが二つ目。


三つ目は、「想いを伝えること」とは何でしょう。誰に何を伝えるのでしょう。

この3点を今日はお話したいと思っています。

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なぜ「想いを伝えること」が必要なのか

なぜ「想いを伝えること」が必要なのか。結論は簡単です。皆さん、おじいちゃん・おばあちゃんたちの社会の中でのポジションが変わってしまったからです。

皆さん、こんなことを考えていませんか?
「若い者の邪魔にならないようにしなくちゃいけない」

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うなずいていらっしゃる方も、かなりいらっしゃるようです。



ここで、ちょっと歴史の話をしましょう。

昭和30年代というと、皆さんが若かりし頃のお話です。その頃の勝山の風景を思い出してください。ひょっとすると、まだ勝山にお嫁に来られていない方もいらっしゃるかもしれませんが、日本の農村風景はだいたい、どこも同じでした。

昭和30年代の農村生活は、昭和一桁の年代の農村生活とほぼ同じです。もちろん、細々としたものは違うでしょう。鉄道が通っていなかった。灯りは電気じゃなくランプだった。そういった違いはあるでしょうが、基本的なライフスタイルは同じでした。

昭和一桁の農村生活は大正時代のものと同じです。大正時代の農村生活は明治時代と似ていて、明治時代の農村生活や江戸後期のものと根っこは同じ。こうやってさかのぼっていくと、昭和30年代の農村生活はどこまでさかのぼるることができるでしょうか。

歴史学者網野善彦によると、昭和30年代の農村生活は室町時代前期にまでさかのぼることができるそうです。つまり、細々とした違いはあっても、約600年以上にわたって農村生活は一貫していたのです。

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

日本の歴史をよみなおす (全) (ちくま学芸文庫)

 

 



ところが、高度経済成長が始まって高齢者の皆さんの立場は大きく変わりました。



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経済が成長する時期は、専門家の時代です。会社に行けば、営業のプロ、経理のプロがいる。農業には農業のプロが、林業には林業のプロが。そうやって、効率を高めていくから経済も成長する。そういった時代です。ですから、高度経済成長期から職業が細かく分かれていくようになりました。

これ、昔は違ったわけです。一人の人間が、農業もできる。山仕事もできる。山に入れば食べられる草と食べられない草も判別できる。独りでなんでもできる人をジェネラリストと呼ぶのですが、究極のジェネラリストです。無人島へ連れて行っても、ひとりで生き延びられる人が昔の人です。

そう考えると、政治のプロなんてのは全く無人島では役に立ちません(笑)。なにしろ、政治家というのは変な職業で、米一粒育てることもしなければ家一軒建てることもしない。無人島へ連れて行ったら真っ先に餓死する職業です。

話を戻しますと、昔の人は究極のジェネラリストでした。何でも知ってるし一家言持っています。ですから、若い者がわからないことがあると、尋ねてくるわけですね。

楽隠居なんて言葉がありますが、昔の人は早ければ30代で隠居してしまう。隠居して何をするのかと言えば、村の仕事をするわけです。小さな頃から農作業や山作業、村作業を30年近くしていると30代後半くらいになります。30年も繰り返していれば、その道のプロです。ですから色々な世間知、ノウハウがある。その知恵を、今度は村落共同体のために使おう。それが隠居の意味です。

それが成り立つ前提には、「困ったことがあれば年寄りに聞け」というルールがあります。農作業や山作業だけではありません。家庭内の困ったことや悩み事も年寄りに聞くのです。

スライドにあるのは、民俗学者宮本常一の「忘れられた日本人」です。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

この本には、宮本常一がフィールドワークで得た話が収められており、昭和初期の農村風景を見るには絶好の書です。この中で、先ほど述べたように、若嫁の愚痴を聞く役割の老人などが出ています。

こういった、「なんでも年寄りに聞け」という風習は、高度経済成長で失われてしまいました。なぜなら、どの分野でも「その道のプロ」がいるからです。おばあちゃんの知恵を利用しなくても、子供が病気になったら小児科へ連れていけばいい。孫が熱を出したからと言って下手に手を出すと、お嫁さんに叱られますしね(爆笑)。農業やっててわからなくなったら農協に聞けばいい。そうやって、「なんでも年寄りに聞け」という風習はなくなってしまった。

でもね。私、思うんですよ。ありとあらゆる分野にプロはいるのですが、唯一、プロがいない分野がある。
それは「生き方を教える」という分野。

パソコン使わせたら、申し訳ないが、皆さんは20代の若者には太刀打ちできませんよ。もちろん、私も太刀打ちできません。
でも、「生きるとはどういうことか」「苦しいときをどうやって切り抜けていくのか」といった生き方の点で、若者は皆さんに太刀打ちできません。

よく言うでしょ?「汝の食したる飯粒の数、我が舐めたる塩粒の数に及ばず」って。お前みたいな若造がいきがったところで、お前の食ってきた米粒の数よりも、俺が流してきた汗水、これには悔し涙とかいろんなものが入るのでしょうが、その塩粒の数が多いんだよ……と。人生を歩んできた人にしか言えないセリフです。

皆さんは、長い人生を歩まれてきた方々です。それだけで、私は尊敬されるべきだと思う。心から思ってます。
なぜなら、「生き方」を教えることができる人は、皆さんしかいないから。

ちょっと余談ですが……というか、私の話には余談しかないのですが(笑)、よく知育・徳育・体育と言うでしょ?教育に必要なものは、知・徳・体だと。それで、知を教える大学はいくらでもあります。体育を専門に教える大学もあります。日本体育大学とか。それじゃ、徳育を専門に教えている大学ってあります?ないんですよ。なぜなら、それは教えるものじゃない。見て学ぶものだからです。

それじゃ、誰を見て学ぶのです?皆さんを見て学ぶんです。苦しいときや悲しいときを乗り越えてきた皆さんを見て学ぶのです。

時々、聞くんです。「最近の年寄りはワガママだ」って。うなずいている人がいますが、うなずいている皆さんも、そう言われているかもしれない(爆笑)。
ワガママになるのは当然なんです。だって、おじいちゃん・おばあちゃんに聞いてくれないじゃないですか。見てくれる人がいなかったら化粧する人なんていないでしょ?それと同じで、聞いてくれる人がいなかったら、「生き方」を教えようという気にもならない。教えることもないのなら、それを自分の背中で示そうという気にもならない。だから、ワガママになるのは当たり前です。

「生き方」を伝える。それはまさに「想いを伝える」ことと同じだと私は考えています。




「想いを伝えること」は難しい


それじゃ、「想いを伝えよう」としても、これがとにかく難しい。

身近にいても、想いを伝えることは難しいものです。あれは、確かフランスの詩人で……だれだっけ。うろ覚えで申し訳ないのですが、「道を歩いていたら、向こうから老人と青年が連れ立って歩いてきた。二人の間に会話はなかった。それで私は理解する。彼らは親子であると」そんな内容の詩だったと記憶しています。

男性の方ならお判りでしょうが、息子はある年齢になると父親と会話をしなくなります。何を話してよいのかわからないから。私も父親と世間話ししかしません。もどかしい関係ですね。

ここで、とある企業のCMをご覧ください。CMの中に、本人の想いを語る分身というか黒子が出てきます。もしも、こんな黒子がいたならば、コミュニケーションはもっと楽なものになるのかもしれません。


SUUMO ココロの声ストーリー




例えばね、これ。ここにいらっしゃるご年配の方ならば、身に染みておわかりでしょうが、嫁と姑のコミュニケーションも難しい。今、ものすごい数の女性陣がうなずきましたね(笑)。

嫁さんは、実は気を利かしている。お義母さんのためにと思ってやっている。姑さんも実は気を利かしている。嫁さん大変だろうからと思って手を出すと怒られる(笑)。我が家は三世代同居です。そんな話をすると、大変だろうと同情される(笑)。嫁と姑の間でコミュニケーション取れば何の問題もないんです。お互いに気を使ってるんだから。でも、それはないんですよね。これ、何でしょうね。本当に困ったものです。

困ったと言えば、こういうお話をするとね。ここには私の地元の方もいらっしゃる。我が家の母親をご存知の方もいらっしゃる。そういうお方がご親切に「松村さんのとこは、嫁姑がうまくいかないの?」と、うちの母親に尋ねてくる(大爆笑)。
これはおやめいただきたい。どうかお願いします。

(「それなら、明日にでも聞きにいかなくちゃ」との声あり)

いやいや、それだけはどうかご勘弁いただきたい(笑)。
あくまでも一般論で申し上げておる次第ですから。

憲法記念日に憲法を考える

 昨日は憲法記念日
新聞TVで報道された、各種集会における様々な意見を見て感じたことを。


アメリカが打ち込んだ日本の杭

戦争に敗れた我が国に、アメリカは日本の杭を打ち込んでいった。ひとつは、日本国憲法であり、もうひとつは日米同盟である。

革新勢力日本国憲法という杭にしがみつき、これは我が国の国民が作ったものだとの幻想にふけっている。保守勢力は日米同盟という杭にしがみつき、我が国はアメリカと対等なのだと夢想する。

どちらも、虚妄ではないか。アメリカが作った箱庭で砂遊びにふける子供と同じではないか。

上記のような主張をしたのは、大熊信行だった。

 

日本の虚妄―戦後民主主義批判

日本の虚妄―戦後民主主義批判

 

 

保守も革新も、お互いに、相手が杭にしがみついている様はよく見える。したがって、保守は革新に向かって叫ぶ。「日本国憲法は米国が押し付けたものだ」と。実際、その通りだ。革新は保守を罵る。「日米同盟は、対米従属だ」と。実際、その通りだ。

そして、国民はその不毛なやりとりにうんざりする。





言葉を失った我々は迷走する

フランスの哲学者(精神医学者)ジャック・ラカンは「言葉の意味」、すなわちシニフィアンを重視した。
 シニフィアンとは、元々言語学の用語である。「言葉の意味、イメージ」と考えれば良い。そして、その意味を与えられている対象がシニフィエである。「山」という文字、もしくは「や・ま」という音声。これがシニフィエであり、その言葉からイメージするものがシニフィアンといえる。
 
シニフィエシニフィアンを考えた人物は、ソシュールだった。ソシュールは、このシニフィエシニフィアンを一体のものとして考えた。「リンゴ」という言葉・音声と、リンゴのイメージは一体のものだとした。

それを分離したのがラカンである。

そして、ラカンは著書『精神病』で、要約するとこのようなことを言っている。

言葉の意味、イメージというものは、互いに結びついて思考を形成する。ところが、ひとつの言葉の意味が居場所を失うと、全体の結びつきが混乱をきたし、精神病を引き起こす元となる。

 

精神病〈下〉

精神病〈下〉

 

 
戦後日本に軍備はあった。警察予備隊と呼ぼうが自衛隊と呼ぼうが軍備は間違いなく存在していた。軍備というシニフィエ(対象)は存在し続けたにもかかわらず、われわれに欠けていたのは、軍備を表現するシニフィアン(言葉の意味、イメージ)である。

軍備はありながら軍事に口を閉ざした結果、軍事というシニフィアンは欠落した。そのために、われわれは軍事問題を正しく把握することができないとの病理に陥った。

結果として、軍事を語ろうとすると思考そのものが混乱をきたす。無理に語ろうとすれば幼児化・退嬰化した表現しかできなくなる。「他国が責めてきたら反撃せずに無抵抗で受け入れよう」などと幼児化した議論や、「このご時世にどこの軍隊が日本を攻めて来るのか」といった退嬰的議論しかできなくなった。

戦後日本に憲法はあった。その憲法の下に様々な法体系が整備され社会は動いている。しかし、憲法というシニフィエ(対象)は存在していても、われわれに欠けていたのは、なぜわれわれはそれに従わねばならないのだという根本のシニフィアンである。われわれは自分で憲法を作ったことがない。明治憲法然り、日本国憲法しかり。憲法はありながら、その根幹である制定権力や制定経過に口を閉ざした結果、われわれは「憲法をつくる」という問題を正しく把握できないとの病理に陥った。

結果として、「憲法をつくる」すなわち、憲法改正について語ろうとすると思考そのものが混乱をきたし、幼児化・退嬰化した表現しかできなくなる。「憲法を変えることは軍国主義につながるという幼児的思い込み」や、「これまでうまくやっていたのだから変える必要はないだろう」という退嬰的議論しかできなくなった。




なぜに国民が憲法をつくってはいけないのか

私は憲法改正を求める。
もちろん、それは大熊の主張する、アメリカの打ち込んだ杭に捕まっている無様さを否定したいとの想いからでもあるが、根本にあるのは、なぜ国民が憲法をつくってはいけないのかとの素朴な疑問があるからだ。

日本国民は、一度も憲法を作ったことがない。明治憲法は欽定であり、それは時代の要請であった。日本国憲法は押し付けであり、それは時代の圧力であった。

憲法は国民のものではないのか。そして、憲法は道具であろう。ならば、持ち主が道具を使いながら改良していって何が悪いのか。

なぜ、国民が憲法をつくってはいけないのか。



パラノイアの戯言

護憲派と呼ばれる論者の言葉を聞いていると、この人たちは世の中の何を見ているのかと問いたくなる。

直近で言えば、テロ等準備罪を新設する組織犯罪処罰法改正案を議論すれば、「法案を通せば戦争する国へ一直線」と批判をするが、一般国民の感覚からすれば「またか」となろう。彼らはPKO法案のときも同じことを言っていた。特定秘密保護法案のときも同じだった。「戦争のできる国」「戦前回帰」と紋切り型の批判を繰り返すのみで、何等の建設的な意見を出さない。

前述したラカンは興味深いことを指摘している。
ラカンは「シニフィエ無きシニフィアン」を想定した。シニフィエとは対象である。シニフィアンとは言葉の意味、イメージである。いわば、対象がないにもかかわらず、言葉遊びにふける人々のことだ。

そして、ラカンは彼らをパラノイア(偏執症)と診断した。
パラノイアとは何者か。隣人に攻撃されているといった異常な妄想にとらわれる人々のことだ。政権は常に国民を迫害するために活動している。国は国民を戦争へ送り込もうと考えている。そのために憲法を変えるのだ……と。

まさに、護憲派がやっていることはパラノイアの一言に尽きる。

そして、国民は当にそのことに気づいている。国民が冷ややかな目で彼らを見つめる所以だ。




改憲派のごまかし

ならば、改憲派が何をやっているのか。
戦後日本で憲法について論じることは、まさにタブー(禁忌)だった。しかし、1990年に西部邁氏が文芸春秋紙に改正憲法試案を公表した頃から風向きが変わり始める。
私もこれは鮮明に記憶がある。まさか改正憲法試案がメジャー雑誌に掲載されるなどとは、当時は想像もできなかった。

その後に、保守派である中川八洋氏の憲法試案であったり、読売新聞社憲法試案であったり、小沢一郎氏のものであったりと、様々な憲法試案が作成された。

そして、2012年に自民党日本国憲法改正草案が上梓されたが、正直なところ、私はどれも肚に落ちるものではなかった。

根本的な問いが抜けているからである。
「日本国民の憲法とはどうあるべきか」
「国民は日本国をどのようにつくりたいのか」

碩学がつくられた試案に対して口を挟むのはおこがましい話だ。しかし、ここを考えずして作られた憲法草案は、単なる状況適応にしか過ぎない。
「われわれは誰なのだ」
「何のために国をつくっているのか」
「どのような国をつくりたいのか」
それを議論してこその憲法草案ではないのか。

ましてや、保守派を名乗るのであれば、憲法草案を論じるに避けては通れない大問題が二つある。

ひとつは天皇の存在だ。

多くの思想家を絡めとったこの問題を避けて通るわけにはいかない。
カール・シュミットは「主権者とは例外状況に関して決定を下すものである」と語った。例外状況とは、国家における非常事態を考えれば良い。東日本大震災のような国家的危機状態や大東亜戦争末期のような時期がこれに当たる。
ここに決定を下すものは誰だろうか。

数年前に、久しく見ていなかった映画『日本沈没』をビデオで見た。無論、昭和48年版である。仮に、日本国が沈没するような未曽有の災害が生じたとする。日本人が国土を失い、ユダヤ人の味わったディアスポラ(大離散)を味わった結果、日本人は世界に散らばらざるを得ない状況に追い込まれたとする。
ユダヤ人はユダヤ経典を以てアイデンティティとした。ならば、われわれは何をもって日本人とするのか。
要は、「日本沈没の憂き目にあったときに、国民はそれぞれに大事なものを持ち出すだろう。だが、日本人全員として、何かひとつ持ち出せるとしたら、何を持ち出すのか。」という問いである。富士山は、海に沈んだ。ありとあらゆる建造物は無くなる。そこで日本人は何を「日本人の象徴」として持ち出すのだろうか。

その問いには、日本人は「天皇陛下を」と答えるのではなかろうか。私はそう思う。無論、そのような状況になれば、俺たちはアメリカ人になるよ、ロシア人になるよと言う日本人もいるだろう。だが、日本人が散り散りになったとしても、なお日本人としてのアイデンティティを保ちたいと考える人々がいるならば天皇を仰ぎ見るのではなかろうか。東日本大震災を慰撫された陛下を被災地の人々が仰ぎ見たように。その光景を見た日本国民が復興への思いを強くしたように。

なぜ、そう思うのか。なぜに皇室は敬愛を受けるのか。
それを突き詰めて考えずして「天皇は象徴である」の言葉だけで済ますのは思想的怠慢と言うべきであろう。


もうひとつは、日本国の固有法の問題だ。

法律の世界には、継受法と固有法との分類がある。継受法とは輸入された法律であり、固有法とはその国・文化が作り上げた法律を指す。大化の改新で日本は中国律令を輸入した。これは継受法である。そして、明治期に欧米法を輸入した。これも継受法である。ならば、我が国には固有法がなかったのか。そんなことはない。中学生が歴史を習う際に必ず覚えさせられる、あの御成敗式目はまぎれもなく固有法であった。

近代法は理性に照らして正しい、中世の法は封建的であるがゆえに遅れている。これは悪しき思い込みである。
「法とはなにか」これは難しい問題であるが、確実に言えることは、法に納得しなければ誰も法を守らないという点だ。利害の衝突があるから法は必要とされる。そして、法に則って裁きはなされる。事実、御成敗式目に延々と書かれた条文を読むと、中世の生活様式、人々の考え方、道徳律などがよくわかる。

固有法とはそういうものだろう。人々の風習、文化、伝統が積み重なって固有法はできあがる。

われわれが憲法を制定しようとする。それは日本固有の憲法であり、まさに固有法だ。

ところが、なぜか我が国の法制史家たちは憲法の問題に口を出そうとしない。また、憲法草案者たちもその意見を求めようとしない。




日本人の「強み」とはなにか


自らが憲法をつくる。つまり、規則を作るときに欠かせないことがあると考える。それは「自分たちは誰なのか」ということ。

私が憲法改正を議論したいのも、この点を明確にしておきたいからだ。そして、自分たちは何者なのかを問うことは、「自分たちの強みは何か」を意識することでもある。


塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』の冒頭には、次のような記述がある。

知力ではギリシア人に劣り、
体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、
技術力では、エトルリア人に劣り、
経済力では、カルタゴ人に劣るのが、
自分たちローマ人であると、少なくない資料が示すように、ローマ人自らが認めていた。それなのに、なぜローマ人だけが、あれほどの大を成すことができたのか。一大文明圏を築き上げ、それを長期にわたって維持することができたのか。

 

ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず

ローマ人の物語 (1) ローマは一日にして成らず

 

 

ローマ人の物語』を読み続けていくと、ローマ人が「制度の力」でハンニバルに打ち勝ち、「他者を抱擁する力」で周辺地域をローマ帝国に組み込んでいく様がわかる。そして、何よりも感心するのは、ローマ人自身がその強みを理解していたことだ。

日本人の強みは何であろうか。

例えば、「強力な現場力」を挙げるのも良い。日本人の持つ現場力は強烈だ。そして、その力ゆえに明治期以降の日本は国力を威容した。そして、その現場力を過信し戦略なき戦いに身を投じたゆえに、大東亜戦争を敗れた。「強みにより組織は力を伸ばし、強みにより組織は身を亡ぼす」とはよく言ったものだ。

ならば、日本人の強みの「強力な現場力」を最高に活かすために、政治はどのようにあるべきか。道州制で現場力を活用すべきなのか。選挙制度は?教育の在り方は?働き方は?

そういった議論の上に、はじめて憲法があるのではないのか。




こういう話をすると、「それは法律論ではない」と反論されることがある。
われわれがつくろうとするのは、憲法である。われわれの国家そのものと言っても良い。国家にある国民や領土のみならず、生活や文化までをも含むのが憲法である。いわば、国の在りようそのものと言っても良い。

国の在りようは、かつては「国体」と呼ばれていた。国体を英訳すればConstitutionであり、Constitutionを再度和訳すれば「憲法」である。

日本人とは何か。われわれの強みは何なのか。その強みを活かすため、われわれの子孫につなげるためにどのような制度をつくるのか。
そういった憲法論議を私はしたい。そして、そのような憲法論議を待つ。

恐竜博物館のある長尾山総合公園をプロデュースしよう  《いきなり大勝負をしかけるな!》

 

忙しい方のために、1分でわかる「今回のまとめ」

①「何をするか」も重要ですが、「どのように進めるのか」も重要です。

②行政は、いきなり結論を決めて大勝負をしかけます。これを箱モノ行政と呼びます。「これはダメだ」と失敗に気づいた時には修正も後戻りもできません。

③顧客の反応を見ながら修正を図り「小さく産んで大きく育てる」手法が求められます。これをリーン・スタートアップと言います。

④その手法は、道の駅建設や学校再編問題など様々な場所で役に立ちます。



はじめに

長尾山総合公園のプロデュースについて、《前編》《中編》とお話してきたのですが、《後編》に行く前に、ちょっと1回、休憩してお話したいことがあります。

長尾山総合公園のプロデュースを考えているわけですが、その進め方について。
これまでは、「何をするのか」というお話でしたが、「どのようにするのか」というhow toのお話です。

これはどうしてもお話ししておきたい。


ーどうして?-

実際の結論が全く違うことになりうるからです。

なぜ、実際の結論が違うことになるのか。
それは、いきなり決め打ちをしないからです。
《前編》《中編》で考えてきた内容を、「これで決定!」みたいに決めてかからない。
だから、やっていく過程で内容が変わることは十分にあり得ます。


ーどういうこと?-


決め打ちしても、それはこちら側の都合。お客様の都合に合わなければ、そもそもビジネスとして成り立ちませんから。

よく言うでしょ?「小さく産んで大きく育てる」と。

実用最小限のモデルを作り、お客様に提示して反応を確認しながら、作り上げていった方が良い。その過程で、当初、われわれが目論んでいた方向と全く異なる方向へ進むことは、十分にありうることです。



ーだから、決め打ちをしないということ?-

そうです。

この手法をリーン・スタートアップと言います。




ー初めて聞くのだけれどー

詳しくは後ほど説明しますが、われわれはこの手法を導入しなければなりません。



ーなぜ?-

行政は、いきなり大勝負をしかけるからです。

これまで「箱モノ行政」の弊害が言われ続けてきました。

曰く、「誰も使わないデカい施設に税金を使うのか!」
曰く、「収益を産まない施設は無駄だ!」
曰く、「こんな施設、誰が使うんだ?」
曰く、「こんな施設を延命させるために、なぜ、血税を投入するのだ?」


「箱モノ行政」の特徴は、決め打ちをして、いきなり大勝負をしかけることにあります。その弊害はふたつ。

ひとつは、これは失敗だと分かったときには、後戻りができません。なにしろ箱モノは残っているのですから。もう、どうにもこうにもならない。

ふたつめは、ただでさえ失敗は明らかなのに、行政は過ちを認めませんから、血税を投入して箱モノを延命し続けるという、二重に出血をともなう結果になります。



これを回避するために、リーン・スタートアップを導入すべきなのです。






リーン・スタートアップとはなにか?


リーン・スタートアップを語る前に、スティーブ・ブランクという人について説明しましょう。


ーそれはだれ?-

この人。

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ブランクは、起業家として8つの新規事業立ち上げ(スタートアップ)に参加し、4つを株式上場にまで導きました。
「1000に3つ」と呼ばれるように、IT関連会社の上場率は1%未満です。それに4社も成功したとは、まさに魔術師と呼ぶにふさわしい実績です。

1999年にビジネス界を引退したブランクは、その成功の秘訣を公開しました。
それが、4ステップ17段階64項目からなる「顧客開発」モデルです。




ちなみに、下のアマゾンの画像は新装版。 

アントレプレナーの教科書[新装版]

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さて、その魔術師ブランクの1番弟子と言える人が、エリック・リース。

このエリック・リースは、ブランクの手法を用いて実際に事業を成功に導きます。そして、彼は、ブランクの手法とトヨタの作り上げた「リーン生産方式」を下敷きにして、「ムダのない新規事業立ち上げ」を提唱します。

それがリーン・スタートアップです。



ー具体的にはどういうもの?-


小さく失敗して事業を育てる」方法です。


新たな事業を始めようとする場合、いきなり大勝負をしかけてはいけません。

まずは、実用最小限の製品(MVP)を作り、顧客に売ってみることです。ここで重要なことは、実用に足る最小限の製品であれば良いということ。人はどうしても不完全なものを人目にさらしたくありません。あれもこれもと付け加えたくなりますが、それではダメです。最小限の労力と時間で開発できるものなのです。

そして、それを顧客に売ってみます。そして、芽がないと判断したら、すぐに製品やサービスを改良したり、事業の内容を一新したりして、軌道修正を繰り返します。

傷が浅いうちに進路を変更し、重傷を負って事業そのものが継続できなくなる事態を避けるためですね。




ー具体的な事例はあるの?-

リースの著『リーン・スタートアップ』には、ZAPPOS(ザッポス)の事例があります。


ーZAPPOS(ザッポス)とは?-

世界最大のオンライン靴店です。1999年に創業され、急成長を遂げ、10年後の2009年にAmazonに推定12億ドルで買収されています。

ZAPPOSが一番最初に何を行ったのか。
このあたりは、著書から抜き出しましょう。

ザッポスの創業者、ニック・スインマーンは、ここに行けばどんな靴でも買えるというオンラインのショッピングサイトがないのが残念だった。それまでなかったすばらしい買い物体験ができたらいいなと思ったのだ。そのあと進む道としては、十分な時間をかけてビジョン全体をテストする方向もあった。数多くの倉庫と流通業者、そして大規模な売り上げがあげられる見込みまでがそろったビジョンだ。この進め方は、大失敗したウェブバン(Webvan)やペット・ドット・コム(Pet.com)など、電子商取引のパイオニアがよく採用していた。

スインマーンは実験からスタートすることにした。まず、靴をオンラインで買う顧客がいるという仮説を立てる。そしてその仮説を検証するため、近所の靴屋に頼んで在庫品の写真を撮らせてもらった。撮った写真はウェブに掲載し、それを誰かが勝ってくれたらお店の売値で買うからと言って。

このようにザッポスはごく小さくシンプルな形でスタートした。
  (『リーン・スタートアップ』p81-82)

結果としてこの実験は成功し、ZAPPOSは「顧客は靴をオンラインで購入する」との仮説を、ほぼコストをかけずに実証しました。

始めから立派なウェブサイトを作るのではなく、低コストで簡単なサービスを立ち上げたのです。

普通の起業家ならやりたくなるのです。立派なウェブサイトを作り、靴の在庫を大量に仕入れ、広告を打ち、物流網を構築して、満を持してサービスを提供する。しかし、実際にサービスを始めてみたら、全く売れなかった。

そうではなく、実用最小限の製品(MVP)を顧客に提示し、顧客の反応を見ながら修正を図っていく。その方法が理にかなっています。
リースは、このサイクルを「構築・計測・学習」と呼ぶのですが、重要なことは、この「構築・計測・学習」の試行錯誤のサイクルを、いかに迅速に、しかもどれだけ回し続けることができるのかが重要になるということです。



ーなるほどねー

「構築・計測・学習」のサイクルを回すということは、ある意味で、われわれの思い込みを正していくことです。

われわれの予測はすべて「仮説」すなわち、思い込みに過ぎません。
「〇〇という商品は顧客に受けるだろう」
「▲▲というサービスは、✖✖というターゲットに受けるだろう」
これらは「仮説」に過ぎないのです。

であるならば、その仮説が正しいのか否かを低コストで検証しながら進めていかざるをえません。

そして、いざとなれば事業戦略それ自体も見直す必要があります。




ー戦略も?ー

リースは、それをピポッドと呼びます。バスケットボールでやる、ピポッドと同じ意味です。

ビジョンは滅多なことでは変えません。しかし、それを実現するための戦略は、柔軟に変えて構いません。むしろ、変えていかなくてはなりません。
ただし、両足を一遍に動かせば倒れてしまいます。だから、片足ずつ軸を保ちながら動くのです。だからピポッドなのです。



ー話を聞いていると、新規事業立ち上げのコストを下げる方法みたいだー


それは誤解です。エリック・リースも注意を喚起している点です。

いずれにせよ、新規事業の立ち上げには、大勝負をしかけなければならない時期があります。要は、いきなり大勝負をしかけて大失敗するのか。それとも、リーンスタートアップを回して確証を得た後に大勝負をしかけるのか。
そのタイミングの問題なのです。

そして、行政はいきなり大勝負をしかけたがる。
それが箱モノ行政の弊害でもあります。




なぜリーン・スタートアップを導入するのか? ―「箱モノ行政」は非難される理由―


ーそもそも箱モノ行政とは何なの?―

行政が主導する、施設開発型のまちづくり」と私は定義しています。



ー学校なども箱モノなの?-

全ての箱モノが問題なのではありません。おおよそ、箱モノは4つに分類することができます。

【A】市民生活になくてはならないもの
【B】市民生活にあると便利なもの
【C】市民生活にとって、あってもなくても構わないもの
【D】市民生活にとって、あると困るもの

学校、体育館、図書館といった施設は【A】に含まれるものです。【B】は、勝山市で言えば温泉センター水芭蕉のような施設でしょうね。

【C】から話は難しくなってきます。勝山市内で【C】の代表例は、勝山ニューホテルでしょう。市民生活にとって、あってもなくても構わないものです。なにしろ、市民は勝山ニューホテルに宿泊しませんから。その勝山ニューホテルに、1億円も2億円も改修費をかけるとなると、費用対効果の問題が出てきます。

【D】は……市民の皆さんのご想像にお任せします(苦笑)。建てたはいいが、これは絶対に儲からないだろう。お荷物になるだろう。そんな建物のことです。




ーそれで、箱モノ行政は何がわるいの?ー

箱モノ行政の特徴は、作ることが目的であることに尽きます。「とにかく建物を作る!」これが目的になってしまうと、次の3つの弊害が現れます。

 ①きちんと収支を弾いていない。
 ②住民・企業との連携がとれない。
 ③評価の手順と基準ができていない。

まずは、「①きちんと収支を弾いていない」というところから説明しましょう。

箱モノ行政が批判される理由は、血税をつぎ込むからではありません。
血税をつぎ込んだだけのリターンがないからです。

「行政は金儲けをするところではありませんから」
という理屈を、しばしば行政は主張します。つまり、元々収支をはじくつもりがありません。

血税をつぎ込んだだけのリターンが見込めないということは、施設からの収入が少ないということです。施設の収入が少ないということは、利用者が少ないということです。そして、利用者が少ないということは、そもそも需要がないということを意味します。

もちろん、学校や図書館のように、元々収益を考えていない建物もあります。これはリターンがなくても構わない。しかし、行政の大好きな「中心市街地活性化の起爆となる建物」とか「駅前再開発の導入となる建物」といった類の箱モノには、リターンの考え方が求められます。

10億円の建物を作るとしましょう。この建物は年間想定収入が8000万円。諸経費を差し引くと5000万円の純利益があがるならば、純利回りは5%。したがって、20年で投資費用は回収できる……普通ならこういう計算をするものです。
そして、「それじゃ、この建物は本当に5000万円の純利益を叩き出すのか?」という議論が始まる。需要はあるのかないのか?という話ですね。


この部分の議論、ある意味、最も重要な部分をすっとばす。収支にこだわらないものですから、高かろうが低かろうが問題ではない。行政にとって重要なことは、「建てること」であり、「手持ちの予算と国・県の補助金で建つのか」という点です。

そして、ここが最大の問題点なのですが、収支を弾かないということは、価値の作りこみをしなくなるのです。



ーどういうこと?-

収支をはじかないということは、リターンを真剣に考えていないということです。リターンを真剣に考えるためには、価値の作りこみをしなければなりません。
「顧客にどのような価値を提供し、対価をいただくのか」
その作りこみを、建設前に延々と議論し続けます。

ところが、リターンを真剣に考えないのであれば、価値を作りこむ必要もありません。そして、出来上がった建物は需要がなく、当然にリターンもない。そういう結果に陥りやすいのです。

投資回収もできないのなら、作らなければいいのに……と思っても、行政は止まりません。なぜなら、作ることが目的だからです。




作ることが目的になれば、「まずは作ってから、後は考える」という発想になります。さすがに住民や企業と連携しないわけにもいかないので、審議会を設置することになりますが、そこに集められるメンバーといえば、商工会議所、JA、森林組合、区長会連合会などの代わり映えしない面々。
本当に汗をかいてやる人を中心に置かなければならないのですがね。

だから、実際にテナント運営をしようとする人たちが設計に加われないなどという、馬鹿げた自体も発生するのです。

これが②の弊害です。


そして、「まずは作ってから、後は考える」という手順で進めていくと、建物が出来上がった後は……推して知るべし。事後の評価方法がありません。
本当にこの建物は必要だったのか。血税を投入した価値があったのか。こういった評価をする手順も、手法もありません。
これが③の弊害です。



ーでも、行政はPDCAサイクルを回しているはずだが?-

PDCAサイクル。つまり、P(Plan:計画)⇒D(Do:実行)⇒C(Check:評価)⇒A(Action:改善)のサイクルを回すことですね。

確かに、行政はPDCAサイクルを回します。事業計画書にも「PDCAを回す」と書かれています。

ですがね。基本的なことたずねますけれど、行政が「この施策は間違っていました」と認めた話を聞いたことがあります?



ーあまりないなー

「公務員無謬の原則」というものがありましてね。
「無謬(むびゅう)」とは、「間違いがない」という意味です。



ーそんな馬鹿な話があるの?-


いや、そんなにおかしな話でもありません。例えば、裁判などになったときに警察官の証言は重く扱われます。「警察官無謬の原則」です。

これは、信頼の問題なのです。「公務員・警察官は一般の人とは違うのですよ。間違いが許されない職業です。国民は、あなたがた公務員・警察官をそのように信頼していますので、あなたがたもそれに応えてくださいね」……と、そういう文脈でとらえられるべきものです。

ですから、公務員・警察官が「俺たちは間違えてはいけない。国民の負託に応えなければならないからだ。だから、しっかりと仕事をしなければならない」と用いるのは構いません。
でも、「俺たちは間違えてはいけない。だから、ミスをミスとして認めるわけにはいかない」との論理で使われると、全く逆の方向へ進んでしまいます。


このような状況下では、PDCAサイクルも違う方向で用いられます。

・ある箱モノを計画した(P:計画)
・実際に箱モノを建設した(D:実行)
・ところが予定よりも客がこなかった(C:評価)
・だから、来年度は予算をつけてイベントを行う(A:改善)

ありがちなシナリオです。延々と血税を垂れ流すのは、この類のPDCAサイクルです。

問題は「C:評価」の部分ですね。本当に評価すべきは、計画(P)の中身と、箱モノを建ててしまった(D)のはずなのに、そこを評価することはありません。なぜなら、そこでの過ちを認めてしまっては、公務員無謬の原則に反するからです。そして、建ててしまった以上は、後戻りもできないのです。



ーリーン・スタートアップと全く逆だー

そう。何もかもが全く逆になっている。
だから、リーン・スタートアップを行政にも導入しなければならないのです。





道の駅でリーン・スタートアップを用いてみよう


実際に、道の駅でリーン・スタートアップを実行すると、どのようになるのか。ちょっと考えてみましょう。



ー道の駅かー

そう、道の駅です。
一説には、全国の道の駅の9割は赤字経営だと言われる……あの道の駅です。

9割が赤字経営だとしたら、これはまさに箱モノ行政の典型例と言えるでしょう。リターンそっちのけで作ってしまい、運営してみたら赤字だった。仕方がないので、行政が運営補助を入れて収支をトントンに持っていく。そのパターンです。




ーそれで、道の駅にリーン・スタートアップを導入するならば?-

まずはビジョンを決めなければなりません。

何のために道の駅を作るのかという、ビジョンです。

リーン・スタートアップをする過程で、戦略を変えていくことはあります。でも、ビジョンを変えてはいけない。ビジョンまで変えてしまっては、何のために事業をやっているのかわからなくなります。

そこで、ビジョンを考えてみましょう。
私だったら、ビジョンは「地域経済が潤う」。この1点に絞ります。観光客へのおもてなしとか、それは地域経済が潤うための手段であって目的ではない。



さて、それではビジョンを元にして仮説を立ててみましょう。
「勝山を訪れる観光客は、土産物を買いたいと考えている」

この仮説を検証したければ、何をすれば良いと思いますか?



ー実際に土産物を売ってみれば良いのでは?ー

でしょうね。私もそう考えます。

恐竜博物館の前に、テントをいくつか並べて、そこで勝山の産品を売ってみれば良い。
実際に、それは既に行われています。
売り上げも、そこそこあったみたいで、これは喜ばしいことです。



ーそのテントで売れれば仮説は検証されたということ?-

そう単純なものでもありません。

なぜなら、これだけでは事業の成長性が見えないからです。
「1日1万人の来館者が来る施設の前で、テントを出した。品数は30品目。そこそこ売れた。ならば、もっと大掛かりにしかければ、もっと売れるはずだ」
これはあまりにも粗雑な論理です。

果たして、この事業は将来どうなるのか。本当に成長できるのか、その可能性はあるのか。これが見えなければ、そもそも大勝負を打つことができません。「テントで売れたから、道の駅を作ればもっと売れるはずだ」「だから、道の駅を作れ」というのは、無茶すぎます。



ーならば、どうする?-

もっと常識的なところからスタートしましょう。

例えば、メーカーや小売店の事業計画ならば、販売量に比例して成長していくことがわかります。
「商品の販売で利益を得る」
「その利益をマーケティングと販売促進に再投資する」
「新しい顧客を獲得する」
という成長シナリオがあります。

したがって、ポイントは3つ。
 ・顧客ごとの利益率はどれくらいか。
 ・新規顧客の獲得コストはどれくらいか。
 ・既存顧客の購入リピート率はどれくらいか。
この3点に絞って、仮説を立てていくことになります。


しかし、道の駅でこれは使えません。



ーどうして? 道の駅も小売り店みたいなものだけど?-

道の駅は、一見すると小売店にも見えます。しかし、小売店ではありません。ひょっとすると、楽天やZAPPOSのような売り手と買い手をマッチングさせる存在かもしれません。

なぜなら、単なる小売りだと仮定すると、何を売っても構わなくなりますから。日本全国からモノを仕入れて売れば良い。それならば、道の駅とスーパーマーケットとの何が違いはなくなります。道の駅のビジョンを地域振興としたのであれば、勝山市内、最低近隣自治体の「地のモノ」と「観光客」をマッチングさせる存在が道の駅だと考えるべきでしょう。

そして、道の駅を、楽天のようなマッチングビジネスだと位置づけると、成長モデルは小売店と全く異なり、ネットワーク効果が最重要課題となります。「他よりも、そこで取引したい」と売り手にも買い手にも思ってもらう必要があるからです。
つまり、「あそこへ出品すれば買い手が多くつく、高く売れる」と、売り手に思わせ、「あそこを覗けば、色々なモノが安く買える」と買い手に思わせなければなりません。

このようなマッチングビジネスでは、新たに流入する売り手・買い手の定着率からネットワーク効果の強さを計測し、それを高めていくことが成長モデルの原動力になります。



ただ、これも道の駅では使えません。



ーなぜ?-

道の駅は「観光客を顧客とする」と定めました。観光客は基本的に一見さんだと思った方が良い。一見さん相手にネットワーク効果、すなわち「どのように定着率を高めるのか」を考えても仕方ないでしょう。

そもそも、本当に道の駅を「観光客」と「勝山市内の地のモノ」とのマッチングビジネスだと定義するのであれば、われわれは既にその具体的事例を見ています。


ーそれはなに?-

大野市の朝市。

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つまり、道の駅建設という箱モノすらいらなくなってしまう。




ーそれじゃ、どうすればいいの?-


「地域振興」をビジョンとして掲げ、「観光客に対して」「勝山の地のモノを売って」「売り上げを伸ばしたい」と考えている。

ならば、売り上げとは、そもそも何なのか。そこから考えていきましょう。

(売上)(延べ購入回数)×(1購入当たりの平均購入個数)×(平均単価)

一見さんの観光客を対象とするということは、観光客ひとり当たりの「延べ購入回数」が「1回」であることを意味します。だって考えてみてください。県外から来たお客さんが、わざわざ道の駅の店のためにリピートする。これはちょっと非現実的です。

したがって、延べ購入回数を増やそうと思えば、「リピート率0%の顧客を来店させる」ことを前提に来店者総数を上げていかねばなりません。とにかく人を呼ばねばお話にならない。そういうビジネスを仕掛けることになります。

そこで、仮説を立ててみるわけです。
「仮説:にぎわい創出のイベントをしていれば、観光客は立ち寄る」

この仮説を確かめたければ、何をすれば良いでしょう。




ーそりゃ、イベントするでしょうー

当然にそうなります。

例えば、夏休みの期間は県立恐竜博物館が賑わう期間です。
恐竜博物館とインターチェンジを結ぶ路線のどこかで、「福井の夏の冷たいものフェア」でもやってみましょう。県内から人気のソフトクリームやアイスクリーム、かき氷、ジュース。なんでもいい。とにかく冷たいものをかき集めてフェアを行う。

果たして、観光客は来るでしょうか。もちろん、その結果については、やってみなければわかりません。

そして、その翌週は、今度は同じ場所でトラック市をやってみる。勝山市内の農産物を集めて、観光客が来るか否か。これを確かめてみる。

その次の日には、県内のケータリングカーに集まってもらい、観光客に様々な食を提供しながら反応を見る。

こういった小さなイベントを繰り返しながら、
「仮説:にぎわい創出のイベントをしていれば、観光客は立ち寄る」
との仮説を検証します。

果たして、観光客は来るのだろうか。来たとして総数はどれくらいになるだろうか。イベント来客者数の比率はどうなのだろう。案外と市内客の方が多いのかもしれない。ファミリー層はどのような物産を購入していくのか?その購入者の比率はイベント全体のどの程度に上るのか。そういった点を調査検証していくのです。



ー結果をみて検証するわけだー

そうですね。
「福井の夏の冷たいものフェア」には人が集まったが、農産物のトラック市には集客力がなかった……という結果なら、何がわかるのでしょう。例えば、恐竜博物館を訪れた観光客相手には農産物は売れないという結果に落ち着くのかもしれません。

こればっかりは、やってみないとわからない。
しかし、やらないことには、何もわからない。
そういう類のものです。


ただし、仮説検証のサイクルを回すことでわかることは必ずあります。
予想した事、予想しなかった結果、様々な検証結果を得ることができる。単なる市場調査ではわからなかった、顧客目線でのニーズなどがわかるのですね。

世界最大のオンライン靴店であるZAPPOSのスタート実験については、前述したとおりです。ZAPPOSは、事業を始めるに当たって、ごく小さくシンプルな形でスタートしました。仮説を立て、顧客はどのような反応を見せるのだろうかと検証を続けました。

ZAPPOSが何を学んだのか。それはエリック・リースの著から引用しましょう。

もしザッポスが過去に行われていた市場調査を利用していたら、あるいはあらたに調査を行っていたら、おそらく、顧客が考える顧客の望みを知ろうとしただろう。しかし、ザッポスは提供サービスを構築した。ごくシンプルなものではあったが、提供サービスを構築したからこそ、ザッポスは以下のことを学べたのだ。

【1】顧客の望みについて制度の高いデータが得られた。頭の中で考えただけの質問を発するのではなく、顧客がどう動くのかを観察したからだ。

【2】現実の顧客とやりとりする位置に自らを置き、顧客のニーズを学んだ。たとえば事業計画に価格の引き下げが組み込まれるケースが考えられるが、その場合、価格が引き下げられた製品を顧客はどう考えるのかが問題となる。

【3】顧客が予想外の行動をする場合があり、そのときザッポスはたずねようとも思わなかった情報を入手した。たとえば顧客が来るを返品してきた場合など。

(中略)
スタートはおどろくほど小規模だったが、だからといってザッポスの大きなビジョンが実現しないことにはならない。その証拠としては、2009年にザッポスが電子商取引の巨人、アマゾン・ドット・コムに推定12億ドルで買収された事実があれば十分だろう。
  (『リーン・スタートアップ』p82-83)


道の駅は、観光客に飲食や物販を提供する。ならば、その実用最小限のモデル(MVP)を作ってみて、仮説を検証する。その結果を受けて修正を図る。そして、これを何回も何回も回し続ける。

そして、その中で、道の駅の建設そのものが大きく修正される可能性は大きいでしょう。



ーなぜ?-

道の駅を建設するのは、何のためですか?
もしも、「建物を作らなくても、『地域振興』の目的を図ることができる」のならば、道の駅なんぞ作る必要はないのです。




ーでも、国や県の補助もらってるから、安く建てられるー

ああ、それ言うんですよ。行政職員も言うし、下手すると議員までもが言う。
そういう発想だから、いつまで経っても箱モノ行政はなくならない。

いいですか。建物にはライフサイクルコストがかかります。



ーそれはなに?-

建物が建てられてから、解体廃棄にいたるまで、様々な費用がかかります。光熱水費などの運用費用、保守・管理などの保全費用、修繕費用、一般管理費など多岐にわたります。一般には、建設費のおよそ3~4倍の費用がかかると言われています。

建設費の補助をもらったから安く建てられる……でも、運用費用、保全費用、修繕費用などは勝山市民の税金でまかなわねばなりません。
いわば、自分たちの子供にツケを回すようなものです。


本当に、道の駅が建設すべきものであるのならば、建設しなければなりません。
そこに国・県の補助を得るのであれば、それは本当にありがたい。

だが、道の駅を建設しなくても、別の方法で「道の駅建設の当初の目的」を達成できるのならばば、特段、建設する必要はないのです。


これですね。酷い話になると、「国・県に補助をもらう約束をしてしまったので、もう後戻りはできない」とか、平気で言い始めるんですよ。もう、ここまで来ると、誰のために建設しているのか、何のために建設するのか、建てた後はどうなるのか……といった話はすっとんでしまい、「ひたすら建設に向けてがんばる」という事態が生じます。




まあ、愚痴はこれくらいにしておきましょう。

本題に戻りますが、小さなイベントを繰り返し行うことや、様々な仮説検証を回すことは、二つの大きな利点を産みます。



ーふむ。それはなに?-

ひとつは、思わぬ成果を得る点です。ZAPPOSがテストの結果で思わぬ情報を手に入
れたように、必ず、テストは思わぬ結果をもたらします。

例えば、テストとして観光客向けのトラック市を開催したが、観光客よりも勝山市民の比率が高かった……という結果が出たとしましょう。
道の駅の仮説としては、「観光客向けに、勝山の『地の野菜』は売れない」との結論を導き出せます。

しかし、別の視点から見れば「勝山市人には、勝山の『地の野菜』を安く提供することは、ビジネスになりうる」との結論を導き出すこともできます。全く新しいビジネスの種が見えてきます。



ーふむ、そんなもんかねー

ドラッカーは、その著『イノベーションと企業家精神』で、イノベーションのための7つの機会を列挙しました。新しい知識を活用せよ、人口構造の変化に着目せよ……といった7つの機会の最初に来るのは、「予期せぬ成功」です。

予期せぬ成功ほど、イノベーションの機会となるものはない。これほどリスクが小さく苦労の少ないイノベーションはない。しかるに予期せぬ成功はほとんど無視される。困ったことには存在さえ否定される。
  (P.ドラッカーイノベーションと企業家精神』p18)



そして、第二の利点は、ステークホルダーのネットワークを作ることができる点です。




ステークホルダーとはなに?-

ステークホルダーは、「利害関係人」という意味です。

ここにひとつの企業があるとします。企業は日々活動していますので、様々な人々や団体に影響を及ぼします。

例えば、この企業がメーカーだったとしましょう。資材を買い付ける取引先もステークホルダーですし、顧客である製品の売り先もステークホルダーです。
もちろん、株主もステークホルダーに含まれます。利益をあげるか否かは、株主にとっては重大な関心ごとです。
経営者自身や従業員もステークホルダーですね。他にも、金融機関もステークホルダーでしょうし、地域住民もステークホルダーです。
最も広い意味でこの言葉を使うのであれば、競合相手や税務当局、行政官庁までもステークホルダーに含まれることでしょう。


そして、リーンスタートアップの実験として小さなイベントを繰り返し行うことで、ステークホルダーのネットワークは強化されていきます。

例えば、軽トラ市を開催すれば、そこへ参加する出品者の意識とネットワークは強くなります。ケータリング祭りでも何でも良い。実験イベントを繰り返し行い、検証を加えていくということは、イベント参加者に後日集まってもらい「あれはなぜ売れなかったのだろう」「次はどうすれば良いのだろう」と検討を重ねることです。
ネットワークが強くなるのは当然でしょう。


そして、何よりも、最重要にして最大のステークホルダーが強化されます。




ーそれは、だれ?-

顧客です。顧客こそが、われわれが考えねばならない最重要にして最強のステークホルダーです。この顧客が強化される。



ーなぜ?観光客は一見さんでしょ?-

これは、私の予想ですが、観光客を相手としてリーン・スタートアップの実験を行います。それは小さなイベントを回し続けていくという形で行われますが、その過程で、われわれは新たな顧客に出会うはずです。

その顧客とは、当の勝山市民であり、近隣自治体の方々になるでしょう。
日を置かずに、同じ場所で様々な実験イベントが行われている。毎回、メニューも趣旨も異なる……となると、本筋では観光客向けの実験イベントでありながら、地元の市民が顧客として訪れる可能性が強い。

このようにして、出品者、参加者としてのステークホルダーも、顧客としてのステークホルダーもお互いに強化されていくのです。




ー話を聞いていると、あなたが前々から言っている「成功体験の積み重ね」のようだー

そうですね。

新規事業の立ち上げは、それがどのようなものであろうとも、極めて不確実な状態で、新しい製品やサービスを作り上げます。
不安でたまらないですよ。実際にやる方は。

唯一できることは、一歩一歩前に進んで成功体験を積み重ねるより他にないでしょう?


そう考えると、これまでの道の駅が失敗し続けた理由も明らかではありませんか。

誰だってリスクを背負いたくない。大失敗して「それ見たことか」と後ろ指さされたくない。小さな成功体験でもあれば、事業の成長に期待も出来るでしょうが、それすらない。
そんなとき、人々が「行政がなにかしてくれなければ、先へ進めない」と言うのは、もっともな理屈です。
そして、行政は行政で「それは民間のすべきことですから」とケツをまくる。
そんな無責任体質で、事業がうまくいくことなどありえません。




ちなみに、リーン・スタートアップは、新規事業の立ち上げに有効ですから、学校再編などにも用いることができますよ。


ーいや、いくらなんでも学校再編は。ビジネスじゃないんだからー

ビジネスだから使える。ビジネスじゃないから使えない。そういうものではありません。リーン・スタートアップとは、「新規事業の立ち上げをマネジメントする」ためのものです。

先ほど申し上げたでしょう?「新規事業の立ち上げは、それがどのようなものであろうとも、極めて不確実な状態で、新しい製品やサービスを作り上げます」と。ビジネスであろうとなかろうと、規模が小さかろうと大きかろうと、新規事業の立ち上げは、極めて不確実な状態であり、それをマネジメントしようするのがリーン・スタートアップです。






学校再編問題をリーン・スタートアップで回してみよう

学校再編の根本的な仮説は、「学校を再編すれば、子供たちのためになる」というもの。



ー経費削減とかは、根本的な仮説にならないの?-

もちろん、それを主目的にするのであれば、それが根本仮説になるでしょう。
ただ、経費削減を目的にするのであれば、市民に対して「経費削減が主たる目的です」と説明しなければなりませんね。

もっとも、「経費削減が主たる目的です」と説明されて、それで納得できる市民は少ないでしょうけれど。



ー「学校を再編すれば、子供たちのためになる」とは、ザックリとした仮説だー

そう、その通り。そして、このザックリとした仮説しか存在しないところが、学校再編問題をこじらせる原因なのです。

「学校再編により、大集団ができます。大集団は子供の社会性を育てます」
「学校再編により、大集団ができます。子供の部活動はより活性化します」
という主張は「仮説」です。

「学校再編をせずに、小集団のままでいきます。先生と小集団の関係はより密接になり、子供たちによりよい教育を受けさせることができます」
という主張も「仮説」です。

どちらも仮説にすぎません。そして、学校再編賛成派と反対派はお互いに仮説をぶつけ合って勝負をつけようとする。これでは、いつまで経っても感情的な対立が続くだけです。



ーそれじゃ、どうすればいいの?-

『リーン・スタートアップ』の著者であるエリック・リースの言葉を借りるならば、
・顧客に価値を提供できないものは、すべてムダ。
・それを検証できないようなものも、すべてムダ
ということです。

「学校再編により、大集団ができます。大集団は子供の社会性を育てます」
このような仮説をどのように検証できるのです?検証できないような仮説は、そもそもムダなのです。

「学校再編をせずに、小集団のままでいきます。先生と小集団との関係はより密接になり、子供たちによりよい教育を受けさせることができます」
この仮説は、そもそも学校再編の否定根拠になっていません。なぜなら、再編して大きな学校を作っても、小集団に分けさせることは可能だからです。


つまり、仮説の立て方そのものが誤っているような気がしてなりません。

そもそも、学校再編の対象者、つまりビジネスでいう「顧客」は誰です?



ーそれは、子供でしょうねー

でしょう?ところが、学校再編でもめているところは、大概こんな感じになっています。

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この図を見て、何か気づきませんか?


ー肝心の子供がどこにもいないー

そう、肝心の子供がどこにもいない。サービスを受けるはずの顧客である「子供」がどこにもでてこない。



ーでも、保護者も学校も地域住民も、子供のことを考えて主張しているのでは?-

一見すると、そのように思われます。保護者は「学校再編は子供のためにならない」と主張し、教員も地域住民も「学校再編は子供のためにならない」と主張します。しかし、それは対立を産む結果しかもたらさない。

もう一度、リーン・スタートアップの目的を考えてみましょう。新規事業の立ち上げは、不確定要素が極めて強い。その中で、いきなり大勝負をしかけるのは危険すぎる。ならば、小さなモデルを作り、仮説を検証を繰り返しながら修正を図っていくべきだ……これがリーン・スタートアップの趣旨です。

この根底にあるものは、「ビジョンを達成するためには、本当にその方法しかないのか?他にも有効な手段はあるはずではないのか?」といった考え方です。

道の駅であれば、「地域振興」がビジョンでした。そして、そのビジョンを成し遂げるために「果たして道の駅という手法で成功するのか」を検証するのですね。

学校再編であれば、「子供たちの教育に良いことをする」というビジョンがあります。そして、そのビジョンを成し遂げるために「果たして学校再編という手法で成功するのか」を検証することになります。


ーうんー


大概、教育委員会は「学校を再編すれば、子供たちのためになります」との仮説を提示してきます。

この仮説は検証できないということは、さきほど申し上げたとおりです。

先ほどのリーン・スタートアップの考え方に従えば、
「学校再編以外に、子供のためになることはないのか?」
という仮説が最初に来なければいけないのです。教育委員会は嫌がるでしょうが、この仮説が最初にこなければいけない。


そして、この仮説を掲げたとき、次のような図ができあがります。

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教育委員会(行政)・保護者・教員・地域住民が、手を取り合って「子供たちのために何ができるのか」を考える……そういう図式です。

この図式になったときに、初めて様々な仮説モデルを作ることができます。


ーどんなモデル?-

そうですね………例えば、学校の勉強についていけない子供たちの数を減らそうと考えます。40分の授業を40分で理解できる子は学校の勉強についていける。しかし、40分の授業を60分で理解する子に対しては、20分をどこかでみなければなりません。これは単に個人の能力差の問題であり、善し悪しの問題ではない。速く走る子もいれば足の遅い子もいるように、学習にも能力が現れます。ただそれだけの話です。
ただ、40分の授業を60分かけて理解する子に対するケアを、われわれは図らねばならない。
ならば、ここで仮説を立てるができます。
「40分の授業内容を40分で理解できない子に、更に補習をすれば理解できる」

この仮説を検証するモデルを作るのためには、補習をする時間を組めばいい。



ーでも、先生たちにそんな時間的余裕があるの?-

ないでしょうね。多忙を極める現場で、それだけの余裕はありません。

ならば、次の仮説が出てくるのです。何が、現場の先生の時間を奪っているのだろうか。事務手続きか、書類の作成か、指導準備に充てる時間か。それらを調査の上、事務所類手続きに割く時間が大きいのであれば、それを軽減するための仮説を立てればいい。
教育委員会が、事務軽減を図ることにより、現場に週10時間の余裕ができる」

この仮説をモデル化するためには、教育委員会は実際に事務軽減のための施策をとらなければなりません。学校教育課に人員を充てる、事務執行のやり方を見直す等々の現実の対応をすることになります。



ーそれは、改革というものでは?-

そう、組織の改革ですよ。学校再編問題で教育委員会と保護者・教員・地域とが対立している状態では、決してできないことです。


子供たちのために、関係する人々がネットワークを組んで、組織の在り方やネットワークの組み方から作り直しましょう。それは、極論すれば………一から、全てを作り直しませんか?ということでもあります。

もちろん、法令に定められた組織は崩すわけにはいきません。教育委員会制度が気に入らないと主張する方がいても、法令で定められている以上は設置しなければならない。しかし、運用については、われわれが考えれば良いことです。

PTAのあり方、モンスターペアレントへの対処の仕方、学校の事務軽減、校長の権限強化、様々なことを一から考えて作っていけば良い。そのために「仮説ー検証ー学び」のサイクルはあるのです。




ーでも、これは大騒動だ。手間のかかる作業ですよー

でしょうね。手間のかかる作業です。

でも考えてみてください。
学校再編を進めてみた、しかし、実際にはうまくいかなかった。今となっては後の祭りだ……というような状況を迎えることに比べれば、はるかにマシというものです。


少なくとも、現在の学校再編問題は、教育委員会が保護者・教員・地域住民にたいして「ご理解をいただく」ものです。われわれがしたいのは「理解すること」ではありません。本当に子供たちにのためになる手法なのです。




長尾山総合公園の話に戻りましょう


最後に、長尾山総合公園のプロデュースの話に戻りましょう。

延々と、リーン・スタートアップの手法について語ってきたわけですが、なぜ、これについて語ってきたのか。これには理由があります。


ーなぜ?-

《前編》と《中編》と2回にわたって長尾山総合公園のプロデュースについて語ってきたわけですが、どうやら「長尾山総合公園をアミューズメントパークにする」と理解されている方が少なからずいらっしゃる。


ーだめなの?-

いえ、ダメというわけではないのです。ただ、私が思うのは3点。

①行きつく先(ゴール)として「長尾山総合公園をアミューズメントパークにする」という発想は、十分にありうる。


②ただし、いきなり大勝負をしかけることはない。

③お客様の反応を見ながら、少しずつ微調整、時には大胆な方向転換をしながら、ゴールを目指しましょう。その結果として、「長尾山総合公園はアミューズメントパークにならなかった」ということも、十分にありうる。


リーン・スタートアップの考え方に従うならば、このようになるのです。

私は、このブログの記事「神話としての『雇用創出が若者の定住を産む』という定説」を書き、その中で「顧客は自分の購買動機を説明できない」と繰り返し申しました。

顧客は自分の心の中の「ある言葉」に従って行動する。しかし、その言葉を自分自身で説明しようとしてもできない……ならば、われわれは「顧客はこれを欲している」と決め打ちしてはいけないのです。

修正と学びを繰り返しながら、事業を大きく育てていけばいい。
あくまでも、「長尾山総合公園を〇〇というふうにプロデュースしよう」という主張は、最初のアイデアでしかありません。

重要なことは、
 ①顧客の反応を見ながら修正を図っていく。
 ②いきなり大勝負をしかけない。
 ③だめなら、いつでも撤退できる環境を整えておく
ことなのです。