月下独酌Ⅴ

前勝山市議会議員 松村治門のブログです。 ご意見は、harukado.0501@gmail.com まで。お待ちしております。

選挙を前にして思うこと(2) -投票率について、ちょっと考えてみましょうー

若者よ、選挙へ行くな!

お笑いジャーナリストの、たかまつななさんが作成した動画が話題になっています。
その名も「若者よ、選挙に行くな」 
刺激的な動画です。


若者よ、選挙に行くな


ブラック感満載ですが、この動画の目的は、あくまでも若者の投票率向上にあるのでして、そこだけは強調しておきます。



ちなみに、この動画には元ネタがあります。

アメリカの2018年中間選挙を控えて、若者の投票率を向上させるために皮肉たっぷりの動画が作られました。

その名もズバリ
Dear young people,"Don't vote,"(若者よ、「投票しないで」)

若者の低投票率に悩むのは、アメリカも同様のようでして、次のような刺激的な煽り文句が続きます。

「若者よ、投票しないで」
「今のままで何も問題ないだろう?」
「トランプ?あれは私たちよ」
「富裕層への減税?最高じゃないか、私は富裕層だからね」
「気候変動?それって『あなたたちの問題』だよね。私は、もうすぐ死ぬし」
「学校での銃乱射は悲しい事件だけどね、私が学校に行ってたのは50年も昔の話よ」
「腹が立つでしょ?腹が立つから、インスタにあげたり、天気が良ければデモに参加するんでしょうね。この動画だってFacebookでシェアするんでしょ?」
「でも、あなたたちは投票しない」
「あなたたちは決して投票しない」
「でも、私は投票する」
「私も投票する」
「私もする」
「あなたたちは投票しないけれど、私たちは投票する。なぜって?私たちは行動する世代だから。めそめそ文句を言わずにうまくやってるのよ」


Dear Young People, Don't Vote: A Knock the Vote PSA



個人的な感想を述べるならば、趣旨は理解できるものの、こういうやり口は好みません。否、はっきり申し上げて嫌いです。
いたずらに世代間闘争を煽るだけのこと。対立を生むだけで、物事の解決にはなりませんから。




投票率0%の世界は、地上の楽園である。

話を進めるにあたり、お断りしておきます。

私は、民主主義を擁護するものであり、決して反・民主主義的思想ではありません。投票率が低いことは憂慮すべきであると考える者です。

なぜ、そんなことをいちいち述べるのか‥‥と申しますと、これから話す内容が少々キナ臭い内容なものでして、ここを誤解されると困るのです(苦笑)。



それでは、話を本筋に戻しましょう。


投票率が低いことは問題だ」とは、世の中の常識になっています。

そこで、ひとつの思考実験を行ってみましょう。

【問】「投票率が0%の社会」は、どのような社会でしょうか。

【答』ある意味で、地上の楽園です。

なにしろ、投票率0%とは「究極の政治的無関心」であり、究極の政治的無関心とは、東洋の政治思想が理想としてきた『鼓腹撃壌』の世界ですから。

鼓腹撃壌とは‥‥皆が満ち足りて、皆が幸せならば、政治なんてどうでもいいじゃないか‥‥という世界観であり、「政治はこの理想を目指して行うべし!」と数千年前から東洋で唱えられている政治思想です。

(くれぐれも申し上げますが、「だから投票率が低くても良い」と申し上げているわけではありません)

(それと、現実に「投票率0%」の世界が到来したら、それはもう‥‥革命前夜‥‥と呼ぶしかない状況なので、そもそも選挙なんてやってる状態ではありません)




投票率100%の世界は、この世の地獄である

逆に、思考実験として「投票率100%の世界」を考えてみましょう。

この世の地獄です。

もしも投票率100%の世界が実現するならば、単一の思想・宗教により固められた世界か、もしくは、全てが政治的文脈で判断される全体主義国家でしかありえませんから。

近い例で言えば、中国の文化大革命時代のような政治状況ならば、ひょっとすると投票率100%が実現されたかもしれません。

かの国の文化大革命は、もはや伝説にもなっている狂気の世界でした。
思想、文学、映画、音楽など、ありとあらゆるものが「政治的に正しいか否か」で判断される社会。
「ベートーベンは革命の思想に相応しくない」
などと糾弾される社会。
いきなり近所の人が三角帽子を被せられて「反革命分子」と引きずり回されるのを見て
「隣に住んでいる人から『反革命だ』とタレこまれたら全てを失う」
と思わされる社会。

そういった社会にのみ、投票率100%は実現されるのでしょう。



もっと「根っこ」から考えてみませんか?

なぜ、こんな無粋な思考実験をしているのか。

それは、「投票率の数字だけを追い求めるのはやめませんか?」と主張したいからです。

「学校へ行くのも行かないのも自由です」と言いながら、なぜ選挙だけは行かなければならないのでしょう。
「働くも働かないも自由です」と言いながら、なぜ選挙だけは「行け!」と言われるのでしょう。

学校へ行かないには理由があり、働かないにも理由がある。それならば、選挙に行かない理由を認めて、その上で、「それじゃ、その原因を一緒に解決しようよ」との対応策を講じる方が、私は素直に納得できます。




それじゃ、具体的に何をすればいいの?

そこでですね‥‥「それじゃ、具体的に何をすればいいの?」‥‥という話になるのですが、この点は、実はすごく刺激的かつ退屈で、しかも全方位に向けた議論をしなければならないという‥‥‥えらく、難しい話になってくるわけです。

なにしろ、話を突き詰めていくと
「そもそも、なぜ私たちは政治家を選ばなければならないの?」
「政治家って必要なの?」
みたいな話にまで深堀りできてしまう。

これは当然のことなのかもしれません。
国家という組織を作り上げる上で、「どうやって代表を選べばよいのか」という論点は国家づくりの原点ですから。

ただ、ひとつだけ言えることは、今、主たる問題になっているのは「どうせ、俺が1票入れても世の中変わらないよ」との意識だということ。




確かにあなたが投票しなくても世の中は変わらない。でもね‥‥

ちょいと、話が脱線しますが‥‥

「どうせ俺がしてもしなくても、世の中変わらないよ」
実は、この考え方、間違っているわけではありません。
(こんなことを言うから、多方面から怒られる)

こういう話をするとき、私は環境問題を例に出します。



例えば、メダカがこの世からなくなっても、おそらく世の中は大きな影響を受けないでしょう。それは個々の種が消えても、同様です。
(オオカミと人類だけは例外)

でもね‥‥システムというのは面白いものでして、「誰かがいなくなったことがシステムに与える影響」ってわからないんです。メダカが絶滅したから、何が起きるのか。それは誰にもわかりません。

何が起きるのかも分かりませんし、何が起きないのかも分かりません。ただ‥‥何かが起きた時に、初めて気づくのです。
「ひょっとして、あれが原因だったんだろうか?」

システムというか、「複雑系」というのは、そういうものです。

色々なプレイヤーがいて、複雑に影響を及ぼし合って、ひとつのシステムを作っている。
一つ欠けても問題ない、二つ欠けても問題ない‥‥でも、100欠けたら何が起きる?10000欠けたらどうなる?‥‥それは誰にもわからないし、想像もできない。それがシステムの面白さと恐ろしさです。

そして、自然が複雑系であるのと同様に、人間社会も複雑系なのです。
極端で不躾なことを言えば、私がいなくなっても、あなたがいなくなっても、世の中は普段通りに動きます。

でも、あなたが何かをすることで、確実に社会に影響を及ぼしているのは事実です。
私がいなくても、あなたがいなくても世の中は大して変わらないでしょうが、あなたが動くことで確実に社会に何らかの影響が及んでいることも事実なのです。

ただ、「何が変わったのか」は誰にも分りません。
誰にも分らないものは、あなたにも分かりません。

でも、何かが変わったことは間違いないのです。
変わったであろうことを信じて動きませんか?‥‥と。




地上戦と空中戦

でも、そんな精神論だけで物事は動きません。

ならば、「どうせ俺が投票しても、世の中変わらないよ」といった考え方に、どうやって寄り添えばよいのか。

これは、空中戦と地上戦の両方で立ち向かうことになるのでしょう。

「俺が動けば、周りが変わる」という実例を積み重ねていくこと。これが地上戦です。

何度も何度も申し上げていますが、これを政治に置き換えるなら「地方自治」です。
地方自治という言葉に手垢がつき過ぎているために、もう、何ていうか、胡散臭い香りがするのかもしれませんが、素直に考えれば、あなたが動けば世の中は変わるのです。

だって、考えてみてください。

あなたが行動を変えれば、ご家族は「あれ?」と思いませんか?
「お父さん、最近ちょっと変わったよね」
みたいなもので(笑)。
職場でも、あなたが行動を変えれば、周囲の人々は気づくはずです。
「課長、最近ちょっと変わったよね」
少なくとも、あなたが行動を変えれば、周囲の人々は変わります。

大体ですね‥‥人が考えていることなんて、そう大差ないんですよ。あなたがおかしいと思ってることは、皆がおかしいと思ってる。
「勝山が元気ないよな」
「今いる俺たちで、なにか楽しいことでもしないか?」
そう考えている人は大勢いるのです。

なぜ、わかるのか。

私が実際にその声を聞き続けているからです。戸別訪問を繰り返し、色々な人とお話をする中で、皆が同じ想いを抱いている。私はそう確信しています。

だったら、その声を拾い上げる受け皿をつくればいい。
それは政治の仕事です。

そういった流れの先に、手垢のついた「地方自治」は、真の姿を現し、その延長線上に「俺が動いたところで世の中変わらないよ」との想いは解消されるでしょう。

これが地上戦のストーリーです。




では、空中戦はなにか。

これはですね‥‥個人的な想いなのですが‥‥子育て世代に「子供の票」を与えたい。両親がいて子供が3人いる世帯を想定して、両親が2票を持つのは当然なのですが、18歳未満の子供3人の票を親が代理投票できる制度を「特区」として勝山で実現してみたい。

そのときに、勝山の子育て世代の投票率がどう変動するのか。それを見てみたいのです。
そして、政治家が子育て世代に向かってどのような政策をアピールするのか。それも見てみたい。

でもなぁ‥‥これ「特区」の中でも最難関の「憲法特区」になるから‥‥不可能に近いのかな。難しいだろうな。

 

選挙を前にして思うこと

 

国家百年の大計を示すことはできない

しばしばマスコミは言います。
「政治家は国家百年の大計を示すべし」

これはマスコミの不勉強というものでして、現在の日本の政治状況で国家百年の大計を示すことなど不可能に近いことなのです。

もっとも、実際にそれを宣言した政治家もいたのですが、マスコミによって軽く潰されました。「そんな抽象的なお題目はいらない」とばかりに。その具体例は後述しましょう。

「現在の我が国において、国家百年の大計を示すことはできない」
まずは、ここを正確に理解してもらわなければなりません。

それはなぜか?



政治が行政化しすぎたからです。

 

政治の理念と行政の理念は異なる

政治とは、本来、「善き社会とはどのような社会か」といった命題を取り扱う部門です。
 「公平な社会とはなにか」
 「正義が行われない社会はおかしいのではないか」
そういった論点を突き詰めて現実化していく作業が政治の世界です。

目の前に、理不尽な事象があるならば、なぜにこの人は理不尽な目に合わねばならないのか。その原因をとことんまで突きつめ、出てきた理念のもとに制度設計をする。それが政治の役割です。

これに対し、行政の理念とは「決められたことを正しく行う」ことです。

政治が作り出した理念と制度設計は、そのままでは絵にかいた餅に過ぎません。そこに魂を入れるのは行政の役割です。決められた内容をどれだけ正確に、公平に行うのか。ここが行政に求められる役割です。

「正しさとは何か」を追求していくのが政治ならば、「正しく行うこと」を追求していくのが行政と言えるでしょう。


ところが、現在社会は行政機構があまりにも大きくなり過ぎました。

行政化する政治



古老に伺うと、かつて道路などというものは住民たちが自分たちで造ったのです。用水もそう。地域住民たちは、自分たちの手で自分たちの生活を作り上げていったのです。

しかしながら、世の中が豊かになり行政機構が肥大化するにつれて、行政が取り扱う事務はどんどん生活に密着してきました。

道路、水道といった社会インフラや、教育、年金、国民健康保険、福祉関連給付。果ては公衆衛生、労働環境整備、産業振興、消防・防災など、私たちの生活の隅々にまで、行政の仕事は影響を及ぼしています。
(無論、それ自体は悪いことではありません)

それに引きずられるように、政治も行政化してきました。

それは、本来行政が扱うテーマであったものが政治化したともいえます。年金問題規制緩和、公務員給与問題、いずれも国会で取り上げられる政治的論点ですが、本来、これらは行政的なテーマと言えるものばかりです。


政治が行政化すると、起きる出来事

政治が行政化してくると何が起きるのか。
 ①本来の純政治的テーマが陳腐化される。
 ②政治が利害調整の場に陥る
という2つの事柄が発生します。

政治が行政化すると、純政治的テーマが陳腐化する。その典型例は、かつて安倍内閣が掲げた「美しい国」というテーマ。
これを聞いたときに、「なにそれ?」と感じた国民は多かったはずです。

この大目標や「戦後レジームからの脱却」という中目標が純政治的テーマと呼ぶべきものですが、行政化した政治状況においては、これら純政治的テーマは陳腐化してしまい、「だから何なの?」と言われるだけなのです。

現在では、SDGsもこれに含まれるでしょう。

国連サミットで採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」は、対象範囲の広さや規模の大きさではなく、むしろテーマが純政治的であるがゆえに、人々の心に響かないでしょう。
「なにそれ?」
「そんなの私の生活に関係ないし」
といった反応が返ってくるはずです。




加えて、政治が行政化していくと「政治が利害調整の場に陥る」という事態が発生します。

行政は身近な生活にまで踏み込み、政治も行政化していく。身近な生活にかかわる課題であれば、誰もがそれなりに利害に巻き込まれます。すると、結局、政治はこの利害調整に多大なエネルギーを奪い取られるのです。

かねて、日本では「外交と防衛は票にならない」と言われてきました。なぜならば、外交と防衛は「身近な生活の利害調整」とは何ら関係のない分野だからです。

話を戻しましょう。

行政化された政治の世界では、身近な生活の利害調整にエネルギーを吸い取られるあまりに「国家百年の大計」を描き出すことはできません。

利害調整に明け暮れて、それで格別困らない。そういう時代ならば構わないのです。高度経済成長のような右肩上がりの経済成長を為している時代ならば、政治が利害調整をし、「あそこに道路をつける」「ここにダムを建てる」とやっていれば問題も起きませんでした。

しかしながら、現在のように利害調整をしたくともできなくなった「厳しいゼロ・サムゲームの時代」‥‥決められたパイを配分すれば、誰かが損をする時代‥‥に、政治家はハタと困るのです。

今回の消費税にまつわる騒動を見ていて、私はそのことを強く感じました。

税金をどうするのか、社会保障をどう構築するのか。これは行政的テーマです。それを政治化してしまったために、議論がそこから一歩も進まなくなってしまった。
本来ならば、将来の日本社会の有り様をまず考えて、どのような社会を構築すべきなのか。その議論からスタートすべきであるはずなのに、消費税だけを議論しようとした。これでは議論のしようがないのです。

そして、「行政化してしまった政治」に慣れ親しんだ私たちは、その「根本の議論の仕方」すら忘れてしまったのです。


議論のやり方すら忘れた日本人



「根本の議論の仕方」とはなにか。

それは、
 「自分たちは何者か」
 「自分たちの強みは何か」
 「その強みをどう発揮していけばいいのか」
という議論に他なりません。

そのことを、私は塩野七生氏の大著『ローマ人の物語』を読んで学びました。

この書の底には、「ローマ人は、自らの強みを理解して帝国を拡大し、自分たちの強みを忘れて滅んでいった」とのテーマがあります。
「私たちは組織で闘う民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
「私たちは多民族に対し広く門戸を開く民族だ、ローマ人とはそういう民族だ」
と自らを定義し、その原則に基づいて行動していく。これこそがローマ人の強みでした。

「情けは人のためならず」とのテーゼを日本人が掲げるのであれば、それが日本の国ぶりであり、強みになります。その強みを活かして諸国と接していけばいい。お人よしと言われようが構わない。日本人とはそういう国民なのだと堂々と言えばいい。

そういった議論こそが政治に期待される仕事の本義です。

「私たちが何者であるのか」
それを定義できないがゆえに、憲法の改正という、独立国ならば当然に行うことすら私たちは手をつけられずに放置したままです。



ちょっと話が脱線しました。
話を戻しましょう。



政治が行政化した時代に、私たちができること


「政治が行政化した時代」において私たちはどうすれば良いのか。

方法は3つあると私は考えています。

ひとつは、「政治が行政化してしまった」のならば行政自体を縮小ないしは分割すればよい。これは道州制の考え方です。


ひとつは、「政治が行政化してしまった」ことが、「現在の生活に密着した行政」を根拠とするのであれば、時間軸をずらしてしまうことです。つまり、「未来の大人たち」すなわち2世代後の人々を基準として政治・行政を組み立てることです。

皆さんたちの孫の世代にどのような社会を残すのかを考える。そこから逆算して、現在の制度設計を組み立てる。
これは、「遺書」を書く行為にも似ています。

人は遺書を書くときに、見栄も衒いも持ちません。死んだ後に見栄を張ったところでバカバカしい限りですから。孫たちにどのような生活を過ごして欲しいか。そのために、この国をどういう形で残したいのか。孫の世代の日本人にどうあって欲しいのか。それを考えることは極めて政治的行為です。

かつて、小沢一郎が新党を立ち上げたとき、「国民の生活が第一」というネーミングが実に小沢一郎らしいと感じました。

と申すのも、小沢一郎の頭の中には、現在の日本人の利害調整しか頭にない。時間軸をずらすどことか、現在に固定されています。
ゆえに小沢一郎にはグランドデザインは描けないのです。彼に残された道は、政局に全力を注ぐしかなかったはずで、事実、そのとおりになりました。


3つ目は、私たち自身が周りの生活を取り戻すことです。

現在の日本が落ちてしまった‥‥「行政化した政治」‥‥を200年も前に予言したのは、フランスの政治思想家A・トクヴィルでした。

彼は、その主著たる『アメリカのデモクラシー』において、行政という柔和な後見人に公共性を独占された社会‥‥‥(つまり今の日本のような社会ですね)‥‥‥このような社会に住む人々は、否応なしに「国民総無関心」の状態に陥ると警句し、そのような人々を「奴隷」と称しました。

そして、次のように言うのです。
自治の習慣を完全に放棄した人々が、彼らを指導すべき人物を正しく選ぶのに成功しうるとは考えにくい。そして、奴隷の国民の投票から、活動的で賢明な、自由を原理とする政府が生まれうるといっても、決して信じられないだろう」

私たちが自治を取り戻す、つまり、自分たちの周りのことを自分たちで考えて運営していく。このことが「行政化した政治」から本来の政治を取り戻す道なのです。

今月末には、勝山市で市議会議員選挙があります。
もちろん、選挙ひとつで世の中が変わるわけではありません。

それでも、皆さんに訴えたいのです。
勝山の将来を考え、自治の精神を持ち、1票を投じる。
ここから始めていきませんか?

市議会議員が政策・ビジョンを実現できる市政とは?

はじめに

「今月から始まる勝山市議会議員選挙で、政策やビジョンを掲げる候補者はいるのでしょうか」
との質問をいただきました。

実際に、「〇〇がしたいから立候補するのです」と仰る方もいますが、個々の立候補者の政策やビジョンについて論評することは差し控えましょう。

今回は、議員という職の持つ可能性と、それを活かすしくみについて、少々考えてみたいのです。



市議会議員は政策・ビジョンを実現できるのか?

市議会議員の主たる役割は、市政、特に行政のチェック機関だと言われます。
これに加え、これからの地方分権の時代には、議員にはプランナーとしての役割が求められます。政策を企画・立案する仕事です。



新規事業を立ち上げるために不可欠なものは、スタートアップの人材です。
企画し、必要な人材に声をかけて集め、関係諸団体を糾合して予算を獲得し、そして実現する。このスタートアップの人材に最も適しているのは、地方自治体の議員です。

まず、議員は、様々な情報や団体にアクセスすることが出来ます。

勝山市に問い合わせれば、よほどの個人情報でない限り、情報を取得することが出来ます。これは市政の現状分析をし、課題を浮き彫りにする作業に欠かせません。

政策を形にする際には、学術機関や民間企業、中央官庁との協議も求められますが、この際にも議員の立場は有利にはたらきます。

私の場合で申せば、新しい公共交通システムの構築に東京大学の知恵を借りることができたのも、京都大学福井大学と教育問題で関係を深めることが出来たのも議員としての立場を手掛かりにしたからでした。中央官庁へ行き、個別に突っ込んだ話ができたのも議員としての立場があったからです。


加えて、議員は、ある程度の社会的信用性を持っています。
この場合の「社会的信用性」とは、公共の福祉を実現するための職としての議員。これに対する社会的信用性と申し上げて良いでしょう。

再度、私の事例を出すならば、新交通システムの実現のために、区長連合会会長や民間事業者や福祉関係団体などにお声がけをし、研究会を立ち上げたのですが、これは議員という職業が持つ社会的信用性を基礎としていました。


加えて、議員は利害関係を持たないので中立を保つことが出来ます。
公共の問題を解決するために、民間事業者の参入を求めることは当然です。そして、参入した民間事業者が問題解決により利益を得ることは当然でしょう。ビジネスとして問題を解決する、市民は課題が解決される。それがWIN-WINの関係です。
だからこそ、そこに利害関係を持たない議員が必要とされます。「私は、皆さんをwin-winにするために報酬をいただいているのです」と中立を保つ存在が議員です。
(少なくとも、私はこれまで報酬外にいただいたことはありません)


そして、ここが重要な点ですが、議員には上司がいません。もちろん議会には議長がいますが、議会の統率をするのが議長の役割であり、議員個人の政治活動に干渉することはありません。
したがって、議員はスピーディーに動くことが可能なのです。


私たちがそこに気づかないだけで、本来、議員の果たすべき役割と可能性は、無尽蔵です。

個々の市議会議員が
 「俺は産業振興に興味がある」
 「私はまちなか活性化をやりたい」
 「私は教育問題に取り組む」
と、自らが動き始め、スタッフを集めて政策を練り上げ、賛同してくれる企業や団体を得て、様々な人々を巻き込み社会運動として盛り上げ、実現化する。
もしも、そんな勝山になったならば、市政は見違えるように活性化すると思いませんか?
もしも、そんな勝山になったならば、意欲溢れる人材が市議会議員選挙に立候補すると思いませんか?





市議会議員が政策・ビジョンを実現できる制度をつくる方法

議員の可能性が無尽蔵ならば、なぜ、その可能性に蓋が閉じられたままなのでしょう。

理由のひとつは、「そもそも、やり方がわからない」点にあります。
私の場合は試行錯誤を繰り返しながら政策化の方法を学んでいきましたが、この試行錯誤をする人は稀です。

(だから、おそらく他の議員さんたちは私が何をやっているのか、さっぱり理解できなかったことでしょう。もっとも。説明しなかった私にも非があるのかもしれませんが)



二つ目の理由は、「政策をつくったところで、市に採用されなければ意味がない」点があります。
当然ですが、議員が政策化しても勝山市が採用しなければ、その政策は実現化されません。いかに素晴らしい政策であっても、実現されなければ「絵にかいた餅」です。

ここは、ひとつ考えどころで、そういった「実現化されなかった政策をプールし、公開する場」をつくるべきでしょう。

議員が作った政策を勝山市のホームページで公開し、その政策の内容を広く公開すれば良いではありませんか。そうすれば、市民は「なぜあの政策を採用しないのか」と勝山市に問うことができます。

ただし、これは議員にとっても諸刃の剣です。政策を公開するからには、単なる思い付きのものでは市民の嘲笑を受けるだけ。結果として、練りに練った政策が公開されることでしょう。それは市政そのもののレベルアップをもたらします。


三つ目の理由は、「行政スタッフが首長の方しか向かない状況では、政策をつくれない」状況があるからです。

この状況を打破するためには、2つのものが必要です。

ひとつは、職員のマインドセットを変えること。

現状のマインドは、次のような図で表わすことができます。

《図1:現状のマインド》

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「行政職員は、市長を上司に仰ぎ、市民からの要望を聞いてそれを実現する」とのマインドです。

片や、向こうには市議会議員がいます。市議会議員も、選挙という民意で選ばれた存在であり、市民からの要望を聞く存在です。

しかし、行政職員が市長の方向を向く限り、市議会議員は「面倒くさい存在」でもあるのです。市長と議員が対立する状況下では、行政職員は市長の肩を持たざるを得ませんから。


このマインドは、次のように変えるべきでしょう。

《図2:あるべきマインド》

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そもそも、市長も行政職員も市議会議員も、すべて公職であり、勝山市民に仕える公僕です。解決すべき問題をともに手を取り合って解決する立場なのです。


上記のようなマインドに変えた後に、もうひとつ変えなければならない問題があります。

それは、行政職員に時間的余裕と自由に動く機会を与えること。

実際に、行政職員の上司は市長です。これを揺るがせにすることはできません。

しかし、私が政策「行政2.0」で
 ①業務の徹底的な見直しによる、自由時間の確保
 ②業務時間内における、職員が自由に動くことのできる権限
を提言しました。

有体に言えば、「職員は、勤務時間内に一定の時間を使って『自分が勝山のために最も良い』と思うことをせよ」との内容です。

この自由な時間を、行政職員は議員と使うこともできるのです。

こんな事例を考えてみましょう。

意欲溢れる議員が、あるとき
「私は、教育問題を変えるために〇〇という政策をつくりたい」
と公表します。職員は、この政策に興味を持ち、議員と話し合った結果、実現すれば勝山の教育が劇的に良くなるだろうとの確信を持ちます。
「議員、私にも手伝わせてください」
と、この職員は勤務時間内の自由時間を用いて、議員とともに政策実現に向かうことでしょう。


行政職員も議員もない。
勝山の市民が良くなるためならば、皆で一緒にやればいいじゃないか。

このマインドセットの変革と仕組みの変化は、ある意味、首長の判断にかかっていると言えるでしょう。






【補 足】
なぜ、誰もが理解できる話なのに、「議員の可能性を伸ばす政策」が打てないのか。
勘のよろしい方は、既にお気づきでしょう。
その答えは、「政治家の本能に反するから」に他なりません。

組織のトップに立つ者が長期にわたる実権を握りたければ、「ナンバー2を叩け」との真理に従うことになります。自分を脅かす者、自分を貶める可能性のある者を叩き潰すことにより、トップは長期にわたって権力の座に留まることができます。

議員に伸び伸びと仕事をしてもらえば、市政は活性化するに違いない。
その程度のことは、政治の世界に身を置いたものならば、すぐに理解できます。
しかし、政治家の本能がそれを許しません。
伸び伸びと仕事をして実績を積み重ねていった議員は、かならず自分の敵に回るからです。
いわば、議員に伸び伸びと仕事をしてもらうことは、自らの敵を自らの手で作り出す作業に他なりません。

だから、どの自治体の首長も、この施策をとらないのです。

その結果、何が生じているのでしょうか。
政策立案能力を伸ばすことのできない議員。
上司の顔色だけを見続ける理事者。
活力を失っていく市民。

情けなくも残念なことです。


子供は教師に出会うのではない

 

学校での授業を動画で行うと、何が生じるのだろう

みなさんは、スクー(Schoo)をご存じだろうか。

大人の「学びの場」として、興味深い授業内容を動画で公開している(有料だが)。

schoo.jp


ふと、思った。
「学校での授業を、このような動画で行うと、何が生じるのだろうか」と。


誤解して欲しくないのだが、私は、学校で現在行われている授業が無価値だと言いたいのではない。事実、ほれぼれするような授業をする先生たちは数多く存在する。

しかし……逆説的な物言いになるのだが、ほれぼれするような授業をする先生たちがいるからこそ、動画での授業をする意義があるとも言える。
 先生たちは、教案を書き、教材を整え、授業へと臨む。その授業内容を高めるために、研究授業を行い、己の技能を高めていく。いわば、教師の授業スキルとは、職人芸だ。
 ならば、職人芸を磨き上げた教師の授業を受けられる児童・生徒と、そうではない教師の授業を受ける児童・生徒との格差をどのように埋めれば良いのだろうか。その意味では、職人芸を極めた教師の動画を見た方が良いことだってあるかもしれないのだ。



そして……根本的な疑問なのだが……そもそも、30人もの子供をひとつの教室に缶詰にして一斉授業を行う必要性があるのだろうか。生活集団として30人がひとつの教室にいることは納得できる。しかし、理解度が異なる子供たちに一斉授業をする意味を、我々はもう一度問い直す時期に来ているのではないだろうか。

新しい単元を学ぶ。その理解を確かなものにするために、問題演習などを行う。そこでの理解度が低いならば、さらに説明をし、演習を行い、理解度を高めていく。
学習のサイクルは突き詰めるとここに辿り着く。
 このサイクルは、個々の児童・生徒によりスピードが異なる。40分の授業内容を10分で理解する子もいれば、40分かけて理解する子もいる。中には、80分かけて理解する子もいるだろう。
 この子供たちを一斉授業で対応してきたのが、これまでの教育だった。それを否定するのではなく、「技術が長足の進歩を遂げた今だからこそ、できることがあるのではないか」との発想に立ち、根本に立ち返りたいのだ。



すべてを転換するなんて、そもそもあり得ない

前述のような話をすると、「教育の否定だ」と反発されかねないが……ちょっと待って欲しい。

そもそも、技術が進歩してもなくならないものは、なくならない。

メールやLineがこれだけ普及したにもかかわらず、手紙を書くという行為はなくならない。なぜなら、手紙を書くという温もりのある行為そのものに価値があるからだ。

車が登場し、飛行機が空を闊歩する時代になっても、なぜか馬車は存在する。むしろ、馬車という「ゆっくりと動く乗り物」に乗ることで、移動の醍醐味、景色を楽しむ愉悦といった「移動するという行動の持つ価値」を再確認できる。

ならば、新しい技術を取り込んで学校教育を再構築することで、我々は何を再確認するのだろうか。




子供たちは教師に出会うのではない

授業を動画にしようが、授業を100%インターネット化しようが、「教育は人が人に対して行うものだ」という本質は変わらない。

そして、子供たちは学校で教師ではなく、恩師に出会う。

誰しも、自らの学生時代を振り返った時に、忘れられない先生がいる。「苦しかったあの時に励ましてくれた」「何気ない一言に助けられた」「しょーもない先生だったけど、よくしてくれた」

その想いに共通するのは、「私を真正面から見てひとりの人間として扱ってくれた」との想いだろう。

教育に求められることは、ひとりひとりの子供を真正面から見る時間的余裕を教師に持たせることだ。卒業式を迎えた子供たちが、心の底から「先生、本当にありがとうございました」とお礼を言える環境を整えることであり、それは教師のみならず、子供にとっても最高の教育成果だと考える。

これだけ技術が進歩した現在、その教育環境を整える下地は十分に揃っている。

後は、我々がそれをするかしないか。
大人たちこそが、真剣に考えなければならない。








勝山の観光、まちづくり会社、そして行政




 

観光まちづくり会社の方からのご指摘

先だってのこと。とある場所にて、観光まちづくり会社の方からご指摘をいただきました。
「憶測でなんでも書かないで欲しい」
どうやら当ブログの記事内容についてのことのようでした。

会話の内容をくわしく書くのも野暮の極み。これ以上は申しません。
ただ、誤解なきよう申し上げておきますが、私は観光まちづくり会社の存在を否定しているのではありません。否定するのであれば、議員時代に議会で否定していたでしょう。私が我慢ならないのは「観光まちづくり会社を縛り付けて、今の状態にしてしまった政治と行政の無定見さ」についてです。

観光まちづくり会社の設立時には、勝山商工会議所のスタッフが陣頭に立たれました。その中心には「あの人がいなかったらできないだろう」と衆目が認める方がいましたが、行政との交渉に疲れた彼の顔を見るにつけ気の毒な思いに駆られたものです。
 観光まちづくり会社が立ち上がれば、立ち上がったで、現場スタッフは周囲の無理解に悩まされていることでしょう。現場スタッフと直接話をしたことはありませんが、市内事業者の方々のお話を聞けば、軋轢が生じているであろうことは容易に想像できます。

つくづく「気の毒に…」と感じます。

「観光まちづくり会社の経営は行き詰まるだろう」
との思いは、今でも何ら変わりません。
なぜなら、「間違った道を全力で走らせている」からです。

もちろん、走らせているのは行政であり、走らされているのは観光まちづくり会社であることは言うまでもありません。

何が間違っているのでしょうか。
どうやって修正していけばよいのでしょうか。



なぜ戦略が必要なのか

行政主導が犯した過ちの最たるものは「戦略の欠如」です。

まずは、なぜ戦略が求められるのか、その点について考えてみましょう。

結論から申せば、戦略が求められる最大の理由は、誰も未来のことをわからないからです。

当然のことです。誰も未来のことは分かりません。しかし、分らない未来に向かって私たちは進んでいかねばなりません。
誰しも、新しいことへ挑戦するのは不安を抱きます。
誰しも、今の環境を変えてしまうことは苦痛です。
だからこそ、「どうだい?この方向へ進めば、こんな未来があるよ?」と、誰も見たことのない世界を活き活きと描く必要があります。ここに戦略を立てる意義があります。

政治・行政主導で行われた観光まちづくり会社の立ち上げには、この戦略、すなわち「活き活きとした未来像」が抜け落ちています。行政にとっては、観光まちづくり会社を立ち上げることがゴールであり、道の駅を完成させてテープカットすることが最終目標なのでしょう。しかし、会社は生き残って社会に貢献しなければなりません。道の駅は潰れずに運営する必要があります。「全力で間違った道を進ませている」どころか、行政は道の方向性すら示すことなく進ませているのです。

この点を具体的に見ていきましょう。



本当に戦略が欠けているのか

前回も取り上げましたが、ここでもう一度、市民の皆さんに目を通していただきたい書類があります。
勝山市観光まちづくり会社を日本版DMOとして認定して欲しい」と国土交通省に提出した書類です。
 (リンクはこちら


何となく戦略っぽいことが書かれてあるようですが、このペーパーには、戦略の「せ」の字もありません。

サッカーを例に考えてみましょう。
監督の仕事は、チームを勝利に導く戦略を構想して、それを実行に移すことです。

日本代表チームの監督が、「監督!どういった戦略でワールドカップに挑みますか?」と尋ねられたときに、「日本代表の戦略は、決勝トーナメントのベスト4だ」と答えたら変な感じがしませんか?それは戦略ではなく、目標だからです。
国土交通省に提出したペーパーに描かれている数字は、目標であって戦略ではありません。

「次のブラジル戦だが、ブラジル攻撃陣はこういう風に攻めてくるはずだ。グラウンドコンディションは〇〇で、当日の温度は〇〇。湿度は〇〇だ。それが日本代表の戦略だ」と言われても、意味不明です。それは戦略ではなく、環境の分析ですから。恐竜博物館に何万人来る、自然環境は素晴らしい。歴史遺産がある……等々は、市場環境の分析に過ぎません。

「日本代表は、この23人だ。先発メンバーには遠藤を軸としてこういうポジションでいく。このタイミングで、このメンバーをこういう風に変えていく。これが日本代表の戦略だ」と言われても納得できません。それは戦略ではなく、組織編成の問題です。
商工会議所をはじめとした各種団体の組織で臨む……と言われても、それは単に組織の話。戦略ではありません。同様に、長尾山や花月楼を組み合わせて行くのだ……という説明も、「スターティングメンバーは、長友、本田…で行く」式の説明の域を超えていません。

「日本代表の戦略は、攻撃的に行くことだ」
このような雑な戦略はないはずなのですが、世の中には溢れかえっています。いわゆるバズワードと呼ばれるもので、経営の世界で言えば「メガコンピタンス」「フラット化」「SCM」「CSR」……など枚挙に暇がありません。

観光の分野では「観光の産業化」が代表例でしょう。聞けば感覚的に理解できるが、具体的に何も説明していない言葉。これも戦略ではありません。

このペーパーを読み終わった後に、「まるで証券マンの営業みたいだ」と語った人がいました。まさに的確な反応といえるでしょう。「儲かりまっせ、損はさせませんよ」だけでは、人は心の底から納得できないのです。


戦略を欠くと何が生じるか

戦略を欠いた行動は、「進むべき未来像」を欠くがゆえに次の結果をもたらします。
 ①現場が動きがチグハグなものになる
 ②したがって、現場の周囲が動かなくなる
 ③結果として、お客は動かない

「進むべき未来像」を欠けば、現場の行動はひとつのベクトルを向きません。したがって現場の動きはチグハグなものになります(①)。その結果、現場の周囲の動きは鈍くなっていきます。観光まちづくり会社で言えば、花月楼や長尾山の施設へ納品している組織・事業者が、新規製品の開拓などへ意欲を燃やしません(②)。
そして、ここが肝心な点ですが、①と②から導き出される結論として、お客が動きません。現場も現場の周囲も動かない場所に客が来る道理がないのです。
(この道理は、拙稿の後半において具体的に説明します)

①~③の結果を外部から見ていると
「チグハグだ」
「やる気がない」
「税金の無駄だ」
といった評価が観光まちづくり会社に向けられるようになります。これでは必死で頑張る現場が報われません。




では、どうするのか?まずは2つのものを揃えるべき

戦略が欠けているから、間違った道を全力で走らされる。
ならば、今からでも戦略を立てるべきです。

では、どのように?

最低限、次の2つを揃える必要があります。
それは、
 ①活き活きとした未来像
 ②そこへ至る道筋

ひとつひとつ、具体的に見ていきましょう。



ハッピーエンドの物語には、未来像が欠かせない


再度申しますが、戦略とは、未来を知ることのできない私たちに、「どうですか?こんな未来は。ワクワクしませんか?」と問いかけるものです。

したがって、出来の良い戦略は、通常、物語の形式をとります。物語形式がもっとも人の心を動かすからです。

そして、物語は「描くべき未来像」から始まり、「ハッピーエンド」で終わるのが常です。

例えば、アマゾンの物語。

 アマゾンの物語が描く未来像は、「買い物がワンクリックで終わって、翌日には自宅に届くような世界って便利だよね」に尽きます。もちろん、その未来像へ辿り着くための技術的強みは多岐にわたりますが、描く未来像は1点です。
 そして、アマゾンの物語は「そんな世の中が実現できました。結果としてアマゾンの利益は上がりました。めでたし、めでたし」とのハッピーエンドで締めくくられます。

 スターバックスの物語が描く未来像は、「家と会社以外にくつろげる場所があるといいよね」というものでした。彼らはそれを「サードプレイス(第三の場)」と位置づけ、それを実現するために通常では考えられない手法を用いて、物語の筋(論理)をつないでいきました。しかし、物語の描く未来像は1つです。
 そして、この場合でも、「そんな場所が実現できました。結果としてスターバックスの利益は上がりました。めでたし、めでたし」とのハッピーエンドに落ち着きます。

では、観光まちづくり会社の物語は、なんでしょう。
次の2点に要約できます。
 ①勝山に観光客が来ています。
 ②物販・飲食等で利益をえました。めでたし、めでたし。

これを
 ①「買い物がワンクリックで終わって、翌日に自宅に届くような世界」をつくる
 ②それを実現できました。結果として顧客が来ました。
 ③物販などで利益を得ました。めでたし、めでたし。
とのアマゾンの物語とを比較したときに、抜けているのは①の「未来像」であり、それこそが、まさに「戦略の核となる未来像」の欠如なのです。

厳密に言えば、観光まちづくり会社の物語は、次の構成を採るはずです。
 ①(未来像)
 ②観光まちづくり会社の描いた未来像へのスキームができました。
 ③市内事業者が利益を伸ばし始めました。
 ④結果として、観光まちづくり会社も利益を伸ばし始めました。
 ⑤めでたし、めでたし。
③と④は公的側面を持つ観光まちづくり会社特有のロジックです。ここでは、アマゾンと比較するために、敢えてそこには触れませんでした。

ならば、どのような未来像を描けば良いのでしょうか。

私は何でも良いと思うのです。
 「観光客がびっくりするような勝山にしよう」

もちろん構いません。面白いじゃないですか。観光に行けば、混雑した観光地に、どこで昼食をとれば良いのかもわからない情報不足、クタクタに疲れた側で「もう飽きたよ~、次はどこへ連れてってくれるの?」と容赦なくねだる子供。
 世の中に、そんな観光地が溢れている中で「勝山へ行ったときだけは、ちょっと違った」とのサービスを提供するのも面白いでしょう。



未来像へ辿り着く道筋が必要だ

未来像を作れば戦略になるというものでもありません。そこへ辿り着く道筋が明確でなければ、未来像は「絵にかいた餅」でしかありません。ジョン・レノンが高らかに名曲「イマジン」を歌おうとも、その未来像へ辿り着く道筋が不明では、その未来像は決して現実のものにはなりません。
(もちろん、そのことをもって「イマジン」の価値は一分も損なわれませんが)


仮に
「観光客がびっくりするような勝山にしよう」
との未来像を描いたとしましょう。

すると、色々な情景が頭の中に浮かんできます。
「飲食店で、こんなサービスを受けたら、観光客がびっくりするだろうな」
「旅館で、こんなおもてなしがあったらどうだろう」
「こんなパッケージツアーを作ったら、わくわくするよね」
自分が観光客なら、こんなサービスを受けてみたい……との思いは誰しもあるはずです。そこからスタートするから、その情景には血肉が通っています。


その情景を現実のものとするためには、変えなければいけない箇所は多岐にわたります。飲食店や旅館のサービスのあり方、土産物の売り方見せ方、観光地でのサービスの仕方といった表面に出てくる改革もあれば、情報連絡の取り方、お客のフィードバックを活かす体制づくり……など表面・裏面での抜本的な改革が必要になるでしょう。

それが、未来像へ辿り着く道筋です。
「〇〇をこういう風にすれば、✖✖が生じます」
「結果として、観光客は驚きます」
「観光地に飽き飽きしている観光客を驚かせて、『もう一度勝山へ行きたい』と思わせましょう」
との道筋が通ります。


そして、なによりも観光まちづくり会社のスタッフは言えるのです。
「観光客が驚く顔を一緒に見ましょうよ」
と。
飲食店へ営業に行き、観光客が驚くような「ちょっとしたサービス」をつけてくださいとお願いできます。実際にそんなサービスが提供されるならば、喜ぶのは観光客だけではないでしょう。平常使う勝山市民も喜びます。店も売り上げの増が期待できます。
 観光客を驚かすようなツアーパッケージ、観光客がびっくりするような緊急時の対応、それを可能にする組織づくり、そういったものを積み重ねていけば、他の観光地と一線を画する「観光地としての勝山のポジショニング」も明確になります。
 重要なことは、戦略を立てることにより、人々のベクトルをひとつの方向へまとめること。すなわち、この物語に携わる人々が「それなら俺にも出来ることがある」と具体的なイメージを喚起できる点なのです。


前述したように、戦略が欠如することは
 ①現場が動きがチグハグなものになる
 ②したがって、現場の周囲が動かなくなる
 ③結果として、お客は動かない
との結果をもたらします。
政治・行政主導で進められた観光まちづくり会社の設立と運営方法には、決定的に戦略が欠けています。戦略が欠けたまま動くことは、現場のスタッフを苦しめ、周囲の事業者を困惑させ、ひいては市民に迷惑をかけることでしょう。
そこには、目指すべき未来像も、それを可能にする手段・目標も、人々を糾合するベクトルもないからです。

「儲かりまっせ」は、戦略ではないのです。

拙稿の「観光客を驚かせよう」との戦略は、旧・勝山市観光協会が作り上げた幻のペーパー『観光ビジョン2016』を参考にしました。県の観光課職員が驚愕したこのペーパーは、異色の戦略と言えるものでした。のちに、くだらぬ政争の具として潰され、日の目を見ない結果になりました。勝山の観光を考える上で、実に残念なことです。




ものごとは戦略通りに動かないからこそ、「任せる度量」が必要になる

しかし、観光まちづくり会社が戦略を立てて挑もうとしても、それだけでは足りません。物事は戦略通りに動くはずがないからです。したがって、そこを「じっとこらえてやらせる」度量が求められます。

DeNA創業者の南場智子氏は、世界的なコンサルティング会社であるマッキンゼーの共同経営者でした。ありとあらゆる理論に精通する戦略家ですが、いざ事業を始めてみると、本人が書くには「失敗のフルコースを片っ端から経験した」そうです。
挙句に、「ビジネススクールで学ぶことは役に立ったかとよく訊かれる。自らの経験から率直に話すと、私はかなり懐疑的だ」とまで述べています。

戦略がなければ間違った道を行く。これは前述したとおりです。しかし、戦略が指し示すのは方向だけです。道なきところに道を切り開いていく実務では、想定外のことが起こります。チラシの写真1枚、煽り文句ひとつで集客が異なるのが現場の実務です。そのような現場で数えきれない失敗を重ねてこそ、はじめて成功はもたらされます。

観光まちづくり会社も、失敗を重ねることでしょう。その失敗を重ねる現場を「じっとこらえてやらせる」だけの度量を発揮するのは、行政・政治の役割です。しかし……どうもそれを期待できそうにありません。

拙稿の冒頭で申し上げた、観光まちづくり会社の方との会話の中で、興味深いことを伺いました。
「観光まちづくり会社の売り上げから、1000万円が勝山市に支払われている」

全くもって行政のやることはチグハグです。
観光まちづくり会社の売り上げから1000万円を納めさせて、市の一般会計に混ぜてしまうくらいならば、その1000万円を
「観光活性化の独自の政策に使ってくれ」
「その事業内容は、現場を知る君たちに任せる」
と言えば良いのです。
その1000万円を新しい観光事業に充てることで、新たな顧客を呼び込むことができる。これが通常の発想です。行政がやろうとしていることは、
「今年はこれだけの収穫があった。これなら、来年の作付けを増やすことができる」
と言っている農家から、来年度の種もみを取り上げる行為に似ています。
金の卵を産むニワトリは、太らせてこそ良い卵を産むことができるのです。

行政が観光実務をすることはできません。行政が観光戦略を立てることもできません。だからこそ、実務もこなせて観光を一元化する存在として観光まちづくり会社が求められたのであり、議員時代の私も賛成しました。

ならば、なぜ一元化させてあげないのか。
なぜ、任せられないのか。



まとめ ー今、なすべきことはなにかー

私の中で「このままならば、観光まちづくり会社の経営は行き詰るだろう」との思いは豪も変わりません。同時に「勝山市民の支持も得られないだろう」との思いも同じです。

今からでも遅くはありません。
次のことをすべきです。
 【A】観光まちづくり会社は、独自に戦略を立てて実行する
 【B】行政は、その支援に徹する


【A-①】戦略づくり
まず求められるのは、戦略です。
 (1)未来像(活き活きとした未来像)
 (2)それを実現する具体的手段(具体的事業、組織体制など)
 (3)他市町とのポジショニングの違い
最低限、この3つは求められます。
ここで特記すべきは、この戦略をたてるべきは観光まちづくり会社の人々だという点です。周囲の人々や行政に意見を聞くことも必要ですが、最後の最後で決断すべきは観光まちづくり会社です。



【A-②】戦略の実務への落とし込み
観光まちづくり会社の戦略は、実務へ落とし込まねばなりません。そこでひたすら試行錯誤を繰り返すこととなるでしょう。重要なことは、
 (1)小さなミスを数多くこなす
 (2)そのミスを微調整しながら、ひとつの成功へつなげる
 (3)その成功は、戦略の文脈に置かれる内容であること
 (4)その成功は、必ずしも大きなものでなくともよいこと
との方針を明確にしておくことです。
失敗を許容しない組織は伸びません。試行錯誤は失敗を前提とした考え方です。しかし、どうせ失敗するなら小さい失敗を数多くこなしていった方が良い。(1)の点です。その小さな失敗を微調整しながら、事業を成功へと導いていきます。新たな土産物を製品開発する場合でも、新しいツアー製品を企画する場合でも、イベントをしかける場合でも何でも同じです。これが(2)の点です。
ただし、その成功は、必ず戦略の文脈に置かれる内容でなければなりません。戦略の道筋から外れた成功を重ねても実に結びつきませんから。これが(3)の点です。
(唯一の例外として「予期せぬ成功」というケースがありますが、今回はそこに言及するのは避けましょう)

そして……ここが肝心の点ですが、その成功は大きなものでなくて良いのです。
議員生活13年。そして一人の市民として2年。勝山の観光行政を見てきましたが、残念なことに成功した事例はふたつしかありませんでした。
(その2つが何であるか。それはここで述べません。ただ、奇妙なことに、この2つはいずれも市外の人が成し遂げた成功です)

勝山市民は、成功に飢えています。小さな成功で良いのです。
 ・わくわくする未来像と、そこへ至る道筋を示す(戦略の提示)
 ・小さな成功を積み重ねる
このことにより、市民は「この小さな成功が大きな物語の実現につながる」と実感できます。戦略の文脈にそった小さな成功の積み重ねこそが、市民に希望を持たせ、次へのチャレンジへと進ませるのです。これが(4)の点です。
(この論理から言えば、「一発逆転」の大技をかけることは意味がありません。「道の駅を作ればなんとかなるだろう」式の大技は、市民に「どうせ失敗するって」との不安を呼び起こすからです)


【A-③】市民に対する定期的報告
勝山市が出資者であるということは、勝山市民が出資者であるということです。ならば、出資者である市民に事業報告をすることが求められます。

しかし、出資者である市民へ事業の成果を報告することは、単に「株主への説明責任」を果たすといった意味以上の効果をもたらします。

観光まちづくり会社
 (1)新しい未来像を掲げていることを示し
 (2)その未来像へ向けた事業を着々と展開し
 (3)失敗も含めて成果を上げているのだ
といった点を市民に示すこと、それ自体が市民の気運を高めていくのです。




そして、行政は行政で次のことをすべきでしょう。

B-①】枠をつくらない
前述した1000万円の話も論外なものですが、例えば、観光まちづくり会社が、次のような提案をしたとします。
「私たちの戦略の主軸になるのは、恐竜博物館のある長尾山総合公園だ」
「今でこそ、恐竜博物館はメジャーなものの、長尾山総合公園そのものの訴求力は高くない」
「恐竜博物館がある長尾山総合公園を、こんなコンセプトで統一しよう」
さて、行政は聞いてくれるでしょうか。

かなりの高確率で、
「だめです」
と言うか、
「それは、政治マターですので、私たちの権限外です」
と言うでしょう。いずれにせよ、門前払いです。

政治マターまで行政がこなし始めると、ややこしいことが生じます。しかし、観光まちづくり会社は産声を上げたばかりの、いわば、よちよち歩きを始めた組織です。枠をつくらずに対応すべき段階です。観光まちづくり会社が戦略を立て、独自の観光事業を展開することを最終目標とするならば、今は枠をつくらずに対応できるものは全て対応することが求められます。



B-②】市民への公開義務を果たすための資本上積み

前回の拙稿でも述べたように、観光まちづくり会社の収支状況は市民に公開されません。なぜなら、公開する義務がないからです。
なぜ、公開する義務がないのか。それは、勝山市が出資した240万円が、地方自治法に定める「市民に説明義務が発生するライン」である「資本金の25%」に達していないからです。

逆に言えば、あと100万円積み増しをするだけで、資本金1000万円の25%に達して、堂々と勝山市は観光まちづくり会社の収支を市民に報告することができます。

harukado0501.hatenablog.com


私が常々申しているのは、「暗くするからオバケが出る」ということ。明るい昼間からオバケは出てきません。暗くするからオバケは出るのです。
公表しないから「隠してるんじゃないのか?」と疑われ
「隠しているんじゃないのか?」と疑われるからこそ、「悪いことしているに違いない」と邪推される。

堂々と公開すればいいじゃないですか。
ビジネスに失敗はつきもの。堂々と公開して、観光まちづくり会社が立てた戦略とともに市民に説明すれば良いだけなのです。
「観光まちづくり会社は、こんな未来像を描いている」
「私たち勝山市は、この未来像を真摯に受け止め、全力で応援している」
「今は、まだうまく行かないことの方が多い。それは収支決算書を見てもお分かりのとおりだ」
「だが、長い目で見てあげて欲しい。勝山の若いもんが頑張ってるのだ。応援してあげて欲しい」
と、なぜ行政は言えないのでしょうか。


どのような事業であれ、その成否を握るカギは「人」です。立派な誘客施設を作ろうとも、観光施設を建設しようとも、箱モノで人は来ません。
勝山の魅力を作るのも「人」ならば、それを発信するのも「人」です。そして、勝山を訪れるのも「人」です。

そして、「人」を育てるのも、また「人」なのです。そこを弁えない限り、行政は擦り切れるまで人材を使い続け、事業も育たない……という、いつもの展開を繰り返すだけになるでしょう。

民は依らしむべし、知らしむべからず   -観光まちづくり会社とはなにものかー

 

 

はじめに

まちを歩いていると、様々な方とお話をする機会を得ます。他愛もない話から、苦情や要望まで内容は様々です。
ただ、最近、苦情や要望の中に出てくる話題として「観光まちづくり会社」が目立つようになりました。
「何をやっているのかわからない」くらいなら受け流すだけなのですが、「商売のジャマばかりされている」といった内容になってくると、話は剣呑になってきます。


かと思うと、こんな話も耳にします。

まちづくり会社のスタッフが観光ボランティアガイドの皆さんを集めて、開口一番
「これからは観光ボランティアを無料でやるのは止めてください」
「ガイドは有料制にしてください」
「ガイド1回につきひとり500円を観光客からとってください」
「なお、その500円のうち200円はまちづくり会社に納めてください」
「ただし、観光客からお金をとる交渉は、ガイドの皆さんで行ってください」
と言い放ち、ボランティアガイドの皆さんを激怒させて、すごすごと引き下がった。

そんな話を聞くと、
「……気の毒に……」
と同情せざるを得ません。

誰に同情してるのか?
まちづくり会社の現場スタッフに。

役所は、俗にいう「手足を縛って水の中に放り込む」ことを平然とやります。そのために、現場スタッフは上記のような窮余の策を講じざるを得なくなります。

そもそも、観光まちづくり会社が「会社」を名乗るからには、会社経営をしなければなりません。そして、会社経営には「経営の帯」と呼ばれる固定収入が必要です。ところが、役所が絡むと縛りがきつすぎて自由な経営ができないために、いつまでたっても経営の帯が定まりません。

あれもダメ、これもダメ……ダメ出しする役所は気楽なものですが、追い込まれるのは常に現場スタッフ。観光ボランティアを激怒させたのも、そんな提案を出さざるを得ないまでに追い込まれたからでしょう。


気の毒に……でも、「観光まちづくり会社ってなに?」「何やってるのかさっぱりわからない」という声があるのも事実です。



先月のこと、市内全戸に不思議な冊子が配られました。
『イントロ』と名づけられたオールカラー42ページの冊子は「勝山の企業紹介」

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なぜ「不思議な冊子」なのかと申しますと、勝山市民に対して市内企業の宣伝をしたところで意味がないからです。

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「いや、別に紹介されなくても知ってるし……」
「紹介するなら、なぜ、もっと多くの企業を紹介しないの?」
「ここに乗せる/載せないの基準は、だれが決めたの?」
とツッコミどころ満点の冊子でした。

背を見れば、発行は観光まちづくり会社

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そういえば、花月楼のパンフレット(まちづくり会社発行)を何種類も持参して
「こんなものに税金を投入しているのか」
と私に延々と怒りをぶちまけた市民の方もいらっしゃいました。
(とんだとばっちりですw)


現場スタッフは手足を縛られて動かざるをえない。にもかかわらず、活動すれば「何をやってるのかわからない」「見えない」「商売のジャマだ」「ピンハネ屋」「税金の無駄遣い」と揶揄される。

いったい、観光まちづくり会社とは何なのでしょう。

そんな疑問を抱く市民も多いことでしょう。
では、疑問に思った市民は、どこから調べれば良いのでしょう。






観光まちづくり会社の秘密

結論から申し上げましょう。

市民にはわかりません

実際に探した私が申し上げます。無理です。絶対にわかりません。

まず、市民の皆さんが予算を調べようとしても市立図書館には予算書も決算書も置いてありません。信じられない話ですが、図書館職員といっしょに調べてもありませんでした。

ならば、市のホームページを見れば予算書があるはず。
勝山市 平成30年度予算」
と検索してみれば、次の画面が出てくるはずです。

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とにかく市のホームページは使い勝手が悪いので困ります。

興味のある方は、サイト内検索で
「勝山の姿(勝山市統計集)」

「インフルエンザ 補助金
といったキーワードで検索してみてください。
「お探しのページを見つけることができませんでした」のオンパレードです。




めげずに辿り着いた「財政課のページ」

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実は、ここにも「まちづくり会社の秘密」は書かれていません。


なぜならば、「まちづくり会社の秘密」は平成28年4月の臨時議会で定められたものでして、財政課のページからはたどり着けないのです。

ならば、どこにあるのか。

思わぬことに、勝山市議会のページから行くことができました。忘れ去られた感のある議会ページでしたが、それゆえにひっそりと残っていたようです。


それが下記の予算書。平成28年4月臨時議会で可決された「まちづくり会社への出資」の予算です。
勝山市は240万円をまちづくり会社の資本金へ出資しました。

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資本金1000万円のまちづくり会社へ240万円を出資する。この240万という数字こそが「まちづくり会社の秘密」の核心部分です。

どういうことか。

これを説明するには、まずは地方自治法から話を始めましょう。


地方自治法は、第243条の3で次の趣旨のことを定めています。
「市長は、第三セクターの会社の財務状況を毎年議会に報告しなければならない」

具体的には、どのような第三セクターを指すのでしょうか。それは地方自治法施行令第152条に定められています。
地方公共団体が4分の1以上を出資する株式会社」

おわかりですね。
仮に勝山市が250万円を出資してしまうと、資本金1000万円の4分の1に達してしまう。そうなると毎年の財務状況を勝山市議会に報告しなければなりません。出資金240万円の意味は
「観光まちづくり会社の財務状況は、市議会に報告しない」
という意思表示の表れなのです。

市議会に報告する必要がなければ、後はブラックボックス化するだけです。
「確かに、勝山市は観光まちづくり会社に出資しています」
「しかし、観光まちづくり会社は民間企業です」
「民間企業に財務状況を報告する義務はありません。あなた方は税務署ですか?」
との理由を盾に、観光まちづくり会社はその財務状況の公開を拒むことができます。

こうなってしまっては、財務状況を市民が知ることは不可能です。

冒頭で申し上げたように、市民には知るすべがないのです。



一例を挙げましょう。

まだ私が市議会議員であった自分の話です。

花月楼を改装するために県補助金や市の予算を投じて、1億円余りの工事を行うことが決まりました。建物の所有権が観光まちづくり会社へと移っていたため、工事の発注者は観光まちづくり会社でした。

そこで、工事発注を何としても一般競争入札で行うことを主張しました。民間企業が発注するのならば何も言うことはありません。どこの企業に発注しようが自由でしょう。しかし、観光まちづくり会社勝山市が株主です。いわば公金で運営されている第三セクターなのですから透明性が担保されていなければなりません。

「市の発注する工事と同じ基準で一般競争入札を行わなければならない」
予算委員会で主張した私に対して、副市長は明確に答弁しました。
「そのように取り計らいます」

市議会議員を辞め。選挙に身を投じた後に
「おい、松村さん。いつの間にか花月楼の工事が始まっとるぞ」
との声が届きました。
一般競争入札どころか、市内の業者が「え?いつ入札したの?」と驚くタイミングで、秘密裏に入札は行われていました。

「おいおい、どういう経過でやったの?」
「どの業者が札を入れたの?」
「いくらで落札したのよ」
そんな疑問に答える義務は、勝山市にもまちづくり会社にもありません。

なぜなら、市議会に報告する義務がないからです。
報告する義務がなければ、報告する必要がありません(当たり前)。
報告する必要がなければ、報告することもありません(当たり前)。
報告しなければ、突っ込まれることもありません(当たり前)。
突っ込まれることがなければ……後はご想像どおりです。


予算書に記載されていた240万円とは、そういった意味です。
観光まちづくり会社に、今も、そういったきな臭い話がつきまとって離れないのは残念なことです。






赤字前提の会社経営

市民の目に触れないところで、何をやっているのかわからない。そんな観光まちづくり会社の事業ですが、根っこは明らかです。

赤字垂れ流しで行う元本保証の観光事業

なぜ、そう言えるのか。

国土交通省の資料を見てみましょう。これは勝山市国土交通省に日本版DMOを申請した際の資料です。

ここに、観光まちづくり会社の予想収支が掲載されています。詳しくは資料を見ていただければお判りになりますが、特筆すべきは収益予想の杜撰さです。

まずは、支出の部から見ていきましょう。

【支出の部】
平成30年度  1億2538万5千円 (内訳 原価4318万 一般管理費3617万)
平成31年度  1億3867万1千円 (内訳 原価7916万 一般管理費5950万)
平成32年度  1億3951万1千円 (内訳 原価7971万 一般管理費5979万)
平成33年度  1億3976万1千円 (内訳 原価7996万 一般管理費5979万)

さて、これらの支出に対して収入はどうなっているのでしょうか。

平成30年度を見ると

総収入 1億3759万6千円
  【内訳】
    収益事業収入  9059万6千円
             花月楼    256万円
             長尾山  8803万6千円

    公益事業収入  4700万円
             受託業務    4050万円
             観光情報発信   50万円
             ジオツーリズム   600万円
となっています。

ここで見慣れない単語が出てきました。「公益事業収入」の中の「受託業務」とは何でしょうか。

簡単に申すならば、「勝山市が観光まちづくり会社に委託する業務」ということです。
観光パンフレットの発行や、もろもろの業務を観光まちづくり会社へ委託することを当て込んで収支予想は立てられています。

平成30年度だけのことならば、まだ我慢も出来ますが、そうではありません。

受託業務の見込み
 平成30年度 4050万円
 平成31年度 4500万円
 平成32年度 4500万円
 平成33年度 4500万円

今も、そしてこれからも勝山市は赤字を補填し続けなければなりません。


観光まちづくり会社の収支予想から見えてくるのは、
「赤字になったら勝山市が補填してね」
という態度です。

要は、赤字を垂れ流すことを前提に観光事業をする。しかも、その赤字は勝山市が補填するので元本割れを起こすことは無い……という、とてもビジネスとは言えない代物だったのです。



さて……仮に市内の建設業者がこんなことを言い始めたらどう思いますか?
「平成30年度は、市から4050万円の発注が弊社に出る予定です」
「それだけではありません」
「平成33年まで毎年4500万円の発注が確実に市から見込めますので、経営は安泰です」

そんな建設業者がいたならば、お目にかかりたいものです。
ならば、なぜ観光まちづくり会社にだけ許されるのでしょうか。

役所のとある部長は、こう嘯いているそうです。
「公益目的の団体だから発注できる」

それは通らない理屈というもの。

「財務状況を出しなさい」と言われれば「市の出資があるとは言え、観光まちづくり会社は私企業ですので、財務状況を出すわけにはいきません」と断っておきながら、市の事業を発注する段になれば「観光まちづくり会社は、市が出資している公益目的の団体ですので」と独占させる。

そんな身勝手な理屈が通るのは、役所周辺だけです。
だから、市内業者や市民は怒っているのです。




観光まちづくり会社の経営が行き詰まる理由

観光まちづくり会社の経営は、早晩行き詰るだろうと考えています。

赤字垂れ流しを勝山市がケツ拭きする。この図式で出発する限り、行き詰らざるを得ないのですね。

例えば、来年の夏は長雨だったとしましょう。長雨ともなれば例年と比べて観光客の入込は減少します。収入減になれば、赤字が膨らみます。
さて、勝山市がケツ拭きをしようとすれば、新規事業を予算化しなければなりません。ケツ拭きをするにも「ほい、現金」と現金を渡すわけにはいかないのです。あくまでも、新規事業を予算化してその事業を観光まちづくり会社に請け負わせる型式でなければ違法性すら帯びてしまいます。

役所としたら、それは面倒くさい。新規事業ともなれば議会に説明しなければなりませんし、根回しも必要です。第一、懐が豊かでない勝山市の財政でホイホイと新規事業を立ち上げられるわけもありません。

そこで役所は机の上から言うのです。
「赤字を減らせ」

ところが、ビジネスなんて「10撃って1当たればラッキー」の世界です。延々と失敗を重ねながら少しずつ輪郭を表してくるのがビジネス。

だから、「10撃って9失敗しても良い」ように、企業は利潤を内部に留保して万が一に備えます。ところが観光まちづくり会社には「9失敗してもよい」だけの内部留保がありません。赤字前提でケツ拭きを勝山市にさせている限り、「赤字を補填してもらって、ようやくトントン」になるだけで、新たなチャレンジ・リトライを可能にさせるだけの内部留保を積めないのですね。

おわかりでしょうか。

観光まちづくり会社のモデルは、スタートラインからビジネスの根本に反しているのです。


新しい事業にチャレンジしたいと現場が願っても、役所がウンと言わない。顔を見れば「赤字を減らせ」の一辺倒。現場はどんどんやる気をなくしていって、ルーチンワークをこなすだけ。


店を開けば、初年度こそ珍しさゆえに人は来たものの、あっという間に飽きられて閑古鳥。「お前たちの努力が足りないからだ」と上からは責められ、「それなら顧客開拓のために予算をつけてくださいよ」と言っても、雀の涙程度の予算をつけて「後はお前たちの営業努力だ」と放り出される。

完全な負の悪循環です。

冒頭申しあげた「現場スタッフの手足を縛っておいて水の中へ放り込む」とは、この負の悪循環そのものであり、観光まちづくり会社の経営は早晩行き詰るだろうと考える理由です。



民は依らしむべし、知らしむべからず

議員バッジを外して市民目線で見ると、市政は本当に見えずらいものです。とにかくわからない。

この前、有権者巡りをしている中で、半ば冗談でこんなことを言われました。
「松村さん。あなたが市長になったとしても、できることは大野市との合併くらいや」
市政が見えずらいがゆえに、人々は不安に駆られます。

勝山市の財政が厳しい……とは薄々感じてはいます。しかし、どの程度厳しいのかは、市民には皆目見当もつきません。

皆さんはご存知でしょうか。
勝山市にある公共建造物の維持費が、毎年、どの程度の金額であるのか。
勝山市が地代として支払っている金額は、毎年、どの程度なのか。
「観光、観光」と掛け声は勇ましいが、いくらの観光予算を投入して、どの程度のリターンが生じているのか。




12月定例会の市長招集あいさつで、来年度の予算編成ではマイナス5%シーリングで臨む方針が出されました。
マイナス5%シーリングとは、本年度の事業予算の規模から5%削減することを意味します。教育、福祉、土木、消防、民生など様々な予算の規模を5%削減する。

ふむ……ちなみに市長はご存じなのだろうか。北部中学校の理科室が雨漏りしていることを。防水工事をしたくても「予算がない」の1点張りでバケツが置かれていることを。
市営住宅の住民が「壁が壊れて」何とかして欲しいとお願いしても「予算がない」の1点張りで相手にしてくれないことを。

おそらく観光予算は削られないのでしょう。5%シーリングの網の目をくぐって、観光費はつけられ延々と事業予算は継続されるに違いありません。

しかし、勘違いしないでいただきたい。勝山市が観光まちづくり会社のケツ拭きをやっているのではありません。勝山市民が、その税金を使って観光まちづくり会社のケツ拭きを強要されているのです。そして、肝心の市民はケツ拭きを強要されていることすら知らされず、ゆえに市民は気づくこともありません。

そして、いよいよ道の駅の建設が始まろうとしています。

道の駅の建設は、勝山市が行います。国・県の補助金を得て。
そして、観光まちづくり会社が運営をする。これも決まっています。

国や県の補助金を得ることは、良い面と悪い面を持ちます。
良い面は、もちろん市の負担が軽くなること。
悪い面は、目的外使用ができなくなること。
国の補助金をもらってしまった以上、目的外の使用はできません。道の駅としては使えなかったけれど、それじゃ、建物を別の用途で使おうか……とはいかないのです。

すべては観光まちづくり会社にかかっています。
その観光まちづくり会社の財務は、市民の目の届かないところにあります。

「民は依らしむべし、知らしむべからず」

市民が真の実情を知らされるのは、ドン詰まりになってにっちもさっちも行かなくなったときなのでしょう。そして、その時には事態は最悪の状態になっていることは容易に想像がつきます。

その時が来ないことを祈るばかりです。

                         

勝山は昔より暑くなったのか? それとも我々の耐性が低くなったのか?

今年の暑さは殺人的です。熱中症で搬送されたとのニュースが毎日のように流れています。皆様も、くれぐれも体調管理にお気を付けください。


なにしろ、日本の暑さには動物園の象やライオンがバテるくらいです。
アフリカの方も申しています。
(画像はGWの暑さについてですが)

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さて、話は変わります。

市議会議員時代のことです。「学校にクーラーを入れよう」との議案が上程されました。その際に、議論の対象となったのは
「クーラーをつけねばならぬほど、勝山市は暑くなったのか?」
このときは、学校現場から
「今の暑さは昔と違います」
との意見が強く出されたため、「それならば」とクーラー導入に舵を切りました。

確かに、昔と比べると暑さがエゲつない感じがします。

その一方で、こんな意見もあります。
「昔も暑かった」
「そんな熱中症で倒れる奴なんか少なかった」
「今の人たちはクーラーに慣れ過ぎて、暑さに我慢できなくなっただけのことだ」

果たしてどうなのでしょう。

東京や大阪ではヒートアイランド現象が確実視され、35度を超える猛暑日の日数が増えていることが報告されています。
では、勝山市は?


興味があったので調べてみました。

(注1)勝山の観測データーが残っているのは1978年から。大野市は76年から残っているので、同じ奥越ということで大野市のデーターを使用しました。
福井気象台のホームページからデーターを見ることができます。

福井地方気象台ホームページ


(注2)
対象を8月としました。7月は梅雨の出入り具合によって気温などがまちまちだからです。

 

まずは、1976年から2017年までの41年間の「8月の平均気温」の推移を見てみました。

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一目見て、突出しているのは1985年の猛暑と、1993年の冷夏ですね。

93年の冷夏……ああ、あの年ですよ。冷夏で米がとれずにインディカ米を輸入した年。夏の間中、雨が降っていた記憶があります。
後にも先にも寿司屋でインディカ米の握りずしを食べたのは、あの年だけでした。

しかし、このグラフだけでは何とも言えませんね。




最高気温に目を向けてみましょう。

気象庁は「日最高気温平均値」を出しています。1日には最高気温と最低気温がありますが、8月1日の最高気温、2日の最高気温……と出していき、その平均値をとった値です。

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これ見ると、さほどの変化がないなぁ……なんだか、きれいに収束しているように見えるし。

私はどちらかというと、「最近の暑さはエグいですよね」派なので、「やっぱり最高気温上昇してるでしょ?」的なデーターが欲しいのです。正直なところ。






ならば……最高気温は最高気温でも、ズバリ「その年の8月の最高気温」に焦点を当ててみましょう。

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これまた何だかわかったようなわからないようなグラフになってしまいました。
ちょっと、近似値とってみましょうか。そうすれば傾向が見えるかもしれません。

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微妙に上昇しているのですが、おそらく上昇値は0.2度程度でしょう。これでは「昔と比べてエグい暑さ」とは言えません。





困ったなぁ。
何とかデーターで「ほ~ら、最近の暑さはエグいでしょ?」と言いたいんだけれど、なかなか出てこない。





ちょっと切り口を変えてみましょう。

ニュースなどでも、夏日・真夏日猛暑日の呼称が出てきますが、

夏日・・・・・最高気温が25度を超える日
真夏日・・・・最高気温が30度を超える日
猛暑日・・・・最高気温が35度を超える日

と分類されています。これだけエグい暑さの日が続くのですから、真夏日猛暑日の日が増えているはず。

というわけで41年分の「8月1日から31日までの最高気温」を洗い出して、数えてみました。真夏日の日数。


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すごいな。1985年。31日の月のうち30日が真夏日でしたよ。9月1日に小松市で37.8度を記録したそうですが、無茶苦茶な猛暑です。

逆に記録的な冷夏の1993年なんて、月のうち28日が30度以下でした。この年の8月13日なんて最低気温16度、8月にあるまじき寒さです。

これも近似値とってみましょう。

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おっ?傾向として真夏日が昔より1週間ほど増えてる。ほほう、これは「暑さはエグくなった」派には良い報せですね。


この調子、この調子。

これならば、35度を超える猛暑日も増えているに違いない。ちょっとワクワクしてきましたよ。

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あれ?……なんか……ビミョー……(´Д`)…… 

個人的には、こんなグラフが欲しかったんだけど。

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このグラフでは85年の猛暑の凄さが際立つものの、これを使って「最近の暑さはエグい」とは言い切れない。





でも、実際に熱中症で死亡された方はいるわけでして……

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出典:厚生労働省熱中症の死亡者数ー平成25年度までの動向ー」

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000121413.html


熱中症でお亡くなりになる方は、やはりというべきか高齢者に多いのが現実です。

今回調べた限りでは「昔よりも暑さがエグくなったか」どうかはわかりませんでしたが、「昔も暑かった」と仰る方は高齢者に多いんですよね。
「情けない、昔も暑かったんじゃ!」
「今の若いもんは、すぐクーラーに逃げたがる。だから、こらえ性がなくなるんじゃ!」
みたいなお小言をくらいます。


高齢者の皆さん、1985年の猛暑を潜り抜けてこられた皆さんですが、今年の夏も暑いことは事実です。我慢は禁物、クーラー効かせて、こまめに水分補給をしてください。

1960年代にクーラーが普及してたら、みな当たり前のようにクーラーつけてますって。



《おまけ》
朝日新聞が、いつものように善人ぶって
「運動部のみんな、熱中症にかかるくらいなら、『もうダメだ』『無理だよ』と声をあげよう。勇気をもって声を出そう」
などと書いてみましたが、
「それじゃ、夏の甲子園中止な」
「応援スタンドで熱中症にならない工夫をしろよ」
と即座に突っ込まれていました。

www.asahi.com



イノベーションが起きる社会をつくる -行政2.0ノート②備忘録も兼ねてー

 ■備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。



情念がイノベーションを起こす

行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちにこそ、私たちは目を注がねばならない。その人たちの抱える問題こそが、解決しなければならないものである。これらの問題を解決することは、行政サービス全体の質をあげることにつながる。

これが「行政2.0ノート①」の要旨だった。

harukado0501.hatenablog.com


議論が錯綜しないように、最初に定義しておきたい。
「問題解決」とは、行政サービスの網目からこぼれ落ちる人たちの問題を解決することとする。他の言葉と混乱しないように、この意味で用いるときには問題解決と太字で表記する。


さて、この問題解決だが、これは紛れもなくイノベーション(革新・新結合)だ。イノベーションとは技術革新だけを指すものではない。新しいアイデアから、新しい価値を創造することを指す。
行政サービスから漏れ落ちる人々に光を当て、彼らを救うために新しい制度・システムを創り出す。その新しい制度は、彼らだけでなく世の中の人々に利益をもたらす。問題解決が目指すところであり、これはイノベーションに他ならない。




では、このイノベーションたる問題解決はどこからスタートするのだろうか。

勝山市民から始まるのだ。

困っている勝山市民を目の当たりにし、
「これではいかん」
「このお婆ちゃんを助けてあげたい」
「友達の子供が学校で困っている。何とかしてあげたい」
と思う人の「情念」からイノベーションは始まる。




皆さんはOXO(オクソー)という会社をご存じだろうか。1990年設立の、アメリカでは有名なキッチン用品メーカーだ。

このOXOの最初の大ヒット商品が縦型ピーラーだ。

 

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

OXO 皮むき器 たて型 ピーラー 20081

 

 



この製品開発の発端は、創立者ファーバー氏の「情念」にあった。

ファーバー氏が妻と二人で旅行に出かけたときのことだ。タルトを作るためにピーラーでリンゴの皮むきをしていた妻の姿を見て、氏は心を痛めた。細い金属製のピーラーは皮むきに力を使うために、軽い関節炎を患っていた妻が手を痛めてしまったからだ。
「なぜキッチン用品で手を痛めるのだ」
「なぜもっと使いやすいものがないのか」
ファーバー氏の「情念」とは憤りだ。この憤りが、縦型ピーラーを生んだ。持ち手は手になじみやすく、弱い力でもしっかり握ることができる。これまでのピーラーと異なり、縦型なので力の加わる動線が一本線で弱い力でも楽々と皮をむける。

手の弱い妻に使えるデザイン。それは、妻を助けるだけでなく、ユニバーサルデザインとなった。ゆえに、大ヒットを記録した。



問題解決も同様だろう。

多くの勝山市民は心を痛めている。
「なぜ、うちの婆さんは買い物にいけないのだ」
「なぜ、毎年毎年断水騒ぎが起こるのだ」
「なぜ?」
その情念、憤りがなければ問題解決は始まらない。

これと対照的なものが、マーケティングから始める事例だ。マーケティングは対象者を観察することから始める。その観察に加えて、業界の動向やライバル企業の動向、ターゲット消費者の行動様式、市場の需要要件などを加えて分析を進め、その分析を基礎として事業を組み立てていく。

だが、マーケティングは、行政サービスからこぼれ落ちた人を拾わない。マーケティングが拾う数字はマス(大衆)であり、セグメントを構成する多数派だ。

このことは、行政サービスからこぼれ落ちた人たちは少数派であることを意味しない。彼らは少数派ではない。単に光が当たらない存在なのだ。この社会に多数存在しながらも、光が当たらないがゆえに拾い上げてもらえない人々だ。

マーケティングは、彼らの苦しみを拾い上げない。
彼らの苦しみを、怒りを理解できるのは、唯一、彼らに寄り添う人々だ。彼らの悩みを目の当たりにする人である。

だが、憤りを感じる市民だけでは問題は解決できない。
「私たちは、目の前で困っているこの人を救いたい」
「だが、私たちには技術・知見がない」
「ならば、技術・知見を持っている人をチームに加わってもらおう」


市内外の企業がここに登場する。




(補足)
問題を提起する人は、苦悩する市民に寄り添う市民だ。だが、必ずしも「問題を提起する人=問題を解決する人」である必要はない。要は、提起する人と解決する人が「出会う場」をつくることだ。
その「出会う場」については後に詳述したい。


(補足2)
前述したOXO社のファーバー氏は言う。
「世界は悪いデザインだらけだから、やるべきことはたくさんある」
私は思う。
「世の中を悪くしたいと考えている人はいない」
「なのに、世の中はなぜ良くならないのか」
「なぜ、私たちは自分たちの手で世の中を変えられないのか。おかしいではないか」
政治家としての私の「情念」であり、憤りだ。



問題解決は企業のフロンティア


数年前、まだ私が市議会議員だった頃の話だ。

社名を明かすのは仁義に悖るのでA社としておくが、日本人ならば知らぬ者がいない事務機器メーカーである。このA社からお声がけをいただいた。
ちょうど安倍政権が華々しく「地方創生」を強力に推進していた時期だった。地方創生のメニューを作るのに意見を伺いたいとの申し出であったので、A社中部地方エリアの重鎮と会合を持った。

数十人の社員と重役に囲まれた会合の場で「当社はこういった『地方創生プラン』を考えています」と提示されたラインアップは、事前に想像していたものを超えるものだった。
田んぼを潰してニュータウンを造る。中心市街地再開発で大型ビルを建設する……といった大型再開発のプランから、市役所や観光地をプロジェクションマッピングしましょうというイベント型に至るまで、これでもかと見せつけられたものは………「地方の自治体で使えないもの」ばかりだったのだ。

「私のような一介の市議会議員が偉そうなことを申してすみませんが……」
と一応の前置きはした(と思う)。

「残念な話ですが、多くの地方の自治体は御社のプランを導入できません」
「導入できるだけの体力が、われわれにはないのです」

「私たちが求めているのは『こんなものがあったら良いよね』というものではありません。『これがないと生きていけないよね』というものです」

「地方創生とは、再開発ではありません。何度も申し上げますが、われわれは再開発する余力すらないくらいまで追い込まれています」
「現在の問題を解決する。その解決をスモールビジネス化していく。その積み重ねを経ることで少しずつ経済と活力を回復していく。われわれが進むべき坂道です。その坂道を登り切ったとき、初めて、御社の提示されるような再開発プログラムも可能になるでしょう」

「地方の自治体が欲しているのは、この坂道を登る方法です」
「その方法は、『あなた方の抱えている問題を解決しますよ』というソリューションの形で出てくるのでしょう」
「御社が提示すべきは、このソリューションです」
「地方の公共交通を改善するソリューションを提案します。駅前活性化のソリューションを提案します。そういったソリューションにならば、自治体は喜んでお金を出すことでしょう」
「そして、そのソリューションは御社に膨大な利益をもたらすはずです」
「御社のように全国展開をする企業ならば、各都道府県に営業所はあることでしょう。つまり、1700の自治体に営業をかけられるではありませんか」
「どの企業も、未だ、このソリューションの価値に気づいていません。だから、今がチャンスです」

私の目の前にいた重役は怪訝な顔をしていた。一体、この男は何を言っているのだろうという雰囲気がありありと見えた。



もうひとつの事例を挙げよう。

ここでも社名は伏せてB社としておこう。B社はシニアカーのメーカーだ。

シニアカーをご存じないための方に申し上げると、足の悪い高齢者が異動の手段として用いる乗り物だ。

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高齢者は公共交通の不備で自由に外出できない。
「病院までのバスが欲しい」
との高齢者に詳しく話を聞く過程で
「その後で買い物をしたり散策したい」
との欲求があることがわかった。

ならば、シニアカーを使おう……と考えた。中心市街地にシニアカーを10台から20台程度配置し、これをレンタルできるようにしておく。中心市街地までは公共交通で行くとして、そこから先の移動手段に用いてもらおうとの趣旨だ。

だが、この内容ではメーカーは首を縦に振らないだろうと私は思っていた。
メーカーの営業マンが自治体を回るときに、
「我が社のシニアカーを用いて、中心市街地の活性化を図りませんか?」
勝山市の導入事例をご覧ください。シニアカーを使って中心市街地を回る高齢者が、これだけ増えました」
と説明しても、他自治体が
「数が増えるだけではねぇ……」
お茶を濁すことが容易に想像できたからだ。


自治体の首長とは面白い存在だ。市民からすると「他の自治体の先進事例を学べば良いのに」と思うのだが、首長は決してそれはしない。先進事例を目の端に入れているのだが、それを真似することはプライドが許さない。
「〇〇市の市長に話をしに行ったら、『なんかいいアイデアないか?』『でも、他の自治体が使ってる奴は嫌だな』と言われました。」
と苦笑いする営業マンに出会ったことがある。さもありなんとこちらも苦笑した。

先進事例は真似したくない。かといって何もしない訳にはいかない。ならば……と、首長たちはありきたりな事業に飛びつく。あるときは、道の駅といった、ありきたりな箱モノに飛びつき、あるときは、NPOを作らせて中心市街地活性化を図ったり。そうやって、全国にありきたりな事例が積み上げられていく。

要は、首長は自治体のオリジナリティーを出したいのだ。「他所と違って、うちはこんなことをやっていますよ」と主張したいメンタリティーがある。それは当然だろう。
ならば、そのメンタリティーをくすぐるパッケージにすれば、B社は売り込みがしやすいはずだ。

そこで、シニアカーGPS機能をつけてみることを提案した。高齢者がシニアカーを使ってどういった動線を描くのか、何に反応してどのような行動を示すのか。データーを取るためだ。

なんのために?中心市街地活性化の基礎データーとするために。これまで、中心市街地活性化は思い込みでできあがっていた。「高齢者は〇〇といった動きをするだろう」「高齢者はこれに反応するにちがいない」といった予見だけで物事は決められていた。
シニアカーがもたらす客観的データーは中心市街地活性化に根拠を与えるだろう。

そして、そこに商店街の人々を加えよう。商店街の人々は、このデーターを喉から手が出るほど欲しいはずだ。彼らに情報を公開しよう。このデーターを使って商店街の人たちは〇〇や〇〇といったことができる。それだけじゃない。シニアカーを置く場所は人の流れの結節点になるはずだから〇〇といったこともできるんじゃないのか………B社の営業マンと語り合う中でアイデアはどんどん膨らんでいった。

様々なアイデアを加えていき、最終的なパッケージは、まさに「シニアカーを用いた中心市街地活性化」の様相を呈してきた。各自治体は、ツール(道具)としてこのソリューションを導入した後に、独自の使い方ができるだろう。

そんな話し合いを重ねた後、最後の問いをB社営業マンに投げかけた。

「さて、御社からはシニアカーを10台勝山市にいただきたい」
「私たちはこれを用いて、勝山市で新しいサービスを始める」
「もちろん、御社にとって10台を無償提供することは痛い出費になるはずだ」
「だが、ここで得られた知見を御社は1700の自治体に売り込みにいけるだろう。それは、御社にとって大きなビジネスチャンスになるはずだ」

B社の営業マンは考えた後に答えた。
「私の一存で決められません。社長に会ってください」

後日、彼から連絡が届いた。
「社長がぜひお会いしたいと申しております」

その日取りを決めて、まさに事態が動こうとした矢先に、あの下らない政争が起きた。私自身がそこに巻き込まれてしまったがゆえに、この話も止まってしまった。









A社の事例とB社の事例を通して、次のことがわかる。

ひとつは、問題解決がビジネスになることに多くの企業は気づいていない。
A社の事例を見ても明らかだが、多くの企業はこの点に気づいていない。需要はそこに間違いなく存在する。後はその需要に気づいて手段を提供すればよい。市場規模は日本全国の自治体に及ぶ。まさしく問題解決は企業にとってのフロンティアなのだ。


多くの企業が問題解決の可能性に気づいていないがゆえに、問題解決の方法は市民が考えねばならない。これが2点目。問題解決がビジネスになるのだと周知されれば、将来的には企業側からアイデアを持ちこまれるだろう。しかし、現段階では市民が考えねばならない。市民がアイデアを練り、それを企業へ持ち込み、興味ある企業と組んで問題解決を図らねばならない。

だからこそ、アイデアを練る際には衆知を集めなければならない。これが3点目。現状に憤りを感じる市民が独りでアイデアを練り上げるのは困難だ。

憤りを感じた市民が問題を提起する。
「これはおかしいんじゃないか?」
確かにそれはおかしいと感じる市民が集まってくる。職人もいれば事務職もいる。退職した方もいれば主婦もいるだろう。ひとつの憤りの周りに様々な技能と知見が集まる。それらの衆知を集めて、初めて問題解決のソリューションの雛形はできる。




ただし……ここで大きな困難が出現する。行政の壁だ。
どれほど衆知を集めようとも企業と連携しようとも、この行政の壁を超えることはできない。それほどまでにこの壁は厚く高い。


行政の存在価値と行政サービス     -行政2.0ノート:備忘録も兼ねてー

備忘録も兼ねて

備忘録の意味合いも込めて、行政2.0の下書きとして拙稿をしたためる。現在の私の思考の枠組みでもあり、これから提案する政策の基盤となるだろう。




そもそも、行政とは何のためにあるのだろう


「行政は何のためにあるのだろうか?」

この質問に対する最大公約数的な回答は
「私たちの生活を支えてくれるため」
というものだろう。

ゴミの収集や上下水道といった基本インフラの整備。学校を運営し子供を育成し、長じて医療・福祉など生活を支援する。産業支援などで世の中を活性化する。これらは、私たちの生活を支えてくれるだろう。

しかし、ここで私たちはひとつの疑問にぶち当たる。
「行政は、『私』の生活を豊かにしてくれているのだろうか」
「行政は、『私』の抱えている問題を解決しているだろうか」
行政が「私たち」の生活を支えてくれているのは理解できる。しかし、「私」の抱えている問題を行政は解決してくれない。

「私の抱える問題」とは、次のような人たちが抱える問題だ。

「病院や買い物に行きたいのに、1日にバスは3便しか来ない」と嘆くお婆さん。
「なぜ、学校でうちの子はのけ者にされるんでしょう。うちの子が発達障碍を持っているからでしょうか」と悲嘆にくれるお母さん。

全くの私的な問題は自分で解決するより他にない。嫁と姑の不仲に関する苦情を役所に持って来られても、役所も困る。それはご家庭で解決してくださいと言われるだろう。

ここでいう「私の問題」とは、「私たち」の生活を支えてくれるはずの行政のサービスが、「私」にとって意味をなさない場合を指す。公共交通は人々の生活を支えてくれるはずなのに、1日3便しか来ない地域に住む「私」にとっては、不便でしかない。学校は子供たちを健やかに育成する場所なのに、発達障害を持つ「私の子供」に対して対応してくれない。

これらの嘆きは、議員時代の私のところに寄せられたものの一部だ。

そして、この人たちの特徴は、市役所の担当課や学校へ行っても相手にされなかったことだ。相手にされなかったからこそ、議員であった私のところへ駆け込んだのだ。中には、「どうせ役所は相手にしてくれないだろう」と見切りをつけて私のところへ来られたケースも少なからずあった。

市民の幸福を高めるために存在するはずの市役所、市民の「役」にたつ「所」のはずなのに、なぜ彼らは相手にされないのだろう。

その疑問は「行政サービスとはなにか」を考えてみないとわからない。





行政サービスってなんだろう

「二項分類」という言葉がある。難しいように見えるけれども、話は単純だ。要は「基準にもとづいてアレかコレかに分ける」ことだ。

行政サービスは、この二項分類で行われる。しかもカテゴリーで括ってしまうという方法で。

例えば、人を「仕事を持っているか否か」という基準で「被雇用者」と「失業者」とのカテゴリーに分ける。そして分けた後に、失業者には失業保険を出すとの行政サービスを提供する。これが行政サービスの出し方の典型だ。

行政は人をカテゴリーに分ける。だから、あなたも行政から様々なカテゴリーを与えられている。

例えば、私だったら「自営業」で「行政書士」で「男」で「妻と3人の子供がある」等々のカテゴリーを与えられている。そのカテゴリー分けに従って、様々な行政サービスが付与される。「自営業」だから税務申告の際には青色申告するとか、「自営業」だから国保に加入せよとか、子供がいるから児童手当が支給されるとか……様々な行政サービスが該当することになる。

しかし、カテゴリーに括られない人たちはどうなるのだろう。

例えば、「被雇用者」というカテゴリーは賃金を支給される労働者のことだ。これまでだったら、雇用されている限り賃金は保証されていたし、失業したら失業保険が出るという対応でなんとかしのげた。
しかし、低賃金の不安定労働者はどういった対応をすれば良いのだろう。雇用は不安定で低賃金だし、社会保険もない。労働条件は最低で、短期雇用を繰り返す綱渡り。

彼への対応方法は二通りある。

ひとつは「それは自分の問題だから、自分で何とかしなさいよ」と切り捨てる方法だ。困った時には親や家族が面倒見なさいよ……という返し方もあるだろう。しかし、それはあまりにも酷すぎる。

そこで、行政は違う方法を採用する。

カテゴリーを増やすのだ。

「被雇用者カテゴリー」の中に「低賃金・短期雇用のカテゴリー」を作ろう。非正規雇用もこのカテゴリーの中に入れてしまおう。非正規雇用も厚生年金に入れるような制度をつくろう……と考えるのだ。

すると困ったことが起きてくる。
「主婦のパートも非正規雇用には多い。この人たちも厚生年金に入れるのか?」
「いやいや、それはおかしな話になるから、男性非正規雇用に限定しよう。」
「ちょっとまってくれ。主婦のパートを外すことには成功したが、未婚女性の非正規雇用はどうなる?その人も入れるのか?」
「それじゃ、その人たちも含めるとしよう」
「でも、その人たちも結婚して主婦になるのだぞ?」
「え~っと、それじゃ……」
事態は際限なく複雑化していく。

この典型例は税制だ。
税制の複雑怪奇なことたるや凄まじい。あの複雑で納税者の目をくらませようと目論んでいるのではないか?……と勘ぐってしまうほどだ。

複雑化していくことも確かに問題だ。だが、最も深刻な問題は、どれほどカテゴリーを増やして細分化したところでカテゴリーから漏れる人が必ずいること。ここが行政サービスの致命的な欠陥だと私は考えている。


ある意味、行政とは「行政サービスの許認可権を持つ場所」だとも言えるだろう。カテゴリーの中に入る人々にのみ行政サービスを提供し、そこから漏れた人々には提供しない。

それじゃ、提供するかしないかの基準は誰が決めるのですか?と問われれば「法が定めます」となる。その法は「国民の代表者である政治家が決めます」となり、論理としては破綻していない。国民に対してのサービスの内容は国民が選んだ代表者が決めるのだ……と教科書通りの説明をされれば、ケチのつけようがない。

だが、教科書に載っている説明をされても私たちは納得できない。

「なるほど、説明はわかった」
「ならばカテゴリーから漏れた人々はどうなるのか」
「彼らを切り捨てて私たちは前へ進むのか」
この問いに答えていないからだ。

当の市役所職員にも、ここで悩む人は少なからずいる。しかし、彼らは規則に従って動く他に道はない。情や場の空気で基準を曲げ放題になってしまっては役所は崩壊してしまうからだ。

無論、見て見ぬふりをする職員もいる。これは事実だ。同時に、心を痛めている職員もいるのだ。これも事実だ。ただし、役所の職員は助けたくとも助けられない。
それが現状だ。

何かがおかしい。




1匹の羊を救うことは99匹の羊を救うことにつながる

カテゴリーから漏れた人々は、何が辛いのだろうか。

「役所に相談に行ったが、どうにもならないと言われた」
「門前払いを喰らった」
と私のところへ来られた方々は何に憤りを感じているのだろう。何人もの方々からお話を伺う中で、痛いほどその理由をわかった。

彼らは尊厳を傷つけられたことに我慢がならないのだ。

彼らは役所の対応に怒っているのではない。「お前は根無し草だ」「社会の中でお前の居場所になるカテゴリーはないのだ」と言わんばかりの、行政サービスそのものに憤っているのだ。その怒りを役所の職員にぶつけているに過ぎない。

彼らを放置してはならない。

カテゴリーから漏れた人々、役所の職員が密かに心を痛めながらも対応できない人々、彼らこそが、私たちの解決しなければならない課題である。

「問題解決が必要だ」
「問題解決こそ私たちの進む道だ」
と猫も杓子も問題解決の重要性を唱える。

ならば、問題解決の「問題」とはなんだろう。

「問題」とは彼らの抱える問題に他ならない。

1日3便しか来ないバスを待つお婆ちゃん、わからない授業を黙って1日中聞かねばならない中学生、老々介護に疲れ切った息子、そういった様々な人たちが背骨が軋みそうな重みに日々耐えながら、それでも声に出せずにいる課題。
それこそが、私たちの解決しなければならない問題だ。

こういう話をすると、
「その人たちを救うことで、他の人たちの利益を損ねるのではないか」
との反論を耳にすることがある。

それは違う。

ひとつの事例を挙げよう。私自身が携わった事例だ。

「1日3便しかバスが来ない」との嘆きを受けた私は、ひとつのことを考えた。
「バスの路線を変えて、このお婆さんの住む地区を通すようにしようか」
しかしこの方法は、すぐに頭から消え去った。バスの路線を変更すれば、変更された地区にバスが通らなくなる。それではバスの便がないと嘆くお年寄りを別な地区で発生させるだけだ。

「ならば、公共交通そのものを変えるより他にない」
探しに探しまくった果てに、東京大学に目を着けた。タクシー代わりに使えて市内のどこへでも運んでくれる公共交通システムの新たな運用方法を開発したからだ。東京大学の開発者と掛け合い、勝山へ来てもらい、市内での運用試算をしてもらうと同時に協議会を立ち上げた。その協議会は後に市の協議会へと正式にスライドした。

ここで問題が立ち上がった。勝山の地形を考えると運行コストが膨大になるとの結論が出たのだ。協議会自体が尻込みをする中で、私は更なる道を模索した。
「人を運ぶのは公共交通だが、公共交通で物も同時に運んだらどうなるだろう」
市内を自由に動く公共交通、ドア・トゥ・ドアで動く公共交通ならば、同時に物も運べば良いのではないのか。
そこで、私は宅急便最大手のヤマトに声をかけ、エリアの重役と話をした。宅配便業界はこれから必ず業態問題が首を絞めることになる。なぜなら、宅配便の利益率はおおよそ4%。人件費があまりにもかかりすぎるからだ(実際に昨今の宅配便業界のニュースを見れば予想通りになったといえる)。ならば、公共交通でその荷物を私たちが運ぼう。あなたがたは勝山まで運んでくれればいい。ただし、荷物を運ぶ手間賃を私たちはいただき、公共交通運営の糧にしたい。市内の高齢者も喜ぶ、運営する勝山市も助かる、そしてあなた方自身の利幅もあがる。win-winの関係ではないか……と。

法令上の問題や、当の勝山市が尻込みしてしまったために、この話はここで止まってしまった。くだらない政争の具にされたことも痛かったが、実はこの話は死んではいない。いずれかの段階で必ずや顔を出してくるとだけ申し上げておく。

上記の話からもおわかりのように、カテゴリーから漏れた人々の課題を解決しようとすれば、もはやカテゴリーそのものを壊すより他にない。それは制度そのものをリニューアルすることだ。そして、リニューアルされた制度は、皆が等しく利益を受ける。

「カテゴリーからこぼれた人のためにカテゴリーを細分化して、新しいカテゴリーをつくろう」との、これまでの行政のやり方は、パイを増やすことなく、パイの奪い合いをするだけだ。パイを大きくすることを考えずに、新しいカテゴリーをつくれば、これまで食べてきたパイが小さくなることを不安視し、反対する人は必ず出てくる。
他の人の利益を回すのではなく、受益者が等しく利便性を上げるシステム。それでなければ、真の問題解決とはいえない。


考えてみていただきたい。
勉強についていけずに1日中机に座っているだけの生徒が、「ぼくもやればできるんだね」と目を輝かせるような学校が、他の生徒の利益を損ねるだろうか。
老々介護で悩む長男が、「なんとか私でもやっていけそうです」と答える介護環境は、他の人たちの邪魔になるだろうか。

1匹の羊を救おうとする行為は、必ずや残りの99匹に利益をもたらす。




問題を解決するのは誰なのだろう

ここで、もう一度冒頭の問いに戻ろう。
「行政は何のためにあるのだろう」

この問いに対して
「私たちの生活を支えるため」
と答えることは正しい。私もそう思う。

それならば、なぜ問題は解決されないのだろうか。

もう一度、これまでの話を振り返ってみよう。

行政は人々をカテゴリーに分ける。そして、そのカテゴリーに当てはまらない人々には満足な行政サービスが受けられない。お腹が痛いと泣いている子供に必要なものは胃薬であって、絆創膏ではない。必要としている人に必要なサービスが行き届いていないからこそ問題が発生する。

そして、カテゴリーから漏れた人々の抱える「問題」こそが解決すべき課題だ。

ここまで話は進んだのだけれど、肝心な部分が抜け落ちている。

それは、行政が解決できない問題を行政に解決させようとすること、それ自体が無理なのではないか?といった根本の疑問だ。

率直に言って、私は無理だと思っている。

行政が解決できる範囲は、カテゴリーに含まれる人のみだ。カテゴリーから漏れた人を助けること自体、行政にできるものではない。

要は私たちの生活の問題のすべてを、行政に解決してもらおうとすること。それ自体が、間違いなのだ。

純私的な問題は個人で解決するとして、そうではない問題のすべてを行政に解決してもらおうとすると、カテゴリーから漏れてしまう人々が出てくる。漏れた人々は、行政が助けられる範囲ではないはずの人たちだ。その人たちをも「行政に救え」と叫んでみても虚しいだけだ。

私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない。

ただし、ここは注意が必要だろう。「抱える問題」をしっかりと定義しておかないと、混乱をきたすからだ。

私たちの生活の課題を3つに分けよう。

①純私的な課題
②行政サービスのカテゴリーに含まれる課題
③行政サービスのカテゴリーから漏れ落ちた課題

①は嫁姑の確執のようなものだ。全くの私事は、自分で解決していただくより他にない。②は、従来の行政サービスを考えてもらえればいいだろう。上下水道の整備や教育福祉などがこれに当たる。「私たちの抱える問題は、私たちが解決するより他にない」と言っても、道路を自分たちでつけろという意味ではない。
③こそが、私たちの抱える問題であり、私たちが解決すべき問題だ。


では、この③の問題を誰が解決するのだろう。

バスの不便さをかこつ高齢者が自分自身で解決すべきなのか
買い物難民は自分たちで解決すべきなのか
学校で困っている発達障碍児は自分で解決すべきなのか

それは違う。

もちろん、自分で解決できればそれが最善だ。しかし、自分で解決できないからこそ問題になっているのだ。自分でできないからこそ、他の人を頼るより他にない。

だが、世の中はそういうものではなかろうか。

食卓にならぶ食事の材料をすべて自分で作っている人はいない。通勤に使う自家用車を自分で組み立てる人もいない。私たちは自分でできないことばかりだ。でも、世の中はそれでうまく回っている。お互いに必要なものを供給しあって。別段そこには「誰かを助けるために」との想いはない。しかし、結果としてお互いがお互いを助け合っている。

だったら、問題を抱える人は問題を解決できる人を頼ればいい。

通常、問題を解決する人たちを「社会起業家」と呼ぶ。社会が抱える諸問題を解決することを生業とする人たちのことだ。

そこで私たちはハタと困る。
「その社会起業家はどこにいるのだ?」

私たちの周りにいるのは、
 ・行政サービスをする行政マン
 ・ボランティア活動をする人々
 ・地区(町内会)で地区の活動をする人々
であって、社会起業家も問題解決のプロもいない。

いないからといって諦めるわけにはいかない。なぜなら、問題は現に存在しているからだ。

なぜいないのか。
なぜ育たないのか。
どうすれば社会起業家は出現してくれるのか。

それこそが行政2.0の真骨頂だ。


付 言

どうすれば社会起業家は出現するのか。これは行政2.0の真骨頂だが、その内容は追々説明するとして、この「方法」は勝山市でしか通用しないと思っている。

行政2.0の「思想」そのものは普遍的なものだ。だって、「地方自治の本旨」なるものを突き詰めていけば、そうならざるを得ないから。だから、どの自治体にも適用することはできるだろう。

でも、その「方法」となると勝山市でしか通用しない。

なぜ?と言われれば単純な話で「勝山が小さいから」

勝山は人口2万5千人の小さな市だ。しかも、全国の自治体が抱えているような問題を全て抱え込んでいる。進む過疎化と増える高齢者、地元を後にする若者たち。増える耕作放棄地、寂れる中心市街地。抱えていないのは海くらいのもので、日本全国の自治体の頭痛の種をすべて背負いこんでいるといってもいい。

それらをすべて逆手に取ってやろう……というのが、勝山で行おうとする行政2.0の「手法」だ。

大きな自治体には決してできない。なぜなら、大きすぎて小回りがきかないからだ。他の自治体を例にとって恐縮だが、例えば福井市も様々な問題を抱えている。しかし、福井市は行政2.0の手法を試すには大きすぎる。
福井市内の社地区だけで約3万人弱の人口がある。これだけで勝山市の規模を超えている。社地区の抱える問題は「新興住宅地の問題」であって、これを解決しようとすれば、そこに特化した施策を打たねばならない。ところが同じ福井市内の美山地区では高齢化・過疎化の問題があり、これはこれで別な対策を打たねばならない。このように規模の大きな自治体は問題解決をしようにも、問題の種類とエリアが大きすぎて対応できないのだ。

弱い奴がいつまでも負ける、大きい奴はいつも勝つ……というのでは面白くない。小さい奴にだって勝つチャンスはあるはずだ。小さい奴が大きい奴と同じことをやったところで、負けるに決まってる。

ならば、小さい奴は小ささを武器にして闘えばいい。

中学校部活動についての私案 (1)目標とする部活動の姿と現状の課題 

本稿の目的

本稿は、中学生の部活動に関する私案である。

「生徒数が減ったから部活ができない」のではなく、「生徒数が減った今だからこそ、もう一度原点に戻って部活動のあり方を考えよう」との趣旨で作成した。「生徒が減ったから部活ができないので、学校を再編する」との意見への反論の意味も含まれている。

無論、これから述べる内容は私案に過ぎず、もっと優れた案が必ず存在するはずである。
皆様からの忌憚の無いご意見を頂戴したい。



目標とする部活動の姿

私は次のような部活動の姿を目指したい。

《中学生になると部活動が始まる。部活動に参加するかしないかは個々の生徒が自主的に判断する。生徒が参加したいのであれば参加する。部活動に興味がないのであれば参加しない。

ただし、参加するメリットはある。

ひとつは、生涯スポーツの観点からスポーツに親しむ経験を持つことができる点だ。したがって、複数の部活動を掛け持ちすることも可能である。

加えて、部活動に参加することで問題解決能力が高まる点もメリットとして見逃せない。
チームの課題をどのように解決するのか。これまでならば教員の指示に従うだけだったが、生徒たちはチーム内で話し合うようになった。自分たちのチームに何が足りないのか、具体的にどのような方法でそれを克服していくのか。皆が考え、語り合う。チームプレーを通して、集団での問題解決の手法を学ぶのだ。

それは生徒個々の練習にも表れている。その種目を行う上で自分に何が足りないのか、どのような能力を高めれば良いのか、生徒は個人個人が指導者と相談し考えて練習メニューを組む。したがって、嫌々練習をさせられてると感じる生徒はいない。定期的に行われる体力測定により、自分たちの能力の向上は目に見える形で数値化される。

自分に何が足りないのか、それを克服するためにどのようなメニューを組めば良いのか。部活動で訓練を積んだ生徒たちは、その手法を学業へ応用し始めた。
「先生、僕は数学の〇〇が苦手なんですけど、どういうことをやればいいですか」
「先生、私は歴史が好きじゃないんです。人物に興味を持てないんですけれど、具体的に何をしていいのかわかりません。相談に乗ってください」
といった問いかけが生徒から教師へ増えていった。受けた問いかけの重要性に気づいた教員たちは、内気で声がけできない生徒に対して積極的に問いかけるようになった。
「何か困っていることない?」
「前回の試験で〇〇ができてなかったけれど、具体的にどうすればいいのか、一緒に考えてみようよ」

「自学帳を1ページ埋めること」といった宿題は鳴りを潜めた。そして遂に宿題そのものが減るようになった。必要性がなくなったからだ。
生徒たちは部活動を通して、「自己で目標を定めてそれを達成する喜び」を知った。自分で学ぼうとする彼らに「全員で校庭5周」にも似た一斉宿題は意味がないのだ。
結果として、部活動の指導を離れた教員たちは、より深く子供たちに接するようになった》


……以上が、私が考える「目標とする部活動の姿」である。

部活動問題を考える際に、私たちはややもすると制度設計から話を始めてしまう。重要なことは、「今の部活動体制をどうするのか?」ではなく「部活動を通して子供たちに何を学んでほしいか」であるべきだ。その延長線上に「ならば、どのような制度設計をすべきか」との議論が来る。

私は部活動を通して、子供たちに
 ①スポーツに親しむ習慣
 ②問題解決の手法とそれを駆使する能力
を得て欲しい。それら能力は、特に部活動を通して得ることが期待されるものであり、部活動で得られた問題解決手法は学業に好影響を与えるのみならず、学校を卒業しても生きる力として不可欠なものだと考えるからだ。


このような部活動の姿を実現するためには、現在の課題を解決していく必要がある。
では、どのような課題が存在するのか。次にそれら課題を見ていきたい。

 

 


解決すべき課題

①部活動の位置づけ

(a)そもそも「本校中学生は全員部活参加」は、妥当なのか?
市内中学校では、「中学生になったら部活は全員参加すること」とされる傾向がある。しかし、学習指導要領上、部活動は生徒の自主的・自発的な参加により行われるものとされている。
 ⇒【課題】そもそも部活動に全員参加する根拠と意義はあるのか


(b)部活動は学校教育の中でどのように位置づけられているか?
部活動は学校教育の一環として行われてはいるものの、教育課程には含まれない。とはいえ、学校教育の一環として行われる以上、教育目的に沿ったものでなければならない。
部活動を通して、生徒に何を学び何を伸ばして欲しいのか。それを明確にすべきである。
 ⇒【課題】何のために学校で部活動をするのか。その意義づけ。

(参考)
「学習指導要領 総則
   第4指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」

(13)生徒の自主的,自発的な参加により行われる部活動については,スポーツや文化及び科学等に親しませ,学習意欲の向上や責任感,連帯感の涵養等に資するものであり,学校教育の一環として,教育課程との関連が図られるよう留意すること。その際,地域や学校の実態に応じ,地域の人々の協力,社会教育施設や社会教育関係団体等の各種団体との連携などの運営上の工夫を行うようにすること。




②教員が部活動を見ることについて

(a)部活動を担当することは教員多忙化につながるのか?
本県中学校教諭にとったアンケートにおいて、「忙しく感じることや負担に感じること」の1位が部活動・クラブ活動であった。
 (資料出典)
   福井県教員意識調査の結果http://www.pref.fukui.lg.jp/doc/kyousei/02kaigi_d/fil/067.pdf

確かに、教員が部活動を担当することにより生徒の個性を把握しコミュニケーションを密にすることも可能である。ただし、本来的に教員は教育課程を充実させることを本分とする。教材研究など授業充実に割く時間を部活動に充てることは本末転倒であろう。



(b)専門外の部活を担当することの是非
教諭自身が経験のない種目を担当することは、教諭の負担を増やすのみならず、生徒にとっても十分な指導を受けられない恐れがある。
 ⇒【課題】外部指導員の導入の是非

 

 

 




③外部指導員を導入することについて

(a)外部指導員の法的地位
外部指導員を導入する場合、彼らの法的地位を確立しておく必要がある。民間人として勝山市から委託を受ける形にするのか。もしくは、嘱託職員として雇用するのか。
 ⇒【課題】外部指導員の法的地位


(b)外部指導員は有償かボランティアか
(a)の問題と密接に関係するのか、この問題である。果たして外部指導員は有償にするのか、ボランティアでするのか。
 ⇒【課題】外部指導員を有償とするか、ボランティアとするか



(b)外部指導員が行う指導の適正担保
外部指導員がどのような指導をするのか。この点には2つの視点が必要となる。
ひとつは、種目実技に精通しているか否かという点である。これは部活動の指導をする上で欠かすことのできない技能となる。
もうひとつは、教育活動の一環としての部活動の特性を理解した指導ができるか否かという点である。部活動が教育活動の重要な一環を担う以上、単に種目実技の技能を教えれば足りるというものではない。「部活動をとおして子供たちは何を学ぶのか」といった部活動の目的を理解した指導が求められる。
これら2つの視点は、外部指導員の採用時に求められるばかりではない。通常の部活動において確実に履行されているかといったチェックをどのように図るのか、それら技能を向上させるための講習会等がバックアップ体制が敷かれているかといった外部指導者への支援体制も必要となる。
加えて、仮に外部指導員の指導に行き過ぎがあった場合、どのような対応を図るのかといった問題にまで検討が及ばねばならない。
 ⇒【課題】外部指導員の指導内容・技能をどのように担保するか



(c)文科系部活動に外部指導員を入れることの是非
文科系部活動に外部指導員を入れることは、運動系部活動に外部指導員を入れることと分けて考える必要がある。
例えば、吹奏楽部の指導者に求められることは音楽教育の技能であり、それを最も備えているのは音楽教師であることを考えるならば、外部指導員を招聘する必要性自体が乏しい。


                  《続く》